はてなキーワード: 貞本義行とは
ほとんど津田大介批判をしてなくてワロタ。清々しいほどのはてサのダブスタ。
もちろん右翼もそのへんはあんま変わらないんだけど、左翼は意識高い系が大きいからダブスタ時の落差がとてもでかい。
ちなみに俺は貞本は言い方に気を付けるべきだったと思ってる。
キッタネー少女像。
天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
かの国のプロパガンダ風習
まるパク!
現代アートに求められる
面白さ!美しさ!
驚き!心地よさ!知的刺激性
が皆無で低俗なウンザリしかない
ドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ— 貞本義行@腰痛 (@Y_Sadamoto) August 9, 2019
というツイートに対して、
https://t.co/3wqZGCqLzd"所詮個人の(特定集団の、というべきか)感想だし何を言おうが勝手だが、胸の悪くなるような悪意でグジュグジュの言語感覚が本当に気持ち悪いので、人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人だな、と思った。
特に胸糞悪くなる様な文章では無いと思うのだけれど、どのあたりがそうなのだろう。もちろん、胸糞悪いというのも、個人の感想なら勝手だし、ブコメを書いちゃ駄目な人だとも思わなのだが。
私の書いたことを反復してやり返されてるあたりに煽りを感じなくもないけど、
上記ツイートを読んで胸が悪くならない人にとっては正当な疑問だと思うので、
説明を試みる。
「キッタネー」なんて言うのは、論評の範囲を外れた軽蔑の吐露でしかないと思うが、
ここは文頭でもあるし、多少どぎつい表現で書き出して読み手を引っ掛けるのは、
ぎょっとするけど、まぁ何を言うのか読んでみるか、と思わされるところはある。
ただし問題は、後段で「キッタネー」と思う理由の言語化を試みていないところにある。
あえて斟酌するなら、技術の不足や表現の杜撰さによって不快を感じた、ということで、
イラストレーターの鋭敏な美的感覚からすればそういうこともあるだろうと思う。
「そんな重いものを表現するのに、そんな適当な仕事でいいのか?」という方向で、
表現の意図を(賛同しないにせよ)酌んだ上で、その実現における難点を、
実物に即したかたちで(つまり実際に観察した上で)言語化しているのであれば、
「キッタネー」と文頭で言うことぐらいは許されると思う。
でもそれをしないで「キッタネー」とだけ言ってるので、やはり論評とは言えない。
単に政治的文脈に対する不快感を、仮構した芸術的不備に転嫁しているように読める。
ただしこれだけなら「感想」の範囲ではあって、明確な悪意までは感じない。
単にぶっきらぼうで露悪的な言動を好む人なんだな、と思うだけ。
「天皇の写真を燃やし〜」という作品についての論評として書かれているのだが、
ここで「風習」という語を選択するところには、明確な悪意が込められている。
この文脈(作品の表現の引用元を指摘する)で「プロパガンダ」と連結しうる語は、一般的には
「手法」、次点で「技術」「様式」、あるいはちょっと意味を拡大して「文化」といったところである。
しかしそれらの語を選ばず、あえて非標準的な「風習」という連結語を選ぶことの含意を分析すると、
「プロパガンダ」に「風習」という語が含む土俗的、前近代的なイメージを付着させ、
かつそれを、発言者が揶揄の対象としている(おそらく)東アジアの一民族が古来から持つ習俗、
と考えていることが見て取れる。
言い換えるなら、特定の民族に対して「未開人」「土人」などと呼称するのと同型の差別的な認識を、
しっかり内面化し、かつ機会があれば表現するのをためらわないからこそ、
「風習」という語が(「手法」や「文化」を押しのけて)ここで選択されているわけである。
作品についての論評の一部(引用元の指摘は端的な論評と言える)ということで、
ギリギリ許容されうるのかもしれないが、婉曲的なヘイトスピーチである。
婉曲的、は外してもいいかもしれない。
「現代アートに求められる」もの(あまり一般的ではないようだけど)を列挙して、
これは個人の感想であって、自由に発言されるべきものだとは思う。
より辛辣にすべく「低俗な」と付け足すところに、悪意の奔出が感じられるのだが、
「発言者がウンザリすること」自体を「低俗(下品で程度が低い)」だと言っている、
とも解釈しうるので、「(作品が)低俗なことにウンザリ」と補うべきだったと思う。
悪意が先走りすぎて言語が崩れている箇所、と言える。
「胸の悪くなる」とまで言ったのは、こういうところである。
4)「育つのを期待していたんだがなぁ……」
言うまでもなく、展覧会の将来を勝手に先取りして否定して悲観してみせるのは、
現在行われている展覧会あるいは個別の表現の評としては、意味のあるものではない。
発言者としても「これは良くないな」と思ったからこそ、自己リプライで要望を書いて、
自分の望むようなものであれば応援したいのに、というポーズを見せているのだと思われる。
あと、ドクメンタや瀬戸内芸術祭にだって、発言者が不快に思うような
プロパガンダと解釈しうる展示がまったくないとは思えないけど(なにしろ大きいから)、
それはまた別の問題である。耳に入らなければOKなのかもしれないし。
ただし、勝手によその芸術祭の権威を借りてきて論難の武器に使うようなのは、
あまり責任感のある言動とは言えない。虎の威を借るなんとやらに見える。
名前を出すなら、せめて一つくらいはモデルケースを挙げて論じて欲しいところである。
ついでなので、上記ツイートに自己リプライで書き足されている部分についても、
悪意を感じる箇所を指摘しておく(埋め込みは省略)。
どのメディアを指していってるのか知らないけど。
6)「プロパガンダをアートに仕込む行為も全く否定しないけど正直
アートとしての魅力は俺には全く響かなかった」
アートとして失敗してると思うなら、プロパガンダとしても効力は薄いと予測できるわけで、
ひっそり敵失を喜んでいればいいんじゃないでしょうか。
そういうわけにもいかないのかな。
以上のようなわけで、拙ブコメの
「人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人」
というのは不当で過剰な個人攻撃だったかも、という視点から再検討してみたんだけど、
主に2)の理由によって、撤回するほどでもないな、という結論になりました。
もちろん露悪的な言い方であることは進んで認める。
もし良かったら、お好きな映画を教えてください。
そう! シンゴジラです。
ですが、最近の若い子にはゴジラといってもなんのことかわからない人も多いそうです。
なので、シンゴジラを理解するためにも、庵野秀明から十人挟んで宮崎駿をパーティーに呼ぼうと思います。
庵野秀明はドラゴンクエストのミュージカルでりゅうおうを演じていたので、堀井さんとは友達。
ドラゴンクエストを作った仲間なので、当然二人は仲良し。
中村光一は「チュン」ソフトの社長であるため、大三元を構成する役牌とは深い関係がある。
「特急券だー」
凸レーションの双葉杏なんてよくわからないが、間違いなく白石稔さんは知っているに決まっている。
角川春樹さんはコカインを密輸した際に拘留されその際に知り合ったものと思われる。
REX!
貞本義行は長年角川の雑誌で連載していたので、きっと仲がいいに違いない。
ナディアと未来少年コナンはなんか雰囲気が似てるのでリスペクトしている。
以上!
ちょっと待って!
終了ー。
小島アジコ? 誰それ? ラーメン大好き小泉さんと関係ある?
オタリーマンなどの絵日記サイト生まれの漫画家は入れても入れなくても結構です。
以下、例です、綾波レイです。
(本当に例を書くと長くなるので以下略)
大学入学とともにインターネットに触れ、ネットの隆盛をウォッチしてきたつもり。
貴重な時間を無駄にしてしまったとも、時代の変化をリアルタイムで体験できた唯一の世代ともいえる。
ネットに触れる前、1995年は、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、Windows 95発売と、今につながる転換点となる大きな事件があった。
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は、1995年10月~1996年3月放送。今年は、TV版エヴァ最終回から20年でもある。
当時、声優の緒方恵美さんのファンだったので、初回からビデオで録画し、各話とも何回も何回も繰り返し見た。
今週、口腔外科の1泊2日の手術のため、入院することになり、Kindleセール時にまとめ買いした「貞本版エヴァ」を最終回まで初めて読んだ。
実は、コミックは当初の数巻は買っていたが、発行の遅さに購入をやめていた。
読みながら、アニメ版のセリフやカットが蘇る。後半は1997年上映の劇場版のシーンが浮かぶ。
媒体は紙ではなく電子書籍になり、当時は存在しなかったスマートフォンでページを送る。
一部のアニメファン・声優ファンが熱狂していた当時、誰がこんな未来を予想しただろうか。
しかも、エヴァはマニアの作品ではなく、ネット上ではスタンダードな作品に「昇格」した。
1995年は、「エヴァ」放送前は「ガンダムW」が人気を得ていた。
「エヴァ」がなければ、アニメ・マンガはもちろん、ネットやエンタメ全般のトレンドも今とは違っていたはず。
毎週、画質の汚いビデオテープを繰り返し再生し、セリフを覚えるまで見て、大げさではなく、人生が変わった。
物議を醸した最終回放送後、ラジオや新聞も取り上げるようになり、世間も騒ぎ出した。
一般的には旧劇場版、新劇場版のほうがムーブメントだと認識されているかもしれないけれど、
誰が何と言ってもエヴァのピークは1996年3月。とにかく20話以降、続きが気になって仕方なく、毎回、衝撃的だった。
ファン同士のつながりは、アニメ誌だけ。パソ通では盛り上がっていると聞いたが、触れる手段はなかった。
あれから20年、コミック版を見て、週1回放送の「テレビアニメ」だったこそ、ハマったと感じた。
声・音楽抜きで、ストーリーだけ追うと、陳腐で、今となっては、それほど新鮮味はない。
特にミサトと加持のからみは、出産後、恋愛感情が消失した身には、眩しく羨ましかった。
貞本エヴァの主役は、トラウマに囚われた大人子どものミサトに思える。
名作と呼ばれる作品は、後から評価されるパターンもあるけれど、時代とのリンクが大きい。
「エヴァ」は、当時、学校や親との関係に悩んでいた人の心の支えだった。
新劇場版は、毎回、見ているけれど、TVアニメ版リアルタイム視聴時の熱さには及ばない。
いっそ、子どもと一緒に映画館に行ける日まで、完成しなくていい。
10年後、「あれから30年」と振り返る頃、自分はどうなっているのか、アニメファンが目立つネットはどうなっているのか。
スマートフォンが普及し、よりリアルタイム性が重視されるようになった結果、
コンテンツの大半は消費するものになり、「心の支え」にはならなくなってしまった。
未来は予想しない方向に転がっていく。生きることは、歳を重ねるごとに厳しくなる。運転ミスは命取りになり、仕事で失敗したら貧困に転落する。
今も昔も、現実の世界の他者は、「助けて欲しい」「悩みを聞いて欲しい」という叫びを聞いてくれない。
ネットでいくら検索しても、答えはどこにも見つからず、一人で頑張って解決するしかないと悟ったけれど、いま、とても不安だ。
うーん、そのイラストレーターさんは、
代表ではあるけど、境目ではないのでは?
境目としての七瀬葵は納得いくけどな。
貞本義行氏は、作風が似ているフォロワーがたくさんいるのかといえば違うと思う。
3人とも、イラストではあるが、やはり女性を過剰にデフォルメしていない、
フォロワーが多い、影響力が大きいという意味で、七瀬葵が妥当なんじゃないか?
ただ、これって七瀬葵がスゴイ、評価すべきという話ではなくて、
ここがちょうど時期的に筋目だった、そのタイミングにこの人がいたという話なのでは。
そもそも自分は5年前にAKB48が売れるなどとは夢にも思っていなかったので、将来的に市民権が得られるかどうかは難しい予測になる。
例えばだけど、キャラクター性を排除した商品が出て、喉を壊した有名アーティストが使いこなしたりすれば知名度は上がるだろうし、
ボカロのキャラクター絵がもっと一般に受け入れられるもの(宮崎駿や貞本義行のような方向性の絵とか?)になれば拒絶反応も減るだろうし(あとはそもそもボイスのサンプリングを行った人のキャラで売るという方法もあるだろう。桑田佳祐のボカロとか出たら気になる人も多そうだ。一流のボーカリストが末期癌になったとして、自分の声をボカロの形で残そうとする可能性もあるんじゃなかろうか)、
技術が進化してもっと簡単に誰でも使えるようになれば普及が進むだろうし、声が自然な方向に進化すれば聴く側もより受け入れやすくなるだろう。
あとは単にこのままの路線でどんどん露出が増えていく可能性もあると思う。
情感などでは人間に劣るものの、声域の広さや早い発音、息継ぎが不要なことなど人間を明らかに上回る部分がある技術なのも確か。
個人的には、市民権を得る可能性はそこそこあるんじゃないかと考えてる。
それが今のボカロかは置いといて。
職業柄、中高生と話す機会が多いのですが、みんなけっこう『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を見に行ってるんですよ。
女子なんかでも、ふつうに「アスカが好き!」とか言うわけですよ。
ガンダムに関しては男子が中心でややヲタっぽくもなりますが、いまだに「あえて言おう、カスである」とか「そうそう当たるものではない」とか言う生徒がいるわけです。どこで覚えてきたのかはよく知らないけど。
でも、オリジナルアニメでふつうの生徒の話題になるのってガンダムとエヴァと、あとジブリだけなんですよね。
例えば、福嶋亮大が
少なくとも、生産=消費のモードの変化という意味に限れば、『破』よりも「エンドレスエイト」のほうが遥かに重要だとここで断言しておきます(笑)。
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/4f8ac0e16510d7dfb7d15b17166ad768
って言ってて、ひょっとしたらそれはその通りかもしれないけど、「ハルヒ」を見ている一般人ってほとんどいないですよね。(これは言いすぎかもしれないけど、エヴァは知ってるのが普通だけど、ハルヒは知らないのが普通だと思う。もちろん、生徒の中には「けいおん」の話をしていたのもいるので、見ているのもいるんだろうけど、基本的にそういう生徒はもともとアニメ好きの生徒)
まあ、知名度の話は置いておくにしても、知られているオリジナルアニメはいまだにガンダムとエヴァ。
音楽なんかでもいまだにブルーハーツを聴いている生徒がいたりするので、よいものが残るというのは確かなんですが、バンドだったらブルーハーツ以降にも誰もが知ってるバンドがいくつもあるのに対して、アニメだとこの2つだけ。
これってなんでだろう?って思って。
個人的に思うのがキャラの作画。
例えば、「コードギアス」はけっこう話題になって、実際に面白かったアニメだとも思いますが、キャラに関してはいわゆるアニメ絵っぽすぎて、あるいは目が大きすぎてちょっと苦手でした。
一方、エヴァのキャラはぜんぜん抵抗なく見れます。同じ貞本義行の『時をかける少女』も抵抗なかったですし、この映画も普通の女の子でけっこう好きな人が多かったです。
まあ、自分はたいしてアニメを見てこなかったですし思いつきのレベルにしかすぎないですけど、誰かタイトルの疑問に答えてくれる人がいるとうれしいです。
追記
http://anond.hatelabo.jp/20090715233354
の言っていることは一部の人にとってはそうなんだと思う。
アニメの話がなされている空間において、コミュニケーションにおける「安牌」としてエヴァやガンダムの話をするというのはあるでしょう。
ただ、中高生が普通の場でわざわざアニメの話を持ち出す理由というのはほとんどないと思う。
ドラマでもお笑い芸人でももっと無難なネタはいくらでもあるわけでして。