はてなキーワード: 自体とは
AIは(あなたが読んだことのない物含め)この世に存在する文章を可能な限り読んだ存在です。
それが「それらしい理論」として出してくる物は、そうしたものの中にある論理あるいは意見そのものを拾ってきてるのだから、それはあなたが知らないだけのよくある理論と言えるのです。
それを読んだことがない、のみならずそういう意見があると想像もしなかったのは、あなたの見識の狭さを意味するだけです。
それはもちろん意見の正しさを意味しません。たとえば陰謀論の類いも「よくある意見」ではあります。
しかしそれは、「よくある意見が正しくないこともある」という話であって、「それがよくある意見であること自体を否定する」のはただの馬鹿です。
チャットAIに物を書かせることは、それが陰謀論であれ本当の常識であれ、それを知らない人間の視野の狭さを教えてくれるのです。
うーん、でも恋愛から学ぶこともたくさんあると思うんだけど…。
相手の気持ちや自分の気持ちに向き合ったり。パートナーがほしい!というよりこの人と一緒にいたら楽しいだろうなとか力になってあげたいとかそういう感情を他人に持ったりもしないんでしょうか?
彼氏が欲しいけど出会いがなかったとか、あと男性恐怖症とかでムリとかそういう理由なら仕方ないから
男で言ったらチェーンとかドクロとかの装飾にあたります。
女の子はお人形遊びが好きで、男の子はチャンバラ遊びが好きだった延長のやつ。
ロリータとか男が好きな気がするのは「男はお人形遊びするような女が好き」という理解に基づいており、それは間違ってないのかもしれんが
1話のタイトルである「ぼくたちは、恋していく」が作品自体のタイトルであるかのように表紙にも目次にも書かれ、北海道を舞台とした普通の学園ラブコメのように始まる
前作の「いいひと」が心温まる路線だったので、本作もそのようになると思わせた
しかし1話の最後の方で突然空爆が始まり血まみれになって倒れる人々
おっとりしていた彼女が機械の翼を生やした姿で表れ「ごめんね。あたし、こんな体になっちゃった」と主人公に呼びかける
そこで見開きで「最終兵器彼女」とはじめてタイトルが明かされる
ネットも広まっていない時代を舞台に、情報統制により道民たちは知らなかっただけで
維新の会共同代表の吉村大阪府知事が、「0歳児投票権」(未成年の子の投票は親が代理して行う)を提案し、維新のマニフェストに加えたいという意向だという。
(https://digital.asahi.com/articles/ASS4T2RNLS4TOXIE01TM.html)
これについて同党音喜多幹事長が、次のようなツイートをリツイート(リポスト?)していた。
吉村知事の0歳児投票権=ドメイン投票の実現可能性は兎も角、海外で真面目に議論されて国会まで行った話を、あたかも与太話のようにせせら笑い取り合わない風潮をみると、この国の知識レベルが心配になる
海外の議論で主な論点はすでに整理されてるが、日本のSNS界隈の反応はそのレベルに達してない
吉村知事が言ってるドメイン投票は例えばドイツでは連邦議会において議論され、(https://bundestag.de/resource/blob/531942/6669f3e29651882065938fc6a14fd779/wd-3-157-17-pdf-data.pdf)、無論導入にはいたらなかったものの、第三次メルケル内閣のManuela Schwesig家族相など、賛同者もいた昔からあるアイディアの一つですが
ドイツの連邦議会で議論されたというのは、この議論が無理のあるものではないということを示す一つの傍証とされているのだろう。音喜多氏もこれを自分の議論を支持する意味でリポスト(?)しているようだ。ただ、リンク先のPDFを見て色々な意味で驚いた。
第一に、このPDFはドイツ連邦議会調査局(Wissenschaftliche Dienste)が作っているものである。調査局が作っている立法資料を持ってきて連邦議会において議論されたというのは羊頭狗肉の感がある(※)。たとえば日本の国会図書館調査及び立法考査局が資料を書いたら国会で議論されたことになるのだろうか。
第二に、調査局の報告書という体裁上、両論併記的であり、あまり執筆者個人の意見は出ていないが、この提案に対する分析の水準は明らかに日本でいま議論されているようなレベルのものではないことに驚いた。なお、ドイツ法に詳しくない方のために申し上げるが、ここから先で述べる「基本法」とは、ドイツにおける憲法典(日本国憲法のような)にあたる法である。
要約すると、
・親に子どもの数分の選挙権を付与するモデル(Modell des originären Elternwahlrechts)は、ドイツ基本法38条1項1文が保障する平等選挙の原則に反するし、平等原則の原則は20条の民主的連邦国家原理に含まれる。したがって、基本法79条3項の定めにしたがって、このような提案はたとえ基本法改正によるとしても許されない。(4-5頁でバッサリ斬られている)
・一方子の選挙権を親が代理行使するモデル(Modell des originären Kinderwahlrechts)については、別途の考察が必要になる。(同)
・基本法38条2項(選挙権年齢)の改正が必要という点はともかくとして、実質的な側面としてはやはり基本法79条3項が定める基本法改正の限界について検討するべきであるが、そこで重要になるのは、基本法20条の民主国家原理に含まれる平等選挙の原則にこのようなモデルが適合するか否かである。
・親の代理投票主唱者は、親は子の票を受託に基づいて行使するので、平等選挙原則に反しないと主張する。すなわち、親自身の投票権行使と子の投票権行使は区別して行うべき制度であれば平等選挙原則に反しない。また、たとえ平等選挙原則に反するのであるとしても、このような制度は普通選挙原則(選挙権を万人に付与すること)に奉仕するから、その意味では民主主義原理に役立つ(※基本法20条、ひいては79条3項に反しない)。(7-8)
・このモデルへの批判者は、まずもって、望むか否かは別として政治プロセスに参加できない人にも選挙権を与えても、民主主義の正統性は得られないとする(※普通選挙の拡大という言い分は見せかけであるということだろう)。そのうえで、親による代理投票は、事実の問題として、親に複数の票を与えることに他ならない。親自身の票と子の票を区別して投票するという仕組みは非現実的である。そもそも代理投票という仕組み自体、子どもは成熟していないということを前提としているのであり、親が子の受託に基づいて投票するという議論と矛盾する。加えて、親を通じた代理投票という仕組みは、選挙権が一身専属的な権利であり、国家の意思形成に責任を持って参加する力をその人だけに与えるものだという側面を無視している。結局、基本法20条、ひいては79条3項に反する。(9-11)
ここから分かるのは、ドイツでは親の代理投票制度は、普通選挙の拡大に資するし、かつ、代理投票モデルであれば、平等選挙原則に反しないという形で議論されているということである。少なくとも「消滅可能性自治体」があるからとかいう「地方創世」で一山当てたいコンサル向けのくだらない理由が提案の原点なのではない。
平等選挙原則に反しないというためには、親自身の投票と子の投票を厳密に区別する必要がある。それが現実問題として可能なのかということをしっかり考えなければならない。この仕組みの賛同者がドイツの連邦議会と調査局を区別していないというぞんざいなやり方をとっていることからすると、どうもドイツの議論は話の枕に使われているだけで、ドイツの議論を真面目に受け止めて、そのような制度が可能なのかを考察する者はあまりいなさそうだ。私個人の意見では、親と子の投票を厳密に区分した制度を作ることは無理だろう。というのも、この仕組みが問題になるのは、子の投票意向と親の意向が相反する場合だが、その場合、子は自らの投票意向を開示して親を説得しなければならない。これでは投票の秘密も何もあったものではなく、逆に子が投票の秘密を守ろうとすると、親の投票意向をコントロールすることはできない。それでは子から投票を付託されたという代理人という建前が崩れる。また、投票意向が明らかにならない子について親が「代理」するのでは、結局親に二票与えるのと変わりがない。加えていえば、代理権を持つのは母親なのだろうか、父親なのだろうか(吉村知事は制度実現のあかつきには自身が子の分も含めて4票あるというので、父親が前提なのだろう)。ここは、親と子の投票を厳密に区分するという発想をとれば実は問題が生じない(子の意向に沿うならばその票を投ずるのは父でも母でも他の保護者でも構わない)のだが、先程述べたように、特に投票意向を表示できない子については区分は無理だろう。したがって、事実上「二票」入れられるのはどちらなのかという争いが生じざるを得ない。そのような場合には「0.5票」を両親に付与することも考えられるが、正面から両親に票を与えることを認めれば、ますます平等選挙原則に反しないという建前が崩れる。
そもそも、ここから分かるように一口に子どもといっても投票が可能な年齢の子とそうでない子がいるのだから、投票が可能な年齢の子について代理投票などという面倒な仕組みを採らずに投票権の年齢を下げれば良いだけの話だ。たとえばオーストリアでは16歳まで投票権年齢が引き下げられているが、引き続き14歳投票権が議論されていると聞いた覚えがある。このような議論は真剣な考慮に値すると思う。
繰り返しになるが、ドイツではこの投票制度が平等選挙原則に反しないと言えるか否かが議論され、それが難しいと考えられているようだ。だとすれば、ドイツの議論を踏まえて、この制度の賛同者は、この制度が平等選挙原則に反しないようになる制度の可能性こそを真面目に考えるべきだろう。ただ思いつきでぶち上げても、もう終わった話だと一蹴されるのは当然である(※)。なお、そもそも平等選挙原則について真面目に考えないのであれば、民主主義にコミットしていないと思われても仕方がない。
※興味本位で調べてみたところ、ドイツ連邦議会にこのような基本法改正の提案が提出されたことはあるようだ(2008年提案)。ただ、連邦議会のHPで確認する限り、提案は委員会に付託されたが、その後本格的な審査が行われた様子はない。つまり、賛成・反対の議決もなく、本格的な議論もされずに一蹴された話だということだ。
https://dip.bundestag.de/vorgang/der-zukunft-eine-stimme-geben-f%C3%BCr-ein-wahlrecht-von/14939
あと念のためにいうが、日本国憲法も、14条1項からして平等選挙原則をとっている(そうでなければ一票の格差が問題にされることはない)。
維新の会共同代表の吉村大阪府知事が、「0歳児投票権」を提案し、維新のマニフェストに加えたいという意向だという。
(https://digital.asahi.com/articles/ASS4T2RNLS4TOXIE01TM.html)
当然ながら、投票価値の平等に反すると言わざるを得ないのだが、これについて同党音喜多幹事長が、次のようなツイートをリツイート(リポスト?)していた。
吉村知事の0歳児投票権=ドメイン投票の実現可能性は兎も角、海外で真面目に議論されて国会まで行った話を、あたかも与太話のようにせせら笑い取り合わない風潮をみると、この国の知識レベルが心配になる
海外の議論で主な論点はすでに整理されてるが、日本のSNS界隈の反応はそのレベルに達してない
吉村知事が言ってるドメイン投票は例えばドイツでは連邦議会において議論され、(https://bundestag.de/resource/blob/531942/6669f3e29651882065938fc6a14fd779/wd-3-157-17-pdf-data.pdf)、無論導入にはいたらなかったものの、第三次メルケル内閣のManuela Schwesig家族相など、賛同者もいた昔からあるアイディアの一つですが
ドイツの連邦議会で議論されたというのは、この議論が無理のあるものではないということを示す一つの傍証とされているのだろう。そしておそらく音喜多氏もこれを自分の議論を支持する意味でリポスト(?)しているようだ。ただ、リンク先のPDFを見て色々な意味で驚いた。
第一に、このPDFはドイツ連邦議会調査局(Wissenschaftliche Dienste)が作っているものである。調査局が作っている立法資料を持ってきて連邦議会において議論されたというのは羊頭狗肉の感がある(※)。日本の国会図書館調査及び立法考査局が資料を書いたら国会で議論されたことになるのだろうか。
第二に、このPDFは、調査局の報告書という体裁上、両論併記的であり、あまり執筆者個人の意見は出ていないが、この提案に対する分析の水準は明らかに日本でいま議論されているようなレベルのものではない。なお、ドイツ法に詳しくない方のために申し上げるが、ここから先で述べる「基本法」とは、ドイツにおける憲法典(日本国憲法のような)にあたる法である。
要約すると、
・親に子どもの数分の票を付与するというモデル(Modell des originären Elternwahlrechts)は、ドイツ基本法38条1項1文が保障する平等選挙の原則に反するし、平等原則の原則は20条の民主的連邦国家原理に含まれる。したがって、基本法79条3項の定めにしたがって、このような提案はたとえ基本法改正によるとしても許されない。(4-5頁でバッサリ斬られている)
・一方、年齢にかかわらずに選挙権を付与し、子どもについては親が代理行使するモデル(Modell des originären Kinderwahlrechts)については、別途の考察が必要になる。(同)
・基本法38条2項(選挙権年齢)の改正が必要という点はともかくとして、実質的な側面としてはやはり基本法79条3項が定める基本法改正の限界について検討するべきであるが、そこで重要になるのは、基本法20条の民主国家原理に含まれる平等選挙の原則にこのようなモデルが適合するか否かである。
・親の代理投票主唱者は、親は子の票を受託に基づいて行使するので、平等選挙原則に反しないと主張する。すなわち、親自身の投票権行使と子の投票権行使は区別して行うべき制度であれば平等選挙原則に反しない。また、たとえ平等選挙原則に反するのであるとしても、このような制度は普通選挙原則(選挙権を万人に付与すること)に奉仕するから、その意味では民主主義原理に役立つ(※基本法20条、ひいては79条3項に反しない)。(7-8)
・このモデルへの批判者は、まずもって、望むか否かは別として政治プロセスに参加できない人にも選挙権を与えても、民主主義の正統性は得られないとする(※普通選挙の拡大という言い分は見せかけであるということだろう)。そのうえで、親による代理投票は、事実の問題として、親に複数の票を与えることに他ならない。親自身の票と子の票を区別して投票するという仕組みは非現実的である。そもそも代理投票という仕組み自体、子どもは成熟していないということを前提としているのであり、親が子の受託に基づいて投票するという議論と矛盾する。加えて、親を通じた代理投票という仕組みは、選挙権が一身専属的な権利であり、国家の意思形成に責任を持って参加する力をその人だけに与えるものだという側面を無視している。結局、基本法20条、ひいては79条3項に反する。(9-11)
ここから分かるのは、ドイツでは親の代理投票制度は、普通選挙の拡大に資するし、かつ、代理投票モデルであれば、平等選挙原則に反しないという形で議論されているということである。少なくとも「消滅可能性自治体」があるからとかいう「地方創世」で一山当てたいコンサル向けのくだらない理由が提案の原点なのではない。ただ、ここでも言われているように、平等選挙原則に反しないというためには、親自身の投票と子の投票を厳密に区別する必要があって、それが現実問題として可能なのかということをしっかり考えなければならない。この仕組みの賛同者がドイツの連邦議会と調査局を区別していないというぞんざいなやり方をとっていることからすると、どうもドイツの議論というのは話の枕に使われているだけで、ドイツの議論を真面目に受け止めて、そのような制度が可能なのかを考察する者はあまりいなさそうである。
私個人の意見では、親と子の投票を厳密に区分した制度を作ることは無理だろう。というのも、この仕組みが問題になるのは、子の投票意向と親の意向が相反する場合だが、その場合、子は自らの投票意向を開示して親を説得しなければならない。これでは投票の秘密も何もあったものではなく、逆に子が投票の秘密を守ろうとすると、親の投票意向をコントロールすることはできない。また、投票意向が明らかにならない子について親が「代理」するのでは、結局親に二票与えるのと変わりがない。加えていえば、代理権を持つのは母親なのだろうか、父親なのだろうか(吉村知事は制度実現のあかつきには自身が子の分も含めて4票あるというので、父親が前提なのだろう)。ここは、親と子の投票を厳密に区分するという発想をとれば実は問題が生じない(子の意向に沿うならばその票を投ずるのは父でも母でも他の保護者でも構わない)のだが、先程述べたように、特に投票意向を表示できない子については区分は無理だろう。したがって、事実上「二票」入れられるのはどちらなのかという争いが生じざるを得ない。そのような場合には「0.5票」を両親に付与することも考えられるが、正面から両親に票を与えることを認めれば、ますます平等選挙原則に反しないという建前が崩れる。
そもそも、一口に子どもといっても投票が可能な年齢の子とそうでない子がいるのだから、投票が可能な年齢の子について代理投票などという面倒な仕組みを採らずに投票権の年齢を下げれば良いだけの話だ。たとえばオーストリアでは16歳まで投票権年齢が引き下げられているが、引き続き14歳投票権が議論されていると聞く。このような議論は真剣な考慮に値すると思う。
繰り返しになるが、ドイツではこの投票制度が平等選挙原則に反しないと言えるか否かが議論され、それが難しいと考えられているようだ。だとすれば、ドイツの議論を踏まえて、この制度の賛同者は、この制度が平等選挙原則に反しないという理由を真面目に考えるべきだろう。ただ思いつきでぶち上げても、それはもう終わった話だと一蹴されるのは当然である(※)。なお、平等選挙原則について真面目に考えないのであれば、民主主義にコミットしていないと思われても仕方がないはずである。
※興味本位で調べてみたところ、ドイツ連邦議会にこのような基本法改正の提案が提出されたことはあるようだ(2008年提案)。ただ、連邦議会のHPで確認する限り、提案は委員会に付託されたが、その後本格的な審査が行われた様子はない。
https://dip.bundestag.de/vorgang/der-zukunft-eine-stimme-geben-f%C3%BCr-ein-wahlrecht-von/14939
※念のためにいうが、日本国憲法も、14条1項からして平等選挙原則をとっている(そうでなければ一票の格差が問題にされることはない)。
維新の会共同代表の吉村大阪府知事が、「0歳児投票権」を提案し、維新のマニフェストに加えたいという意向だという。
(https://digital.asahi.com/articles/ASS4T2RNLS4TOXIE01TM.html)
当然ながら、投票価値の平等に反すると言わざるを得ないのだが、これについて同党音喜多幹事長が、次のようなツイートをリツイート(リポスト?)していた。
吉村知事の0歳児投票権=ドメイン投票の実現可能性は兎も角、海外で真面目に議論されて国会まで行った話を、あたかも与太話のようにせせら笑い取り合わない風潮をみると、この国の知識レベルが心配になる
海外の議論で主な論点はすでに整理されてるが、日本のSNS界隈の反応はそのレベルに達してない
吉村知事が言ってるドメイン投票は例えばドイツでは連邦議会において議論され、(https://bundestag.de/resource/blob/531942/6669f3e29651882065938fc6a14fd779/wd-3-157-17-pdf-data.pdf)、無論導入にはいたらなかったものの、第三次メルケル内閣のManuela Schwesig家族相など、賛同者もいた昔からあるアイディアの一つですが
ドイツの連邦議会で議論されたというのは、この議論が無理のあるものではないということを示す一つの傍証とされているのだろう。そしておそらく音喜多氏もこれを自分の議論を支持する意味でリポスト(?)しているようだ。ただ、リンク先のPDFを見て色々な意味で驚いた。
第一に、このPDFはドイツ連邦議会調査局(Wissenschaftliche Dienste)が作っているものである。調査局が作っている立法資料を持ってきて連邦議会において議論されたというのは羊頭狗肉の感がある(※)。日本の国会図書館調査及び立法考査局が資料を書いたら国会で議論されたことになるのだろうか。
第二に、このPDFは、調査局の報告書という体裁上、両論併記的であり、あまり執筆者個人の意見は出ていないが、この提案に対する分析の水準は明らかに日本でいま議論されているようなレベルのものではない。なお、ドイツ法に詳しくない方のために申し上げるが、ここから先で述べる「基本法」とは、ドイツにおける憲法典(日本国憲法のような)にあたる法である。
要約すると、
・親に子どもの数分の票を付与するというモデル(Modell des originären Elternwahlrechts)は、ドイツ基本法38条1項1文が保障する平等選挙の原則に反するし、平等原則の原則は20条の民主的連邦国家原理に含まれる。したがって、基本法79条3項の定めにしたがって、このような提案はたとえ基本法改正によるとしても許されない。(4-5頁でバッサリ斬られている)
・一方、年齢にかかわらずに選挙権を付与し、子どもについては親が代理行使するモデル(Modell des originären Kinderwahlrechts)については、別途の考察が必要になる。(同)
・基本法38条2項(選挙権年齢)の改正が必要という点はともかくとして、実質的な側面としてはやはり基本法79条3項が定める基本法改正の限界について検討するべきであるが、そこで重要になるのは、基本法20条の民主国家原理に含まれる平等選挙の原則にこのようなモデルが適合するか否かである。
・親の代理投票主唱者は、親は子の票を受託に基づいて行使するので、平等選挙原則に反しないと主張する。すなわち、親自身の投票権行使と子の投票権行使は区別して行うべき制度であれば平等選挙原則に反しない。また、たとえ平等選挙原則に反するのであるとしても、このような制度は普通選挙原則(選挙権を万人に付与すること)に奉仕するから、その意味では民主主義原理に役立つ(※基本法20条、ひいては79条3項に反しない)。(7-8)
・このモデルへの批判者は、まずもって、望むか否かは別として政治プロセスに参加できない人にも選挙権を与えても、民主主義の正統性は得られないとする(※普通選挙の拡大という言い分は見せかけであるということだろう)。そのうえで、親による代理投票は、事実の問題として、親に複数の票を与えることに他ならない。親自身の票と子の票を区別して投票するという仕組みは非現実的である。そもそも代理投票という仕組み自体、子どもは成熟していないということを前提としているのであり、親が子の受託に基づいて投票するという議論と矛盾する。加えて、親を通じた代理投票という仕組みは、選挙権が一身専属的な権利であり、国家の意思形成に責任を持って参加する力をその人だけに与えるものだという側面を無視している。結局、基本法20条、ひいては79条3項に反する。(9-11)
ここから分かるのは、ドイツでは親の代理投票制度は、普通選挙の拡大に資するし、かつ、代理投票モデルであれば、平等選挙原則に反しないという形で議論されているということである。少なくとも「消滅可能性自治体」があるからとかいう「地方創世」で一山当てたいコンサル向けのくだらない理由が提案の原点なのではない。ただ、ここでも言われているように、平等選挙原則に反しないというためには、親自身の投票と子の投票を厳密に区別する必要があって、それが現実問題として可能なのかということをしっかり考えなければならない。この仕組みの賛同者がドイツの連邦議会と調査局を区別していないというぞんざいなやり方をとっていることからすると、どうもドイツの議論というのは話の枕に使われているだけで、ドイツの議論を真面目に受け止めて、そのような制度が可能なのかを考察する者はあまりいなさそうである。
私個人の意見では、親と子の投票を厳密に区分した制度を作ることは無理だろう。というのも、この仕組みが問題になるのは、子の投票意向と親の意向が相反する場合だが、その場合、子は自らの投票意向を開示して親を説得しなければならない。これでは投票の秘密も何もあったものではなく、逆に子が投票の秘密を守ろうとすると、親の投票意向をコントロールすることはできない。また、投票意向が明らかにならない子について親が「代理」するのでは、結局親に二票与えるのと変わりがない。加えていえば、代理権を持つのは母親なのだろうか、父親なのだろうか(吉村知事は制度実現のあかつきには自身が子の分も含めて4票あるというので、父親が前提なのだろう)。ここは、親と子の投票を厳密に区分するという発想をとれば実は問題が生じない(子の意向に沿うならばその票を投ずるのは父でも母でも他の保護者でも構わない)のだが、先程述べたように、特に投票意向を表示できない子については区分は無理だろう。したがって、事実上「二票」入れられるのはどちらなのかという争いが生じざるを得ない。そのような場合には「0.5票」を両親に付与することも考えられるが、正面から両親に票を与えることを認めれば、ますます平等選挙原則に反しないという建前が崩れる。
そもそも、一口に子どもといっても投票が可能な年齢の子とそうでない子がいるのだから、投票が可能な年齢の子について代理投票などという面倒な仕組みを採らずに投票権の年齢を下げれば良いだけの話だ。たとえばオーストリアでは16歳まで投票権年齢が引き下げられているが、引き続き14歳投票権が議論されていると聞く。このような議論は真剣な考慮に値すると思う。
繰り返しになるが、ドイツではこの投票制度が平等選挙原則に反しないと言えるか否かが議論され、それが難しいと考えられているようだ。だとすれば、ドイツの議論を踏まえて、この制度の賛同者は、この制度が平等選挙原則に反しないという理由を真面目に考えるべきだろう。ただ思いつきでぶち上げても、それはもう終わった話だと一蹴されるのは当然である(※)。なお、平等選挙原則について真面目に考えないのであれば、民主主義にコミットしていないと思われても仕方がないはずである。
※興味本位で調べてみたところ、ドイツ連邦議会にこのような基本法改正の提案が提出されたことはあるようだ(2008年提案)。ただ、連邦議会のHPで確認する限り、提案は委員会に付託されたが、その後本格的な審査が行われた様子はない。
https://dip.bundestag.de/vorgang/der-zukunft-eine-stimme-geben-f%C3%BCr-ein-wahlrecht-von/14939
※念のためにいうが、日本国憲法も、14条1項からして平等選挙原則をとっている(そうでなければ一票の格差が問題にされることはない)。
法的な文脈において「事実」という言葉は、実際に起こった出来事を指すこともあれば、単に主張された、あるいはそうだと信じられている状況を指す。その内容が真実であるかどうかに関わらない。
たとえば、ある人物が特定の犯罪を犯したと虚偽に主張される場合、その主張自体は「事実」として扱われ得る。
その「事実」が「真実」であるかどうかを検証するのは法廷の役割であり、その過程で、事実とされるものが真実であるか虚偽であるかが明らかになる。
端的に言えば、「やり方が変わったらミスが増えるし覚えるまでの仕事が遅くなるから」以外にないですよ。
新しいやり方になって大幅スピードアップならともかく、仕事のスピード自体はおおむね一緒だけどやり方だけは変わるってパターンの場合は現場の負担が半端ない。
現場が死ぬ気でやれば解決するわけでもなく、人員を一時的に増やした所で初心者ばかり集めては結局ミスが増える。
「リファクタリングの方が安く仕上がりると勘違いしてるから目指してるんだろうな」と思ってる人、ただのバカです。
発注側も一次請けも現場もみんな「いっそ根本から作り直したほうがシステム屋さん的には楽なんだろう」ってことは分かってる。
でも作り直してしまった場合に生じる現場の混乱とリファクタリングのコストを天秤にかけて現場のやり方を変えないことを選んでるわけ。
そこが分かってないで「まーたアホな仕様でシステム更新しようとしたんでしょー。学習しないね―」みたいなこと言ってるのいい加減見飽きたよ。
俺はゲームをやらないからイメージで語るけど、「ゲーム」ってそもそもタスク処理自体を楽しめる人のためのものって感じがするなあ。
・ 学生のためのお薦め図書リスト | 筑波大学 比較文化学類公式ホームページについての感想です
・「まず読みたい100冊」の話しかしません(次に読みたい100冊は単に好きな本リストでしょうから)
最初にこの2つを持ってくる意味が分かりません。あらゆるリストにおいて最初の2つはこのリストがどういった順序になっているのかを示すものであるべきです。五十音順かと思いましたが、それなら次は『二千日回峰行 大阿闍梨酒井雄哉の世界』になるはずですから違いますね。大学生向けということですから対象年齢順ではないでしょうし、難易度順というはずもないでしょう。
もしもあえての順不同だとしても、最初のいくつかはコンセプトの紹介となるものを選ぶべきです。このリストを見た人がどういう思いを受け取ればいいのか迷わないように。
まさか、それで選んだのが「漱石が明治時代の大学生を描いた名作です。自分と比べて見るのも一興。」「何百もの小説を残した芥川。「羅生門」だけじゃ物足りない。」ですか?ならば多くの人がこのリストを見限るでしょうね。「若造ども、俺が超おすすめの古典文学ってのを教えてやるよ。無教養な君たちはまずはこの辺でも読みなさい」ですか?まあ確かに、そういうリストなのかも知れないですね。だからといってそれをいきなりぶつけてみせるのは初対面の相手に対しての礼を失している。礼を失しているようなものが作ったリストに載せられたあらゆる作品が不憫でなりません。
紹介としての体をなしていません。ただ名前を挙げるだけで仕事をした気になっていいのは山手線を暗記したことを自慢する幼稚園児の鉄道オタクぐらいのものです。なぜオススメするのかを書いてください。オススメされたものへの礼儀です。オススメする側が上で、された側が下だと考えるから礼を失するのです。
大学とは大人の通うものです。先日まで高校生だった人間であっても、言動に子供っぽさがあっても、大人として扱ってやることによって、彼らに自分たちはもう大人なのだという自覚を与えるのも大学の役割です。学生を大人として対等に扱ってあげてください。大人同士だと認識しているのに教える側が絶対的に偉いと思ってるなら、それはもうただの人格破綻です。
どう一般教養なのか、どう名著なのかを書いて下さい。最低限の表現力が欠如しています。先入観を持たれることを恐れて書かないというなら、そもそもが間違っています。入門的な書物の名前を出した時点で多くの学生は「お前らはまずこの程度のものから身につけなさい」という説教のような印象を受けるでしょう。実際にそう言いたいのですか?そうだとしても、それは効果的な態度ではありませんね。
なぜ学生がまだ最低限の教養を身につけていないのかを考え、そこから「バカだからだ」という結論にでも至ったのでしょうか?それなら、そんなバカな相手にただオススメするだけで意味はないですよね?それでなにかやった気になって「俺はやれっていったけどなー」とチャチいペシミズムにでも浸りますか?そうじゃないでしょう。なぜ、これをまず学ばなければいけないのかを、言語化してください。それが無理ならリストの作成に関わらないで身を引いて下さい。リストの作成者の人も、こういう人に身を引かせられるようにしてください。座組の段階の問題でもあるのですよ。
一番オススメの出版社のものはどれですか?いくつもの出版社の作品を読み比べて欲しいと言うならそう書いて下さい。もしもこれを読んでほしいという一番のオススメがあるならそれを書いて下さい。少しでも多くの情報を伝える努力をする姿勢を。
あっ、駄目だ。
そろそろイライラして変なこと書きそう。
もうここで俺は辞める。
誰か続きを書いてね。
まあ6割ぐらいは割と悪くないんですけどね。
参考文献が書いてあったり、オススメ理由が書いてあったり、とりあえず興味を持った順に読むって形に持っていきやすいし、自分がひとまず何から読むべきなのかの道筋もある程度示されていると思いますし。書店での入手可否やkindleでの有無なんかがあるのもいいと思います。結構いいと思いますよコレ。
と、敢えていちいち丁寧に応じてやったところで何も無い。
へっ嘘だね
お前が全部書いちゃってるのに何言ってんだか
一緒にお前が書いたこと読み返そうか?
時事系の増田記事書くとcider kondoとかいうおっさんがブコメでクソ偉そうに採点してくるのは本当イラっとする
まあNGしたけど。
「この部分はまあ合ってるが〜」みたいな、おめえの採点なんかどうでもいいんだよ
「この部分はまあ合ってるが~」ってのは”合ってない部分がある”時に言われることだよ。
自分で口走った通りお前は間違いを指摘されたんだよw
その間違い指摘が正しくなかったらそれこそ血相変えて&鬼の首取ったような勢いで
「cider kondoとかいうおっさんが俺のことを間違ってると言ってきたが
これこれこのように俺は正しくてこのおっさんの方が間違ってますう~~~バーカバーカ!」
ってなるよな。
あとからそのことを振り返る時も
「cider kondoとかいうバカが困っちゃうんだよねえww」というもっとはっきりした非難になるはずだし
そのことを語る時はもっと自信に満ちた勝ち誇った態度になるはずだ。
でもそうなってない。
実際のやりとり見なくてもどっちが優勢だったかぐらいわかっちゃうんだわ。
お前みたいな奴が間違ってないことを間違ったように指摘されたんなら
こんな「採点してくる」」「イラっとする」なんてマイルドな批判になるかよw
知恵遅れとかそういう語彙がポンポン出る程度には慎みの無いお前がcider kondoとかいうおっさんに変に弱気なのは何故だ?
おっさんから受けたその指摘自体はぐうの音も出ないほど正しくて、
「cider kondoとかいうおっさんに一本取られた!くやちい!」と自覚してっからだろ?w
まあNGしたけど。
そしてそんな過ぎたことをグチグチ愚痴るぐらいには流せないお前が、
どうしてNGなんていう消極策を取ったかも明らかだわな
「この部分はまあ合ってるが〜」みたいな、おめえの採点なんかどうでもいいんだよ
ぜ~~~~~ったいこんな微妙な言い方にはならない。
普通の奴でもそうはならないし、お前みたいな性格の奴なら絶対にならない。
「俺が正しいことを書いたのにこのおっさんがさあ!w」
「俺の増田を間違い呼ばわりしたんだぜ!?てめえの方が間違ってるのに!wwww」
っていうだろ?お前は。
なのに「採点ウゼエ!」とか「薀蓄ダラダラ!」とか微妙な文句しか言えないのは何故だあ?
間違いを指摘されてその指摘が正しくてぐうの音も出なかったからだろ?w
やけに攻撃的な割に「相手してない」 みたいなアピールが異常に多いんだわ。
そして「相手にしてないし!」って書いたものすら慌てて消してしまう。
……このていどのことはこんな短い文からも読み取れちゃうんだわ。
お前の一件口汚いだけの中身の薄い文章にもお前という人間の情報が染み出してて
読む人間が読めばお前がどういう人間でどういう経験をしてどういう感情を持ったのかがわかるわけ。
でもお前はそういうバレバレ感すら気付いてないだろ?
お前が執着して悔しがってるサイバー近藤っておっさんにもそういうのを見せられたんだろ?
客観的に見てお前は平均以上に知能高くはねーし
その時事についてもそんなにものを知らないんだろう
なのにプライドばっかり高くて大したこと言われてなくても打たれ弱くていちいち傷付くから努力も出来ない
当たってるだろ?
それをビビらず認めないと何の成長もないと思う。
これのポイントは「可愛い外見≒子供向けの絵柄」ってところなんだよな
俺が子供の頃は、大人向けの変な奴はまず絵柄でわかったから誤爆することも少なかった
今はオタクがパワー系化して、こども向けみたいな絵柄でエログロをやるのが好きな畸型化をしたせいで、それがよくわからない
「つぐもも」の表紙だけ見て、子供には絶対に見せちゃいけないような児童ポルノだって誰がわかる?
あんなの本屋に新刊だって平積みしてたら、絶対に全国で悲しい事故が多発してると思う
「よくわからないから買ってみる」で世界を広げる子供の頃にそんな地雷ばっかり踏まされてたら、子供が日本の漫画自体をきらいになるのもそう遠くない未来のことだろう
こんな馬鹿な俺を笑ってほしい。
30半ばにもなって彼女も居らず、毎日9時から17時の工場勤務。一日誰とも口を利かずに終わる日なんてざらにある。
元々趣味なく、これまで何かに熱中するようなことがない人生だった。今ではパチンコが唯一の趣味と呼べるのかもしれない。
かといって大勝ちしたところで使い道はなく、ソープ行って居酒屋で一杯するのが関の山だ。
今年に入ってから一度、驚くほど勝てた日があった。
その日もソープに行った。土曜の夕方。馴染みの店だった。指名したのは一番若い子。初指名だった。
くつろぐようにと案内された黒革のソファで待ち、並びには50近くに見えるスーツ姿の男と、大学生ぐらいのカジュアルな格好をした青年が居た。
ようやく俺の名前が呼ばれると立ち上がり、迎えに来た嬢が一瞬眉をしかめる。俺はそれを見逃さなかった。
こちらへどうそ、と嬢はにこやかに俺を案内する。俺の一歩前を歩き、手は握りらない。踵は少し擦り減っていて、俺の靴と同じように。
靴を脱いで部屋に入ると嬢は俺に抱き着いて来る。キスをすると、洗い場に向かい、体を洗うために衣服を脱ぐ。
俺を担当する嬢にはいつも刺青がある。それは顔に彫り込まれ、”笑顔”という刺青を俺は絶えず目に入れる。
嬢は俺を座らせ、身体を洗いながら「どんなお仕事をしているんですか?」と聞いてくる。
俺は適当に嘘をつき、嬢はそうなんですね~と頷く。
ここの女は大抵の男を馬鹿だと思っており、俺も大抵の女を馬鹿だと思っているので、ちょうど釣り合いがつく。
だからときどき俺は自分というものを見失いそうになる。挿入し、快楽に浸るその瞬間でさえ俺は自分のことを俯瞰するように考え、すべてが馬鹿らしく思えることがあった。まるで彼女の刺青が俺の肌にまで浸透してきたかのように。
年齢のせいかもしれない。
地元の駅に着いたのは昼頃で、家までそれほど遠くないので歩くことにした。
遠くない、といっても徒歩で1時間ほどは掛かり、それでも町の様子が変わっていないか確かめて歩くのも悪くないなと思えたのだ。
彼は(Aとしよう)記憶のままの顔をしており、今も裸眼で、当時の面影を深く残していた。
Aは俺だとすぐに気づいたようで、声をかけてきたのは向こうからだった。最初、親し気に近況等を話しながらも何処かそわそわした様子を見せ、一段落つくと口を閉じた。一間を開け、勢いをつけて口を開けると本題と言わんばかりに「そういえばさ~」とAはにやけながら言った。
え?と口に出した。そんなことは知らない。
俺に構わずAは片手の指で輪を作ると、もう一方の手の指をその輪に通し、それを繰り返して見せた。
その様子をAの隣で観ていた青年が戒め、すみませんと俺に言った。彼は眼鏡をかけた青年で、面識はなく、そのことに気付いたのか「Aの弟です」と彼はそのあとすぐ自己紹介をした。
失礼なことをしてすみません。そう言いながら弟は含み笑いを持たせ、軽く頭を下げ、それから俺たちは別れた。
実家の前に着くと俺は家に入るのを躊躇った。その場で行ったり来たりを繰り返していると家から姉が出ていて「何してんの?」と言われた。
数年ぶりの再会だったがの姉の印象は記憶通りで、40前にしては若々しく見えた。
俺は姉の目を見れなかった。どうかした?と聞かれ、最初は答える気にはなれなかったが根負けして「Aに会った」とだけ伝えた。
姉は「ああ…」とだけ言い、それから二人とも黙り込んだ。実家の前の道路で、しばらく二人で立ち尽くしていた。
ここに居ても仕方がないから、と姉は家に入るようにと促してくる。
渋々俺は姉の後に続いて家の中に入ると両親は縮こまったように見え、リビングは昔よりも広々と見えた。がらんとしていて、実際に物もなくなっている。
自分の部屋に行ってみると家を出た時のままで、時代に取り残されたように変わっていなかった。
このうち、壊すから。いつの間にか姉が戸口に立っていて、俺にそう言った。動揺の同様の色を見取ったのか、建て替えるってことだからと姉は言う。
だから、この部屋の物もどうするのかちゃんと決めといて。どうでもいい。と俺は言った。
居場所がないように思えて俺は散歩に出かけた。行く当てはない。ぶらぶら歩いていると一軒のパチンコ屋が目に入った。ずいぶんと昔からある店舗だった。
まだあるのかと感慨深くなり、中に入ると安堵感がどっしり現れた。俺は日が暮れるまで打った。最終的には-1kで終わり、少し歩くと明かりが見えた。
それはブックオフだった。学生の時と比べると俺は本をまったく読まなくなっていた。漫画すら読まず、気になる漫画があればYouTubeで調べ、そこで得られる情報だけで十分に満足していた。
だから本を売っている場所を訪れること自体が本当に久々なことだった。どうして入ったのか?なんとなくだったと思う。
店内を歩いていると一冊の本が目に入った。
それはエミリーディキンスンの『続自然と愛と孤独と』という本だった。
俺はエミリーディキンスンなんて全く知らないし、手に取るまでこれが詩集であることさえ知らなかった。
それでも気付くと俺はこの本を持ってレジへと向かっていた。まるで俺に残された唯一の良心がそうさせたように。
定価1100円と書かれている本を俺は1000円で買い、それから暗くなった夜道を歩いて帰った。
リビングに入ると両親の姿はなく、テーブルの上には料理だけが置かれている。ちょうど姉がお風呂から出てきたようで頭にタオルをかけて歩いてきた。
おかえり。どこ行っていたの?と聞かれたので俺はブックオフと答えた。
ブックオフ?珍しい。と姉は言った。
テーブルの一角にあぐらをかくように座り、頭のタオルを撫でるようにして髪を拭いた。
とうさんとかあさんはもう寝たから。ごはん、まだでしょ?と姉がいい、俺は頷いた。
じゃあ一緒に食べよっか、と姉がいい、俺は頷いた。
食事が終わり、自分の部屋に入り、自分のベッドで久々に横になると俺は買ってきた本を袋から取り出した。
仰向けに寝そべり、適当にページを開いた。111ページ。そこにはこう書いてあった。
私はあなたと暮らせない
これが人の世というもの
そして「人生」はあちら側の
俺は本文を読むのも忘れて、あの嬢のことを思い出していた。俺は酔っていたのだ。
嬢の笑みが脳裏に浮かび、その顔が一瞬、姉になった。
俺は本を閉じ、横に置くと、深く深呼吸をした。目を閉じ、祈りたかった。
しかし誰かを救うために祈るには、俺はもう歳を取り過ぎていたのかもしれない。
おそらく今年のGWは帰らないだろう。
俺はもう駄目かもしれない。
ここを見ていると頭の良さ、容姿、性格、収入のすべてが真ん中より上でよかったと本当に思う
生きる上で困るレベルでステータスが低い人は色んなことに怒っててストレスばっかりで生きること自体が大変そう
自分も苦手な対人ゲームで負けるとめっちゃイラつくから分かるんだけど、世の中のどうでもいいことで怒ってる人にとってはうまくいかない人生もイラつくことばかりなんだろうね
斎藤秀司は整数論の専門家とエキスパートで、人格的に、受験数学が嫌い、インターネットにフェルマーの小定理の講義のビデオが一本上がっている。住所はおそらく板橋区だが確定していない。
自転車に乗っている姿を見たことがある。東京理科大流動機構研究科教授をしていて東大にいるのかどうかすら疑わしい。
フェルマーの定理は、 a^n+b^n=c^n が無限個の解を持つのは、 1,2のときだけであるという定理か、もしくは、 n≧3では存在しないなど様々な解釈がされているが、
前者の解釈は類似の問題があることから親和性があり、後者の解釈で、存在しないこと自体が驚愕される定理は考え難いため、後者と解釈した場合は、不審であるということになる。
(世間的な評価はともかく自覚として)WebアプリとかRDB関連が得意なスキルセットです。
テキストの世界大好きだったのですが、Excel自体はいいプロダクトだと思うのですがちょっと逆行してLinarとは思っています。
30周年記念だから書くけど、当時から思ってたけど選択肢だけで犯人推理は無理があるよな。
犯人が判ってるのに最速の犯人はお前だ!シーンまでたどり着けなくて何回ストックで突き殺されたか判らない。
いやね、一人の意見として聞き流してもいいのよこれにムキになったら図星ということだから
最近名探偵コナンの劇場版がやたらヒット飛ばしてるようだけど、どうも女ウケの良いイケメンが何人か投下されて
女性ファンの人気も獲得したってのが大きい、だそうだ。それ自体は全然構わないのだけどイケメンが出てきた途端に食いついてくる腐女子共が気に入らんのだ
どうせコナンを1から追いかけてないだろうし、そのイケメンが出てくる所だけチェックして性的消費をしてきて私、コナン好きだけど?というヅラをするのは勘弁してくれ
そもそもコナンは殺人も出るけどあくまでも児童向けのアニメだ、そんな作品で腐った目で見ないでくれ。
同じような流れといえば最近ゲゲゲも腐女子の次の標的に引っかかってしまった。ゲゲゲの謎という劇場版だ。
ゲゲゲの謎といいつ実際は大の大人の2人がメインの内容ではあるが、これまた腐女子が群がってくるわで
どうせゲゲゲなんて今までの人生で興味もなかっただろうに突然食いついてその上にゲゲゲの謎をゲ謎といきなり略称して呼ばわりするとか
お前何様なんだ?ゲゲゲをゲと略するとかどういう身分なんだ?しかもゲゲゲも児童向けだろうに、その作品で性的消費して股間を濡らして気持ち悪いと思わないか?
この腐女子の暴走はまだまだ続くと思われる、お次は忍たまだ。忍たまはかなり早い段階で腐女子にロックオンされてかなり食い荒らされてたが
今度の忍たまの劇場版は先生がメインだ。もうこの時点で更なる腐女子の襲来が予想される。忍たまをそんな目で見ないでくれといってももう手遅れだろうが。
掲載順の低迷ってウケの悪い新キャラとかったるい展開やってた時期が重なったせいだと思うんだけど
なんかやたらとジャンル自体のせいにしたがるアンチ目立つなと思ってたが
こういう人らに目をつけられてたのね…
他人に興味持ったり感情移入できないんだろうな。そういう人のセックス、全然よくなさそう
金とか顔とか表面的な条件を云々する以前に、セックスうまくない人とセフレになる意味ないんだよね
良いセックスってお互いに対する洞察あってこそだし、初回はセックスに至ったこと自体が楽しいけど、二度目以降は相手を知っていくプロセスがあり、知っているからこそできることがあるからセフレとして付き合う意味があるんだよ。
ヤリマンはいるけど、そういう人は初回が好きじゃん?セフレ作るのは二度目以降が好きな人だよ。