はてなキーワード: 自由市場とは
商品の自由市場での取引は、資本主義社会では是認せざるを得ないだろう。つまり、メーカーが指定した業者以外(フリマ等も含む)による取引に罰則を与える政策がとられることはないだろう。
そんなことはないぞ。
新品でない商品を反復・継続して売買することは古物売買法で規制されている。
本来は古物商の届け出を警察に提出して、何か問題があったら警察に協力しなければならない。
窃盗のような犯罪行為が頻発したり暴力団がからんだりすると根こそぎ逮捕(別件逮捕も含む)されるから、相応のリスクを背負ってることは認識しておいた方がいい。
まず初めに、Switchが足りていないのは、需要にたいして供給が足りていないのであって、転売ヤーに買い占められているからではない。転売ヤーがもたらす混乱で流通に多少の非効率が生じているのは事実としても、抽選に落ちている人や、高額かつ非道徳的な転売ヤーから買うのを控えている人がいるのにかかわらず、今供給されているすべてのSwitchが売れているからだ。(現在高価格であるのに、転売ヤーが在庫を積み上げるメリットはどこにもない)
さて、国際金融のトリレンマは以下の3つが同時に成り立たないことである。
・固定相場制
この3つは言い換えるとこうである。
この3つが同時に実現できないのはなにも通貨に限らない。
まず、商品の自由市場での取引は、資本主義社会では是認せざるを得ないだろう。つまり、メーカーが指定した業者以外(フリマ等も含む)による取引に罰則を与える政策がとられることはないだろう。特に、商品の同質性が高く、買い手の付きやすい商品(金銀宝飾品・ハイブランド雑貨やゲーム機)は市場が成立しやすい。
したがって、価格の固定を選ぶか、市場供給量の制御を諦めるかどちらかになる。書籍やソフトウェアは増産が容易なので、市場の要求に合わせて商品を供給することができる。したがって、価格の固定を選ぶことができる。他にも、市場に供給すべき量を予想しやすい商品は、価格の固定が比較的容易である。
一方で、予想外に需要が増減したり、生産に予想外の支障が生じる商品では、市場が求めるままに商品を供給できない。したがって、価格の固定を放棄するより選択肢がない。これを諦めなかった場合、末端の小売店が個別の判断で転売人との取引を拒否したり、顧客のロイヤリティーに訴えかけることで「自由市場での取引」を拒絶するという無理な方策を強いられる。
価格の固定は、継続してビジネスを行う企業として、顧客との関係構築に大きなメリットがあるのだろう。しかしながら、金利負担やリスクに直結する在庫を削減しながら、先の見えない市場に柔軟に商品を供給し続けることはむずかしい。このあたりが真の問題なのである。そういうわけで、転売ヤーが「自由」を行使していることは問題の片隅にすぎない。
例えば中国製品の方が性能・品質・セキュリティ面すべて優れていると思えば、日本人が中国の製品を選ぶのは一個人としては正しい経済的行動なわけよ。これは分かるよね?
無理して自国の出来損ない製品を買ってQoLを低下させることは、むしろ国民にとって不利益。
国内のダメな企業はちゃんと淘汰されて、生き残れるポテンシャルがあるところは正しく焦って、正しく見習って、外圧だろうとしっかり受け止めて、向上していかなければならない。
それをせずに国内だけで買いましょう、と温室栽培を続けてはいけない。別に工業製品だけじゃない、農産物だろうと、人材だろうとなんだって同じこと。
保護してばかりじゃ競争力が伸びず、無理が生じてきて、合理的にやっている所に負けて落ちこぼれてしまうわけ。
だからとりあえず個人としては、国とか関係なく合理的と感じる振る舞いをすればいい。
国がすべきことは、経済に介入して恣意的な保護施策によって歪みをつくることではなく、行きすぎない程度に自由市場を肯定して、経済のパイを広げつつ、やむなく淘汰されていった領域の人たちの生活を保障すること。介入みたいな予防的な反抗に金をつかうよりも、安心して失敗や敗北ができる環境とルール作りに金をつかうべきだね。
情報システムに限らず、公共設備ってのは、建築と同じやり方で作ってる。つまり、作る前に業者が入札をして、落札者がその金額で作って、契約のメンテやアップデートも行う。
でもさ、もう契約してるのにシステム改良したりしないだろ? 入札時に技術コンテストするわけでもないし。実績の書類だすどけで。
だから、まず事前入札をやめる。
入札参加者には全員、モノを一回つくってもらおう。完成版を見て審査し、メンテやアップデートの契約も対処する。ただで作れは無茶なので、最初の一回は参加だけである程度工賃を払う必要があるかもしれんな。
メンテの入札も年に10年とか5年とかやめて、1年ごとぐらいで。その時にも今より良いシステムつくりました! という人にだけ入札権があることにする。
これでどう?
作る側には厳しいが、普通のダウンロードアプリのランキングどうこうもまずは作ってからなんだし、そうしないと市場原理が働かないと思うんだ。
冒険者ギルドができるまで、魔物退治の仕事は冒険者と村人の間で自由に報酬が決められていた
その村では、かつて夏の長雨のあと、吸血羽虫のモンスターの大量発生に悩まされていた
ある日若い男の冒険者がふらっと現れ、アースノーマットの魔法を使ってモンスターを一夜のうちに退治した
男は「僕のいた世界では普通のことです」「報酬なんかいりませんよ」などと言い、報酬を受け取ろうとしなかった。村人はみな喜んだ
それから数年たち、村では冬の旱魃のあと、バケネズミのモンスターの大量発生に悩まされた
その時現れた冒険者は、村のモンスター退治の報酬として帽子一杯の金貨を要求した
結果その冒険者は魔法の笛の魔力を使い一夜のうちにモンスターを退治した
だが、夏の長雨の時の冒険者の無欲を思い出した村人は
「対して苦労もせずに仕事をやってのけ、多くの報酬を望むなんてひどい」
悲劇はしばらく後の冬の朝に起こった
「報酬の代わりを受け取りに来た」
冬の冒険者はそう言うと魔法の笛を使い村中の子供を連れ去り、東の地へと消えていった
村人たちは深く悲しみ、ニュースは国中に広まった
この話の教訓はこうだ
人はある仕事にかかる準備や技能の習得のコストを正しく計ることができない
無償で、あるいは廉価でやってくれた仕事の記憶が残ると、その経験がコスト計算の基準になり
この事例の結果を重く見た全国の冒険者は、仕事と報酬のバランスを正しく決めるようギルドを制定し
報酬が適正な値になるよう調整することになった
このような碑文が建てられ、今の時代にも教訓を残している
130人の子供らが誘い出され
価値観が多様化した以上、誰もが納得する道があるはずというファンタジーを捨てるべきなんだよ、結局。
皆のためのキャラクターやら社会やら商品やらは存在せず、そんなものは画一的な価値観のもと大量生産大量消費が行われた時代と共に消えて今や特定の誰かが満足するものが無数にあって取捨選択がされるだけだ。
人間も人間が求めるものもどうしたってそれぞれが衝突するし、最悪の一線を越えない努力をすればあとは各人が自由に振る舞えばいい。
って道を人類は歩んできたわけだけどポリコレみたいなのが出てくるのを見るに、今の世の中って無意識に自由市場よりも多様性のない封建制社会の文化に逆戻りすることを望む人が増えてきているのかもな。
すごくよくわかる。
メディア・リタラシーとそのための教育の重要性がここ20年くらい叫ばれてきたけれど
忙しいし、興味のあるもの以外はネット報道の見出しくらいしか読んでないでしょ。
ふつうの人が何の疑いもなくアクセスして信じていい情報という形で整備されないといけない部分が必ずある。
言い換えると、政府の提供する情報やマスメディアの出す情報には
その情報をもとに個々人が判断して、民主的な政治に参加していく、という仕組みになっているはずなんだけど、
戦時の大本営発表とか、最近の総務省統計データ不正、公文書秒殺、みたいなことがあると、
国のデザインは、近代以降、憲法という形で、法律と司法、行政という区分けが考えられてきたけれど、
情報インフラについては、先進国でも国によってさまざまで、すごくあいまいな設計になっている。
何も設計などせず、なんでも自由に情報流通させておけば、玉石混交のなかから、自然と正しいものが選ばれるはずだ、
実力相応こそがお望みなのであれば、その実力によって自由市場で好き放題に勝ち抜けばよい話で、フェミニズムとかもう何の関係も無くね?
犯罪ではないよ。規約違反だけど。国が定める法か、一企業が「やめてねさもないと垢BANするよ」って言ってるだけかはぜんぜん違う。
まあRMTに付随して儲けるために不正アクセスやらかしたり、バグ利用やハッキングでサーバーに負荷をかけたりして業務妨害になったりしたら法に触れて犯罪になるけどね。
むしろ自由市場的には売買を禁じる方が無理があるんで、賢いタイトルだとRMTを許可してそれ前提のゲームにしたり(セカンドライフ)、運営が実質的なRMTの場を設ける(メイプルストーリーやマビノギ等)ことで外部RMTサイトへ利用者が流れて被害にあうことを減らす、というアプローチの仕方をしている。さらには、ゲーム内通貨を直接現金で販売するというネトゲも多々でてきて、それがソシャゲの「石」に繋がっていった訳だけどね。
「最後は力」を認めるならテロリストの論理を裏付けしてしまう。
これは見解の相違。
価値観を覆されてからでは遅い、自分から微修正していくべきと私は思っている。
塩がなくて困る者の憎しみが、商人という属性に向かうのは感情的には理解できるが積極的には肯定しない。また、手元に来ない塩自体を恨むのは違うというは間違いだという立場であることは明確にしておく。
一部の商人(たち)に集中してしまうのは、「塩商人は一部の商人に売るべき」だとか「一部の商人以外には塩は必要ない」とか社会的な規範が原因だったりする。(塩の実際の市場がこうであるということではなく、塩はあくまで比喩である)
また、「社会的な規範」というのも「個人の選択」の集積、結果である以上属性としての批判も免れえないと考える。
私は、その社会規範を壊したうえで自由市場的にすべきであると考えている。もちろん、自由市場である以上、競争は働いて競争に負ける人は出てくるかもしれない。現代日本では、その人たちの救済する手段がなにもない状態であることは間違いない。
なお、個人の選択が集合しても差別にはならない。そこは明確に否定する。差別とは、属性を理由に排斥することであり、選択に正当性があれば結果的に特定の属性が排斥される形になっても認められるべきだ。演繹的か帰納的かの差だ。
聞いておきたいが、「属性」とは何を指しているのだろうか?特定のパーソナリティ(e.gオタク、パリピ)や造形も私にとっては「属性」である。その排斥は許されるのか?
また、「選択の正当性」とはいったい誰が担保しうるのか?それが「社会」だとするならそれは個人の問題ではなく、社会としての差別と言える。個人だとするなら「正当性のない選択」はあり得ないことになる。
私はこの段には賛成しない。なぜなら、自分の望まない相手をあてがわれたくないし、そのデメリットと相手がいないというデメリットを比べると、相手がいないという状況の方がマシであると考えるからだ。
見解の相違は認める。
だが、あなたのいう「デメリット」「マシ」とはあなた個人の感情論であり、それは「女をあてがえ」という個人1人の感情論とイコールの価値しかない。
「他者を納得させられるだけの理由」が人権の条件だとすれば、結局最後は力になるのではないだろうか。e.g南北戦争
そして、「通過点」の議論の素は少しずつ表れて来ている。たとえばそれは未婚率・少子化と言った現象であったりインセルのような暴徒であったり。
フランスの市民革命などみてみれば、納得しないやつを排除するという意味で、最後は力であることは間違いないと思う。
君が「神の見えざる手」を期待しているのだと思っていたが、そうではなかったか。失礼した。
少なくとも私には、議論の素が従来の価値観を覆すものであると確信を得るまでには至っていない。
この論は一面においては正しい。
ある商人が伯方の塩だけを買い占めたとして、ほかの商人がそれぞれ別の塩を買い占めると結局塩は行き渡らない。
塩がなくて困るものの憎しみが「商人」という属性に向かうのは必然ではないか。
「個人の選択」が集合すると「差別」と化すのはこれまでの歴史から見ても明らかではないだろうか。
塩がなくて困る者の憎しみが、商人という属性に向かうのは感情的には理解できるが積極的には肯定しない。また、手元に来ない塩自体を恨むのは違うというは間違いだという立場であることは明確にしておく。
一部の商人(たち)に集中してしまうのは、「塩商人は一部の商人に売るべき」だとか「一部の商人以外には塩は必要ない」とか社会的な規範が原因だったりする。(塩の実際の市場がこうであるということではなく、塩はあくまで比喩である)
私は、その社会規範を壊したうえで自由市場的にすべきであると考えている。もちろん、自由市場である以上、競争は働いて競争に負ける人は出てくるかもしれない。現代日本では、その人たちの救済する手段がなにもない状態であることは間違いない。
なお、個人の選択が集合しても差別にはならない。そこは明確に否定する。差別とは、属性を理由に排斥することであり、選択に正当性があれば結果的に特定の属性が排斥される形になっても認められるべきだ。演繹的か帰納的かの差だ。
私はこの段には賛成しない。なぜなら、自分の望まない相手をあてがわれたくないし、そのデメリットと相手がいないというデメリットを比べると、相手がいないという状況の方がマシであると考えるからだ。
何度でも書くが、保育と介護の過重労働を強いているのは国家だ。
"新自由主義"は、このブラック労働に一切関与してないんだよ。
この仕組みは新自由主義とは正反対の、社会主義的アプローチによって発生している。
よって、ここでお前がブラック労働とともに憎むべきは社会主義であって、新自由主義ではない。
新自由主義を標榜した奴が悪いことをした→新自由主義は悪いことだ→悪いことは全て新自由主義が原因に違いない、みたいに事態は単純に出来ちゃいないんだ。
そして、お前の求める正解を今かいまかと待ち続けて早ウン年、気の毒な労働者は今日も不当に低い対価で働き続けている。