はてなキーワード: 自己憐憫とは
初めて「消えたい」と願ったのは5歳
明確に「死にたい」と望んだのは7歳
死んで憐れまれたいと思ったのは8歳
本格的に自死を考え始めたのが9歳で
それより前のことはあまり覚えていない
3歳ぐらいの時に幼稚園のクラスメイトが涎まみれで汚ねえなと思ったことぐらい
あの人たちは私が13歳ぐらいから狂い始めたと思っているだろうけれど、私はそれより更に10年近く前から何かおかしい人生歩んできたんだよ
20そこそこに今なったけど、自分でブッ裂いた腿の自傷痕はまだ消えないし、何なら手首に新しい傷も増えました
気持ちわりぃ〜〜〜自傷なんかする奴に真っ当な神経の人間いねえよ全員畜生だよ俺もお前も全員
まあ何で新しく手首切ってるんですかね〜?というのは実は私自身もよく分かってないんだよな
何か、もうすぐ嫁いで実家を出る姉から、アドバイスなのか捨て台詞なのかよく分からないけど非常にありがたくて非常に不愉快な言葉を賜ったような気がするが正直もう覚えてない
それで多分切ったんだと思うけど、もう昔みたいに切りながら「悲しい!傷ついた!可哀想な私!」みたいな自己憐憫すらもあまり湧いてこなくて、つまるところ全然覚えてないし実感もないし、何これ?????
最近こんなことばかり増えている気がする
世間的にはかなり良い(と思われる)大学を尻切れ蜻蛉にして夜間学校、昼間は肥溜めみたいな製造業に従事
けど、大学も夜学も仕事も、本当にしたかったことなのかと言われるともうよく分からない
政治家の「記憶にございません」も強ち間違いじゃないかもしれねえ〜〜そういう話ではない
姉に言われた
「お前はやることなすこと中途半端で声ばっかりデケエから信用に値しない、何か1個狂ってみやがれ」
死んじまえよ
お前は流行りもしないカビ臭い歌声を夜でも構わず撒き散らして、外で拾ってきた恨みつらみを散々私たち家族に投げつけて、そうして自分の周りのあらゆる存在を踏み台にしてまでちゃちぃ生活してんのに、股下舐められて善がる雌犬みたいな顔で何言ってんだか
知ってると思うけど私はあなたと何もかも違う
あなたみたいにひとつの価値観のために他人を犠牲にするようなナチズムめいた人間性してない
ただ私には愛したいものが多すぎるだけ
愛するに値すると感じるものがこの世界に溢れまくっていて、だけど愛情は何が相手でも脆弱だというだけ
多分そうだと思う
本当は私にも、気を狂わせて骨も肉も投げ捨てるぐらいの何かがあったはず
でもそれを捨てさせられてしまった気がする
もう忘れた
先に何書いてたかもよく思い出せない
いよいよ大庭葉蔵みたいなことになってきた
姉には姉の「みんなが望む努力家の王道人生!これが人間の道!これ以外は怠惰!」的な味噌蔵みたいな生き方しかビジョンないと思うし、逆に私にはそれがなくて「虚無拗らせても俺のこと無視して世界回ってるよね的な人生」しか分からないし、姉のありがたいお言葉は心の中に大切にしまいながら自分のできる範囲で生きていこうと思いました
後悔は「自分に出来たはずのことをしなかった」時に湧いてくるから、そもそも最初からノーチャンなことには何も感情が湧かないというものだ
本当に荒んでる我々みたいな人間は、自分の選択が諦めのうちに入るか否かも分からない
精神が知らない間にボロボロになり尽くしていたらしく、もうそういうところまで気が回らない考えられない何の実感も湧かない
寝よ
以上、増田なんか覗いちゃってる有象無象が書いたり見たりしてそうな文章書いてみました!
冬は焼きマシュマロが美味い
初めて「消えたい」と願ったのは5歳
明確に「死にたい」と望んだのは7歳
死んで憐れまれたいと思ったのは8歳
本格的に自死を考え始めたのが9歳で
それより前のことはあまり覚えていない
3歳ぐらいの時に幼稚園のクラスメイトが涎まみれで汚ねえなと思ったことぐらい
あの人たちは私が13歳ぐらいから狂い始めたと思っているだろうけれど、私はそれより更に10年近く前から何かおかしい人生歩んできたんだよ
20そこそこに今なったけど、自分でブッ裂いた腿の自傷痕はまだ消えないし、何なら手首に新しい傷も増えました
気持ちわりぃ〜〜〜自傷なんかする奴に真っ当な神経の人間いねえよ全員畜生だよ俺もお前も全員
まあ何で新しく手首切ってるんですかね〜?というのは実は私自身もよく分かってないんだよな
何か、もうすぐ嫁いで実家を出る姉から、アドバイスなのか捨て台詞なのかよく分からないけど非常にありがたくて非常に不愉快な言葉を賜ったような気がするが正直もう覚えてない
それで多分切ったんだと思うけど、もう昔みたいに切りながら「悲しい!傷ついた!可哀想な私!」みたいな自己憐憫すらもあまり湧いてこなくて、つまるところ全然覚えてないし実感もないし、何これ?????
最近こんなことばかり増えている気がする
世間的にはかなり良い(と思われる)大学を尻切れ蜻蛉にして夜間学校、昼間は肥溜めみたいな製造業に従事
けど、大学も夜学も仕事も、本当にしたかったことなのかと言われるともうよく分からない
政治家の「記憶にございません」も強ち間違いじゃないかもしれねえ〜〜そういう話ではない
姉に言われた
「お前はやることなすこと中途半端で声ばっかりデケエから信用に値しない、何か1個狂ってみやがれ」
死んじまえよ
お前は流行りもしないカビ臭い歌声を夜でも構わず撒き散らして、外で拾ってきた恨みつらみを散々私たち家族に投げつけて、そうして自分の周りのあらゆる存在を踏み台にしてまでちゃちぃ生活してんのに、股下舐められて善がる雌犬みたいな顔で何言ってんだか
知ってると思うけど私はあなたと何もかも違う
あなたみたいにひとつの価値観のために他人を犠牲にするようなナチズムめいた人間性してない
ただ私には愛したいものが多すぎるだけ
愛するに値すると感じるものがこの世界に溢れまくっていて、だけど愛情は何が相手でも脆弱だというだけ
多分そうだと思う
本当は私にも、気を狂わせて骨も肉も投げ捨てるぐらいの何かがあったはず
でもそれを捨てさせられてしまった気がする
もう忘れた
先に何書いてたかもよく思い出せない
いよいよ大庭葉蔵みたいなことになってきた
姉には姉の「みんなが望む努力家の王道人生!これが人間の道!これ以外は怠惰!」的な味噌蔵みたいな生き方しかビジョンないと思うし、逆に私にはそれがなくて「虚無拗らせても俺のこと無視して世界回ってるよね的な人生」しか分からないし、姉のありがたいお言葉は心の中に大切にしまいながら自分のできる範囲で生きていこうと思いました
後悔は「自分に出来たはずのことをしなかった」時に湧いてくるから、そもそも最初からノーチャンなことには何も感情が湧かないというものだ
本当に荒んでる我々みたいな人間は、自分の選択が諦めのうちに入るか否かも分からない
精神が知らない間にボロボロになり尽くしていたらしく、もうそういうところまで気が回らない考えられない何の実感も湧かない
寝よ
以上、増田なんか覗いちゃってる有象無象が書いたり見たりしてそうな文章書いてみました!
冬は焼きマシュマロが美味い
いつか無かったことにされる。
その前に、「硝子ドールだけは人類史に残すべき」と伝えるために俺はここにやってきた。
俺は音楽のことはあまりわからないのでメタルだとかディストーションだとかの話は誰かがやってくれると信じてひたすら歌詞の解説をする。
硝子ドールは、鏡に映した自分に問いかけるようにして紡がれる詩である。
その本質は「変革を望む気持ちと拒む気持ち、変革への確信と普遍への確信の矛盾、自己憐憫と自己批判、そんな自分を客観的に見ているつもりで、自分の思い込みに縛られる様子。モラトリアムの中で戸惑いながら、終わらない日常を願いながら、昨日までと違う明日も同時に願う少女の姿」である。
アイカツは対象年齢を幼児向けとしながらも、音楽やテーマは若干背伸びさせてジュブナイルに仕上げているが、その中で最も痛烈に「青臭さゆえの痛々しさ」を描き出しながらも、それを「永遠の時間を生きる設定の吸血鬼美少女」に重ねることで「耽美的」とも言える絶妙な痛快感に仕立て上げているのがこの硝子ドールである。
幼少期の知りうる世界の狭さをもってしか生み出すことの出来ない1人セカイ系とも言える感覚の原体験がここに詰まっている。
紛れもない名歌である。
鏡越しに見ている人とは誰か。自分で鏡の前に立ってみると分かる。自分である。ではなぜ眼差しが乱反射するのだろうか?それは自分が自分に対して焦点を合わせることを躊躇っているからである。人は元来、自分の姿に気恥ずかしさを感じるものだ。自分を鏡に写したとき、自分を直視するのは難しい。まして、自分に自信がなければ。
ビロードと聞いて最初に浮かぶのは「手触りのイメージ」。これによって聞くものは空に手を触れる感覚を持つ。手を触れられるほどに低い空は陰鬱なイメージを。それと同時に、もっと強く手を伸ばせば突き破れるほどの低さを感じさせる。心の中に浮かぶ自分だけの夜の世界。ガラスの天井は突き破ろうとすればいつでも破れる。その空の低さが「なぜここにいつまでも留まるのか?」を問いかける。もちろん、自分の心に広がるセカイの狭さも。
今日こそは変化が起きる。モラトリアムに揺れ動いた日々、いつもどこかでそう思っていた。それは夜になるほどに強くなり、「今、もしも布団に潜らなければ、今日こそはセカイは変わるのに」と強く思い込みながらも、社会に迎合することを選んで眠りについた日が誰にでもあるだろう。
誰かが連れ出してくれると信じている。自分が踏み出すのを助けてくれる誰かを待っている。自分だけでは不可能だと。ここは自分だけの世界。それならば本当に待っているのは、自分を助けることが出来る強さを持った自分自身。今ココにいる自分では駄目だと感じ。それでも、どこかに強い自分がいてきっと自分を助けられると信じたい。
鍵が壊れているからそっと押すだけで開くのか。壊れた鍵が噛み込んでもう開くことは出来ないのか。重ね合わった2つの可能性。果たして実際に試したのか。それとも、ただ心のなかで思うだけで扉に触れてもいないのか。
昨日と同じ明日が永遠と繰り返されているような感覚。無限大の過去を遡ってもずっとそうだったような気がする。無限大の未来を見ても、ずっと変わることはない気さえする。長いのではなく、永い。命が尽きるまで終わることがないのなら、我が身が吸血鬼ならばそれは永遠を意味している。
誰かに尋ねても貴方はもう自由だと返ってくる。それでも自分はここから動けない。自分を縛っているものが確かにある。他人にはそれがわからない。もしもこれが自分の心にしか無いのなら、自分はずっと夢の中にいるのと変わらない。夢の外にたどり着くことその日が来るまで、自分で生み出した鎖からは逃げられない。
硝子=鏡。硝子の瞳=硝子に映った自分の瞳。自分自身が自分に対していい加減に終わりにすることを望んでいる。夢から醒めることを待っている。終わりのないこの夢に退屈している。それでも辞めることが出来ない。鏡を覗けば自分でさえも呆れ果ているのは明白なのに。
そうしてもまたモラトリアムは繰り返される。
現実は容赦なくやってくる。心は夢に閉じ込められたままでも、体は現実を生きなければならない。自分の夢にだけ引きこもれる夜が終われば、夢と現実が重なりあった時間が始まる。
ゆっくりと時間をかけて現実へとチャンネルをあわせていく。夢の世界が閉じていく。今日もまた夢の中の自分は鳥籠から出れないままに、現実の自分を布団からゆっくりと起き上がらせていく。醒めない夢は、心の奥でまだ続いている。それでも現実に向けて歩みだしていかなければいけない。
誰かが扉を開けている。終わらないはずの夜が外の世界の向こうへと誰かがそっと抜け出ていく。扉を開けているのは自分自身。扉を締めてまた暗闇の世界に戻っているのもまた自分。自分の中でとっくに夢を抜け出ている自分がいる。夜の世界に居続けることを選んでいる自分はそれを見送っている。本当は今ここで鎖に繋がれている自分も抜け出せるのだろうか。
こうして私が夢の中に閉じこもり続けることを選び続けることを世界もまた望んでいる。同時に夢の外に出て生きることもまた望まれている。重なり合って矛盾にまみれている。だけどその矛盾の重なり合いに身を委ねるなら、どちらでもないままで居続けることが許されている。それに苦しみながらも、それに助けられながら、それを恨みながら、それを望んでいる。
終わることのない矛盾を終わらせることを投げ出してただこのまま全てを終わりにしたい。変わることを願いたいと思う自分に満足したまま、変わらないで居続けられるままで。永遠にただ今のままであれば、選択する必要もなく、選択しようとしたことだけを残し、何者でもありえるままにいられる。
それでも、いつか変わる日が来るのだろう。変わろうと思わずとも変わることになる。きっといつかその日が来る。でもそれは今日じゃない。明日かも知れないけど今日ではない。確信だけがそこにある。まだ何も始まらないままに、何かがいつか起きることだけを知っている。鏡の中の私は硝子の瞳でそれを待ちわびている。待ちわびたままでじっと動かない。硝子で作られた動くことのないお人形。硝子ドール。
増田は心地が良い
なぜって、「死にたい」と言ってもみんなスルーしてくれるからだ
好き勝手に呟き、ぼやき、溢し、託つことがあっても、誰も過剰に侵入ってこない
耐えがたいものがある
増田は、良い
これまでの全てと、これからの全てと、現在の全てから切り離して「言葉」と「心」だけが残るからだ
ここでなら、私は思う存分「死んでいたい」と叫ぶことができる
「本当は何もかも投げ捨てて、何も考えずに沈んでいたいんだ」と自己憐憫気味に嘆くこともできる
「自分可愛さに、上っ面で言葉を重ねる自己欺瞞自我肥大無価値クソ野郎死に晒せ」と自己嫌悪を撒き散らしても、気を使われたり、自宅まで押しかけて説教をかます人間も出てこない
自分の考えが正しいとか正しくないとか、人それぞれだとか多くの人に当てはまるとか、もうたくさん。
仕事をして買い物をして、携帯を見てSNSでいろいろな情報を得て、動画を見て、漫画やちょっとした記事を読んで、間違ったインプットをしまくってるから頭の中がごちゃごちゃでうまく整理することも、考えを練り上げることもできない。
それでも今までの経験なんかをもとに捻り出した考えをなんとか言葉にしたりするんだけど、相手にうまく受け入れられないと必要以上に落ち込んでしまう。拒絶や否定をうまく受け止められない。
それでますます自分の考えと言うものに自信が持てなくなっていく。
さらにはうまく考えを伝えられなかったり受け入れられないことから人と関わるのがしんどいと言う気持ちに変化して、それが肥大化していってどんどん自分がおかしな方向に行ってる気がする。
コロナ禍で学生はいろんな行事が中止になったり、今までのような人間関係の築き方ができなくてかわいそうだなんて思っていたけれど、意外と自分もこの数年で心身共にめちゃくちゃになっていたことに今更気づいた。
無意識に人と比べて考えるから自分の身に本当は何が起きているかを認識するのも遅い。
なんなら自分だけじゃなくて他人の身に何が起きているかも、きちんと認識できていないのだと思う。だから優しくなれない。
わたしは自分のことをちっとも信じられないのに自己憐憫だけは無駄にしてしまうので、誰かを思いやる余裕がないのだ。
多少思いやれたとしても、勇気がなく余裕もないから実行できないこともしばしば。そしてまたそんな自分が嫌になったりする。
ここ数年でいわゆる10代後半〜20代半ばくらいまでに感じていたようなつらさは感じなくなったけど、人と会う機会が減って(それが気楽だと思っていたけれど)自分自身と会話する時間が増えすぎたが故にとんでもない人間になりつつある気がして、おそろしいし、この先もずっとこんな考えを抱えて生きる(またはもっととんでもないことになる)のかと思うとつらい。
結局他人との関わりはつらくてもしんどくても、続けなければまともでいられなかったんだ。
女子プロゴルファーの大西葵とそのキャディーがアース・モンダミンカップで起こした騒動が連日ニュースになっている。
先日の報道では女子プロゴルフ協会が喧嘩両成敗的な処分を下したが、それについての大西葵プロが公開した謝罪文は全く反省の色が見えず「私は悪くないけど変なキャディーを雇っちゃったことは反省しています」といった自己愛、自己憐憫に満ちた内容だったことでさらに炎上しているようだ。
そもそもこの騒動、YouTubeでも当時の動画が公開されているがキレて騒いでいるのはどちらかというと大西葵プロの方で、キャディーはそれをなだめているように見受けられる。もちろんこれは騒動の中のほんの一部だろうしこれだけで判断することはできないが、それでも大西葵プロに全く非がないと思う人は少ないだろう。
これだけ連日騒がれるような騒動を起こしておいて今尚、自分は悪くないといったスタンスを発信し続ける大西葵プロは特殊な人間なのだろうか。いや、そうではないと思う。
男女の格差が未だ著しい日本では日々ジェンダーフリーが叫ばれている。確かに日本女性の地位向上は重要な課題だろう。しかし格差の是正を急ぐあまり、それはときに女性に厳しく接することをも制限してしまっているのではないか。
ルックスがよく、人気もある貴重な女子プロゴルファーを失いたくない協会は、角が立たないよう所属プロの問題行動を諌めることなく喧嘩両成敗的な処分を下した。この調子だと個別の事情聴取でも彼女の行動を強く咎めるようなことはしなかったのだろう。結果として大西葵プロは「自分には問題はなかったのにキャディーのせいで処分を受けた」と本気で思い込み、前述の常軌を逸した謝罪文の公開に至ったとしても不思議ではない。
社会的にも女子プロというのは貴重な存在だ。その分野の第一線で活躍している女性がいるということはイメージアップにもつながる。それはとても良いことだ。しかしそのために男性を蔑ろにすることははたして正しいのだろうか。
今回の騒動、最初の報道はそれは酷いものだった。「キャディーが暴言を吐いて職務を放棄した」という一方的な内容である。可愛そうな女子プロと問題行動を起こした荒くれ者のキャディー。そんなイメージを植え付けるのには十分すぎる偏向報道だった。
この報道のやり方に問題があったのは明確だ。しかしながらその情報を受け取る私達も男と女という性別バイアスによってその情報を精査できていなかったのではないか。
髭モジャの熊みたいな男の横でかわいい女の子が泣いている。悪いのは男に違いない、この男がひどいことをしたに違いない。かわいそうな女の子。男を許すな。みんなで叩け。
キャディーだった「男性」はプロゴルファーの「女性」に対して強く当たったはず、というジェンダーバイアスを通してこの報道を見ていなかっただろうか。
無意識的に、「悪いのは男性で被害者は女性」という固定観念にとらわれてはいなかっただろうか。これは裏を返せば「男性が強く女性は弱い」という価値観の表れでもある。しかし実際には女性である大西葵プロが雇用主、男性キャディーは被雇用者という主従関係で、この騒動の際にその場で大西葵プロがキャディーを解雇したことからもその力関係は明白だ。
正直、すべてのマスコミにジェンダーバイアスの是正を求めるのは無理だと思う。地上波TVならともかく、スポーツ新聞や週刊誌のモラルが高まる日が来るとは思えないしそれらのコアユーザーもそんなことは求めていないだろう。
しかしいつまでも「女性だからきっとこうに違いない」「男性だからこうでなくてはならない」といったような固定観念を捨てられなければ日本では性差問題が解決する日は来ない。
貴方が来ている服や洗剤諸々に使われている合成染料などは動物で毒性を調べています。大量の動物が死にます(1実験に最低50匹程度使う)
貴方が風邪をひいた時に使う医薬品には大量の動物を使って安全性を調べています(1医薬品あたり1000匹近い)。
毎日生きているだけで大量の動物の死の上に人間は生きています。一部動物愛護団体は動物実験を無しにしようとか言っていますが、現場にいる人間からすればお笑い種です。なら医薬品なんか使わなきゃいい。
頂かなければ捨てられるから。
安易に摂取しないというのは廃棄に手を貸しているに過ぎません。
さらにもう少しいいましょうか。
植物細胞の死にまで気を使って下さるなら、木造住宅はその植物細胞を切断したまま栄養も与えずに放置し、空気中のわずかな水分で細胞維持させ続けている拷問と受け取ってよいでしょう。
小さな命というなら菌もそうですね。手を洗えば大量の表皮ブドウ球菌が死にます
それは自分で命を奪った経験が少なかったり、死の現場に立ち会わないからです。
申し遅れましたが、私は医療系大学院博士2年の学生です。当然ですが動物実験も学部生時代から散々やってきましたし、ある医薬品の開発の土台になる実験をやってました。現在も菌及び動物を使った実験を続けていますし、学部は出てるので臨床現場にも携わっています。
はっきり言いますが、相談者さんのような考え方は命の本質を見ようとしない人間の甘えと自己憐憫と自己満足のカクテルです。
日々の生活で命を奪わないなんてことはできない。人間の生活は身近にあるだけでも1日数百数千という命の上に存在しているのです。
我々にできることは、できる限り無駄にしないこと。
ベジタリアンなんかは勘違いの頂点で、動物を殺さないという主義なら良い。
でも、ベジタリアンが栄養失調になって運ばれてきた使う医薬品は大量の動物の死の上に築かれたものなんですよ。彼らが栄養失調になるから用意しとかなきゃいけないなんて国もあるくらい。