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はてなキーワード: 自覚的とは

2024-04-26

差別ダメなんじゃなくて差別自覚的でなくて気付かないまま差別を指摘されるのがダサいって気がする

差別してますが、何か?」みたいな顔してたらその差別炎上してもそのうちそういうキャラとして認識される

最初非難の少ない共感できる差別対象を決めておくのが吉

2024-04-23

anond:20240423201339

問題謝罪しないことであって正義したことではないでしょ

謝罪しなくてもいいけど評価が落ちることや他人から非難される覚悟を持って謝罪しないことを自覚的選択してほしいわ

2024-04-22

anond:20240422111822

普通人間は「セックスくらいできるのが当然」なのが一般社会だぞ

からと言ってキモオタみたいな人間未満にセックスさせてやれとは思わんけど

人間未満が人間未満の扱い受けるのは当然なわけでそこは自覚的になった方がいいぞ

糞なコメントとは何か

コメを大量にもらって気づいたけど、糞なコメント、非生産的一方的欲求を満たすだけのオナニーコメントに共通するのって、「相手を採点しようとする」行為なんだよな。

これは自覚的なやつと無自覚な奴とがいると思うけど。

コミュニケーションは当たり前だけど採点じゃない。採点し終わった時点でそれは相手を見切った、興味がないということ。

これを自覚的にやってても嫌なやつだけど、たぶん大半の糞コメ自分が糞失礼でバカなことをやってるという自覚もなしにやってる。

 

採点バカ共通してるのは、コミュニケーションの不完全性と双方向性を理解してないこと。

まず、人が何かを延べるときにそこに誤りや曖昧さが含まれることは当たり前であって、それだけで発信者瑕疵には絶対にならないということ。

次に、その誤りや曖昧からまれ情報の空白は、聞き手が埋めるかどうかを判断する義務責任を有すること。

この二つが当たり前のこととして頭に入ってない上に、これをやらずに未完成に終わったコミュニケーション非生産的自分価値を下げるものだという自覚がない。

 

まあ一言で言えば日本教育システムの悪い影響なんだろうけど、結構な数の日本人の頭の中には、評価する方が偉い、評価する側に立てば自分の有能さを証明できるという思い込みがあるように思える。

これはもちろん完全な間違いで、評価するということを職務として与えられてない奴が、勝手他人自分基準で裁いても痛いだけだし何の生産性もない。

社会に役立つ有能さとは、まずコミュニケーション双方向で成立させる努力をすること。そして、それがある程度の成果を得たら、あるいはこれ以上成果が得られないと判断したら、穏便に打ちきり、不必要一方的価値押し付けないことだ。

まかり間違っても、生産的な会話に、どちらかが優位に立ち、評価し、感想を述べるなんてプロセスはない。

ゲーム感想戦じゃないんだから

 

「この増田は○○がわかってないな」「○○について書いてない、やり直し」なんてブクマは全く賢いもののやることではない。のだけど、まあ、これだけ言ったところで、もうそういうロールプレイで遊んでる子供みたいなものしかないのが、糞コメバカ実態な気もするので、栓ないなあ。

2024-04-21

anond:20240420164311

お前の勝手アイデンティティ他人適用しようとするな

いま40から50代の奴らってば、ちょうど迫害経験してから市民権を得だした世代から

オタクを居場所にしてる奴が多すぎるんだよ

若い世代なら、ある程度もう「趣味」なのよ

60代から上で生き残ったやつは、気合が違うのね、面構えが違うんだ

40から50代の奴って中途半端なんだよ

虐められたり、就職できなかったり、そういうのをオタクという枠に逃げ込むことでごまかしてたやつが多いの

それも自覚的にやってるなら救いはある、次の居場所を見つけるだけだ

自転車バイクに移ったり、釣りに行ったりな

でも、その自覚がなく、自分オタクだと勘違いしちゃってるやつはキツイんだよ


そういう奴らがな

年取って、居場所として機能しなくなったオタク愚痴りだすのよ

やれコンテンツを楽しめなくなっただの

やれジャンルに人が居なくなっただの

うるせぇんだよ

黙って消えろよ

コンテンツが楽しめないんじゃねぇよ、そのコンテンツコミュニティに居場所を作れないからツマラナイの

もともと楽しんでたのはコンテンツじゃねぇんだよ

コンテンツはお前が依存する砂場じゃねぇの

お前はオタクじゃなかったんだよ

単に人付き合いをしたかっただけなの

2000年代とかすげぇ多かったんだぜ、そういう奴

でも年取ったら、若者に混じってオフ会にも出られない

ガルパン人気は、そういう層をすくい上げてる部分が一定度あるんじゃないかなって思ってるんだよね

2024-04-17

企業投資家のものではなく共同体のものという思想

これについて異論特に持っていない

リスク取って起業している創業者思想 (第二の家族で在りたい、すべての人が活躍できる場を作りたい等)を体現する事ついても咎める気はまったくないが、

ブクマカブクマカを兼ねてそうな増田や生きづらいちゃんってほんとうにアットホーム職場が好きね

 

あと、給与いいところ大企業よりも、

中小ベンチャー定型業務やらせてるだけなのに、公私混同馴れ合いマネージメント崩壊していて、育休が公務員並みにとれる職場が好きだよな

ついでに、リモワよりも、オフィスの机をデコるのが大好き

 

自分の望みには自覚的になって職選びして、その結果をちゃんと受け入れて欲しいね

 

 

補足

身内とか、友達とか、皮肉ではなく文字通りの意味での家族的な仕事仲間とか、

俺私がボスからお前ら祝えとかなら、産休アピプリント自分の子どもをプリントして配るのわかるんだけど、

どーもそーじゃないみたいだから

 

これも職場で怒鳴る・泣く・1対1で部下/後輩を飲みに誘うと同じラインにある話でしょうね

 

本人が勝手に喋っている分には『ああそう』だけど、根掘り葉掘りプライベートのことを聞いちゃいけないのよ

人に聞いちゃいけないことは、強い立場にあるか、バカじゃなきゃ、自ら喋り倒さないです

逆張りネタならもっとわかりやすくやってくれ。下記の一派かと思ってしま

ブクマカ職場で泣くのは当たり前!配慮しろ子育て中の人サポートをしない人は辞めて自営業しろ!媚びて早く結婚するのは無能戦略!私は発達障害から

 

逆張りじゃなくて本当にわからないのか?

anond:20240417232852 anond:20240418114405 anond:20240418131515

anond:20240417173031

1. コナンには幼少期から慣れ親しんでおり、当然のものであるため、受け入れている説

 →他の子供の頃の漫画を列挙して聞けば証明できる

2. コナンコナンから

 →ただ好きなだけ

3. コナン探偵系だから

 →何いってんの?

4. コナン第一話でAPTX4869なるものを堂々と使い、その前提で進む話であるから

 →作者がフィクション自覚的であるように見えるかどうか?

2024-04-16

インド映画ミュージカル要素とくどすぎるくらいの人間描写は嫌いなんだけど、歌舞伎じみた大袈裟演出外連味溢れるアクションは好きだな。

バーバリやらRRRやら海外を見据えたような大作じゃその手のインド映画色には当然自覚的だろうし、「らしさ」のバランス感考えてるのかなって思う。でもやっぱ踊るのは嫌い。

ロボットなんかもそこをメタ的に使ってギャグとして昇華してる感じがあって面白い。それでも踊るのはやっぱくどいなって思う。勇者ヨシヒコミュージカル回も五秒後でお腹いっぱいだったしな。

2024-04-13

anond:20240413091819

別にそんな必要ないんだけどめちゃくちゃ擁護すると

たらこ視点で注目する視点バイアスから一応論理的に考えるとこうなります

ってそういう考え方もあるよって紹介って感覚別に逆張りじゃないんだよ

最近発言聞くと怪しいけど自分視点はかなり浮世離れしてるし普通ではないってとこにも自覚的だけど

おもしろいでしょ?くらいの感覚

それ信じるかはお前らの勝手だけどなって感じ

2024-04-10

ダンジョン飯信者って意識高いの多いけど、ただのなろう系じゃん

そこらへんのなろう系異世界生モノとは違う!作り込んだ世界観!媚びないキャラエロに頼らない!

そんなことを言ってなろう系にマウントする信者が多いけど、なろう系じゃん

別に深くもなんともないただのありふれたナーロッパ舞台です

まず主人公キャラ設定がめちゃくちゃなろう

・26歳童貞

ADHDコミュ障で誰からも嫌われる

田舎地元に馴染めず逃げるように都会に進学

学校でも馴染めず中退

就職するが馴染めず辞める

ダンジョン(実質異世界)に行ってようやく輝くぜ!

・実質異世界美少女エルフ猫耳娘といちゃいちゃするぜ!

パーティの男たちは嫉妬対象にならないようなショタドワーフおっさん、俺が一番かっこいい!

・実質異世界に行ったおかげで全てをGETしたぜ!

最初から異世界舞台だったら異世界モノじゃない、ハイファンタジーだなんてのは欺瞞

ダンジョンでだけ死者蘇生可能だったり魔力が高まったりダンジョンは明らかに地表と異なる別世界異世界として描かれている

物語構造として「冴えない俺→異世界で輝く」が「冴えない俺→実質異世界ダンジョンで輝く」にすり替えられてるだけ

恥ずかしいほどに主人公に都合のいい、ありふれたなろうモノだ

まあ作者は無自覚になろうをなぞったわけではなく、自覚的に寄せてるみたいだが

主人公は親なんか嫌い!人間不信!とか地元に対してヘイトつのらせてるが、巨乳美女の妹(これもなろう臭い)は普通に両親と上手くやってて文通している

すぐ毒親!とか言うタイプ被害妄想が強いなろう読者を皮肉っている

なろう読者は他責性が強く、すぐ親が悪い地元が悪い国が悪い、だから異世界転生するしかないんダァという思想だが、

そうではない者(妹)はまともにやれていて、なろう読者(主人公)が頭おかしいから親とすら上手くやれないだけなんだよね

なろうを揶揄しつつなろうのテンプレートに沿いまくりのただのなろうアニメです、これ

なろう読者が精神異常者で気持ち悪いのはもとより、「なろうなんかと違って高尚なんダァ」と持ち上げてる意識高い信者気持ち悪い

anond:20240410181113

無視するのは問題じゃない

これを繊細チンピラが多いブクマカを兼ねている増田が言っているのが恐ろしい

職場で泣くのを開き直るのと同じラインにある話だろうな

声を荒げるのと同じく、泣くだけでハラスメントという常識インストールしてもろて

フツーの人はどういう時に自分が泣くかは自覚的になって防ごうとするんだわ

防げないなら対面は避けてテキストに切り替えるんだわ

 

つか『俺の時代は拳だって飛んできた』みたいな昭和体育会系化石マウンターや頑固ラーメン屋オヤジ自営業者ならともかく、

繊細な生きづいちゃん・くんなのに『仕事感情を見せるのを是』としているブクマカブクマカを兼ねている増田が多すぎてビビり散らかしてます

働かずお家で過ごされるか、アットホーム職場封印されていてくれ

あと自己コントロールする気がない赤ちゃんですって首から下げといてくれ

2024-04-07

anond:20240407110540

から君はずっと社会的ルール個人生き方をごっちゃにしてるんだって

それに自覚的じゃない時点で会話が成り立たないっての

2024-04-03

暇空氏への解像度低くない?

https://anond.hatelabo.jp/20240403005644

ネタとしても暇空氏のパーソナリティ分析微妙な気がする。

約6億の資産がある暇空氏にとってたかだか30万の椅子とか投げ銭しかないんですよね。年収600万が3000円の投げ銭やるのはおかしくないでしょという。

そもそも、暇空氏が借金玉を損切りしたのは別にそれほど変な話ではないよ。暇空氏の他の言動擁護してるんじゃなくて、氏はそもそも誰かと仲良くなったり敬愛したりの「馴れ合い」をかなり避けてる気配あるよねってこと。えりぞ借金訴訟中立貫いたあたりがわかりやすいでしょう。裁判でめちゃくちゃ疲弊したのとかもあって、おそらく「他人は裏切るから自分に害が降りかかりそうなライン」にかなり自覚的な感じがある。それはそうと「自分訴訟に負けても別に金払ってもいい」範囲暴言は気軽にやるからややこしい。

結局、「金銭感覚が緩い」「金で解決できる問題は気にしない」「他人と基本なれあわず人間関係ドライ」あたりのことは念頭に置いとかないと「単なる陰謀論者」くらいの認識で止まっちゃうから気をつけた方がいいよ。金は本人的にはどうでもいいし、法律に絡む話題はかなり(not100%戦略的自覚的発言の取捨選択をやるし、同じ方向性を向いてる相手別に仲間ではないんだよ。

2024-03-29

スキップローファーをまとめ読みした感想 ネタバレ注意

持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。

人間だれしも自分特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、

自分自分環境立ち位置理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。

高校生のみつみちゃんは「まだ」自分ちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。

作品内で扱われている「人間関係ポジショニングゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップローファーキャラクター演出をしている。

氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。

作中では、稠密人物内面描写キャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間相互作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。

グループで過ごす時間不協和音スレスレスクールライフコメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的空気を持っているのは作者の技量だと思う。

スキップローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。

田舎と都会、陰キャ陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃん水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。

そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女物語を大きく動かす役割もつ可能性は高いか

このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。

恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来パートナーのために舞台装置出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、

ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。

本当はもっと掘り下げたり、メタ視点から感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクター名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。

需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性ありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。

自分には価値自己肯定感がないから……自分肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。

スキップローファーではそもそも都内進学校に通える学力があって、経済的問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。

志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。

スキップローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺世界とは無縁だよね。という強がりの業か。

アフタヌーン掲載漫画結構心理描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。

漫画を読んだ後、こうやって乱文でも書かないとやっていられない27歳誕生日

スキップローファーをまとめ読みした感想 ネタバレ注意

持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。

人間だれしも自分特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、

自分自分環境立ち位置理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。

高校生のみつみちゃんは「まだ」自分ちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。

作品内で扱われている「人間関係ポジショニングゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップローファーキャラクター演出をしている。

氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。

作中では、稠密人物内面描写キャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間相互作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。

グループで過ごす時間不協和音スレスレスクールライフコメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的空気を持っているのは作者の技量だと思う。

スキップローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。

田舎と都会、陰キャ陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃん水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。

そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女物語を大きく動かす役割もつ可能性は高いか

このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。

恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来パートナーのために舞台装置出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、

ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。

本当はもっと掘り下げたり、メタ視点から感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクター名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。

需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性ありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。

自分には価値自己肯定感がないから……自分肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。

スキップローファーではそもそも都内進学校に通える学力があって、経済的問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。

志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。

スキップローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺世界とは無縁だよね。という強がりの業か。

アフタヌーン掲載漫画結構心理描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。

漫画を読んだ後、こうやって乱文でも書かないとやっていられない27歳誕生日

もう受験生でもない自分高校レベル参考書問題集いつまでも解いたりするべきなのか分かりません。

解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。

以下から持論です。

まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います

から私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います

それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚場合が混ざるおそれがでてくると思います

まり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからいかからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。

そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります

まりその高度な理論理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論概念複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。

理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。

しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。

単に用語意味を知らないといったことなら、その用語ネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。

しか学術文章理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからいから」というような、わかりやす輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。

大学レベル参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます

それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。

その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います

特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述シンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます

それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。

これは大学高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります

これは、角度のことについてなら、中学受験算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます

しか書き手にはすべての読者のレベル対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。

そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないか理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なもの特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。

上記高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造問題を共有していると思います

因数分解極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています

なのでその人たち自身が見てきた高校レベル参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。

ですから大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。

でなければ結局「何がわからいかからない」「なんでわからいかからない」という状況に陥ると思うわけです。

予備校講師数学アドバイスで「数3は数1Aと数2B知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2B完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います

まり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。

一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。

また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います

先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベル文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。

そして、どの大学レベル理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。

なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベル文章高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合高校レベルだけど初見だと解けない問題死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。

たか高校レベルから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。

しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。

2000年上前ならピタゴラスの定理理解することも十分意義深いことだったでしょう。

時代が進むことによって、より高度な定理理論発見され、既存定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。

このような文脈での主語あくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。

あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。

一方実際に世界経験する主体単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。

ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類文明主語である場合、それが最先端知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値規定されていたのですから個人主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。

まりその個人理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。

大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界現象に対する理解解像度をあげると思うのです。

から大学レベルのことには書いてない高校レベル問題の解法も赤本や難関大意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばし大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。

まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。

ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。

なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。

2024-03-27

anond:20240327135700

このトラバには異論はない。そこで最後に追加で言っておきたいことを書いて終わりにする。

大学レベル参考書(学術書)や論文を書く人も所詮受験競争経験した人で、受験勉強で得た知識が少なからずその後の思考の枠組みに影響を与えていると思うんだよね。

それで「枠組み」なんてものはなかなか自覚的認識できるものじゃないから、その枠組みを共有していない人にとってはより言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずにそういう言語化をはしょって文章を書いている部分があると思う。

特に幾何学に関する記述は、本人のセンスにとっては空気のように当たり前のことでその説明シンプルであったりしても、なんでそうなるのってことが枠組みの無い人にはわからない。ある人からすれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えない。

これは大学高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いのだが、たとえば高校物理である角度と別の角度が同じという事実から式を導出するのに、なぜ角度が同じかという説明まではされてないみたいなことがある。

これは中学までの数学を身に着けた人にとっては当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明必要

しか書き手はすべての読者のレベル対応することは不可能だし、「枠組み」さえあれば当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことがある。

こういうことはは中学受験レベル算数から差がはじまっていて、ああいうのが解けるような学力センスとしてあるいは勉強したことで枠組みとして身についてる人と、そうでない人とでは、同じ文章では伝わらない程度の断絶ができていると思う。

自分には大学レベルの本を理解する素地が足りているのか、と思うから、彼らが通っているはずの受験勉強から得た枠組みと同じもの自分にも構築すべく、高校レベルのことを勉強しなきゃという強迫観念がなくならない。学術書論文書き手も当然すべてのレベルの読者には対応してないし、かりに対応しようとしても「枠組み」は「空気」のようなものから、枠組みを持たない人間無自覚想定読者として排除してしまうだろうから

anond:20240326173416

お前らが都合の悪い意見ネトウヨって思考停止レッテル貼って間抜けなこと言ってるから茶化してんだわ

マジでネトウヨ認定てゴミのすることだからもう少しそれに自覚的になったほうが良いと思うよ

2024-03-26

「優しいのではなく優柔不断なだけ」と言ってる人って、現国テストいつも赤点だったんだろうな

優柔不断という言葉の一番最初文字が「優しい」だって気づくのに人生全部使ってまだ足りてない奴がおるとはなあ……

優柔不断ってのは、「優しく柔らかく断ずることなく」って意味言葉からな?

「優しい。柔らかい。BUT 断ずる事ができない」じゃないから。

「優しい つまり 柔らかい つまり 断じることがない」だから

「優しさ」ってのは「断定しない」ってことなんだよ。

逆に考えてみ?

なんでもかんでも「俺はこう思う!だからお前もそうあるべきだ!」と言ってる人は優しい人か?

違うやろ?

優しくなさの塊やろ?

「俺は違うと思うが、コイツがこう考えるなら、そういう考え方もあるんだろうな」って考えられる人が優しい人なんだよ。

まりな、「自分想像力理解力限界自覚的であり、あらゆる可能性が存在することを最後まで捨てない人」が「優しい人」なんだよ。

優しい人はこっちが無理を言っても「なるほど……コイツにも考えや都合があるのだろう……今回は飲んでやるか……」と手を貸してくれる。

そういう態度に甘えていくうちにいつからか「俺に都合よく動いてくれる人」≒「優しい人」みたいに考えてしまうのが日本語赤点かつサイコパスのクソ野郎

優しい人が大きな決断を後回しにしがちなのは自分想像力限界を知っているがゆえに、行動をする前にリスク判断限界までやろうとしてるから

物腰が柔らかい人がなぜ柔らかな対応をしているかと言えば、想像力のない人間が抱きがちな「俺はマジで素晴らしい人間から、みんな俺の言うとおりであるべきだし、俺に対して敬意を払うべき」という傲慢さがないから。

優しさとは、柔らかさとは、自分判断力を疑うという行動方針によって生み出される態度なのだよ。

分かったかね?

2024-03-09

anond:20240308232935

その性癖って自覚的である時点で一種の「ごっこ」にすぎない(プレイの延長で人生巻き込むガチじゃない)から

増田が強度の高い「ごっこ」を望むなら、それに乗る相手は見つかっているはず

増田が「ごっこ」ではなく(セックスだけでなく)人生をめちゃくちゃにされたいなら、自覚的である時点で不可能

俺は嘘松じゃねーかと思う

2024-03-05

メンタルクリニックに行ってきたよ

ドグマチールと、ジアゼパムと、デエビゴが処方された。診察はwebから事前に問診票も書いていたせいもあってか、15分程度。ウチの病院の初診はもう少し丁寧だぞ……と思った。

でも、話そうとすると声がかすれた。

ちなみに俺は、精神科に勤務する看護師だ。

端的にいうと、20年近く勤めている病院看護部長と上手くいかず、メンタルがやられて眠れなくなった。バッチリ適応障害にあてはまる。

それもさ、精神科認定看護師精神看護専門看護師なんて大層な名前のする資格も持っていたりする。

何が認定だ。どこが専門だ。

今になると、どこか恥ずかしい感じすらする

この反応もあるいは症状なのだろうかと思う。

とくに、ここ最近は、動悸(心拍が上がるというよりは心音自覚的になってしまい、苦しくなる)、呼吸苦、声が出なくなるような感覚、不眠や中途覚醒早朝覚醒、強い不安感などが出現している。

注意力や集中力の低下も顕著に感じる。自宅でも仕事についてのことで不安で頭がいっぱいな状況であり、気持ちが休まらないことが数ヶ月に渡って継続している。

特に夜に帰宅する際、1人で直線の長い道路運転していると、ふと「車が追突してくれたらいいのに」「ガードレールに突っ込んだらどうなるだろう」という考えが浮かび、自分の考えに恐怖し、慌てて否定することもあった。

毎日、行き詰まり感、やるせなさ、無力感、情けなさ、恥ずかしさなど様々な感情が渦巻き、頭がいっぱいである。

恥ずかしながら、イライラや落ち込みも増え、職場でも他のスタッフ不快感を与えるようなコミュニケーションをとっているのでないかと感じている。

そんな僕だけど、自分自身で向精神薬を飲むのは初めてだ。「処方された薬はキチンと飲みましょう」と患者さんに言い続けてきた僕ですが、余分な知識があるせいか、服用することに変な期待と地味な恐怖感がある。

あと休職もすすめられたが断った。

会社での自分立場さらに悪くなると思ったからだ。しかし、これも典型的な反応だ。

まあ、スルピリドは胃薬みたいなもんだからな……

ひとまず、元気になる胃薬を飲もう。

皆様もご安全に。

2024-03-02

追記あり】「義務教育漢文不要」って主張は「三角関数不要」って

この辺、ブクマカの奴らがどこまで自覚的あやしいから、一応、強調しておくわ。

もちろん、「自分にとって役に立っていない」という実感から出発して、(なんらかの理論的な接合点を提示して)「世の中の大半の人にとっても役に立っていない」という立論をすること自体無理筋なわけではない。

しかし、三角関数をめぐる議論と同様、「社会システムの維持・運用改善において、どのような役割果たしているか」を充分に理解して初めて、それを主張する権利があるんじゃないのか、と思う。

言うまでもなく三角関数社会的な実利の最たるものは、工学の分野における設計計算分析さらにはその背景にある数学思考法そのものへの貢献だよな?

じゃあ、漢文は?

これに対する答えが全く思いつかない奴は「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強意味がないと思っている馬鹿」だから発言資格なしな。

教養なき輩に教養が何たるかを語ることができようか。)

【参考】

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/m-dojo.hatenadiary.com/entry/2024/03/01/033138

漢文の実利上の意義

最近なんかブクマカの傾向が変わって、自分の頭で考えることが苦手で権威に弱い奴が増えているから、わかりやすいように、まず権威を引っ張ってきてやるな。

日本文学漢字に非ずや、日本文学漢文崩しに非ずや、漢字を用ゆるの法を解せずして、能く文を作ることを得んや、真に文に長ぜんとする者、多く漢文を読まざる可らず

幸徳秋水『兆民先生』より)


まあ、僕が言いたいことは中江兆民が全部言ってくれているなって感じなんだけど、自論として敷衍すると、主に以下のことを主張したい。

(1)現代社会において(おそらく歴史的にも)、最重視されているのは言語コミュニケーションであり、非言語コミュニケーションは補助的役割しか果たしていない。

(2)よって、社会全体の「言語運用能力」の水準維持・向上は、優先順位が著しく高い。

(3)日本社会においては現代日本語の運用能力重要であるが、現代日本語は突然変異的に現れたものではなく、漢文古文といった歴史的蓄積を基盤として成り立っている。

(4)したがって、義務教育において漢文の語彙・修辞を学習することは、多くの人が現代日本語における表現技法に長じることに繋がり、より豊かな自己表現他者理解の実現という形で、社会全体の福利に資するものである

(1)と(2)は、まあ大体の人が同意してくれるかと思うけど、一応補足すると、たとえば、「勉強ができない小学生はまず国語ができていない」っていうのはよく指摘されているよな?

なんでって、そりゃ「学習言語による伝達が前提とされているから」だよな。

これは歴史的過去の蓄積の継承には言語が最も重要手段だったからだよね。だって、対面なら非言語的な手法もある程度役に立つけど、時間的距離的制約からして対面による伝達のみに頼るのは非効率すぎるよね。

今となっては、動画や音声を記録してそれを広く伝播させることも可能にはなったけれど、それだって結局かなりの部分を言語依存しているよね。

世界中を探せば、たとえば言語ではなく音楽を用いたコミュニケーションを重視する民族存在するかもしれないけど、そういった方法論は全くヘゲモニーを握っていないよね?

画像」を共有するインスタ、「動画」を共有するTikTok、それぞれそれなりに流行ったけど、これらがSNSの最大勢力か?違うよね、ここでも「言語」を共有するコミュニケーションツールが最大勢力よね。

したがって、「言語」の問題は、他の「音楽」とか「美術」とかと同列に語ることはできない。

個々の認知思考への影響もあるけれども、それ以上に社会全体の問題として、人類の発展を支えてきた知恵・知識継承認識の共有による社会形成といった点において、「言語」こそが最優先と言ってもいい。

で、どっちかっていうと、(3)や(4)の方が意見の分かれるところだよね。

この辺は実感がない人が一定数いても仕方がないかなとも思うので、いくつか具体例を挙げていく。

たとえば、語彙のレベルでは「五十歩百歩」とか「鼎の軽重を問う」とかになる訳だけど、もう少し広く文章表現にも関係している。

冒頭で書いた「教養なき輩に教養が何たるかを語ることができようか」は【反語】という表現技法で、これ漢文由来です。(もちろん英語にも反語的な表現はあるけど、日本語の文章表現の由来は漢文の方。)

すべからく~だ」の誤用がちょくちょく話題になるけど、これ【返読文字】という漢文の読み下し技法を由来とする表現だね。(漢文的には「須らく~べし」)

あと、よくあるのは、【対句】かな。「Aはα、Bはβ」みたいなやつ。

杜甫の『春望』の「感時花濺涙 恨別鳥驚心」(時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす)が典型例。

項羽の『垓下の歌』の抜山蓋世、正確には「力抜山兮気蓋世」(力山を抜き 気世を覆う)も有名だけど、厳密には対句とはちょっと違うのかな。

こういう文章表現現代日本語でも見たことない?

それと、結構重要な影響を及ぼしているのが、「同じようなことを複数回表現したいときに、できる限り同じ言葉を使わない」というルール

冒頭で僕が書いた「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強意味がないと思っている」っていう文章だけど、これ「勉強が苦手だったせいで、勉強による成果が得られなかったせいで、勉強意味がないと思っている」という表現だったら、どう?

なんだか頭悪そうに見えるし、その点を置いておいても、同じ単語が出てくるせいで目が滑ってあんまり頭に入ってこなくない?

要するに、見栄えが悪いという美学問題でもあるんだけど、読みやすさや読み手に浮かぶイメージの豊かさ観点から、できる限り、別の語彙で(=表現吟味し、言葉を尽くして)語るのが良い文章ということだし、これは漢文から大いに技法を学べるところなの。

文化的影響の側面を言い出したら、たとえば井伏鱒二の「さよならけが人生だ」とかかなり色々あるけど、実利の話としては脱線かもしれないし、そこはまあいいや。

とりあえず、ざっとした話としては、漢文現代日本語の語彙・表現リズムに大きく貢献しているし、それは無意識のうちに現代日本話者に多大な影響を及ぼしている」とだけ理解してくれればいい。

結論

漢文重要なのは言語」が重要から

漢文を学ぶことは現代日本語を学ぶことであり、これ抜きに豊かな文章表現はできない。

できるっていうんなら、実例を持ってきやがれ、ってんだ。

(実際、本当にそういうものがあるのなら、日本語の新たな可能性だから、見てみたいと思う。)

追記

優先度が低い

こっちは優先度が高いと思っていて、その理由を「言語重要性」と「日本語における漢文重要性」としてるので、「優先度が低い」とだけ主張しても平行線なのよ。

どちらかの点を否定する論拠がほしい。

現代数学だって当然に突然変異ではなく歴史的蓄積を基盤として成り立つものであるが、数学能力を育むためにユークリッド原論から始めようという奴はおらぬ。

一理ある。

ただ、問題は、現代日本語の「修辞学」を学ぶ方法ほとんどなく、事実上漢文がそれを補っている、っていうことなのよ。

現代文の授業で充分論理的表現技法を習える。

断片的な読解テクニックは教えてもらえても、まともに「修辞学」を習えた覚えがない。それを言うなら漢文だって充分ではないけど、有用度は漢文の方がかなり高いと思う。

まあ、しょせん僕の経験しかないので、ある程度多くの人の共通体験として、「現代文の授業のおかけでこれが身に着いたよね」というのが明確になれば、議論も落ち着くのかもしれない。

漢文三角関数高校で習うのでは?

そうだっけか。

僕は中一で漢文中三三角関数を習ったけど、私立中高一貫だったので、カリキュラムいびつだったからなのかも。

もしかして普通公立中学高校学校教育のことわかってないかもしらんね。

そういう意味では、僕の方こそ発言資格いかもしれない。

高校で)論理国語選択、(中学で)漢文は必修。

なるほど、2022年から論理国語」という科目が増えたんだね。ものを知らずに思い込みで主張して申し訳ない。

https://www.taishukan.co.jp/kokugo/product/?type=textbook&id=63

カリキュラムを見ると、「定義」「具体的/抽象的」「立場・対比・対立・仮説」「統計分析・分類」等に重点を置いているみたいで良さそうだね。

これを必修化してはどうか、というのはよくわかる。

2024-02-27

ギターバレーコードとかスケボーオーリーとかトランペットの音を出すのだとか、初手でデカい壁のある趣味は逆にそこさえ越えてしまえば自信がついて三日坊主になりずらい。

と思いきやそこから先にも上達の壁はいくらでもあるし、飽き性のおれはそこを超えたら慢心して最初向上心が遥か彼方へ行ってしまった。

何やったって最初は誰でもメキメキ上達するし、その楽しさに乗じてそこそこの所まではいける。それでもやっぱりどこかで頭打ちになってきて、よほどの関心や情熱がなければしんどくなってくる。楽しくない練習でも地道に続けないと成長が止まってしまう。楽しめるといいよナ…その少しずつの歩みを……

でも実際のところは惰性で続けるばっかりで、成長もせず足踏みばかりのもどかしさに負けて、楽しさも失せて投げてしまう。

こういう中級者、上級者の壁ってどんな趣味にもあるような気がする。型通りの事はそれなりに出来るけど、自分のやりたい事を自由に出来るほどのレベルではないもどかしい期間。ここを超えて、頭の中でこういう動きをしたい、こういう表現をしたいって思った事を正確に取り出せたらどれだけ楽しいだろうか。

色んな趣味に手を出しては最初の初期衝動的な楽しさばかりを食い漁ってまたよそへ行くおれみたいな飽き性、器用貧乏タイプはまあ世の中ゴロゴロいるんだろうなって思う。逆にそういう所でストイックになれる人間ってどれくらいいるんだろうなって思う。

世の中の人間は自覚的にでも無自覚でもちゃん自分の興味に食らいついて生きているのか。おれみたいに惰性で生きてウジウジしているのか。そういう事を考えて自覚することすらなく漫然と生きているのか。

おれも人生で一回くらいは上級者の壁を越える感覚を味わってみたいぜ。好きな曲聴いて脳内エアギターを掻き鳴らすのも割と楽しいけど、やっぱ五感で味わいたい。なので半音下げチューニング億劫で手を出していなかった群青日和練習し始めた。目標目指して弾いてるとやっぱ楽しい

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