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2018-08-19

元号出典一覧

元号出典備考
大化書経』(『尚書』)大誥、『漢書』巻56、『宋書』巻20 
白雉漢書』巻12帝紀 
朱鳥礼記』曲礼 
大宝易経』繋辞下 
慶雲文選』巻6、『晋書』巻54陸雲伝 
和銅和銅(ニギアカガネ)が朝廷に献上されたことにより改元
霊亀瑞亀献上により改元
養老養老の滝命名に因んで改元
神亀白亀出現の瑞祥により改元
天平天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上により改元
天平感宝陸奥から黄金献上により改元
天平勝宝孝謙天皇即位により改元
天平宝字蚕が「五月八日開下帝釋標知天皇命百年息」の文字を成したことにより改元
天平神護藤原仲麻呂の乱神霊の護りによって平定したことによる
神護景雲瑞雲の発現により改元
宝亀瑞亀献上により改元
天応伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により改元
延暦後漢書 五十二巻 
大同礼記』礼運篇 
弘仁 
天長 
承和 
嘉祥豊後国大分郡寒川現在大分川)で捕獲された白亀が献上されたことを大瑞として改元
仁寿白亀・甘露の瑞祥による改元
斉衡石見国から醴泉の瑞を献上された事による改元
天安美作国常陸国両国より白鹿、連理の樹が献上された祥瑞による改元
貞観易経 
元慶白雉・白鹿献上の瑞祥による改元
仁和 
寛平 
昌泰 
延喜尚書』旋璣鈐 
延長文選東都賦、白雉詩 
承平漢書 
天慶漢書 
天暦論語 
天徳周易 
応和「董巴議」 
康保書経 
安和礼記』楽記第19 
天禄 
天延天変、地震による改元
貞元火災地震による改元
天元災変、陽五厄による改元
永観書経』洛誥 
寛和 
永延漢書』巻75翼李伝 
永祚『晋書』巻21礼志 
正暦大風、天変による改元
長徳揚雄の『城門校尉箴』 
長保国語』(周語中) 
寛弘漢書」(元帝紀賛) 
長和礼記』(冠義) 
寛仁『会稽記』 
治安前漢書』 
万寿詩経 
長元六韜 
長暦春秋』または『晋書』 
長久老子』(七章) 
寛徳後漢書』(杜林伝) 
永承書経 
天喜『抱朴子』 
康平後漢書 
治暦尚書正義 
延久書経』または『尚書‐注』 
承保尚書 
承暦「維城典訓」 
永保尚書 
応徳白虎通」 
寛治礼記 
嘉保史記 
永長後漢書』巻1光武帝 
承徳周易 
康和崔寔『政論』 
長治漢書 
嘉承漢書』礼楽志 
天仁文選 
天永尚書 
永久詩経』?
元永天変、疾疫による改元
保安天変、厄運による改元
天治『易緯』 
大治『河図挺佐輔』 
天承漢書 
長承史記 
保延文選卷十一·魯靈光殿賦并序』 
永治『魏文典論』『晋書』武帝 
康治宋書 
天養後漢書 
久安『晋書』劉頌伝 
仁平後漢書』孔奮伝 
久寿『抱朴子』 
保元『顔氏家訓』文章 
平治史記』夏本紀 
永暦後漢書』辺譲伝、『続漢書』律暦志 
応保尚書 
長寛『維城典訓』 
永万漢書』巻64王褒伝 
仁安毛詩正義 
嘉応漢書』王褒伝 
承安尚書 
安元漢書 
治承「河図挺作輔」 
養和後漢書 
寿永詩経 
元暦尚書考霊耀」 
文治礼記祭法 
建久『晋書』『呉書』 
正治荘子‐漁父」 
建仁文選卷四十七・聖主得賢臣頌』 
元久毛詩正義 
建永文選』卷四十二・曹子建與楊德祖書 
承元「通典」 
建暦後漢書 
建保尚書 
承久「詩緯」 
貞応易経 
元仁周易 
嘉禄「博物志」 
安貞周易』上経坤 
寛喜「後魏書」 
貞永易経」(坤卦) 
天福書経」(湯誥) 
文暦文選卷四十六・顔延年三月三日曲水詩序』 
嘉禎北斉書」 
暦仁「隋書」(音楽志下) 
延応文選卷二十四・潘安仁為賈謐作贈陸機』 
仁治新唐書 
寛元宋書 
宝治春秋繁露-通国身」 
建長後漢書 
康元赤斑瘡による改元とみられている
正嘉芸文類聚-歳時中・元正 
正元「詩緯」 
文応「晋書‐劉毅伝」 
弘長貞観政要‐封建」 
文永後漢書‐荀悦伝」 
建治周礼 
弘安「太宗実録」 
正応伏見天皇即位による改元
永仁『晋書』巻22楽志 
正安孔子家語』 
乾元周易 
嘉元芸文類聚天部 
徳治『左伝』 
延慶後漢書』馬武伝 
応長旧唐書礼儀 
正和「唐記」 
文保梁書 
元応唐書 
元亨周易 
正中易経 
嘉暦唐書 
元徳周易 
元弘芸文類聚天部 
正慶光厳天皇即位による改元
建武文選』?
延元梁書 
興国春秋左氏伝』昭公四年伝、『新五代史』伶官伝序 
正平天変や兵革による改元
建徳文選 
文中易経』彖伝上?
天授史記』淮陰侯列伝
弘和書経』君牙篇?
元中易経』彖伝上?
暦応帝王代記』 
康永漢書 
貞和芸文類聚 
観応荘子 
文和旧唐書』順宗紀、『三国志』呉志孫権 
延文漢書』儒林伝 
康安史記正義』と『唐紀』 
貞治周易 
応安毛詩正義大雅江漢 
永和尚書』舜典と『芸文類聚』巻8 
康暦唐書 
永徳『群書治要』巻17
至徳『孝経』 
嘉慶毛詩正義 
康応文選曹植七啓 
明徳礼記 
応永『会要』 
正長礼記正義 
永享後漢書 
嘉吉周易 
文安『晋書』 
宝徳旧唐書 
享徳尚書 
康正史記』と『尚書 
長禄韓非子 
寛正孔子家語』 
文正荀子 
応仁『維城典訓』 
文明周易 
長享文選 
延徳孟子 
明応周易 
文亀『爾雅』釈魚 
永正周易緯』 
大永杜氏通典』 
享禄周易 
天文易経 
弘治北斉書』 
永禄『群書治要』巻26 
元亀毛詩』と『文選 
天正文選』と『老子 
文禄杜佑『通典職官十七』 
慶長毛詩注疏』 
元和徳川家康の命により、唐の憲宗の年号を用いた
寛永毛詩朱氏注』 
正保尚書正義 
慶安周易 
承応『晋書』律暦志 
明暦漢書』律暦志と『後漢書 
万治史記』と『貞観政要』 
寛文荀子』致士篇 
延宝『隋書』音楽 
天和尚書』、『前漢書』、『後漢書』、『荘子 
貞享周易 
元禄文選 
宝永旧唐書 
正徳尚書正義 
享保後周書』 
元文文選 
寛保国語』周語 
延享芸文類聚 
寛延文選 
宝暦貞観政要』 
明和尚書 
安永文選』巻一 
天明尚書 
寛政『左伝』 
享和文選』ら 
文化周易』賁卦彖伝、『後漢書』荀淑伝
文政尚書』舜典 
天保尚書 
弘化菅原為定の漢文 
嘉永宋書』楽志 
安政内裏炎上地震安政の大地震)、黒船来航などの災異による改元
万延後漢書』馬融伝 
文久後漢書』謝該伝 
元治周易 
慶応文選 
明治易経 
大正易経』彖伝・臨卦 
昭和書経堯典 
平成史記五帝本紀、『書経(偽古文尚書)』大禹謨 

※すべてWikipediaから

 

調査を通じて学んだこと

※代始改元はかつては非礼とされていた

https://kotobank.jp/word/%E4%BB%A3%E5%A7%8B%E6%94%B9%E5%85%83-1359409

代始改元は,(中略)平安時代から806年平城天皇大同改元場合を除き,皇位継承の年に先帝の年号を改めるのは非礼であるとしてこれを避け,翌年に改元するのを原則とするようになった。

南朝元号の出典、勧申者がのきなみ不明になってる。焚書にあった?それとも元号を考えられる教養のある人がいなくて適当につけただけだったりする?

日本古典出典の元号過去に一件のみ存在する(弘化

元号って漢籍から適当に二文字抜き出しているように見える。「百姓昭明、協和萬邦」から明和昭和の2つの元号が作られているし。なんか規則あるんだろうか?

2018-07-14

[] アビラケツノミコト「神軍を率いる光の命」

オウム真理教の「アビラケツノミコト」とは、一体何だったのでしょうか?

1985年には「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたと述べる

アビラケツノミコトとは「軍神を率いる光の命」という意味単語だそうです。

 

アビラケツノミコトの初出は、「トワイライトゾーン1985年10月号(KKワールドフォトプレス刊)でした。

考証の資料として、原文を見てみましょう。

アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者

 

仏教用語サンスクリット語a vi ra hūṃ khaṃの音写。以上の5音綴は,それぞれ万有の構成要素である地,水,火,風,空を表わし,大日如来内面悟りを表明するとされる。一般には,すべてのことを達成するための一種呪文として用いられる。

地水火風空(a vi ra hūṃ khaṃ)のうち「風」(hūṃ)が揃ってないので、まだ不完全(未完成)な状態、という意味もあったようです。

 

トワイライトゾーン 1985年10月

編集部不思議体験レポート(22)

最終的な理想国を築くために

神をめざす超能力者

レポート/■■■■■

 

今月号の口絵14ページで、空中浮揚の連続写真を紹介した麻原彰晃氏。彼は師にもつかずに、独自修行でこのレベルに到達した。だが、この超能力者目的は、はるか先にある。

 

★8年前、すべてを捨てて修行に入る

 麻原彰晃氏。あと1年もすれば、空を自在に飛ぶ人である

 彼は、特定宗派の僧でもなければ、団体トップに座す人でもない。人間の師ももたない。彼の修行独自で、しかも数千年も伝わる聖典の奥儀なのである

 麻原氏が修行を思いたったのは今からわずか8年前である。世の中すべてのものに強い矛盾を感じたのだ。何もかもウソだ。自分さえもウソツキだ。まわり中のこと一切が限りなくイヤになった。

 どうしたら正しく生きられるか。彼は、その日からすべてを捨て、行に入った。

 行は毎日2~5時間に及ぶ。仙道大乗仏教密教、チべット密教ヨガひとつに執着せず、数数の修行法をとり人れ、自分が納得する形で行なっていった。

 修行を始めると、様々な神秘的なことが起こりだした。たとえば、トランス状態での異言。

 その時のテ―プを聞かせていただいた。東洋系の言葉らしいが、私としては、TVなどでも聞いたことのない言葉だ。口調はかなり激しい。過激な説法、または、訴えのように聞こえる。

アジアの、インド中国チベット、その辺の言葉だと思います。おそらく、自分過去生と関係のある言葉でしょう」

 麻原氏が、修行8年にして空を飛ぶということは、過去生でかなりハード修行をしていたに違いない。彼は、テ―プに吹き込まれ自分の口から発した言葉を訳せる人を希望している。でも、もしかしたら、現在ではすでに死滅してしまった言語かもしれない。

 修行3年にいたったころ、彼の魂は彼の肉体を抜け出し始めた。「体が回転するような感じになったんです。ウォンウォンというモーター音に似た音がして、それからシューという音がしたんです。その時、魂が抜け出してゆきました。

 抜け出した先で、魂は宇宙の星星を見たり、『人』と会ったりするんです」

 こんなこともあった。シャヴァアサナ(屍のポーズ)をとり、トランス状態に入っていた。

 彼は、大ス夕ジアムのようなところにいた。観客スタンドは、裸の僧で埋まっている。中心で、やはり裸の僧の彼が説法をしている。

霊界での説法なんですね。私はそこで説法をして帰りました」

 聖典を読んで帰ることもあるという。魂が、修行において気になることを調べに行くのだ。

自分現実で読む本を先読みしているのです。だから、実際に読む本の内容は、すでに知っていることが多いのです」

 魂が抜け出さずとも、本の内容を理解していることも度々ある。修行中「ああ、これはこういうことなんだ」と感じた通り、後に読む本に同じことが示されている。

 もちろん、修行危険が伴わないわけではない。普通だったら死んでいるというような目にあったことも1度や2度ではない。

「その時は、自分守護神に頼むのです。そうすれば、必ず、元のところに帰ってこられる」

 

★突然、天から聞こえてきた神の声

 麻原氏には、たくさんの信仰している神、守護している神がいる。彼は、それらの神々から修行法を学んでいるようである

トランス状態とき、神々が現われることがあります。神々はヒントを与えてくれることもあります。または私が質問し、神が答える。質疑応容形式のこともあります。その中で得たのは、『生きることを否定せよ』ということです」

 麻原氏は、いつも出会う神とはニュアンスを異にする3人の女性出会っている。彼には、霊界人とも宇宙人とも感じられた。

「まず1度めは、5年前。妻の出産の時のことです。朝、自宅で目覚めるとロングへアで緑色の服を着たグラマーで美しい女性が、私に向かってオイデオイデをしているんです。

 全身はエーテル体とも思えるもので、炎の赤をしているのです。髪の色は、全身の色を薄くしたような感じで、ジャンパースカートのような形の服に茶色のべルトをしめていました。

 会話はありません。『私があなた守護しているのです』と私に見せているように思えました」

 2回めは2年前です。自宅で、眠る直前のことです。髪は肩まで垂らし、オレンジ色の服をきた目鼻立ちの美しい女性でした。体色は人間と同じでした。この時も会話はありません。

 3回目は今年の5月。ここ(麻原氏の道場)でです。髪の長さは肩ぐらい。やはりオレンジ色の服ですが、体の色は、何というか、この世にない色なんです」

 3人の女性たちは、共通して美しく、グラマーであり、口をきかない。決まって、彼の左側に現われる。そして、彼女たちが去った後、場の空気が揺らぐという。

最後はいつも、霧のようにかき消えてしまますひとつ修行が進むと、異なった人が現われるんです」

 麻原氏は、これまで世に出ようとは考えなかった。ところが、ある時、声を聞いたのである

地球はこのままでは危い!』

 彼は今、シャンバラのような王国神仙の民の国を築く準備を開始するため、多くの人に修行法を関放する必要を感じた。

 今年の5月のことである。彼は神奈川県三浦海岸で頭陀の行を行なっていた。五体投地をしていたときのことである。突然、天から神が降りてきた。神は彼に向かってこういった。

あなたに、アビラケツノミコトを任じます

 アビラケツとは、彼の初めて聞く言葉であった。彼は、サンスクリットを教えている人を訪ねた。

 すると、アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者と判明したのである

 彼は、天から降りてきた神によって、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが登場することを知り、それまでアラビツノミコトとして戦うように命じられたのである

 彼は考えた。チべットのような王国を造らなくてはならないことはわかっている。しかし、チベット戦争を好まない国である理想国を造るため、戦さを用いてよいのであろうか。

 彼は、シヴァ神や、ヴィシュヌ神などの自分信仰する神々や自分守護してくれる神々に相談した。神々は「命を受けるべき」と返答した。

 

完璧超能力者たちの国をめざす

 麻原氏は、神を感じるだけでなく姿を見るという。それによると、たとえばシヴァ神は、白銀のような色、ドライアイスのような色の神体を持っているという。

 ところで、ここでいうシャンバラとは幻の国、聖人たちが住み、全宇宙の、そして過去から未来永劫に至るすべての英智が納められている国である。かつて、秦の始皇帝アレクサンダー大王も求めてやまなかった土地なのだ

 シャンバラは、地下深くにあるといわれている。そして、地球上のある地点からは、シャンバラへの通路が開けているという。

 その昔、チべットの首都ラサにあった古ポタラ宮の地下の一室はシャンバラへの入口であったと伝えられている。そこで、チべットはシャンバラの影響を受け、チべット密教を開花させたのだ。

 聖者たちのひと握りの者たちはシャンバラを訪れることができる。そこで、ある者はシャンバラの住人となり、ある者たちは社会に戻り、許された者にだけシャンバラを伝えたのである道教の祖・老子は、シャンバラの人になったといわれている。

 麻原氏の話に戻ろう。

2006年には、核戦争の第1段階は終わっているでしょう。核戦争なんて、ほんの数秒で終わってしまい主す。日本死の灰の影響を受けているはずです。

 核戦争は、浄化手段ですね。だから、私は『ノアの箱舟』も信じられます。選りすぐったレべルの高い遺伝子だけを伝えるんです。

 だけど、人が『自分の分け前をさいて人に与えよう』というように考えない限り、『浄化』はなくならないんですね。そういう気持ちになかなかなれないのが人間でしょう。

 もし、それが真実でないとしたら、地獄餓鬼畜生人間阿修羅・天という六道はなくなってしまうでしょう。

 私の目指すのは『最終的な国』なんです。それは、仏教的・民主主義的な国で、完璧超能力者たちの国なんです」

 

★神が授げた神秘の石ヒヒイロガネ

 そのためには、修行解脱しかないのである修行意味を麻原氏に語っでもらった。

 「修行とは、ジュースの1滴を、テ―ブルクロスの上に落とさず、水の中に落とす、ということなんです。1滴のジュースとは、人間のことです。1滴のジュースは、テーブルクロスの上に落とせば、ただのシミです。でも、水の中に落とせば広がるでしょう。

 水の中にただ1滴のジュースを入れたって、水は色を変えないでしょう。でも、水の中には確実に1滴のジュースが入ったんです。

 魂の根元的な状態ですね。拡散した1滴は、水の中のことすべてを知り、経験できるんです。これが空であり、寂静です。高次元昇華した状態ともいえます

 大きな水がめの中の世界体験している麻原氏の身辺は、アラビツノミコトを任じられて以来、急転しだした。

 修行岩手県におもむいたときのことである。彼は、天からオリハルコン、またはヒヒイロガネと呼ばれる神秘の石を与えられた。

 ヒヒイロガネとは、超古代文献『竹内文献』などにも登場する石である神社玉砂利のように滑らかだが、それよりずっとツヤがあって黒い。ズッシリと重たく、力ネの名の通り、金属的な感じの石なのだ

 麻原氏は、この石の様々な利用法を考案中である

 水を張ったバケツに石を入れ、念を入れる。その石で円陣を作り円陣の中で瞑想する。

 ヒヒイロガネは、手に入れた人誰にでもパワーを発揮するものではないという。念を入れられる者の手にわたってはじめて、パワーを与えられ、驚異の力を噴き出すらしい。

 念を入れたヒヒイロガネは、多くの人々を同時にトランス状態にすることもできるという。この石については、いずれまた機会があったら報告したいと思う。

 麻原氏に行法の一部を実際に行なっていただいた。

 麻原氏は、座して、様々な印を結ぶ。印は2、3秒で変化する。

「これはチャクラ開発のための印です」

 次に、立ち上がり、上半身を少し前方に傾けた。腸というか、腹の中がゴロゴロと動き出した。これは浄化法・ナウリのひとつ。腹にあるマニプーラ・チャクラ覚醒に役立つ行だ。

 次は仰向けに寝てから足を天に持ち上げるショルダースタンドの形。空中浮揚に欠かせないビシュダ・チャクラ覚醒目的だ。

 それからライオンポーズ。これは、クンダリニー覚醒必要ポーズである

 麻原氏の修行には、かなり危険ものも多い。たとえば浄化法のひとつで、幅7センチ、長さ3メートル半の布を呑み込むというものなどだ。この時は、呼吸ができなくなるほどだという。

 

重要なのは正しい生活食事修行

 彼は、修行中、シャヴァアサナに入ったときチャクラの光を度度見るという。

 ちょうどフラッシュがパッパッと飛ぶような感じで、下のチャクラから順に光を放ち、同時にやはりフラッシュのような音がするという。音と画像シンクロするのだ。

 経験によると、音と光は様々な神秘体験には、共通して現われるらしい。たとえば未来過去タイムトリップするときは、マーチリズムのような音、霊体が離脱するときブーンという振動のような音。

 これは、各種の教典とも矛盾しないという。そこで、そのような音を作って流せば、修行者は案外簡単タイムトリップや霊体離脱経験できるのではないかと麻原氏は考えている。

 それでは、私たちがすぐにでもできる修行法について尋ねてみた。

「それは、まず何よりも五戒ですね。1が殺生をしないこと。蚊が自分の血を吸っていたら吸わしておくことです。

 2が盗みを働かないこと。

 3が誠実にして、ウソをつかないこと。

 4が邪淫をつつしむこと。

 5が禁酒すること。

 以上の五戒に徹することですね。悪の行為をやめ、将来にするだろう善行をどんどんすることです」

 集中的に瞑想などをしようと思うなら、空気きれいなところの方が効果的だ。プラーナ(気)の満ちあふれた海や山を選ぶとよい。ただし、風のないところで行なう。地・水・火・風・空のエネルギーは、想像以上に誘惑的なのだ

 次に、食物は、玄米菜食の方がよい。1日に1回、または2回。または少しずつ、数回に分けて食べる。ヨーガの激しい修行をする行者の場合、日に1800~2000カロリー理想といわれている。一般の人なら1200~1500カロリーで足りるだろう。ただ、カロリー栄養とは異なるから栄養はしっかり摂らなくてはならない。

「(日に)3食は獣の食事、2食は人間食事、1食は聖者食事という釈迦言葉があるんですね。

 でも、日に1食では、一般的には栄養が足りなくなってしま心配がありますから。日に1度という場合は、夕方に摂るのが理想ですね」

 玄米菜食だけで、スワジスターナ・チャクラ(腰・仙骨)までは開発できる。しかし、それより上のチャクラは、修行しか開発できない。

「スワジスターナ・チャクラ植物を司るんです。ここが開発されれば、低い次元超能力は身につきますね」

 麻原氏は、腹のマニプーラ・チャクラが開くまでは、外食は一切しなかった。もっとも、化学物質などの変なものを食べることを体が受け付けなかった。

 でも、今は多少腐ったものを食べようが何を食べようが平気である。火のエレメントがすべてを燃やしてしまうのである

 チャクラが開くということは、規制がなくなるということも意味しているのだ。

 尾骨のムラダーラ・チャクラが開くと規制され、腰のスワジスターナ・チャクラが開けば性欲の規制がなくなる。腹のマニプーラ・チャクラが開けば食欲の、胸のアナハタ・チャクラが開けば行為規制がそれぞれなくなる。

 規制がなくなるとは、「何をしてもいい」ではなく、規制をせずとも自動的コントロールされるということである

食べ物に気をつけるのもいいが、もっと大切なのは精神です。食物の害より精神の害の方がずっと悪いです。肉を食べたからってすぐ内臓が悪くなることはない。でも気持ちに及ぶ害は、すぐに体を悪くします」

 つまり、肉体への栄養よりも精神への栄養の方が大切なのだ適当食事よりは、瞑想1時間の方がずっと栄養になるらしい。

物質人間は救えないということをもっとよく考えるべきなんですね」

 

超能力自分を神々に変えていく

 正しい食事をし、正しい修行から得られるもの、それが超能力である最近は、魂の浄化・向上こそ第1義で、超能力邪道という考えも広まりつつあるので、麻原氏における超能力の実義をしてもらった。

「魂の進化・向上という考え方がありますが、それは、人間の魂が阿修羅・神々に至ることなんですよ。つまり超能力の獲得と魂の進化・向上ということとは、矛盾しないばかりか、正しい相関関係にあるんですよ」

 それゆえ麻原氏は自分を神に変える修行をし、「完璧超能力者集団」と彼のいうところのシャンバラ王国設立するべく、神軍を率いて戦うのだ。

 麻原氏のまず当面の目標は、自由自在に空を飛べる空中浮揚。それと、大脱身を成功させたいという。

「これは、アジナ・チャクラから自分の魂を抜き出させ、目的としている相手身体に人る超能力のことです。これが可能になると、三界欲界色界無色界)を自由に行き来できるんですよ。ここまでくると、もう人間といっていいかどうかわかりませんけどね。また、核戦争の脅威から身を守るには、極熱にどれぐらい耐えられるか、放射能いかに防ぐか、ということになると思うんですよ。今の修行方法でそれに耐えられる身体はできると思っています

 麻原氏は、空中浮揚の初歩までの修行か達成した。しかしながらこれは、全修行の段階の4分の1にすぎない。生きているうちに、全部達成できればいいという。

「私は、ハ夕ヨガでいうところの解脱はすでにしています。真我も見ています。これから求めるのは仏教でいう真解脱です。それがいくつもの決め方がある解脱のうちでも最高のものとされています

 もし、真解脱ができたら――もっともっと修行しますね」

 修行を達成した人間は、次の生を好きなように形づくれるという。麻原氏の中には、地球自分宇宙、神々……超大な計画がもくろまれているのかもしれない。

2017-06-30

https://anond.hatelabo.jp/20170630110359

元増田です。中国思想専攻でない私のいっちょかみ投稿にとても叮嚀に注を付けて下さって深く感謝します///

文字の異同について出土資料と併せて詳しく解りやすく整理していただき、大変勉強になりました。

「晩」と「免」なんてどうせ互いに通用する文字だろ、という(勝手な)思いがあり「晩」「免」の対立(にみえ構造)を超えて考えられないかと、先行研究も読まず諸橋大漢和もひかず増田に書いてしまいました。

金谷治氏の本、岩波の『論語』『荘子しか読んだことなく、これを機会に『老子』もちゃんと読みますリンク先の他の書籍面白そうなので、まず手に取ってみようと思います

本当に叮嚀に解説・紹介いただきありがとうございました! 多謝。

https://anond.hatelabo.jp/20170629234043

出典『老子道徳経

(中略)

馬王堆帛書では「大器免成」であり大器に完成はないという意味だった。本来前後の句とともに「道」は無形無限のものであるということを表していた。

大器晩成 - ウィクショナリー日本語版

馬王堆帛書ってなんじゃらほい。

馬王堆帛書

1973年12月、馬王堆三号漢墓から出土した帛書(はくしょ)で、12万余字に及ぶ厖大な量である。帛とは絹のことで、紙が普及するまでは竹簡木簡などの他に絹が使用されていたことを証明している。絹は保存が困難で伝来するものは稀であり、重大な発見となった。内容は、天文星占に関するもの医学に関するもの、陰陽五行に関するものなどで、これらは前漢・文帝の12年(紀元前168年)の遺物とみられている。これに書かれた文字は、「篆書から隷書に至る過渡的な段階にあるもの。」といわれているが、「篆隷中間書というはっきりしないものではなく、正しく整形した一書体に定着した新書である。」との見解もある。

馬王堆帛書とは - ウィキペディア小見出し辞書 Weblio辞書

まり馬王堆帛書老子道徳経いちばん古いの?

出土資料としては、郭店一号楚墓から出土した残簡(郭店楚簡)が最古である。それに次ぐものとして馬王堆漢墓から出土した2種類の帛書(『老子帛書』甲・乙)がある。

老子道徳経 - Wikipedia

じゃあ最古である郭店楚簡では大器晩成はどうなってるの。

郭店楚簡『老子』は、「大器晩成」(第四十一)を「大器免成」(大いなる器は完成することがない)に作る旨が述べてあり、これは腰巻にも紹介してあるから、本書の「売り」の一つなのかもしれないが、蜂屋前掲書によれば、帛書乙本が「免成」であって(帛書甲本は缺字)、楚簡は「曼城」となっているという(p.199)。もっとも、「曼」は「無」に通じ、「城」は「成」の通假字とのことだから、「免成」と「曼城」とは同義なのであろう。

http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20140412

どっちにしろ完成はしないわけだ。

「『大器晩成』の句はとくに有名であるふつう、『大人物の完成には時間がかかる』として、不遇な人を励ましたりするのに使われるが、それは『老子』の真意ではない。『晩成』ということばは、文字どおりには『できあがるのがおそい』であるが、前後の句との関係で考えると、むしろいつまでも完成しない、その未完のありかたにこそ、大器としての特色があるということであろう。できあがってしまうと形が定まり、形が定まれ用途も限られる。それでは大器でなかろう。」

金谷治老子』(講談社学術文庫1997年)136-137頁

http://cgi.shinkyaku.com/p.cgi?130317a/40

総合すると、晩成だろうが免成だろうが「大器は完成しない」が真意だが、もちろん老子は「完成しないかダメだ」と言っているのではなく、「完成しないからこそ大人物なんだよ」という意味合いになるのだろう。

そもそも、該当部分ってまるごと「故建言有之」だから「昔からこう言われてるよね」という引用にすぎなくて、老子自分自身言葉で語っている(いやそもそも老子存在自体が怪しいけど)のは「上士聞道 勤而行之 中士聞道 若存若亡 下士聞道 大笑之 不笑不足以爲道」、つまり(追記:自分なりの解釈を書いていたけどやっぱり難しいので削除するね)みたいな話で、それの例示なんだから「大器にはこれと決まった形がないんだから完成することもない」といったところなんだろうね。

2017-06-29

大器晩成意味

増田で『老子』もしくは『魏書』を引いている投稿があったので、久しぶりに『老子』の原文に触れた。

大器晩成」っていつも疑問で、漢代以降の「大人物(あるいは大事業)は時間をかけて完成するのだ」的な解釈でもいいんだけどさ。

最近、古い文字資料が出てきて「大器免成」と書かれてて、「大器」は成立することを免れる、だから成立しないのだ、なんて逆の解釈することもある。

この新解釈は耳目を引きがちだが、それゆえに、取ってつけたような印象を受ける。

老子の原文、「大器晩成」がある辺りはおんなじような文構成になっている。

明道若昧。進道若退。夷道若纇。上徳若谷。大白若辱。廣徳若不足。建徳若偸。質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形


明るい道は暗きがごとし。

道を進んでいるようで退いている。

高い徳は谷のように深く。

大いに白いものは辱(よご)れているように見え、

広い徳は、足りていないように見え、

剛健な徳は、愉しんでいるように(怠けているように)見え

質実は渝(うつろからっぽ)のように見える。

大きな四角には隅がない。

大きな器は晩成する。

大きな音は、その音が聴こえない。

大きなカタチは姿が見えない。

この辺りの文章は、ものすごく良いモノや大きいモノは、それゆえに逆のようにも見える(あるいはそのように見えない)、という文脈だ。

特に大器晩成のあるところは、

A大きすぎる四角は、それゆえに四角く見えず隅がない。

B大きすぎる音はそれゆえに聴こえない。

C大きすぎる物はそれゆえに見ることができない。

という流れ。

これを踏まえると、「大きすぎる器は、それゆえに完成しているように見えない」とするのが妥当なのではないだろうか。

から「晩成」でも「免成」でも良いような気がするんだ。

出来あがるのにめちゃくちゃ時間がかかる⇔いつまでたっても完成しない って、意味が通ずるよね。

ここでむしろ重要なのは、出来あがるのに時間がかかるorいつまで経っても出来ない……ように見える! じつは大器! ってところなんじゃないだろうか。

大きな器は、大き過ぎるあまり、出来あがっていないように見えるのだ。そう考えるのが文脈的ではないだろうか。

これを踏まえて現代的に譬えると「器のでかいやつは、器がでかすぎるあまり凡人にはなにやっているか伝わりにくい。あるいは、アホみたいな振る舞いに見える」とでもなるだろうか。

「晩成」か「免成」か、の議論だと大きな器が成立するかしないか、すなわち大人物は成功するかしないか議論が向きがちだ。

しかし原文の文脈に照らすと、大器は一見すると器として成っていないように見える。

(徳のある、あるいは「道」に沿う)大人物は一見してそのように見えない、とも読み得るのではないかというのが本増田のいいたいところだ。

2017-05-01

兵法だか故事成語だかが思い出せない

記憶では孫子とか老子とか莊子を読み漁ってた時期だと思う。

確か、「敵を支配するにはまず施せばいい」みたいな内容。

最初その言葉を読んでも全然意味がわからなかったのだけど、例えばインフラを与えておいてそれが当たり前の生活になったら、その後は止めるなり金銭請求するなりそれを条件に何かしらの交渉をするなり好きにすれば良いというものだった。

サイコパスじみてるけど、的を射すぎててしばらく鳥肌が止まらなかった。

今になってビジネスだろうと人間関係だろうと、イニシアティブを握りたいならこれがどれだけ効果的なのかを思い知る毎日

社内標語にしたいのだけど、どなたか原文を知ってたら教えて欲しい。

2017-02-28

手のひらに蛆足元に蝿2017

股間にイソギンチャク 未来は木の養分 骨の髄まで流出 液体だの益体だの ひどく貪る 陰陽老子の隙間から お前の影が見えたなら 転生も挽回も拭えぬほとりにこぶしを突

股間にイソギンチャク あららは箪笥  間違えたので簡単 獰猛だの泥濘だの ひどく退屈 凡退走者の太陽に 明日の息吹が見えたなら 後悔も殺伐も期せぬ夜ごとに変化を

部屋に蝿が現れたの          これで          あしたも  蝿が   飛ぶ        蝿よ荒縄の腐臭よ          

蝿の認識を                                       きれいな複眼      複眼を拭っている脚 羽を拭っている脚

2015-08-15

[] 以徳報怨

(いとくほうえん)

老子言葉。これを日本語にすると怨みに報ゆるに徳を以てす(うらみに むくゆるに とくをもってす)。

  

意味

ひどい目にあって怨みを抱くような相手であっても、仕返しをするのではなく、 許しの心で、あたたかく接するべきである、ということ。

  

解説

怒りの感情というものは、多くの場合、ささいなことが原因で起こるものです。

たとえ憎いと思っても、できるだけ相手を許し、逆に恩恵を与えるような気持で 接するべきである。ということのようです。

このことわざは、老子言葉ですが、論語の中にも書かれているようですから中国では、 かなり古くからあった言葉のようです。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=377286345747800&id=287957014680734

  

老子がこの言葉を言ったのは、「以怨報怨」つまり「怨みに報いるに、恨みを以ってす」だと、恨みの連鎖が起きて

何時までたっても怨みは解けず、復讐復讐をよび報復合戦になってしまう。

そうならないためには「怨みに報いるに、徳を以ってすべきである」という意味である解釈されています

旧約聖書コーランを基とする「目には目を、歯には歯を」の反対の考えです。

目には目を、歯に歯を」を信奉している、アラブユダヤの間で三千年も争いが続いていることを考えると、

この老子の教えは的を射ているのかもしれません。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1394880143

2014-10-09

フリースタイルラップと形状記憶メンタル

フリースタイルラップリズムに合わせて歌詞即興で作るのだが、リズムに乗ると不思議言葉が浮かんでくるそうだ。競技かるたリズムをとってカルタ記憶するらしい。リズムにどんな意味があるのか?

その謎をとくカギは「グルーヴ」にある。ブラックミュージック理解日本人がまず躓くのが「グルーヴ」という概念。それはただ機械的なリズムに乗ることではなく、体感とのシンクロ要求される。

この理解困難な概念に対するわかりやすい喩えが心拍という名の音楽だ。ケージ4分33秒音楽になるなら心臓だって音楽になる。君は心臓や呼吸に音楽を感じるかい環境音楽的ワークってやつだ。

その先駆けは現代音楽家Pauline Oliverosだ。いまや小学校音楽教科書にもその種のワークが載っている。ゆとり世代以降の人間なら記憶にある人も多いはず。

心臓リズムを感じるには目を閉じて心を静かにする必要がある。一種の瞑想だ。心拍が分かったら今度はそれに合わせて身体を揺らしてみよう。揺らすと心拍が変わる?そこが難しい所で、

心拍に干渉しないまま身体を揺らしていく。この感じがまさにグルーヴなわけ。がむしゃらに即興演奏すると必ず体感に干渉してしま体感迷子になる。ムードをぶち壊したらセックス台無しである

まり機械的にリズムに乗るだけでなく、体感シンクロすることで自然リズムが生まれてくるわけである。身体がそんなふうにできている。それがグルーヴジャズにおけるスイングも同様だ。

グルーヴあるリズムリズムマシンの作る厳密に一定リズムからは若干のズレがある。そこに生演奏の味わい深さがあると言われるが、正確に言えばズレかたに体感が反映されているから味わい深く感じる。

リズム一定さやズレ自体には別段深い意味はない。あくまでもリズム一定性やズレはグルーヴ副産物にすぎない。「世界リズムに満ちている」とは某音楽家言葉だが、正確にはそれはグルーヴなのである

音楽以外にも思考や会話にもグルーヴというものがある。相手のテンポを崩すようにワンテンポ遅れた返事や食い気味の返事を返すとかみ合わない感じがするだろう。

からテンポについて行けない人間どうしで深く仲良くなるのは極めて難しい。世の中の「親友」の多くはテンポがかみ合わないのに誤魔化し誤魔化し仲良くしているように見える。

トークのテンポというのはつまるところ、その人なりの言語体感とのシンクロの仕方である。単なる会話の速度ではない。早口でも会話のテンポが遅い人はいくらでもいる。

また、熟練すれば無理に話題テンポを速くできるが、結局は自分テンポで話すのが一番快適なことには変わりないわけである。けだし会話のテンポほとんど先天的である

.

一方、グルーヴには安定性という要素もある。ジャズでは「この人の演奏には安定したグルーヴがある」「安定したグルーヴにはノリやすい」「今回のセッショングルーヴが安定しなかった」

などと言われる。グルーヴが安定しない現象は先ほどの心音迷子になる現象と同じである体感を見失って、形の上でしかリズムに乗れてない状態。それはどうしても演奏に現れ、バラバラでちぐはぐな印象を与えてしまう。

安定性はその人のメンタルを表している。気持ちが不安定ならグルーヴ不安定になる。熟練演奏者なら多少メンタル不安定でも「いつもの体感自体は出せる。

だけど、別の「普段にはない体感」が邪魔をしてきて、演奏に乱れが生じるわけだ。そんななか繊細な感覚をつかまえてグルーヴ表現するのは並大抵のことではない。

演奏家という仕事一般人が考えるよりずっと鋼鉄メンタルを要するのだ。

.

強いメンタルになりたいと誰もが憧れるが、その秘密は形状記憶性にある。本当に強いメンタルとは、ガッチガチオリハルコンメンタルなどではなく、柔軟に形を変えてはすぐ元に戻る形状記憶性にある。

上善如水」を知ってるか?上善は水のごとしと訓読する。最高の善を説いた老子言葉だが、これは最強の心を説いた言葉でもある。

宮本武蔵五輪書で「水を本として、心を水になす也」と言った。水はどんな器にも合わせて形を変える。そんな心を養えという意味だ。

柔軟に適応しすぐ平常心に戻る。その様子はグルーヴから説明することもできる。ハメ撮りの帝王こと村西とおるは、黒木香にほら貝を吹かせた。脇毛で有名なAV女優といえば若い人にも分かるだろう。

村西氏はセックス快楽演奏の乱れで表現したわけだ。どんな演奏にもグルーヴはある。人間体感リズムに同期することでリズミカル運動ができるのである

ところが快楽があるとうまく体感と同期できなくなり、演奏が乱れてしまう。そこをなんとかうまく演奏しようとするところにエロティシズムがある。

現代的に言えば「ローターつけてお散歩」だ。pixivの「平然」タグもこれに関係する。くやビク(悔しいけどビクンビクン)はもう古い。大和撫子は奥ゆかしく「平然プレイ」だ。

そしてこの快楽ゲージがあがっても平静を装う平然プレイにこそ、形状記憶メンタル秘密がある。それはフリースタイルラップにしても同じことだ。

なぜラッパーはあのような無駄攻撃的ともとれるラップバトルをするか?それは戦いのなかでも終止安定したリリックを紡ぎ、安定したライム(韻)を生み出し、

安定したフロウ(歌い方)を展開することを競っているわけである。そんな「動中に静あり」の文化理解することなくただただ攻撃的なディスり合戦をやったところで何の意味もないのである

2013-11-24

週休三日の企業

みんなには内緒だが、うちの会社は週休三日制を敷いている。

土日プラス平日にひとつ休みを取る。

この制度の主目的は、「社会的エース級の戦力だけど、激務に潰されて心を壊してしまったひと」や、「一騎当千だが、結婚出産などで会社との折り合いにストレスを感じている人」の居場所を作れたらいいなという自分含めたラッセル怠惰への讃歌読書会メンバーで構成された経営陣によるものだ。

うちみたいなベンチャーは、そういうところを工夫しないと人材の囲い込み戦略で負けてしまうし。みたいなささやかな裏目的もある。こんな工夫だけで意外とやばい人材が集まる。

という話を、こっそり知り合いにすることがある。すると決まってこう言われる。

「週三日休みって生産性はどうなるのさ?」とか「平日休みと抜けられない打ち合わせが被ったらどうするの?」とかそういうものだ。

だいたいは、そこが問題なんですよねと軽く切り返した後に早くもストーブを出した話とか、ヒトカラで黙々と精密採点DXをやる楽しい休日の話にスライドするのだが、実は回答はある。

・週休三日と生産性の両立問題

通常二十営業日/月でこなす仕事を十六営業日クリア出来ない人材はそもそも採用していないので、問題はない。ほとんどのメンバーは十営業日未満でクリアしている。

・打ち合わせや、電話対応と平日休みの被り問題

まず、自分しか仕事内容が分からない状態が発生した時点で、チームワークの著しい欠如と見做して評価が下がる方針がある。どんな職務内容でも、仕事メールであれば自分以外の誰ひとりにも見られたくないメールなど有り得ない。

うちの会社に限らず、自分が急死しても仕事が止まらない体制を志向していない人材は論外だ。そこから派生して、関連性の薄いプロジェクトCCメールを鬱陶しいと言ってしま人材も方針上NGだ。彼らはチームワークの本質を理解していない。細やかな相互マネジメント管理コストの削減は全メンバー必須業務だ。

そういった方針に従えば、「休日取引先から個人携帯に連絡が来る」「打ち合わせに自分が行くしかない」状態がそもそも発生しないことになる。問題ではない。

という話なのだが、これをどういう風に話しても現在週休二日未満で労働している方には分かりにくい話なので、黄帝四経読書会メンバーで構成された経営層としては、老子黄帝四経という切り口から黄老思想という概念の紹介をするぐらいに留める。

なお、上記の方針の根拠は、スーパーメジャーである老荘思想とはまったく違う、黄老思想という絶滅危惧種思想を無理やり現代化して実用化に挑戦してみたものだ。

読み物としても意外とおもしろいのでお薦め

2012-11-09

[][][][][]

情報の非対称性 - Wikipedia

プリンシパル=エージェント理論 - Wikipedia

2001年ノーベル経済学賞を受賞したマイケル・スペンスによってはじめて分析され、

高等教育労働者生産性に何ら影響を及ぼさないとしても、

企業がその労働者に対して、高賃金を支払うことは合理的であることを示した。

シグナリング - Wikipedia




例として、ある人が難関大学卒であったり、スポーツに優れていたり、字が上手だったりする場合

その人が学力や体力や字の上手さにおいてだけでなく、人格的にも優れていると思い込んでしまうケースが挙げられる

(それらの事柄と人格的に優れているか否かは、ある物体の色と形が互いに独立の事柄であるように、互いに独立の事柄である)。

また、有名人タレントを通じたCM広告がその商品サービス

実際に使ったりしたことがないにもかかわらず良いイメージを与える。

それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。

一方、CMに起用されたタレント不祥事を起こしたりすると、商品自体に何の不満も覚えていなかったにもかかわらず購入意欲が削がれたりする。

ハロー効果 - Wikipedia



天下皆美の美たるを知るも、これ悪のみ。老子

高学歴に使えない人間が多い理由

2010-10-18

4回目、4日目

日付変わりましたが、17日深夜ということで。

昨日は○○○コンプレックスについて少し考えた。

結論はでなかった。

体調×。寝よう。

postscript: BLOG経済について更新

postscript: 老子に学ぶ必要ありかな

2010-09-25

例えば、増田とかで画面の向こうの誰かにアドバイスを求めることの危険性。

言い換えれば、思考を他者に任せる、委ねることの危険性。

こういう習慣があると大変なことになる。


別に、回答者匿名であることはさして問題ではない。

心ない中傷や罵倒をされたとしてもそれぐらいは承知の上であろう。

ちょっとネットに慣れていればそれぐらいは予想できるし、ある程度耐性もできていたりする。




問題なのは、そういう、例えばこの増田

http://anond.hatelabo.jp/20100922191511


こういう問題について増田に書き連ね自分の頭で考えることを放棄していると、そういうことを習慣的にやっていると

次第に、何か解決すべき問題が浮かんできたとき 自分の頭で考えることができなくなるのだ。

面倒くさいからすぐに助けを求めてしまうようになるのではなく、それが苦手になるのではなく

大事なことだから二回言うが、本当に考えることができなくなるのだ。

"考えないという行動をとるということは、また一つ考えないという習慣化を助力すること"

なのだ。 基本的に習慣というものは、物理学でいう慣性、惰性のようなものだと思ってもらって構わない。


さて、


>問題解決(英語:problem solving)とは、問題を解決する、すなわち解を発見することであり、思考の一部分である。

>すべての知的な機能の中で最も複雑な思考であり、高次元の要求の認識定義されている。

>それには、より筋道の立った手順及び基礎的な知識の操作、調節が必要となる (Goldstein & Levin, 1987)。




問題の本質はなにで、その問題の解決策をMECEに洗い出し、評価をし判断をし実際にどう動くかを決めるという一連の作業をしっかりできている人は

意外と少ないのである。欧米などに比べ、比較日本人論理的思考を重視しないので 現状において日本人はそういった問題解決能力は平均して、決して高いとは言えない。

逆を言えばそれができるだけで日本人の中では相当の強み、アドバンテージになることは私が保障する(本来、資源で勝負できない日本がこんなことでは駄目なのだが)

最近やたらロジカルシンキングクリティカルなんだのが重要だの喧伝されるが、その試みに比して問題解決全般における平均的な能力はさして向上していない。体質的に受け入れがたいのだろうか?)


結局、何をするにしても"問題解決能力"がものをいう。それの向上や、駆使することを

(あの増田槍玉に挙げるが、あの文章では普段からろくに物を考えてなさそうだ)

放棄し、比較的難易度の高い生き方とされる 「働かずに生きる」という目標を実現させようとするその愚。

まずはそこを指摘するべきであろう。 あれに回答しているトラバブクマコメも全員バカ。衆愚。 上から目線で人にものを教えるなんて勘違いも甚だしい。

これでは梅田などにその知的水準の低さを指摘されても仕方がない。バカなものはバカなのだ。



一連の情報連鎖が目も当てられないことになっていたので、気まぐれにまた一つ鎖を繋いでおいた(=リンク=連鎖)

バカの中にも見込みのあるバカが一定数いるものだ。

願わくは、そういう一定数いるバカが、それから脱却できることを。




老子「授人以魚 不如授人以漁」





【追記】



トラバブコメに救いようのないバカが散見されたので、各自反面教師とするように。



増田ロジックは読めても人の心は読めない子なんだなぁ。理屈で解決する問題じゃないじゃんw


まず、この増田は"働かずに生きることはできますか"と命題を投げかけている。

命題とは真偽の判定が可能、かつ真か偽である条件(必要条件)などについて論じること、かつ

パターンMECEに洗い出すことは十分に可能なのである。人間には本来そういう力が備わっている。

まずそういう根本的なところを突き詰めないで、思考を放棄し、"できますか"と尋ねるバカな増田

下手に出たことをいいことに、現実世界で、社会的に蔑にされ、重要人物たりえないバカな俺でも上から目線に、偉そうに意見を述べられるぞ!チャンスだ!

とここぞとばかりに ノイズをまきちらすバカどもが。

不確定要素はあれど、思考し尽した痕跡情報連鎖の中に何一つない。私はそこを衝いている。

バカは人の主張さえも理解できないのか。そんな調子でよく今まで平気で生きてこれたな。


バカは自分がバカであることすらもわからないほどバカらしいが

ここまで親切に書いてもわからないかな? 下手な言い逃れに躍起になるより素直に自らのバカさ加減と

向き合った方が、今後の人生において利口だと思えるのだけれど(まずバカはデメリットだらけ。そのままでいる理由がない)

まあ勇気のいることなので、ゆっくりでいいよ。ゆっくりしすぎたらバカのまま死ぬかもしんないけどね。



根本的なところを突き詰めないで枝葉末節をつっつくのはバカのやること。

あるいは雑談ならその程度で良い。しかし目的雑談か? "雑談をしている"、のではなく"雑談しかできない"無能しかいないのではないか?

見るからにそれはそう。 普段から頭を使っている人間は、ある程度の問題解決能力がある人間がわずかながらも情報を連鎖させているのであれば

ああいった様相を呈すことは、まずない。



ああいったやり取りで"何か有意義なことをしたような気に"なる奴らっているんだろうなあ。


そういう奴らは働かずに満足して生きることも成功することも到底覚束ないであろう。

構造的に無理なのだ。なぜ無理なのか。それはこの世が、社会がろくに思考をしないバカどもにとって都合の悪い構造、仕組みになっているからだ。

というより、そういった都合の悪い要素を集めた存在を"バカ"と呼ぶのかもしれない。

(あと、トラバブコメにいる俺に刃向うような、楯突いている人間は全員バカ。的外れ。ちょっと指摘すれば次の瞬間にはもう全く何も言い返せなくなるような脆弱意見

  もう何も言わない。わかる人にはわかる。 "ああ、バカが湧いてるな" と。 これ以上失望させないでおくれよ)


はてなが普段頭しか使ってないだけで頭が良いと勘違いしているだけの、ただのバカによって形成されたコミュニティでしかないことを願いたいところ。






バカはノイズをまきちらすだけだから邪魔ゴミクズウイルス。一掃されろ。ネットで何かを発信するな。テレビみたいに受信だけして満足しとけボケ






 

老子「知者不言、言者不知」





2009-11-20

http://anond.hatelabo.jp/20091120054706

知恵(ちえ)出でて大偽(たいぎ)あり

〔補説〕 老子「慧智出有二大偽一」

人間の知恵が進むに従って素朴な心が失われ、大きな偽りが行われるようになったということ。

2009-10-12

実学って社会を変革する力なんじゃない?

高校の頃、学部について相談した時に「経済学は役に立たない」と散々聞かされた覚えがある。

大学生になってミクロ経済学勉強するようになった。大学でよく聞かされるのが「実学=役に立つ学問ではない」ということだ

「有形において数理学(理論と実証)と,無形において独立心と」と実学は表現されている。

これを最近よく考えていて、実は封建社会へのアンチテーゼ実学というのは両輪の輪にあるんじゃないか?ということに思い至った。


実学、つまり「数理学」というのは誰に対しても平等なものだ。

例えば少なくとも1に1つ加えたものが2であり、それに1つ加えたものが3である限り、1+1=2であり、3+3=6である。

これは誰にも否定できないものだ。これは前提と論理が正しければ結論も正しいというある意味当たり前のことだ。この事実は誰にとっても公平だ。

その点において実学は、人に左右されず修めることができる。それは実学論理的に人にある情報を強制的に与えるものだからだ。ある前提を認める限り必ず認めなければいけない結論というのは、直感的におかしいと感じてもそれを乗り越える力を持つ。


その点、非実学福沢諭吉朱子学を挙げていた)に関してはどうだろう? 例を分かりやすく、「老子」にとってみる。

「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」という言葉がある。これはよくありがたがれる言葉だと思うが、これは多様な解釈が許されるものだ。この難解さ、解釈の多様性こそが老子醍醐味であろうし、年月がいくら経っても評価される理由だと思う。

かしこの非実学というのは非常に大きな問題を孕んでいる。それは、非実学から得るものが人によって大きく左右されるという側面だ。

例えば坂本竜馬西郷隆盛を評して「大きく打てば大きく鳴り、小さく打てば小さく鳴る」と言ったらしいが、これこそがまさに非実学本質ではないか。つまり、非実学というのはそれを受容する人によって内容が大きく変わるということだ。

これはつまり、いくら学問を修めたとしても、自分自身の内面が優れていなければ、「非実学においては意味がない」ということだ。

このような非実学曖昧さ、内面性というのは非常に封建的であり階級的だ。なぜなら、非実学はその人間を直接変革するような力にはならないからだ。むしろこれは、人の固有の内面固定化し、変革を妨げるような意味しかない。人は自分解釈しやすいように解釈をするし、都合のいいよう物事を受け取ることになる。これは商人商人らしく、農民は農民らしく、武士武士らしく、という発想を補助するものに他ならない。

そういう点で、非実学というのは格差固定化し、社会保守的に動かしていく力なんじゃないだろうか?

このような非実学というのは今の時代において溢れていると思う。極端に言ってしまえば、このような非実学というのは「権威のある諺のようなもの」にである。情報を取捨選択ができ、またしっかりとした資料が要求されないインターネットとはまさに非実学の温床ではないだろうか?このようなインターネットの普及においては、人は自分の身の丈にあった情報だけを受け取り、ほかのものを無視していく。この中で、例えば人は派遣なら派遣らしく、官僚なら官僚らしく、主婦ならば主婦らしくなっていくのではないか。


だからこそ実学は今の社会に必要なんじゃあないかな?

2009-08-09

http://anond.hatelabo.jp/20090809134201

老子とか壮子を読めばいいじゃない。

そうやって自己反省したり他人を憐れんだりする孔子孟子的な態度が、

せいぜい「かわいい子」どまりの道徳でしかないということに気がつくでしょう。

 

UPDATE:トラバツリーからわかる元増田の二つの真の問題

今回の元増田は、いわゆる「公用文書作成要綱」に沿って「読点をカンマ」「句点を丸」にしていることから、

なんらかの公務員ないし、公務にかかわる人物であることが想像されたが、

はたして、

私は東大を出て,司法試験に受かって,法律家をしています。

非常にやりがいのある仕事で,同僚や上司にもとても恵まれていますし,信頼できる友人がいます。

一方兄は,15歳のころから入退院を繰り返しており,高校には1週間ほどしか通えませんでした。

調子のいいときには両親と外出することもあるのですが,友人と呼べる人はいません。

恋愛もしたことはありません。

薬の副作用に日々苦しんでいます。

であった。

 

さて、今回の元増田の問題をまとめると以下の二つに絞られる

  1. 異常なまでの価値至上主義
  2. 必死に隠したい兄への嫌悪

 

異常なまでの価値至上主義について

先の記述から、兄は、「自分ほど与えられていない」という「フツーによくいるダメ兄貴」というより、社会を営む上での障碍を持っていると判断される。

そこで本人は、むしろ「自分が兄の分までいろんなものを持っていってしまったのではないか」と考えている。

だから、「お前よりも上がいるぞ」という意見に、「私の方が恵まれている」と返してしまう。

そう思わないと、今の兄の状態を合理化できないから。(ほんと、科学的思考のできない奴ってクソだな)

それが異常なまでの価値至上主義につながる。

私が恵まれていることのアピールをせずにいられない。

しかも、それを「罪」と考えている屈折。君子ごっこ。

 

だから、そこを突っ込まれる。

「いや、元増田より兄のほうが恵まれてるじゃん」と言う人間が現れたら、元増田は「罪」と考えるのを止めるのだろうか?

「そんなことはない。兄は不幸なんだ。不幸に決まってる。私と同じモノを持っていないのだから」と言い張るのだろうか?

まさに老荘思想というか、「逆説的に突っ込まれて回答に窮する孔子孟子君子」というのは、よくあるパターン

 

必死に隠したい兄への嫌悪

増田はお兄さんの事が嫌いなんだろうなあと思った。

嫌いじゃなくても重圧には感じていそう。

そう思った根拠は

兄の置かれた境遇(と言動?)のせいで自分の心に平穏が訪れない、

って事柄を言葉を変えて何度も述べているから。

一番見たくないところ。結局、兄への憐憫は兄への嫌悪の裏返し。

兄が甘受しなければならない不条理、それが自分に与える負担への執着。

そうした兄への嫌悪を、「自身の幸運に対する感謝と、兄への憐憫」という態度で合理化し、さも君子であるようにふるまう。

当然、見抜かれる。

別の増田に対して、表面上荒っぽい言葉は避けているものの

敵意の見受けられる言葉づかいをしているのが

ちょっと気になっています。

 

あるメッセージに対して、強く感情がゆすぶられたという事は

それだけ自分の中のコアをつつく何かが有ったという事でもあります。

それが「自分信条としてそういう思想は決して許せない」からなのか

「問題意識根本をえぐられたとっさの防衛反応」なのか

「端的に件の増田の言動が嫌いな奴を連想させてキモイ」あるいはそれ以外の要因なのかは

他ならぬ元増田にしかわかりえない事ではありますが。

そういう事もひっくるめて、

自分の内側にこもって一人討論会を開催する価値は有りそうだなあ、

などと思っています。

そして、

将来は,兄が,趣味のことでものんびりしながら暮らしていけたらなと思っています。

私が実家の母に電話をすると,隣で「妹よ」を歌ってくれている,やさしい兄です。

と、書き足す。

2009-06-20

http://anond.hatelabo.jp/20090614013747

これって増田を使った新手のプロモーション(あるいはその実験)なのか?書きぶりが神田昌典くさい。

  • 前振り
  • 本文
    • 勧める商品の利用経験談で商品効用について信憑性を高める。
    • 経験談の内容は、売りたい本を「自分は面白くないと思う」と言っていったん評価を落としておき、
    • 「でも実はすごい本だった」と持ち上げることで、読者の関心をいっそう煽ってる。語っている人の誠実感を演出する効果もある。
  • 落としどころ
    • 『私は今でも上述の書のすごさはわからない。自分感性と会わない主張まで受け入れようとは思いません。』とは、翻訳すれば、「本屋さんで手にとって自分に合うか確かめてみてね」だ。


あと、老子引用孫引きか?老子にそんなテキストはない気がする。

2008-02-13

天下皆美の美たるを知るも、これ悪のみ。老子

天下皆美の美たるを知るも、これ悪のみ

世の中の人は皆、美しいものは美しいと思っているが、

これが間違いのもとである

善いことは善いと思っているが、

これが不善のもとである

美とか善という価値は、絶対的物差しではなく、

ものごとの一面を現しているに過ぎない。

有るものは無いものから生まれ、

無いものは有るものから生まれている。

長いものと短いものが、互いを明らかにしあい

上にいるものと下にいるものが、互いを位置付けあい

楽器の音と人の肉声が、互いに調和あい

前と後ろにいるものが、互いを位置付けあうように、

自分にない本性によって、自分の本性は支えられている。

無為の境地に身を置き、ことばを超越した教えを実行するだけである

万物自分の働きで生成しても、一言も語らず、

生成したものを、自分のものとせず、

りっぱな仕事をしても、それによりかかからない。

聖人は、手柄を立てても、その地位にとどまろうとはしない。

から離れようとしないのである

老子


「すべては主観である。」モニモス

http://anond.hatelabo.jp/20140304005924

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