はてなキーワード: 臨床心理学とは
心理学について書こうと思ったら、お一人書いてくださった方がいたので、そこで「特殊」とされていた臨床心理学について書きます。
臨床心理学系の大学院で博士号を取って、現在大学で臨床と研究をしています。
論文事情を書こうと思ったら、背景にある臨床心理学の事情になりました…。そして「日本の」と書いたのは、日本の固有の事情もあるためです。
臨床心理学における研究は、おおよそ以下の3つに分けられます。
1:ブコメであったような、症例報告から始まってランダム化対照試験まで行くという医学・疫学的な研究
3:その他の調査研究(ちょっと大雑把ですがゆるしてください、そして私のメインはここです)
少々雑な括りで、中間に位置する方や例外もままいることを踏まえ、あくまでも概要を述べているということを踏まえたうえでお付き合いください。
https://anond.hatelabo.jp/20181009215657 では心理学の論文事情として以下の順序を挙げていらっしゃいました、
査読付き英語論文>>>>査読付日本語論文>>査読なし日本語論文(いわゆる紀要;査読有り紀要も含む)
これは、1と3を自分の研究領域にしている臨床心理学者にもほぼそのまま当てはまりますし、海外でも同様です。
そのため、競争が激しい業界の院生さんだと、Predatory Journalに投稿しているケースも残念ながら見ます。
特殊なのは、「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」を中心としている人たちです。
この方々の多く(全員ではありません)は、場合によっては「論文」というものを軽視すらしていますし、査読論文の数も非常に少ないです(大学に勤めている以上、建前で「論文書かないとね」と言ったりはしますが)。
これは分野外の人からはよく見えないため(もちろん業績調べればわかります)、中々ややこしい問題です。
私の観測範囲ですが、下手にこういう人たちが多い大学に就職しようとしたり、あるいは就職してしまったりすると、論文業績が多い人はかえって冷めた目で見られたりすることすらあります。
このような信じられない断絶が臨床心理学の中にあるので、業界外からはわかりにくいのです。
ちなみに「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」の人たちの業績に対する意識は人文系に近く、私も完全にはよくわかりません。ただ少なくとも、英語の査読論文を無条件でありがたがったりはしません。
むしろ”深みのある”事例研究や理論的検討が尊ばれ、そうしたものに特化した特定の学術雑誌論文や、あるいは書籍などを重視する印象です。
なぜ学問を行う場である筈の大学において、こんな断絶が起こるのでしょうか。
一つの要因は単純に「世代」です(繰り返しますが大雑把な区切りです)。
世代によって何が違うかというと「臨床心理学に対する考え方」が違います。
「エビデンスを重視しないなんてバカ?」と思う方も多いと思います。
先ほど書きましたが、2の人たちが重視するのは事例研究です。
https://anond.hatelabo.jp/20181009215657 には、「事例研究には物語以上の価値はないのでは」とありました。
「そう見えるのは仕方ないだろうな」と思う気持ちと「物語の価値を過小評価しすぎですよ」という両方の気持ちを抱きます。
なぜかと言えば、「クライエントの人生」を理解しようとすれば、どうしても「物語」というフレームが必要になるからです。
古典的な臨床家(心理療法をやる人)は、クライエントの人生全体を見ます。
クライエントが訴える問題(やる気が出ないとか、落ち込むとか)を全てと考えるのでなく、むしろ人生における氷山の一角と捉えます。
そして、クライエントの人生をそのものを見つめ、その人がより良く人生を歩んでいけるよう、どうにかこうにか支援をしていくわけです。
(「大きなお世話」「思いあがるな」と思われる方もいるでしょうし、下手すると実際にクライエントにとっても大きなお世話になります)
その人の知能や症状の程度、パーソナリティなどを数値化して客観的に捉えることは心理学の得意技ですが、それでその人の人生全ては捉え切れません。
人生というものを捉えようとした時、どうしても物語が必要になります。
もちろん、物語ですから完全に同じ事象が再現されることはまずありません。そのため、厳密な「エビデンス」はそこから得ることはできません。
「物語から自分は何も学んだ覚えはない」という人がいたら、それは物語に意味がないのではなく、恐らくその人に学習能力がないためです。
物語を蓄積していくことで、我々は人間に対する理解をより深いものにしていくことができます。
そのため、日本の臨床心理学者は「エビデンスなんかいらない」というよりも、「物語を蓄積してくしか、やりようがない」と思っていた部分もあると思います。
またもう少しフォローしますと、単に物語を乱立させるのでなく、蓄積された様々な「物語」を体系づける理論の構築自体は脈々と行われてきました。
それが、「2」の後ろ半分「それを踏まえた臨床論的研究」です。
フロイトの精神分析なんかは、今でも理論が精緻化され続けていて、それはそれで読むと非常に面白いですし、人間理解に大いに役立ちます。
というわけで昔の臨床心理学は、多分に人文的というかアート的な学問領域でした。学んでみると非常に面白いのですが学問としての欠点もたくさんあります。
最たる点が、多くの方が既に感じていらっしゃる通り、物語性を重視するあまり、客観性・エビデンスをあまりに軽んじてしまったことです。
◆
しかし1990年代の後半頃でしょうか、「認知行動療法」と「エビデンス重視」の立場が、アメリカから日本へ本格的にやってきました。
心理療法の一つである認知行動療法はエビデンスを非常に重視します。
例えば「うつ病」ならば、患者の抑うつの程度を測定し、「認知行動療法を行うと抑うつの程度が有意に下がる!」みたいな研究をバンバンやるわけです。
当時の学会の様子は今でも覚えています。エビデンス重視の方々は「それエビデンスあるんですか?」と、どこかの誰かのようなセリフを旧来の臨床心理学者に容赦なく投げつけ、大変気まずい空気を作り出していました。(別に悪いことではないですが)
残念ながら旧来の臨床心理学者はそれに真っ向から反論することができません。なぜなら、実際の所エビデンスは無いからです。
ただし、客観的なエビデンスが求められる研究では、「客観的に扱える要素」しか扱うことができません。
そういう「客観性」では捉え切れない人間の心を探求していったのが、これまでの臨床心理学だったはずです。
ですから多くの人にとって、「エビデンス」というものが極めて底の浅いものに見えたという部分もあると思います。
実際私もそう感じる部分はありました。確かにエビデンスは大事だけど、余りに機械的に人間の心を扱いすぎていないか?と。
とはいえ、旧来の臨床心理学者がその文学性に浸りすぎ、客観性を過小評価していたのは間違いないと思います。
エビデンスに対して「人生の深みをわかっていない」「客観性が全てではない」と言っても、インチキにしか聞こえないでしょう。
要するに、物語を偏重し、エビデンスを全否定する姿勢は間違っていますが、エビデンスを偏重し、物語を全否定するのも同様におかしいと、私自身は思います。
そういう微妙なバランスというか面白さが臨床心理学の中にはありますし、どちらも人を支援する上では大事な視点だと思います。
◆
まぁその後は各学会や大学内で、明に暗に色々な小競り合いがあって、現在は昔よりもだいぶ両者が折り合いつつある雰囲気です。
一つは、純粋な「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」の人たちが減ったという単純な理由です。大御所の多くが高齢化し、以前よりはだいぶ比率が少なくなりました。
逆に、認知行動療法がだいぶ浸透した結果、若い世代では認知行動療法が専門外でも、エビデンス重視の考えは馴染みのあるものになっています。
また、認知行動療法の人たちも”表面的な”エビデンスが全てではないという姿勢の人が増えてきました。
また、個人的にすごく大事だと思うのが、実証重視の方々にとっては「物語」の代表に見えるであろう精神分析系の心理療法も、ちゃんと効果が確認されるようになってきたたことです。
これによって、「エビデンスが全てではない」と意地を張らなくても良くなってきたのだと思います。
結局、エビデンスを否定するのではなく、自らエビデンスを出すことで (とはいえ研究の殆どは海外ですが)、問題は解消されつつあります。学問としてこれはとてもよいことだと思います。
◆
つい最近中室牧子さんとかによって、教育業界にエビデンスの視点を持ち込む動きがありますが、同じように、日本の臨床心理学にもエビデンスの視点を持ち込もうという動きが20年程前にあったのです。
エビデンスに対する考え方の違いは、人間理解に対する考え方の違いであり、それが論文業績に対する考え方の違いにもつながっていたという話です。
これを読んでみて、改めて「臨床心理学ってクソだな」と思った人もいるかもしれませんが、こういうゴタゴタも乗り越えつつ、少しずつ学問としてブラッシュアップされていっている臨床心理学が私は大好きです。
長くなってしまいました、すいません。
長くなったついでで恐縮です。
https://anond.hatelabo.jp/20181011091532 「再現可能性が4割」の部分に
https://anond.hatelabo.jp/20181011091734 「びっくりするほど信用できない学問だな てか学問かそれ 」というコメントを見かけましたが、これ心理学だけの問題じゃないんですよ。
Natureが少し前にいろんな研究者に調査をしましたが、理系の領域だって、再現性は決して高くありません。
https://www.nature.com/news/1-500-scientists-lift-the-lid-on-reproducibility-1.19970
むしろ追試をちゃんとやって、どれが再現できるか否かをふるいにかけ、学問を発展させようとする態度こそが科学的だと私は思います。
https://anond.hatelabo.jp/20171127215759
ジョブズはiPhoneを発表した時に「携帯電話」として発表した。
これって実はかなりすごい、というかジョブズがすごいと言われている理由。
具体的にiPhoneを見てみると、誰がどう見ても「パソコン」の域だ。
言ってしまえば「小さいパソコン」だ。そしてAndroidが日本でiPhoneにシェア率を奪われているのはどうしてもこの「小さいパソコン」から抜け出せていないから。
それをジョブズはあくまでも「今までの携帯電話に便利な機能が付いた」と説明をすることで「新しいものを拒否する人間」に受け入れられた。
現在は社会の逆風を受けまくっているマーガリンだが、一時期はバターのシェアを越えていた。
だが、それ以前。「マーガリンとバター」は同じ土俵ではなかった。例えるならぶどうジュースとワインぐらい別物のように考えられていた。
マーガリン業界はなんとか味をバターに近づけて、目隠しすればバターとマーガリンの味がわからなくなるぐらいまで味を近づけた。だけど全くマーガリンとバターは別物と考えられていた。
そこで、ルイス・チェスキンという臨床心理学者は当時は白い塊だった「マーガリン」を黄色に塗った。そうすることでマーガリンはバターの代替品となりバターのシェアを凌ぐようになる。
人はまず最初に新しい物を見た時、自分の経験の中からその物をカテゴライズする。
もしAppleがiPhoneをiMac Pocket的な持ち運べるiMacとして発売すれば当時シェア率が低いiMacを見ればわかるように全く普及しなかっただろう。言ってしまえば、PHSやBlackBerry、windows phoneのような扱いになっていた。
なので、Phoneと名前をつけ、あくまでも電話として売り出して、パソコンを与えたのだ。
パソコンとインターネットを与えられた人間がどうなるのかは増田を昼間っから見ているみなさんが一番良くおわかりだとおもいます。
そういうなかから、行動化を防衛機制の一つとする見方も出てきています。
本来の防衛というのは、そういう「不適応行動」をしないための手段であって、その主たる目的は「自分の内面を平穏にする」「自分の中で葛藤が起こらないようにする」「自分の内面に葛藤を抑えてもっていられる」ということなのです。
もっていられる能力は人によってかなり違いますけれども、もっていられないものをなんとか始末してしまう方法というのが防衛機制であるわけです。
(中略)
つまり、行動で発散してしまうので自分の中で葛藤を溜め込んでもっていないで済む。
防衛的な観点から言えば、そのやり方によって自分の内面の葛藤状態を予防している、または解消しているといえるわけで、
現代において、精神医学もしくは臨床心理学の対象が「葛藤を抱えていられない」になりつつあることは諸家が指摘する通りだと思う
社会的に「自由」というものが認められず、人々が単一の規律や常識などに従わなければ生きられなかった時代においては
治療者の対象は「自分を抑えてしまう」ことが成因になるような病理が対象であった
利便性と選択肢の増加は、欲求や葛藤の解消をインスタントなものへと変化させた
「辛くなればやめても良い」「苦労しなくても退屈は紛れる」「ネット越しなら誰かを批判しても、見なければ反論は来ないし直接的な被害はない」「自分の歪んだ欲望も受け入れ、肯定し、賛同・共感してくれる場所がすぐにみつかる」
しかしその一方で、いざ職場に行けば規律を守ることを要求され、規定時間以上の労働に駆り立てられ、下手をすれば休日も返上して出勤する
私生活における幼児的万能感の世界と一転して、社会生活で要求される自己への規制は非常に強いものとなっている
このアンバランスさは、時として人を分裂させる
「私生活としての私」と「社会に生きる者としての私」は、かつてないほどに乖離し始める
もはや、「社会人としての私」は「本来の自分」から離れ、自我親和的とはいえない
48時間チャレンジの記事を見て、「これ、ボーダーの子の試し行為じゃん」と思った人もいるだろうか
素直に甘えを表現することへの葛藤も処理できず、かといって甘えたい欲求を別の形で処理することも出来ず
明らかに不適応な形で自らの親密・依存欲求を満たす行為のように見える
自立と依存の葛藤を維持し、家族ではなく他者に親密さと依存の対象を広げていく過程にある青年期において
家族へ依存欲求を失踪という試し行為の形で達成するのは、どこか歪んでいるようにみえる
満員電車というのは、名前も勤め先も知らない人々が密着した状態で、強制的に一定の時間を過ごします。辛いから何も感じないように、大抵は自分の感情のスイッチをオフにした無の状態になる。そんな異常な空間の中で、ふいに女性に触れてしまうと、それが予想もしないくらいの衝撃的な体験になってしまう。
私はこれまで200人以上の痴漢常習者をヒアリングしてきましたが、彼らの多くはその最初の感覚を『身体に電撃が走った』と言います。本人が意図せずに触ってしまって、そこから『あ、こんな柔らかい感触があるんだ』と衝撃を覚えてしまう。少し言葉は悪いですが、痴漢の始まり方はこの“ビギナーズラック”のパターンが一番多いんです
公私での混同を許さなくなった社会では、時として人格の解離が状態化する
「辛いから何も感じないように、大抵は自分の感情のスイッチをオフにした“無”の状態になる」という一文は示唆に富む
私では過剰に発散し、公ではひたすらに抑圧し何も感じないようにする
自我自体は脆弱なままなのに、その空間に他者の柔らかい感触が侵入してくる
そうすると、脆弱な自我はもはや「触りたいけど触ってはいけない」という葛藤を維持できず、行動化に移る
現代においては、そうした前エディプス的な段階での病理が多いように思える
物質的に富、自由と自立が個人の裁量で賄われるこの時代においては
社会的な規律によって自我機能が助けられていた時代より、葛藤処理が個人の自助努力にのみ任ぜられるために、かえってバランスを欠いた人間性が生じやすいのかもしれない
著名なエンジニアさんの件で、数日前から大きな騒ぎとなっている。
僕は当事者ではないので、騒ぎの真相やその背景などについて言及するつもりは一切ない。
ただ、今も続いてるツイートを読むと、本当に苦しくて仕方ない。エンジニアさんも女性も無事であってほしい。
人間の心はそんなに強くない、周囲の人は味方せずとも石を投げつけないであげてほしい。
無事を心から祈ってます。どうか祈りが届いてほしい。どうにか力になりたいけれど、僕には祈ることしかできない。
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どうしても心が落ち着かないから、今、この増田を書いている。落ち着かない理由は、件の女性と過去に付き合っていた女性に重なる部分があるからだ。このあとの文章は僕の気持ち悪い自分語りに過ぎない。
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2 年前、僕は境界性パーソナリティ障害をもつ女性と付き合っていた。明るく笑っていたと思ったら急に泣き出したり、怒っていたと思ったら知らないうちにご機嫌になっていたり、そんな危なげなところも含めて僕は彼女のことが大好きだった。
付き合って間もないころは毎日が楽しかったけれど、付き合いが長くなるにつれて少しずつ辛い日が増えていったことをよく覚えている。僕はただこれまで通り過ごしているだけなのに、彼女の言動はどんどんと激しくなり、いつからかジェットコースターのような日々を過ごすようになっていた。
たとえば、連絡を入れずに寝てしまったら午前 3 時頃まで不在着信がある。それに応えられなかったら数日間は無視されたり高圧的な言動を取られる。休日に自分の予定を入れるとキレられる。泊まりの日はどんなに疲れていてもセックスするまで寝かせてくれない。などなど、これらは一部に過ぎないけれど書ききれないほどいろいろなことがあった。あらかじめそうすると伝えて了承を得ていたけれど、自分の誕生日に友達と旅行していて、彼女から「死んでしまえ」というメッセージが送られてきたときはかなりきつかったなぁ。
それでも僕としてはできる限り応えたくて、彼女の思う僕になろうとたくさん努力した。彼女にはこれまでの養育環境や出来事などについて話してもらうように協力してもらい、僕は臨床心理学や教育心理学の本をはじめ、いろいろな文献を読み漁った。この時期に、実は以前に境界性パーソナリティ障害と診断を受けたことがあるということを彼女から聞いた。僕の中でうっすらと感じていたことが、確証に変わったときだった。だからといって、僕の中の彼女に対する気持ちが変わったわけではない。人間は過去の環境に縛られる生き物であり、数々の言動も彼女がそうしたくてしているのではなく、彼女の過去がそうさせていると思っていた(別れた今もそう思ってる)。だからこそいったんはすべてを受け止めてあげたい、言葉の裏にある感情に気付いてあげたいと思っていた。どんな言動も、全て愛情との葛藤として抱きしめてやりたかった。当時の彼女にとっては、僕がすべてだとわかっていたから。
だけど、僕の心はそこまで強くなかった。仕事が忙しくなってどんどんと弱ってしまい、余裕がなくなるにつれて彼女の振る舞いも激しくなって、 1 年が経つころにはもうぼろぼろだった。もう自分のことすらおぼつかなかった僕は、「今の自分には気持ちを満たしてあげることができない、力不足でごめん」と切り出すことにした。別れ話は一ヶ月ほど長引いたけれど、きみは悪くないからと粘り強く伝えて、最終的にはすっと別れることになった。そのときの、彼女のひどく悲しい顔が今でも忘れられない。彼女にとっては、良いときでも悪いときでも僕と関われること自体が喜びだったのだと思う。それが損なわれる彼女の気持ちを考えると、仕方ないことではあるけれど、苦しくて、苦しくて。
彼女との話を周りの人々にすると、かならず別れて正解!と言われる。僕としては、もしも当時の僕に無限の時間と体力と気力があるならば、もっとあの子にたくさんの愛情を注いであげられたのにな、と思う。ごめんね。ご機嫌な彼女は子どものように純粋で、当時の僕はそれが本当に愛おしかった。つらいのは彼女の振る舞いであって、彼女という存在そのものは大好きだったから。もう会うことはないだろうけど、どこかで幸せに暮らしていることを願ってる。
流石に中京大学で偏差値62ってのはそもそも高すぎたってだけでは。
あそこは偏差値の割に就職が良いのが良いと言う感じの大学なんだから
同志社とかはまだ心理結構な偏差値だったと思うし。まあ駿河台とかはちょっと流石にみたいな感じとは聞くが。
それと臨床心理士なんて心理学部以外からもなるし、教育学部以外から教員になる人みたいに
なるたけ広い視野を持っておきたいと考える学生も多いらしいから、その点も影響してる可能性はあるのでは。
「臨床心理学専攻」とは呼ばれない、なんとなく心理と関係なくもないようなところ出て、心理系大学院からの臨床心理コースもあるわけだし
それがある程度一般的となってしまった時点で、もうしょうがないとおもうんだけどなあ。
法律系も経済学部からの法科大学院未修コースで法曹とかあるわけで。しかもそういうのを「幅広い視野を持った人材」ともてはやす人も多い。
理系の院進に当たって隣接の専門分野に鞍替えする人なんてのは代表的だけど、
教員なんて院も経ずに普通に文学・理学あたりからなってってるのが現実だし、著名な教員が教職課程受けずに、通信教育で免許都ってなった人とかいう状況。
まっすぐにいこう。 全15巻セット (集英社文庫―コミック版) きら
☆コミュニケイションのレッスン 鴻上 尚史
クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫) 若桑 みどり
日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち (新潮選書) 板谷 敏彦
山本五十六 (下) (新潮文庫 (あ-3-4)) 阿川 弘之
心の力の魔術―驚くほどの富と幸福が得られる成功法則 ダビッド・J. シュワルツ
食卓からの経済学―ニュービジネスのヒントは「食欲」にあり (ノン・ブック―先見サラリーマン・シリーズ) 日下 公人
もろい青少年の心―自己愛の障害 発達臨床心理学的考察 (シリーズ 荒れる青少年の心) 上地 雄一郎
「死にたい」気持ちをほぐしてくれるシネマセラピー上映中―精神科医がおススメ 自殺予防のための10本の映画 高橋祥友
モテないのではない モテたくないのだ! ! (アクションコミックス) カラスヤ サトシ
もっと! Vol.4 2013年11月号 (増刊Eleganceイブ) 水沢悦子
ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈上〉 アドルフ・ヒトラー
しろうと理論―日常性の社会心理学 アドリアン・フランク ファーンハム
グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA) 飛 浩隆
☆ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ) ペーター ガイス
ドイツの歴史【現代史】 (世界の教科書シリーズ) ヴォルフガング イェーガー
ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて) 村澤 和多里
☆言葉にして伝える技術――ソムリエの表現力(祥伝社新書214) 田崎真也
滅びの風 (ハヤカワ文庫JA) 栗本 薫
大日本サムライガール (星海社FICTIONS) 至道 流星
☆少女マンガの表現機構―ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」 岩下 朋世
マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫) イタロ・カルヴィーノ
スティーブ・ジョブズ(1) (KCデラックス Kiss) ヤマザキ マリ
カリガリからヒットラーまで (1971年) ジークフリート・クラカウアー
物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫) 大塚 英志
ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書) 荻上 チキ
アメリカの中学教科書で英語を学ぶ―ジュニア・ハイのテキストから英語が見えてくる (CD book) 林 功
☆☆「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか 鈴木 涼美
ぬばたま (新潮文庫) あさの あつこ
果てしなき渇き 深町 秋生
相手のいる性行為をしてみたいと
発作的にかなり強く思うこともあるが
したことがない。どういうことだ?
あと極めてまれなことだとは思うが、
異常だか奇妙だかと思う人が多い考えを、俺がかなり強く抱き続けているからというのも少しはあるだろう。
ただし、後者の信念によっては仮に特別に魅力的な異性が相手から接近してきたら抵抗できない気がする。
奇妙と感じる人が多いらしい信念の内容は、異性による性行為の結果として子供が新しく存在し始めることがあるが、
その結果を被る人にとって、存在し始めることが極めて悪い場合が恐らく1から3%くらいあり、
そのリスクを考えると、異性間の性行為に関わることは極めて大きな他者危害に加担することであるというものである。
この考えの萌芽は中1くらいからあった。
普通はこの類の考えは一時的に抱かれることはあっても、長く続くことはあまりないのではないか。
そうなるのは恐らく、性行為の相手ができて、性行為をすることによる自分の利益が極めて大きく感じられるため、
実際性行為には本人たちも望まない結果すら避けるための対策すらさせないだけの魅力があるらしいので、
上の強固な考えはその奇妙さと現に訂正されていないということから、
いわゆる精神病的な妄想なのではないかと考えて、少しお勉強したことがあるし、現在も精神医学にはかなり興味がある。
結論を言えば、上の考えの中で、妄想でありえるものは、存在し始めることが本人にとって悪い場合の割合くらいだと思われる。
ただ、一つのことを、それについて考えることが苦痛を伴っても考えざるを得ないという心理的特徴は、
ひょっとしたらさまざまな精神病の中核にあるものかもしれない。
激しい幻覚や妄想などはその性質によって引き起こされる睡眠不足などによる自然な結果のこともあるのではないか。
ちなみに、精神病の診断で奇妙さを基準にした場合、その点では診断する者の判断が一致しない場合がかなり多い。
実際の比率は忘れたが、幻聴と妄想の認知臨床心理学かガレティとヘムズレイの本に書いてあったと思う。
もちろん、上のような考えそのものが精神病の症状じゃないとしても、
精神病の影響によって生じた考えではあるかもしれない。
性行為に関わることの悪さをどれくらいだと感じているかというと、
生きることをよいことだと感じている人をふつうに殺すよりは悪いくらい。
かなり悪いと感じることをしている人々について仕方ないと思っているので、
たいていの殺人犯とかも仕方ないと考えなければならない。
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
俺もひどい鬱で会社辞めたんだ。
鬱だったのは前からだけど頑張って大学院行って就職したけど辞めた。
んで病院行ってから薬貰ってるだけじゃ治らないって思って、色々調べてから初めて、
要はしっかりしたカウンセラーに、君の全てを肯定的に、安全に受容してくれる人に、
じっくり話を聞いてもらう機会が必要なんだよ。で、そういう人は探すの大変なんだけど、確実にいる。
出来ればそういう臨床心理の人を見つけて欲しい。言っとくけど医者は心理の人じゃないから色々
話を聞いて貰おうとするのはやめときな。そういうのができるのは所謂カウンセラーなんだ。
まあ、増田が客観的にいくら恵まれていようと、幸せを感じられるかどうかっていうのは
増田の主観が全てなんだ。特にこの国は、個人の主観は伝統的に重視されない社会だから
色々言われるのは無理もないけど、自分で立場的に幸せだとか、甘えてるんじゃないかとか思い込むのはやめときな。
寧ろ後述するけど、増田には安全に安心して甘えられる存在が必要だと思うよ。
「~は甘え」ってのは俺の嫌いな言葉なんだが、あれは正常な甘えを受けてきた人間が言える言葉なんだ。
増田はここまで主観的な言葉をため込んでいるってことは、不特定多数の人間に甘えざるをえないほど、
身近に弱音を吐いたり、思った通りのことを言っても否定せずに聞いてくれる人がいないってことなんじゃないかな。
一番端的に言えば親だね。正味な話親くらいしか子供に本当の意味で甘えさせてやることができない存在なんだが、
どうもそうじゃないんじゃないだろうか。
河合隼雄とか、斎藤学とか、精神分析の関連の本とか色々読んだけど、
増田みたいなケースは珍しくない。「死にたい」ということでしか、
生きたいという気持ちを表せられなかったっていうケースも読んだな。
そういう本を読んで、増田みたいに答えが無いけど考えてしまうような問いをもってしまう人にたいして、
真剣に向き合っている人がいるってことを知った。出来るなら諦めずにそういう問いを突き付けても
一緒にかんがえてくれる人を探してほしい。
あと、なんか好きなことやれよってコメントあるけど、
そんな簡単にすむ話かよって俺なら思うね(笑)
勿論それでリフレッシュ出来ればいいけど、それは正常な心理の場合だ。
社会に対して恐れを抱いたり、他人の言動が気になったりする人間が
純粋に自分の好きなことをして開放的で自由な気分になれるとは思えない。そこも繋がっている。
そういうのを少しずつ改善していけるのは人とホントの意味で繋がりを持ててからなんだが、
そこまで重くて深い問いをもってしまって抜け出せないなら、それに耐えられるだけ
何やら我々が「伝統的子育て」という言葉に踊らされている感があるので
はしょりながら返答するよ。
各人が微妙にイメージの異なる言葉についてごちゃごちゃ言うのも不毛だしさ。
でも、この条例はそういうの認めないだろなー。だって親の愛情(=注意関心手間のかけかた)だけで子どもの問題行動減らそうとか思ってんだもんなー。しねばいいのになー。と、思うのですよ。
基本的なことだけど「愛着形成」ってのがとっても重要だよーとボウルヴィって心理学者が示した。
臨床心理学分野で、愛着が人格形成に多大な影響が云々って事例研究が腐るほどある。
親の愛情だけで問題行動が減るか?という問いに対して、多分減ると答えても構わないレベル。
アプローチする箇所としては、いい線いってると思うのよ。
条例見ると、結構あいまいな支援方法が書いてて(道徳教育がどうとか)、そこも批判点になりそうだ。抽象的でわけわかんねーよと。
でも、俺はむしろあいまいで問題ないと思うのだよ。
何故か。
ほぼ全員の見解が一致してる部分として「子育ては千差万別」ってのがあると思うけど
まさにその通りで、マニュアルが適用できる部分ではあるまい。100人子供がいりゃ、100個の育て方があるだろうさ。
「愛着形成にはこんな意味がある」「親の愛情って超重要です!」というのを学ぶだけでも
むしろそこが狙いだろう。
マニュアルという言葉が悪いのかもしれん。「子曰く…」みたいな、道しるべ的なイメージといえば想像つくだろうか?
で、問題の条例は何というか、マニュアルどおりちゃんとやればはみ出るはずはないみたいなのが大前提になってる感がするのよ。
くどいようだけど、「愛着形成しっかりしようね!基礎基本はこうだから、各人で応用頼む!」的な敢えてあいまいなマニュアルを守れば
少なくとも「小さいころに愛着形成できずに、非行(引きこもり)になっちゃった」ケースは減るんでないかい?
欲を言えば分厚い文書マニュアル渡して「ハイ読んでおいてね」ってんじゃなくて、「こうやったけど上手く行かない」「こうやれって言われてるけど加減が分からない」っていう相談を受け止めて「じゃあこれ試してみて」「加減はね、こんな感じ」みたいなアドバイス渡して、「お子さん元気に育ってますね、いい子ですね。お父さんお母さんの頑張りがあってこそですね」みたいなフォローまでくれるくらい欲しい。
ここには超同意。教えっぱなしで、「出来なかったら親が悪い」とか言い出たらアウトですな。
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科学哲学者のカール・ポパーは、反証可能性を持つかどうかを「真の科学」であるかどうかを見分ける基準として提唱しており、それ故彼は精神分析学は科学ではなくて疑似科学に過ぎないと断じた。
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犯行動機の構成と成員カテゴリー化実践 : いわゆる「足利事件」における精神鑑定をめぐって(II 自由論文) - 文献詳細
松木 洋人
大貫 挙学
CiNii 論文 - 犯行動機の構成と成員カテゴリー化実践 : いわゆる「足利事件」における精神鑑定をめぐって(II 自由論文)
Amazon.co.jp: 冤罪の軌跡―弘前大学教授夫人殺害事件―(新潮新書)
「所謂変質状態ノ基礎状態テアル生来性神経衰弱症」「表面柔和ニ見イナカラ内心即チ無意識界ニハ残忍性『サディスムス』的傾向ヲ包蔵シテ居リ両極性相反性ナル性格的傾向ヲ顕著ニ示ス」と鑑定した
1952年 5月31日 控訴審終了。Nに懲役15年の有罪判決。
1981年 4月27日 青森地裁弘前支部で一審終了。Nが部分勝訴。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/1981/1981_6.html
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/1986/1986_7.html