はてなキーワード: 練習曲とは
それで上司に連れられて関係会社とか下請け、傘下の企業に挨拶に回ってる
それで出先のロビーにピアノがあったから適当にリスト弾いたらお金持ちのとこの子供になったみたいっていわれてものすごく気持ち悪く感じた
音楽が自分にとって別に何のたわいもない空気みたいなものになってたからどうしてこういう感情を持つのだろう?と
親が大企業の社長で幼稚舎からエスカレーターで東大まで順調に歩んできた
いわば人生で初めて自分と格差のある人に触れ合ったて感じたのが気持ち悪さだった
弾いたのは練習曲の一ついわゆるため息というやつ
ぼっち・ざ・ろっく観て楽器始めようとは思わなかった。過去にギター買って弾かなかったから。
でも邦楽を色々聴いた。高校の頃割と好きだった事変とかサカナクションとか、元ネタのアジカンとか。
そっからナンバガミッシェルスーパーカーフジファブリック、有名どころ色々をざーっと聴いた。
鬱病の皆さんに人気のシロップとかアートスクールにも期待したけど、そこはあんまりハマらんかった。私は音楽には鬱ではなく躁を求めているのかもしれない。
バンドサウンドはかっこいい。しっとりしたのも悪くはないけどやっぱり多動でバキバキなのがいい。
閃光少女のアウトロは最高だし、あんまり歌詞に耳を傾けない自分にOMOIDE IN MY HEADのシンプルな言葉が妙に刺さった。
一人でシコシコとピアノ弾いてるんじゃ一生辿り着けない場所だ。ピアノにはピアノの、ギターにはギターの領分がある。
センチメンタルピリオドのギターソロがかっこよすぎて思わずギターを買った時の高揚を思い出してみた。
ネットで譜面探していざ弾こうとしたら、当たり前だが遠すぎる道のりを知って早々に挫折した。
基礎練とかかったるいし、「出来る」ではなく「やりたい」に動かされていたかったから、最初からそれだけをやってたかった。
やっぱり考えを改めて、「出来る」からやっていこうと教本を1ページから進めた。
難所とネタにされているFコードも、なにくそと思って抑えられるようになった。指の皮も少しは硬くなった。
難所は超えたと思っていたら、AだかBだかの方が難しかった。退屈な練習曲をやるのもバカバカしくなってきた。
その辺でギターに触らなくなって、引っ越す時にメルカリで売った。結局「やりたい」を見失ってしまった。
youtube見たら初心者が0からこの曲練習して〇〇日みたいな動画がよくある。
そこそこ弾けてる人もいれば、絶妙にリアルなレベルの下手さで努力の限界を見てしまった気分になる事もある。
私も頑張れば弾けたかもしれない。でも頑張らなかったから後者にすらならなかった。
今思えば別にバッキングをしたいのではなくソロを弾きたかったんだから、もっと別な練習をすれば良かったのかもしれない。
そもそもアコギ向けの教本だった気もする。6弦ベースを買うコテコテのやらかしをした喜多郁代さんを笑えない。
あとあんな退屈な練習を耐え抜いた喜多郁代さんは凄い。彼女の決意の前に退屈なんて言葉は無かったのかもしれない。
それを孤独に耐え抜いた後藤ひとりさんはもっと凄い。というか全てのギタリストは凄い。
まあかといって私の初期衝動が偽物だったとはサラサラ思わないけど。
経験者なら分かると思うが、一度やっていた楽器を再び始めるというのはかなり億劫だ。
いくら強い憧れを抱いていても、練習は退屈だ。特に最初なんてロクな練習ができない。
それでも最初は誰だってメキメキ上達する。その喜びを糧に退屈な練習を耐えながら、ようやく憧れに少し近づいていくんだと思う。吹奏楽部でトランペットやってた時もそうだった。
世の中卓球が好きで好きでたまらない星野裕やボールと友達になれる大空翼ばかりじゃないし。
私のギターにはまだまだ勢いよく上達する余地はあった気もするけど、また一からはな…という気持ちは否めない。ギターへの敷居の高さ(原義)もさることながら。
それでもロックを聴き漁った今、楽器欲は再燃している。というかベースに惹かれている。
忘れられないの(サカナクション)のベースソロが滅茶苦茶かっこよかったから、懲りずに憧れてる。
真っ新に生まれ変わって一から始めて首の皮一枚繋がったどうしようもない人生を生きたいって訳。
いきなり憧れに近づこうとしても息切れするのは覚えた。
バンドに入るでもなくリズムをひたすら刻むのは退屈かもしれない。ベースギターとは本来そういう楽器だ。
でも別に「本来」にこだわらなければいけない訳でもない。最近じゃ割とスラップベチベチの曲も結構あるし。
ギターみたいなコード弾きも実は出来ちゃうらしい。クラシックギターみたいにしっとりしつつ、ベースらしい色気もあってオサレな感じ。
でも私がやりたいのはやっぱりバキバキの音楽なんだよな。それもかっこいいけど。私はブレてばかりだ。
なんて出来もしない事を空想してばかりで、カラテを疎かにしてジツばかり追い求めていては身につくものも身につかない。
とにかく「出来る」と「やりたい」の間で上手く揺れ動きながら、それでもやっぱり初期衝動を大切にしていけば、今度は…なんて甘い事を考えてる。
まあまた諦めてしまっても別に人生終わる訳じゃないし、やっぱりやってみようかな。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
それで今ピアノが弾けるかというと、楽器と縁遠くなってしまって弾けるとは呼べないレベルだと思う。
何故ピアノを習い始めたのかというと、親戚のお姉さんなどがピアノを弾いていたのがかっこよかったからで近所にあるピアノ教室に通うことになるのだが、これが何とも微妙な時間を過ごすことになる。
まずピアノ講師はおばちゃんだった。主婦業の傍ら近所の子供にピアノを教えるという感じの教室で、最初は子供向けバイエルなどで運指などの練習をした。毎週黙々とバイエルをこなすだけで、課題曲が弾けたら「次行ってみよう」というだけだった。
おばちゃんとは特に世間話などはしなかった。ただ教室に行って、挨拶して課題曲弾いて終わり。バイエルが進んでから初心者向けの練習曲教本に進んだけど、おばちゃんが指定する曲の音符をさらってきて弾いて、全部弾けたら次の曲みたいな感じだった。
練習教本修了くらいでツェルニーとブルグミュラーを渡されてまたさらってこいと言われ、ただ練習曲を淡々と弾くだけだった。追加でハノンも渡されたけど、指が疲れるだけで全く面白くなかった。
ここまで来ると何のためにピアノを習っているのかと思った。特にモチベーションを感じない。でもピアノ自体は嫌いではなかったのでダラダラと通い、中3で忙しくなるからという理由で教室は辞めた。辞めて「無駄な時間だったな」と思った。
今思えば、まず「ピアノを弾けて楽しい」「上達して嬉しい」というアクションは全くなかった。好きな曲を弾いたり、弾き方によって様々な表現があるなど興味を引くような機会があったりは全くなかった。ただ教本をなぞるだけ。なぞれたらおわり。
そしておばちゃんが積極的にコミュニケーションを取ってこなかったのも気まずい時間だった一因だと思う。何かやりとりはしていたんだと思うけど、基本的に楽しいものじゃなかったのを覚えている。おばちゃんの持ってる空気が重苦しくて、ピアノを楽しいと思ってはいけないような雰囲気があった。
アップにハノン前半をゆっくりさらって、初見でツェルニー30番の1番だけ。
全然弾けなくて草
練習曲1曲分くらいは初見でまともになると思った僕がばかでした。
マスターできないのがわかったので、キッチリゆっくり練習して休憩。
そのあとは好き放題にテキトーに弾く。
ナウシカの王蟲との交流、ラピュタの空から降って来た少女のコード進行を耳コピして五線譜ノートにメモ。
ラピュタOPは後半のサビに来るところがシータの飛行石光るところにマッチしてついつい感情の塊になる。いいよね…。
休憩してから昔はそれなりに弾けたチックコリアのスペインを弾く。
全然弾けなくなってて草
それでも弾くのは楽しい。
何も弾けなくなってて絶望。
あー指いたい。
は? 小指痛すぎでは?????
実際、私はマリーゴールドを入れた男が、爆死とはいかないまでも、なんともいえない雰囲気を作り出しているのを多数目撃している。
ご存知の通り、
カラオケの鉄則その一
がある。
なんだそれ当たり前だと思われるかもしれないが、これができていない人は本当に多い。
上司・先輩・スナックのママの好みに過剰に反応し、自分を殺して忖度ソングを歌う。
そんな経験はないだろうか?
そういった、「とりあえず」カラオケの雰囲気は確実に伝わってしまうものなのだ。
もちろん、忖度ソングを心をこめて熱唱し、場を盛り上げる営業マンも多い。
しかし、限られた時間内でマリーゴールドを入れてしまうような未熟者にそんな芸当ができるはずがないのである。
もちろんマリーゴールドは美しいメロディーに歌詞、間違いなく名曲であるが
若い子はあいみょん好き、代表曲のMGは絶対知ってる、俺もまあ歌える、とりあえず入れよとなってしまっている人が実に多い。
②女性シンガー&ゆっくり曲調&切ないメロディー
①の場合でも、勢いのある曲だと乗り切れることも多いが、MGに関しては全く当てはまらない。
・アラサー以降男性の最大の強みである深みのある低音ボイスが使えない
ではどんな対策をすればよいのか?
もちろん自分の好きな曲の中から選ぶのが1番なのだが、そんなものがあれば苦労はしない。
ジャニーズソングに全く親しまないで生きてきた女性はほぼいない(偏見)
少なくとも、それぞれの世代で愛されてきたJSは確実に存在する。
歌いやすい男性アーティストソング・テンポがよい・PVも割とある等々、盛り上げたい男性陣にとっては最適な条件がそろった練習曲なのである。
2番手ソングを女性陣がよく知っていたりすると非常に盛り上がる。
ここでその他男性と差をつけるのは、
昔の曲はとかくテンポがゆっくりな事が多いため、せっかくの名曲も素人が歌うと若い女の子とのカラオケでは間延びしてしまう。
ここで早口になりすぎないレベルでテンポを上げることで、いつも聞いているテンポとの違いが新鮮なこともあり、盛り上げ効果が働くし、何より早く終わるので皆嬉しい。
あまり恋人以外アラサー以上の男性のカラオケ独唱をゆったりと聞いていたい女性は少ない。
まとめ
昨今、音楽趣味はより細分化し、若い女の子に何の曲が好きか聞いてもそれぞれ全く違う答えが返ってくるため、カラオケ対策は年々難しくなっている。
そんな中でもせっかく来てくれた女の子に少しでも楽しんでもらうため我々も日々努力しなければならない。
ちなみに個人的にはあいみょんだと「死ね」を練習するのがおすすめである。
KPOPなどについてはまた改めて考察していきたい。
つか子供向けの音楽教室でメインで扱うのはクラシックなんだよね
やっぱ基礎からしっかり技術身につけるにはそういう曲でないと駄目なんだろう
少なくとも自分が子供の頃ヤマハで習ってた頃はそうだった、JPOPなんざ一切使わなかった
今は多少は流行りの曲も取り入れてるかもしれないが、ここ1年くらいで流行ったような曲を取り入れるのは無理だろうし
長年愛されて定番と化したような曲は親は知ってたとしても子供はろくに思い入れがないし
(学校で何故か歌わされたらしい世界で一つだけの花すらうちの子供はろくに知らなかったぞ)
そういう曲を排除したらレッスンが成り立たないくらい大量に使ってるとも思えない
今流行りの曲を使わないと客を取れないのは子供向けじゃなくて大人向けだろうし
某音楽教室に通っている。
そこのテキストは、オリジナルと思われる練習曲と、クラシックの定番曲から、たまにJASRAC管理楽曲と思われる邦楽やディズニー系なども掲載されている。
今ちまたでは音楽教室とJASRACとの戦いが話題であるが、教材のJASRAC管理楽曲をゲーム音楽に差し替えればいいのにと割と本気で思っている(ただし、一部の委託楽曲とすぎやまこういち系は除く)。ゲーム音楽は大抵の曲がJASRAC管理楽曲ではなく、ゲームメーカーに権利があり、運用管理もそれぞれのゲームメーカーが行っている。メーカー別に交渉する必要があるが、大手の音楽教室だったらそういう制作部もあるだろうし、何も問題はないだろう。
最近はゲーム音楽のコンサートが流行っている。海外とかでも下手なクラシックより圧倒的に動員があるという。ネットの普及だったり、ゲームに慣れ親しんだ層がいい年になってるとか、いろいろ要因はあるだろう。この流れに乗って、音楽教室もゲーム音楽を採用すべきなのだ。
テキストの中にマリオやポケモンの曲があったら、子どもたちは目の色を変えて練習に取り組むだろう。FFの曲があったら、いい年したおっさんは感涙しながら演奏するだろう。良いことだらけではないか。
大手の音楽教室は意見団体を結成しているようだ。それはそれで頑張ってほしいが、JASRACの言い分が通れば、利用料徴収分はそのまま受講料に跳ね返るだろう。JASRAC管理楽曲を扱いつつ受講料が高くなるぐらいなら、JASRAC管理楽曲は取り下げてほしい。これは教室に通っている一個人としての意見だ。音楽教室運営の誰かに届けばいいのだが。
持論だが、思い入れのない練習曲を嫌々やるよりも、好きな曲・耳なじみのある曲を演奏する方が上達すると思っている。この際、JASRAC管理楽曲は捨てて、世界中から愛される日本のゲーム音楽をみんなで演奏しようじゃないか。