はてなキーワード: 誤謬とは
ガロは書く人も居なさそうなので、元読者の義務感に駆られて書いてみた。リアタイで読んでいたのは80~90年代の一部なのでいろいろ偏っているとは思う。選択の基準としては、漫画史的な重要性や、後世に与えた影響を優先した。バックナンバーや単行本やアンソロジー、関連書籍(が多いのもガロの特徴ではある)などの知識も動員したが、記憶に頼って書いているので誤謬などはご容赦。むしろ先達からの突っ込みが欲しいです。なお、ガロ分裂後のアックス誌の作品にはここでは触れない。
まずはなにを差し置いてもこれ。そもそもガロという雑誌の創刊自体が長井勝一による「カムイ伝」を掲載する媒体を作りたいという並外れた理由によるもので、「ガロ」という奇妙な誌名も作中人物の「大摩のガロ」から取ったものだった。どちらかと言えば現在では「読まれない」作品になりつつある印象なので当時の熱狂を図るのは難しいが、漫画史的には「どうやら漫画という媒体は歴史的・社会的な諸問題を描き得る(と読者に思わせた)」点がエポックだったのではないかと思う。今であればそんなもん当然だろうと思われるかもしれないが、所詮我々はこのような巨人の肩の上にいる。
つげ義春がガロ誌に発表した短編は悉くが傑作なのでとても一本に絞りきれるものではなく、作品の完成度からすればむしろ「ゲンセンカン主人」や「赤い花」ではないかとも思うのだが、後世に与えた影響の大きさを考えればこれを選ばざるを得ない。「見た夢をそのまま描いた」という誤解を受けることも多い本作だが、実のところは多種多様なコラージュや巧みな漫画的技法に満ちていて、きちんとした作為の下に統制して作り上げられた「シュール」の傑作であることがわかる。
若い男女の同棲と破綻の物語と描けば無数の類例が思い浮かぶが、1970年の発表当時には極めて新しかったはずである。なにしろ婚前交渉などという言葉が現役だった時代だ。主人公の職業がアニメーターというのも新しく、しゃれていたのではあるまいか。この作品の画期は、漫画に「俺たちの等身大の青春(あるいはそのように夢想したいもの)」を持ち込んだ点だったのではないかと思う。林静一の洒脱な絵は上村一夫などによる後続作に比べても洗練されていて、今見ても色あせない。
漫画(に限らず表現)とはなにものかを描かなければならないのだというドグマがまだ有効だった60年代、漫画から意味というものを完全に取り去ってしまった佐々木マキの一連の作品はセンセーショナルであったらしい。画風はおそらく杉浦茂の系譜にあるのだが、もはやナンセンスという言葉も不適当だと思われるぐらいに徹底して意味や物語は排除されている。その衝撃は若き日の村上春樹にもはっきりと影響を与えたらしく、のちに佐々木は村上の著作の挿画を担当することになる。
簡素な絵でナンセンス漫画を濫作していた滝田ゆうが、心機一転、自らが少年時代を過ごした戦前の私娼街・玉ノ井の風景をおそろしく緻密な絵柄で描き出した。「三丁目の夕日」的なノスタルジアものの先駆ではあるが、最終回、戦火は玉ノ井の街を焼き尽くして終わる。ここに描かれているものは、卓抜した記憶力と画力により再構築された、失われて二度とよみがえることのなかった風景なのである。
ここまでは疑いなく殿堂入りの作品が並ぶが、ここからは判断に迷う。70年代ガロからは永島慎二や宮谷一彦を外してはいけないかもしれないのだが、活躍のメインはガロ誌ではなかった作家だし、やはり当時の熱狂を現在から嗅ぎ取るのは少々難しい。安部慎一や花輪和一、古川益三(のちのまんだらけ社長)の諸作品も思い浮かぶけれど、ここでは作品の強度と詩情、卓抜した画力を取って敢えて鈴木翁二で。
これも当時の衝撃をいま追体験するのは難しいのかもしれないが、ヘタウマや不条理がどっさり詰め込まれた本作が半世紀近く前のものと考えるとやはり衝撃的だし、こういうギラついた脳天気さは、結局は80年代「軽チャー」の苗床になったのではないかと思わされる。
80年前後のガロにはニューウェーブにカテゴライズされる作家も少なからずいて、例えば川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、奥平イラなどが挙げられるのだが、個々の作品への愛着はさておいて結局のところ今に至るまで強い影響を与え続けているのはむしろニューウェーブの埒外にいた丸尾末広ではないかと思う。圧倒的な画力は漫画のみならず演劇や音楽にも影響を与えたし、世代を超えたファンも多い。なお本作の初出はガロ誌ではないのだが、代表作として外せないのと単行本は青林堂だったのでご容赦を。
80年代ガロではこの人の名前も外せない。「過激な」作風と言われ「特殊漫画」を自称他称もしている人ではあるけれど、実のところは非常に息の長い物語を紡ぎ出せるストーリーテラーでもあり、日本の近代史や土俗性を容赦なくぶち込んでやるから覚悟しろよというぎらついた野心も垣間見える。その試みがもっとも巧くいった作品の一つが本作。水爆投下とともに発射された精子が自我を持つ話です……と書くと面白そうでしょ?
ガロ最末期の90年代から一人と考えて、古屋兎丸や山野一・ねこぢるなども思い浮かんだけれど、漫画表現の圧倒的な強度に鑑みて本作を選んだ。この地上には存在しないはずなのによく知っている風景がどこまでもどこまでも展開される。いつかうなされながら見た夢が、ここに具現化されているという驚き。「ガロがなければ世に出ることのなかった」作品の一つの頂点であると思う。逆柱作品はどれをとっても傑作なのに単行本の多くは絶版で、とんでもないプレミアが付いてたりする……。
・個人的にはつげ忠男の大ファンで、実際「無頼の街」「河童の居る川」など傑作も数多いのだが、漫画史的重要性を優先して涙を呑んだ。
・赤瀬川原平も言及に迷ったけど、ガロ誌での漫画作品(『お座敷』など)よりも、その外での活躍が多かった人という印象なので選外に。ガロ系の作家ではこういう人も多いのですが。
・「ガロにおける有名作家」という問題もある。水木しげるに矢口高雄に池上遼一といったビッグネームもあれば、のちのどおくまんも一度作品を掲載しており、末期ガロにも吉田戦車のような意外な面々が顔を覗かせる。珍しいところでは、SPA!誌で掲載を断られたゴーマニズム宣言の回を小林よしのりがガロに持ち込んで掲載された例がある。
・ガロ出身で他誌で活躍することになる人も多い。上記の他、新しい世代では花くまゆうさく・福満しげゆき・東陽片岡・古泉智浩あたりか。
・80年代ガロでかなり迷ったのは、トラバでも言及のある久住兄弟や泉晴紀・泉昌之、渡辺和博などの面々。このあたりのナンセンスな作品群はわりと影響も大きかったようなんだけど、作品単体でどうこう言えるものが思い当たらなかったので除外。
・つりたくにこ・やまだ紫・杉浦日向子・近藤ようこといった女性作家たちの極めて良質な作品についても言及しておきたい。特に津野裕子は最末期のガロに、寡作ながら優れた作品を残した作家で、機会があればぜひ一読をお勧めします。
・その他、この10選に選ぶには及ばないけれど間違いなくその人にしか描き得ない作品を残し、ガロという媒体がなければ目にすることもなかったであろう作家たちについても、その名をリスペクトしておきたい。淀川さんぽ、とま雅和、谷弘兒、三橋乙耶、菅野修、等々……。
・90年代ガロは文章ページが(文章ページのほうが……)充実してた感があり、呉智英や四方田犬彦など結構な面々が連載していた。
・投稿ページの「4コマガロ」も相当(雑誌のカラー的な意味で)レベルが高く、ここ出身の有名作家が福満しげゆき。
・同時期にやっていた「ガロ名作劇場」という好企画があって、90年代前半時点では入手困難だった作家を含め、ガロ出身の名作家を回顧的に紹介してくれた。林静一「まっかっかロック」なんてものすごい衝撃受けたし、楠正平や勝又進なんてこんなことでもなければまず読むことができなかった作家だったと思う。
・ねこぢるはやはり入れるべきだったかなーという迷いは今でもあり、代わりに削るとすればペンギンごはんか鈴木翁二か。リアタイ勢だったんだけど初読の際の衝撃は今でも覚えていて、90年代サブカル的にはわりとよくあった「無邪気な残酷さ」が普遍性を持ち得た希有な例だったんじゃないかと思う。(その点では山田花子には自分は少々点が辛い)
・>ビレヴァンいけば売ってる? >なんか漫画系のサブスクはこういうのの乗っかってどんどんセット売りとかして欲しいよな。
これは本当にそう思うところで、ガロの名作群はとにかく作品へのリーチが困難。古川益三の作品なんてマジで読めないし古書には衝撃的な値が付いてたりする。電書にするにしたってタダじゃないのは分かってるけど、なんとかならんかな。
・>「ガロ」はフォロワー・影響度では計れない作家作品が多すぎて。簡単に真似されるような作品はガロ的ではないとも言えるし
これも本当に同感で、孤立峰みたいな作家が多すぎるんだよなー。熱を込めて語られるけれど模倣はされない、って、表現としてはすごいことなんだけど。
この状況に対処するためには、論理的なアプローチを用いることが効果的です。「間違いであると証明できないなら正しいと考えるべき」という主張は、一般に「証明の責任の転換(burden of proof)」や「無知に訴える論証(argument from ignorance)」と呼ばれる誤謬に該当します。この誤謬に基づく議論に対して、次のような方法で反論することができます。
• 一般的なルールとして、ある主張がなされる場合、主張した側がその主張を証明する責任を負います。根拠がない主張については、その正しさを示すのは主張者側の役割であり、「間違いであると証明できない」ということだけで正しいとするのは論理的に不十分です。
2. 無知に訴える論証の指摘
• 「間違いであると証明できないなら正しい」という論法は、「無知に訴える論証」として認識されています。これは、あることが反証されていないからといって、それが真実であると結論付けるのは誤りです。このような論法は、科学や論理の基本的な原則に反しており、検証が不可能な主張を真実と見なすことができません。
• その主張に対して対立する仮説を提示し、それもまた「間違いであると証明できない」ことを示すことで、相手の論理がどれほど根拠に欠けているかを明らかにします。これにより、証明できないことをもって真実とする考え方の不合理性を浮き彫りにできます。
• 相手の主張に対して、証明できない事柄を正しいと考えるのであれば、他の多くの事柄も同様に正しいと見なされてしまう可能性があることを示します。これにより、その論理がどのように無限に続いてしまうかを指摘し、主張の不合理さを強調します。
例えば、「宇宙人が存在しないことを証明できないから、宇宙人は存在する」と主張された場合、以下のように反論できます:
• 宇宙人の存在を証明できないことが、その存在を証明する理由にはならない。
• 「存在しないことを証明できない」ことを理由に宇宙人の存在を信じるなら、同じ論理で多くの他の未証明の事柄も信じざるを得なくなる。
そろそろ戦後80年にもなるし「軍隊らしさ」をアップデートしよう
まずもって軍は役所で軍人は公務員です。何をしていいかはすべて規則に定められています。
その原則がほとんど守られず、士官学校も出ていなければ戦時国際法もわかってない有象無象が大量にいたのが日本軍です。
そろそろ忘れましょう。
アメリカ軍で士官として入隊した場合、その生涯の半分が教育期間になります(司令クラスになるとちょっと話が変わる)
軍では職種の変更に際して必ず専門の軍学校かカリキュラムに入ります。
歩兵士官として初等教育を受け、昇進するにも転科するにも必ず学びなおしです。
ちなみに自分で手を挙げて脇道にそれることも可能で、空挺降下やレンジャーの資格を取りに行く士官もいます。
「戦闘機のパイロットは士官しかなれない」という原則があります(艦長や戦車長も同じ)
これは司令部から孤立した状況において、他人を殺害してもよいという判断を下せるのが士官以上に限るからです。
(士官は戦時国際法や国内法、軍の規則について学んでいるため)
軍では全ての責任が指揮命令者にあります(もちろん個別の犯罪行為は別として)
兵隊は自己判断で発砲すらできません(とはいえ撃たれたら撃ち返してよい:レギュレーションあり)
1. リベラルでない者・リベラル公認マイノリティ以外(例:九州人やアラブ人)に対する差別は正しい批判の一種であり、「逆差別」などと批判するのは論外である。(Yes / No)
2.ルッキズム(外見差別)、エイジズム(年齢差別)、学歴差別、職業差別等は女性に向けてはいけないものだが、男性・リベラルでない者に向けるのはカウンターとして正しい。(Yes / No)
3.リベラルの誤謬や矛盾を指摘する不届きものはすべてネトウヨなので、どのような詭弁、嘘、差別的な人格攻撃を用いても絶対否定し、ときには集団的自衛権を行使して殲滅すべきだ。(Yes / No)
4.欧米のリベラルヴィーガンが言ってることはすべて正しいので、それがたとえ日本の差別史的には部落差別に当たるものでも、精肉業者への侮蔑、攻撃には黙認しなければならない。(Yes / No)
5.科学的根拠より、ツイッターの多数派のエビデンス🍤の方が正しいので、すべてアップデートすべきだ。(Yes / No)
6.正しい「リベラル」がネトウヨと比較されるような行動を取ることはないので、例え一部であれ「リベラル」がネトウヨと同じ欠点を抱えているとする批判、「左のネトウヨ」などの形容はすべて論理矛盾であり、正義を妨害するための詭弁である。(Yes / No)
7.八丈島に行かないと会えない小池さんより、渋谷に行けば会える蓮舫さん。(Yes / No)
8.リベラル側の冷笑はシニカルなユーモアだが、リベラルやリベラル公認マイノリティに対する冷笑は悪質な差別煽動である。(Yes / No)
9.LGBT+のいずれかの要素が含まれている場合は、どんなえげつないプレイや行為であっても全肯定すべきである。無断でトイレや銭湯をハッテン場にしてヤり合っていても、それを批判するのは差別である。(Yes / No)
10.リベラルの思う女性像に合致しない女性は総じて『名誉男性』であり、差別しても問題無い。(Yes / No)
11.リベラル側の意見は全て正しく、嘘であるはずがない為、ファクトチェックの対象とすべきで無い。よって政権に対する批判を「デマ」だとするXのコミュニティノートやリトマスなどのファクトチェックメディアは敵である。(Yes / No)
これまで、帝大卒はたくさんいたけど、東大卒総理は鳩山だけ。一方で1925年以降生まれの早稲田卒総理は6人(海部、福田康夫、小渕、森、野田、岸田)、慶應は二人(橋龍と小泉)である。
東大卒は官僚として国を率いるもので、総理大臣になんかならない、という意識があったかもしれない。
そんな中、今回総裁選に出ていた候補は、上川、加藤、茂木、林、小林と半数以上が東大卒、しかもそのうち4人がハーバードに留学している超学歴エリートだった。なんか意外じゃない?私は意外。
ところで東大組(とか医学部組)はわかる通り、本当に重要な学歴マウンティング情報は出身高校に隠れている。なんか実は同じ高校組でつるんでたりすんのよ。そこでこの5人(+断念した斉藤健)の出身高校を見なければならない。偏差値はこちらの合格確実ライン。掲載のない高校は?とした。たとえば雙葉学園系は高校募集がないと思う。あとは、数字がある高校より偏差値が高いということはない。
候補者 | 出身高校 | 偏差値 | 第一回投票 |
---|---|---|---|
林芳正 | 下関西高校 | ? | 65 |
小林鷹之 | 開成 | 69 | 60 |
茂木敏充 | 足利高校 | ? | 47 |
上川陽子 | 静岡雙葉高等学校 | ? | 40 |
加藤勝信 | 都立大泉 | ? | 22 |
斎藤健 | 筑駒 | 72 | -- |
みんないろんなところから東大に行っているのである。必ずしも県下最上位高と言うわけでもないよ。中学入試至上主義の誤謬がよくわかる表だ。
これまでは、偉い政治家と学歴の相関はかなり悪かったと思うが、このように相関が出てきているところ、それでもなお有名中高出身者は少ないのである。小中はみんなのびのびと学び、スポーツし、楽器を奏で、プログラミングをした方がいいね。
ところで高校視点では、推薦人集められなかった斎藤サンが最高学歴であった。とはいえ高校入学組である。筑駒(もしくは灘)の中学入学組がわが国の学歴の頂点であることは論を俟たないため、このグループの総裁候補の出現が望まれる。もしくは中学入試なんて役立たねえよ、って社会に向けて発信してほしい。笑。
候補者 | 出身高校 | 偏差値 | 第一回投票 |
---|---|---|---|
高市早苗 | 畝傍高校 | 52 | 181 |
石破茂 | 鳥取西高校 | ? | 154 |
小泉進次郎 | 関東学院六浦高校 | ? | 136 |
河野太郎 | 慶應義塾高 | 64 | 30 |
野田聖子 | 田園調布雙葉高校(中退) | ? | -- |
どう見てもこちらの方が大物揃いで、得票数も桁がちがう。よ〜するに、東大卒が5人いたけど、上3人は非東大、っていう総裁選だったわけです。唯一有名校の河野さんはボロボロだったし。
大学まで見たって、やっぱり学歴なんかじゃない、と言うことか。やっぱり本当の学歴エリートは総理大臣なんて目指さないのか。それとも、東大卒なら小物でも総裁選出馬までいけるという意味なのか。皆さんはどう思いますか。
今回は人数が多かったおかげで、学歴厨にはおもろい総裁選でございました。統計見るにはサンプル数が多いに限る。私が学歴至上主義かどうかは皆さんにお任せします。
なので、君はそのレスを一生懸命考えたかもしんないけど、それ藁人形論法っていうの。
あのな、合成の誤謬が何なのかなんてググったら分かるんだよ。その指摘内容だったら「根拠が薄弱で主観が強すぎる」で済むことを気取るなよ。
失われた30年が個人貯蓄の肥大化だけにあると思っているのか?と捉えられるぞ。普通、この文脈では個人貯蓄がデカいのは失われた30年の「結果」として扱うだろ
>例えば、ある個人が貯蓄や節約に励むと、その人の資産が増えるという効果があるが、国民全員が貯蓄や節約志向になると、国全体の消費が減退し、国民の総所得が減ってしまう。個々人が正しいと思ってとった行動が、みんなが同じ行動をとることで社会的な状況を悪化させてしまうこと。
・根拠が薄弱とも言ってないんよ。
https://anond.hatelabo.jp/20240927135548
ここでは、①②をそれぞれ根拠として一旦正しいと認めたとしても、その根拠から③という結論は導けないって言ってんの。
この程度の論理を、ググっても、説明受けても理解できないのだから、まともな仕事論の本を読みこなすなんて出来っこないんで、元記事のような主張をするのも無理からぬことだな。
根拠の提示が不要なくらいの単純な誤謬に気付けずに自分の偏見を盛大に開陳してる人が、誤謬を指摘されてさらに謎の説教を垂れ始めるの笑える。ていねいに解説されてもなお、それに対してひと昔前のbotのように同じお返事しかないし。
覚えたてのことばを使えてうれしいな?今度からチラシの裏に書いてくれよ
それと、老婆心ながらアドバイスをすると「寸鉄人を刺す」という美意識は立派なものだが、借り物の新語を根拠を示さずに見せるだけの行為というのは自閉症スペクトラムの端から社会へのSOSを送っているに等しく、何らかの福祉、ないし、医療機関へ相談をしてみると人生が前に進むぞ
分割の誤謬 (fallacy of division)
「全体が X だから、ある部分も X 」という議論を、分割の誤謬という。
たとえば、「日本人は一般に勤勉だから、日本人 A さんも勤勉なはずだ」とか、「言論の
自由は保証されている。だから人の誹謗中傷も保証されている」とかいった議論は、分割
の誤謬に当たる。
分割の誤謬 (fallacy of division)
A「○○国のGDPは高い。だから○○国民は経済的に豊かだ。」 これは「全体がXだから、ある部分もX」という議論で、分割の誤謬と呼ばれる。合成の誤謬とは逆のパターンの詭弁。Aの発言は「Bさんはカレーライスが大好物だ。だからニンジンやジャガイモや米やカレー粉をそのまま与えても喜んで食べるだろう」と論理構造が等しい。
https://www.weblio.jp/content/%E5%88%86%E5%89%B2%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC
君は
①"「仕事論」なんてぶちだすのはみんな45歳かそこらのオッサン〜70歳のクソジジイです。"
②"そして、進歩し続ける資本主義国家としての大前提である「成長」は30年間サボられてます。"
という主張から
③"つまり、45歳以上の人間の「仕事」ってすべて間違っているんです。経済的には。"とか"日本においては「仕事論」はすべて間違ってますよ!w"
という主張を導き出しているね。
けれど、全体の傾向が①②だったとしても、だからといって"45歳以上の人間の「仕事」ってすべて間違っているんです。経済的には。""日本においては「仕事論」はすべて間違ってますよ!w"とはならない。
「仕事論」なんてぶちだすのはみんな45歳かそこらのオッサン〜70歳のクソジジイです。
そして、進歩し続ける資本主義国家としての大前提である「成長」は30年間サボられてます。
つまり、45歳以上の人間の「仕事」ってすべて間違っているんです。経済的には。そんな奴らの「論」なんか聞くなwバカすぎんだろ何が「失われた30年」だwwお前がサボった30年だろうがwwww
ほいで、もうそろそろ社会を動かすことになる30代の奴らは物価と賃金が上昇するものだという認識がない。となると「成長」しない。無い概念に意識的に向かって行くことはできない。もう、酔歩で総当たりで2026年における「成長」をどう成すのか探すしかない。2024年の日本の30代は、実質的な本邦最初の人類といえる。
みんな気を遣って言ってないから言うけども
まず「論理的だ」と自称する人が多用するのは他者を批判し、無知であるかのように見せかける戦略である。
彼らは議論の場で冷静かつ理路整然とした態度をとり相手の感情や状況を無視して、自分の主張を押し通そうとする。
その結果相手は不快感を覚え、自分の意見が無価値であると感じることが多い。
こうした行為は論理的思考とは無縁であり、むしろ他者を傷つけることで自分の優位性を示そうとする性格の悪さを反映している。
さらに「論理的だ」と自称する人は自分の感情を抑圧し、他者に対しても感情を無視するよう強要することがある。
感情を論理の敵として扱いすべての問題を冷徹に解決しようとする。
しかし人間関係や社会的な問題は感情が大きく関与しているものであり、それを無視することは現実を無視することに等しい。
感情を排除した論理はただの冷酷な行為の正当化に過ぎず、その背後には他者への共感や理解を欠く性格の悪さが潜んでいる。
また、彼らは自分の論理が絶対的な正義であると信じて疑わないことが多い。
この信念に基づいて他者の意見や価値観を否定し、自分の考えを押し付ける。
論理は本来柔軟であり異なる視点や価値観を取り入れて成長するものだが、彼らにとって論理は自己中心的な道具であり、他者を支配するための手段に過ぎない。
このような態度は単なる性格の悪さから来るものであり、真の論理的思考とはかけ離れている。
彼らの行動は、他者を批判し、感情を無視し、自分の意見を押し付けることである。
論理的であることを誇示する前に他者への共感や理解を持つことがより重要であることは、言うまでもない。
「論理的だ」と自称する人々がしばしば使用する誤謬は、古代ギリシャのソフィストたちが用いた技巧と驚くほど似ている。
ソフィストたちは論理的に見える議論を構築することで相手を説得し、勝利を収めることを目的としていたが、その手法はしばしば実質的な真実や倫理を無視し表面的な論理だけに依存していた。
現代においても、「論理的だ」と自称する人々が同様の手法を用いることが多い。
彼らは、自己の主張を支持するために論理的誤謬を巧妙に組み込むことがある。
たとえば、相手の主張を歪曲して攻撃する「藁人形論法」や、証拠や論理に欠けた結論を出す「滑り坂論」などがその一例である。これらの誤謬は表面的には論理的に見えるが、実際には正確な推論ではない。
ソフィストたちのように、これらの自称「論理的」な人々は、自分の議論を正当化するために論理を武器として使う。
しかし、彼らの目的は真実の探求ではなく、相手を打ち負かし、自分が優位に立つことにある。これは、ソフィストたちが依拠していた「エリスティケー(eristiké)」と呼ばれる、勝利を目的とした議論の技術と非常に似ている。
さらに、彼らは自らの主張を絶対視し、他者の反論を無視したり、軽視したりする傾向がある。これは、ソフィストたちが自らの知識を絶対的なものとして売り込み、他者を教え導く存在として振る舞っていたこととも重なる。このような態度は、論理的な思考というよりは、むしろ権威主義的であり、自己中心的な性格の表れと言える。
しかし、ソフィストたちの手法が古代ギリシャの知的活動において一部の人々にとって有用であったように、現代においてもこれらの誤謬的な議論は一見効果的に見えることがある。
それでも、こうした誤謬に依存することは、最終的には自分自身を欺くことに繋がる。論理的であると自称するならば、その論理が真に正確で公正であることを確認することが重要であり、それを怠れば単にソフィスト的な詭弁に過ぎなくなる。
結局、「論理的だ」と自称する人々が使用する誤謬は、古代のソフィストたちと同様、見かけ上の論理に過ぎず、真の意味での論理的思考とは大きく異なるものである。彼らが追求すべきは、他者を打ち負かすことではなく、真実を明らかにするための誠実で公正な議論であるべきだ。
「論理的だ」と自称する者たちが用いる詭弁に対する対策は、まるで闇の魔術に対する防衛術を学ぶかのように慎重であるべきだ。
彼らの誤謬的な論法は表面的には魅力的で説得力があるように見えるが、正しい知識と洞察を持って対処すれば、その魔術は容易に無効化される。
まず論理的誤謬を見破るための知識を身につけることが重要である。相手が「藁人形論法」や「滑り坂論」のような誤謬を用いている場合それを即座に認識し、その不正確さを冷静に指摘することが防衛の第一歩となる。
これは、まるで闇の呪文を逆に唱えて無効化するかのような行為だ。
次に、感情や倫理を無視されないように自分の立場を守ることが肝要だ。論理は冷徹であるべきだと信じる彼らに対して、感情や倫理もまた論理の一部であり、それを排除することの危険性を指摘することが重要である。これは、闇の魔術の冷たさを温かな光で照らし出す行為に他ならない。
さらに、議論の目的を見失わないことが必要だ。相手がソフィスト的な手法で自分の論理を押し通そうとする際、こちらも勝利を求めるのではなく、真実や理解の追求を目指すことが求められる。これは、防衛術の究極の形であり、闇の魔術を無力化する最も強力な手段となるだろう。
こうした防衛術を身につけることでその魔術に惑わされることなく健全な議論を続けることができる。罪を憎んで人を憎まずとも言うか。
論理は武器にも盾にもなり得るが、その使い方次第で人を傷つけることも守ることもできる。
冷たさと強さを兼ね備えたスリザリンの特質を持つ者は時にその論理を自己中心的に用いるかもしれない。だが、真に賢い者は論理の裏にある温かな光を見失うことがない。
我々が目指すべきは感情と理性が調和した真の論理的思考である。
しかしこれはスリザリンに向けたスリザリンからのメッセージである。
闇を学ぶとき、我々もまた闇に飲まれかねないことに注意しなければならない。我々は、気を付けなければならない。我々は、心を忘れてはならない。
おわかりかな?
痩せたいからとにかく走って飯を減らす!
売上を上げたいからとにかく片っ端から営業かけて熱意を伝える!
小手先のテクニックなんかよりも根性で乗り越えるのが大事!みたいな。
一般的に良しとされない根性論っていうのはそういうのを指してるんだと思う。
目的に早く辿り着きたい気持ちが先行するあまり、実現に向けた具体的な方法論の効率性が軽視されてるっていう。
苦労は必ず報われるっていう誤謬めいた感覚がドグマ化して、他人にまで押し付けるようになる。それはまあ好ましくはないと思う。
痩せたいのならまず身体の仕組みを知って、その法則に則ってより効率的な痩せ方を研究して実践すれば良い。
そういう情報も今は体系化されてるのだから、自分で編み出すよりもYoutubeなりで調べればなお効率的。
でもそれって方法論の話でしかなくて、じゃあそれを実践するやる気が湧かなかった時はどうすんねんっていう。そこは結局根性の問題であって、どうやってそのやる気をロジカルに調達出来ますのんっていう。もっと言えば実践以前に効率的な手法を探るのだってやる気は要るし。
気合いがなければ気合いで捻り出すんだよ!というトートロージーめいた対策では話にならない。
じゃあ根性論ではなくロジカルな対策としては、適度な運動をするなり規則的な生活を送るなりして、健康的な身体を作ることが医学的な理屈からして効果的なのかもしれない。メンタルクリニックに行けば助言も得られるかもしれない。
でもそれをやる気力はどこから湧いてくんねんっていう。
根性だけではどうにもならないかもしれないけど、根性がなければお話にならない。
メンタルヘルスって、気合いがなければ気合いで気合いを引き出すというトンチの克服に直面してる気がする。歪な社会構造がどうのこうのという以前に。
別に心療内科へ行けばどうこうなるってもんでもないし、カウンセリングや薬で根性がモリモリ湧いてくるのなら社会問題になってもいないと思う。
1. リベラルでない者・リベラル公認マイノリティ以外(例:九州人やアラブ人)に対する差別は正しい批判の一種であり、「逆差別」などと批判するのは論外である。(Yes / No)
2.ルッキズム(外見差別)、エイジズム(年齢差別)、学歴差別、職業差別等は女性に向けてはいけないものだが、男性・リベラルでない者に向けるのはカウンターとして正しい。(Yes / No)
3.リベラルの誤謬や矛盾を指摘する不届きものはすべてネトウヨなので、どのような詭弁、嘘、差別的な人格攻撃を用いても絶対否定し、ときには集団的自衛権を行使して殲滅すべきだ。(Yes / No)
4.欧米のリベラルヴィーガンが言ってることはすべて正しいので、それがたとえ日本の差別史的には部落差別に当たるものでも、精肉業者への侮蔑、攻撃には黙認しなければならない。(Yes / No)
5.科学的根拠より、ツイッターの多数派のエビデンス🍤の方が正しいので、すべてアップデートすべきだ。(Yes / No)
6.正しい「リベラル」がネトウヨと比較されるような行動を取ることはないので、例え一部であれ「リベラル」がネトウヨと同じ欠点を抱えているとする批判、「左のネトウヨ」などの形容はすべて論理矛盾であり、正義を妨害するための詭弁である。(Yes / No)
7.八丈島に行かないと会えない小池さんより、渋谷に行けば会える蓮舫さん。(Yes / No)
8.リベラル側の冷笑はシニカルなユーモアだが、リベラルやリベラル公認マイノリティに対する冷笑は悪質な差別煽動である。(Yes / No)
9.LGBT+のいずれかの要素が含まれている場合は、どんなえげつないプレイや行為であっても全肯定すべきである。無断でトイレや銭湯をハッテン場にしてヤり合っていても、それを批判するのは差別である。(Yes / No)
10.リベラルの思う女性像に合致しない女性は総じて『名誉男性』であり、差別しても問題無い。(Yes / No)
11.リベラル側の意見は全て正しく、嘘であるはずがない為、ファクトチェックの対象とすべきで無い。よって政権に対する批判を「デマ」だとするXのコミュニティノートやリトマスなどのファクトチェックメディアは敵である。(Yes / No)