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はてなキーワード: 論理学とは

2024-03-16

護憲かつ天皇制廃止論者とかも謎」とか言ってるブコメを見つけたけど、

そんなこと言い出すのは論理学ちゃんと学んだ方がいいと思う。

日本の象徴でない天皇がいたら憲法違反だけど、天皇がいないのは別に憲法違反じゃない。

2024-03-04

anond:20240303120626

これはおもしろいね

まず時間が少ないのはそうだが、令和のいまも本当に別立てになってる?

国語の一部門古典中国語古典日本語)では?

国語増田国語増田だのまとめたい煽りでみてりゃわかるように

舌先三寸の言いくるめ方を習う科目でなく、

論理学も含めているか文系最長科目なんやで。

 

たとえば理系では気体の状態方程式とか

自由落下から微分から運動量保存則とかは

複数の教科(物理化学とか、数学物理とか)で重複して絶対避けられないようにしてることなんだけどね、

文系でいえば論理学絶対避けずに修めてほしいわけ。

そのために「言葉ってなに、日本語(気分)以外の言葉もつ論理ってなんなの」もわかってほしい。

そのためにも英語ってにがて~」といってるやつがアジア古語ならいけるかもしれない可能性の発掘のために国語盲腸みえてもしっかり遺しとく

これはアリやで

2024-03-01

数学必然性は実は人間言語分析能力によるものなので、言語能力が異なる宇宙人とは、数学的語彙が共有できない可能性があるんですよね~


なぜ数学言語能力関係するんだ?と思う人は、以下のノーム・チョムスキーの有名な、無意味な二種の文を見ればわかってもらえるかもしれませんね~

・“Colorless green ideas sleep furiously.”(「無色の緑の考えが猛烈に眠る。」)

・“Furiously sleep ideas green colorless”(「猛烈に」「眠る」「アイデア」「緑色」「無色」)

前者は文法的には正しいが意味が無い文で、後者文法的に正しくないか意味がない文、ということはわかっていただけるかと思います

しかし、上記二種の文は、両方とも経験的には何も想起させないがゆえに、経験的には同様に意味の無い文です。

ということは、経験こそが認識の基礎、基底である考える人にとっては、二種の文の違いを説明することができないのですよね~。

なぜならそのどちらも経験することができず、経験による理解が基底であると主張するのだから経験的基底において違いのない(意味のなさ、指示対象存在しないという点において同質という意味)上記二種の文の本質的差異(基底的差異)を指摘することができないのですね~


現代言語哲学、そして現代論理学の基礎を作ってきた哲学者たちは、数学必然性がどこから来るのかという問題について、

文の経験理解よりもに、文の文法的分析が先に行われる(そして数学必然性は、文法分析に基づく理解のものから正当化可能である)ことを示すことによって、

経験的(アプリオリ)論理数学必然性正当化可能であることを証明してきたんですね~

例えば上記二種の前者の文でいえば、経験できないにもかかわらず文法的に正しいことが理解できるのは、まず文法分析が先に行われ、その後意味解釈に失敗するから無意味なのであって、その逆ではないのですね~

そして数学で扱われる文、例えば2+2=4は、なんらかの経験を前提せずとも、形式的理解(つまり文法的理解)から正当化可能であるがゆえに必然的(=非偶然的、または前経験的)なのですね~

そして例えば上記二種の文とは別の有意味である文「無職緑色ジャージを着た男性が猛烈に眠る」であったとしても、まず文法的理解が先に行われたあと、その意味解釈を行うことができるがゆえに有意味なのですね~

プログラミング言語だって、まずどれが変数で、その変数に何が割り当てられているかといったセマンティクスよりも先に、シンタックス分析が行われますよね~


から数学必然性は実は人間の前経験的な言語分析能力によるものなので、言語能力が異なる地球外生命体と遭遇した時、数学的語彙が共有できない可能ももしかしたらあるのかもしれませんね~

なぜなら我々の理解する必然性とは、我々の言語分析能力に基づくものであって、よそから来た宇宙人にそれが期待される理由がないからですね~

2024-02-16

anond:20240216124331

たぶん数学論理学における無定義語のことを調べると少しは謎が解けると思う

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

2024-02-11

↓なんかchatgptっぽくね?

ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的論理体系内での数学特定命題に関して「証明できない」ということを示しています。この定理によれば、ある論理体系内で自己言及的な命題を含む場合、その命題が真か偽かを証明することはできないということを意味します。

まりゲーデルの第1不完全性定理は、「この命題証明できない」という命題を考えた場合、それが真か偽かを判断できないことを指摘しています。したがって、特定命題が「証明できない」ということは、その命題現実には真か偽かになっているかどうかを示すものではありません。

ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的論理体系の限界を示すものであり、数学論理学の基本的性質理解する上で重要な結果です。しかし、この定理特定命題の真偽を示すものではないため、その命題現実に真か偽かを判断するためには、他の手段情報必要です。

ウィトゲンシュタイン思想ゲーデル不完全性定理には、いくつかの類似点があるかもしれません、それぞれ異なる観点から論理数学アプローチしています

ウィトゲンシュタインの「論理空間」の概念は、言語記号による表現の枠組みや制約を強調し、言語論理限界について考察しています。彼は「言語ゲーム」という概念を導入し、言葉文脈の中での意味理解に注目しました。ウィトゲンシュタインの主張は、言語論理使用特定文脈ルールに従って行われることを強調し、その文脈ルールから外れた場合意味崩壊する可能性があるというものです。

一方、ゲーデル不完全性定理は、数学的な形式的論理体系に焦点を当て、その体系内での命題証明可能性について論じました。この定理は、特定命題がその論理体系内で証明できないことを示し、論理体系の限界示唆しています

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13286033693

2024-02-04

こういうのを見てると、逆裏対偶という高1レベル数学理解してない人間普通に存在している事が恐ろしくなるな

https://anond.hatelabo.jp/20240203135231

まあ数学っつーより論理学で、文系でも十分な範囲なんだが

2024-01-30

anond:20240130003113

論理学大学院にいるときにすこしかじって、最近誤謬論入門とかを読んだけど理論とか本論という言葉に覚えがない。argument(議論)とconclusion(結論)では?

2024-01-29

anond:20240103075612

メモ力学以外にも、論理学とか弁証法技法ファンタジーな設定に混ぜる。既存のもの調査してないけど死ぬほどありそう

例。骨を操る力で傘を飛ばし攻撃された、のでいや骨を飛ばしてくれと指摘して防ぐ、しかし傘にも骨はあるだろうと反論され防げない

2024-01-16

anond:20240116130700

Aが違うならばBが違うなんて論理学法則存在しないよ。蓋然性には如何程も寄与しない。

anond:20240116003349

「うぬぼれすぎ」と「非論理的」という2つの視点からあなたの考えが誤っていることを指摘します。

まず根本的な部分として、あなた自分の行動が世界に及ぼす影響を高く見積もりすぎです。

あなたの行動は、世界を変える一要素になる可能性はありますが、あなたの行動だけで直接的に世界が変わることはありません。「おまえは神になったつもりか? 自惚れぬなよ人間。」

あなたがある人を救うという行動は、その人を救う以上の意味はありません。これは、あなたがたいしたことをしてないと否定しているわけではなく、自分選択世界に及ぼす影響を過剰に見積もるなと言いたいのです。

ある人に対して何らかの行動をしたという事実は、それ単独評価されるべきものです。それ以外の人についてはあなたは行動も意思表示もしてないのですから、それ以外の人について過度に責任感をもつ必要はありません。神ならぬ個人が気軽に世界を変えることはできないのです。

あなたの目の前にいなかったりあなたの手が届かない人は、あなた以外の誰かが救うはずです。そう信じて目の前のことに集中しましょう。

もし、より積極的世界を変えたいと思うなら「俺は目の前の人を可能範囲で救います。それ以外の人については他の人が救ってくれ!」と声を挙げるのは良い方法かもしれませんね。その積み重ねできっと多くの人が救われるはずです。世界を背負う時はあなた一人だけでなくみんなで一緒に背負いましょう。

次に、論理学的な側面からの誤り指摘です。つまりあなたの考え方は論理的ではありません。

「AはBである(A is B)」という命題が真であるとき対偶である「BでないものはAでない(~B is ~A)」という命題が真であることが知られています高校数学で学びましたよね? 一方でそれ以外の命題、たとえば逆(B is A)や裏(~A is ~B)については不明(真かどうかこれだけではわからない)です。

そのため、ある人がとある命題Fを主張したとき、同時にFの対偶を主張したことになりますしかし一方で、言及していないそれ以外の命題については、「その人はそれについては触れてない(言及してない)」と考えるべきなのです。勝手に裏や逆などの命題を作って、その命題をその人が主張していると解釈すること自体が「非論理的」なのです。

「Aという人を救う」という行動による意思表示は、その逆である「Aでない人を救わない」という意思表示意味しません。この「Aでない人を救わない」については、その人は意思表示をしていない(不明である)と考えるのが、論理的解釈です。人生を生き抜く上で、求められてもいない命題について意思表示はする必要はありません。ましてや、非論理的破綻した推論で自分意思表示ねじまげて解釈され、自分の行動が制約されるなんて馬鹿らしいことです。

2024-01-10

anond:20240110164246

実際に理屈として通っているかよりも、論理学文脈に沿っているかのほうが大事な人たちの気持ちわからんわ、すまんな。

anond:20240110163355

まさか「お前の中にある論理学理屈」に当てはまってないから、論理的に間違ってるって主張してる?

「死を回避【する】方向に進化してる【から】、痛みや苦しみを感じる」って書いてるのと同じだけど、馬鹿から読み取れなかったんだろうな。

戯言だと言いながら具体的な指摘をせずにレッテル貼りに終始してるし、頭悪いのは見て取れるわ。

anond:20240110162944

生物基本的に死を回避する方向に進化してる」がたわごとだってことを言ってるだけ

というか、上記否定されて、「生物が死を回避【しない】方向に進化してる【なら】」で反論になると思ってるようだから論理学が苦手」なのかって聞いてるわけでね

これは善意忠告だけど、君自分に人を馬鹿にできるだけの能力があるとか思わない方がいいよ

2024-01-05

anond:20240105145634

「みんながそれが正しいと思ってる」って論拠で話されてると思ってるのお前だけだろう。他にも多数の論拠が示されていて、その中の補強材料に過ぎない。

ただ、あなたが「自分が言っていることを正しいのに、多数派かが弾圧してきている」という妄想にとらわれているのは見えてきた。

あと、詭弁を使い倒してるのに「論理的に」って、論理学って学問ちゃんとあるんだよ。

「みんながそれが正しいと思ってる」は、お前が言うように正しいの論証にもならないが、それよりも輪をかけて相手が間違っている論証にはならない(正しさには関係ない)ので、

民主党政権だって天動説だって地表平面説だって正しくなっちゃうよ笑」なんて事は導けない。

故に、「様々な検討の結果法律ができていて、それが指示されている」、つまり白人だけは特別」と「人間だけは特別」に、法律では明確に差があり、多くの国で標準とされていて、日本でも圧倒的に支持されている、と言う事実、に対して「「みんながそれが正しいと思ってる」って論拠としてはバカすぎる」と抗弁したところで、あなた自身の主張の正当性を補強するものではない。

実際には詭弁をこねくり回しているだけで、ただ「論破して勝利宣言する」という事への快楽を求めているだけなので、何の意味も無いと言う指摘になってる。

2023-12-29

返信できないので供養

回答ありがとうございます確認なのですが、「『C』を前提知識としているような本、に書かれている内容」の理解を前提した本をDと呼んでいるという理解で合っていますか?

Cまでの知識を前提としている、と、Cまでの知識を前提とした本に書かれた知識を前提としている、では全くレベルが違ってくると思うので。

結局理系学者として極まると本ではなく論文を読むのが日常になってくるようですね。そしてそういう雑誌はいわゆる本、分厚い重厚そうな単行本という見た目はしてないんだと思います

知識人だという人が「私は読書家で本をたくさん読んでいる」といったらむしろアカデミック世界人間としてはもぐりというか、中途半端ってことなんでしょうね。だって最先端発見をし続けるためには「本」を読んでいる暇なんてないでしょうから(笑)

ちなみにこの質問はこの↓本のレビューを見て生まれものです。

圏論による論理学

https://amzn.asia/d/h1CATWm

それと

葉層のトポロジー

https://amzn.asia/d/cA65PZA

これら二冊はそれぞれ

A: 高校学習する知識

B: 大学教養課程で教える知識

C: 大学専門課程で教える知識

D:大学専門課程でも教えない知識

このうちどこまでを前提知識とした本に分類されると考えますか?

2023-12-23

anond:20231223111725

芝刈り機で論理学やろうとして失敗した小話みたいな元まっすー

2023-12-20

anond:20231220081716

必要ないって事はやっちゃいけないとは違うよな

論理学とか苦手そう

2023-12-17

論理学を学べば論理的思考ができるようになる、わけじゃないよね

述語論理とかタブローとかやったったところでね。話が逆で、そもそも論理的思考がある程度資質として備わってなきゃ論理学は理解できないと思うんだよ。

論理学を論理思考を育てる手段にはできないのよね

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