はてなキーワード: 若者言葉とは
若者も人権という意味の言葉の重さ考えずに使ってる感あるからなあ。
でももはや人のいうこと聞く年齢じゃないし。どっかで頭打たないといけない感じ。
若者言葉で一周回ってきたやつってなんかあるっけ?
こちらの話
その人が「自分の気持の中だけで」好きだという感情を昂ぶらせたりするのを「推してる」と呼ぶような
言葉そのものが元々持っていた意味としては確かにより能動的、実際になにか行動したり金を使ったりという意味合いが強まりそうだけど
あえてその元々ある言葉の意味を当てはめることで強い思いを表すという形なのだと思う
以前はなにか素晴らしいものを表現する時に「神」という言葉を持ち出すことは過剰すぎて
ちょっと使い方を間違うと聞いてるほうを引かせてしまうほど引き合いに出すには意味が大きすぎた
そこには場合によっては宗教観とかやや重い意味さえ乗っかってしまいそうなので割と避けがちな表現だったと思う
しかしある時期から中高生などの若い子が「すごいじゃん」と同じくらい軽い感覚で「神ってる」と言い出した
これにより一気に一般的なレベルにまで「神」が引き下げられたのだ
その後「神ってる」は言われなくなったがなんでもかんでも「神」とする表現は定着して
ちょっと美味しいスイーツがあれば「これマジで神」と言ったり「~のリップマジ神だから」など
以前はサッカーの神様とか映画の神様とかごく一部の選ばれし人にしか使われなかった「神」はついに命のないものにも気軽に使われるようになった
この現象自体は古より「八百万神」あらゆるものに神が宿るという日本的な概念ととても親和性が高く
しかし言葉本来の意味を考えれば神というのはいわば最上級の褒め言葉なので、大人達はふと思うのだ
「それが神だとしたらもっといいものが出てきてしまったらもう言葉がなくなるのでは」
昨日の神と今日出会った神は仲良しでありまったく問題なく並列できるのだ
ちょっと話がズレた気がするが要はより過剰な言葉を当てはめることで表現の強度を強くする
「推し」という言葉についても、そもそもは実際のヲタ活動における散財や行動と相性が良いから使われ始めたのかもしれない
ただ今となっては「ファンです」と同じ意味合いで「推しです」という言葉は使われるようになった
「~さんは私にとっての神です」という比較的ガチなトーンから「今日のご飯マジ神」という軽い神にまで神の存在が近くなったかのように
「推している」という言葉の意味も今では「好き・・・」くらいの意味合いになっているように感じます
これまでの3つの例に比べて短めにしている。政治的な話題になるからだ。代わりに、閑話休題補完的な内容に文章を割いている。
政治というのは厄介なもので、敵と味方を二分する性質を持っている。はてな民ならお分かりだろう。ちょっと前だと、弱者男性の存在について大いに語り合っていたはずだ。本日(2021/12/20)時点だと、オタクコンテンツの表現規制だとか、M1に出ていた芸人が人の見た目を馬鹿にするネタを~みたいな話題で盛り上がっているようだ。
今から私が話すケースが好きな人はすごく好きだし、嫌いな人はすごく嫌いだろう。よって、短くまとめたい。
D乃さんは、労働組合で活発に動いているタイプの職員だった。もうすぐ定年で、K市に合併される前の海沿いの市町村で採用された。人権運動や同和教育に意欲的で、労働組合の行事や集まりには必ず顔を出していたらしい。
さて、そんな彼女がある年、泊まりがけの研修に行くことになった。公民館で講座をしたり、まちづくり活動の会合でコーディネーターをする人を養成するための、文部科学省が主催し、都道府県が運営を行うタイプの研修だった。
2日目に事件は起きた。D乃さんが県の職員と大喧嘩になったのだ。原因は、そう……『日本国旗』だった。国立の研修施設だったので、毎朝誰かがラジオ体操の時に国旗をスルスルと掲揚するのだが、それに選ばれた彼女は国旗の掲揚を拒んだ。
県の話によると、「太平洋戦争を引き起こし、部落問題を長年放置してきた人権侵害の象徴である日本政府、その国旗なんか掲げたくない」とのことだった。大騒ぎになったので、県内他市町の職員らにも知られることとなった。後日、県から正式にクレームの内容が書かれた文書が届くことになる。大恥をかかされたK市の幹部は、D乃さんに対して停職以上の厳しい処分を与えるべきという結論を下した。
さて、私は、「この類の人と面談する意味はないな」と思っていた。まさにそのとおりになった。
指導面談の場では、D乃さんは「私は悪くない」をオウムのように繰り返すばかりで、「これ以上続けるなら組合に訴え出て解決する」という。この年齢の人にありがちだが、思想的にガチガチに固まっていて、新しい価値観を受け入れることができない。
結論からいうと、D乃さんには一番軽い処分を下した。文書戒告。わかる人にはわかるだろうが、文書戒告は処分ではない。昔の人が考えた言葉のマジックであり、実質的にはただの注意だ。
この処分の一つ目の用い方は、とある職員個人やそのチームがきっちり真面目に仕事をこなしたけれども、それでも大きな失敗をしてしまい、責任の所在を示さねばならなくなった時だ。
二つ目は、この文書戒告を受けても、さらに悪行を積み重ねる救いのない者についてだ。この場合、処分内容がどんどん次のステージに上がっていく。やがては退職勧奨へと至り、それでも改善が見込まれなければ問題のある職員から不要である職員へとカテゴリが変化する。かくして、そういった人間専用の部署やポジションに異動することになる。
______________________________
(以下、脇道)
上の『二つ目』について、不要職員と判断された者について、①②③により一般的な例をひとつずつ示す。
①男性の場合は、事務から現業に職種を替えたうえで、公園、観光施設、し尿処理場や〇〇センターなどの施設管理(特に肉体労働)の部署に送る。其処では、K市きってのサイコパスが管理監督者を務めており、厳しいノルマが課される。かくして彼らは、精神的にも肉体的にも追い込まれていく。仕事をロクにしないサボりタイプの職員に多い配置パターンだ。
②女性の場合は、上下水道局のような男性が多い部署、それも自分以外すべて男性の部署に異動させる。そこでは、水道メーターの検針管理や上下水道用品の棚卸し、料金滞納者への督促や集金回りといった業務を担当する。そのうちストレス過多になり、職場に来ることができなくなって辞めていくパターンが多い。私がこの類の人事案件を担当することはなかったが、後輩へのいじめやハラスメントだとか、勤務中に大声で他人を罵倒するなどを繰り返した者に多いようである。
③男女問わず、その職員が家庭の役割を担っている(介護や家事や親の自営業など)場合、自宅からの通勤が難しい(片道2時間近くなど)僻地に異動あるいは出向させる。毎日定時に退庁できるが、だんだんと僻地の職場が嫌になり、数年以内には「異動させてほしい」と上司や人事に訴え出ることが多い。だが、人事課内部では、「更生が認められない限りは定年まで〇〇支所。決して再任用を受け入れないこと」などと引き継がれているため、希望が適う可能性はゼロだ。組織にとって終生不要だと判断したから、そういう処遇を与えている。
この3例すべてにおいて、当人が苦境から解き放たれる可能性は少ない。「改善された」と人事課に認められない限りは、ずっとそのままだ。個人的な感覚だと、こうした処遇を与えられた人間の約3割が自ら退職を選び、残りの5割はゾンビのような人間的活力に乏しい人間になる。
最後の2割は、苦境の中で自らと向き合い、努力の結果として更生を果たし、十分な実績を挙げることで――晴れて一般の部署に戻ることができている。
いま述べた行為を残酷だと思われたなら、想像してみるといい。仕事をせずにのんべんだらりとしている地方公務員に、あなたの財布からお金を渡している場面だ。あなたが払った住民税や所得税の一部が彼ら彼女らの給料になるのだ。
残念ながら、「私は最低限の仕事すらしたくない。首を切られることはないし、それが一番いい」などと心の内で考えている職員は多い。私の感覚だと、最低でも1割はそんなことを思って職場に来ている。
公務員がチート(若者言葉でズルくて強いという意味)と言われる由縁である。若手・中堅社会人向けのメディア(noteなど。後はビジネス誌のネット記事)を見ていると、『どうすれば成長できるのか』『圧倒的な価値を創造するために』『自己研鑽がなぜ大事か』といった記事が踊る中、公務員はそんなことを考えなくても経済社会を生きていける。
仕事が好きな人はとにかく働いているし、ほどほどにやりたい人は合格最低点より少し上の品質で仕事を切り上げる。家庭や個人の事情で働くことができない人間はそれに対応した長期休暇を取るし、そもそも働きたくない人間はこれ見よがしに無能アピールを行い、割り振られる仕事を減らそうとする。
上のどんな働き方を選んでも、犯罪などをしでかさない限りは首を切られることはない。まさに自由な働き方だ。給料は50代までは右肩上がりだし、有給休暇は電話一本ですぐに取れるし、年金制度は手厚いし、希望すればほぼ全員再雇用される。
(脇道ここまで)
______________________________
話を戻そう。私は経験上わかっている。D乃さんの年齢の職員が更生することがないのを。
定年も近かった。たとえ免職処分にできたところで市にとってのメリットは薄いし、このことを根に持った彼女が退職後にK市に嫌がらせをする可能性もある。
よって、D乃さんには普通に定年退職してもらった方がいいと考え、K市の幹部(繰り返すが、私の役職は部長級だが実質的な権限はない。プロパーの課長にも劣っている)に対して以下の提案をした。
「D乃さんの場合、組合内での役職や立場を考えると、厳しい処分をした後の余波が重いものと考えられます。よって、今回は文書戒告とすべきです。ご希望に沿えず申し訳ありません。その代わり、もし彼女が定年後の再任用を希望した場合、私が責任もって拒否します」
※最終的には再任用ではなく、公民館の職員になった。こっちの方がまずい気もするが……。
渋々の承認をもらった私は、「地方公務員って意外とヤバいな(※当時の日記そのまま)」と感じつつ、3階の窓から、人もまばらな夕方の駐車場を見下ろしていた。終業のチャイムが鳴ったばかりであり、何人かが駐車場をポツポツと歩いて自家用車に向かっている。
視線を移すと、市街地の住宅や商業ビルに混ざって、田んぼや畑や空き地が点々とあった。やがて、K市の役場のすぐ前にある雑木林に視線を移すと、遠くの方から、ぱたぱたと翼を羽ばたかせてメバルが飛んできた。
メバルは、たぶん小さい声でピピピ、と鳴いたのかもしれない――雑木林のクヌギかコナラの枝に止まった。周りをササッと見渡すと、ちょんちょんと枝の上を移動していく。春になると、桜の木の枝にも止まるのだが、これがまた絵になる。
「カメラを持っていればよかったなぁ」と思いながら、私はそいつをずっと見ていた。昔、実家にある柿の木の枝にトリモチを付けて、メバルを何匹も捕えたのを思い出した。適当に作ったトリモチでも、これがまたよくひっつくのだ。最大で7羽もひっついていた。やり方は祖父に教わったんだっけ。
夕焼け雲に視線を移すと、数年間に、祖父から「ひ孫の顔が見たい」と言われたのを思い出した。見せてやれなかったのは残念だったが、もうこの年で子どもは難しいだろう。精子も劣化している。なにより元気がない。風俗店を利用するのも年に数回あるかないかだ。
馬の守護仏であり近世では馬を使って荷運びをさせていたことから交通安全の神様であらせられる馬頭観音様の御名前からやね
誰もが知りたい情報はその情報を正確に伝達しようとする為に人間同士で直接会話する方が正誤も見極め易くてええんよね、だからそれが遠距離であっても直接正確な情報を届けよう、受け取ろうとするものやねんな
で、その遠距離の道すがらがなるべく安全であることを祈るものなのなんやな
やから現代のインターネットではより正確な情報を安全に手に入れる為に馬頭観音様に祈る地域もあったら面白かったのにね
そういうことであまりにも加速度的に流行った動画や情報は「この情報を得る為に人々が錯綜して大怪我しませんように馬頭観音様に守護していただけますように」という意味で「馬頭する」とか言われておったら笑うよね
ただそうなると『バトウする』が『罵倒する』に言い換えられてしまって「アンチっぽくてやーね(最近の若い奴らは反対意見のことをすぐにアンチ扱いする)」と流行りの言葉を口にする連中はきっとどこかで思う訳で
そんで馬頭観音様の名前の頭の部分を言い換えて「バズ(馬頭)する」と呼ぶようになったんやね
そして今の「バズる」に変わったんやね
まぁ嘘やけどね
どうせなうとかリスケとか言ってた連中によくある『流行りの英語使っていっちょ世界の荒波に乗ったろかい』の名残りやから大したこと気にせんでええで、こんなんむしろ「流行る」でええやんけっておっちゃんも思うで
buzz自体がハエとかの羽音を表現してるもので、転じて騒がしいの意味合いになって、騒ぐからこそ話題になるし、評価になるっていう転じて転じまくってる感じの言葉なんやねんやねんぺ
だから流行った時に「お、話題にな(buzz)った。」って言うんやろうね、おっちゃん若者言葉はようわからんよ。
そんな感じや
適当に嘘ついたら本当っぽくなるの怖いわ〜
とりあえず馬頭観音様堪忍な〜
フォローしあっている人たちの中で、CANMAKE TOKYO構文(「女の子って、本当に楽しい!CANMAKE TOKYO」をもじって「上司って、本当にウザい!CANMAKE TOKYO」などと呟く)を好んで使う人が2人いる。
最初はそれを見て「若い子の間で流行ってるんだな~」と思っていた。しかしよく考えてみるとその2人は、学生だったころにフォローしてから5年以上が経っていて、もう20代半ばだった。
20代半ばはまだ若いけど、少なくともCANMAKE TOKYO構文は「今の若者言葉」ではないんだ。キャンメイクのCMコピーもとっくに変わってるし。
自分自身が年を重ねてるのは自覚してたつもりだけど、顔も知らないフォロワーもいつの間にか大人になっているんだなあ。知ったときにはハタチそこそこで、ずっとそのままの感覚だった。
私の通う女子高では、校長先生が壇上に立つと生徒達から「かわいい」と黄色い声があがる。
校長先生は60後半くらいのおじいさんで大学教授も務める偉い人だが、なぜ生徒達は校長先生を「かわいい」と表現するのだろうか。
○考察1
理由を尋ねると私の友達の多くはこう答える。確かに校長先生には若者言葉を使ってみるなどお茶目な所があるが、私は考察2のニュアンスも若干含んでいるように感じる。
○考察2
輝かしい未来がある高校生に対して校長先生というのは(こう言うのはなんだが)老い先短い、枯れた存在だ。格下に見てるからこそ「かわいい」と表現するのではないだろうか。
○考察3
お年玉やお小遣いをくれる祖父や親戚のおじさんを想起させる歳だから好きにならざるを得ない。
○考察4
『歳故に人生経験が豊富な校長先生は人間として魅力的であるが、語彙力が無くて「かわいい」以外に褒め言葉が出てこないから』
女子高生は他の語彙が出てこないととりあえず「かわいい」使いがち。
○考察5
校長先生に限らず高齢のおじいちゃん先生というものは総じて生徒達から好かれる。世の中には老害という言葉もあり、年寄りは忌み嫌われることもあるが、少なくとも私が見てきた教育現場では高齢の方が生徒達から好かれている。若い先生は空気が読めないと厳しい目で見られるが、高齢の先生は「かわいい」で許されがちだ。
たとえば『ごめん』を牛面(牛の顔にあてる面具。)のつもりで出題して、村人に『「ごめんなさい」の略。』と回答されると、ゲームが壊れてしまいます。
辞書に意味が①〜。②〜。というふうに複数乗ってるものも、上と同様のリスクがあります。
同音異義語が大辞林に載ってるけど広辞苑には載ってない、みたいな場合はOK。そして事故が起きない限りOKです。適宜ご判断ください。
カッポー
→ この場合は、
・ **(主に若者言葉で)** は書いても書かなくてもOK。
・**カポー。** も任意。説明文が複数の文からなるときは、どこの「。」で止めてもいいです。
Wikipediaから引用する場合は、文章の調整が必須となりますが、その辺はよしなに。文章の係受けや形容詞の修飾範囲等、意味が変わらないようお気をつけください。
なんでもいいです。
「一生○○できる、してられる」
これは実際には一生できないのだが、実際にしてる様を表現した言葉ではなく、これから先、未来の話、I can、I willの表現なので違和感がない
「一生○○してろ」「一生やってろ」
これもこの先の人生の話、未来の話だ。実際に一生行われるわけではないので何の違和感もない
「一生○○してる」「結局声は一生出ないままだった」
前者2つが「未来の可能性の話」だったのに対して、これらの「一生」はその場の時点でしてる、だったという断定・確定の形だ。
「一生」はその場で実際に周囲に対して表せるものではない
現在だけでなく過去も未来のことも含んだ言葉、それが「一生」だ。
それなのにその時点で一生○○してないのにしてる、だったと言い切ってるから表現としてかなりおかしく感じる
「結局声は一生出ないままだった」って退院時点の話なのに、なぜ未来のことも織り込んでいるのか。君まだ生きてるよね?
「来年もお世話になりました!」←未来の話なのに過去形!みたいな
可能性や仮定の話なら違和感がないが、可能性・仮定の域から出てその場で表現できない「一生~してる」「一生~だった」という過去未来確定言い切りをしてるのが違和感の原因かもしれない
でもこういうのって翻訳前の原文が気になるのよね。英語しらんけど。
「絶賛」される日本のコンビニ 五輪海外メディアが「死ぬほどおいしい」 重労働など「影」の部分も知って:東京新聞 TOKYO Web
どのツイートかわからなかったので「LAWSON fried chicken」で検索。
CNA(Channel NewsAsia)ジャーナリストで、これはシンガポールのメディアらしいからおそらくこれ。
https://twitter.com/MatthewMohanCNA/status/1421430504872574976
Here’s what lunch looked like… Lawson’s fried chicken is to die for. #Tokyo2020
"to die for"が「死ぬほどよい」という言い回しっぽいのね。
"to die for"の意味・使い方|英辞郎 on the WEB
to die for
〈話〉すてきな、非常に素晴らしい
・That fur jacket is to die for. : その毛皮のジャケットは最高にすてきだ。
・My friend has a figure to die for. : 私の友人は非常に素晴らしい体形[ナイスバディーの持ち主]です。
【英語】1分でわかる!「to death」の意味・使い方・例文は?ドラゴン桜と学ぶ英語主要熟語 - Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
端的に言えばこの熟語の意味は「死ぬほど〇〇」だが、もっと幅広い意味やニュアンスを理解すると、使いこなせるシーンが増えるぞ。
「to death」には、様々な言い換え方があります。「until 〇〇 die」で「〇〇が死ぬまで」や、「to the moon and back」で「月まで行って戻って来れるくらい」などが多く使われている表現です。「to the moon and back」は、死ぬほど何かが好きな時に自分の愛を届ける時に多く使われるのでよく会話や文章などで多く見かけるので頭に入れておく役に立ちますよ。
ふーむ。じゃあ日本語の「死ぬほど○○」と英語の「to die for」は別々の場所で発生したのか英語を日本語に輸入したのか。まさかその逆か。
同じ感性で生まれたって考えはロマンがあるけれど、まあ輸入かな。でも結構普遍的な表現な気もする。
英語に関しては本当に調べる経験がなく手段が思いつかないのでgoogleの日付指定ぐらいしかできない。
書籍の全文検索が発行年つきでできたりしたらそれを使うんだろうけど。
で、まあ大して意味もない検索結果としては1988に映画のタイトルにはなってる。
原題:To Die For
翻訳作品を除くと、おおよそ1900年ごろから使われている表現に見受けられる。夏目漱石の時代である。
長谷川君と余
さらに翻訳自体は20世紀だが、元の表現を忠実に訳しているとするならば1500年台のフランスで同様の表現がされていたらしい。
モンテーニュ随想録 07 随想録 第三巻
...ことをきらい、屈従と束縛とを死ぬほど憎むからである。人間が多いのを... / ...知った人々に誤解されるのを、死ぬほど恐れているだけなのである。 ... / ...からたよられることも、ともに死ぬほどきらいになった。わたしはどんな...
ふーむ。ついでにもうちょっと古い日本語の情報がないか勘で調べてみる。
ありますねぇ!
下痢をお漏らし!嫌いなヤツには石投げる!平安貴族が結構お下品【落窪物語】 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン
さらに典薬助は、ことの顛末を北の方とその侍女たちにいっさいがっさい話してしまいます。すると彼女たちは「死にかへり笑ふ」「いとど人笑ひ死ぬべし」など、死にそうなほど笑ったことが書かれています。「死ぬほど笑った」という表現が平安時代からあったことも面白いですね。
落窪物語はウィキペディアによると10世紀末頃に成立したとされる。
さらに「死にかへり」を調べると源氏物語が挙げられている。ご存知紫式部の著でこれも時代は1008年だそうだ。
〔連用形を副詞的に用いて〕死にそうなくらい苦しく。死ぬほど強く。
出典源氏物語 絵合
「しにかへりゆかしがれど」
[訳] 死ぬほど強く知りたがったが。
少なくとも英語の"to die for"などから日本語の「死ぬほど」が生まれたわけではないと考えてよさそうだ。
よく考えれば死は万人に訪れる避けがたい事象であって、言語に関係なくそれを強調の修飾として使うことは割と自然かもしれない。
「 死ぬほど君の処女が欲しい」「可愛すぎて死ねる」「死ぬほど痛いぞ」「ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD」