はてなキーワード: 虐待とは
https://bunshun.jp/articles/-/71049?page=3
《朝日に関する投稿を三~四人でチェックしている部屋で、担当者がパソコンの画面を見せてくれた。社員のSNSでの投稿内容や「炎上」を監視するタイムラインが映し出されている。その結果をまとめたレポートが平日は毎日、経営陣や所属長にメールで送られていた。》
一方で、デジタルの数字や反応ばかりを追いかけるようになり、記事もデジタルで読まれやすい「消費するニュース」に傾いたというのだ。
《取材の出張申請のときに「その記事で有料会員はいくつとれるの」と口にする編集局幹部まで現れた。》
読まれやすいニュースの具体例には朝日新聞デジタルで配信された『京大卒ジョーカー、挫折の先の自己実現 ウケ狙いから当選への分析』(2023年5月30日)がある。虐待や性被害などにあった女性を支援する一般社団法人「Colabo」の東京・歌舞伎町の活動現場に出向いて、冷笑的、差別的な言葉を投げつけていた埼玉県草加市議について、そうした言動について触れないまま、政治スタイルを好意的に紹介したのだ。
《「デジタルで読まれそうな記事を」という編集局幹部の号令のなかで企画された記事だった。》
《コラボに対する攻撃がこの年起きていたときには、現場をルポし、ミソジニー(女性蔑視)に基づく攻撃がもたらす影響などを取材していた女性記者の記事に何度も注文をつけて記事の配信・掲載を二カ月近く先送りしていた。「コラボを擁護して、『また朝日が』と言われないようにしないといけない」という意見が繰り返された。》
でも何度も何度も杉林や檜林に連行してたら虐待扱いされて訴えられるだろうからな
キチガイだけ得をして、そいつがアナフィラキシーショックで人を殺すまで止まらない、理不尽だわ
虐待の表現がある作品を見る度に、見ている最中も見終わった後も何かモヤモヤするようなものを抱えながら暗い気分になっていた。
今までは単純に虐待なんて要素のあるものを見たら気分悪くなるのは当然だと思っていたけど、今になって何故そこまで気分が悪くなるのか冷静に考えてみた。
多分、虐待のシーンを見ると自分が過去に受けた虐待の感覚や記憶も思い出してしまって、普通に嫌なものを見る以上に凄くネガティブな気持ちになってしまう事に気がついた。
虐待を受けていた記憶はどこか朧げで、薄っすらとしか覚えてないのであまり意識してなくて今まで気が付かなくて自覚してなかった。
虐待をしたのは親ではなく身内だけど、虐待の記憶とセットで親にも愛されなかった事を思い出してしまう。
悲しいし苦しいという気持ちもあるけど、虚しいとか、寂しいとか、そういう気持ちがごちゃ混ぜになって、自分の存在価値を考えたりとかネガティブな考えが止まらなくなる。
今更とはいえ虐待シーンを見て自分の過去を想起してしまう事に気がつけたのは良かったと思うけど、そうなると虐待シーンのある作品を避けたいけど難しいね。
犬猫等の動物が亡くなるシーンがあるかどうかを教えてくれるサイトとかはあるけど、虐待シーンがあるかどうかを教えてくれるサイトなんて多分ないよね。
気になる作品があっても蓋を開けてみるまでは分からないとは困ったね。事前の注意でも出てくれるなら助けるけど。
公式作品ならまだ避けられそうだけど、たまたま見た何かの二次創作に虐待要素があったらもう交通事故みたいなもんだと思って諦めるしか無いんだろうな。
一人暮らしを始める前に「こんな虐待犯がいる家に住めるか」と言われた
それ以降連絡も無視
息子の言い分
・機嫌が悪いと殴られた
確かに毎日殴りましたが男の子だしこのぐらい躾の範囲内だと思う
洗濯とか進学の妨害だってこの家に残ってもらうためにやっただけだし
親の心子知らずって言葉知らないのかって思った
子ガチャハズレって感じ
どうやって反省させればいいのかな?
正直、「学校の健診やってる医者なんか全員変態オヤジだ」なんて本気で言ってる人はほとんどいなくて、「せめてやり方に配慮してくれよ」と思っている人が大多数だと思う。
現在30歳の自分が小学生だった頃の健診では、保健室で全員が上裸になり、体育座りで待機させられていた。
アイカワさんやイノウエさんは早々に名前が呼ばれるのですぐに服を着て教室に戻れていたけど、ヨシダさんやワタナベさんは自分の番が来るまでずっと裸で待ち続けていた。
Twitterには「裸にしないと虐待の痕跡が見つけられない」と言う人もいたけど、背中やお腹にアザのある子を、クラスの全員の前で上裸にすることが「虐待を見つけるための良い手段」であると本当に思えるのだろうか。
(高学年になってからは男女別になったが、やり方は変わらなかった)
高校生の頃の健診では、教室で下着を外し、上は薄手の体操服一枚になって隣の校舎の健診会場まで移動した。
大人とほぼ同程度まで身体の発達した女子高校生を、ノーブラで、薄っぺらい体操服一枚にして、他の全教室から見えるグラウンドを歩いて移動させる必要は本当にあったのだろうか、と10年以上経った今でも疑問に思う。
そして教室にブラジャーを置きっぱなしにすることに反対する教師は一人もいなかったのだろうか。
ちなみに健診会場は男女同じ場所だった。すぐそばに男子生徒も男性教師もいたのでずっと前で腕を組んで胸元を隠していたことを今でも覚えている。
少なくとも私は、大人になってからの健診では胸部レントゲン以外でブラジャーを外したことはない。高校生はブラジャーをしていては健診を受けられない理由があるのだろうか。
そして問診のカーテンの裏に行ってからブラジャーを外してはいけない理由もあったのだろうか。
私の通っていた学校がたまたま特殊だったのか、今でも同じような学校が多くあるのかはわからないけど、スムーズな健診を諦めてでも変わるべきところや、スムーズな動線を維持しつつも変えられるところはあるんじゃないかと思う。
別に虐待したくないから産まないんじゃなくて、金銭的な理由だったりもっと別の理由だろ
まぁ「必ずしも高等教育を受けさせる必要はないし、階層構造を考えるとみんなが幸福になるのは難しいんだから、子供が不幸になるとしても産め」は俺は前から言ってる
@kambara7
【拡散希望】フランス人との子の親権を巡る紛争に関連し、フランス人の支援団体から名誉を毀損された等として損害賠償等を求めた裁判で、本日、東京地裁は、支援団体に賠償金180万円の支払いと、記事の一部削除を命じる判決を下した。
https://twitter.com/kambara7/status/1793527192015753723
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/12021005/?all=1
11月30日、「仏当局、日本女性に逮捕状 両国籍の子連れ去り容疑」というニュースがネット上を駆け巡った。フランス人男性が別居中の日本人妻に「子供を連れ去られた」と訴えている件で、パリの裁判所が、「未成年者拉致の罪」(未成年者略取及び誘拐)と「未成年者を危険にさらした罪」で日本人妻に対して逮捕状を発付したのである。
2006年に来日したヴィンセント氏は、09年に日本人妻と結婚。その後、2人の子どもができた。だが、価値観の違いなどから夫婦間に亀裂が入り、18年8月に、妻は彼に無断で、当時3歳と11か月歳の子どもを連れて家を出て行ってしまった。それ以降、彼は子どもと会えていない。
ヴィンセント氏は、子どもに再会できるまでハンガー・ストライキを続けるつもりだった。しかし、栄養失調によるふらつきから転倒して右手小指を骨折。手術を余儀なくされ、7月31日に中止した。
11月24日、およそ4カ月ぶりにインタビューの場に現れたヴィンセント氏は、ハンガーストライキ中に比べると、少し頬がふっくらとして健康そうに見えた。81キロあった体重は一時64キロにまで減ってしまったというが、現在は75キロくらいまで戻ったという。手術をした小指には治療用チタンが入ったままで、もう曲げることはできないが、特に不自由はない。
https://www.bengo4.com/c_3/n_14688/
そもそも離婚は、私から言い出したことではありませんでした。別居する数年前から日常生活の中で、彼が『離婚だ』ということは度々ありましたが、私が弁護士に依頼した時も最初は『相手から離婚と言われているけど、どうしたらいいのか。話し合いをしなければいけないから力になってほしい』という心情でした。
代理人を立ててからは、どういう形で子どもと会わせていこうか、という話も出ていました。しかし彼は『離婚しない』と意向が変わり、『僕には子どもを育てる権利があるから、面会交流の申し立てもしない』などと主張するばかりで、話し合いは進みません。彼が結局のところ、離婚したいのか、子どもと会いたくないのか。彼がどうしたいのかわからず、私は混乱していきました。
さらに、メディアやインターネット、SNS上では『妻が虐待した、誘拐した』などと事実と異なる彼の一方的な主張が繰り返され、子どもの写真を公開されるなど、著しいプライバシー侵害もありました。
こうした彼の対応をみて、この人とは婚姻関係を続けることはできないと離婚を決意し、裁判所の面会交流調停を通さずに面会することは子どもにとっても危険だと考えるようになったのです。その後もメディアで、彼は『子どもと会えない』と言っていたのに、実際には彼からの面会交流の申し立てはありませんでした。
出生主義とは「産まないより産んで虐待する方がマシ」という思想である
多分出生主義者っていないぜ。
オマエが反出生主義で、出生主義と戦いたいからだろうけど、単に「自然」と逆らうバカな近代人の霊長ってだけだから。
人の命は平等で素晴らしい
人は幸せになりたいけど、幸せになるために産まれてくるわけではない
愛し合いたいけど、愛し合うために産まれてくるわけではない
でも幸せにならなくても生きるべき
お前らはたまたま産まれてしまって誰も幸せにせず、誰にも愛されずに一生を終えるだろう
何にも替えられない凄まじい価値がある
でも生きてることに勝る価値なんてない
誰をどれだけ幸せにしようとも、誰の親にもならなかったやつの価値は低い
誰をどんだけ不幸にしても、誰かの親になったら偉い
当たり前だろ
何人虐待で殺しても、産むべき
増田は昔、中絶を非倫理的行為だと思っていた。しかし最近はそこまで拒否感を感じていない。
だって育てられない親の元に生まれて幸せなのか?という話だ。そういう子は里子に出されたり、祖父母が面倒を見たり、あるいは虐待されながら実の親に育てられるんだろう。そういう人生もある。それで幸せになった人もいる。それは良いことだ。でも「幸せになりました」という声がニュースになる時点でそれは例外的なケースであって、フラットに考えると人並みの幸せを簡単に得られる可能性は低いと考えるべきだろう。
そう思うと増田にとって中絶とは、避妊の延長線に過ぎない。妊娠を「避ける」というのは失敗しているが、不幸な出産を「避ける」という意味では大差ないと思っているし、それが法律で規制されているのは不思議な状況だとも思う。
日本では世界水準と比べて、時代遅れでリスクの大きい避妊手術が未だ行われている。これは中絶への無関心なのか、あるいは懲罰的思想によるものなのかは分からないが、いずれにしても中絶が重く見られる要因の一つに、この「掻把法」という手術があるだろう。端的に言うと、ベテランでも失敗する確率が高く、失敗によって不妊になる可能性があり、しかも40年前には既にもっと優れた手術が海外では普及していたような手術法だ。優れた手術が日本に導入されないのは、日本の産婦人科医達の思惑がある…という噂もあるが、いずれにしても日本での中絶とは、今の子供だけでなく未来に授かるかもしれない子供まで諦めなければならない出来事である。これが中絶のイメージを重くし、特にパートナーに中絶させた男性への心象を悪くさせる大きな要因であると感じる。
中絶へのハードルを上げるのは女性の負担の軽視や、生まれてくる子供の人生の軽視によるものではないかと思える。日本で虐待の実情が広くお茶の間に知られたのは、増田の記憶では2019年の野田小4女児虐待死事件だったと思う。それまでの虐待死事件は年少の児童がほとんどで、育児ノイローゼの結果として同情的に受け入れられる部分も少なからずあった。しかしこの事件では「児童保護機関が機能していない」「児童が訴えても大人の対応不備によっては最悪の事態になる」「ノイローゼではなく、嗜虐的に虐待する親が存在する」「親が子を連れ戻したのは、愛情ではなく執着心によるもの」といった、それまでの常識を覆す虐待の実態が明らかになり、「虐待する親の中には想像を絶する者がいる」ことが広く知れ渡るきっかけとなった。また、この事件が「親ガチャ」という言葉を世間に納得させる転換点となったと感じている。
要するに、親に恵まれなかった子供に対する受け皿も満足でない社会で、授かった命を中絶するのは倫理的によろしくないというのは大きな矛盾ではないか?ということだ。産めと言う側が育てるとは約束しないということになる。それなら育てる側の責任として、中絶するのも立派な選択の一つであると考えている。そう思うと、中絶への倫理的な障壁を成すものは、やはりリスクの高い手術法だと思うし、その手術法がリスクの低いものへと変化するには、中絶そのものが手軽に行われるべきだという風潮に変化する必要があると感じる。