はてなキーワード: 袂を分かつとは
グループKとSのファンなのだけど、なんだか色々と大変なグループを好きになるなあと思うこともある。
でも彼らのそういう問題に対するファンへの対応とかもろもろとか、それは全く違うなあと思った。
Kは今まで人数を減らしながらも圧倒的なものを持って、ファンを安心というか納得させてきたと思う。
なんというか本当に海賊みたい。
船長たちは前で戦う舵を切る。その背中は心配させない、うそはつかない。
違う選択を持ったら袂を分かつ。それでも同じ海のどこかで違う目的を持って、違う方法を持って戦っている。
そういう感じ。
一方Sは、責任をいっぱい抱えてる。守るものをたくさんもってる。
こちらは王国って感じ。
どちらかを選べばどちらかを失う。そういう選択に正誤はないから、苦しんでも苦しんでもいっしょに苦しんで良き方を目指す。
あり方(でかい)は決められているけど、変えていくことはできるかもしれない。
だから僕たちといっしょに幸せな輝く国を作ろうよ!っていうイメージ。
ファンは国民。だから国は彼らを守る責任を持っていると思っている。それぐらい大事にしているなあと思う。
彼らは国そのものであり、彼らの意見は尊重されるべきってぐらい、ファンへの言葉をよく発するなあと感じる。
でもそれぞれの王様にも個性はあって、もちろん支持する王様によっては国民は違う意見を持っているわけで…みたいな。
全く似て非なるグループだけど、両方とも真剣で不器用なほどまっすぐ人たちなところが好きです。
きっとSは大きく輝けるし、Kはいつまでも私たちを驚かせ引きつけてくれると思う。
比喩が楽しすぎた夜中の遊び。
どこかで見た光景だ。
政治は理念先行とばかりに、高い政治目標を掲げ、その熱狂で一定の集団をまとめあげる。
しかし逆境になればいとも簡単にその結束は崩れ、本人は純化路線の掛け声とともに党を割る。
いや、小沢氏を三段階ほどスケールダウンした姿そのものである。
最も共通するのは、両氏ともに、結局何がしたいのかよく分からないことだ。
大阪都構想を旗幟に、石原新太郎氏と国政政党を創り上げ、それを割ってまでくっついた江田氏の結の党と、わずか1年で袂を分かつ。
本人にすれば色々小理屈はあるのだろうが、国民からすれば極めて分かりにくい。
自民党を割り、新進党を割り、自由党を割り、民主党を割ってきた小沢氏もまた、その都度錦を変えながら純化路線を走ってきた人である。
しかし小沢氏の方は、まだ分かりやすかった。彼の場合は政権交代そのものが目的であり、そのために政治改革を成した。念願の政権交代も成した。そして消費税増税に反して民主党を割った。
なにをしたいのか分かりづらいが、政権交代という「政治手段」を「政治目的」に動いてきたのだと思えばまだ理解できる。
ひきかえ、橋本氏は一体何がしたいのか?
もう一度都構想を再デザインしたいと言う。
しかし、都構想は今年6月の住民投票で否決された話ではないか。本人も都構想はきっちりとあきらめると言っていたではないか。
否決された錦を旗に、純化路線を名目に、わずか1年で党を割る。
そんな私でも、この1週間の彼の行動は呆れかえった。
自分は頭は悪くない、ちゃんと考えていると述べる。
わざわざ自分でそう述べなくてはならないほど、彼の一連の言動は支離滅裂だ。
本当に政治家を辞めるつもりなら、晩節を汚さないでもらいたい。
もう一度政治家として再起を期すおつもりなら、直近の言動を冷静に見つめなおしてもらいたい。
そして将来、大臣を志すおつもりなら、せめて一政党を率いることができる程度の度量を身につけてもらいたい。
才余りありて識足らず。
だから、悲しい。
愚痴になるが書き捨てる。不快になる人も多いと思うので予め謝罪しておく
自分がいた会社と似た部分があり怒りがわいて来てしまったので書かずにはおれなかった
「会社は家族だ」「俺はお前たちを見捨てない」「自分の給与よりお前らの給与を優先する」
美辞麗句を並べ立てるが社長自身の行動はひたすら自己中心的なもので社員は振り回されていた
それでも初期メンバとして耐えた。成果を出しているにも関わらず給与が上がらなくても耐えた
「俺は自分の給与は取ってない、自己資金を投入してるくらいだ、理念のために皆で頑張ろう」と言う社長の言葉を全員信じていたからだ
振り返ると分かるが、自宅に帰る暇もないほど激務の中で洗脳されていたのだった
蓋を開けてみれば、会社の経費で愛人1と平日に温泉旅行、愛人2を業務委託として採用、愛人3を社員として採用・会社負担で家も借りていることが判明した
社員全員のBLOG、TWITTER、SNSをチェックし、社内用のスケジュール表と照らし合わせちょっとした相違でも査定時にネチネチいびっていたことも分かった
各社員間で待遇・契約条件についての情報交換を断絶し其々の条件を其々が共有できないようにしていた
担当者のひとりがこの問題は自分だけで抱えられないとこっそり教えてくれたのだった
コイツは自分の周りにYESマンしか欲しくないのだと急に目が覚めた
自分の意のままに操れる人間だけいればいいのだと理解した瞬間に袂を分かつことにした
都合のいいことだけを並べ代表メッセージで「わが社の理念に共感しともに『成長』出来る人を待っています」とのたまう
付き合いきれない、と何人かの優秀と思われる社員を引き連れて会社を去った
もちろん立派な経営者もいるが、理念をコロコロ変え、大手企業や著名人にへつらい、経験はないが夢と情熱だけはあるような若い人間を搾取し上手く使い捨てていく、「自分の王国を作りたいだけ」のヤツも多くいる
だがしかし、悪い面ばかりでもなく、ある一面から見ればやりがいもあり華やかな優良ベンチャーに見えることもあるのだろう
まだまだ玉石混合だ、早く淘汰されればいいのにと思う
はじめに
ログのすなどりに嫌気がさし、大半の人は「水伝」との係わりを渋ります。折りしも「●かな●さん(他称?のため)」のコメ欄で騒動が再開されました。予備知識がなく二の足を踏むのはもっともですが、人物が整理され、構図も実相も鮮明となっています。臆することなくフリーハンドで結び目を解く新人が参入して良い頃、読者にとっても良い機会ではないでしょうか。
人物(A・B・C・D)
!現在「共感派」を構成するのは、二年前の不用意な記事がやり玉となったブロガー同盟ではなく、Cを起点にはじけた「連座制が嫌で黙っていたけど、心中は穏やかではなかったです」タイプの中間層の繰り上げ。
四人には「蜜月時代が嘘のような」という紋切り型は相応しません。不即不離、木箱(親和的ではないサークルに向けるあなたの呼びかけは、共感、論理派以前の分岐点となります)に居心地良く収まった当時の様子はたやすく思い描くことができるでしょう。論理派(世間知を蔑ろにするトラブルメーカー!)が、数多のブログから応答が困難な共感派(反知性主義の擁護者!)の文章を今もこぞって俎上にのせるのは、私怨だけで説明がつくものではありません。
!水伝には「的確な人物評は罵倒と見分けがつかない」という魔法の言葉が存在する。
o A 「軽はずみな謝罪を行い、軽はずみに謝罪を求める」人物とされる。「怒りの表明と記事の削除、言明(反省)を促す行為は、謝罪要求にあたらない」といった理屈を受け止めることができるならば、あなたはこちらのグループ(論理派)に入る。
o B そのパートナー。踊り子の軽快なステップ、武道家の重厚なさばきを併せ持つ論客を自負する。まるで組み手上等の伊東富士子だが、場に響くのはきしみ、無理強いした関節の悲痛。
o C その友人。職業スキルに信頼を置く千の衆望を担った元メルマガ発行人。耳目をそばだてるフレーズを多用し、自身への火の粉を振り払うためでも、育成したスキルのネット社会での応用を頑なに拒む。
o D その崇拝者。コピペブロガーの上位にあたる引用ブロガー。三行を超えたコメントの通読が苦痛をもたらすのは、選択と長短が不適切だから。「違和感は読者を立ち止まらせるための文章術」という評判は拾えず。
人物(E・F)
先の四人とは趣が異なり、リアルで交流を楽しむ情景(たとえばBとEのテーブルを挟んでの談笑)は、どれほど想像をたくましくしても浮かびません。
左翼的言論を活発に展開していた四人は異質を迂回できず、受容か拒絶の択一を自身に課しました。Eグループが騎士団と呼ばれ、Fグループがカルト(信者)に喩えられたのは、EとFがシンボルに祭り上げられた(落とし込まれた)からです。二人への直接批判は無益と下部が了解している節があり、強い批判が引き受けた支持者らへ向きます(沈黙は肯定か逃亡とみなされます)。
E・Fにカリスマ性は露も認められませんが、サークルクラッシャーの資質は備えます。隙が多いのも特徴的で、Eはそれを「観測気球」、Fは「無頼」とする演出が見え隠れしますが、今に至るまでその効能は明らかになっていません。
背景
水伝一幕は、科学リテラシーを感情で語る者と品格を論理で語る者との争いでした。ネットの論争で前者に勝ち目はありません。その「論理」で科学を語り、ほころびが露になる前に敵失によりステージが一気に変動したのです(トラバ論争)。qed「水に脳はないから水伝はいんちき」は、外野の「理系」にも含みを招いたことでしょう(一人が対話を試みましたが、Eの「謝罪認定」で終了します。そのブロガーはようやく「事情」を悟り、取るに足りない汚名と引き換えに撤収できました)
前者が退いた後もネットリテラシー、主観論、運動論を引きずり、メンバーの参入と離合が劇的に行われます。グループ分け終了後の大きな対立軸としては、Eの「邪推が成り立つ」、Fの「ハラスメント」問題があります。語りつくされた疲弊感も漂いますが、「謝罪論争」直前のBの失言など踊る余地も残されています。
渦中へ
G(A)のコメ欄に向かう前に、読者は論点に対する見解を用意します。
o「双方論争」から引いた「卑怯者論争」は正当か?
o Gの回答(ハラスメント)はなぜ無効とされるのか?
o グループ内で発せられた嘲り、暴言に論理派が倫理の判定を「忌避」した理由は何か?(流れを読め、発言者本人に尋ねよ、罵倒芸だ、訴えればどうかと回答した人々の真意は何か?)
o 過去ログから相手側への謝罪が提出された場合、論理派は詰みではないか?
o 論理派の張った狭義(「双方」は頻度と深刻をデータ化し、等量である事を明示)、予防線(性的言辞は最大値、蔑称は最小値をとる)は妥当か?
o 一般認識、文脈大問題は「邪推が成り立つ」を問われた場合、詰みではないか?
o 「嘲笑」目的以外の、コメント削除を行いながら投稿禁止の処置をとらない理由は何か?
過去へ
ひと続きの古い結び目から解きたいと希望する読者は、出典をみずから発掘し、不明な部分の詳細を確認することが条件になります。引用を避けたのは、騒動の教訓に「人は埋め込まれたリンク先すら読まない」とあるからです。
関連を訪ね、水伝以前までログを遡ることで「神の視点」を体感し、デッドエンドの憂鬱な記録を「ハッピーな」団欒シーンで読み終えることができます。
「春樹受賞の弁」を踏み台にするのは良い考えではありません(デッドエンド)。会話はA・B・C・Dに限ること。他と応答する義務はなく、価値も認められません。四人は確かに傷を負い、自分に借りを作りました。伝言ゲームの応酬では勘定が合わないはずです。
おわりに
嘲笑や恫喝は慣れっこだが、家族への言及には耐えられない、尽力する保護事業に累が及ぶのは不当だと考えるなら、goo。
※劣勢の共感派への疑問を追加(しかしAE混成チームに痛み分け以上の戦績を残せる者が何人いることか)。
共感派は論理の不備を質されている訳ではなく、誰かのそれに乗じて済ました過去を見咎められている(みんなで笑ってやろう)。その「論理」が牙を向いたとき、なすすべもなく動転し、次に誰かの当てこすり、空騒ぎに乗った。以前の踊り場がどれだけ狭量なものであったかに目を背け、遥かに刺々しい場所を臨んだのではないか。