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2024-02-10

先行研究サーベイの結果

データ化されている範囲がせまいってのは、やっぱりある程度はこのようなシステム場合問題になりそう。

それが2,3本の論文をよんでみての、印象。

とくに半○○の場合そうだ。そんな気がする。理論側に予測性能がてんで足りないのかも。

そう主張することも、もちろん、できる。可能だ。しかしそういうロジックパターンをみることがなかった。

理論と実測の不一致は、相関効果や他のなにかとの結合に帰着させている例をみた。

くりかえしになるが、理論予測性能のせいにしているの・・なかった。この説を採用ちゃう屋台骨が

くずれるので、ふつうのひとがこれを採用することすこぶるわずか。理性的態度じゃないよな。

あと単純なモデル適用できなさそうだからといって、いたずらに複雑化させたものアナリシスしてる

例もない。特徴量って、単純な場合モデル式による回帰分析から母数化してきめるのだが、

それができなさそうだからといって、複雑なモデルをもってきて・・・・ってのは、採用しないほうがブナン。

総和則っていうのがあって、それでもとめるのだが、しかし、その結果というか値を過度に信用しないように

する。というか・・・どういったらいいのかな?ほかの研究からこの程度の範囲におさまることがわかってる。

今回みちびかれた値もそれと矛盾しない・・・この程度でお茶をにごしておくのが、キチ。それ以上つよく

主張しない。

いままで扱われてきたすべてのシステムで、理論予想が○○なのに、実測してみると△っていうパターンは皆無。

その経験的事実というか法則根拠に一点突破・・・だろうな。

2023-10-08

MMT低能が信じる理論

生産性の低さ、実質金利の低さ、多額の公的債務に行き詰まっている経済をどう刺激するかについて様々な議論がある。最新ぶっているが、実は老害の古臭い考え方「MMT」の支持者は、中央銀行が大量の国際を買い入れて通貨供給量を増やせば問題解決になると、頭の悪いことを言っている。これは典型的な「フリーランチである

フリーランチ政策議論において長い伝統がある。政治的に人気があり、20世紀以前に何度も馬鹿のように繰り返された。MMT愛好家が提案した特定フリーランチを受け入れたすべての経済圏の経験的事実として、持続不能圧力が最終的に悲惨な結果を引き起こす可能性があることも判明している。

MMTが常にハイパーインフレ・大規模な社会的経済破壊などをもたらし、その後やはり従来どおりにすべきだと言って元の経済政策が課されるのである

今日ベネズエラ2008年ジンバブエ1994年ユーゴスラビア1946年ハンガリー1944年ギリシャ1923年ドイツが、多額のコストがかかることをすでに証明してしまった。

既存経済学が何かを見落としていて、MMTが正しいことなどあり得るだろうか。

政府が生み出す歳入を上回る支出を刷る場合、通常国際発行で赤字を賄う。負債は将来のある時点で、例えば収入に比べて支出を削減する、または支出に比べて収入を増やすことによって貸し手に返済するという約束である

政府典型的債務を返済するために使用する所得税などのほとんどの税金は透明性がある。

対象的に、持続不能赤字と爆発的に増大する政府債務の財源となる「税」はインフレ税、つまり人々が保有する貨幣の量よりも早く物価が上昇した場合に生じる、国民保有する貨幣価値の実質的低下であるインフレは、追加の財を生産するために経済供給側の能力を超えて中央銀行が大量の通貨印刷した場合にも起こる。

2023-02-09

[]シュレーディンガー意識

シュレーディンガー形而上学物理学の後に来るのではなく、物理学に先行するという信念を表明していた。彼の技術的な思考は、より大きな形而上学的(宗教的)な問題に触発されていたのである

「外界(心に依存しない)世界存在する」「別々の心が存在する」という仮定がある。シュレーディンガーによれば、どちらの主張も経験的な証拠を得ることはできない。第一に、二つのタイプ現実(心-物質)の関係をどのように考えるかという問題。なぜ純粋物理的な世界に住んでいるように見えるのか。第二は、異なる心の関係をどう考えるかという問題。なぜ、どのように互いに違うのか。彼は還元唯物論主観的観念論と呼ばれる伝統的な西洋の考え方を支持せず、非西洋特にインド哲学インスピレーションを見いだしていたらしい。

「第二のシュレーディンガー方程式」とは、インド哲学に古くから伝わる、自己アートマン)が宇宙の究極の実在ブラフマン)と同一であるという教えであり、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えの中心を成しているものであるシュレーディンガーは、この「自己」は個人自己混同してはならず、むしろ個人自己は単なる側面に過ぎない宇宙的、普遍的存在であることを付け加えた。

シュレーディンガーは、この考えを説明するために、光を屈折させてさまざまな色(個々の自己)を作り出す水晶宇宙本質に等しい宇宙自己のこと)に喩えることを好んで行った。「あなたや私は、現実本質形成している一つの心の側面に過ぎない。」彼はこれを同一性教義とも呼んだ。したがって、意識の非二元的形態は、その単一の側面と混同されてはならず、単一世界に住む別々の自己への(単に見かけ上の)区別反証根拠づけるものである

シュレーディンガーは、このことから驚くべき結果を導き出した。例えば、彼はどんな人間でも、その人以前に生きていた他のどの人間とも同じであると信じていた。初期のエッセイの中で、彼は目の前の山々を眺めることについて書いている。何千年も前に、他の男たちも同じようにこの景色を楽しんでいたのだ。しかしなぜ、自分はこのような前の人たちと区別されると思い込まなければならないのだろうか。自分経験と他の人の経験区別するような科学事実があるのだろうか。何があなたあなたたらしめて、他の誰かではないのだろうか?かつてジョン・ホイーラーが、宇宙には本当に一つの電子しか存在しないと仮定したように、シュレーディンガーも、本当に一つのしか存在しないと仮定した。シュレーディンガーは、「意識は決して複数形ではなく、単数形しか経験されないという経験事実」がこれを裏付けていると考えた。私たちの誰一人として複数意識経験したことがないばかりか、それが起こったという状況証拠世界のどこにも跡形もない。

現代意識科学研究において、物質がどのように、そしてなぜ意識経験を生み出すのかという問題を、「意識は脳を備えたいくつかの物理システムが自らに語る幻想物語である」という、そもそも難しい問題があるように見える理由(実際には何もないのだが)で回避しようと試みている。シュレーディンガーは、意識実在についての幻想的な立場を受け入れるには程遠かったが、非常に似たような観点から、たった一つの心(「アートマンブラフマン」)があるのに、なぜ複数の心が存在するように見えるのかを問うている:多くの別々の心が存在するというのは、混乱した個人自分に語る幻想物語なのだ。そうでないと、私たちは常に他の存在(最終的には、現在、非生物物質と呼ばれるものとも)とつながっていることに気づかず、ある意味根本的に孤立しているという誤った信念を持つことになる。難しい問題場合とは異なり、私たち最初の信念が本物であることを示す経験証拠はない。

シュレーディンガー形而上学的、哲学的な教えへの取り組み方の重要な特徴は、合理的科学的な方法論を堅持する慎重さであった。同一性教義は、無批判採用することはできない。つまり、新しい形而上学採用しつつも、科学方法は維持しなければならない。科学理論には東洋思想からの輸血が必要だが、輸血は常に凝血を防ぐために大きな予防措置必要とする。科学思考が到達した、どの時代にもどこにもない論理的精度を失いたくはない。

シュレーディンガーが求めていたもの、彼が最も高く評価していたであろうものは、数学的な正確さをもって意識研究するための科学アプローチである。そのような意識理論にとって同一性教義から続く重要な制約は、その非常に基本的構造において、個々の意識のある存在が(切断された個人ではなく)より高次で統一的なエージェントの側面であり、(電子、岩、脳といった多くのものの中の一つに過ぎず)そのような存在の集合全体が現実の究極の性質構成すると認めていることであるだろう。

シュレーディンガーは、意識実在を認める根本的な一元論を望んだのである意識研究における現在理論的状況を考えると、「意識行為者の理論」はこれらの要件に最も適合しているように思われる。それは、意識が何をするのかについて正確で明確な定式化を目指しており、2つ以上の意識エージェントいかなる組み合わせも、それ自体が別のエージェントであることを提案している。また、エージェント集合体全体が現実本質構成しているという考えにも適合するように思われるが、そのためには、この集合体から物理世界がどのように発生しうるか(そして、それとは別に何も存在しないか)というモデル理論が考え出すことが必要である

シュレーディンガーは、哲学の分野で以前から提起されていたいくつかの議論(例えばカント)に依拠したが、彼の立場は次のように集約される:我々が物理世界と呼ぶものは、シュレーディンガーが「客観化」と呼んだプロセスの結果である。すなわち、一つの自己世界アートマンブラフマン)が、容易に概念化でき、客観的に研究できるもの、したがって主観的性質を完全に排除したもの、へと変化することである意識行為者の理論では、これは「インターフェース」の創造に相当する。このようなインターフェースは、効率的な行動を可能にするために、起こっていることを単純化する。優れたインターフェースは、複雑さを隠す。インターフェイスは、現実ありのままに見せるのではなく、自分にとって都合の良いように見せる。「物理世界」と呼んでいるものは、非二元意識を高度に単純化した表現に過ぎない。

この物理世界もまた、そこに向けられた多数の対象を抱いているように見える。自律した物理世界という誤った印象をもたらした客観化のプロセスは、まさに、異なる肉体に住む異なる形態意識を想定する誤りにつながる。非心理的世界に心的特性を加えるという手っ取り早い方法では、先に述べたような問題を本当に解決することはできないだろう。なぜ他の誰かではなく、あなたなのか?ある主題のセットをより上位のものにまとめるにはどうすればいいのか?しかしそれらの問題は、そもそも分離した多数の自己に対抗する一つの物理世界存在という形而上学的前提に屈しないことで回避することができる。意識行為者の理論によれば、根本的に分離した自己という考え方は、インターフェース上に見えるものと非二元的意識という真の現実混同している場合にのみ生じる便利なフィクションである

意識行為者の理論は、シュレーディンガーの問いに対する興味深い答えを提示している。なぜ、私たち特質のない物理的な世界に生きているように見えるのか?なぜ、そしてどのように私たちは互いに異なっているのだろうか?それは、意識的なエージェントダイナミクスが、現実の本当の姿を隠すようなインターフェイスを生み出すからだ。私たちは同じでありながら、異なるように見えることがある。ある視点から見ると、すべてのエージェントは一つの世界に等しい一つのものに結合する。別の視点から見ると、この単一エージェントは、それぞれの世界に住む異なるエージェントネットワークと等しくなる。どちらの視点を選ぶかは、何を説明したいかによる。

2020-10-07

anond:20201006212913

概ね正しいけど、もう一歩正しい方向に進め。

 

男にとって性的に求められるのがいいこと、デメリット存在を「理解してないから」ではない。

男にそれは絶対理解できない。

モテいかどうかは関係ない。

 

なぜなら女が性的に求められるのを嫌がるのは、所詮哺乳類のメスであるお前が、脳に元より備えた機能からだ。

キンタマの痛みを女が理解できないように、男にレイプへの嫌悪理解できない。その機能身体に備わってないからだ。もしも性に奔放な女がいたら、それは個人差ではなく、メンヘラか何かが原因で脳がぶっ壊れている。

お前の父親も夫も、お前の恐怖は理解できていない。お前がいくら長文を描こうが、男が変化することはない。

 

ただ、女がレイプを嫌がるという経験的事実を知っているだけだ。誠実さは的外れ類推からしか生まれない。

ひとたび増田のような匿名の、女に見られても社会的ダメージがない場所に来れば、どんな男も女を性的に扱うすべについて会話したりする。モテようがモテなかろうが、お前の最も親しいと思う男すらそうしている。

2019-09-11

anond:20190909153919

経験はそれそのもの事実なので、そのとき物質状態はどうだったかの話をしているんじゃないんだよ。元増田が「そのとき宇宙が爆発した」と言ったら宇宙は爆発したの。経験事実というもの個人絶対的事実であって、他人が口を挟む隙は一切ない。二次創作はできるけどな。それにしても敬意を持ってほしいもんだ。

2019-09-09

anond:20190909082510

元増田はまた元増田経験的事実を書いただけで、それに対して第三者が「それは違う」などと言う権利はない

2019-08-01

anond:20190801190217

からで悪いんだが、これは発症時期も含めて個人差がかなり大きい話。青年期に発症して、かなり早めの段階で治療に入ることができた場合は、症状の残遺もほぼなく、その後の人生を過ごすことのできる場合もある。しかし同じようなスタートであっても、残遺が比較的ある場合などは、陽性症状がおさまった後も継続して薬による治療を続けないと、また陽性症状をぶり返すことが少なからずある。それを繰り返すことは、予後悪化につながることも多い。だから、人によって違う話だし、他の人の経験的事実はあまり参考にはならんよ。ここで聞くより信頼できるドクター探す方がいいと思う。

2017-09-14

anond:20170914013131

進化という現象にはどのような目的も一切存在しません。

空中での高圧放電によって稲妻が現れるという現象に何らかの目的があると思いますか?

  

さらに「進化多様性に向かう」というのも必ずしも正しくありません。そのような方向もあればそうでない方向もあります

進化メカニズムひとつが有名な自然選択ですが、自然選択は当然、遺伝変異表現変異の一意的な増加にはつながりません。

  

ようするに、進化というのは常に経験的事実であり、そこには目的もあらかじめ決められた方向もないということです。

2015-12-08

コミュニケーションってスキルというよりアートだよなあ

体系的な学習方法があるようでない。

ある人に許される振る舞いが、他の人には許されない。

ある集団で受けるものが、他の集団では受けない。

ある国で美徳とされるものが、他の国ではそうではない。

長々と挙げてみたけど、こんなのはみんな、経験的事実としてはわかってるはずだ。

スキルだったらこんなん許されるわけがない。

というか、スキルであることを否定すらしている節がある。

ちょっと前に流行った恋愛工学も、内容は知らないし興味もないが、ずいぶん叩かれた。

たぶん女性蔑視というのが理由の大部分だろうけど、誰とでもヤれるようなマニュアルなんてない、

テンプレに引っかかってたまるものか、という反発もある気がするんだよね。

そういうのは技術じゃなくて、魔術や芸術領域であって欲しいんだろう。

なのに、コミュ障にだけは言うんだよ。コミュニケーションスキルだって

お前は努力が足りないとか、努力さえすればマシになるみたいな言い方するじゃん。

あれがどうも気に食わない。

そりゃ、努力が足りないだけの奴もいるだろうよ。努力してマシになった奴もいるだろうよ。

でもそれはスキルからじゃなくて、才能があったからに過ぎない。

下町ロケットって流行ってるじゃん。現実でも町工場で、誰にも真似できない製品を作るおっさんがいて、

時々テレビに映ったりするけど、要はああいうのと同じなんだよ。

達人がいれば向かない奴もいる。達人の下で修行しても誰もが同じようにできるわけじゃない。

なのにスキルとか言うのいい加減やめるべきじゃないか?

 
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