はてなキーワード: 芋虫とは
気持ち悪いと思う人もたくさんいるだろうから自己責任で読んでね。
私はものごころついたと同時に目覚めた。
初めは「おかいつ」の着ぐるみ着ておにいさんたちが踊ってる歌だったと思う。全身タイツも顔だけ出てる着ぐるみも、見ていると羞恥心でいっぱいになった。デフォルメされたかわいいクマや犬、もしくはモノ(エンピツとか)の着ぐるみから人間の顔が出ていてそこだけリアル。ああ、いい大人がこんなものに入れられて可哀想。なんだか見ていてむずむずした。
自分が動けなくなるのも好きだった。遊びで布団にぐるぐる巻きにされて動けなくなって、必死にもがくのが何とも情けなく恥ずかしかった。
初めてオナニーをしたのは幼稚園児か小学校1年生の頃で、リビングの机の脚でやって酷く怒られた。でもやめられなくて人目を盗んでやった。パンツの中にティッシュを詰めたりタイツを履いたりしてより気持ちよくなる方法を探した。寝転がって手ですることも覚えた。布団の中で隠れてやるようになった。学校でも机の下でこっそりした。
アニメも妄想でも「囚われの姫」「拷問」そんなのばっかり考えた。
この行為の名前を知ったのは中学生のときで、たいそうびっくりしたのを覚えている。家のパソコンでたまにそういうのを調べることはあったけど、見たいのは別に男女の裸とかではなかった。どういう言葉で調べたらいいのか、それすら分からなかった。
ケータイを買ってもらうと当然いろいろ調べた。自分の好きなジャンルが「BDSM」「ヒロインピンチ」「陵辱」「全タイ」「ボンテージ」「着ぐるみ」などだということが分かった。男性向けAVを見ることが多かったが本番行為には興味がなくいつもそこで止めていた。女の子の甲高い声も好きじゃなかった。
今わかってるのは、とにかくかわいそうで情けないジャンルが好きってこと。変な格好させられてギチギチに拘束されたい。縄でもガムテープでも鎖でも枷でも拘束衣でもシャチの浮き輪でもOK。そのままほっとかれてたい。肌は見えない方がいいけど痛いのは嫌。世に存在するらしい「ご主人様」に奉仕したいとは思わない。ただ物語の中で、不本意に捕まっていじめられたい。ドラマの撮影として縛られるのも良い。あくまでそういう設定の中で楽しみたい。強気で出て心を折られたい。
昔よく妄想したのは、誘拐されるやつ。無理やり連れていかれた先はそういうお店だったり奇妙な性癖をもつボスがいるところで、自分以外にも女の子がたくさんいることもある。全身タイツ+着ぐるみでお客さんやボスを喜ばせる。彼らに直接なにかされるわけでもなく、ただ芋虫の着ぐるみに入ってもぞもぞ動くのを鑑賞されたり、小魚の着ぐるみを着て大きなくじらに飲み込まれてり(する体のショー)。とてもAVじゃこんなのないから小説や漫画の方が好き。
ついでにそれ以外に対する許容範囲も広い(と思ってる)。レズもやってみたいと少し思うし、それ以外もまあいろいろ。
自分のように幼い頃から目覚めて今もこうして人に言えない歪んだ性癖を持ち続ける人はどのくらいいるだろう。多分思ったより沢山いるんだろうな。一貫性のない性格の自分が唯一持つアイデンティティとすら感じる。
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
男女は同権だが学校やビジスの場面で平等だとやり難い、女の体力を忖度して欲しい。忖度された女はその分給料が低かったり管理職に成れなかったりする場面もあろうけど機会さえ均等であれば、あとは個人の判断だと思う。最低限、文化的な生活をおくれる給与水準であれば。
貯金は勿論たくさんしたいのが誰しも本音だろうけど、ソノために体壊して医療費に消えるなら総合的にトントンじゃない?稼ぐだけ稼いで若いウチに楽な仕事に転職するとか、それも個人の判断じゃないかなって。そもそもガンガン働けない女もいるので。
一月のうち健康なのが一週間しか無いとか、どこかで読んだけど正しくソレ。月経の話な。月経前と月経後含んで。
生理中に管理職なんて数字と人間関係に気を使う仕事したくない女も居るので、女の敵は女なんだ。マックジョブの何が悪い、世の中の大半は代わりが聞く仕事じゃんってドッカで聞いた。完全に同意。それで生活していける社会なのであればマックジョブがいい。価値観は人それぞれなので。
生理はプールに入れないだけじゃないんですよ。同じ女でも軽いのから重いのまで居るんですよ。そんで実際にホルモンバランスは崩れているので生理の前後はテンションが可笑しい女も居るんです、生理前は自分で分かったりするのもソレなんでしょうよ、でも病気って診断して貰えない。いっそ病気にしてほしいとガチに婦人病の女にブッ叩かれそうな事まで思う程度に重い女も居るんです。
クソがとかシネとか常時呟き続けたいような精神状態になる女だって居るんです、この期間に生理の軽い女と生理の無い男に心無い事言われると殴りたくなる衝動に襲われて悪化するので、ぜひ忖度して欲しい。同僚や同級生がそんな女かもしれない、軽率に刺される前に口を閉じろ。何も言うな、労るな、放置してください。忖度だいじ。
体育教師になる女は絶対に生理軽い偏見がある。だから平気で生理中の生徒や胸のデカイ女を走らせようとするんだ。今はどうか知らない昔の話ですけど。
頑張ってないんじゃないんですよ、生理が重いと動けないか芋虫のように転がるしか無いだけなんです。学校だって休みたいけど母親が生理軽いと地獄。自分は学校通えてたもんだから仮病と思われる。ちげーんだよ。生理休暇とか労働基準法にあるでしょ、欠勤になって給料出ないのはともかく有給貰えなくなるかもという手落ち感満載でつかえねー制度だけど概念だけは有るでしょ。仮病じゃないんだよ。
あと乳はデカイとブラしてても揺れるし何なら紐が肩に食い込んで痛い。というか乳は揺れると付け根が痛いのでデカ乳女は極力走りたくないのが一定数居るような気がする。別に運動は嫌いじゃないけど乳が揺れる運動はしたくない、痛いから。体育教師の女の乳は筋肉が支えている偏見がある。あと痛くなるまでデカくないような偏見がある。はっきり言って貧乳だろうという偏見がある。デカ乳は授業でもゆっくり走りたいしウォーキングで誤魔化したい、サボってるんじゃない、乳が痛いんだ。体育なんて個人差あるので個人の状態に合わせて欲しいし申告したなら受け入れて欲しい。アスリートじゃないんだ目指してもないんだ。じゃあオメー人より多く勉強したら数学ひゃくてん取れるんですか?何年ほど多く勉強するんですか?同じことだよ。体育なんか健康であることを確認できて表面上、集団行動できればそれで良いだろうが。女の敵は女、お互いに。
普通に活動するために毎月鎮痛薬買ったり通院したりして金も時間もかかるんだよ、別に病気の範囲に入ってなくても。何だってグレーゾーンはある。
どんだけ重くても病気って言ってもらえないし実際に病気じゃないんだよ重いだけで。ピルでの管理についてはデメリットも体質もあるので、体質にあった女や知識のない男女がとやかく言うのは論外。医者なら言ってもいいけどケースバイケースな事を医者らしく説明した上で言って欲しい。
というか、微妙に数値がアレなんで今一歩病気じゃねーですとか診断するくらいなら思い切って私を病気と診断して欲しい。グレーゾーンで重くてしんどい人は他にも居ますからとか言われても救われない。医者になれる女は絶対に生理軽いだろう偏見がある。月の一週間しかマトモに頭動かない女が医大出てたら叫び声上げて称賛する。女の敵は女だと何度でも言いたい。
トイレに立つたびに便器の中が真っ赤になるのは当たり前、それどころか姿勢を変えると大量に出る感触に常時震えるし何なら服にシミつくる女がその期間中に管理職なんか出来るもんかと言い放つ女だって居るんですよ。
オフィスで15分刻みでトイレに立つ女をどう思いますかね、生理重い女は基本コレですよ。多い日っていうか三日目くらいまではコレですよ勘弁しろ。なんでトイレか意味わからない?ウンコした赤ん坊のオシメは速攻で変えるでしょ、クサいし膨らむし姿勢変えるとオムツからはみ出してシーツにウンコつくし赤ん坊は感触がキモくてギャン泣きするでしょ。それです。経血は放置すると粘膜が被れるし不衛生なので他の病気の心配もありますから速攻でナプキン変えるんです大量に出たら。加えてクソ腹が痛かったり腰が痛かったり熱があったりするのが生理の重い女です。アレルギー持ちだと過敏になってるので普段は大丈夫なモノでも中ったりします。
今日のテーマはとても良かった。白饅頭氏は阪神大震災のサバイバーで自分の周りが一変した、そこから大きな影響を受けているって話ね。
今のリベラルの人達、リベラル理解度8、保守理解度2みたいなステータスで保守(リベラル理解度15ー20、保守理解度15-20で保守を支持)みたいな人達を徒党組んで燃やしてる(そして返り討ちに合う)から正直成長ねえ猿だなぁって思ってるんだけど、それも幸せな事だ。
白饅頭氏はなんというか成熟してるけどそれも阪神大震災(だけではないし勿論当人の普段の努力の成果ではあるけど)みたいな理不尽に合っての事。成熟するにはある種試練が必要かはわからんけど助けになるのは事実で、試練には人の死が付き物だ。時たま訪れる理不尽な試練乗り越えられず狂う人もたくさんいる。人に成るのに死人が要るなら、人に成ってない人が多い方が世界はよっぽど良いだろう。
勿論そのような試練は色々な形を変えて今も存在してる。天然の試練と養殖の試練があって、天然の試練は大体人命を伴うんだろう。進撃の巨人の新兵を殴るシーンがわかりやすいかな。面構えから違ってしまっていたし、ただ殴られる程度でその試練はクリアだった。だけどその差は仲間が死に始めるまでずっとあっただろう。今でも受験だの就職だの上下関係だので用意されてはいるけど、結局地獄を見たり人の命を背負う羽目になったりしないとダメなんだ。だからやっぱり、天然物のまともな大人なんていない方が良い。作るのに犠牲を伴うものだから。俺も多分天然物ではないし。
ここでいう試練と同じものかはわからないけど殺しもかなり効くらしい。爺さんが庭から芋虫たくさん取って来て目の前で踏みつぶし始めて、お前もやってみろって。一匹アゲハの幼虫だけ虫かごに入れて2,3匹潰してギブアップした。今は考えがなんとなくわかるし、全部潰すべきだったしアゲハも潰すべきだった。というか害虫(ひいては害獣、人)を分け隔てなく全員殺せるかって試練だっただろうから、ちょっとしか殺せなかった上に一匹一番大事な奴を残した俺は失格だったんだろう。あの時から爺さんはあまり俺に目をくれなくなった。
多分殺すなら人に近いほど良い。虫や魚だと遠い。哺乳類が良い。結局人殺しが一番伝統的かもしれないけど現代だとちょっと俺も許せないかな。それでどんな優秀な奴が生まれても俺は一応リベラルだから。でも自分の視界の外の人たちを見殺しするくらいなら自分で殺したやつの方がマシって考えもあるから結局のところはわからない。
今は家畜殺さんと肉喰えないから家畜殺しはセーフだしやった方が良いんだろうけど、それも許せない気合入った皆さんも居て人口肉作るのに気合入れてる。あれはあれで筋通ってていいと思う。