はてなキーワード: 諦観とは
基本的に子供は親を信頼して尊敬しているので、自分の親がキチガイだとはなかなか気づかない。
キチガイな言動を見てはいるが、その環境の中でスクスクと育っているのでそれがノーマルだと考えている。
そういう家庭環境なので当然の結果として高卒者となって社会の荒波へと早期にリリースされることになる。
その荒波で揉まれていくうちに仕事を覚え、人並みに人との付き合い方を覚えるうちにある日、ふと気づく。
わかりやすく宗教にハマっているとかだったら判別しやすいのだがキチガイ親も世の中のキチガイと同じくキチガイはキチガイなりに社会に溶け込んで「一般人」として生きている。
そのことと人間が基本的に備える家族に対する「愛」という2つの要素によってなかなか気づくことが出来ないのだが、でもそれでもある日、ふと気づく。
俺の親はだいぶおかしい、と。
そこからはこれまでの人生で首を傾げつつ、傾げていることに気づかないふりをしていた、首を傾げていた事柄に対してドミノ倒しのように納得していくことになる。
大体においてQ(Quesiton)に対してまともなアンサーを返さないんだよね。
テストの問題に対し「出題者は馬鹿だから答える必要なんてねーよw」と答案用紙に書いて提出するイキったガキと同じ。
勿論一般的な社会では通用しない筈なんだけど、「声が大きいヤツが騒いでると周りが逃げて声が大きいヤツだけが残る」
という社会のバグ技を使って、今まで相手をネトウヨだのオタクだのデッドネーミングして貶めて質問・批判の意見自体をシャットアウトしてきた訳だ。
今回もすっかり暇アノン連呼で、Colaboへの疑問=アノンカルトの言う事だから聞く価値ありませ~んって態度を示している。
論理的にとか言わないけど、せめてQに対しては何らかのAを返して貰わないと困るよね。
汚い言葉遣いは「表現」なので、TPOがある程度使い分けられるんだよね。
一方で汚い話しかできない奴って、本当にどこでもどんな話題に対しても同じようなことしか言えない。
何でもかんでもシモの話に持っていって、創造性のない繰り言ばかり言っている。
昔からある例で言うと、「淫夢厨」か。あれらは本当に何を話しても話題が続かない。知能が低い。
でも、ああいうのがニコニコの一部の動画でコメントし続けるだけでなく、どこにでも表れて我が物顔で占領し出すようになったのはここ数年だと思う。
悪化は良貨を駆逐するなんてつまらない言葉で諦観したくはないが、本当にネットユーザーの平均知能低下はとどまるところを知らない。
将棋は崇高な文化である。棋士は日々己の頭脳を磨き、それを魂を削り、命を傾けて対局に挑む。盤上の勝負だけが彼らの生きる縁(よすが)であり、生きる意味と将棋が同義になるほどに没入して闘う。その生き様に、そこから生まれる珠玉の棋譜に魅入られたもの達が価値を見出し、やがて国が誇る文化のひとつとして昇華した。
…したはずだった。
全人口からすればほんの僅かな選ばれた者たちだけがなれるのが棋士。誇らしく、また、ある程度、将棋をするだけで生活が保障されるという夢。巨大なスポンサーと太客に支えられ、ボードゲームで生きていく。そういう類の夢の職業であるはずである。
世の中、しがないサラリーマンだけで構成されたら面白くもなんともない。己の才能と矜持と努力で夢を掴む職業がある方がいい。それに大企業や市井の人々が金を出すのもまた夢のひとつである。
棋士は崇高な職業であるが故に、彼らのことは彼ら自身で決める。団体は煌めく脳細胞の集合体なのだから、律するルールは己らで決定するのである。そうしてきたし、そうしているし、これからもずっとそうする。自分らで決め、自分らで裁き、勝ち、負け、蹴落とし、蹴落とされ、また這い上がり、生きていく。
昔は新聞とテレビが国民の情報収集と娯楽を担っていた。家庭内ではサラリーマンが専業主婦と子を養えるだけの給与があったため、家長の力が金銭的にも精神的にも強く、将棋はそこにおいては祖父や父親の文化的な嗜みとしての強い立場がある程度存在していた。新聞は将棋の強い親となり、国営放送は積極的であった。そういう時代があった。
人間が鎬を削って苦しみ抜き、勝ち負けを決める盤上の駒を使うゲームは、金を払う価値があった。
あれから随分と時が経った。新聞とテレビだけで満足する時代は終わった。家長だけが働いても食える時代ではなく、家庭のバランスも変わった。メディアと父親はもちろん、どちらも生き残ってはいるが、台頭するスマートフォンやタブレットに、男女が働く時代に、馴染まないと生きてはいけない。将棋自体は、スマートフォンで気軽に指せる時代にもなったが、気高く素晴らしい棋士の存在は、意義を問われることとなる。
新聞が金を出しきれなくなった。テレビで流すことも極端に減った。他業種のスポンサーは追加され、ストリーミング再生の放映権を売った。
どうせ親が金を出すから将棋だけしていればいい時代が終わった。現代に馴染むためにはエンタテインメント化されるのは必然だ。あるときは道化となり、メシを食い菓子を食い、ついでに将棋を見てもらう。若き救世主が地球を侵略しに来たことによって、それは加速された。
メシアはAIという集合知を連れて侵略にとりかかった。それは将棋の内容においての改革を意味していた。向上しようとするもの、必死に縋り付くもの、諦観を持って見守るもの、利用して他の切り口を模索するもの…。面白くなった、つまらなくなった、指すものからしても、観るものからしても、取材するものからしても、どう思うかは人によって違う。
そしてメシアは強烈なファンダムをも従えた。アイドルとは偶像崇拝を示すのが元の言葉である。新時代では避けて通れないSNSというものの圧倒的な力で振りまわす、いや、振り回されたのか。
繰り返すが、太い親とパトロンで保たれていた内側の秩序は崩壊した。
ひとつひとつの力は小さいが、集まれば世論をも左右するファンダムをコントロールしなければこの星は滅びへと向かう。メシアが星を滅ぼすのではない。彼はどうやら将棋を心の底から愛していそうで、まだ、メシアで居続けようとしてくれている。まだ。
滅ぶのはファンダムをコントロールできなくなったときだ。ファンダムはある時は鮮烈に良さを訴え社会現象を作りだすが、ある時は量で圧倒してスポンサーをも非難する。諸刃の剣に近い。
ファンダムは集合体であり、それぞれの知性もまちまちだ。ひとつ事件が起これば、愚鈍な発言がもてはやされる場合だって大いにある。SNSで取り上げられるのは、必ずしも論理的で倫理観のある発言ではないからだ。
文化という話に戻ろう。文化とは何か。それは半永続的な魅力のある、それ自体は一般市民の人生に必要のないものだと定義したい。生きるのに必要はないが金を出す価値がある。卑近に言えばそういう類のものだ。
将棋で生きている、または、将棋に関連して飯を食っているものからすれば噴飯ものの言いようかもしれない。だが、一般社会ではそういうものだ。将棋が無くなって、困る人の方が少ない。世界には多くの人間が存在していて、多様な娯楽があり、人生があり、他の仕事がある。
将棋と関わり、生きていくものにとって生きづらくなった、と思われるかもしれない。そう。いま、生きるとはそういうことだ。何かすればすぐに炎上し、働き方は厳しさを増し、対面での人間関係は難しい。他の人々も何かしらの生きづらさを抱えて生きている。それが現代社会だ。認めなければいけない。
身分や全てを隠した故、自分がここに書いたことを卑怯で誤謬や脚色に満ちていると思われてもいい。ただ、将棋を棋士を素晴らしいものだと思っている。たった1人の棋士の存在が自分の将棋への見方を変えた。メシアでもない、かつてのメシアでもない、残りの棋士のひとりだ。自分は彼に将棋を指し続けて欲しいからこれを書いた。
どの立場からも、互いに歪み合っている場合ではない。不用意にお気持ちを述べることも、ただ黙って推移を見守ることも、それぞれのファンダムが暴走することも、形勢を有利にはしない。
匿名はてブで書くのは非常に遺憾だった。しかし、それにも、それでもきっと書く意味はある。職業・年齢・性別・棋力は伏せた方がよかった。たとえば、
会社員で30歳で男でウォーズ四段だ。
この5つの前提で同じ文章を書いた時、それぞれ違った先入観が発生する。そういう階層や区別が罷り通るのがこの素晴らしい文化だからだ。(なお、一例であり、上記のどれかが自分に当てはまるわけではない。)
何かが変わるだろうか。この星はどうやって滅びるのか手をこまねいて見ているだけはもどかしい。
将棋を次の100年へ。
最近俳優・芸人・声優・プロスポーツ選手の不倫や乱倫が世間を騒がせ、糾弾を受けている。俺も思うところがあり自らを吐露したい。
大要はタイトルの通りだ。俺は40代既婚社会人、相手は20代初めの女子大生だ。最初は夜の店で会った。話しているうちに仲良くなり二度ほど関係した。その頃は店の女の子と仲の良い常連客という関係性だ。批判もあろうが、夜に飲む店で女の子と仲良くなって関係ができるのはありがちなことだ。その時はお小遣いも渡していた。
1年ほど客として通い、そしてその子が退店することとなった。業界からも卒業すると。最後の方、店に行ってお疲れさまと楽しく飲んだことを覚えている。卒業することはプロでなくなり普通の女性に戻ることで、寂しい反面良いことだといつも思っている。
その後、一度近況を知りたくて会おうと言われた。ご飯を食べて飲んで、関係した。そして自分は既婚であり、これ以上は関係を続けられないと伝えた。プロである間はともかく、普通の女性に対しては隠したくないと考えたのだ。その日はそれ以上あまり話せず別れたと思う。
悩む局面。
連絡が来た。全部無かったことにするのは違うのではないか、と。会った。魅力に抗えず関係した。その後も何度か会った。
若い女の子が年上に憧れの様な思いから誤解を交えながら疑似恋愛的な感情に至るのは、時にあることだと考える。かつ彼女にとっても現在はメリットのある関係性なのだろう。しかし、それは泡沫の夢だ。彼女は口の悪いネットの掲示板でも貶められることのない、世間的には非常に優秀な大学の学生だ。凄くチャーミングでもある。所謂良い就職先に行って、前途があり眉目も優れた誠実な男性と結ばれ得るし、俺もそれを望んでいる。
そのような将来の希望と欲望と諦観と確信に紛れながら、今は俺は彼女の若い身体に溺れている。
プロ相手なら免罪される、その考えがそもそも誤っていたのだろう。
この後どうなるのだろう。どうすべきだろう。
特別仲が良かったわけではないし中学卒業以降は連絡もしていないが、当時は映画の話などをして一緒に帰ったりしていた。
「弱虫ペダル」など、たまたま自分の見た作品にも名前がクレジットされていて感動した。
小中以降の彼の生活は詳しくは知らないが、インタビューなどを読んでいると「ああやっぱり純人だなあ」と懐かしく感じる部分と、過酷な現場を続けるようなガッツが彼に秘められていたのかという驚きを、同時に味わっている。
俺も彼も持久走とか大の苦手だったはずだけど、大人になったんだなあ。
今現在、他のアニメーター?演出家?と揉めているようだが、彼は争いが好きなタイプではなかったはずなので、あまり反論もしないだろう。
揉めている内容の実際の詳細こそわからないが、大前提として、彼は自分を大きく見せるようなホラを吹く人間ではないと思っている。
そういうことが嫌いというか、どちらかというと「そういうのが苦手」な印象だった。
そもそも見栄で嘘をつきたければ、あの過酷な仕事を続ける前に、もっと楽する方法があると思う。
あの揉め事は悲しいすれ違いではないかと、部外者ながら考えている。
他人を味方につけるのが苦手で不器用だった印象もあるので、火に油を注ぐようなことを言ったりして、ひどい事にならないといいなと余計なお世話だが少し心配している。
彼について、インタビューやtwitterを読んだ人の一部からは「露悪的」などと表現されているが、
それはなんていうか、少しだけ違うと思っている。
小中学の頃しか知らないが、彼は趣味が変わっていてホラーやグロが好きで、普通のクラスメイトからは、ちょっと避けられるようなタイプだった。
「わかる人にだけわかってもらえればいい」と考えてそうだったし、趣味は変だけど温和な彼を面白いと思う人間もたくさんいて、
あと、キザな小学生にしてめちゃくちゃに「腹踊り」がうまくて、プールの時間によく見せびらかしていた。
中学の頃、一番面白い映画は「ギニー・ピッグ」だと言っていた。
「ちゃちな作り物だけどすごくいい」というようなことを語っていて、「目玉がさ、目玉がね」と一人で盛り上がっていたが、そういうグロが苦手な自分は話を遮って逃げた。
他にも「デス・ファイル」が好きだともよく言っていた。こちらは「本物なのがいい」とのことだった。
まあ、そういう事を言いたがるのも露悪的と言えばそうかもしれないが、彼はそれらの作品が本当に普通に好きだった。
「マトリックス」の話をするのと同じテンションだったのだろう。
小学生のとき彼の家に遊びに行ったら、「エイリアン2」の装甲車のおもちゃと、その裏にへばり付いたエイリアンウォーリアの轢死体のディテールを嬉しそうに見せてきた。
5、6年生の時、エアウォーターガンを担いで自転車に乗った彼と友人とすれ違い、どこに行くのか聞いたら、「近所の心霊マンションにゴーストバスターズごっこをしにいく」と答えた。
ものすごく楽しそうだなと思ったのだが、なぜか俺は一緒にいかなかった。
結果、どうなったのか今でも気になっている。
(ちなみに後年、そのマンションは改装工事の作業現場でも注意が出たほどのガチのスポットらしいと知った)
彼が休み時間に「『遊星からの物体X』はいいよお」と熱く語っているのを聞いたが、今考えるとストーリーのオチがなぜか「バタリアン」のものだったのが謎である。
(もしかしたら「深海からの物体X」の話だったのだろうか、こちらは見ていないから知らないが)
TV放映された「ザ・グリード」の話で盛り上がったり、似た趣味をもつ友達はいたはずだが、果たしてギニー・ピッグやデスファイルのレベルまで分かち合えていたのかはわからない。
中学の時に、今度ギニー・ピッグを一緒に見ようと誘われたが、それは断った。
「ウォンさん、ウォンさん」と、人肉饅頭の主人公アンソニー・ウォンを親しげに呼んで、放課後の帰り道などで包丁を振るう真似をして遊んでいた。
映画の後半で捕まって警察から拷問されるウォンさんが可哀想、でも親身になってくれる囚人がいい奴で泣ける、というようなことを話した気がする。
当時、アクション映画が好きでホラーが苦手だった自分は、彼をどこかヤベー奴だと思っていたが、実際に話す彼はひたすら温厚だった。
不思議な魅力があった。
手を後ろで組んで歩くような、クラスに一人はいる「お爺さんっぽい中学生」だった。
少年時代、彼が怒っている姿は恐らく見ていない。
俺や他の友人はよく他人の噂話や陰口で笑っていたが、彼が他人の悪口を言っているのも見たことがないと思う。
そんな感じで、どちらかというと彼は友達からもいじられる変人だったが、いつもニコニコしていた。
「髪が油っぽい」と友達の間で話題になって、学校の水道で洗って実験してみたことがあった。
「水だけで洗うと逆に汚れが表面に出てくる」「石鹸も使うべきだ」等、無駄な議論をしながら石鹸シャンプーをした結果、洗ってもすぐギトギトになって、みんなで笑った。
※もしかするとイジメと勘違いされかねない話だが、自分か他の誰かも比較のために水道で髪を洗ったはず。
中学生男子がふざけて全身びしょぬれの水遊びをしたり、お互いに額を強くつねって「インド人っぽい痣」を作ったり、失神遊び(絶対やめろよ!俺は本当に危なかった)をすることは日常だったので、そういう類のエピソードと思っていただきたい。
彼はニコニコしながら率先して水道で自分の頭を洗って「見て見て」と笑っていた。
ただギニー・ピッグやデスファイルの件があるのでうっすら迫力があって、こいつ何考えてるんだろうとは少し思っていた。
twitterなどで露悪的っぽく見えるのも結局、彼なりの特殊な冗談なのだと思う。
分かる人にだけわかって、嫌う人からは嫌われて、伝わる相手とだけニコニコ通じ合えれば、それでいいと思っているのだろう。
その実、今でも他人の悪口などはほとんど言っていないのではないかと思う。
(すべてのツイートを追っていないのでわからないが、あんな辛い仕事をして、個人を責めるのではなく業界を批判しているのが彼らしいなと思う)
他にも小中時代の特殊なエピソードは色々あったし、他人から理解されない経験を、ずっと味わってきたんだと思う。
「誤解されようが気にしない」というスタンスが変わっていないのは(誰かが書いてたけど、アニメーターA氏があの場にいて本当よかった)、勝手ながら、なんだか少しうれしかった。
本人がtwitterで「みんなも俺を決して良い人だと思わないで。俺はどこまで行っても悪には違いないし間違ってるから。」と言ってるのは、彼なりの誠実さなんだと思う。
中学の時からデスファイルが好きなんだから、そりゃ悪だろう。(ひどい)
今思うと、過激なホラーを好みながらなぜか漂うお爺さんっぽさも、どこか諦観というか、達観しているところがあったからなのかもしれない。
お爺さんっぽいと言ったら、キザな本人は嫌がるかもしれないが。
それにしても、彼が職業にするほどアニメを好きだったことは、知らなかった。
「パトレイバー2」の引用をしているのは、映画の話ばかりしていた時代しか知らない自分は少し意外に感じる。(そのころから好きだったのかもしれないが)
パト2のような理屈っぽい作品よりも、「今度は戦争だ!」とエイリアン2からの引用の方が理解できる。
俺が知ってるのは小中学の頃だけなんだなあと改めて実感する。
しかし、極端なホラーやキワモノが好きだった同級生が、大人になって「作画崩壊」「敗戦処理」で話題になるのは、他人事ながら少し悲しい。
クリエイターがみな望むものだけを作れるとは思っていないし、もちろん、彼がやりたくない仕事を無理やりやっているなどとも思わないが、それでも少し悲しい。
作画崩壊は、子供のころの彼が好きだった「キワモノ」といえばそうなのかも知れないけれども。
結局俺は「ギニー・ピッグ」も「デスファイル」も見ていないが、「人肉饅頭」はこの前また見返した。
改めて凄まじい作品だと思った。
別にホラーではなくとも、人肉饅頭みたいなああいうすごい作品を彼が作ったら、嬉しいなと思う。
多分、みんなからは評価されないかも知れないし、俺だって見るかは知らないけど。
でもまあ結局はわかる人だけわかってればそれでいいんだろう。
マイナビが就活生に行った「配属ガチャ」に関する意識調査で、希望しない職種や勤務地などへの配属に、調査に応じた就活生の半数以上が不安を抱えているという記事が出た
それなりに体力がある企業は採用した人材の配属希望を聞き取った上で経歴や資格、適性検査などの結果を吟味して配属先を決定しているのだが、そうでない企業も多いのも事実である
かつては「家を買うまでは希望の職種や勤務地へ、家を買ったら希望街の職種や遠隔地へ転勤や単身赴任を」などというやり口で人材の分配をする企業すらあった
そんな話を聞けば「配属ガチャ」という言葉が生み出されるのにも納得がいく
とかく「親ガチャ」や「隣人ガチャ」、「上司ガチャ」と、本人ではどうともできない現実に対し、責任を他者に転嫁し嘲笑して諦観するような風潮が市民権を得てしまった
しかし、今までもさまざまな格差や現代社会の生きづらさを言葉遊びをとおして現実逃避する手法は年代を問わずあったわけで、「○○ガチャ」という言葉に必要以上に反応してしまうのは「ガチャ」風潮についていくことを諦めた中年以上の世代の努力不足なのかもしれない
そしてその最たるものがTwitterで見かけた「配属ガチャというが、こちらも新入社員ガチャだ」という経営者のツイートである
一見、論拠がしっかりしている反論のように見えてしまうが、配属という受動的な事象に対して、採用という能動的な行為をぶつけるという、話の噛み合ってなさが如実に現れた独り相撲に目眩すら覚える
さらにいえば、採用試験時には志望者は実にさまざまな書類を提出し、何度も面接を繰り返し採用側に丁寧に吟味される
そこで人となりを完璧に見抜けなどとはいわないが、志望者側にそれほどの労力を課して採用側もリソースを割いて判断したのだから、「新入社員ガチャ」という意見は「俺らまじ見る目ないから」という自白そのもので、反論としては不適格だろう
志望者が嘘をつき自分に下駄を履かせ、採用側はその嘘を見破り人間性を問う戦いとのことだ
なんだこの無間地獄
双方ともに謙虚さを失って、「売り手市場」「買い手市場」などと主導権争いをするからここまで劣化したんだろ
それこそ昔はニコ生くらいしかなかったのが、今ではスマホ一台あれば、無限に配信サービスもあるから、増えるのは自明なんだが。
かくいう自分も、配信者をやっていた。同接は多くて15名くらいの、底辺も底辺だ。
話すこと自体は好きだったし、YouTubeの収益化ができたときは嬉しかった。(スパチャを投げられるとかそんなことはないので半年の収益は数円だったが)
推しのイラストレーターにイラストを依頼とか、配信者でなければできなかっただろう。
そう、自分を切り売りした結果としてできることは増えるので錯覚しがちなのだが、擦り減っていくものは、かけがえのない大切な何かなのだ。
皿の上に差し出しているソレは、簡単に消費されていいものではないし、消費される側もする側も、麻痺しているように感じる。
配信者側は今言ったように、できることが増えていくから、擦り減ったものには目が行きにくいし、
視聴者側も「配信者が好きでやっていることだから、自分も好きに応援しよう」と考えるものだ。
自分もそうだが、とりたてて絵がうまいわけでも、歌が上手いわけでもない。トークも平凡だと思う。
絵や歌、ゲームの巧みさなど売れるだけの芸があるなら、それを売れる。だが、自分も含め、素人にはそれが無い。だから、自分そのものを切り売りするしかない。
枯れたスポンジから血が滴るようになっても、売れる芸などないからだ。
そこまでして承認欲求をかなえたいものなのか、とは自分も思う。
自分の場合は、始めたきっかけは承認欲求だったのだと思うが、今となっては素人の自分の話をなぜか面白いと聞いてくれる人がいるから、その人たちに自分のできる範囲内で精一杯お礼がしたい、そんな感情なのだ。
だから、ひとくちに承認欲求の肥大化が問題、というのも自分としては違うと感じる。
等身大の自分を切り売りして、売った分だけできることが増えて、承認欲求も満たされて、
気が付いたら致死量まで擦り減っていた何かによって、いつか、死んでしまうのではないか。
少なくとも自分は擦り減った結果、あんなに話すことが好きだったのに、「ああ、こんなにもことばって伝わらないんだ」という絶望を得た。
どれだけことばを重ねても、
「なるほど!××ということですね!」「自分がいつ××だと言った!?」
と頭を抱えることが多く、それが耐えきれなかったんだろうと思う。
ことば、言語というものは相手と自分が一意のものを思い浮かべるためのコミュニケーションツールだと思っていたばかりに、本当につらかった。
今となっては、いつ、どこで、誰と話す時だとしても、「どうせ自分の言葉は伝わらないのだ」という諦観と絶望が支配するようになった。
まあ、自分の具体例で言えば話が通じないやつを放置、ということができなかった自分の不器用さに原因があると思うから、別に構わないのだが。
それでも、「話が通じる人もいる」ということを信じられなくなったのは、自分にとっては大きな損失だろうとは思う。
最近のトレンドのひとつに、「夢を追いかける若い少年少女を消費する」文脈があるような気がする。
もちろん、これは最近に限らず昔からそうで、だからオーディション番組や甲子園はみんなが好きなんだろう。
ただ、ネットの普及、SNSの浸透、素人でも誰でも配信ができるという状況が、これを加速させ、卑近にしているように思えてならない。
少なくとも、オーディション番組や甲子園のように、覚悟をもって飛び込む、ということはなく、敷居が低く気軽に飛び込めるようになっているのは間違いないだろう。
それに加え、先でも述べたがオーディション番組や甲子園のように、明確な一芸を競うなら、そこまで自我は痛めつけられないと思う。そこでの失敗は能力の不足(まあ運もあるだろうが)と割り切ることは比較的容易だ。自分を切り売りする場合に比べれば。
オーバーなリアクションばかりしていると、寿命を縮めるという。
決して簡単に消費されて良いものではないはずだ。簡単に皿の上に載せて供して良いものではないはずだ。
と、思うのだが、私だけだろうか。
マシのラインナップに外資コンサルが入っている理由がわからないです
訴えられたら嫌なので名指しはしないが○にも普通にIT部隊(開発、運用)があって、困ったちゃんをいっぱい飼ってるぞ
日立以外は技術も向上心もヤベーの多いんだけど日系で激詰めがないからかおっとりしてる人が多いんだよね
けど外資系の〜コンサル系の〜IT部隊(開発、運用)の子らは〜
技術も向上心もヤベー上に上長からは外資・コンサル的な詰め方されるからか『まぁいいか』がねぇのよね
そのあふれる情熱はあなたの足りな過ぎるスキル向上に是非まわして?と思いながらヨシヨシしてるよ
キミがいまアサインされているのはIT部隊のメンバーであって、コンサルとしていまアサインされていないよ?ってヘッドホン強制装着させて24h聴かせたい
↓
そもそもコンサルがハイスペックの代名詞みたいになってるのはMとかBとかの外資系トップティア戦略コンサルのこと(O氏とかH氏とかM大臣とかN女史とかK女史とか錚々たる面々。年齢順。間違ってたらスマン)
↓
社内のキャリアパスがどうなっているのかは知らんけど
会計系は最初っからIT部隊のメンバーとして求人掛けてたりもするよ
そしてみんなやばい
そしてやはりやばい
どこぞの会社のCTOにおさまったりシステム部門の部長に収まったりする方々も
まぁ経営陣は『技術』を重要視しないでそのポジションに添えたのだと思われるので
外野がどうこういうことではないのでしょうけど
IT部隊のメンバーなのにそれ以外の何かだと思っていてスキル低いし向上心ないけど『まぁいいか』が無い
上に激詰めされるからかな?
あとみんな好きなGAFAM
GAFAMの日本法人に夢見てるところ悪いが
GAFAMの日本法人の業務だとカーネルエンジニア召喚するような業務は発生しないぞ
ましてや三顧の礼でお出迎えするとか無いです
↓
GAFAMに限らず外資の日本法人なんてHQが~HQが~ばっか言うのが仕事だぞ
ネット民のDisる大企業のほうがOSSの実装に文句言うとあの部署にコミッタいるんで文句言いにいきましょうって言われる魔境なのは知られてない
僕たちは生まれながらにして不幸だった。
物心がついた時には経済成長など実感できないほどなく、平和のみが幸運にも固定されていた。少子高齢化を無責任に押し付けられ、いつも年金の説明では僕たちが下で、いっぱいの先人が上に伸し掛かる絵を繰り返し見せられた。
小学生のころには阪神淡路大震災があり、生活は不条理に突然破壊されることを知った。
オウム真理教は天災だけでなく人災があることを教え、それを報道するテレビには頭のおかしい人をいじめることの楽しさと正しさを刷り込まれた。
学校ではいじめがあっても誰も救ってくれなかった。子どもも大人も誰も責任を取らずに済んだ。
どう大人を信じようと努めても、彼らの正しさの裏にある保身だけが形を濃くするだけだった。
いじめ、学力低下、キレる十四才、僕たちだけが責められている気がした。勝手に「ゆとり」を与えられ、数年後には「ゆとり」だとバカにされた。
ノストラダムスの大予言も二千年問題も世界を無くしてはくれなかった。変わらないんだ、という陰鬱な気分を虚構ごと生活に仕組まれた。
社会に参加するまでの過程で、どんどんと多様性という理想が叫ばれるようになっていった。でも現実はまだそう出来ていなかった。ゆとり教育でも、AO入試でも、新卒一括採用でも、実験の最前線で僕たちは消費された。
社会の正体に近づくほど、実験の甲斐なく何も変わらずに、大人たちは利権を固定させようと頑張っていることがわかった。かつて多くの若者たちの理想主義が現実主義に敗北し、僕たちの生活には既に革命の「か」の字すらなかった。
センスが良いとされる大人は肌触りの良い冷笑と諦観で、理想からも現実からも逃げているだけだった。
芸術に届くわけではないわずかな詩情の中に逃げ、丁寧な暮らしとやらで現実を隔離しただけだった。雑草も食えるらしいと、何も新しくない発見を雰囲気の良い雑誌で語った。
とにかく真っ当ではなかった。僕たちには老朽化した線路と駅が残された。
いつかみんな死ぬ、くらいしか希望はなかった。僕は、小学校四年、五年と苦労したあとに六年生になったときのような開放感を待っていた。
インターネットは唯一僕たちに与えられた現代的で民主的な革命だった。僕たちは最前線に立つことを初めて喜んだ。僕たちが社会を実験していた。大人の腕の中で揺らされるのではなく、自らが世界を開拓していた。
過去の日本では文学や学生闘争に向いたであろう若者の活力がインターネットで遊ぶことに費やされた。情報の波をサーフィンしていた。
けれどアナーキズムなど思想と呼べるほど突き詰められてはいなかった。脱法とジョーク、たくさんの知識。組織化しない雑多なカオスが世代や日陰者の雰囲気をベースとしてただ在った。
東日本大震災のとき、僕たちは初めて大きな波を感じた。世界ごと変えてしまおうというワクワクがあった。
ネットから始まる民主化が現実世界にも網目を伸ばし、キレイな情報を伝播させることを夢見ていた。
実際のところ我々には思想がなかった。正確には思想が育っていなかった。長い間の自己否定とカオスたちの団結は思想を形成させなかった。
論壇はインテリっぽい動きに酔っているままで、ほとんどの人間が責任を背負おうとしなかった。
大衆は十分なリテラシーを持っていなかった。目の前の文字が自分を騙そうとしているかだけを考えていた。
もちろん先行者と同様に誰も責任を取りたがらなかった。波は結果的に芸術の一部分だけに還元された。
僕たちの革命は、革命という皮すら被れずに失敗した。あの頃目立った人間たちのどれだけがまだ実際に社会に有効なことをしているのだろう。
僕たちは生まれてから今までずっと負け続けている。逃げ続けている。立ち向かう人間を冷たい視線で嘲笑っている。かつて"カッコイイ大人たち"がしていたように。
拗ねた子どものままで皮肉とセンチメンタルを捏ねくり回している。
最近は「多様性の尊重」がブームになっている。拡がり分化する人間の在り方を認めようとするのは正しいことだと思う。
だが、それは欺瞞だ。多様性は排外主義への攻撃だ。多様性を求める社会は多様性をもたらさないものを排除する。
最大限の寛容ではなく、この時代この社会における妥協点でしかない。
ただそれよりも深刻なのは、多様性未満の僕たちだ。多様性で救われるのは国籍、性指向、いくつかの快い思想である。いわば十分に形作られたアイデンティティーのうち、現代社会に適応するものだ。そして主張に成功したものだ。
僕たちの苦しみはアイデンティティーの未発達である。差別をされたり、大事に築き上げたものが喪失したわけではない。時代により幾度となく無意味化された結果、育たなかったのだ。
社会の複雑さへの想像力、ありのままの他者の受容、明確な善への地図が無かった。
今までのシステムは近いうちに崩壊すると言われつつも、なかなか崩壊しない。仮に崩壊したとしてもサバイバルを生き抜く知恵が無い。広大な大地に丸腰で放たれるのだ。
「ちゃんとしなきゃ死ぬ」とトリプルファイヤーの吉田靖直は歌った。「ちゃんとしなきゃ」という要請だけが社会にある。
なんとなく、どこか生きにくい僕たちの行き場はどこだろう。ちゃんとした職があればいいのか?ちゃんとした病名がつけばいいのか?ちゃんとした人になれればいいのか?ちゃんとした人ってなんだ?
今になってようやく哲学や文学などの人文学に解答を求めることができるだろうことに気づいた。それは人間として真っ当な足掻きに思えた。
まだ遅くはないと信じて、攻略サイトには無く、ビジネス書より直接的な、人間思索の旅に出ようと思う。良い哲学の書を教えてくれ。