はてなキーワード: 警句とは
どんな発言にも「文脈」というものがあるので、たとえ誰かのある特定の言葉であっても、それを切り取って「元と異なるある文脈の中に置く」という作業をした時点で、引用した人の恣意がそこに加わわってくる。友人が言及したのは、いま、その言葉をブログに掲げたあなたの「意図」であって、ケネディのセリフそのものではない。
たとえば「論語読みの論語知らず」という言葉がある。昔から言われる警句の一つだ。意味は、「著名な聖人の言葉を、聖人の言葉というだけでありがたがって、その真意や聖人の精神を知らずに従おうとするのは、その原典の意図から最も遠い行動でさえある」というような意味だ。大変重要な真理をついた警句であるし、自分自身もこれを座右の銘として、日々自らを省みる手立てとしているところだ。
だがさて、いまこの文脈でこの話を書けば、あなたは必ずや「カチン」と来るだろう。そして、それは正しい。私はあなたに「カチン」とこさせようとしてこの言葉に触れたのだし、むしろ「カチン」と来なければあなたには相応の読解力がないということになるのだから。
従って、もし「カチン」と来なかったというのであれば、この私の書き込みはまったく無駄なので無視してくれて構わない。だがもし「カチン」と来たのであれば、それが私の言いたいことだということを理解できるはずだ。つまり、引用において重要なのは、それがどういう文脈に置かれたのか、ということなのだ。
語り尽くされていると思うのでゆるく。
おっさんと少女のロードムービーですが、おっさんは過去に子供をなくしており、少女も周囲の人を全て無くしています。この状態に導いたのはなんとキノコ。煙さんが吐くアレです。ともかく街中がキノコ人間だらけになっている。そして例によってキノコに噛まれるとゾンビゲーのようにキノコ人間に早変わり。なのでこの二人の過去は結構悲惨だったんですね。キノコに違いない! と早合点した兵士(というかその上司)におっさんの娘は殺されます(この娘はスタート時のプレイアブルキャラで、伏線化するのかと思ったら写真以外に全く登場せず終わります)。
で、その悲惨な状態に希望の光が灯されます。なんとおっさんが知り合った少女は抗体の持ち主だというのです。おっさんは運び屋としてサイコな知り合いたちとやんちゃをやらかしながら旅を続けます。途中トラップを仕掛けまくるシャイニングのジャック・ニコルソンばりの禿げ上がった人や、ラッパーっぽい兄ちゃんたちと殺し合ったりもします。なぜかといえば、抗体を持つ少女を医療機関へと預けるためです。お届け先は荒廃前の世界で政府に敵対していた『ファイア・フライ』と呼ばれる連中でした。
ところがだんだんおっさんは命を守りたいがあまりに殺人鬼化してゆきます。言ってしまえばシェイクスピアとかそういう歌舞劇のテーマにある葛藤劇の一種と言えるでしょう。一体何が正しくて何が悪いのかという疑問を常にプレイヤーへと投げかけるわけです。例えば一番安らぐキリンさんのシーン。これは途中で人間がいない都市部で、すっかり緑地化した中心地にてキリンが草をはむというものです。人間がいないからこそ楽園のような光景が繰り広げられるという、チェルノブイリ原発の赤い森をモチーフにした名シーンと言えましょう。こうしたシーンは常に何かを引き換えに何かを手に入れる、という構造の徹底により表現されます。それはゲーム内の1エピソードである鹿肉の取引一つにおいても、車を入手する際の貸し借りに関しても理解されることです。主人公のおっさんは中盤の後半付近で「生きるためには殺さなくてはならない」と述べます。このような出来事から、「何かを得るためには、引き換えに何かを捨てる」といったテーマが浮かび上がります。この何かをするための対価が強くメッセージとして打ち出される理由は、荒廃後の世界で貨幣に変わる価値があるとすればなにか、という疑問が制作側にあったと仮定できます。この仮定に寄って立つならば、それはもう一つのテーマである命の軽重にかかってくると思うわけです。つまり暗に「金なき世界で命より重いものがあるとしてそれはなにか」、あるいは、「命が最も重たいはずなのに殺し合っている」、というメッセージ性を背負っていることになります。そして作中で命は安易に取引材料として扱われます。アメリカを代表とした世界荒廃物語ブーム(ポストアポカリプスでしたっけ)は結局金に疑問を持つアメリカ人がユートピアどころか、カタルシスであるディストピアを夢見ているようにすら思えて来ます。もっとも今作に限っていえば、だいぶ警句的な気もしますが。
ゲームラスト数分になると、少女の中にいる菌が抗体によって抑えられているのではなく、共存していることが知らされます。この菌糸の絡まった脳によって世界中の人々を治療する因子となるか、少女を殺さずに人類を見捨てるか、という選択を迫られたジョエルは少女エリーを救い出します。仕組みとしては菌類が発生させる電子連絡手段、クオルモンをヒントにしているはずです。この少女の脳という仕組み自体がそもそも共存というテーマで締めくくられており、実は上記で述べた「取捨選択」の答えは小さな少女が持っている、というラストになっています。
そして頭蓋を開ける行為はパンドラの箱を連想させます。やや飛躍しますが、彼女がパンドラのツボ(本来は箱ではなくツボ)であったと仮定した場合、災厄の中心にいる女という役割をきっちり演じきっていることになります。生い立ちは不幸で、彼女自身も自分の身の回りの人間はみな死んだと告白します。そして彼女のせいでホスピスのファイアフライは結果的に大量殺害されました。彼女は災厄と幸福の鍵を脳内というツボに温存しており、全人類にとっては全く救いにならない生き方をジョエルにより強制させられてしまいます。もっともジョエルにとっては娘と重なる彼女こそ救いそのものであり、エリーにしてみればジョエルは自らを許容し、許す存在であったに違いありません。事実、ラストでこの裏付けは取れます。つまり二人の間には共存というよりむしろ共依存関係が存在していることになります。
共依存関係の裏側は「弱さ」です。そういえばファイアスフライの女リーダーも疲れ切ったという手記を残し、打算的にエリーを殺そうとしました。ジョエルの弟も当初は保身のあまりエリーを届けようとはしません。モブの連中は自分たちが生きるために他人の犠牲など問わない生き方をします。全て各人の弱さからもたらされた結果であり、一種超人的な人間であるジョエルもまた、娘を失った空疎な記憶から立ち直ることができません。
ドラマでもいいです個人的には。洋ドラでもまあいいかなという。
ゲーム性としては一本道かつクローズドワールドのステルス&シューターですから、プレイ感は他ゲーと似た感じにはなります。
難易度中は同タイプのゲームを基準にすると難易度イージーくらいなので、撃ちもの苦手でもどうにかなるかと。
序盤はおっさんを隠して仲間に撃たせて弾丸節約もできますし、おっさんの殴りが強いので、殴り続けてるだけでも中盤まで進めることができます。多分映画のようなストーリーに没入できればいいと考えてるからこそこの難易度なんだろうな、という印象ですかね。
サバイバルモードでは緊張感が上がった、もはや別ゲーという声もあるそうですが、ハードモードってもともとそんなもんかと思います。
『金閣寺』という小説が何を表しているのか、単刀直入に語るとすればどのような言い方になるだろうか? それについて敢えて率直に語る事はすまい。
とは言え、勿論その文章の中心的な部分は割に簡単な言葉で表す事ができる。つまりは「美しさ」と「地獄」という二語によってである。ただし、これだけだと余りにも簡単に説明でき過ぎてしまう。実は、金閣寺はこの二語のみによって説明できる小説なのであるが、それではあまりにもざっくばらんすぎて、説明が詰まらなくなってしまいかねないのだ。その為、少しだけ読者を焦らす事にする。
金閣寺は1956年に雑誌『新潮』に掲載され、年内に単行本化し15万部のベストセラーとなった――また、現在に至るまで文庫を中心に300万部以上を売り上げる日本の伝統的近代文学の内の一つである。海外においては複数の言語で翻訳され、日本文化を緻密に描いた三島由紀夫の文章は各地で絶賛を浴びた作品でもある。しかし、無論この小説には難しい部分がたくさんあって、一朝一夕で読み解くにはハードルが高い。
しかし、繰り返すようにこの小説は二つのポイントをさえ押さえるならば十分に理解することができる。
金閣寺は美しさの象徴であると同時に地獄の象徴であった。これが三島由紀夫がこの小説において語ろうとしていた全てである。小説『金閣寺』は1950年に発生した、青年僧侶による「金閣寺放火事件」を下敷きにしており、三島由紀夫はこの青年僧の犯行の根底に「美への反感」があることを読み取った。そして、そのコンセプトを元に書き上げられたのが、当の大作『金閣寺』なのである。
「美への反感」。
つまり、人は美しいものを時に憎むのである。そのような感情は一言に言って地獄の現出に他ならない。
「金閣寺放火事件」の主犯となった青年は幼少より吃音の症状を呈しており、恐らくその吃音症は彼の人生に薄すらとした重たげな影を投げかけていた。
吃音症は美しいか否か、と語るとするならば、恐らく人は吃音症を称賛するよりも嘲笑するだろう。いや、これもまた偏見なのかもしれないが、少なくとも三島由紀夫はその吃音の症状一つ取るに、青年僧の人生に降りかかる薄すらとした影の姿をまざまざと感知したのであった。そして、青年僧は自身が美という観念からはやや隔たった存在であることを自覚すると共に、美に対する拭い難い憎しみの存在を抱え続けることになるのである。――自身の美への憧れの象徴として、自身の父親から長く「美しい」と語られていた金閣寺の存在を、憧れと同時に、憎悪の対象とし始めるのである。やがて、青年僧は最終的に犯行に及ぶ――金閣寺に放火し、その美の象徴たる美しい建造物を、焼き払ってしまうのであった。
美に対する憧れ、そして憎しみ、そのような薄すらとした影が、青年僧の人生には降り掛かっていた――これが、この金閣寺という小説を書くに至って、著者である三島由紀夫本人が青年僧に対して抱いていたイメージの重要な箇所であるだろう。そして、もはやこれは自明のことであるとは思うのが、その薄すらとした影――つまりは「美への反感、憎しみ」――とでも言うべき影は、三島由紀夫の人生そのものをも固く包み込んでいたのである。
三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)は1925年に父、梓。母、倭文重(しずえ)の元に生を享ける。
幼い頃は虚弱体質であった三島が、長じてからは肉体強化のトレーニングに励んでいたことは周知の事実であろう。
三島の心中にいかに「美」に対する執着と、そして同時に反感とが存在していたかは推して知れることである。小説『仮面の告白』においても語られていた通り、三島由紀夫の心中には鬱々たるものがあった。そして同時に、そこには複雑な、文章によって表現することの憚られるような感情が幾つも幾つも存在していた。恐らく、彼はそのような歪な感情の存在する理由を、人生において追究していたに違いないと思われる。
ともかく、三島由紀夫はその人生において複雑な美意識を持っていたし、同時に、その美意識に対する反感を抱き、自分自身の感情を飼い慣らすことに苦労していた――そこには美に対する憧れと、同時に美に対する反感、そして美を中心とした地獄があった――これはおおよその三島由紀夫研究者が抱いている彼に対するイメージであろうと思う。三島由紀夫は彼の小説において、彼の人生そのものを率直に表そうとしていた。彼の人生というものは、恐らくは彼の書いた小説以上にわかりやすいものだったのかもしれない。
金閣寺の作中において、柏木という名の登場人物が現れる。この人物は跛足であり、つまりは歩行に困難を抱える身体障害者であった。
そして、小説『金閣寺』においては明確にこの人物が、当小説における極めて重要な部分を語る鍵となっているのである。
作中における柏木のキャラクターについてはここでは敢えて詳細に語らないが、しかし彼が主人公の青年僧に対して口にしていた、『金閣寺』という小説の根幹を成す極めて重要な台詞について語ることにする。それは、以下のような台詞であった。
柏木というキャラクターはいわば「地獄」に関する伝道者としての役割を果たしている。「地獄とは暗闇の中で一切が明晰に見えることである」。この言葉の意味は曖昧模糊としている。そこには、語るまでもなく明らかな矛盾がある。暗闇の中では一切が曖昧で、決して明晰になど見えはしないのだ。しかし、このような矛盾は物語の後半において一挙に解消されることとなる。そう、ここにおいて柏木の語った一節は、当小説の重要なテーマである、金閣寺の「美的側面」、ひいては、金閣寺の「地獄としての側面」に対して、判明な解答を与える重要なキーワードであるのだった。
飛んで、物語の後半。主人公の青年僧は、ついにその目的を実行に移そうとしていた。
彼の中にある美への憧れの根源――金閣寺の存在そのものを一挙に焼き払おうというのである。しかし、時刻は夜であった。そこは全くの暗闇であり、暗黒であった――。しかしそれでも主人公の目には、暗闇の中にある筈の金閣寺がまざまざと視認され始めるのである!
そう、正に「暗黒の中で」「すみずみまで明晰に」金閣寺が浮かび上がったのだ。
が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。(p.319)
ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隈々まできらめいて、私の眼前に立ち現れたことはない。(同)
そう、ここで暗闇の中で明晰に知覚できたのは、美の象徴として語られる金閣寺の姿そのものだったのである。
金閣寺はここにおいて、彼の記憶に根差した「美」の象徴として語られている。そして、同時に、かつて語られた柏木の警句が浮かび上がらせるのは、金閣寺の「美」としての側面と同時に立ち上がってくる「地獄」としての側面だったのである。
小説『金閣寺』は、青年僧の中に存在する「美」への屈折した感情を描き切った名作であった。そして彼はその「美」をも、「地獄」をもまた共に焼き払ったのであった。
ハンロンの剃刀(ハンロンのかみそり、英: Hanlon's razor)とは、次の文で表現される考え方のことである。
Never attribute to malice that which is adequately explained by stupidity.
例えば、ある製品に欠陥が見つかった場合、(大抵の場合、一般論としては)それは製造した企業が無能であるか愚かである
ということを示しているのであって、消費者を困らせるために企業が悪意を持って欠陥を忍ばせたわけではない、という考え方を
示すのに用いられる。
上記の文言それ自体は、20世紀のペンシルベニア州に住むロバート・J・ハンロン (Robert J. Hanlon) という人の発言に
由来するもの、とその友人などによって主張されたが、こうした考え方や類似の警句は、それよりはるか以前から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80
某感じのいい喫茶店がヘイトツイートをリツイートして(誤操作だったらしいが)炎上してた時に思った。喫茶店としての評価がその思想で判断される社会って危うくね?と。
そしたら今度はなんかラノベで似たようなことが起きたらしい。今度は誤操作ではなくてガチのヘイトだったらしいが。
まぁどちらも客商売なのだから客にそっぽ向かれるような振る舞いをしたらそりゃダメだよね、ってのは当たり前なのだけれど、ヘイトが悪の刻印のように一度つけられたら二度と剥がせない、そしてその刻印をつけられたものはどんな理不尽にあってもいい、みたいな空気は嫌だな。
お上が思想信条を押し付けてた時代の方がまだマシだったね。お上が悪で、庶民は善。そんな二元論に落とし込めた。
でも今は隣人と意見が違うだけで焼き殺すか焼き殺されるかの時代になってしまった。
ネットは個対群のコミュニケーションを加速させているって昔増田に書いたけど、誰しもが個の側に立たされてしまうのに誰しもがそれを忘れて無責任な群のパーツになってしまう。個の側に立たされた人は焼き殺されてしまう。生き残ってるのはよっぽど特殊なスキルがある人だけだ。
焼き殺されたヤツには落ち度があった。きっとそう言うのだろう。でもその落ち度、本当にそいつだけの落ち度だったのかね?
罪のないものだけが石を投げよ。この警句は2000年前のものだけど、人間変わらんと言うかネットの特性がさらに加速させてると言うか。
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」
とある。
おや、今まで幾度となく本を買いだめ、積読、積読、で知識の肥溜めを豊かにしてきたつもりが、
セネカ『人生の短さについて』に並ぶ、警句が光る本を見つけられた。
一方、読書の巨人、知の巨人の松岡正剛さんは読書をとかく推奨している。
ただ、ショウペンハウエルの主張と相容れないものではなく、いかに鋭く独自の読みをしていくのかが重要と説いている。
ただただ同化し、筆者の主張が脳内にこだまする構造は悪である。
とうとう今日、2017年12月28日をもって、ゆっきーがESDを卒業してしまう。
正確には月末なのだが、明日のライブには出演しないのだから、今日が実質的なラストと考えてよいだろう。
ここに初めてゆっきーのことを書いたのは、ふた月半前の10月10日。
その時はまさかこんなことになるなんて思わなかった……と思って読み返したら、むしろゆっきーが卒業してしまうショックから、ここに名前を隠して楽しく日記を書き始めたのだったと思い出した。
発表が10月9日。きっとそのブログを読んだのが翌10日で、絶望の末にここにあの「行かないで……」を書いたのだろう。
結局その後、一度もゆっきーを生で見ることはなかった。
本州はあまりにも遠いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、所詮はその程度の存在でしかなかったのかもしれない。虎になりそうだ。
それでも、最後にお会いできたあの生誕祭から3ヶ月、ゆっきーとかわしたわずかな会話を思い出したり、手元のチェキからもらった元気の量は計り知れない。500kgは超えると思う。
元々自分は声優クラスタだった。もっとも、比較的最近その世界に足を踏み入れたにわかだが、少なくともアイドルクラスタではなかった。
12月12日に渡辺美優紀の話を書いたが、この人のこともその時まで名前も聞いたことがないくらい、AKBやNMBにも興味がなく、三次元のアイドル界隈はむしろ苦手なジャンルだった。もちろんゆっきーのことも、声優として認識していた。
自分にとって声優とは、アニメやゲームのキャラの声をあてている、とてもとても遠い人である。もし見られたとしても、ディスプレイの中か、せいぜいライブやトークイベントで遠くからしか見られない人である。
昔一度水樹奈々のライブに行ったことがあるが、自分が水樹奈々と何か一言でも声をかわすことなど、考えることすらなかった。
飛び抜けて人気の高い、紅白に出るような人を例に挙げても仕方ないかもしれない。しかし、距離の遠さは人気とはあまり関係なく、むしろCDを出していなかったり、ライブをしていない声優さんの方が遠いケースも多い。
そんな中で、ゆっきーは異色だった。
会える、話せる、握手ができる、チェキが撮れる。少なくとも自分は他にそういう声優さんを知らず、とてもセンセーショナルだった。
もちろん、だから好きというわけでは決してないのだが、他にたくさんいる好きな声優さんの中で、ゆっきーだけが特別な存在だった理由がそこにあったのは否定できない。
なにぶん本州は遠く、結局現場に行けた回数は片手で数えられる程度なのだが、それでもその1回1回がとても貴重で、大切な思い出になっている。
だからこそ、ゆっきーがESDを卒業してしまうという一報に、どれくらい深く絶望したか。おそらく3kmは沈んだ。そのまま地球の裏側まで沈み続けるかと思ったが、それはなかった。詳細はメルトスルーで検索して欲しい。
いずれにせよ、これでもうゆっきーと会えることも、握手をすることも、チェキを撮れるような神イベントもなくなるだろう。
一番応援していた特別な一人から、たくさんの好きな声優さんの一人になってしまう。特別の消失。失われた特別。俺の愛した特別は死んだ。何故だ!
世界は色を失った。
真っ白だ。
いや、白を失ったから透明?
よくわからないけど、まあそんな感じ。
今でも目を閉じると何も見えない。
どの曲が一番好きだったかな。やっぱり『君色に染まる』かな。
好きだよ。
好きだよ。
好きだよ。
って、伝えたい。
今までありがとう。
そしてさようなら。
これからは、他の多くの声優さんのように、ディスプレイのこちら側から応援しよう。
……えっ?
えっ、ちょ、まっ!
END.
作品が嫌で嫌で仕方ないのに、何の生産性もない誹謗や中傷を粘着質に続けるやつは、
さっさと病院にいけばいい。
一方で、私はこの言葉が膾炙したことで生じる・または生じるであろう弊害が、
恐ろしくも憎い。
弊害とは何か。
正当な道理のある意見や批判を封殺するための手段に、この警句を用いる輩の発生である。
輩はつまり信者と揶揄されるもので、作家や作品を退廃させ、堕落させ、
ある作品を語る際、人は往々にして下のいずれかのカテゴリーに柔らかく属する。
感想・・・作品の好き嫌いを根拠の有無に関わらず語り、主観的な評価を定める
批判・・・作品の改善点や嫌いな点を根拠を示して説明し、作品あるいは作者に諫言・あるいは低い評価を提示する
誹謗・・・作品あるいは作者を根拠を示さず、あるいは根拠すら捏造して貶める
批評は作品の良さも悪さも根拠のもの論理で説明される高度な作品への知性的愛情だ。
感想も良い。好き嫌いを自由に語ること。それは大いに大事にされるべき一人ひとりの感性だ。
批判。さて批判はどうか。私は批判が誹謗に巻き込まれ大いに疎外されている事象をあまりに多く見すぎた。
私はこれが許せない。批判とは作品という刃に打ち込まれる鍛冶師の槌であり、
時に作品の強度を高め、時に実用に耐えない刃を折る、厳しくも愛ある鍛刀技術だ。
なぜ愛があるか分かるか?それはそうだ、根拠を以て作品の未熟さや改善点を提示するなんて、
愛がないとできる訳がない。
さて、そのような批判に対して、実に多くの人はこの言葉を投げかける。
"嫌なら見るな・読むな"と。
批判と誹りの区別もつかない敬虔なる信者が、ただ良い評価だけを貰えれば良いというクリエイターの堕落した願望が、
批判が作品を育て、作り手は更に良い作品を作る、という厳しく果てしなく尊い循環の連鎖を阻み、
その結果、ただ賞賛だけが望まれるユートピアのようなディストピアが生まれ、