はてなキーワード: 被差別者とは
かなり遠い場所にある図書館の本をそこで取り寄せできるおかげでものすごく便利なんだが
その差別問題と直接的になんも関係ない自分がこの便利さを享受してるのはどういうことなのかと思う時がある
もちろんセンターの建設費は自分の払うわずかな税金が一部利用されており行政サービスの受益者であることからそこを利用するのは当然の権利なのだが
人権センターが出来たのは被差別民たちが差別に打ち勝った証でもあると同時に、そもそも差別がなければ人権センターは建てられなかった。
差別による不平等にも闘争にも全く直接的なかかわりのない自分にとっては自分のこの便利さと直接リンクしているのはむしろ差別問題が存在していたことになるのでは?
これが自分が被差別側であるとか、被差別者に連帯する活動をしてきただとかなら素直に戦いの成果として便利さを享受してもいいのかもしれないが……
その差別問題というのの本質としては、この国全体としてその差別問題の加害者的側面があって、自分もどちらかといえば積極的に被害者側にコミットして寄り添う活動などしていないので
話を聞けば同情心くらいは沸くがそれ以上のなにかをするまでに至るような関心は全く無いのだから間違いない。
自分の税金が使われておりサービスを利用する権利がある以上これからも利用する。
なんとなく矛盾と後ろめたさを感じながら。
「差別は解消されるべきです。
すべての人間は平等であり、人権は不可侵であるとする基本的な価値観からすれば、差別は不当であり、解消されるべきです。人種、性別、性的指向、宗教、障害などを理由に差別を受けることは、基本的人権の侵害です。
### 2. 社会的な影響
差別は、個人だけでなく社会全体にも悪影響を及ぼします。差別が存在する社会では、被差別者の生産性や幸福度が低下し、社会全体の経済的・社会的な発展が阻害されます。差別を解消することで、より公平で繁栄する社会が実現します。
### 3. 歴史的な教訓
歴史を通じて、多くの差別的な制度や慣行が廃止されてきました。奴隷制の廃止や女性の選挙権獲得など、これらの変革は差別の解消が正当であることを証明しています。過去の差別的な制度が是正されたことで、社会はより公正になりました。
倫理的には、他者を公平に扱うことが求められます。他者を差別することは不公正であり、道徳的に許容されるものではありません。倫理的な立場からも、差別は解消されるべきです。
### 5. 法的な観点
多くの国では、差別を禁止する法律が存在します。これらの法律は、差別が不当であり解消されるべきであるという社会的な合意を反映しています。法律に基づく社会秩序を維持するためにも、差別は解消されるべきです。
「意見」でしかねぇし、特定者を指し示さないと意味が分からんでしょ。
被差別者は差別された状況(不利益。感情を害するのは不利益ではない)が発生しない限り、被差別者ではないのが「基本的人権」がある市民なわけ。
だけど「特定の立場」に対しての「対立的な意見」は意見に過ぎず、それが差別的と思うのは被差別者であるというところに逃げ込んだだけ、って思えるけどね。
既に誰もが「基本的人権に基づき平等」である以上、「特定の立場」をアイデンティティにして「社会に」堅牢たる居場所(ゲーテッド)を作る行為やその立場への「対立意見」が出てくるのはむしろ「健全」でしょ?
(「特定の立場」をアイデンティティ化する自体が、俺は権威的だと思うので、基本は否定する。なんでコリアの歴史は是で、日本におけるジャップの歴史は非なんだよ、バーカ(笑))
それまで当たり前と思われていなかった権利を得るためには多少強引でも具体的な手段に出て問題化する必要がある。
その結果様々な権利が勝ち取られてきたのであって、決して事なかれ主義の、多数派に阿った穏健なフリーライダーによってではない。
・・・・と言う様な事を考えると、車椅子以外でも、表現の自由関連でも同じ事が言えるのでは?と思えてきた。
車椅子やその他差別関連の話題では過激な行動や時に誰かに迷惑や負担をかける行動、チキンレースともとれる「現在の限界にチャレンジし、限界を拡張しようとする」ような行動が称揚される一方、
何故かオタク関連、表現の自由関連(だけ?)ではその真逆、「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と言ったことが叫ばれる。
よくよく考えてみると不思議な事では?
いや、不思議ではないのかもしれない。
車椅子の件でも「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」という人は当の車椅子利用者の中からも出てきている。
そうした人々は一般に「保守的」だと言われるわけだけど、オタク達もまた特に最近は保守化していると言われる。
つまり、「チキンレースしないようにしよう」「なるべく目立たないようにしよう」というこれまでのオタク達の方針は、オタクの保守的な傾向の反映だったのでは?どちらも保守が言っているのだとすれば説明が付く。
もしそうだとするならば、そうした保守的な考えが間違っているとするなら「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」といった考えは保守的な誤りであり、
行動に出た車椅子利用者やその他の被差別者に対し、「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と言っていた保守主義者と根本が同じだという事になるのでは?
オタク内部にもそういう人は居たのだけど、それも車椅子利用者の中にもそういう穏健派が居た事を考えるとぴったり一致する。
権利を得るためには、多少現場に負担を与える行為や、他者(往々にして差別の加担者)にストレスをかける行為、美術品等に致命的ではない行為を仕掛けてパフォーマンスする行為等色々な事が現代では許容される。
だと、するなら、オタクが権利や表現の自由を得る為にも様々な行為が許容されるし、むしろそういった行為こそが必要だという事になる。
そしてそのような行動に出るオタク版ローザ・パークスに「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と批判する人々は、差別的な保守主義者という事になるのではなかろうか。
ブコメを見ていたら非常に色々な示唆に富んだ面白いブコメがトップに上がっていたのでサンプルとして取り上げてみたい。
どちらかというと「喫煙権」とかいう架空の人権に近いんじゃないかな。「喫煙権」は、公共の場所でタバコを吸うというチキンレースを繰り返した結果、多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑
「「喫煙権」とかいう架空の人権」というのがまず面白い。架空の人権、人権に架空と実在(?)があるのかというのがまず面白くて、全ての人権は架空と言う気もしなくもないけど、それ以上に
今回話題に挙げたようなローザ・パークスやその他車椅子等におけるアクションというのは「それまで認められていなかった人権」つまり「それまで架空だった人権」を架空でなくしたアクションだとも言える訳で、
その話題で「架空の人権」に対し冷笑的なコメントが支持を集めるという現象そのものが非常に面白い。
更に興味深いのは、このコメントがもし仮に件の車椅子の件やその他差別に対するアクションに対して付けられた物だとしても、多少の改変を加えれば実は実に「ありそう」なコメントになってしまう点。
いかにもな保守主義者が車椅子その他の権利を拡張するためのアクションに対し「「喫煙権」とかいう架空の人権に近い」「公共の場所でタバコを吸うというチキンレースを繰り返した結果、多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑」とコメントしている様を思い浮かべてみて欲しい。
この点で図らずも「オタク版ローザ・パークスに「チキンレースするな」と批判する人と、本物ローザ・パークスや車椅子利用者に「チキンレースするな」と批判する人がぴったり重なる」という本増田の主旨を見事に体現しているとも言える。非常に興味深い。
更には「多くの市民をガチギレさせて今この有様です笑」と、多くの市民=マジョリティがこうした人権の正否を握っていると臆面もなく主張していながら、ここまでスターを集めている点も評価したい。
そう、彼らによれば、車椅子利用者や障碍者、特定の人種や性別の人権は「多くの市民」が決定するものなのだ。
この増田で取り扱った人権や権利のためのアクションは、それまで存在しなかった権利を生成する、という時間的で動的な権利生成のプロセスである。
しかしながら多くの(往々にして保守的な)人々の頭のなかでは権利とは「既に今あるもので十分」であり、これ以上の変化を想定しない静的な構造である。
従ってそこでは「架空」と「実在」がいとも容易く区別され、だからこそ「「喫煙権」とかいう架空の人権」という言葉遣いが可能になる。彼らの脳内にはそれまでなかったような権利が生成するようなプロセス、つまりローザ・パークスが成し遂げたような事や、車椅子利用者たちが今まさに成し遂げようとしているような事ははなから存在しない、という訳だ。
悲しいかなこれはひとつの現実であり、このコメントが支持を集めたのはその現実をまさに見せつけている。その意味でこのコメントは非常に示唆的であり、ある意味で意義深い。
人々の頭の中に有るのは単に「どちらの味方か」「どちらの敵か」という至って単純な二項対立であり、
例えばハンセン氏病や数々の公害病、増田の言う「活動家」や一部の言う「マスゴミ」とやらが黙ってたらもっと早く、うまく解決できたなんて世界線
法律の制定が権利主張なしに良心に満ちた人々によって行われるとでも信じているのだろうか。大したお花畑。激しくない権利主張は現実として黙殺されるだけ。差別者が被差別者の大人しい主張に傾聴すると思うかい?
な?
典型的だろ?
過去の「人権がなかった」時代の過激な運動で「人権を認めさせた」事を以って
なんで同列に並べんの?
【今】殴ってる相手は、他人から人権奪ってせせら嗤ってるクズなのか?
それとも、リソースが足りなくてどうにもならない奴なのか?
もしかしたら、善意を搾取されてるのは叩いてる相手かも知れんぞ?
想像力がなさすぎるんだよ
正義に酔いすぎ
吐き気がするよ
文化の盗用ならぬ、活動家による手柄の横取りを礼賛する内容になっている。
「わきまえない人たちが敢えてコンフリクトを起こすことでマジョリティは不承不承マイノリティの要求に対応してきた。今日では皆がその積み重ねの恩恵に与っている」
それは本当か?
例えば男女同権を推し進めてきたのは何ものの力か。戦争や産業に従事する上での、腕力の重要度の低下。家事専従者が必須でなくなったこと。そして法改正。ハードウェアの進歩と制度的な裏書きが社会を動かしてきたのだ。
フェミニストによる道義的非難に耐えかねて、あるいはその啓蒙に感激して動くほどに社会はヤワでも腰軽くもない。イズムにイズムをぶつけても1ミリも動きはしないのである。
バリアフリーのためのインフラ整備だって同じだ。増田は利用者の視点のみから「先人の闘争のおかげ」としているがただの想像でしかない。商業上の要請や建築法規に基づき、あるいは単に業務の一環として、少しずつ尽力してきた無名の貢献者はいなかったものとされている。
繰り返すがマジョリティは非難に耐えかねたり説教に感激して動くほどナイーブではない(へりくだって情を乞えではなく、マジョリティの冷たさ薄情さをナメるなと言っている)。活動家のおかげ説はそのフィクションに立脚している。その結果として何が起きるか。
小さなコンフリクトを平熱で改善につなげるべきところ、常にこうして感情的な分断ネタとして消費される「型」が出来上がってしまうのだ。施設側が100%悪い!いや車椅子の側が100%悪い!と。
「日本社会はいまだこんなに遅れているから、こういう機会を捉えて燃やさないと変わらない」というのは因果が逆で、無駄に燃やしてばかりだから協働の文化の成熟がスポイルされているのだ。
誰かが白眼視を恐れずいきなりギャーって騒いでくれたら「正直助かるわけよ〜」って言ってるが普通に恥ずかしい発想だと思わないか?
そうやって物理的/道徳的に担当者を責めたてるという要望の仕方が本当に合理的だと思うか?社会は基本的に事なかれ主義で、ノイジークレーマーには「特別あつかい」でお茶を濁すのだ。
「クレーマーがほどほどに騒いでくれると有り難い」ってバカみたいな結論だぞ。
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共産党赤旗、コンビニで見かけた成人誌の密告フォームを作成「国連に持ち込んで問題にする」ヤングジャンプ、ヤングキング、ヤングアニマルなどが対象
こういうのも同工。
とっくにエロ本が完全撤退したあとでヤンジャンとか燃やそうとしてんの。
「ワシが育てたムーブ」にコロっと引っかかってんじゃねえよ
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法律の制定が権利主張なしに良心に満ちた人々によって行われるとでも信じているのだろうか。大したお花畑。激しくない権利主張は現実として黙殺されるだけ。差別者が被差別者の大人しい主張に傾聴すると思うかい?
法整備はエンジニアリングを後追いするという本質論を主張する上で全然重要でないから詳論してない所に、隙があると思いこんでこうしてバカが頭をねじ込んでくる。
まあいったん対立のパターンができてしまうことの弊害はこういうことなんだ。それぞれの陣営の正義の能無しが問題の周りを固めてしまい、手つかずにさせてしまう。
実際にコツコツ手を動かす人を遠ざけ、吊し上げが好きな奴ばかりが集まってくる。
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「穏当に地道に“活動”してる人もいる」
そらそうよ。みなまで言わなかったけど。
自由な市民としての矜持を持ち、選挙にいく以外でもあらゆるチャンネルを探って社会の運営/改善に参画しようとする、リベラルであるとはそういうことだ。そこには当然にして摩擦が生じることもある。
くだんの車椅子インフルエンサーのことも別に迷惑100%とは評価していない。施設側のモノの言いようにカチンと来たのも想像はできる。
そんなに難しいこと言ってないが、まあはてな界隈にもうなんも期待してないのはある
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毎たび最後に同じようなこと言ってるが、一言マウンティングじゃなくてトラバで字数気にせず堂々反論すれば?でもお前らは絶対に自分の発言に責任持たないんだよな。ピンポンダッシュに最適化したカス連中
被差別者が差別されるに至る理由を語る事は、差別を正当化しないのに。
自分の願望と現実との区別が危ういという点では青葉容疑者寄りの物言いです。
ただ、青葉の主張は「俺の実人生の不本意さ無力感は俺のせいではなく、俺の才能を狙った有名アニメスタジオや闇の勢力による妨害のため」という入り組んだものだったので、狂人論法に堕していく他なかったとも言えます。
それに引き換えこの書き手の主張なんて「私はデカい胸の表現が嫌い」だけです。こんな取るに足らない好みの主張はそのまま言えばいいだけなのに、どうしていちいち原作乗っ取り狂人論法やら性別騙りやらの強烈な戦術を駆使する必要があったのでしょうか?
残念だけど発達は箸を正しく使えない率が高いので割とよく見ますね
ASDで親の躾を受け付けないとか親が子に無関心とか通常の躾の範疇にある箸の持ち方を教えないなら結婚の様な家族の繋がりを重視する未来は恋愛はあっても結婚に相当な(不自然な)覚悟が必要になるし人に馬鹿にされたくない被差別者は綺麗に箸を持つのを見ても躾は軽く見ない方がいいとする考えは普遍的
箸の持ち方が悪いのは歪な親子の力関係を連想させて生理的嫌悪感を起こすから非言語の負のメッセージは強力で社会で結構なハンデになるし大人になって直せばいいのは間違いないけどより労力を必要とするから早い方が有利なのも間違いないかなと6歳で指を切断して正しく箸を持てない俺は思うわな