はてなキーワード: 西日本とは
・「児童・学生時代に教師が日教組だった(せいでなんらかの不利益を被った)」
・「○○(思想・信条的な何か)をしたら職員室に呼び出された」
というたぐいの話が広く出回っている。これらの話には大体、平和教育、人権・道徳教育、同和教育への批判的見解が含まれているようだ。
組み合わせて例えてみれば、「平和教育の時間に日教組の教師が反自衛隊的な講話をした。それに対して冷静に反論する感想文を書いたら職員室に呼び出された」みたいな話だ(あくまで例えである)。
別の例を挙げれば、「人権 本物はやたらに言わない」と描かれた人権ポスターと、それを描いたとされる小学生のエピソードが、たびたびなにかの機知のように出回っている。(参考:https://twitter.com/PatriotNewsJPN/status/170058241861103616)
あるいは、別に「放送委員として給食の時間に彰晃マーチを流したら職員室に呼び出された」みたいなものもその一種かも知れない。単に流行に乗ったのかそれともオウム真理教に対する何らかの確固たる意志があったかは分けられるだろうが。
私は90年代後半~0年代に、関東の一都市の公立学校で義務教育を過ごしたが、
教師が日教組であるとかそうでないとかを意識したことはないし、
あるいは何か「大人の建前に都合の悪い」ことをして職員室に呼び出された経験や、それを見聞きしたこともない。
(子どもらしい単純な悪戯や、非行、それに対する指導などは見聞きしたことはあるし、理不尽な教師の思い出もいろいろあるが)
もちろん、年代や、日教組の組織率など地域的な差はあるだろう。(一般的に東日本より西日本の方がその様な教育に熱心と言われているようだ)
しかし、そんなに、一言で言えば、アグレッシブな対立がしょっちゅう存在するのだろうか。
特に大きな疑問として「職員室に呼び出された」という話の場合、その職員室に呼び出された後の話がほとんど見受けられないのである。
それほど思い出に残る、思想的な挑戦の末に職員室に呼び出されたのなら、その職員室での対面の場で何か大きな教訓とでもいうべき体験がありそうなものだが。
2014年、横浜の中学生が、修学旅行先の長崎で、平和教育を行っていたガイドの被曝者に対し「死にぞこない」と暴言を吐いたという事件がある。(参考:https://hi-hyou.com/archives/1193)
これは学校という閉じた空間ではなく、学校外に向けて起きた事件といえるが、ネット上で見られるエピソードには当然これ程のインパクトがないし、裏付けもない。
普通のいたずらや非行とも違う、早熟ともいえる思想的対立を経て、「教師が日教組である」と喝破したり、平和教育などへの批判的精神を表明したはずの人々は、実際何を得たのだろうか。
もし、なにか、「担任教師が日教組だったから~」「(社会的・歴史的な何かについて)〇〇したら職員室に呼び出された~」といったエピソードを経験した(起こした)り、それについて見聞きした方がいたら、ぜひ反応を頂きたい。
できれば、大まかでよいので地方・年代とその時の歳・公立か私立か・職員室なり説教なりの対立で何が起きたのかなど、当時の環境も添えてほしい。
その他気になったところを Wikipedia からピックアップしてみたよ
8月22日 - 日本電信電話(現NTT東日本・西日本)がテレホーダイサービスを開始。
4月19日 - 東京外国為替市場で1ドル=79.75円の1947年以来 [1] の高値を記録[4]。2011年3月16日に破られた。
7月1日 - 札幌・東京地区を皮切りにPHSサービス営業開始。
7月30日 - 八王子スーパー強盗殺人事件が発生[3]。女性店員3人が殺害される。2024年時点で犯人は逮捕されておらず、未解決となっている。
11月1日 - お台場を走るゆりかもめの一部(新橋 - 有明)が開業。
11月1日 - 東京都の独立UHF放送局であるMXテレビ(現:TOKYO MX)が開局。
12月8日 - 高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故が発生。
プリント倶楽部発売。
浜松が栄えてるのは、東海道の大きな宿場町だった、ってことも結構大きそうに思うわ
なるほど。古くから栄えてる街が現代でもそのままというのは知ってたけど、厚木や浜松もそうだったのは知らなかった。
そりゃ明治以降近代化していく際に、どこに道路を通したり駅作ったりするかって考えたらその時栄えてるところにするに決まってるから、当然の結果でそうなったんだろうな。
逆に言えば、近代になって新しく要所として確立することに成功した街は全然無いということなのかもなあ。残念ながら…。
俺はあまりの酷さに耐えられず車手放した
というか千葉、全体的にやる気が感じられないんだよな。
成田空港と総武線沿線の一部があるからそれで十分ですわ。あとは千葉ニュータウンとか幕張とか流山とかを東京のベッドタウンにしてやっていきますわ。
今回の地震でなんかズレてること書いてる「専門家」の方々に良く見られる特徴。
そもそも能登半島っていうのは「いざとなったらバックアップが動き出すのではなく、むしろ切り捨てられて終わるような地域」なんだよ。
対して阪神淡路とかってのは「西日本の主要地域として、いざという時には機能を他でバックアップしないと日本経済が麻痺する地域」でしょ?
国民一人一人の生活を支えるために全ての地域にバックアップをちゃんと用意するべきっていうスーパービッグな政府として日本は機能していなくて、民間の経済活動的な都合により「都会ほど予備がある」「田舎は滅んだら終わり」となっている部分が大きい。
この違いによって生じる様々な部分を無視して「大きな地震」として一纏めにして全てを語ってる人はちょっとヤバいね。
解像度が低すぎるよ。
味噌汁って何かと日本人の心の原風景、「おふくろの味」呼ばわりされているけど、正直いってマズいよね。
スープなら中華スープとか洋食のコンソメスープ、ポタージュスープの方がおいしい。
味噌を使ったスープなら味噌ラーメンのスープの方が圧倒的においしいよ。
日本料理だって高級な懐石料理ではすまし汁(お吸い物)が出てくる。お吸い物や西日本のうどんの汁はとても美味しい。でも
一般家庭の家庭料理で出てくるあのドロっとした味噌汁、何が良いのか理解できない。
(追記)
なんか勘違いしてる人が多いから書いておくけど、「ドロっとした」っていうのは粘度のことじゃないんだよ。味がドロっとしてるの。あとこれは俺の実家だけの話じゃない。他のご家庭のお味噌汁を頂いたこともあるけど、やはりドロっとした味で美味しくない。もちろん、そういう本音は口に出さず「おいしです!」と言ったけどね。インスタント味噌汁を勧めている人もいるが、インスタント味噌汁も美味しいとは思わない。定食屋の味噌汁は悪くないかもしれないけれど、定食にはやはり中華スープの方が合う。だから定食は定食屋より町中華で食う。
要するに「味噌汁こそ日本人の心のふるさとだ」みたいな考え方が嫌なんだな。
ちなみに、日本の伝統的家庭料理は健康的だと一般に思われているけど、実際は塩分過多であり、健康を考えると味噌汁は飲まず、代わりに食事中は茶や白湯を飲む方が健康に良いことが多くの医師によって指摘されているよ。
小中ともに公立。わりと礼儀正しい(?)子が多くて荒れている様子は無かった。男子たちは休み時間に将棋とかしてた。県庁所在地の中心部の学校(西日本の地方)。自分の学年は半分近くが私立の中高一貫校に進学。公立中学で一緒になる隣の小学校が荒れている学校だったから中学は普通にヤンキーがいて少しビビった。そこの小学校は飲み屋街が学区だから夜職のシンママ率が高かったんだよね。
性加害うんねんは当事者たちが法廷で決着を付ければいいと思うが、気になるのは松本人志の笑いがいじめを肯定する笑いだという意見だ。
正直、理解ができない。自分の知っている松本人志とは別の誰かの話しているかとすら思った。
まったく逆だろう。
ダウンタウンの笑いとは、いじめられている人間の放つ蟷螂の斧である。
個人的には、笑いを「いじめる側の愉悦」から「いじめられる側の反撃」に変えたのが松本人志の最大の功績だと思っているぐらいなのに。
おそらく、ダウンタウンをいじめの笑いと思っている人は若い人が多いのだと思われる。その人たちにとって、ダウンタウンは物心ついたときから大御所で、昔のダウンタウンを知らないんだろうなと思う。
私が若いころ、とんねるずは嫌いだったがダウンタウンは好きだった。それはとんねるずの笑いが「いじめる人間・人生の勝者」の笑いだったのに対して、ダウンタウンのそれは「いじめられる人間・世界に居場所のない人間」の笑いだったからだ。
ダウンタウンの笑いを構成する元素は「根暗、貧乏、田舎者、友達がいない、喧嘩が弱い、勉強ができない、ブランド品を知らない、ダサい、舌馬鹿」等である。これはとんねるずとは真逆の属性であった。
ダウンタウンの笑いは、虐げられた人、世間に馴染めない人間が世間を下から見ることによって生じる笑いである。
これは言い換えればオタクの笑いである。今でこそオタク系の笑いは珍しくないが、当時は画期的だったのである(それこそダウンタウンの影響で普通になった)。
ダウンタウンがあっという間に天下を取ったのはいじめ系の笑いに対するアンチテーゼとして世間を馴染めない人間に圧倒的な支持を受けたからだった。これは若い人には信じられないかもしれないが、当時の空気感を知っている人、特にダウンタウンが東京進出してきたころに学生だった人であれば首肯いただけるかと思う。
(「笑っていいとも」レギュラーだったころの松本は、東京に馴染めず、友達がいなくて、髪はズラ、というキャラだったのを不意に思い出した)
当時はとんねるずに限らず、「おれたちひょうきん族」や山田邦子、森脇健児など陽キャの笑い、いじめの笑いが普通だった。
「明るくノリのいい奴こそ偉い、正しい。いじめる側に回れる奴が成功者」という風潮への反抗の旗手がダウンタウンであった。
松本は「俺は根暗」「根暗のほうがお笑いに向いている」と言い続けた。
松本だけではない。浜田の傍若無人もただの暴力キャラではなく、あくまで「何も持っていない若者が権威に噛みつく」キャラだった。
甲本ヒロトのように「ダウンタウンに救われた」という人がいるのは、こういう背景によるものである。
甲本に限らず、現在40代~50代ぐらいの人の中には、ダウンタウンのおかげで勇気づけられた、元気が出たと言っている人間は多い。
ここらへんのことは若い世代にも、もうちょっと知られていいことだと思う。
実際、当時のダウンタウンの影響というのはすごいもんで、全国の男子学生が松本や浜田のノリを真似していた。
もちろん、そいつらのほとんどはただの劣化品で、ダウンタウンのエレジーは理解していなかったため、ダウンタウンへの誤解が生じる原因にもなっているのであるが、なにはともあれ凄いブームであった。
今や陰キャ系の笑いは芸能界に限らずエンタメ全般に進出している。M-1などを見ても間漫才コンビのネタ作り担当は根暗そうな人間が多い。こういった一連の流れに大きな影響を与えたのがダウンタウンであることは間違いない。
もし、ダウンタウンがいなかったら、今のお笑い界の形も、エンタメもまったく違ったものになっていただろう。
いじめ・いじり、内輪受け、体育会系の部活ノリ、のひょうきん族、とんねるず系統の笑いからの脱却は、むしろダウンタウンよってもたらされたものである。
そして、「世間を下から見る」松本のスタンスは年取ってからも、そんなに大きくは変わっていないと私は思う。
ただ、ダウンタウンというネームは大きくなりすぎた。松本も『遺書』で書いているが、権威を笑う側が権威になってしまった。正直、こうなってしまってはダウンタウンが何をやってもいじめに見えるという人が出てくるのも仕方ないところである。
松本も芸能界に長く居すぎたのかもしれない。彼自身が若いころに言っていたとおり、老いる前に引退すべきだったのかもしれない。そうすれば、「ダウンタウンの笑いはいじめの笑い」などという真逆の受け取り方をされることもなかっただろう。退き時というものは難しい。
さて、長々と松本人志の笑いについて書いてきたが、私の文章を読んでも若い人にはいまいち伝わらないと思うので、実際にダウンタウンの笑いを見てみてほしい。
違法視聴なので大っぴらには言えないけれど、Youtubeで「ごっつええ感じ」「松本人志 コント」などで検索してみるといろいろ出てくる。
お見舞い、思春期、ストリッパー物語、トムとマイク、おかんとマー君、ガタンゴトン、西日本番長地図、記者会見、挑戦者、豆、日本の匠を訪ねて、悪魔、あざみ、くさや団子虫、しょうた、いかがです、ザ・バイオハンター、サラリーマンツアーズなどがおすすめだ。
これらを見ているとうすた京介をはじめとする00年代に出てきたギャグ漫画家がダウンタウンから非常に大きな影響を受けていることがわかる。
また、ピー助というコントは島袋光年がもっともお気に入りのコントだと述べているものなので、見てほしい。
Youtubeにはないもので一例をあげると「荒城の月」というコントがある。
便所の底に住む夫婦の話である。便所の底から上にある便器の穴を見上げると、便器の形に切り取られて蛍光灯の光が月のように見えるという話。「世間を下から見る」松本の世界観がよく表れている。
これらを見れば、ダウンタウンの笑いがいじめの笑いというの違うというのはわかるだろう。ここにあるのは弱者のペーソスである。
関東平野って本当に平野なんだなあ、と感心したのはいつのときだったか?
まだグーグルマップもなかった子供の頃、信長の野望がリアルな日本をマップとして採用したときだったっけ?
うわー、こんなに平地だらけで田んぼばっかり作れるのはチートやろと思ったときだったか。
よくもまあ、こんな土地を徳川家康みたいな外様にくれてやったもんだよな、みたいな感情もあったような気がする。
豊臣秀吉の政治感覚は京都を中心とした地域と西日本方面に向かいすぎていて、
関東というのは辺境である、という感覚が濃かったのかもしれない。
それは秀吉が信長の部下として西へ西へと進出していったことがひとつの要因かもしれない。
尾張を起点として、
信長の勃興期に奮闘し、
きっとその先、というものも身体感覚としてすでに持ち合わせていたのだろう。
高度な文明を持つ東アジア大陸文明へと近づいていくことの指向性をもっていたのだろう。
つまり秀吉にとって文化文明とは常に西に向かっていくことで獲得していくものだったのだ。
そのような感性の持ち主に関東というのは甚だしく辺境に感じられ、
日本国というものを正しく治めるためには最重要な地域とはいえ魅力を感じなかったのだろう。
辺境伯、というものが欧州にはあったらしいが、きっと秀吉は家康を辺境伯にでも任じた気持ちだったのだろうか?
しかし、辺境伯というものはやがて力をつけて中央の政権を取るものと相場は決まっている。
そのことを秀吉が知らなかったのは致し方ないことだが。