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はてなキーワード: 自分自身とは

2024-04-19

anond:20240418221721

「読み取り機メーカーは一切独自判断基準での札の真偽判定を行ってはいけない」

と言うのはあなた思い込みだと思うんだが。

別に政府認定するわけじゃ無し。

政府日銀が言うのは

  • 札に必ず以下の要素を加えている
  • この要素を備えた印刷物は、法的に通貨偽造と見做す(現状の透かし禁止拡張する形)

と言う二つであって、独自基準真贋判定を行ってはいけない、なんてのはあなた思い込み

誰もそんなこと言ってない。

どうも書いてない事を勝手自分で想定、自分自身で作った想定に自分ツッコミ入れてる様な独り相撲がいるような。

誕生日を祝われるのが嫌いなのだ

誕生日が苦手だ。

祝われたくない。祝うのも得意ではない。

ただ、誕生日を祝う文化自体は悪いものだとは思わないので、他人がお祝いしているのは楽しく見ている。

キャラ誕生日にたくさん投稿される創作物などはとても素晴らしい。とてもしあわせになる。

だが、自分自身誕生日を祝われたくない。どれだけそう伝えても、分かってもらえないことが多い。

なぜ苦手かというと、数々の苦い記憶のせいである。

誕生日にあまり良い思い出はない。

もともと産まれたのが誕生日ちゃんと祝う家ではなかった。時々祝ってもらっても、それは親によるご近所への「ちゃん円満な家庭ですよ」のポーズで、各ご家庭に感謝手紙を書かされたりした。

小学校に入るかどうかくらいのころ、祖母が「あんたの母はケーキも買ってくれないでしょうからね」とニヤニヤ笑いながら渡してきた千円札を、母に素直に渡してしまヒステリーを起こさせたりした。

学校で「誕生日にはプレゼントを渡すのだ」と学んだので、ウキウキでお手伝いをして小遣いをせびり、貯めたお金で買ったプレゼントを母に渡したところ「現金が欲しかった」と言われたりした。

学校プレゼント交換会で「無理なく渡せるもの」という先生言葉に従って鉛筆を一本持っていって、イジメにつながったりした。周りはみな豪華景品だった。

これは世間にとって、誕生日がどれだけ重要イベントかを把握できていなかった自分が悪いが。

あとは、誕生日理由会社コラ画像を作られて貼り出されたとか、欲しいと思っていたアクセサリー自分誕生日浮気相手に贈られた、など。言い出したらキリがない。

そういった細かな積み重ねの賜物で、誕生日を祝われる行為に、さしたる意味を見出せない大人が完成した。

なんなら誕生日という存在嫌悪感すらある。

普通に老けるの嫌だ。

大人なので、とうぜん我慢して世間に合わせた動きはする。おめでとうありがとうくらいは言うし、必要ならパーティだって行く。

ただ、気心の知れた人たちには「できれば理解してくれないかな」と淡い期待をこめて「誕生日は嫌いなので祝わないで欲しい」と伝えてきた。

伝わったためしがない。

遠慮しないでとか言われる。

こっちが祝われたくないって話なんだ!

嫌いなら、これから好きになるような誕生日にしようとか言われる。

昔楽しくなかった時点で今楽しく過ごすのは難易度が高いんだよな。昔の記憶邪魔をするので。

「思い出の上書き」とか無理なんだと気がついてほしい。思い出は全て唯一無二なので、あなたとの思い出も何の代わりにもならない唯一無二である

人間は産まれながら誕生日が好きな生き物、というわけではないと思う。

結局、誕生日特別だって思えるのは今まで生きてきた中で培った能力の一つなんじゃないか

ということで、誕生日が嫌いな人間もいる。

そのへんも多様性ってことで「あーそうなんだね」程度に軽く認めてもらえないだろうか、と思う。

anond:20240418200740

いるべき場所に人は還るという印象

自分自身を受け入れることが大事

anond:20240418212609

孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。

サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身一人二役して会話していた。

それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまり一面的すぎる。

それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。

だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。

これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。

仮に合意形成の結果から相手心理状態類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。

復讐意図弱者男性が持ってるかは動機主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。

そして主観的には人間自己幸福を測り間違える。

これはデイヴィッド・ベネターが統計引用して例を挙げてるが人というのは身体障害知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。

どの立場であれ心理抑制環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。

隷属か破壊かはニーチェが扱っている議論だが、

ニーチェ正当防衛についてこう述べている。

━━正当防衛一般正当防衛道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義ほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまり人間的』

そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価正当防衛基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。

一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造寄与している。よって社会機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者価値付けの基礎となる社会進歩前進はありえない。

社会弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在搾取する主体である強者必要としてるからこそ残り続ける。

まり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマ流行規定するモード存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)

万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態規制しているのは社会報酬である。それが除かれた場合上記行為当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。

しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群智慧である

他人一方的愛情を向けることの気持ちよさと恐ろしさについて

一方的愛情を向ける」というのが何を指しているのかというと、まあ端的に「自分と今後一切関わりを持つことがないであろう有名人」とか「2次元キャラクター」だとか、そのあたりのことだ。

から愛情を向けられるというのはとにかく恐ろしい。私は、自分というものを正しく認識することができるのは他の誰でもない「自分自身のみである」と思っていて、そこにひとを介入させること、それどころか私を解釈する余地を人に与えること自体がとにかく末恐ろしい行為だと思っている。

近日、「蛙化現象」という言葉があたかミームのように流行った。流行ったそれ自体誤用ではあったが、いっとき社会現象にまでなった。

あるとき自分分析してみたら、単に自己肯定感がすこぶる低いだけという訳ではなく、その自己肯定感の低さの中に同じくらいの「自身の持つ気高さへの陶酔」を抱えていることに気づいた。

これが、適当意味で使われた時の「蛙化現象」を自身が引き起こすとき根底にあるんだろう。

己のことを、何よりも愚かでおぞましくて汚いゴミみたいな人間だと本気で思っていて、だけどそれと同時に「そんな自分のことを理解し寄り添ってくれるのは自分だけ」だとも思っている。改めて文章に起こしてみるととんでもない自慰行為である

から、「自分いちばん近くで自分理解し寄り添ってくれる」、所謂恋人のような存在を作ることが怖い。

ここまで話した上で怖い、という言い方を今更しても自己保身でしかないので、言い換えると 「嫌」 なのである。紛れもなく。

から、「私を瞳に映すことがない」「私の本性に介入することがない」「こちらもあなたを知ったような顔で語るつもりもなければ知るつもりもない」ような存在に陶酔することがいちばん心地よくなる。前述した「一方的愛情を向ける」ということを長々と噛み砕いてみると、恐らくこんな感じ。

本題。

私は、ひとりの人間のことがすごく好きだ。 仮にAと置く。

特定されることは意図していないので、この記事を書く上で必要な最低限の要素だけ取り出して、尚且つ暈しを加えながらAのことを説明すると、主に言葉を書いているアーティストである

ただ、私は自分のことをちゃんちゃら性善の擬人化のような人間であると思っていて、そうなるとここで既に矛盾が生じている。

自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」、凡その人が義務教育中には会得するだろう一般論である。性善の擬人化なので、勿論日頃からこれを踏まえた行いを心がけている、のに。

私は、なんの関わりも無ければ何も知らない他人に、Aに、心底惚れている。

元々はAの紡ぐ言葉けが大好きだった。

世に出ているAの書いた言葉は辿れる限り辿った。特に好きなフレーズ自分の中に書き留めて、反芻してをひたすら繰り返していた。

そもそも私は頭のいい人が好きなのだが、それだとアバウトすぎるので最近は「素敵な言葉を紡げる人が好き」と形容している。

要は、私はAのことをきわめて頭のいい人間だと思っている。

から凄く辛い。

自身尺度他人の持つポテンシャル性格を測る」ことって、きっと凄く馬鹿馬鹿しいことなのに。

なのに、私はAの持つ性格上の性質や口調、趣味、その趣味を持つにあたっての根本の考え方、友達への接し方とファンへの接し方の違い、それを産んでいるであろう根底の考え方、その全てが好きで、そんな自分盲目さと当人への申し訳なさが、果てしなく苦しい。

Aが紡いでいる「言葉」というものをもう少し詳しく話すと、架空人物言葉の代弁だったり、まあカテゴライズするのであれば「詩」だろうな、というものが多数。

ただ、その中に、さながら自伝のようなものがチラホラと存在する。

自分特に好きなAの言葉は、主に後者だ。

とどのつまり、どうしてもその言葉を紡ぐに至った、その考え方に至った思考回路バックグラウンド空想してしまう。

まあ、ただ考察するくらいなら至って個人自由だとも思う。ただそれを「Aのことが好きな理由」として自分の中でつらつらと並べている自分自身が恥ずかしくて苦しいのだ。

どの角度から見ても考えすぎである。これを書きながら自分自身でも「素直に好きって言えばいいじゃん」と思っている、が、プライド自分性質がそれを許してくれない。

薄々感じている方も居るだろうけれど、これだって「厄介ファン」だ。紛れもなく。

私がAの言葉を好きなことは事実で、それを産んだA自身のことが好きなのも事実だ。

だけど、「自分と関わりのない人に心酔することで得られる心地良さと安心感」を求めている節が、間違いなく存在している。

私は、自分が仮に有名な活動者だとして、自分の全く知らない人が水面下で自分に対してこんな感情を膨らませてつらつらと文章を書き連ねていたら、そりゃまあめちゃくちゃに恐ろしいなと思う。

拗らせ具合に対してもだが、やっぱり「例えその考察事実であろうと、他人が私の秘めたる感情時間をかけて推察している事実」に不快感を抱く。

Aの言葉は、結構これに類するものが多い。

自分を測られることへの不満や知った口を聞かれる不快感、「特定の誰かに宛てた言葉では無い」ということを全面に押し出すような書き方。

そんな書き方をしているのに、分かり易く示してくれているのに、その言葉自分の中で大事大事仕舞っていることが極めて愚かであると感じる。

あくまでも自伝であるのに、その言葉共感したり感銘を受けている私が。

だけど、好きなのである。どうしても。

人に測られたくないから、きっと私と同じような考え方を持っているAの言葉性格に惹かれる。

けど、この「きっと」こそが人を測っているに他ならない。

から絶対にAに近寄りたくない。 答え合わせをしたくもない。 これはほんとうに仮の話だが、何かの縁でAと知り合いになり、友人になり、推察が上手いこといって、同じような考え方なんだね!なんてことになってしまったら。

私はこんなにも好きなAのことを好きなままでいられるのか、わからない。

乱雑でこんがらがったままだけれど、自分感情を推察する余地他人に与えられるようになるまで、きっと今後とも手の届くことの無い誰かにひたむきな好意を向け続けるのだろうなと思う。

最初の方に綴った通り、自身を高尚な人間だと奥底の方で謳っていることがこの現象の原因だと考えられるので、まずはその傲慢さを取り払わないことには私は一生ひとりぼっちである

他人一方的にひたむきな愛情を向ける」ことは、すごく明瞭だ。ただ、そろそろ成長したい。ひとから好意を受け入れたい。自身根本を推察されることを拒絶したくない。

とにかく、この半ば依存のような好意をとやかく向ける行いはそのうち卒業する予定だ。

このジレンマから抜け出せて、しがらみが解けきったときに、私が至って健全な「好き」をAに向けることが出来ていたらすごく嬉しいなあ、と思います

2024-04-18

anond:20240416130707

そういうもんだとわかってても辛いよなぁ

今まで着ていた服が着れないことも、重い体の不調を抱えることも、ほんとに絶対しんどいと思う

変なコメント気にせず自分子どもだけじゃなくて自分自身)を大事にしてね

自分問題をさも全体の問題かのように言って、自分の主張を「問題提起」に紛れ込ませるやつって卑怯だよなー

そんでそれに自覚がないやつは更に面倒くさい

こっちは全体としては軽微の問題だと言っても、全体(=自分自身)の問題だ!補填しろ!と自己中な事言ってる自覚がない

2024-04-17

産休クッキー配慮しなくてもいいけどがっかりはする

安い菓子ならまあこれから子育ての時期にお金かけられないしくれるだけ嬉しいよと思うけど

金のかかる注文品として特にもらった側が嬉しくないプリントクッキーってのはなあ

「これからしばらく休んじまってすまんな」というお詫びともらった側を喜ばせるための気持ちよりも

自分自身へのおめでとうの気持ちが上回って独りよがりになってるんよ

実際めでたいことだからしゃーないけどな

anond:20240417201950

冗談抜きにダメだと思います。でも在宅勤務しろで終わる気がする

臭いがどうこう以前に想像の上をいく投稿続いたからな(いじめ傍観は当たり前等)

 

ただ、在宅勤務できない職業、例えば、飲食店かについては、

臭いに関して雇い主が指示するのは合理性があるって扱いになっていて確か裁判で勝てなかったと思うな

まぁ雇われではなく、自分自身オーナーになれば解決やけどな

自分自身がそこそこフォロワーのいるお絵描きアカウントなので5000〜10000フォロワー絵描きの鍵アカとか繋がってたりするんだけど、思想承認欲求の強さに正直引く

まあそれを誰に言うわけでもない

彼らも鍵をかけて隠してる部分なんだし。

憎い友人が死んだことを半年遅れで知った。

ただの、フィクションの⻑駄文です。

⻑い⻑い文になってしまった。

1ヶ月ほど前、私の男友達からメッセージが来た。

Facebookの、アイツの投稿なんだけど」

と文に続いて画像が送られてくる。

Facebook投稿の、スクリーンショットだ。

だいぶ彼も慌てていたのだろう。

ブラウザのタブに、xvideoの名が残っているのに気づかずに私に送ってきたのが微笑ましい。

Facebook投稿は、もう1年近く会っていない私の友人、しおり(仮名)のものだった。

彼女の母を名乗る者から投稿は、淡々とした文で訃報を綴る。

しおり半年前、突然の病気で急死したこと

心の整理がつかず連絡が遅れてしまたこと。

そして、墓参りなどは心遣いのみで良いこと。

かに淡々と、けれど詮索を拒否する文面がそこにあった。

LINEに「Facebook見てなかったから気づかなかった」と返信をした。

とはいえ彼女のフォ ローをやめていた私はFacebookを見たとしても気づけなかっただろう。

返信をしてからすぐに、彼から電話がかかってきた。

彼の重い声色と対比するように、私の声はうわずって震えていた。

その震えが、まるで泣きそうな声であるかのように演じながら私は密かに、笑みを浮かべてい た。

本当は大笑いしたかったのだ。

憎い憎い、彼女の死が、心の底からしかったのだ。

私と亡くなった彼女と、そして連絡をとった彼が出会ったのは、数年前のことだった。

当時私たちは二十歳を過ぎたばかりの頃合いで、バイト仲間として付き合ううちに3人でつる むことが多くなっていた。

そういう、他愛もないよくある関係の三人だった。

そして若かったから、それが恋愛感情を伴う三角関係に移ろうのも自然な流れだった。

彼に片思いをする私たちと、その間でのらりくらりと気付いてるのか気付いてないのか分から ないようなふりで友人関係を保とうとする彼。

そういう微妙バランスで成り立つ私たちは、バイト先の閉店と共に徐々に疎遠になった。

そしてそこから二年越しで私たちはまた出会う。バイト先の同窓会だ。

私は彼女完璧無視されながら、「三人で話していた」。

まるで三人で喋っているかのような雰囲気で、私は彼女へ話を振っているのに、自然な流れで 私は彼女から完璧無視されていた。

理系大学に入り直すの、と彼女が言った時だけ私のことを見てニヤッと笑ったのを覚えてい る。

大学中退した私への、当て付けであるのは確かだった。(それにダメージを受けるかはとも かくとして)

ただの恋敵からマウンティングまで始めた彼女を見て、私は小さく、死ねばいいのにと呟い た。

その願いは数年後に叶うとも知らずに。

その同窓会から私と彼はまたつるむようになり、彼から彼女の近況を時折聞くような日々が続いた。

大学へ入るまでにメンタル的に崩してしまい、入学後もそれを引きずったままであること。

食事も取れず、かなり痩せてしまたこと。

そういう、彼女が不幸な話を聞くたびに、心の中で喝采をあげたいような朗らかな気持ちと、 悲劇シンデレラを演じて興味を引こうとする彼女のやり口の汚さに辟易する気持ちの二つが 入り混じる。

実際彼は、彼女のことを心配していたし。

私はこのまま拒食症になり骨だけの姿になってしまえと思っていた。 もちろんこれも今は叶っている。

彼女の肉は燃え、今は墓の下で骨だけになり壺に押し込められている。

そうして、今回の訃報に至る。

彼は、ここまで来てもずっと私たち三人は良い友達関係であると信じ、私だけに電話をして、 私だけに彼女の死への思いを吐露してきたのだ。

勝った、と思った。

私の心は汚いな、と諫める自分もいたがそれ以上に、祝祭の最中のように心躍る自分の方が強 かった。

わたしは、人の死を、よろこぶひとになってしまった。

後日、私たちは二人だけで、彼女の家へ向かった。 彼が遺族と連絡をとり、仏壇に線香をあげさせてもらうことになったのだ。

多分私は、あの日の、駅から彼女の家までの会話と景色を一生忘れない。 その日は雲が多いけれど晴れていた。 雲の中で光が複雑に揺らめいていて、それはまるで世界の全てが、私の仄暗い歓びを肯定する かのように綺麗だった。

から離れた彼女の家まで歩く最中、彼は謝りながら、隠し事を打ち明けてきた。

バイト先が閉店した頃、三人で会うことがほぼ無かったあの時期、実は三ヶ月だけ、あいつと付き合ってたんだよね、と。

彼女が生きてたら、私はその場で自殺したくなるほどの衝撃を受けていただろう。

けれど、今の私には、むしろファンファーレのような爽やかさを伴う言葉に聞こえた。

穏やかな顔で私は嘘をついた。

「知ってたよ?あの子、たまに私に相談してくれてたから」

割とあの子悩んでたよー?なんて、軽口を装い私は更に話を聞き出そうとする。

何だ知ってたのか、とホッとする彼は気を緩めて色々と話してくれた。

どうしても彼女恋愛対象として見れず、ぎこちない付き合いだったこと。

どうしても身体関係を結べなかったこと。

最後喧嘩別れしたこと

そのどれもが、私にとっては甘美な言葉たちだった。

これで彼女が生きてたら、この過去の付き合いが再度交際に至る伏線として機能してしまうこ とに怯えていただろう。

そして彼女への殺意が行き場をなくして私の中でいつまでも燻っていたのだと思う。

けれど、彼女は死んでいる。

からこそ私は安心して、彼女が、彼からきちんとお前は付き合うに値しない存在であると言 い渡され死んでいった事実を喜ぶことができる。

そして、その喜びを表すかのように、世界は輝いているように見えた。

草木はいつもよりもその葉の濃さを増し、空は雲を煌めかせているのだった。

彼女には未来がないこと。

それが私の、高揚感を煽る一番のポイントだった。

あんなに学歴や彼との距離感マウントをとっていた彼女が、今やただの骨となったことに私 は今までの人生で得たことのない種類の喜びを得ていた。

もう彼女には何もない。

あんなに心を崩すほどに勉学に励んでいたのも無駄になった。

入った大学キャリアを活かした輝かしい未来なんてもう彼女にはない。

そして、彼のこれから先の人生を眺めることも、彼女にはもう出来ない。

何よりもそれが嬉しい。

彼女の家は、ドラマに出てくるような、「いいところ」の家だった。

リビングには薔薇ドライフラワーが飾られ、テーブルにはレースクロスが敷かれていた。

そして、彼女仏壇を置くために、一室を使っていた。

仏壇とき大仰なと毒づいてしまいそうになった。

演技で涙も出るもんだな、と私は仏壇に手を合わせながら自分自身に感心した。

くっ、くっ、と声が出るのは、昂るからだ。

悲しみにではなく、喜びに、であることは隠せたと思う。

仏壇に手を合わせる彼の面持ちは神妙そうで、私が感情を露わにしているからこそ自分我慢 しよう、という気概を感じ取れた。

男子からこそ、気を張らねばという彼のいじらしさがどうにも可愛くて、ああ、やはり私は 彼のことが好きなんだな、と改めて思ってしまった。

リビングへと移り彼女の母と思い出話などをしながらふわりと伺う。

「本当に明るくて(空気が読めないだけ)楽しそうに笑顔を(彼にだけ)見せる子で...だからこそ急な話で驚いてしまって...病気とのことでしたが...」

彼女の母と、私は目で訴え合う。

それを聞くのか?という母親の目と、

死因を教えて楽しませろという私の目。

たった一秒にも満たない僅かな時間で、私はやはりこの女はあいつのなのだと感じてしまっ た。

あの、喰えない女を産んだ女だ。

「...脳浮腫、でして。...だから、本当に急な死で私も、本当にショックでした」

浮腫、というワード以外は一切出さないという意思を読み取り私は、彼と共にいるこの瞬間 を汚さぬように詮索をやめた。

ハッキリとしない死因で、私を楽しませるにはパンチが足りなかった。

けれどその最後は安ら かなものでは無かったであろうことを窺えたことは一つの収穫だ。

彼女の家を早々にお暇し、私たちはまたひたすらに駅を目指し歩く。

話すことも尽きたような振りで彼の話を空返事で返しながら私はGoogle検索で脳浮腫を延々と 調べていた。

浮腫。とっさに、本来の死因を隠すために出たワードにしては具体的であり、嘘のようにも思えなかった。

けれども、脳浮腫医学知識のない私が検索で調べた結果を読解する限り、直接的な死因であるようにも思えない。

浮腫とは脳に水分が溜まり脳が圧迫されている状態を指す言葉である

それを死因として挙げるのは、やや話が飛んでいるように見える。

たとえば、交通事故で全身強打し、内臓破裂で死亡した、というのを、内臓破裂で死んだ、と 表現するような感覚である

そう、私には、母親はとっさに嘘をつけなかったため、「脳浮腫に至るきっかけ」を伏せると いう形で娘を守ったのではないかと、そう感じた。

そして私は、一つの結論に至り、また悦に浸る。

まだ何も知らない、違和感に気付いてもいない彼の横顔を見ながら、私は、彼女の今際の際に 想いを馳せて、うっとりとするのであった。

浮腫に至るきっかけでありなおかつFacebookの文や母の言葉にあるように急死に繋がるよう な死因はくも膜下出血などが挙げられる。

可能性はこちらの方が高そうだ。

突然、死に至る病としては説得力がある。

けれども、そうだとしたら、母親は病名を伏せる必要があるのだろうか? くも膜下出血で亡くなった、という話なら、伏せる必要なんて何もない。

から、私は、もう一つの、限りなく低い可能性の方に賭けている。

浮腫は、多くは脳出血が原因で起きるものであるくも膜下出血などのように身体の内部か ら急にエラーを起こし脳浮腫に至る場合もある。だが外傷により脳出血が起きた結果でも脳浮腫はできる。

そして、私はふと思い出すのだ。

彼女大学入学からメンタルが不調になり、夏頃にはアルバイトすらもやめてしまうほどに 追い詰められていたということを。

そして、親が必死で隠す死因と言ったら、一つだろう。

もちろん七割は、私の願望なのであるが。

帰り道は雲も晴れ、傾いた日差しが強く、どこまでも世界は煌めいているような気になってし まうほどだった。

その煌めきの中に、彼も共にいる。

なんと幸福時間なんだろうと、心の底から思った。

この煌めきを、彼女はもう永遠に味わえない。

その事実もまた、光の儚さを強調するように感じられてまた私の中で歓びが増えていく。

から、いいのだ。

彼の口から、今の彼女との結婚プランの話が出てきたとしても。

彼女が白無垢を着たがって、お金がかかりそう、なんてのろけをされたって。

この世界の美しさの中では、何もかもが許せそうな、そんな気がしたのだ。

から、その今の彼女名前を、今回死んだ彼女仮名に使うくらいのお茶目さは、私だって 許してくれてもいいだろう。

来年の今頃、彼は式を挙げる。

彼の姿が和服になるのかタキシードになるのかは知らないが、彼の最高の笑顔を私は目に焼き 付けることになるんだろう。

それは、恐ろしく悲しく、残酷なことのように思える。けれども私は耐えられる。あの女が、 もうこの世に居なく、そしてあの子は、幸せそうな彼の姿をもう見ることなんてできないのだ と、そう思うだけで痛みに耐えることができるような気がする。

そして、もうひとつ彼女の死の瞬間を想像するだけで、心が昂り、苦を感じなくなるように 思えた。

彼女は、どのように死んだのだろう。

微妙な高さからコンクリートに叩きつけられるも、脳をぶちまけることなく、脳浮腫という形 で苦しんで死んだのだろうか?

それとも、首に索条痕を残し、その細い骨をパキャリと砕いて亡くなったのだろうか。

ただの私の願望である、 「自殺の上で付随して脳浮腫が出来た」という死因を想像しては、愉快な気持ちが止まらずに 居られない。

けれど、メンタルが追い詰められていた人が亡くなり、その死因を遺族がぼかすとしたら、自 殺しかないんじゃないだろうか。

首吊り飛び降りなどの脳への外傷が出来そうな死に方をした上でなら、脳浮腫も出来るだろ う。

ああ、彼女は、世界絶望しながら自分の手で命を落としていて欲しいな、と心からそう思 う。

今までの努力が全て無駄になった上、 彼から彼女として見れないという烙印を押されたまま、絶望最中彼女には死んでいってもらえたらどんなに愉快だろう。

そんな想像をしては、私は笑みを浮かべる。

私の恋心はどこから崩れてしまったのだろう。

駅に着き、ひとしきりのろけを聴き終わったところで私たちは別れることにした。 白無垢のために頑張ってお金貯めなよ、なんて笑ってあげた。

からは、ニコニコと笑いながら答えが返ってきた。

「式の時は、俺の白ネクタイ貸してやるよ」と。

来年の今ごろ、私は、礼服姿に、彼が過去に使ったネクタイを纏い彼の人生最高の瞬間を見届 けることになりそうだ。

それは、幸せことなのだ、きっと。

そう言い聞かせながらも、私は、結婚という幸せ人生を歩んでいく彼の姿を見なくて済む、 死んだあの子を少しだけ羨ましく思う。

死んだら死んだで、それもまた幸せなのかもしれないな、という感情も湧きでてしまい、私は 慌ててその思考に蓋をする。

やっぱりこの世は美しいが、生き地獄だ。

その生き地獄よりも下層の、死の世界へと消えていった彼女を蔑むことでしか、今の私は心を保てない。

この歓びや哀しみやそのほかの色々なものがないまぜになった心持ちに、何かの決着がつくの はまだまだ当分先のことなのだとは思う。

ただ一つの結論として言えることはある。

こんな恋愛、二度とできないし、もうしたくない。

2024-04-16

中学からの一人と、高校からの一人の二人を友達だと思ってたんだけど、今彼と付き合いだしてからというもの、急に2人ともから距離を置かれ、気づいたら私から連絡しない限り連絡もなければ、彼氏が写っていればもちろん、彼氏の気配だけでもありそうなIGの投稿には絶対いいねをしないという徹底ぶりな態度を見せられ、「あ、友達ゼロんなったわ」と気づいた。

けども彼が「あなたに誰もいないと思う前に、あなたにはあなた自身がいるということに気づいた方がいい。いつだって自分自身いちばん親友のはずだよ。(ついでに言えば僕がいるぜ)」と言ってくれて、まあそうか、自分だけ信用してればいいやとまた殻に閉じこもるINFPなのであった。

「絵が上手いの、ずるい」と言われた

子どもたちと接する機会があり、一緒に絵を描いていたらその親?に言われた。

子どもたち「絵、うま!どうして?」

「君たちくらいのころから描き続けていたからだよ」

親「え~w最初から上手だったんだw」

最初はこの子たちより下手でしたよ~」

親「ないないw最初から上手いから描き続けるんだよwいいな~ずるいよねw」

子どもの前で何をいってんだこいつ…と思いながらその場は適当にあしらった。

こいつに初めて描いた絵を見せたいもんだ。

ただのぐちゃぐちゃの線だぞ。

最近オタク文化根付いたのか絵描く子多いから今の子の方が上手いだろ。(おそらく)

 

というか「ずるいよねw」ってなんだ…。ずる…?

 

ふと絵描き人生でも振り返るかと思い、吐き出しがてらここに投げることにした。

 

初めて絵を描いたのは覚えていない。物心ついたときから暇だったら絵を描いていた気がする。

幼稚園で一番好きなのは絵を描くとき

想像が目に見えるという楽しさで描いていた気がする。

 

小学校に入ってからはつらかった。

漫画が好きで漫画をメインで描いていた。

しかし当時は

絵を描く=オタクキモイいじめていい

みたいな時代だった。それか自分学校治安が悪かったのかもしれん。

教室で絵を描いていればカースト上位にぶんどられて

「うえ~wこいつ絵なんて描いてるぜ~wキッショ!」

である

移動教室ちょっと自分の席を離れていたら、しまっていた自由帳を黒板に張り出されているし。

鉛筆や道具箱消えているし。

キャラを描いていたら

おっぱい描いてるwきっも~~~www」

だ。

しばらくして図工教室に籠もるようになった。

図工の先生だけは「上手!」ってほめてくれたから。

担任も「絵なんて描いてないで外で遊ぼう!」しか言わんかったし。

 

その中でも絵を描く同士で集まって、出始めたころの初音ミク衣装を考えてみたり、好みのイラスト本を共有し合っていたりした。奪われて晒されて怒られたこともあったけど。

どんなに周りから馬鹿にされても描き続けていた。

同士がいることは本当に心強かったな。

 

中学に上がり、第一の衝撃があった。

絵がとんでもなく上手い奴がいたのだ。

マジで上手い。

な…なんだ…これ…背景?!…ぽ、ポージング?!横顔?!うま?!なんで?!

ペリー来航だ!!!明治維新だ!(?)

自分の絵なんて赤子どころではない。猿がかいた…いや猿の方がもっと上手い。

ここで初めて自分の絵が「下手」ということを認識する。

下手すぎる。なんだよ横顔をかけないからって逃げるなんて。

 

そいつ鈴木とする)はまじで上手かった。

しか鈴木は堂々と絵を描いていた。小学校時代に怯えながら描いていた自分とは違う。

絵に対しての自信が違いすぎる。しかも懐もでかい

増田、どうしてそんなキャラをたくさん生み出せるの?!え、漫画も描いてる?!すごい!」

いいやつすぎる…なんだこいつ…。

こいつと一緒に絵を描いていると、下手なのが申し訳ない!!!

 

鈴木コミュ力も高くてどんどん絵描き仲間を作っていく。

私立だったからしらんけど、絵描きいじめるやつはいなかった。

しろ絵が描ける=すごいって認識だった。

 

そして鈴木を中心にどんどん上手い奴が集まってくる。

「うまくならなきゃ!!!みんなに失礼のないように!」

と、好き勝手描くのではなくちゃんと人体や構図を意識して…。

鈴木コミケに遊びに行こうと誘ってくれて、デジタルというのを知り親に頼んでみる。

 

ここで自分の親は偏見を持たなかったのもでかかったきがする。

パソコンで絵が描けるみたいだけど、何か知ってる?」と父親相談した。

父親電化製品が大好きで、PC自作するタイプ人間だった。

秋葉原学生時代から足を運んでいたらしい。

父親ペンタブという存在を知っていた。イラストソフトっていうのも知っていた。

「一緒に買いに行こう」と初めて秋葉原に遊びに行った。

 

ここでアニメ絵という存在を知る。

すげぇ…あんなに迫害されていたオタクという文化が街に存在している…。

この絵柄ジャンプとかじゃみない!かわいい

逆に渋くてかっこいいのもある!

 

イラストの描き方本がたくさんある場所も教えてもらった。

ペンタブというものがあり、デジタルだとあんな絵が描けるというのも知った。

 

ますます絵を描くのが楽しくなった。

デジタル最初、まったくわからなかった。

レイヤーバケツ解像度ペンの種類多すぎじゃね?色どうやって作るの?絵の具とは違う?

でも毎日触っていた。機能がわからなくてもペンを動かすのは同じだったから。

 

中高一貫だったのでそのまま鈴木とともに高校に上がる。

このくらいからまわりが「アニメ絵やポップな絵が欲しいなら増田に頼む」という認識になった。

美術部を差し置いてそんなそんな…。ありがたいことだった。

自分バリバリ運動部だった)

 

鈴木が「めっちゃ絵上手になれた。増田のおかげ」と言ってくれたこともあった。

自分にとって、鈴木は目指すところだし、憧れて悔しいところもいっぱいある。

でも一緒に上手くなっていくのが楽しかった。ライバルってこんな感じかもしれん。

 

このあたりから自分は絵が上手いんだと思うようになった。

鈴木にもようやく追いつけたぞ!と思った。

 

Twitterが盛り上がり時期で、このあたりでネットにも投稿し始めた。

とあるジャンル二次創作にはまってどんどん絵を描いた。

ネット上にはもっともっと上手い人がいる。激うま。みんなプロじゃないのか?

でも自分の中では「自分はまだ高校だし」と思って、いつも通り適当に絵を描いていた。

 

大学受験が疎かになってペンタブ没収されるくらいに絵を描いていた。勉強しろって話だ。

変わらず授業中に絵は描くし、風邪ひいていても絵が描きたくて起きたり、兎にも角にも絵が描きたい!!!!!!!!!!という中高時代だった。

 

大学にはなんやかんや頑張って受かった。

……芸術系の。(美術専攻ではないが)

そう、これがやばい

 

第二の衝撃。

みんな………………絵が………………うますぎる。

え?みんな先月まで高校生だよね?

え?え?

プロじゃないの?!?!?!?!?

美術専攻でないのにこのうまさ?!?!??!!

落書き!?!?

同人誌だしている?!壁サー?!?!?

 

井の中の蛙大海を知らず。

鈴木の絵は上手いと思っていた。まじでリアルの周りで頂点だと思っていた。全然だった。

鈴木の5000000000000000倍上手い奴らしかいない。(鈴木も十分上手い)

しかネット上ではない。リアルにだ。

ネット上だとプロとかもいるしと、なぜかフィルターをかけて「しょうがないよね」ってなってた。たぶんネットから実感がなかったんだと思う)

 

比較して鈴木が下手の分類になると、必然的に追いつけたくらいの自分もっと下手になる。

 

改めて自分の絵を見る。

へっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっただな!!!!!!

は?何が「自分は絵が上手いんだ」だ。馬鹿か。ドアホ!

クソみたいに下手な絵だな?!?!?!これで投稿していたんか!!!

恥ずかしいわ!!!!!!!!!!!!

 

みんななんで上手いんだ?!デッサンしたほうが良いのか?!

でも、デッサンをやっていない人ばかりだし、それでも絵が上手いってなんでだ?!

息をするように神うま激うま絵が出てくる!!

 

困惑しつつも、成人して鈴木と一緒にコミティアに出た。イラスト漫画

計5部くらい売れた。終わり。

(身内+他の島の本も全部買うタイプ富豪人間の5部)

隣接サークルボンボン売れている。

明らかに通りすがりの人の立ち止まり率が違う。

ようやく現実を突きつけられた。

自分はうまくないんだ…」

 

鈴木は楽しそうだった。上手い・下手だけで生きていない聖人だったから。

もっとうまくなりたい」とぼやいたら「向上心の塊か?なろう!もっと高みに行こう!」と言ってくれた。

ありがとう鈴木。本当にいいやつだな君は。

 

 

大学時代結構つらかった。

何をすれば絵がうまくなるんだろうと悩んだ。

ペンを動かしても「違うよな…」となった。

塗り方を変えてみたりした。

たくさんのメイキングを見たり、ペンには何があるか、生物構造は何があるかちゃん勉強した。

 

高校生まではちゃん勉強して絵を描いていなかった。

なんとなく模写していたら上手くなっていたし、ちょっと意識すれば上手くなったからだ。

でも限界があった。

 

嘘みたいに絵を描く気力が落ちていった。

だって自分より上手い人なんてごまんといる。比べ始めてしまった。

絵を描いて…何がしたいんだろう。仕事にしたいわけじゃない。

どんなにインプットしても思い通りに描けない。アウトプットがうまくいかない。

授業中に絵を描くのは大学生になっても続いていたが、なんか満たされない。

片道2時間半の通学も車窓の景色を見つめてぼーっとしてしまう。

下手だから上手くならなきゃとただ漠然と絵を描いていた。

 

周りの真似や、メイキングをあさっても、なんかピンとこない。

「十分上手い」と言われても自分では納得できなかった。

だってもっともっともっと上手い人が周りにいる。

つか、上手いってなんだ?何をもって上手いなんだ?

人体通りに描けていれば上手いのか?

でもそうじゃない人もいる。

崩しが上手い人、デフォルメが上手い人、モンスターが上手い人…。

ここで初めて「絵が上手い≠綺麗に人体が描ける」と思った。

 

絵が上手くなりたい。でも明確なゴールって?

鈴木を超えたら終わり?

楽しければいいと思っていたが、うまくなればもっともっと楽しい

想像が目に映る形になるのがうれしい!楽しい

でも上手いってなんだろう?

 

そんな時、大学とある講義教授がこんなことを言った。

 

芸術は人の感情を動かすことができる。自己完結ではなく、第三者に影響を及ぼせる。

技術科学芸術も一人で終わってはいけない。第三者に影響させてこそ輝く。

社会貢献という形で自己確立にもなるんだ。すでに君たちは与える側に立っているんだ』

 

自己完結世界自分一人ならいいが、そうじゃない。

絵が上手い人は自分世界を持っている。

その世界が伝わるから絵を見ることは楽しいし、すごいってなる。感動する。

絵を描き続けるだけが楽しいと思っていたが、元はそうじゃないって気が付いた。

想像を形にして、自分にそれが伝わるから楽しい。絵で感動しているからだ。

なら第三者に伝えられることができればもっと楽しいのでは?!感動させたら?!

 

そのために、もっといろんなものを見よう!

せっかく芸術系大学に入れたんだ!しかも他の学科も受けれる大学だ!

他のジャンルの授業を受けてもっともっといろんなものを見よう!

そこから自分が手にしたい絵柄、表現にたどり着こう!第三者に伝えられるように!

それでこそ自分想像が完成する!自分勘違いで終わらせない!

という結論になった。

 

自分自身の絵を振り返って、自分の描ける絵柄を見直した。

流行りやあこがれで選んでいた絵柄は自分では表現しきれないと諦め、アニメギャル塗りを極めようと絞った。

そして、好きなものは何だろう。自分が良く描くものは?と徹底的に自分100%実力が出せるように調べた。

 

大変だった。

初めて絵を描いて「違う!!」「こんなの下手すぎる」となった。

漫画を描いてもストーリーはまた別の技術。これまた自己嫌悪になった。

何を描いても必ず楽しいにはならなかった。

ゴミみたいな作品生みやがって…」と自分にキれることも増えた。

何作も描き終えては「ゴミだな…」となり、試しに小説を書いたりもした。

くそみたいな話だな…微塵も面白くねぇ…」と二度と読み返さないのも増えた。

でも、自然ペンは握っていた。

 

ふと、気が付いたらなんか想像していた通りの絵が描けた。

急にだった。どうした?

なんか漫画もすんなり描けたぞ?小説も苦じゃない。

徐々に上手くなったのかもしれないが、突然意識して「あれ?上手くね?」となった。

無我夢中だったのか?

積極的コンテストに出始めたのもこのあたりだった気がする。

SNSでも反応が増え始めた。

 

大学4年になってもう一度コミティアに出た。

完売した。50部

 

え…?

え……?

え"?!?!?!?!?!?

 

しか漫画完売した。

 

は?!?!?!?!?

 

感想めっちゃくる。賞もちまちまと頂けた。

 

へ?!?!?!?!?

 

た、たどり着いたってこと?!

第三者が見ても絵が上手い人間!!!!!!

 

人生で積み重なって山になった自信がようやく噴火した瞬間だった。

まらねぇ~~~!!絵描くの楽しい~~~!!!!!!

つか作るのたのしぃ~~~!!

思った通りに!意のままに!絵が描ける!描けている!自分勘違いじゃない!

 

賞をいただけて、意図が伝わっている!

伝わっているってこんなにも楽しいなんて!

 

20何年。ようやく堂々と絵が上手いと言え、それにうなずいてくれる第三者がいる。

なんとなく絵が上手いよねくらいじゃない、絵が上手い人にへと!

 

1つのゴールにたどり着き、次のスタートが始まった気がした。

 

 

ばーっとかいたけど、頑張ったんだな自分

「「ずるい」は、自分に有利にするために、汚い手を使ったり、ごまかしたり、だましたりするさま。」ってgoo辞書にある。

どう見たってずるじゃねぇだろうがい!!!叫びつつ、これをどうにか圧縮して投げつけたい。

 

 

「絵が上手いね。どうして?」と言われたら

「ずっと描いていたからね」と回答する。

とりあえずの最適解なんだよな。

 

でも、これを3年くらいでやってのける人間もいるしな~。世界は広いよな。

 

自分の絵は上手いと思うが、でもやっぱり去年の絵をみて「まだまだ」と思う。

からおおっぴらに自慢できないけどさ、ここに残しておいてもいいよな。

 

AI絵とかできて自分の絵は不必要になるかもだが、それでも描いていたい。楽しいんだもん。

ちょっとでも誰かがすごいって感情が動いて、感動してくれれば、自分がこの現実に生きているって思えて嬉しい。

考えればこの親もずるいっていう感情が生まれている。嬉しいことかもしれない。

 

 

<余談>

鈴木のことは超えられない。というか超えるっていうの止めた。

鈴木も当然とんでもなく絵が上手くなっていて、すごいことになっている。

絵のジャンルは違うけど、いまだに嫉妬しつつ憧れているし、お互いの絵を褒め合って羨ましがって「いいだろ~」「お前上手いな!」と言い合っている。

でも鈴木には負けない自分の上手さがある。

そして鈴木に勝てない自分の下手さもある。

中学から変わっていない。

irohaを求めて都内千里

東京の街を歩いていると、誰もが幸せそうに見える。でも、それは上辺の仮面に過ぎないのかも。

心の奥底には、口に出せない欲望が渦巻いているのだ。

だって、その例外じゃない。

週末はイベントネットワーキングの嵐。口角は上がり、会話は弾む。

でも、心の叫びは誰の耳にも届かない。いや、届かせられない。

ハードワーク明けの月曜日、ついに叫びが爆発した。そう、私はirohaが欲しかったのだ。

抑えきれない熱情。

でも、どうしても届かない。男性は握ることが出来る。

が、女性場合、指では理想に届かない。

男性はずるい、こういうとき本当に羨ましい。

まずは、渋谷ロフトへ。

Webサイトによると、ボディケア売り場にあるらしい。だが、見つからない。

恥ずかしくて店員には聞けない。

見知らぬ人に、私の欲望を察せられるなんて、考えただけでゾッとする。無理。

3周しても、マジで見当たらない。


次は渋谷ドンキホーテ

巨大な店内を彷徨う。

色とりどりの商品を見れば、絶対あるはずと期待が膨らむ。が、求めるものはどこにもない。

まずカーテンのついた売り場が見つけられないし、店員さんにも聞けない。


避妊具売り場をガン見するが、置いていない。

番いの幸せは公に置いても問題なく、個の幸せけが秘匿化されすぎてる。

一体どこに売ってるんですか。

外国人観光客に混ざるフリをして、店内を2周程度彷徨う。

日が沈み、街に夜の帳が下りる。私の心にも、闇が広がっていく。

歩く宛てもなく、ただ街をさまよう。

これは散歩じゃない、情欲が尽きるか、体力が尽きるかの戦いなのだ


夕飯後、白金台ドンキホーテに寄った。

でもここは、私の探す品をそもそも置いていないときた。松坂牛は売ってたけど。


一体全体、私は何を探しているというのか。


目黒ピカソで、やっと出会えた。まさに運命出会い。

お会いできて嬉しい。一緒にお布団へ行きましょう。

時計の針は、もう深夜を指していた。


渋谷ロフトから約8時間

私は今日都内めぐり自分自身を探す旅をしていたんだと思う。

今夜、私は、スッキリした自分自身にやっと再会できる。


意気揚々帰宅し、蓋を開ける。

かにいかがわしくないデザイン。優しいフォルム

早速充電してみると、LEDが点灯しない。


まさか初期不良品だったのだ。


絶望に打ちひしがれる。

深夜のカスタマーセンターは、もちろん閉まっている。

技術絶望


でも、私は決して諦めない女。

さっき、勇気を振り絞ってカスタマーサポートフォームを記入した。返事は5営業日以内とのこと。

私は今、タイムマシーン未来へ行きたい。

2024-04-15

自虐とは他虐であり、自分自身への差別偏見だという話。

先日こんなものを見た。

https://twitter.com/kanare_t/status/1775778556557316153

瞬間的に腹と頭の中に濁ったものが湧いた。

見なければ良かったと思ったが見てしまったものはもう仕方ない。

出来るだけ早く忘れるか、と思ったが、しかしこれを見たことで“私はなにがどうして嫌いか”が明確なものとなったので、これもひとつ経験か……と思い、書き記すことにした。

私は自虐が嫌いだ。

今までも漠然と思ってきたことだが、それに明確な理由が見えた。

自虐とは他虐だということ。

本当に“自分だけを貶めている”自虐なんて滅多に無い。

「私はこういうところが変なんですおかしいんです」と自分を貶めているようでいて、発言者と同じ性質を持つ他者までも貶めることになっている。だから嫌いだ。

この発言者は「みんな」と呼び掛けている。「私と同じような性質を持つ者はおかしい」と不特定多数に周知している。これは他虐だと思った。

勿論これを見て気にならない人もいるだろう。この発言についた返信もいくつか見たが、概ね発言者同意するものや、同じように自虐的なものが見られた。私にはそれもまた他虐の上塗りに見えた。返信していないだけで、静かに傷ついている人はいるかもしれない。

そしてもうひとつ自虐自分自分に(そして自分と同様の性質を持つ人に)差別偏見の目を向けることでもある。だから嫌いだ。

この発言者は、自分趣味嗜好を掲げてそれを異端視する言葉で表し、自らその趣味嗜好への異端視を促すような文を発信した。そのことに大きな不快感を感じた。

アカでの内輪ノリなら良いかもしれないが、開かれたアカウントでこれを発信し、広く拡散されて様々な人の目に届き、「気づいた」人が、読書を楽しく思えなくなる可能性がゼロだとは言えない。

しかもこの発言者小説家だ。読者がいるのだ。これはその読者たちも異端視し、「自分おかしいのだ」という差別偏見を持たせてしま可能性のある文だとも思え、不快感の一端になっている。

私自身は世間読書率がどうであろうと構わないが、自分職業にも関わる物事を取り上げて「こういうことが好きな人おかしい」とわざわざ呼び掛けることがが何かにプラスに働くとは思えない。私がこの発言者作品の読者だったらこの文に失望しただろう。

そもそも対象自分であろうと他人であろうと、何かしらの嗜好や特徴を取り上げて異常だ変人だなどと(褒め言葉として使っていたとしても)表すこと自体が嫌いだ。

それが犯罪や命に関わることでないなら、どんな性質だろうとなにを好んでいようと等しく普通人間だ。私はそう思いたい。

これらのことを改めて考え、言語化するきっかけになったということでは、あの発信に出くわしたのもそれなりの価値があったのかもしれない。

[] 2024-04-15

最近、いくつかの作品書籍を視聴したり読んだりして「自分らしくあれ」という助言があるのだけど、自分らしさってなんだろう?

子供の頃の素の状態自分らしさだとするとキチガイだし、かといって今の自分らしさと言ってもわからないし。

ただ自分の癖としてすぐに誰かを真似してしまうというのがあるかもしれない。ヤングシェルドンのシーンを借りるなら「偉大な科学者の真似をして、ユダヤ教に入信しようとする」みたいなこと。

自分自身精神人格の根源はなにか。あるいは祖父母や両親が教えてくれた事を覚えているだろうか。

楽しいことを考えて生きる」が最近の母の口癖だ。母が俺に言ったことの中で最も印象に残っているのは「あんたの身の回りに起こる出来事あん自身が起こしているんだよ」と。

この母の助言は、俺が学生の時覚醒状態にあって眠れず、その状態で友人のBBQパーティに行って錯乱して喧嘩したときのことだ。

グッドオーメンズでアダムがその強大なオーラを纏っていることを自覚せず、でたらめな陰謀論を単に実在すると信じるだけで現実にしたようなものだろうか。

なぜ世界は、精神薄弱や錯乱状態を俺の中に生み出しておいて、その中で「自己」について助言するのだろう。

覚醒して全く睡眠ができずてんかん発作で気絶したとき、一体誰が俺の苦しみについて理解できたというのだろう。

リーナス・トーバルズが「Just For Fun」といってLinuxを開発していたように、俺も楽しむことを人生の中心にしたほうがいいだろうか。

時々、本当にマトリックス世界があるのではないかと疑ってしまうことがある。たくさんエネルギーを使わせて、電池として消耗しているわけだ。

しかエネルギーを使わなければ楽しむことはできない。自分を変えなければ、怠け者から抜け出すことはできない。

努力」に対する俺のトラウマ「教育」習い事」などに対する発狂的なヒステリーとして記憶されている。それは邪悪悪霊のごとく、子どもたちの笑顔を奪ってきた。

から俺は成長してからストールマンの言うようなハッカー観、好きなことに熱中して習熟するという価値観を大切にしてきた。

しかし肝心の「好きなこと」が好きではなくなる感覚最近は感じられる。

プログラミングが好きだ。しか仕事としてそれをやり続けると義務感に押しつぶされそうになり、趣味からは遠い存在になっていくのを感じる。

結局、物事シンプル説明がつく。つまり自分を見失っているのは、仕事で疲れているからだ。強制労働させられていた歴史上の奴隷は生きていく上で「自分らしさ」を感じただろうか。

旅に行く勇気はないが、ちょっとした散歩をして、その範囲を広げてみるといいかもしれないな。そのぐらいの気晴らしが俺には必要だ。

anond:20240414090650

氷河期ど真ん中世代としては、新自由主義政策を決定したのは当時の社会権力者層(バブル世代の更に上)なので、気付いたときにはどうしようもなかった。

けど、自分自身でそういった流れに迎合していたのも事実かなと思う。選挙でも与党投票する氷河期世代は多かったはず。

社会人なりたての頃は、政治家には企業経営者のようなセンスと実行力が必要だなんて言っちゃったりしてた。今思うと恥ずかしい。

自分派遣大企業の末端営業になったときも、これから正社員というのはどんどん減って、各業務領域プロである派遣と、少数の経営者による組織体制が増えていくのだろうと想像した。そして派遣給与スキルや成果によって上がっていくものだと。

今思うと企業経営感覚政治やられたらたまらないし(企業が「市場ではない」と切り捨てる取すてるところまでフォローするのが政治だ)、竹中平蔵綺麗事のような未来は来るはずもなかった。新自由主義なんて結局、エリート主義の言い換えにしかならなかったんだなと思う。

誰も自分たちの境遇が悪いものだとは思いたくないから、その立場正当化するための言説に流れてしまう。あらゆるものが貧しくなり気候変動も酷いのに「日本には四季がある」と誇っちゃうのと同じ。

anond:20240414232157

「だったら現実痴漢を取り締まればいいじゃん」

って言ってる人たちがチラホラと散見される。

そんな人たちに聞きたい。

専門家でもない素人に尋ねても仕方ないと思います

なんかまだ発火してる人いるけど女性の権利のことは、その道のエキスパートに任せて

自分自身幸せを追求すればいいのにねぇ。

2024-04-14

どうすれば負けないか

休日だというのに、だれからも連絡が来ないLINEの友だち一覧をスクロールする。

ふと、大学時代の友人のアイコンが変化していることに気づいた。顔が良く見えないので、アイコンタップして拡大してみたら

友人と、彼の子供(赤ちゃん))らしかった。

結婚していたのは知っていたが、子供までできていたとは やれやれ、俺は独身で(バツイチ)、子もいない こりゃ負け確か・・・・・・と思わざるを得なくなってしまう。

結婚して、SEXして、女を孕ませて、家庭を築き上げる。人間からとか関係なく「オス」として生きるものが「正常」ならば果たしたいミッションだろう。

何故この俺にはそれができないのか。。。一度結婚したとはいえ離婚してしまった バツイチという十字架を背負って毎日生きているこの人生が苦しい苦しい苦しい。

子ども保有している同年代の同性をみると、どうしても彼らが夜な夜な奥さんSEXしている様子の想像で頭が満たされて、何も手につかなくなる時がある。

中に出している という現実を思うだけでつらくなる。

仕事中にも、自分ではなく、他人SEX想像してしまう。そして苦しくなってしまう。

なぜ苦しいのか? これは羨ましがっているのか?わからない。 

問題なのは、「結婚」「子持ち」がステータスだと感じてしまうことにあるのだろうか。俺はそれらをステータスだと感じている。

その、ステータスだと感じているものをこれ見よがしにLINEアイコンにする人間が、自分の知っている範囲に居るということが複雑な気分を起こしてくる。

どうすればこの先、勝てるのか?負けないか?仮に結婚して子持ちになったところでそれは同じ土俵にあがっただけで、

その先が本番なんだろうとは思う。今の俺は、その土俵に立てていない。

自分自身の今の気持ちのものに、どうすれば負けないか? それが問題だ。

ブクマカってどんな仕事してるの?

ブコメ観てると「この問題にはこの素晴らしいアイデアを導入すれば一挙解決!」みたいなのが散見されるけど、仕事してりゃ1番難しいのは(そのアイデアが本当に素晴らしかったとしても)導入のために人々を説得する事だったり、1番人間臭いめんどくさい事なんだってわかりそうなもんなんだけど。ブクマカって自分自身鶴の一声で全てを変えられるような、そんなすごい人達なん?

anond:20240414122224

男女対立構造は、

・男女はともに異性を好きになる

人間自身感情を優先し、理性は感情正当化するために使われる。

人間は、本来 n=1すなわち自分自身体験しか経験できないが、それを一般化したがる。

これが原因であって、知能の低い高いはあまり関係ないと思うけどねぇ。

男も女もおなじくらい感情的だし、自分感情が心地よいと思う方向に活動する。

そして、本来は、彼と彼女問題、夫と妻の問題は、全てその二人だけの個人的問題のはずなのに、

男はアレだ、女はアレだと一般化することで周囲の共感を得られやすく、味方を増やせるから、大騒ぎする。

anond:20240414091338

おれも自信ない、というかアウトだったことあると思う

昔の彼女への言動とか要求とか、今考えるとすごい「イキリ」があったし、認めるしかないものだな、自分自身若さ故の過ちというものを…

2024-04-13

自己投資の基本

若者投資なんかせずに自己投資しろ

NISAするより自分投資した方が断然有利」

なんて偉そうなことを言う奴が多いくせに

じゃぁ自己投資をどうやってすればいいのかを誰も教えていないか

自分過去経験を踏まえて自己投資について解説したい

拡張自我に対して自己投資する

拡張自我とは、要するに自分身の回りにあるモノを自分の一部だと認識する心理学のこと

自分の使っているペンを褒められると嬉しいし貶されると怒る

それは自分自身を褒められたり傷つけられたりしているのと同じだから、という感覚

本当に自分自身に対して投資をすると基本的に不可逆なので取り返しがつかない

ところが拡張自我は失敗すれば捨てれば良いのでリスクが少ない

なので基本的には拡張自我に対して投資をしよう

腕時計

一番簡単な例は「腕時計」だ

ロレックスとかデイトナとかそういうのでしょ?」

と思われるかも知れないが、Apple Watchで良い

ただし、一番高いApple Watch Ultraを付ける

Ultraはデカくて物理的にどうしても無理ならノーマルで良いがバンドHERMESにする

とにかく背伸びしてでも高いものを身につけることで

自分自身の価値簡単に高めることができる

自分にとってそれが値段相応価値があるだろうか?」

などと考える必要はない

ただただその価格が付けられている(そして値下がりしない)のであれば、投資額として相応であるから

株式投資をする際も、投資先の企業に対する価値自分基準で計ったりはしないように

自己投資する場合投資先に対して自分基準価値判断しない

ちなみにAppleユーザーでないならGarminでもなんでも構わないがとにかく考え得る一番高いものを身につけよう

衣服

服も同様に簡単拡張自我を高められる

「オーダーのスーツとか?着る場面がないけど」

という意見も良く聞くが、たまにしか着ない衣服の値段を高くしても自己投資にならない

たまにしか着ないので拡張自我として認識していないからだ

拡張自我として投資するなら「普段着」に対して投資する

例えば下着靴下価格を高めにし、一足千円の靴下を常用する

シャツパンツアウトレットでは買わず、新作を率先して買う

デカデカブランドロゴが入っているようなモノは高くても「下品」と思われるリスクはらんでいるため

割とおとなしめのロゴなどが入ったものを選ぼう

衣服消耗品なのでコスパが悪いように思うが

経験上、高い衣服はかなり長持ちする

らくだ無意識的に洗濯に気を付けているからだと思う

食器

茶碗、皿、カップ、箸、スプーンフォークなどの食器もできる限り高級な食器を使う

これも食器棚に眠らせて

記念日に使う大事食器

というようなことはしない

普段使いする食器として高いモノを使う

ちなみに食べるモノはなんでも良い

パスタ冷凍でもレンジでチンでも全然構わない

ただし食器は必ず高級なモノを使う

例えばグラスのボールカット野菜と安物ベーコンを放り込んでドレッシングで混ぜるだけでかなり高級サラダになる

ワインなんてコンビニの600円のワインで良いが

バカラワイングラスで飲めば十分高級ワインとして楽しめる

住居

住居はできる限り高額なところに住む

賃貸か購入かは死生観に基づいて勝手に決めれば良い

ただし自己投資としては最大額を突っ込むレベルで高額なところに住む

住宅ローンを借りる場合限界まで借りる

投資大原則はレバレッジをして損切りすることなのと同様で

限界まで借りた上で売却価格に目を光らせるのが良い

そして住居の中でも拡張自我に関する部分に最大限投資する

例えば風呂は良ければ良いに決まっているが、拡張自我としてどうか、というのを自問自答する

人によっては風呂好きな人がいるのでそこに投資するのは間違いではない

他にもキッチンリビング拡張自我としてどうか、をよく考える

簡単判別方法は、上司に叱られたときに「でも俺の家は檜風呂だしな」と思ってストレスがなくなるなら拡張自我である

この投資は部屋に置く家具などにも当てはまる

住居の家具を全て高価なものにするととんでもない額になるので

拡張自我として最も強い部分の家具を高価なものにする

よく寝室や寝具に投資する人がいるがオススメできない

「1日のうちで一番長時間を過ごす」

などという触れ込みが多いが、大半は意識が無い状態なので拡張自我としては希薄である

動機付けとなるもの投資する

例えば英語学習することで昇給や昇進、転職約束されているような状況であっても

日々の英語勉強する人は一部の人に限られる

これは

英語勉強すると利益がある」

という動機があるのにも関わらず

英語勉強する」

という行動に移せない状態になっているためで

動機から行動に移すには「動機付け」が必要となる

この動機付けには「内的動機付け」と「外的動機付け」がある

内的動機付け自発的内面から出てくる動機付けのことで、よく「やる気」「モチベーション」などと言われる

一方で外的動機付け他人から怒られたり、英会話教室の案内が届いたりするようなことが当てはまる

これらの動機付けに関するもの積極的投資することで、高いリターンを期待できる

拡張自我価値向上による自己価値ギャップ

上の節で説明した拡張自我に基づいた自信への投資自己価値向上に繋がっている

ただし、自分自分に感じている価値Apple Watch価格が見合っていないと感じると、そこがギャップになる

そして人はそのギャップを埋めようとして自己価値を高めようという「内的動機付け」が完成する

新入社員に「高いペンを買え」などという指導が昔は良くあったが

要するにこの理論実践しているに過ぎない

基本的に成長や成功のチャンスは何度でもあるのだが、内的動機付けができていないとそのチャンスを逃す

自己投資によるリターンを得るためには内的動機付けをしておくことは必須である

英会話教室資格試験講習会ジム

自己研鑽としてこの手のものが多いが注意したいのは外的動機付けに繋がるかどうか、である

例えばジムに通うときに高い年会費を払うと、それがそのまま外的動機付けになる

他にも週に一回のヨガを予約すると、行かざるを得なくなる

これが「安い」「いつでも気軽に」となると外的動機付けにならない

安物買いの銭失いと同じである

基本的には投資額が高い方が外的動機付けになりやすいが

そもそも得られるリターンが投資額に見合ったものであるのかはよく考えた方が良い

(単に趣味としてやるなら投資ではないので気にしなくて良い)

機会創出に対する投資

チャンスはいくらでもあるとは言ったが、増やせるなら増やした方が良い

例えば古い友人関係大学関係の付き合い、旧職場の付き合いなどには積極的投資する

これは何も金銭に関するものではなく、時間を消費するという投資も含まれ

ただしチャンスが増えそうにないのであれば投資する必要はない

こういうとき

あいつは目ざとい」「付き合いが悪い」

などという話に付き合う必要はない

もちろん本当に友人関係として大事なら話は別だが、ただの職場関係でチャンスも増えそうにないなら無視して良い

極端に言えば同じ職場の同じメンバー飲み会などは無視してよく、知らない人との飲み会などは積極的に参加するべきである

おじさんの話を誰が聞いてくれるだろう

おじさんにだって、誰かに話を聞いてほしいことがある。

今日の出来事趣味の話、愚痴、困り事。

仕事のことだったり、プライベートだったり、自分自身のことだったり。

でも誰が聞いてくれるだろう。

身の回りを振り返ってみると、話を聞いてくれそうな人がいないことに気づいた。多分これは、コロナ禍でより一層、いなくなったと言えそうだ。

話をするだけで、少しでも気分が晴れることもある。でしょう?

もちろん解決を求めて相談することだってあると思いつつ、そんな深刻な話はそう多く発生しない。

結婚している人だったら、パートナーに話せばいいじゃないかという人もいるだろう。

良好な関係を築けていれば、パートナーに聞いてもらえるかも知れんけど、あいにく、そういう感じではない。あちらさんの話を聞くことはあっても。

仕事をしているなら、職場というコミュニティもあるっちゃあるけど、

業種や職場雰囲気によりけりだろう。コロナ禍以降、雑談をする機会がめっきり減った。

増田のおじさんの場合プライベートの友人も大半が家庭を持っているので、話を聞いてくれ、ということにはならず。

縁が遠くなりつつあって、コロナ禍がそれに輪をかけた。年賀状がお正月にきて、あとは散発的にLINEする程度だ。

そういう状況に置かれていることに気づいた。そう、誰もおじさんの話なんて聞いてくれない。

だったら、話を聞いてくれる人を開拓するしかないのだ。

まず、重たい話を聞いてくれる人を探していくうちに、いわゆる電話相談サービスが世の中には結構あると気づいた。

相談したいカテゴリ別にいろいろあるし、有料のものもあれば、無料のものもある。

重たい相談事は、電話相談をすることにした。その場で解決しなくても、相手が見当はずれなことを言わない限り、かなり気持ちも楽になる。

続いて、既存の限られた人間関係で、少しずつ雑談の機会を増やしていくことを模索しようと思った。

それをやっているうちに、徐々に、雑談をする相手が見つかってきたので、お互いに話して聞いて、というのは、好都合だ。

あと、試してみたいと思いつつ、まだ試していないのは、いわゆる「夜に営業する、お姉さんが接客する飲食店」。

増田のおじさんは、おじさんになるまで、この手のお店に行く機会が全くなかった。

聞き上手なお姉さんがいるのかもしれないが、いくらお金がかかるかもわからんし、そこはまた未知数だ。

ここまで書いていると、方向性が見えつつあることに気づいた。

世の中がガラッと好転するわけではないから、少しずつやるしか、ないわけだ。

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