はてなキーワード: 聴覚障害とは
色盲も出たのもこの影響なんかな
精神原因による色覚異常の事例はあるでしょうか?気になったので調べてみました!
[Conversion disorder - Wikipedia](https://en.wikipedia.org/wiki/Conversion_disorder)
兆候と症状
(中略)
転換性障害は現在、機能性神経症状障害という包括用語に含まれています。転換性障害の場合、心理的ストレス要因があります。
DSM-5 に記載されている機能性神経症状障害の診断基準は次のとおりです。
患者には、随意運動機能または感覚機能の変化の症状が少なくとも 1 つあります。
a. 臨床所見は、症状と認識されている神経学的または病状との間の不適合の証拠を提供します。
b. この症状や欠損は、別の医学的障害や精神障害によって説明するのが適切ではありません。
c. 症状または欠損は、社会的、職業的、またはその他の重要な機能領域において臨床的に重大な苦痛または障害を引き起こすか、医学的評価を必要とする。
[以降関連する情報なし]
調べてみた結果、「ストレス性の色覚異常」(color blindnessもしくはachromatopsia)に関する直接的な言及は見当たりませんでした!
この記事さあ、
父はアルコール依存で母は聴覚障害「ADHDの私に何ができる?」30代女性が月商100万円の焼きいも屋になるまでの苦悩
https://news.yahoo.co.jp/articles/bc468efb7185bc9c9d23654f3f0f513b831f9051
途中までは共感しながら読んでたんだよ
毒親で気の毒だな、母親の聴覚障害はともかく父親のアルコール依存症は治せるだろ病院行けよとか思いながら。
理解と経済力のある彼くん持ちかよ!既婚者ならば生活の安定は保証されてる訳で、焼き芋屋の起業なんて何ら逆境じゃなかったじゃん
こういうふうに取り上げられてちやほやされる中高年女性ってほんっとーーーに、常に結婚して(時にはしていなくとも)子供のいる女性だよね
独身の中年女性がこんなふうに仕事で成功して、それが記事になって取り上げられるのなんて見た事ない
60代で医学部に入りました!やっぱり子持ち!
何処を見ても子持ちばっかり。それも子供の数も一人二人じゃなくて三人の事が多い。
それって要は旦那にそれだけ経済力があって頼れてるって話だよね…
家庭内に主たる稼ぎ手が他にいるから安心して挑戦が出来るっていう。
それが現実だよね…何の意外性もないし感動もない
みんな子持ち!子持ち!子持ち子持ち子持ち子持ち子持ち子持ち…!!!!!嫌になるよ
独身の中年女性は何処にいるの?みんな死んだの?それともみんな私と同様に社会の隅で縮こまりながら目立たず語らずに生きてるの?
こういう特別な話に限らず、普通の就職だってぜっっっっっったいに、中高年の女は子供がいた方が採用されやすいと思う
子供がいると不利だなんて20年以上昔の話で、子育てに優しい企業という勲章を貰いたくて何処も積極的に子持ちを採用してるんだと思う
自分と同じように働いていた同僚の非正規仲間(40代で3人の子持ち女性)もいつの間にやら正社員転職決めてたわ
私は何処も書類落ちなのにな…
Twitterのとある新人エンジニア。新人と言っても、アラフォーからのエンジニア挑戦らしく結構年はいっている。
それ自体は良いんだが、色んな意味でキツい。例えば業界歴もまだまだ浅いのに「IT業界の闇」みたいなことを語りだす。挙げている中身もそもそも闇というかそいつの習熟度が足りてないので起きている事象にしか過ぎなかった。20代前半の無邪気な業界批判だったら温かく見守るが、お前もう40だろ…批判は良いけど、なぜそのような状態に陥ってるか深掘りしてから言うくらいの工夫しろよな。
後、よく自分の「設定」を忘れる。そいつ聴覚障害者らしいのだが、「音楽聴きながら仕事」したり「先輩の怒号」が隣の部屋から聞こえるんだってさ。はっきりいうが嘘だろ。そもそもこいつが聴覚障害者と告白した時も、ものすごいしょうもない言い間違いを指摘されて、それの言い訳として聴覚障害を持ち出してきやがった。
業界歴の浅さはどうでも良いんだよ。失敗しても良い。でも想像力がなかったり、虚言はやめた方が良いよ。もう手遅れかもしれんけどな。
逸失利益裁判の敗因は原告陣営に数学力(特に統計学の知識)がある人がいなかったからと考えてみる。
そもそもなぜ障害者という括りの中で算出されなければならないのか?個人には無数の属性があってその数だけ括り方もあるはずだ。
聴覚障害があるという共通項で集めた人の収入の分布は確かに低いところにピークがある山なりのグラフになって、それは健常者で集めたものの85%に相当するのかもしれない。
しかし件の女子も該当するような、成績がこういう数値以上という基準で集めたグラフだと、むしろ健常者という基準で集めたグラフよりも高いところにピークがあるものになるかもしれない。あるいは基準とする属性の取り方によっては、障害者のピークより上にしか分布してないグラフになるということもありえる。
そうなったグラフの対象となっている人に障害者も含まれてるなら、いっそう件の女子の逸失利益も健常者平均より高いとする確度も上がるだろう。
もちろん属性の取り方に応じてたとえばk個の属性があるとしたならΣ(i=1→k)kPi通りのグラフが考えられることになり、グラフの母集団の大きさとかグラフに障害者がどれだけ含まれているかに応じて数学的に適切な重みづけをして、数学的として合理的に算出されるべきだろう。
しかし少なくとも単に健常者平均の85%というのは明らかに知識不足ゆえの統計学的に稚拙に過ぎる考えである。
もちろんここで裁判官を咎めてもしょうがない。立証責任があるのは原告側である。原告陣営が統計学の専門家と弁護士も交えたうえで係りあって、数学的に説得力ある主張としてまとめたものを弁護士が力説する必要があるのである。
とはいえなるべく易しく説いたとしてもそれでも裁判官が理解できるのかという疑問はある。
裁判官には国会の委員会にあたるものもないから、結局これ以上易しくできないというところまでやさしく力説したのも虚しく理解できないからと今回の判決と同じ結果になっていたかもしれない。裁判官の向学心に無関係に自由心象主義を採用していることの問題である。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221018/k10013862771000.html
個人的な話だけど、ヘルプマークってなんか意味あるのかね?正直、あれつけてる事によって社会的には混乱することのほうが多いんじゃないの?
そもそも、あれって色んな人がつけてるよね。弱視の人もそうだし、聴覚障害の人もいれば、精神疾患の人もいるし、高次機能障害とか内臓疾患の人とかも。
障害のある人って幅広いから、まぁ色んな人がヘルプマークつけてておかしくはないよね。
つけてる側はいいのかもしれないけど、つけてる人を見る側はあれを見てどうしたらいいの?
最近地下鉄で「ヘルプマークをつけている人に席をお譲りください」みたいなことが車内アナウンスで流れてて「え??」と思った。
ヘルプマークつけている人が座ることを必要としているかどうかなんて、わからないじゃない。
そりゃ膝が悪いとかなら座ったほうがいいだろうけど、必要ない人も多いよね?それを十把一絡げにお譲りしないといけないなんてことないでしょ。
それとあれを見て、我々は何をヘルプしたらいいの?
裏側にどういう障害やら疾患やらがあるかを書いてるらしいけど、普段は見えないじゃない。
てんかんとかで倒れたりしたら、そういうのも役立つかもしれないけどさ。
正直、あれ見てると弱者マウント感じるんだよね、地下鉄のアナウンスもそうだけどさ。
「私はヘルプマークつけてるんだから弱者なんだ、保護されるべき・贔屓されるべきだ」みたいにさ。
俺たちだってそりゃしんどいときもあるし、調子が悪いときもあるじゃない。でもそれを「疲れてるから、体調悪いから」なんて外からわからない。
そんな疲れている人より、元気なヘルプマークの人が席を譲られるべきなんだろうか??
なんというか、あのマークのせいで障害を持っている人とかヘイトだいぶ集めてると思う。
ここのアンケートでも公共交通機関で配慮してもらったというのが一番役立ったとあるけど、配慮する側だって人間だからね。しんどいときとか配慮できないからねぇ
http://www.gp-sri.jp/report/detail029.html
視覚障害…眼鏡や点字、ユニバーサルデザインの普及
知的障害…グループホーム等で負担をかけない軽度の作業を行ってもらうなどする
このように、身体障害や知的障害の場合、あくまでも外部的な道具や社会的なシステムの改善によって当事者の生きやすさを補助している
しかし、
精神障害や発達障害…薬漬けにして社会に合わせよう!とにかく薬だ薬!薬さえ飲めば全て解決!!
精神障害や「発達障害」だけ、明らかに対処がおかしいんだよなあ
本当に「発達障害」が障害ならば、必要なのは障害があってもスムーズに社会生活を営めるような機器の普及や
労働時間の短縮や同調圧力の緩和などの社会的な取り組みでしょう
それがなんで障害者の方に薬を飲ませて健常者社会に適応させる事しか考えられてないの?
いついかなる時でも暴力絶対反対というならまだ分かるんだけど、BLMの時は暴力を肯定する人がかなり多かったから矛盾を感じるんだよな。
しかも皮肉なのが、よりによってアカデミー作品賞を取ったのが聴覚障害をテーマにした『CODA』だって事。
あの作品は主人公こそ健聴者だけどその家族は聾者で、手話によらなければコミュニケーション出来ない。
そういう人達が侮辱されたらどうするの?少なくともその場で直接には言い返せないよね?
後日準備をして丁寧に抗議するしかない?そうこうしているうちに相手が何処かに行ってしまって行方知れずになるかもしれないのに?
「言葉で言い返せばいい」という理屈は言葉を適切に効果的に使える人に限定されるよね。
CODAの予告編にも下品な言葉で言い返すシーンがあったけどさ。
また、女性が侮辱された時にその夫や恋人が怒って行動に出るのも家父長制だとか言うのも。
じゃあ女性は男女の間には体力差腕力差があるのに、男から侮辱された時には常に自分一人だけの力で立ち向かわなければいけないの?あるいは力を借りる事が許される相手は女性だけ?
最近気がついたんだけど、夜の8時45分とかにEテレでやってる「手話ニュース」てのがホント有能。
今まで、オレは聴覚障害じゃねーしNot for Meだね!って思ってザッピング中にチラッと見ても、まじまじ視聴することはなかったんだけどさー。
ちょうどその時間どこの局もおもんない番組ばっかだったんで、ちょっと気まぐれ的に「手話ニュース」見たんよ。
そのときどきの「最重要な時事ネタ」だけ(ほんの少し、季節の話題とか和み系もあるけど)淡々と要点だけ簡潔に報道してくれて実に捗る。
「街の声」とかいう、どーでもいいそこらへんの通行人が述べる感想とか、キラーン!だのシャキーン!だのジャジャーン!だのと余計な効果音が付いてたりとか、声優の声色で印象操作だとかが全くないのがものすごくスッキリ。満点だわw
ハラスメントとされる行為の中には「それは一般社会でも犯罪だろ」というものもあれば、「それは別に一般社会では犯罪ではないだろ」というものもある。無断で尻を触るなどは一般社会でも強制わいせつ罪にあたるし、服を破くとか持ち物を壊すとかの嫌がらせをしたら器物損壊罪になる。しかし、では例えば「無視をする」というのはどうか?
一般社会において、私が誰かから何度か声をかけられて無視したとしても、それ自体はなんの犯罪にもならない(それが犯罪になるならこの世はナンパ師の天下になってしまう)。しかし、若く健康で聴覚障害を持たない大学教員が、自分が指導している学生からの再三の礼儀にかなった問いかけをガン無視したとしたらどうか。これはハラスメントではないか。
一般社会において、二人きりで食事をしようと持ちかけることや他者に愛を告げること、あるいは「セックスしよう」と誘うことは完全に自由である(それがダメなら親友に「おい、今度サシ飲みしようぜ」というのもダメになってしまう)。しかし、たとえば上司が(とりわけ異性の)部下にこれらを持ちかけたら紛れもないハラスメントということになる。
つまり、「一般社会では自由だが、職場などの特殊な環境では処罰の対象となる行為」というのがあるわけだ。それらは本来自由な行為であるのだが、一定の条件下では処罰の対象になってしまう。ということは、その範囲はなるべく厳密に設定されなきゃいけないということになる。だって、本来自由であるはずのものを罰するんですよ? その条件はきちんと決めておく必要があるでしょう。
アカデミックハラスメントは、「研究・教育機関、および学会等の学術組織において、立場が優越的な者から下位の者に対して行われるもの」と定義されるのが一般的だ。
たとえばある人物の公表された論文に「くだらん論文だ」「こんなのなんの価値もない」「こんな非生産的な研究にカネと労力が注がれているのは嘆かわしい」ということはまったく自由である。公開された論文については誰もが言及する権利を持っているからだ(表現の自由)。しかしそれを指導教授が受け持ちの院生に言ったらアカデミックハラスメントになる。
もしこの定義を崩せば、たとえば大学教授であるナンパ師が見ず知らずの女子大生に声をかけるのもアカデミックハラスメントということになってしまう。それはどう考えてもおかしいだろう。アカデミックハラスメントというのは、あくまで学術的機関・組織での権力関係に基づいて設定されるべきものだ。
では、大学でも学会でも縁がない非常勤講師やテニュアトラックの助教に誹謗中傷された任期なし准教授は「アカデミックハラスメント」の被害者なのか?
誹謗中傷の被害者ではあるだろう。それは正々堂々裁判に訴えて賠償金をもぎ取ればよろしい。それについてはなんの異存もない。しかし、同じ大学の同僚ではなく、学会で顔を合わせているわけでもなく、直接の権力関係があるわけでもない(むしろ被害者の方が立場が強い)場合には、それはアカデミックハラスメントとみなされるべきではない。
そしてアカデミックハラスメントではないのなら、自ずと罰されるべき発言の範囲も違ってくる。上に挙げた「くだらん論文」の例を考えてほしい。これを指導教授が院生に対して執拗に言ったら学内でお叱りを受け、場合によっては戒告などの処分に発展するだろう。だがもし、これを評論家が大学教授に向けて言ったのだとしたら、地裁から最高裁までのすべてで「単なる論評であり誹謗中傷とはいえない」との判決が出るはずだ。論文を読み、それをどう評価するかは自由だからだ。「こいつは無能な研究者だ」というのはどうか。指導教授が院生に言ったら一発でハラスメントだろうが、評論家が具体的に論文を引いてこいつの言ってることはおかしいと指摘した上での話なら、自由な論評の範疇ではないか。「彼女はどうしようもないバカな極右だ」「彼は救いようがない愚かなフェミニストだ」というのはどうだろう。「某教授のやってることはニセ科学だ」「某教授のジェンダー研究なんてまともな学問じゃない」はどうか。さすがにこのへんになると裁判でも危ういかもしれない。しかし、これを評論家が言うことすら許されないのだとしたら、言論の自由とは、表現の自由とはいったい何なのか。