はてなキーワード: 終末時計とは
それなのに一部の人間は、必要のない世界まで覗き込もうとして、自らの境遇と比べては意味もなく自己肯定感を危機にさらしてしまう。
理屈ではわかっていても、自分よりも豊かな生活を送る人間がいると、それを妬んでしまうのが人間というものだ。
狭い世界であれば十分満たされていたのに、突然視界がひらけたと同時に危機にさらされてしまうことがある。
意味が無いことだとわかっていながら、ハリウッドセレブの生活を自分の生活と比較しては、自らの境遇に嘆いてしまうのだ。
勝ち組になれるのなんてほんの一握りなこの世界で、このことは本当にやばい。
自己肯定感に飢えた人間がどんな行動をし始めるかなんてちょっと考えればわかるはずだ。
トランプが票を得ることができたのは、正義や正しさを訴える大統領を選ぶよりも、彼を選んだほうが自己肯定感の危機から逃れられそうだと思えたからに他ならない。
世界の富より、目の前にある自分たちの富を優先したいと思ったから、彼に票を入れたのだ。
そもそもテロリストの行動原理が自己肯定感の危機である以上、このことは更に彼らのテロリズムを刺激することになる。
それだけでなく、第二第三のテロリズムが生み出されるきっかけにもなりかねない。
しかし、そのことに屈して首相を非難したり、トランプの考えを肯定するようであればまさにテロリストの思う壺である。
まずはみんなでSNSを閉じよう。
自らの自己肯定感をいたずらに満たすことを止めよう。
あなたが満たした飢えは、それ以上に多くの飢えをもたらしている。
言葉の壁なんてもう無いに等しい世の中で、人間の感性だけが原始的なままに取り残されてしまっている。
そのことが理解できないのであれば、終末時計はさらに針を進めることになるだろう。
残された時間はそう多くない。
まあ燃やす前に吊るされた短冊はきっちり全部読みましたけどね!ウケケケケ。
今年もまた相変わらず
「温い家庭が築けますように」
などと腹筋と想像力を鍛えてくれる短冊も沢山あったんだが(ヌクいならいいがヌルいだと)、
今年は少し別の事が気になった。
普通に竹を見上げただけでも、
“世界平和”“世界平和”“世界平和”“世界平和”“世界平和”
なんか、やたらとアーチャーがいる。
だいたい「世界平和」なんて単語が七夕の短冊なんぞで出てくるのは、願いを書こうと思ったんだけど自己の願いを特に思いつかなかった奴が書くせい、という事情はもう解っている。
なので、去年までも皆無ではなかったが、あくまでも少数派だった。
だが今年は多い。やたら多い。目立つくらい多い。
筆跡から見るに年齢層に特に偏りもなく、老若男女が書いている様子。ただ老人は若干少ないか。
何じゃこりゃ、と素直にキモく思えたためその原因について考えてみたんだが、
去年と今年とで参拝者を取り囲む状況が大きく変わったとは思えない。
強いて変わったとするならば、どうにか変化を見出すならば、それは世相の方だろう、とは思った。
ISの台頭だの日本人人質の惨殺だのテロだの特定アジア情勢だの、まあ確かに物騒な事もこの頃多かった。
でもそれは別に、去年の七夕以降に限った話というわけでもないように感じる。
一昨年も物騒だったし、その前の年も十分に物騒だった。
エントロピーは着実に増大し、終末時計の針は刻々と進み、モヒカンがヒャッハーする世紀末の訪れも近いね!と感じさせるに足るだけのステキな世界だったように思う。おお末世こわいこわい。
じゃあ何で一体、今年の七夕に限って大勢のアーチャーが揃って短冊に世界平和とかふざけた世迷言を書き始めたんだろうか…と考えたのだが、
まあ当然の事ながら、誰だって自分がかわいいし、見るのは身近で目の前のものばかりだ。
だから、私幣(個人的な願いや祈り)ほど短冊に書かれやすいし、公益や公徳を望む願いほど書かれにくい。当たり前のことだ。
では、その当たり前が覆されているのは何故なのかと言えば…
今年あったなにごとかから、乱暴な例えをするならば“第三次世界大戦の端緒”のような、「取り返しのつかなくなりそうなギリギリの状況」みたいなものを皆が何となく感じ取り、それが漠然とした不安となって現れたからこそ、普段あまり書かれない“世界平和”なんて短冊が大量発生したのではないか、と感じる。