はてなキーワード: 聖書とは
古文漢文なんていらねぇ!という主張は、とにかく評判が悪い。受験期になると毎年のようにこの手の論争が再燃するが、話がまともに前進することは稀である。
ほんとうに意味のない教養信仰やマウントやwhataboutismをとりのぞいたとき、私の考えでは、必要派のまともな論拠は以下の一点に絞られる。すなわち、古文漢文を学習することは、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるので、古文漢文は学ばれるべきなのだ。
いずれにしたって、古文漢文に優先的に学ばれるだけの価値があるとすれば、それは役に立つからである。
任意の学問について学ぶことにはそれ自体価値がある(誰もこれを否定するべきではない)のだが、それだけでカリキュラムに組み込まれるわけではない。古文漢文は英語や数学とならんでとりわけ役に立つからこそ、受験科目にするほどの価値を認められているのだ。そうでないとすれば、あれやこれを受験科目にせず、古文漢文を受験科目にすることがまったく正当化できない(これはいくらかwhataboutismだが)。
古文漢文はなんの役に立つのか。古文漢文をやっていれば、これに絡んだワードセンスや物語の優美さ・ユーモアが汲み取れる、というのはどう考えても小さすぎる利点なので、この程度の「役に立つ」を指摘して満足してしまうのは小物のやり口である。
もっとがっつり役に立つ、例えば大学や社会に進んだら漢文や古文を読む機会がたくさんある、古文漢文で読解力や論理的思考が大幅に養われる、などと指摘するのは嘘つきのやり口である。そんなことないからこそ、不要論が立ち上がるのだ。
したがって、古文漢文が真に役に立つのだとしたら、上に述べた通り、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるというのが、その「役」なのである。この「役」は、聖書やプログラミングを学ばせても代替できない点で、古文漢文をとりわけ優先するもっともらしい理由を与えてくれる。中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきであり、古文漢文はこの望ましい帰結をもたらすからこそ役に立つ、優先的に学ばれるべきなのだ。というか、これこそが古典教育の目標であることは(ここまで露骨ではないものの)高等学校学習指導要領に書かれている。
古典としての古文と漢文、古典に関連する文章を読むことによって、我が国の伝統と文化に対する理解を深め、生涯にわたって古典に親しむ態度を育てる。
古文漢文必要派は、この一点突破を狙うべきだろう。小さすぎるお役立ちを挙げるのも、大きすぎるお役立ちを挙げるのも、教養信仰やマウントやwhataboutismに徹するのも、墓穴を掘って自らを辱めるだけだ。
しかし、「中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提は、すでにかなり党派的なものである。それはれっきとした国粋主義であり、軍国的な仕方で「国民」なるものを要請している。このグローバル化が進みきった時代において、なぜ日本人(にっぽんじん)としてのアイデンティティを持たなければならないのか、それがなんの「役に立つ」のかという疑問はスキップされており、とにかく、「文化的アイデンティティを養うべだ」という義務だけが突きつけられている。
実際、古文漢文不要派の一部は、まさにこの「国民」の押し付けにこそ反対しているのであり、特定の文化的アイデンティティに固執するべきではないと考えているのだ。必要派が本質的にナショナリストならば、不要派は本質的にアナーキストである。
というふうに、「古文漢文必要派vs不要派」の争いは多分に政治的な争いであり、私が思うに、発信する人の多くはこれを分かっている(ほんとうに無自覚な人もいるが)。しかし、両陣営ともに自らの政治的立場を明言しないのが普通である。というのも、露骨に党派性を示してしまえば、そうしなかった場合には言いくるめられたフォロワーまで引かせてしまうからだ。そのせいで議論はいつも上滑りし、互いに口汚く罵り合って、相手は馬鹿だと結論し、翌年の再戦を待つばかりだ。
「中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提の是非にのみ話を絞れば、古文漢文の必要性をめぐる議論はもう少し見通しが良くなるだろう。
なんにせよ、アイデンティティを持つことは、心身の健康にとって必要不可欠であるかもしれない。国民であるという拠り所すら失われたときに、人はどれだけの孤独を感じるのか。そんなものに寄りかからず自分の脚で立て!というマッチョな個人主義に、みんながみんなついていけるわけではない。
はたまた、仮に日本人としてのアイデンティティを養うべきなのだとして、古文漢文をやらせるというのは理にかなった方法なのかという疑問も意味をなしてくる。これだけ少なくない人々に、古文漢文という科目への悪いイメージを植えつけているのだとすれば、それはいわゆる「義務教育の敗北」ではないか。
はたまた、少なからず党派的な思想を陰に陽に植えつけようとする事自体、中高生の自律性を脅かすパターナリズムでなくてなんなのか。「自分の脚で立て!」とまではいかないにせよ、子どもたちには一定の選択が与えられるべきであり、古文漢文を必須の受験科目とすることはその道を閉ざしているのではないか。
そんなに言うなら、私立理系に進めばいいだけの話だ!と言われるかもしれない。しかし、だとすれば理系はなぜ日本人としての文化的アイデンティティを養う義務から(ある程度)自由を許されるのか、と問われるかもしれない……。
疑問・議論は尽きないが、私たちはいまや「古文漢文は必要なのか」というはじめの問いよりも、はるかに全うな問いたちを手にしつつあるのではないか。
好きなの選んでいいぞ
A:(大前提:神は男女の肉体と魂と役割をお作りなられた)神は間違いをおかさないから、男は男に生まれるし、女は女に生まれる。聖書を読むべき(増田の主張に近いやつ)
B:(大前提:神は男女の肉体と魂と役割をお作りなられた)すべての生き物は病気や障害で通常と異なった外見になることがある。神の定めた役割にあった外見にすることを消極的に認める
C:正直、聖書を読むに○○だと思う。しかし、神の意志を推し量ることはできても、それを知ることはできない。また、神が、私たちが人を愛し、赦し、助け合うようにと願っておられることは確かだ。人を裁いてはいけない(マタイ7章1節—6節)し、不用意な発言が信仰の妨げや(以下略)
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
自己啓発本や伝記を読むのは負け犬だと聞いたことがあります。因果関係が逆なのです。読むから負け犬になったのではなく、負け犬だから読んでいるのです。
そういう私もいくつかのミニマリスト本を読んだことがあります。足るを知るというのは、本当に重要だと思うので、その哲学を深めたいと思っています。
しかし単にエンタメが目的なら、アメコミでも買って読んでいた方がよいでしょう。
いえ、私はヤングシェルドンを見て、アメコミに興味を持ったのです。例えばXMenは、人とは違うミュータントが活躍するストーリーですが、統合失調症の私に共通することがありそうです。
しかし私はシェルドンとは性格は違います。私は潔癖症でもないし、若い時のIQは低かったです。
確かに小学生の時に1から10(あるいは100だったかもしれない)までの和を出せと教師に言われて、ガウスと同じことをして褒められたことはあります。
しかしなんというか、常識とか倫理とか、そういった人々が共通して持っている知識の欠如が私を苦しめてきたのです。
その点はシェルドンに似ているかもしれませんが、シェルドンは自然に善人になっているのに対して、私の子供時代は悪人のソレでした。
私に対して道徳感の重要性を説得できた身近な大人はいませんでした。大人になって本を読み、聖書を読み、獲得したのです。
しかし道徳といっても、日常の行動の細かな点を見つければ悪が潜んでいるものです。
ソロモン王は舌の罪について述べています。現代は匿名ダイアリーやTwitterなど、舌の罪を犯す場が多すぎて、しゃべらないほうが本当はいいのです。
与えられた仕事がない時は自分で仕事を見つける必要がありますが、やる価値のあることは少ないのです。
やってコストになるならやらないほうがマシです。
それで、私は「これをやってほしい」とあちら側からやってくるのを切望しているのです。
社畜といえばそれまでですが、私は金儲けは得意ではないので、金儲けの戦略を考えるような話では戦力外です。
「生産性を上げるためにこういうツールが必要だ、作ってくれ」という話ならば、やる気が湧くのですけどね。
それはそうと、私のチェスの腕前は素人レベルなのですが、chess.comで勝つといい気分になります。
結局、チェスとは1日における有限の集中力の割り当てゲームです。休日に朝起きて、朝食を食べた後ぐらいにやれば勝率が格段に増加します。
しかし調子に乗って二戦やると、すでに集中力を使っているので負ける公算が高いのです。
何か新しい趣味はないだろうか、と探し続けてしばらく経ちますが、ブログの執筆というのが一番しっくりくるような気がしているのです。
私はこれまでに何種類かのブログを書いてきました。
学生時代はサイバーセキュリティのブログ、就職後は自然言語処理ブログ、あとはいくつかの黒歴史です。
バカも黙っていれば利口に見えるというのは、聖書にすら書いてあります。
ブログなど書いても、チェスの集中力の話と同じで、いつか気力の弱い時にボロが出るだけでしょう。
それよりも一冊、フィクションの小説を書いてみるというのはどうでしょうか。
いや、私は知っています。世の中には溢れんばかりの小説がありますが、その需要は限界を迎えていることを。
例えばこういうのはどうでしょう。つまり、語り弾きの録音をして、soundcloudで発信するというのは?
もしかすると、アウトプットのできる趣味を求めるのが間違っているのかもしれません。
そもそもアウトプットは社会を前提とします。私の脳が社会的本能を持ってしまっているために、社会に何かを出したいと思ってしまっているのです。
しかし誰かに認められることなく、家の中で数学をやっている虚しさを私は経験しています。
結局学問というのは、社会に成果を発表してこそやる意味があるのです。今、卓上で宇宙の真実を発見したと言っても、虚しいだけです。
では趣味全般が、社会との交点を有意義さのために必要とするのでしょうか。
いえ、そんなはずはありません。私の母親は趣味で農業やダイビングをやっていますが、情報発信などせずに充実しているようです。
そうすると、なぜ私は社会のことを過剰に気にしてしまっているのでしょう。
それについては、たぶん私の「新規探究性」にあると思います。遺伝的に私は新規探究性が高いので、ようするに新しいことをしたいのです。
インターネットに不満を感じ始めたのは、目新しさが減り、なにもかもがありきたりに感じ始めたからかもしれません。
私はtiktokが出た時も、「ありきたりなアイデアだなぁ」と思っていました。
マルチメディアは動画・画像・テキスト・音声ぐらいしかなく、そのバリエーションで言えば、動画の次元である「再生時間」に制限を加えたSNSが出てくることぐらいは誰もが予見していたでしょう。
生成AIが出た時は、「AIもここまで進歩したか」とちょっと驚きましたが、触ってみるとすぐに飽きるのです。小説AI,ChatGPT,画像生成など色々試しましたが、AGIが出てこない限りはあまり驚くこともないでしょう。
私は頭が悪いので「頭が良くなる方法」とよく調べることがあります。
なぜかというと、数学やチェスが趣味であるというのと、仕事がプログラマーであるのとで、頭をメンテナンスしたいからです。
そして最も重要なのは「睡眠食事運動」であることがどの情報にも書かれています。
睡眠に関しては、努力はしています。夜更かしをしないようにしていますが、目が覚めてしまう場合もあります。
食事については疎かになっているかもしれません。こどおじなので、両親が作ってくれますが、朝は食べないことが多く、昼は卵かけご飯ぐらいしか食べていません。
そして最大の難点が運動です。私は過去に「美しいお尻になりたい」といって運動をしたことがありますが、1ヶ月しか続きませんでした。
苦しいと思うことを習慣にしようとしても続かないらしいのです。
しかし運動が足りないことを補うために、部屋の中でぐるぐると歩き回ることがありますが、このような運動でも効果があるのでしょうか。
東京の人は割と歩く距離が長いようですが、私は田舎なので、歩くことが極端に少ないのです。
いや、田舎だからというよりは、フルリモートの影響が大きいでしょう。
といってもフルリモートをやめるつもりはないですけどね。電車の時間が往復で2時間かかるから、それがないだけでQoLが上昇します。
しかし電車で通っていた時期もありました。その時はQoLの足しになるように、電車内での読書を必ずやっていて、毎月1冊は読破できたのです。
怠けた生活になってからは、読書さえも少なくなってしまいましたね。
増田やSNSなどのデジタルに費やす時間を減らし、それを補う形で読書ができれば良いと思うのです。
デジタル空間に「ソーシャル性」を持ち込んで、良かった試しがありません。きっと、聖書の箴言の言っていることが正しいのでしょう。
例の件があって以来、脚本家と名の付く者は問答無用でネットリンチしていい、みたいな風潮だが、お前らは何の権利があってそんなに偉そうなんだ。
原作者が「原作通りに」と要望するのは分かる。自分のかわいい「子ども」だからな。一方で、その辺の考え方は作家によるわけで、原作通りでないから無条件にダメなわけではない。
脚本家が「自分のオリジナリティを出したい」というのも分かる。曲がりなりにも創作者だからな。原作者との約束は履行すべきだし、その自身の感性で解釈し再構成したものが面白いか、それに見合った能力があるのかは別の話だが、「完全なオリジナルでないなら自我を出すな」なんて言い始めたら、世の中の大半の創作物は世に出せなくなる。
翻って原作厨は何なんだ。いや、お前らは高々消費者の分際で何様になったつもりなんだ。さしたる教養がなくとも、「原作通りじゃない」なんて批評未満のことは誰にでも言える。誰にでも言えるから棍棒になる。棍棒を持ったら日頃の憂さを晴らしたいよな。分かるよ。
だけどな、それで殴ってる相手が生身の人間だってこと、もうちょっと考えようや。棍棒で人を殴り続けると人は死ぬんだ。知ってるよな?
なら、どうすればいいのかは分かるな。お前らは「聖書に書いてない」っていう理由で人に殴りかかる奴らと同じことをしているんだ。作家は人を楽しませるために作品を作ってるんだ。お前らの棍棒を作るためじゃない。
NHKで未来の教育について議論しているのを見たが、その議論をしている人々は、教育に対する狂気的な親と同じような考えを持っている。
彼らに何を任せても無駄だと思う。もし私がタイムスリップして子供の頃に戻ったとしても、ハッカー精神を貫き、自己責任論を早いうちから獲得したいと思う。
「ハッカーと画家」という本では、学校は成長するまでの子供を収容する刑務所であると述べている。
世の中の真実とは、意思決定において自分自身しか責任をとれないということだ。大学受験をするもしないも、何を学ぶかも自己責任だ。
インターネットを早いうちから使えれば、賢い子供ならそこからは加速度的に学習するだろう。強いていうなら、IT系企業で働く大人が子供にネットリテラシーを教えると良い。
小中高で習うような学習内容はいつでも再学習可能なので、落ちこぼれて悔やむ必要はない。
高学歴しか雇わないJTCが社会構造を支配しているという問題を、教育の問題にすり替えるのは愚かだろう。
もし大人が教えなければならないとしたら、それは基本的な倫理についてだ。
クソフルエンサーを目指したり、バズ狙いで稼いだりすることがなぜナルシスト的で自己を破滅させ、他者に迷惑をかけるのか。
現代における倫理をまともに教えられる大人こそ、教育者としてふさわしいと言えるだろう。
難しい話ではない。そのような倫理はすでに旧約聖書に記されている。新約聖書ではない、旧約聖書である。
仏教や禅からも学べることはあるが、坊主のように浮世離れしたところで生きていくことはできない。
倫理には実用性が必要であり、聖書には現代に通ずるものがある。タイパが重要というなら、ソロモン王の箴言だけでも読んでおいた方が良い。
日中韓の教育ママは倫理の教育を疎かにし、インテリ気取りで受験のためのコンテンツを詰め込もうとするが、それは教育ではなく、妖怪製造工場だ。
別に幽霊じゃなくてもいい、今の科学の説明の外にある現象……思念、怨念、呪い、妖怪
死者の怨念が現世に何か影響を与えると認識している、と言っていいのかどうか
「祟りは信じていない。しかし祟りを信じている人の信頼を損なうので祟られるような行為はしない。」というスタンスはありえる
「祟りは信じていない。しかし何か起きたときに祟りだと言われて面倒になるので祟られるような行為はしない。」というスタンスもありえる
では龍であればどうか
「池に石を投げる/泳ぐ/汚すと祟られる。龍神様が住む池だからだ。」という謂れがある池のタブーを信じるかどうか
実在を信じる人もいるかもしれないが、おそらく多くの現代人は龍神の実在を信じはしないけれどタブーも侵さないだろう
いや、これは本当に自信が無い
ルールだから何となく守るだけで深く考えていないという線もありえるし
シンプルに池を汚すのは良くないことだから、という認識があるので龍とか関係ないという話はもちろんあるだろう
これは例えば江戸時代や明治時代の史料を調べていて、祟りだとか龍を見たとかいう記述があったとして、それを文字通りに受け取っては不味い気がするという話
箱根以東の江戸側には野暮な人間と化け物はいない、という田舎をバカにする言い回し
これだって「化け物はいるかもしれないが江戸の周りにはいないよ」という含意があるのか
それとも「化け物なんてどこにもいないよ」という含意なのか
また、「郷とお化けは見たことがない」という言い回しも存在する
この言い回しはいつ頃の時代から言われたものなのか未調査なのだが……
南北朝時代の郷という刀工が作る刀には銘が無かったため、後の時代で無銘であるが郷だろうと言われるものしか存在しなかったらしい
そのため前述の「郷とお化けは見たことがない」というフレーズが出てきたようだ
こういう言い回しがある時点で当時既にお化けの実在は信じられていなかったのでは?と感じる
でもそんなこと言いながら地震が起きたら鯰絵が大流行するんだよ
お化けや妖怪は信じないのに地下の巨大ナマズは信じるのか?それとも信じていなかったけれどお話として楽しんでいたのか?
当時の人々にとってのリアリティがどのようなものか、を調べていきたい
江戸という都会だと例えば河童なんかはリアリティがなかったのかもしれない(未調査)
しかし、原理不明である地震には説明が求められたので大鯰が語られリアリティがあった?
竜巻あたりも同じ話だ
明治時代の錦絵に竜巻を眺める人々の様子を描いた「怪雲現る」と題されたものがある
貴重資料展示室050 市井の天候資料 - 国立天文台暦計算室
その絵には
怪雲現る 明治廿三年六月十八日午後三時半頃東天に當て黒雲現れ其中央より遥に地下に向て尾を曳き螺形に捲上げ動揺きて見へしハこれぞ謂る龍の昇ならん道行人は皆一時ハ立とゞまりて眺めけり
という文も添えられている
この文から当時の人が龍の実在を信じていたかどうか読み取ることが出来るだろうか
「(龍はおそらく実在しないけれど)いわゆる龍の昇天と呼ばれている現象だ」という文意なのか
あるいは「あれこそ龍が昇天するときの現象だ」という文意なのか
「龍の伝承,とくに東海地方の竜巻と台風について」という論文によると、
との記述がある
ユニコーンの話でいうとシェイクスピアの『テンペスト』の作中に
なんでも信じたくなる, 一角獣が実在することも,. アラビアには不死鳥の王座と呼ばれる樹があって,. いまもそこに一羽の不死鳥が君臨しているという話も。
というフレーズがあるようだ
だいぶ古い!
やっぱりかなり古い時代から疑ってはいたようだ、実在も不在も決定的な証拠が無かっただけで
グリフィンなんかはこれより少し後の時代に実在を否定する人が出てきたようだ(しかし実在派から反論を受けている)
『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』(原書房) - 著者:ボリア・サックス 翻訳:大間知 知子 - ボリア・サックスによる本文抜粋 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
グリフィンの実在を否定した作家のトーマス・ブラウンに反論して、スコットランド人聖職者アンドリュー・ロスは17世紀半ばにこのように書いている。
グリフィンは想像上の生き物だと他の著述家が言ったとしても、彼らがそう言ったというだけでは、証明するには不十分である。なぜなら世界にはそのような多数の「混成された疑わしい」動物が存在するからである。アコスタ[スペインのイエズス会士で博物学者]は、一部はロバに、もう一部は羊に似たインディアン・パコス[ラマ]という動物について述べている。レリウス[フランスの探検家]はブラジルのタピルス[バク]について述べている。これはロバと未経産雌牛に似た動物である。その他に、飛ぶ猫や飛ぶ魚、キュノケファロスと呼ばれる犬の頭部を持つ猿のように、混成動物に関する多数の記録がある。コウモリは一部は鳥で、一部は獣である。
そうなんだよな、やっぱり不在証明って難しいんだわ
なお『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』は買って読んでいる最中だがなかなか難解で読み進めるのが大変だ
こんなところか、いったん今の考えをまとめた結果
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ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 下」
「地球の歩き方 E03 イスタンブールとトルコの大地 2019-2020 【分冊】 1 イスタンブールとその近郊」
「A20 地球の歩き方 スペイン 2024~2025 (地球の歩き方A ヨーロッパ) 」
宮下遼『物語 イスタンブールの歴史-「世界帝都」の1600年』★★★
先月たくさん行ったしこれでOK。
満州国については通史でしか知らなかったので、こうして改めて本で読み返すと得るものが多い。
釘貫亨『日本語の発音はどう変わってきたか 「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅』
今井宏平「トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで」★★
維羽裕介、北國ばらっど、宮本深礼、吉上 亮「岸辺露伴は叫ばない」
Jam「続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。 孤独も悪くない編」
田澤 耕「物語 カタルーニャの歴史 増補版-知られざる地中海帝国の興亡」★
今井むつみ、秋田喜美「言語の本質: ことばはどう生まれ、進化したか」
安藤 寿康 『能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ』
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 下」
旅先の歴史についての本や、旅先でも読めるくらいの軽さの本を読んでいる。岸部露伴は地中海を飛び越える飛行機の中で楽しんだ。
言語学の本を少し含んでいる。
なお、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿には美術館が併設されており、そこにも行ったのだが流し見だった。今回の旅行のテーマは絵画ではなく建築だったからだし、軍事博物館のイェニチェリの演奏を聞きたかったからだ。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 10巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下」★★★
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行 第S4話 露出狂時代」
飯村周平『HSPの心理学: 科学的根拠から理解する「繊細さ」と「生きづらさ」』
きい著、ゆうきゆう監修「しんどい心にさようなら 生きやすくなる55の考え方」。
堀晃 他「Genesis されど星は流れる 創元日本SFアンソロジー」
小川一水 他「Genesis 時間飼ってみた 創元日本SFアンソロジー」
「トルコ共和国建国100周年記念 山田寅次郎展 茶人、トルコと日本をつなぐ」
柞刈湯葉も柴田勝家も一度読んでから「しばらくは読まなくていいかな」と思ってしばらくしてから読みだした。柞刈湯葉は表題作が普段のクールというか知的なアイディアを軽やかに扱う感じではなく、意外な側面に驚かされた。柴田勝家はVtuber文化と死後のアーカイブを肯定的に表現していたのが大変面白い。
ブアレム・サンサルはもう何年も前にWIERD誌が紹介していたので読書メモに載せていたので読んだ。数歩遅れて読むことなどよくあることだ。僕は最先端を追うことにそこまで興味がない。
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集1 星ねずみ」
柴田勝家「ヒト夜の永い夢」
フランチェスコ・ヴァルソ (著), フランチェスカ・T・バルビニ (編集)「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」
高水裕一「時間は逆戻りするのか 宇宙から量子まで、可能性のすべて」
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集2 すべての善きベムが」
トーマス・S・マラニー「チャイニーズ・タイプライター 漢字と技術の近代史」★★
SFが多くを占めた。面白いが徐々に飽きてくる。新人賞の作品は読んでいるそのときは面白いんだけど、新しい思考の枠組みや発想に触れて、それが後まで自分に影響を与え続ける作品ってのは少ないのかも。
逆に星新一の源流の一つ、フレドリック・ブラウンなんかは、古びたアイディアと今でも色褪せないアイディアの両方がある。
タイプライターの歴史も面白く感じられた。あとは、純文学が少し恋しい。
他に読みたいのは歴史の本かなあ。それか、第二次世界大戦を舞台とした小説か。「火垂るの墓」とか「野火」とかいい加減に読まないとと思っている。
池田利夫訳・注「堤中納言物語 (笠間文庫―原文&現代語訳シリーズ) 」
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集3 最後の火星人」
成美堂出版編集部「いちばんわかりやすい 家事のきほん大事典」
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」★
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集4 最初のタイムマシン」
木村光彦「日本統治下の朝鮮 - 統計と実証研究は何を語るか」☆
エリック・H・クライン「B.C. 1177 古代グローバル文明の崩壊」☆
日本語の活字についてや、日本の植民地政策について読み始めたのは、先月の中国語タイプライターの本に、日本製の中国語タイプライターについての記述があったためだ。
楊海英「日本陸軍とモンゴル 興安軍官学校の知られざる戦い」☆
小倉孝保「中世ラテン語の辞書を編む 100年かけてやる仕事」★★
宗美玄(ソン・ミヒョン)「女医が教える 本当に気持ちのいいセックス」★★★
木村泰司「人騒がせな名画たち」
なし
読んだのは全体的に近現代史が多い。
第二次世界大戦についての本は通史を何度か読んだが、テーマごとに読むとまた面白い。歴史は技術史とか思想史とか文学史とかの別の軸で見直さないと立体的に見えてこない。とはいえ、少しは立体的に見えたとしても、知らないことが無数にあり、出来事すべてを頭の中に残しておくのは難しい。歴史は誰と誰が知り合いかとか、活躍した時代以降にどう生きたかがわかってくると更に面白くなるんだろうが、あいにくそこまで行っていない。
12月は当たりが多く、上位3冊を選ぶのに悩んだ。ほぼすべてがオススメ。
来年からは方針を変えて、すべての本を★1つから5つまでの段階で評価してもいいかもしれない。
一年を通してみると、「昆虫記」のウェイトが大きく、それから第二次世界大戦の本を多く読んでいる。それに並んで平安時代、江戸時代などを扱った新書が多い。外国の歴史の本は少ないが、旅先のイスタンブールとバルセロナの歴史を扱った本が印象深い。
SFの新人賞を数年分まとめて追いかけるのが習慣なのだが、もう少し純文学を読みたい。学生は岩波や新潮の古典ばかり読んでいたのにどうしてだろう。
人権関係で読みたい本が多数ある。とはいえ、悲しい気持ちになるので元気のある時にしか読めないし、いつ元気になるかは予測ができない。
ここ最近は美術展に行っていないなと思いきや、振り返るとほぼ毎週行っている月があったので、まとめてみるのは大事だ。秋以降は少なかったが、これは理由がわかっている。
以上。