はてなキーワード: 総武線とは
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総武線の嫌われ者駅である中野の停車時間がだんだん長くなっていき、2時間になった時の行動記録
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総武線の嫌われ者駅である中野の停車時間がとうとう2日間になったとき、乗客のやること(寝床の確保)
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総武線の嫌われ者駅である中野の停車時間がとうとう2年間になったとき、人は仕事を得て生活の基盤を築く
中野区中央は狭い敷地に同じような家が同じように建ち、みっしりと並んだ区画が続く。歩いているうちに自分がどこへ向かっているのかわからなくなる。東京の住宅地はそんなものだといえばそうだが、中央と名乗るからには、もうすこし街らしい華やかさがあってもよさそうなものではないか? 中野区中央は、その種のにぎわいとは無縁な場所だった。
べつに好き好んで中央まで歩いて来たわけではない。職場の寺元さんがこの1週間ほど出勤せず、連絡もとれない。社長に渡された住所のメモと住宅地図のコピーを頼りに寺元さんの居所を探し、様子を探るよう、依頼を受けて来た。他に社員は私しかいなかったからそうなったわけだ。
ファート商会という会社が私たちの職場だった。本社は中野にあり、放屁の気体用保存容器を製造販売している。このシリンダー状の容器に放屁を閉じこめておくと、どれほど時間が経っても、栓を開けさえすれば、気体が肛門を通って出てきた瞬間のフレッシュな臭気を嗅ぐことができる。このような器具にどれほどの需要があるものかと、最初私は半信半疑だった。が、細々と着実に注文が入り、会社は今まで生き延びてきた。
中野では誰もがその日を生き延びるのに精一杯だった。いちど中野駅で電車が止まれば、もう中野を出て行くことはできなかったからだ。
もう何年も前の話だ。夕方、私は仕事を終えて秋葉原から総武線に乗り、荻窪のアパートへ帰ろうとしていた。電車は中野で停まり、ドアが開いた。もともと中野での停車時間は不自然に長かった。新たに乗り込んでくる人はおらず、車内に放置された乗客は、列車が再び動き出すまで忍耐強く黙っているのが常だった。だがその日の停車時間は長すぎた。15分を過ぎた頃から、いらいらと外の様子をうかがったり、ホームへ降りたりする乗客が出はじめた。それでも列車は動く気配がなかった。30分が経過した頃、当駅で列車は運行を終了する旨のアナウンスが流れ、乗客は全員が外に出された。それ以来、私たちは中野で暮らしている。
中野は孤絶している。東京の他の区からも、日本の他の地域からも隔離されたままだ。新宿よりも西に向かう列車を選択的にブロックするよう、政府からJR東日本へ命令があったとかいう噂だ。感染症の拡散を防ぎ、テレワークの普及を急ぐためらしかった。通勤を控えるようにこれまでさんざん忠告したのだから、都心へ通勤した輩はもう帰宅させなくてもよろしいというわけだ。だが噂は噂で、なぜ中野以西への鉄道運行が突然終了したのか、本当のことを知る人はいない。少なくとも中野にはいないと思う。
中野で足止めされたら、人生を中野でやり直すしかなかった(生き続けていくのであれば)。テレワークをしていなかった乗客は一瞬で路頭に迷った。中野で住みかを見つけ、仕事を見つけ、生活の糧を得ていくしかなかった。
練馬、杉並、新宿と中野の境界には有刺鉄線を張ったバリケードが設置され、高いコンクリート壁の建設が始まっていた。20式小銃を抱えた警備隊が昼も夜もバリケードの前を行き来していた。こうした措置に抗議したり、やけを起こしたりして境界へ突入する人はときどきいたが、その場で「管理」され、戻ってくることはなかった。「管理」されたくなければ、望んで降りたわけでもない中野で生きていく他はなかった。
ファート商会は、中野へ流れ着いた人間で始めた会社だった。偶然に同じ場所に居合わせた三人、空き家になっていた蔦だらけの木造家屋を見つけて寝泊まりしていた三人だった。私たちは手持ちの金を出し合って米を炊き、駅前の広場で獲った鳩を焼いて共同生活を送った。放屁を保存するシリンダー型容器というアイディアを出したのは、社長の鬼澤さんだった。本人の話では、食品の品質検査に使う精密機器の会社に勤めていたそうで、その方面の知識は豊富だった。最初は中国から大量に取り寄せたシリンダーを小箱に詰め替えて転売していた(中野から移動はできなかったが郵便物は届いた)。仕入元と取引を重ねるうちに、小ロットでも自社ロゴマーク入りの製品を作ってもらえるようになった。
その頃には空き家の相続人を名乗る人物から弁護士経由で文書が届いて、私たちは追い出された(急激な人口増加のため中野の地価は上がったらしい)。駅近くの雑居ビルにたまたま空きがあったのでそこに移り、事務所で共同生活をしながら放屁の保存容器を日本中に送り続けた。事務所とは名ばかりで、中国から届いた段ボール箱が積み重なる室内には洗濯物が下がり、夕食の豚肉を焼くにおいが漂っていた。
三人がそれぞれに部屋を借りて事務所から引越したのは、それからさらに一年ほど経ってからだ。そうするだけの資金がようやくできた、そろそろ仕事とプライベートを分けたい、当面は中野から出られる見込みがなさそうだ、といった思惑や妥協が交差した結果、私たちはそろって職住同一から職住近接の体制へ移行したのだった。
鬼澤さんに渡された地図のコピーを見ても、寺元さんの住みかはさっぱりわからない。どの角を曲がっても同じような家並みばかりで、ときおり家の塀に貼ってある番地表示板だけが現在地を知る手がかりだった。ひと昔前までは、スマートフォンで地図アプリを見れば迷わずにいろいろなところへ行けた。中野に閉じこめられてから、その類のアプリはなぜかいっさい起動しなくなった。だから中野で住宅地図は貴重品になっていた。
何度も同じ所を行ったり来たりして、ようやく見つけた寺元さんの居宅は、路地の奥にあった。旗竿地というのか、家と家の間を通って行くと不意に現れる隙間がある。そこへはまりこむようにして古アパートが建っていた。鉄柵にかかるプラ板に、かすれた文字で「シャトーひまわり」と書いてある。柵のペンキはささくれ立った指の皮のように、いたるところから剥けて、露出した地金から赤錆が吹き出していた。一階の通路には落ち葉が吹き溜まり、繰り返し人が通った箇所では砕けて粉になっていた。各戸の前に置かれた洗濯機のカバーは、もとは水色だったらしいが、雨と埃をかぶり続けて黒くなっていた。
103号室には表札も呼び鈴もついていない。寺元さんの居所はここらしいが、本当にそうであることを示す手がかりはない。ドアをノックしたら全く無関係な他人が出てきて、警戒心に満ちた視線を向けてくるかもしれない。そういう可能性を考えると、ドアをコツコツとやる力が自然に弱々しくなる。返事はない。中に人の気配があるのかどうかも分からない。洗濯機の上にはすりガラスの小窓がついているが、その奥で人影が動く様子もない。小声で名前を呼びながら再びノックしてもやはり返事はなかった。
寺元さんは出かけているのだろうか。あるいは先週あたりに部屋の中で倒れて誰にも気づかれず……不意にそんな想念にとりつかれたが、辺りは埃っぽい臭いがするだけだ。やはり出かけているのだろう。
その場を離れようとして歩き始めた瞬間、背後で音がした。振り返ると、寺元さんがドアの隙間から半分だけ身を乗り出し、こちらを見ていた。禿げ上がった丸顔はいつもより青白く、無精ひげの生えた頬がこけて見えた。「田村さん、なんで……ああ、そうか……まあ、ここじゃなんなので、どうぞ……」
「散らかってるけど」
といいながら寺元さんは私を部屋に招き入れたが、中は私の部屋よりもきれいに片づいていた。ローテーブルの上にはA4サイズのポスターみたいなものが散らばっていた。猫の写真の下に黄色い枠が印刷してあり、「さがしています」という文字が見えた。
「先週から急にいなくなっちゃってね、ずっと探してたんだけど……」
猫を飼いはじめたと寺元さんが言ったのは半年ぐらい前だったか。ランチの時に写真を見せてきたのを覚えている。たしか、ニティンとかいう名前だった。額の毛が富士山のような形に、白と黒に分かれている猫だ。
「この近所では、見つからない感じ?」
「毎日そこらじゅうの路地に入って見て、電柱にポスターも貼ったんだけどね。今のところ手がかりはなくて……」
寺元さんは俯いたままTVのリモコンをいじくり回していた。目の下にできた隈が濃かった。
中野では孤独死が増えているらしい。突然にそれまでの生活、人間関係から切り離され、中野に閉じこめられた人々が、生き残りをかけてあがき続け、一息ついたあとに待っていたものは、容赦のない孤絶だったというわけだ。
職場への連絡も忘れ、一週間にわたって捜索を続けていた寺元さんと猫との個人的な結びつきは、どれほどのものだったのだろう。そして突然に去られたと知ったときの衝撃は……いや、仕事を忘れていたのではなくて、猫を探すために休むと言えなかったから、連絡できなかったのかもしれない。猫の存在が、どれほど寺元さんの柔らかいところに入り込んでいたか、誰にも知られたくなかったから、中野ではそれなりに気心が知れているはずの私たちにも、失踪事件とそれがもたらした内面の緊急事態について、口を閉ざしていたのではないだろうか……
「鬼澤さんには、寺元さんが体調崩して寝込んでたとか言っておくので、ニティンの捜索、続けてください」
「気遣わせちゃって、ごめん。僕の方からも、後で連絡入れておこうと思うから……」
寺元さんはアルミサッシを静かに開け、冷蔵庫から麦茶を出した。梅雨時の空気で蒸し暑くなり始めた部屋にかすかな風が入ってきた。窓の外に見えるのは隣家の壁ばかりで、申し訳程度についたコンクリート製のバルコニーの下には、古い落ち葉が厚く積もっていた。その隙間に何か、木の根か、古い革製品のような、黒に近い焦げ茶色のものが突き出ている。表面には緑の苔か黴のようなものが吹いて、時折、びくり、びくりと脈動しているように見える。
「寺元さん、そこに、何かいるみたいなんだけど」
「ああ、それ、引っ越してきたときからずっとそこにあって……え、動いてる?」
その「何か」の動きはしだいに大きくなり、周辺の落ち葉がめくれて露出した土には蚯蚓や百足が這っていた。そこに埋まっていた朽木のようなものは、地表面に見えていた一部分よりもはるかに大きかった。それは蛹のように蠕動しながら室内へどたりと入ってきた。麦茶のグラスが倒れ、中身がフローリングの上に広がった。
その「何か」は動き続けるうちに表皮が剥がれて、琥珀色をしたカブトムシの蛹的なものが姿を現した。痙攣的な動きはしだいにゆっくりと、動物らしい所作が読みとれるようなものになってきた。やがて内側から被膜が裂け、現れたのは肌だった。真白なその表面へしだいに赤みが差してきた。寝袋のように床へ残された被膜から、人型をしたものが起きあがる。
それは姉だった。間違いなく姉だった。17歳の夏の夕方、高校の帰り道、自転車ごと、農道のどこかで消えた姉。警察が公開捜査に踏み切り、全国の交番に写真が貼り出されても、けっして戻ってくることのなかった姉。落ち着いたピンク色のフレンチスリーブワンピースを着て、薔薇色の頬に薄い唇と切れ長の眼が微笑み、当時の面影はそのままに、だが記憶の中の姉よりもはるかに大人びた姉が私を見ていた。
「背、伸びたじゃん」
といいながら姉が私の腕に触れた瞬間、思わず涙がこぼれた。
「そうか、田村さんのお姉さんだったのか。だからずっとそこに……」
寺元さんは何か遠く、眩しいものを見るような目で、姉と私を見ていた。
姉は寺元さんに微笑みかけながらも決然と言った。寺元さんは照れくささと寂しさの入り交じったような顔で笑った。が、不意に真顔に戻った。
かすかに、猫の鳴き声のような音が聞こえる。涼しい夕方の空気が窓から入ってくる。
どこか遠いところを見ながら姉が言う。
「もうそんな季節か」
中野ディオニューシアまつりは毎年初夏に行われる。今年もたくさんの供物を捧げた行列が、狂乱状態の男女が、鍋屋横町を練り歩くのだろう。中野で過ごす何度目の夏になるだろう。いつの間にか、夏の風物詩を繰り返す季節の一部として、中野で受け入れつつある私がいた。
総武線の駅から土産物屋?を横目にちょっと歩くとある宗教施設のX号館があるのだけど、建物の中はデイケアサービスの施設に近い雰囲気だったな。
たしか受付で手続きを済ませた後、事務員の付添いで所定の部屋まで案内された気がする。その時はエレベーターから出て左右左右右と曲がったところにある小さな部屋に通されたけど、通路の壁に偉い人の撮った写真や大きな姿見が掛けてあって、場違いな中にも何らかの意図を感じたのはよく覚えている。そのフロアはとにかく壁やパーティションが多くて、ワイヤーフレームで描画したダンジョンのように位置や方向感覚がつかみづらく、全体が見渡せない構造だったのが印象的だった。
応対してくれた方はスーツの胸にバッジを付けており、若く卒なく頭の回転も速くといった感じだった。終始笑みをたたえて柔和な感じを出しつつも、その射るような目線には「そうかそうか、こういう感じか」となんだか納得させられるものがあった。
私は東京育ち、東京で働いているが出張に行っては飲んでいる。ススキノにはススキノの、天神には天神の良さがありその街の良さを実感する。
大阪に行く。まず豊中で一仕事。阪急に乗る。友達の奥さんが豊中出身だと言うことを思い出す。すごいお嬢さんで、ずうっと小林聖心といってたな。東京だと雙葉?いや豊中は田園調布とすると田園調布雙葉か、すると乗っているのは東横線なのか。
仕事が早く終わって先輩を呼び出す。鶴橋を案内してもらう。東京では大阪出身だけど標準語で話す人がいる。先輩もそういう人だったが今は関西弁だ。
「それってなにわのベートーベン的なこと?」
「李明博だよ」
ハイテンションでタン塩とカルビを繰り返し、ビールを飲む。。先輩は明日早いから9時でお開き。だんだん酔っ払ってきてどこにいるのかがわからなくなる。
東京のように人がたくさんいる。東京のように電車に乗り換える。高知の街並みに映える棕櫚や、金沢のような古い街並みも見えない。電車の広告も脱毛やデパートや予備校で総武線と変わりがない、ないのだが細かく見ると違う。酔っ払っているから細かいところが入らない。東京に似た異世界にいる感覚が増してくる。鶴橋から山手線で神田に降りる。そこに宿をとった。東京駅から繋がる高架下に飲み屋が連なる。このまま非現実のあわいで一杯やることにしよう。その駅は「福島」と書いてあった。わし東京もんやさかい大阪のことはようわからんわ。
会社の卓上カレンダーで明日の日付を丸で囲んであった。自分でやったはずなのにそれがなんの日だったか思い出せない。隣の席の竹下さんに聞いたら、明日は電車が動く日らしかった。完全に忘れていた。
あれから2年も経とうとしているのだから、忘れるにきまっている。もう中野で2年も暮らしていたとは、あまり実感がない。
中野駅はもともと無駄に停車時間が長い駅で、総武線/中央線では最悪の駅として有名だった。最初は2分の停車時間だったのがだんだん長くなっていき、2時間になってから2日に伸びるまではあっという間だった気がする。新宿と自宅のある阿佐ヶ谷の間を通勤で往復するのに丸4日かかるようになった。
中野でこれから2年間停車するというアナウンスが車内で流れたときには、もちろんなんの準備もできていなかった。手持ちの現金もそんなになかったので、電車を降りて駅前のATMで引き出そうとしたら、カードが使えなくなっていた。少しでも節約しようとして駅の周辺で野宿をしたが、パンや牛丼を買っているうちにお金はすぐになくなってしまった。
駅の軒下で浮浪児に混じってしゃがんでいたら手配師らしいおじさんが来て、にいさんパンカワラやらんか、パンカワラと誘われた。何のことかわからなかったけれど、ほかに仕事のあてもないのでついて行った。
連れて行かれた先はコンクリートの建物で、ものすごく長い廊下みたいなところにゴザが敷いてあった。そのゴザの上が仕事場だった。上にあおむけに寝転がって、建物の壁から出ている紐を足の指にひっかけて、引っ張る。そうすると車輪が回って、部屋の中に吊り下げてある、のれんみたいな布がファサーっと揺れて、風が起こる。部屋の中にいる人は涼しくなる。これを1日10時間くらい交代でやる。同じ場所には他に4人のパンカワラが寝転がっていて、足で紐を引っ張る度にヒュゴゴゴゴ、みたいな音がしていた。
パンカワラの仕事をはじめて1か月くらいは腿の筋肉がパンパンになってきつかったが、だんだん慣れた。でも2か月で辞めた。研修を終えてもっと時給を上げたかったら鼓膜を破らなくてはいけないといわれたからだ。部屋の中にいる人の話が聞こえないように、パンカワラは耳を聞こえなくすることになっていた。
次に入ったのがいまの会社で、ファートというスタートアップだ。最近ようやくネットでも流行りはじめたように、自分のおならを保存する特殊な容器を提供して、あとで楽しめるようにするサービスだ。自分が入った当時は、おなら入りの容器を着払いで送ってもらって倉庫に保管するサブスクリプションサービスをはじめたところだった。人は自分のおならをあとで嗅ぐことにみんなこれほど興味があるとは、入社するまで知らなかった。サブスクリプションを利用しているのは男女比で4:6ぐらいだった。
自分が担当したのは他人のおならを購入できるマーケットプレイスのローンチだ。AV女優のおならが人気があったが、実際には会社で雇ったバイトの人に炒り豆を食べて出してもらったおならを採って送っていた。女優の事務所にはライセンス料を払っていた。グレーと言えばグレーなサービスだったけれど、これのおかげで自分は一文無しの状態からアパートを借りて今日まで中野で生活できたので、自分にとっては神サービスだった。
そんな経緯を思い出しながら、明日電車に乗ることをぼんやり考えているうちに、だるくなってきた。でも明日の電車を逃せばまた2年間待たなくてはいけないかもしれない。どうするかもうすこし考えようと思っている。
中野駅は、千葉から三鷹市を結ぶ総武線や、山梨の大月まで伸びている中央本線の中継点になっている。ふだん通勤で新宿駅と阿佐ヶ谷駅のあいだ(つまり総武線のほんの一部区間)を毎日行ったり来たりしているだけの私には、中野は少しイラッとさせられる駅だ。停車時間がいつも長いからだ。中野駅に電車がいったん着くと、ドアを開けたまま、再び走り出す気配すらない。思い出したように電車が再び走り出すまでの間、乗客は列車の中で押し黙っている。
乗客の忍耐を承認と受け取ったのか、国鉄は中野駅での停車時間を少しずつ延長しはじめたみたいだった。
2分間停車とアナウンスではいっているのに、それより長く感じる。たぶん自分が焦っているだけだろうと思い、最初の頃は気に留めなかった。数日後、やっぱり長いなと思って時計で計ると、5分を越えていた。それから日ごとに中野での停車時間は長くなっていき、20分を越えた頃にはさすがに乗客のほとんどが異変に気づきはじめた。停車時間が2時間を越えた頃にはもう国鉄は隠すこともしなくなった。これから2時間停車する旨アナウンスが流れると、乗客は全員降りていった。
中野で毎日2時間電車を待つのはそれなりに大変だったが、しだいに慣れた。電車待ちの客をあてにした商売が中野駅の周辺で増えて、時間を潰す場所には困らなかったからだ。駅前広場のパブリックハンギングで人が首にロープをつけたまま落下するのを眺めたり、うずら園へ行ってお茶を飲んだり卵を拾ったりしていると、それなりにしのげた。
停車時間が2日間になったときには、もっと腰を据えて時間を潰さなくてはいけなくなった。それだけ時間があるなら歩いて阿佐ヶ谷へ帰ろうかとも思ったが、検問が行われていて中野から西へは自由に行けなかった。これほど長く乗客を中野に留め置くことは疫病対策になにか関係があるらしかったが、詳しいことはわからなかった。
なんにせよ2日間は長い。食料を仕入れて寝る場所を探そうと思い、とりあえずブロードウエイに行った。その名のとおりブロードウエイはとても広く、20〜30mくらい幅がありそうな道路の両端にはかすかに黄色い葉を残す銀杏が並び、樹の下には雑多な屋台が出ていた。植木屋、金物屋、肉屋、魚屋、おでん、綿あめ、射的、大人のおもちゃ、根付、オーディオ用品、型抜き、スマートボール、骨董品、ありとあらゆるものがあった。
道路脇にプロパンガスのボンベを持ち込んでソーセージを焼いていたので、2本買った。真冬でも麦わら帽子をかぶったおばさんが、ちぎった生のキャベツ、青い唐辛子と一緒に小さなビニール袋へ入れてくれた。この辺でどこか安く泊まれるところはありませんかとついでに訊くと、最近電車待ちの人向けにキャンプ場ができたよと教えてくれた。
キャンプ場はうずら園の裏手にあった。入口で受付を済ませると、カーキ色のテントと寝袋を借りた。米も売っていたので買った。調理場にたくさん積んである飯盒を借りて米を炊いているうちに日が暮れた。
暗くなると一気に寒くなった。このまま寝られるかどうかもわからないほど寒かったので、斜め向かいのテント前でやっている焚き火にあたらせてもらった。そこにいたのは自分と同じくらいか少し上の年頃の男性で、柔らかい物言いのわりに目の奥の光が鋭かった。焚き火の上で沸かしていたお湯で焼酎を割って飲ませてくれたので、自分はポケットに入っていた南部せんべいを渡した。
これから毎回、西に向かおうとする度に足止めを食らわせるつもりなんですかね、国も呑気なもんですね、などと話し合っているうちに私たちは打ち解けた。国分寺に住むミヤシタさんというその男性はカメラマンで、戦場というよりは紛争地帯の取材を専門にしているらしく、数年前、パキスタンからアフガニスタンへ入った時の話をしていた。自動小銃を持ち、黒い布で顔を覆ったタリバンの兵士が乗るピックアップトラックについて村を、学校を周って子どもたちを撮影したこと。片目のない子、腿から膝にかけて爆撃の痕で肉がえぐれたままの子が珍しがって寄ってきたこと、阿片栽培関連の場所は一切撮影を許されなかったこと。暗闇の中で炎を眺めながらそんな話を聞いていると、自分が東京にいることを一瞬忘れた。
テントに戻って眠りについたものの、寒さで目が覚めた。寝袋が冬用なのかどうかわからない。奥歯がガチガチ鳴るのを自分では抑えることができなかった。このまま横になっているのに限界を感じて外に出ると、空がかすかに明るくなり始めていた。バラックのトタン屋根が、木が、電柱が、金色と紫色の混じった光から現れてきた。今日一日をどうするかはまだ決まっていなかった。
総武線で新宿を出て三鷹方面に向かうとき、中野で停車する時間が無駄に長い。誰も乗り降りすることはないのに列車はドアを開けたまま停まっている。この時間がほんとうに長い。停車時間は2分とアナウンスが入るが、この2分はぜったいに2分じゃないと感じる。中野から2駅あとの阿佐ヶ谷で降りる自分にはこれがいつも軽いストレスだった。
中野でこれから2時間停車と車内放送が聞こえたときには、聞き間違いだろうと思った。先週までは(たぶん)2分後に列車はきちんと走り出していた。だが乗客はどんどん列車を降りていき、車内には自分だけになった。東日本国有鉄道の業績が疫病のせいで傾いていると新聞に載っていた。そのしわ寄せが来るとしたら中野のような所なのだろう。しかたがないから降りたが、中野でなにかをするあてがあるわけでもない。
中野は阿佐ヶ谷に比べると殺伐としているので、本当に用事があるときでないと降りない。改札には人が立って切符に鋏を入れていて、SUICAは使えない。さんざん並んで一時降車証明書をもらって駅を出ると、乾いた小便の臭いが鼻を突く。駅の軒下には浮浪児がたむろして寝転がったり莨(たばこ)を呑んだり、片足の傷痍軍人がアコーディオンで天然の美をプカプカ弾いたりしている。
駅前に広がる街があきらかに茶色い。泥のなかに崩れかかったバラックがごたごたと並んで店を出して、どこの盗品かわからないようなベルトや万年筆、シケモクをほぐして干したものを売っている。食べ物といえばすいとんやじゃんぎ丼のようなものを出す屋台しかなく、労務者が地べたにしゃがみ込んで丼を掻き込んでいる。疥癬で背中がボロボロになった野良犬が物欲しそうにそれを見ている。
中野で途中下車する乗客をあてこんだ商売も出始めていた。ピンク色の法被に黒のスラックス姿の男が、新しめのバラックの前に立っている。そばを通ると、「発車までお遊びどうですか」と声をかけてきた。傍らの看板には毛筆で『列車ヲ待チナガラ花ビラ大回轉 一時間五千圓ポツキリ』とある。いくら時間があっても密室で接待を受けていたら疫病にかかるかもしれない。とても無理だなと思いながら通り過ぎると、サラリーマン風の男二人が店に入っていった。
最近都内で増えている屋外の娯楽がパブリックハンギングだ。中野駅前の広場にも櫓ができて、周りに人が集まっている。場所にもよるが1000円くらい払うと、櫓の上に設置した処刑台に人を吊ったり、自分が吊られたりすることができる。目隠しをした相手の首に縄をかけるか、自分がそうされるかを選べる。吊られた人はすぐに下のトランポリンに落下して大きく飛び跳ねる。野次馬は拍手したりしなかったりする。他愛ないといえば他愛ない遊びだが、最近なぜか流行っていた。世相のせいだろうか。
そんなに刺激を求めているわけではないが、スマートボールはこの前やったばかりなので、結局自分はうずら園で時間をつぶすことにした。入場料を払って囲いの中に入ると、うずらがたくさんいて地面を歩き回ったり、藁の上に休んでいたりする。その辺を探すと卵が見つかることがある。これは持って帰ってよいことになっている。うずらの攻撃を避けながら制限時間内に卵を探すだけの地味な遊びだが、自分はこれがけっこう好きだった。
駅から徒歩5分ほどのところにある中野のうずら園は、それなりの規模だった。囲いの中には植え込みがたくさんあって、2、30羽はいるうずらが好き勝手にやっていた。真ん中には丸いテーブルと椅子があり、ポットからお湯を注いでハーブティーを飲めるようになっていた。
ミントティーを飲みながらうずらを眺めていると、植え込みの中に先客がいることに気づいた。グレーのスーツにスカート姿の、髪の長い女性らしい人がしゃがみ込んで、両手で顔を覆ったまま動かない。
囲いのゲートが開いてまた一人やってきた。背の高いおじいさんで、白髪交じりの長い髪は何年前に洗ったのか不明なほど汚れていて、フエルトのように固まっていた。染みだらけの黒いベンチコードにピンストライプのスラックスをはいていて、左右の靴が違った。おじいさんは恍惚とした満面の笑みで、腕を上げてゆっくりとしたリズムの手拍子を打ちながらこちらに近づいてくる。手拍子は歌にあわせていることが、近づくにつれてわかる。あーいあーいおー、あ、あーいあーいおー、あ、ああーいああんあああっあっあいあー、あっ、おあいおああんあああお、ああいああんあああーお、ああいおあんあああっあ、あいおー。これはあれだ。植え込みにうずくまったままの女は動かない。あーいあーいおー、あ、あーいあーいおー、あ、ああーいああんあああっあっあいあー、自分は手拍子だけでつきあおうと思ったら、あーいあーいおー、あ、あーいあーいおー、あ、ああーいああんあああっあっあいあー、電車の発車時刻はおあいおああんあああお、ああいああんあああーお、ああいおあんあああっあ、ああいおあんあああっあ、あいおー
店でパキスタン米のチッキンビリヤニを食べていたら、外で地響きみたいな音がした。次の瞬間には建物全体が大きく揺れて、店の窓ガラスが割れた。外に出たら、数件先にある雑居ビルの上階から黒い煙が出ていた。
道に出ていた人たちは火事、消防車と口々にいいながら遠巻きに見ている。パン、パンと何かが弾けるような音がして窓から火が出た。
消防車、パトカーが来て、警官が交通整理をはじめる。下がってください、煙を吸わないようにしてください、と通行人を遠ざける。
近づく救急車の音を聞きながら、とうとうやったんだなと思った。
百人町に拠点があるフェニミスト連合(フェニ連)と東中野のフェニミスト協会(フェニ協)が抗争状態にあることは、この辺の人間なら誰でも知ってる。最近はますます治安が悪化していて、ここに書くのもはばかられるようなひどい暴力沙汰が頻繁にあった。
比較的無難な例を出すと、このへんの道にはよく髪の毛の束が落ちていることがある。フェニ連とフェニ協の構成員らしい女性同士が、相手から毟り取った髪の毛を握りながら真昼間から街頭で殴り合った名残だ。
公安調査庁の統計によると、フェニミズム系の宗教団体は構成員の98%が女性だ。理由はよくわからない。
大久保で中華系食材店の壁に貼ってあったフェニ連のチラシを見たことがある。自然農法、自然なお産、婚姻に縛られない家族関係、とかスローガンが書いてあって、その下には富士山麓で農業にいそしむ女性たちの写真がのっていた。これのどこに戦闘的な要素があるのか、いまひとつピンとこなかった記憶がある。
「そっち系」の人は独特のクセがあるなとは思う。マッチングアプリで知り合った広告代理店勤務とかいう人がそうだった。フェニ連とフェニ協のどっちだったか忘れたが、やたらと「自然に還らなきゃ」と言っていた。大久保の連れ込み宿へ行って、興奮が高まってくると、緊迫感のある声で「出せ、出せ、出せ」となぜか命令形で絶叫していたので、萎えた記憶がある。
そんなしょうもないことを思い出しながら店の前で消火活動を眺めていると、パキスタン人らしい店員さんがサモサをくれた。そういえば会計がまだだったなと思ってお金を渡してから、大久保駅に行って総武線で帰った。
東中野の駅を出て坂道から路地に入ったら、マンションの前の路上で女性が片膝をついて水業をしていた。真っ白な着物ともパジャマともつかないものを着て、木の桶にすくった水を頭から何度も、何度もかぶっている。
クリスマスらしいなと思いながら側を通り過ぎようとすると、桶から勢い良く出た水が自分のスーツの脚へもろに引っかかった。慌てて立ち上がり謝罪してくるその人の唇は紫色になっていたので、クリスマスはじゃがいもがとくに美味しい季節だと思うのですが、どう調理するのですかと尋ねた。
これは私が一人前のフェニミストになるための修行なのです、ポテトはいろいろあってもモスバーガーよりはマック派ですが、とその人は答えた。
フェニミストになることと水をかぶることがどのように関わっているのでしょうかと尋ねたところ、なぜそのような自明なことを聞くのかと言いたげな目でその人は自分を見た。
全ては摂理に従うことなのです、従うには我欲に引きずられた「思いなし」があってはなりません、「思いなし」を力強く洗い流すためにこの修行は必要なのですし、道場でみなさんがやっていることです、とその人は答えた。
道場ってどこにあるんでしょうかと尋ねると、ここですとその人は言うが、そこにはごくありふれたマンションが建っているだけだ。
よくわからなかったのでそのまま一緒に新宿まで総武線で出て、Apple Storeで修理に出そうとしたが、予約がないと入れないとのことだったので、そのへんのiPhone修理業者に引き渡してからカレーを食べた。
既に先々週、解除が匂わされはじめてから、感覚的には「もう終わった感あるな」とリラックスし始めてたんだけど、理屈では「終わってる訳ねえよな」と考えていた。
でも、そういう気分になっちゃったのは事実なんで、おそらく世の中の人々は俺と一緒で「もう終わったな」って感じて、それで俺とは違ってその気分のまま行動する人も増えるだろうなと思っていた。
別にそれで俺がスゲーとか思ってなくって、俺はたまたま職業上在宅ワークに移行できた上、住宅事情も性格も適性があったから深刻なストレスがなかっただけだ。
在宅ワークが始まる前週、3月末にこんな日記を書いたが、自分にとってこの2ヶ月は思ったより平和で平坦に耐えられるものだった。
https://anond.hatelabo.jp/20200329232753
とはいえ、ずっと家から出なくて平気な訳ではなく、時々夜中に自転車で都内をぐるぐる走り回ったりしている。
https://anond.hatelabo.jp/20200509173934
在宅ワーク中、仕事に使うのと別のPCで都内各所のライブカメラを流しているのは相変わらずで、今夜もライブカメラが捉えるスポットを目指して自転車を漕ぎ出した。
今夜もただ自転車を乗り回すだけで、人と話さず、何も食べず、コンビニや飲食店にも入らない。
自宅近所は金曜の夜なのにやはりまだみんな外出を控えているようで、人もほとんど歩いてない。みんな真面目じゃん。
しかし、しばらく自転車を走らせて百人町に差し掛かると、ルノアールがやってないだけで、人の往来は2ヶ月前に戻ったよう。
そのまま総武線を左に見ながら南下すると、新宿大ガードの下では、皆が開放感に満ちた顔で道を歩いていた。
20人ほどの男女の一段は2ヶ月の我慢をサバイブしたことをお互い称え合うように、談笑しながら信号を待っている。
男同士、ガッツリ肩を組む。
5人ほどはマスクをしていなかった。
以前職場が渋谷だったので、毎日通っていたのだが、職場が移ってからは足が遠のいていた。
久々の公園通り。
以前、ホームレスのために社会活動家が炊き出しをしていた宮下公園は、公園をチューブのように覆う巨大建築物で渋谷駅と一体化しようとしており、まるで要塞のようになっていた。
見ないうちに街って変わっちゃうな。
巨大建築のせいで記憶が切断されて、現在地を見失いそうになりながら、ライブカメラの捉えるスクランブル交差点へ。
そこでは、20代から30代の人たちの友達グループや恋人で賑わっていた。
まるで15年前の渋谷に戻ったみたいだ。
ざっと見た感じだと、新宿で5人に1人、渋谷では10人に4人はマスクをしていなかった。
彼らだけでいくら感染が広がっても、彼ら自身、深刻な健康被害は起きないかもしれない。
でも家に帰れば家族と同居している人もいるだろうし、普段利用している店や病院、会社やバイト先などに50代以上の人もいるはずだ。
中高年と全く触れ合わずに、若者だけで生きていくことは現実的ではない。
GWで感染者が減ってもまた増え始めたってことは、無症状の感染者はまだやっぱりいて、人の往来が増えれば、感染もまだまだあるってことなんだろう。
俺だって感染してない保証はないからコンビニの支払いもPeyPayにしたし、画面越しじゃない会話なんかほとんどしない。
第一波で大波が来た後、中小規模の第二波がやってきて、またネジの締め直しと緩和が繰り返されると。
開放感に溢れる街の様子を見ていると、第二波はくるかもしれない。感染者の数は2ヶ月前の3月最終週と一緒くらいだ。
でも第一波ほどの感染爆発になるかと聞かれれば、その頃よりは、俺みたく在宅に移った人もいるし、真面目に家にいる人も多い。
最大規模で1日50人の感染くらいになって、慌ててみんな家に戻るって感じなるんじゃないだろうか。
もちろんこんな予想はいい方向に外れたら良い。
これで俺が予想をはずしても、せいぜいブコメで「2週間後はNYって言ってた増田、息してる?」と煽られて「おれニューヨークって言ってないし。それに芸人のニューヨークは粗暴な弄り芸であんまり好きじゃないし。」って心の中で言い返してありゃりゃって思うだけで、そんなちょっと恥ずかしい気持ちは、人工呼吸器に繋がれる人が出る悲劇に比べたら何でもない。
西新宿、都庁を見上げると、ツインタワーは虹色のライトアップ。
うちの会社は4月頭から基本は在宅勤務、パートさん派遣さんはシフト勤務だった。自分は在宅だったが諸事情があり久々に電車乗って会社に行った。
電車はすいてて座席も半分くらいは空いてる。JR総武線各駅停車の朝の時間では考えられない光景。ラッキー、と思って空いてる席に座った。高架を走る総武線の窓から春らしい日差しが降りそそぐ。換気のために空けられた窓から都会の空気が入り込む。朝の電車ってこんなに気持ちいいんだ。コロナ後もこの乗車率が続いたらいいのに…
会社にいったらパートのおばちゃんが世間話してた「みんなわざわざ1つずつ席開けて座ってるのに、若い子は気付かずその間に座ってくるのよ!で隣に座られたお爺さんが嫌がって席立ったのにそれも気付いてないんだから!気遣いが出来ないのよね~」って話してた。ゲッ!って思った。
久々に電車乗る人、気をつけてね。