はてなキーワード: 精神衛生とは
世界は着実に良くなっているという話を聞いたことがあるかもしれない。
あるいは、世界の子どもの死亡率は19世紀初頭から10倍も減少している。
一人当たりの所得と平均寿命、そして、色と大きさが大陸を反映した泡で表現されたさまざまな国々がある。
ファクトフルネスという本で、そんなビジュアライゼーションもどきを見たことがあるかもしれない。
過去2世紀の間、どの国も寿命が延び、物を買うための収入が増えた。
しかし今日、ファクトフルネスはプロパガンダに利用されている、
既存の状況を正当化し、西洋資本主義を理想的な社会として称賛するためにである。
政治家も科学者もそうだ、ある事実を極端に強調する一方で、他の事実を完全に無視する。
例えば、グラフ中のアメリカを見てみよう。この小さな小さなバブルの中に、すべての住民が整然と詰め込まれている。
なぜこんなに小さいのか?
つまり、アメリカ国民の下半分の平均所得は年間16,200ドルであり、全米平均よりはるかに低い。
アメリカのこの半分の人々の所得は、40年間ほとんど変わっていない。
では、なぜ全米平均の所得が増えるのか?
それを理解するには、上位1%までの分布全体を見る必要がある。
そこで何が起ころうと、国民平均に大きな影響を与える。
この35年間で、上位1%の所得は3倍以上に増加した、
一方、人口の下位半分の貧しさは変わらない。
一方、下位1%に属するアメリカ人男性の平均寿命は73歳である。
このようなことが全国平均の下で起こっているのだ。
産業資本主義がより良い生活環境を無限に生み出すとは到底思えない。
例えば、イギリスとアメリカを見てみると、近年、平均寿命は実際に短くなっている。
いわゆる絶望死が増加しているのだ。
絶望とは、経済成長による健康への恩恵が宣伝されるたびに、ほとんど言及されないことだ。
資本主義の擁護者たちが、精神衛生について語るのを聞いたことがあるだろうか?
結局のところ、世界全体を見渡してみると、今日の不健康の主な原因は身体的な病気ではなく、うつ病なのだ。
そして全体として、いわゆる精神疾患は、世界中で障害の約3分の1を占めている。
では、なぜグローバル・ヘルスに関心のある人は、このような特殊な苦しみを無視したがるのだろうか?
その理由は、うつ病人口が最も多いのはヨーロッパ、オーストラリア、アメリカだからである。
アメリカ大陸、ヨーロッパ、オーストラリアでは不安障害が多い。
精神疾患の世界的分布について語る人が少ないのは、経済成長はすべての人間の問題を解決する万能薬であるという考え方には当てはまらないからだ。
また、世界はますます良くなっているという考え方にも当てはまらない。
この25年間、貧しい人も豊かな人も、実際にはますます苦しんでいる。
これを測る方法はいくつかあるが、医療記録を見るか、国民調査で症状について尋ねるかは問題ではない。
抗うつ薬の消費量を考えてみても、OECD加盟のいわゆる先進国では、わずか15年で倍増している。
だからといって、経済成長が必ずしも私たちを不幸にするとは限らない。
いや、生活に必要な物質が満たされれば、間違いなく幸福になる。
しかし、経済成長が一定のレベルに達すると、私たちの幸福に対するその効果は弱まる傾向にある。
例えば、1972年以降のアメリカの経済成長率を見ると、2倍以上になっている。
しかし、最も信頼性の高い調査によれば、アメリカ人の幸福度はほぼ横ばいである。
そしていくらか弱まってさえいる。
このことは、なぜ経済成長を際限なく追求しなければならないのかという疑問を投げかける。
さらに根本的なことを言えば、社会の良し悪しを評価する際に、健康がいかなる種類のものであれ関係するのだろうかという疑問も湧いてくる。
平均して貧しく、早死にするアメリカより、カタールに住む方がいいのだろうか?
中国を拡大してみると、1949年から1976年の間に平均寿命が目覚ましく伸びていることがわかる。
この間、中国は毛沢東という歴史上最悪の独裁者によって統治されていた。
これは何を物語っているのだろうか?
支配者であるエリートを批判する者が命の危険にさらされる権威主義的共産主義に生きるのは良いことだと言うのだろうか?
もしそうでないなら、資本主義の利点を示すときに、なぜこのような統計的なチェリーピッキングが受け入れられるのだろうか?
平均寿命やその他の健康指標は、私たちがどのような社会に住んでいるかを示す指標としては不十分なのかもしれない。
もしかしたら、私たちは社会の現状を見るだけでなく、その潜在的な可能性やありうる姿を考えるべきなのかもしれない。
どのように見るかは別として、世界はより良い場所になりつつあるだけではない。
多くの点で、私たちはその逆を見ている。
メンタルヘルスの問題を挙げたが、格差の拡大、住宅不足、労働市場のプレカリゼーションも注目に値する。
これらの問題があたかも存在しないかのように装うのは不誠実であり、社会科学のクソな点の顕著な例である。
世界が永久に改善されると宣言するだけでは、何の役にも立たない。
地球温暖化についても何か言うべきではないだろうか?
娘はまだまだ小さいんだけど親としてはお金の使い方を身に付けてもらいたいと思う。
女の子なので学歴よりは資格や職歴、一芸よりは多趣味、いろんな人と仲良くなれるような社交性を身に付けてほしいと考えた。
化粧、衣服、趣味や推し活とお金を吸い取る誘惑が社会にそこかしこと張り巡らされている。
FPの知識はないが父親として、女の子に教えられる最たるものはお金の大切さであろうと考えた次第。
30代一児の父
地方在住
年収400万円
家と車のローンあり。
貯金50万円 NISA300万円(S&P500インデックスとNvidia) IDECOは今年から始めた
誘惑が多いのは男子も女子も同じだけど、女の子は大金を得る手段が多くそれを狙う大人が多いことだろう。P活、援助交際で何十万と稼いでブランド品、ホストにつぎ込めるいまの社会構造はおかしいと思う。最近は男の子も闇バイトに組み込まれるようになっているのでこちらも危険。闇バイトは長続きせず大金も手に入らないが、傷害事件を起こしたり殺人犯になる可能性も高い。
固定費を把握する。
家賃、光熱費その他、食費、電話代、ローンなど毎月必ず出ていくお金を頭に入れておけば雨風しのげて飢えることもない。
貧困は人の頭を悪くさせる。家と米があればひとまず平常心で毎日を過ごすことができる。
車や奨学金のローンが頭から抜けている人がたまにいるので要注意。
お金を使うのはここから。上記固定費を抜いたお金を何に使うかを考える。
気を抜いているとあっという間にお金がなくなり「何に使ったの・・・」と寂しい思いをすることになる.
大きなものを買うため、急な出費にそなえるため、精神の安定にも大きく貢献するのがまとまったお金である。
お年玉の一部を銀行に預ける、毎月もらうお金を少しでも翌月に残すなどで十分身につくと期待したい。
毎月、給料の20%でも貯金していたら立派なマネーリテラシーの持ち主と言える。
「20代の独身者の平均貯蓄額は、平均値が176万円、中央値が20万円という結果になっています。金融資産を保有していない20代の独身者の割合は42.1%となっており、約半分が貯蓄のない状態」
ちなみに60代の2割超が貯蓄ゼロ。生活保護の5割以上が高齢者である。お金が無くても生きていけるが公営住宅に住んでベネフィット暮らしはとにかくヒマで精神衛生に良くない。余談であるが国全体の(個人金融)資産の50%は高齢者が持っている。また認知症高齢者も資産を持っており255兆円が彼らの預金口座ないし不動産である…。
普通の人で言えば大学の奨学金、車、家であろう。学生でいえば自動車学校、楽器などだろうか。
貯金はお金を使うためにあり、上記は人生を大きく変えるものである。購入に当たって色々調べたり、人に相談し、計画を練って買えるようになってほしい。
増田のいい年した同僚がスキューバダイビングの機器をローンで払っていて驚いた。一括でかえよと思ったものだ。
英会話の教材はどうせ活用できず無用の長物になるので買わない方がいい。よしんば活用できても身についた英語を活かせる場面は皆無。
少し前は借金は絶対するなと言われていたが、昨今の円安インフレを受けて借金にも良いものと悪いものに区別されるようになった。
住宅ローン、カーローンはサラリーマンなら活用したい。何といっても金利が低く、ほぼ手数料なしで支払いを繰り延べられるのだ。
反対にカードローン、リボルビング払い、借金の連帯保証人は絶対避けてほしい。人生が傾く。
割愛。
NISAとインデックスとかで十分。ただそれを理解してもらうためにはお金の管理を身に付ける必要があり、安定したライフスタイルを送れるようになってからだろうか。
論破されちゃったからこれ以上返信しても負け犬の遠吠えだから、意味のない文章だと思って聞いてね
俺はバカでプライドが高いから、俺に対して間違ったことを言われたら顔真っ赤にして反論することしかできないの
俺の趣味も努力やストレスとは無縁なわけじゃないから、あなたのいう事はわかるよ。上達が見えないことは楽しくないし、そして上達には多かれ少なかれストレスがつきものだから。
だけど、ゲーム遊んでストレス溜めて、その結果終始愚痴ばかり言うだの、利敵行為を働くだの、になってしまうの、確実に自分の精神衛生面にもよくないじゃん。
わざわざそのゲームのためだけの愚痴吐くアカウント作ってひたすらそれを言うのって、確実に自分や他人のためにならないし、少なくとも普通ではないじゃん。(これが一般的なことだったら、それができない俺がハッタショなことが露呈するだけだけど)
だから俺は自分をそこまでは追い込めないからそういう人たちを尊敬するけど、ゲームは多くの人にとっては義務や責務ではないのに、自分をそんなにしてまで得られるものって何?っていう疑問と、理解できないものに対する拒絶もあるよっていう
ただこれ書いてる途中でちょっと思ったんだけど、アレってサウナでととのう、に近いことなのかな?いつか来るはずの気持ちいい勝利のためにストレス溜めて、そしてそれが来たら気持ちよくて、そしてまたストレスを溜めるのに戻るっていう
これならまぁ分かるんだよな。俺サウナのこともあんまり理解できないから、俺が理解できないことにも説明がつくし(サウナーを尊敬しているわけではないが…)
ブクマカが大喜利で、1時間かけて書いた増田を5分でブクマすることにモヤモヤしてる。
それなりの量を書いてもたいてい5分で読んで終わり、ブクマカはブクマ中一切口を利かず、増田を流し込むように読む。
精神衛生的にもあまり良くないから止めた方がいいよと言っても「のろのろ増田を読むのはうんこを漏らしたことのない奴のすることだ」といって聞く耳を持たない。
ブクマカの言い分も分かるけどプライベートはゆっくりブログしてもいいと思うし、ブクマは体にも悪いと思うから止めてほしい。
というか本音としてはもっとパンティーほしいんだけど、ブクマカはパンティーにも無頓着で「心に残るパンティー」と言われたことがほとんどない。
読み終わるとすぐにノルマ終了って言って席を立って私が増田でレスバをしてる間には、寝転がってスマホを触ってる。
家電量販店2社→コールセンター→アパレル→飲食店(現在2社目)ときて何だかんだもう接客業をやるようになって5年くらい経つけど、色々トライアンドエラーを繰り返すうちに「接客業全体の大まかなルール」みたいなものが見えてくるようになって、まあ少なくともクビになるような接客はせずに済んでいる。
個人的にもそれなりに楽しんで仕事してはいるからね!自分以外の他者を同じ「人間」だと思えない私たちASDにとって、「お客さん」っていう「殆どその時限りしか付き合いのない人」っていうのは、言い方悪いけどモノと同じというか、だから雑に扱って良いとかじゃなくて寧ろ人間性を深く意識しなくて良い分「モノを大切に」の精神で丁寧に応対しようと意識できる(気がする)から、そう言う意味では向いている場面もあるかもしれないなって……個人的にはそう思いました。
但し接客業の中でも向き不向きはあると思うんだよなぁ。
私の主観だと
ASDにも出来そうな接客業:専門店系(飲食でもそれ以外でも。但しアパレルは除外)
ASDはやめておいた方が良いかもしれない接客業:アパレル、ファミレス
くらいの感じはある。特に自前の知識とか比較観察能力に一定の自信があるなら、家電量販店の接客部門はASDにかなり向いてるんじゃなかろうかと思う。これ何故かって話なんですけど「ASDにアパレルが向いてないのは何故か」というところと表裏一体なんですよね。
家電量販店の接客担当者は基本的に「サイズやスペック等決まった条件に当てはまる家電がどれか分からない人」を相手にするのが仕事です。んでそれらの数値は覚えていなくても大体展示品の近くに記載があって可視化されている。ぶっちゃけて仕舞えばお客さんの設けている条件をメモさせて貰って、そこに見合うものをコーナー内で探し出したら展示品の前まで誘導して、どういう設計なのかを簡単に説明すればまずクリアなんですよね。あとは大体似たスペックの他社製品が近場に置いてあるはずなので、「他のものも見たい」と言われたらその辺を薦めればもう立派な接客ってわけですよ。
あと家電量販店には「目的が決まっていて接客を必要としないお客さん」がいるのも大きな救いだと思う。ちゃんと仕様表を自分で読んで、求める条件と合致するか否かを考えられる人にまで無理矢理声を掛けに行かなくて良いわけです。ASDは自分から話しかけに行く状況を不得手に感じる人も少なくないと思うんですけど、家電に関しては接客を必要とするお客さんが自発的に声を掛けてくださるパターンが圧倒的に多いので、担当者は訊かれたことに最低限答えるだけでも良い。分からなければエリアチーフとか店舗責任者を呼んで助けてもらうこともできる。そういう動線がハッキリしている接客であれば、ASDの人にもやりやすいんじゃないかなって思いますね。
同じようなことは家電に限らず、メニューの傾向が大凡決まっている専門店系飲食にも言えると思います。お寿司屋さん焼肉屋さんパスタ屋さんうどん屋さん……みたいなね。これらもチェーン店じゃなくて地元経営とか個人経営みたいなところなら融通が利きやすいので尚のことやりやすくなると思う。
アパレルだとこうは行かないんだよなあ!ブランドの傾向にもよりますけど、私が働いていたブランドはお客さん一人ひとりにしっかり声を掛けて、可能な限りじっくりお話しすることを求められるお店でした。上手くはまればこれもすごく楽しいんだけどね、そこまで持っていくのが本当にキツかった。
まず家電と大きく違うのが「お客さんの求める条件が可視化されない」という点。アパレルスタッフは何とか会話の中で、お客さんの服のサイズ、普段着てる服のスタイル、どんな場面・目的の服を探しているのか、予算、好きな色、好きだけど普段あまり選ばない色、場合によっては家族構成や家庭環境なども含め非常に多くの情報を出来るだけ「お客さんから自発的に話してもらう形で」収集しなければならないわけですよ。どうよ、定型の人でも厳しい内容だと思うだろうに、ただでさえ対人交渉が苦手なASDにこれをやれっていうのは詰腹を斬らされるようなものなわけです。
それで聴取した内容を元にお客さんが好きそうな服を、大体3種類くらいは店中から連れて来なきゃならない。そこに時間をかけるわけにも行かないから即ち店に置いてある服を事前に全部覚えておく必要がある。しかも都合良く3種類も似た服が見つかるなんてことは殆どないし、やっとこさ連れてきた服でさえも「なんか違う」のひと言で気に入ってもらえないなんてことザラなわけですよ。
「なんか違う」って何????????その「なんか」っていう曖昧な基準表現、ASDがいっっっっっっっちばん理解できない領域なんですけどそこはどうなの????????ということが毎日発生すると考えてみてくださいな。ね?アパレルで働いていた頃は楽しんで仕事しましたけど、これで食っていけるか問われればASD的にはノーと言わざるを得ないかもしれません。
お洋服屋さんには「特に買い物する予定はないけど通り掛かったから何となく来た」っていう最初から無理ゲーみたいな客層が少なくないのも痛いところ……。家電量販店に何となくでウィンドウショッピングしに来る人ってそんなにいないだろって思うでしょ?実際いないよ。ゼロじゃないけどそういう人は大体ゲームコーナーとかガジェットコーナーをいそいそと歩き回っているのですぐ分かる。話し掛けなくていいし、向こうも話し掛けられたくないから上手く収まってる。だけどアパレルはウィンドウショッピングする人の方が寧ろ多い。何なら「買うつもりのない人の財布から巧妙に金をくすねるための手法」がアパレル接客みたいなところさえある。それで衝動買いしてくれる人なら良いけど、買わないと決めてる人は本当に買わないし、何ならそう考えてるのに一丁前に店の中を見て回って試着室を占領するパターンもかなりあるので、頑張って接客して結局それだと骨折り損のくたびれ儲けを感じさせられてゲンナリするよね……っていう。ASDって「主観の中で実利的じゃないこと」が嫌いだと思うんですけど、アパレルだとそういう「無駄」がどうしても多くなるから精神衛生的にあんまり良くないような気もするんですよねえ……。
ただ思ったんですけど、同じアパレルでもユニクロとかGUとかみたいな「じっくり接客が双方に求められていないブランド」ならこの限りじゃないんですよね。だからやっぱりブランド次第というか。
以上!
接客現場は定型の人でさえ嫌がって避ける部分もあるからか今輪をかけて人手不足がすごいですけど、だからか単発バイトアプリでも接客人員を募集してることって最近増えてきた気がします。
継続的に接客業をやらないにしてもそういう時に「接客業にチャレンジしてみたいけどASDだから到底無理だよね…」って最初から諦めてほしくないな〜みたいな思いがある。上手いこと選べば接客業も楽しいよ!この業種の人は元々優しい人がとても多いから、仕事を丁寧に教えて貰いやすいってところも大きいなぁ…と(但し飲食はこの限りじゃないので過度な期待はするべからず)。
あとほんと、接客したことない人の接客業に対する扱いのぞんざいさ酷いと思うんだよね。全人類まず接客業やって、お客さんから支離滅裂なクレームをぶつけられる経験をしてみたらどうなんだろうかね。
これはトンデモワードっぽいですが、主に中国軍が次世代の戦略と考えているれっきとした戦略概念です。気になる方は防衛研究所をご覧ください。
これは、制海権(海上優勢)・制空権(航空優勢)・制情報権(情報優勢)・制宙権に次ぐ「制脳権」という概念です。
戦争では情報がものを言うのですが、情報よりもその手前の認知・認識の分野をコントールしてしまおうという考え方が制脳権です。脳さえ乗っ取れば勝手に内乱してくれるし、民衆が敵国の足を引っ張ってくれるので便利という考え方です。
ここで、現在の日本のインターネットの荒れ具合が中国による工作活動だというつもりはないです(証拠もないし)。
ただそれにしても「工作活動されて、脳が乗っ取られていてもおかしくないのではないか」というぐらい荒れているように見えます。あまりにもキレ散らかしていないでしょうか。
そういうわけでNINJAを発足しようと思いました。
「自分がNINJAだ」と思えば、誰でもNINJAになることができます。
ただし、人に向かって名乗らないでください。NINJAなので。
名乗る人はNINJAではありません。名乗る人はわれわれの仲間ではありません。
自分がNINJAだと匂わせることもしないでください。そういう人はNINJAではありません。
リアルでも誰にもNINJAだと言わないでください。そういう人はNINJAではありません。
どこか目に付く公共の場で「NINJA参上!」などのようなことも書かないでください。そういう人はNINJAではありません。
NINJAであることは人にバレないようにしてください。たとえ「NINJAでしょ?」のように聞かれても白状しないでください。
よいもの・よいことを見つけたら積極的に広めてください(さりげなく広めてください)
丁寧な言葉遣いを心がけてください
悪いものを攻撃するのではなく、良いものをその分たくさん応援してください(あなたの精神衛生のためでもあります)
穏やかな気持ちを保ってください
募集は終わりです。
読んでくださってありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう。
実家近くで一人暮らしだから実家はよく帰ってるけど遠方で生活してる兄家族とは会いたくないし、正月もお盆もあえて実家にも祖父母宅にも行かない
兄は詳細省くけど私からしたら虐待加害者で、成人してからしっかりそうだと認識できるきっかけがあったので、そこからは精神衛生的に良くないし、兄と関係性がある義姉も姪も気持ち悪くなったので連絡を断ち、兄から年1くらいでくるLINEも未読スルー
親族はイエ制度、家父長制大好き、旦那ちゃまと子どものためにこんなに頑張っちゃう肝っ玉母ちゃんの私!✌みたいなマインドの従姉妹とか、自分の孫抱えて子どもかわいいだろ?いますぐ生みたいだろ?みたいなこと平気で言うおじさんとか殺してえな〜ってなるから正月とかも帰らないしたまたま祖父母宅で会っても会話しないし従姉妹の子どもも存在をすべて無視して過ごしてる。
とはいえ親との縁を切るつもりはないけど、今後親の葬式とかはあるだろうし都合よく兄弟あたりとだけ縁切るのって難しいよな〜
やるなら親戚と顔合わすことに?全員まとめて殺せば解決ではあるけどさ〜〜
ジジェクはもともとTERFだよ
https://www.compactmag.com/article/wokeness-is-here-to-stay/
スコットランド政府は、ウェイク主義とLGBTの原因をほぼ極限まで推し進めました。2022年12月、スコットランドの議員たちが個人が法的に性別を変更しやすくする計画を承認し、16歳および17歳にも新しい自己認識システムを拡張した際、「平等のための歴史的な日」と称賛しました。基本的に、自分が感じる通りの性別を宣言すれば、それに基づいて登録されるというものです。予測される問題は、レイプで有罪判決を受けた生物学的男性であるイスラ・ブライソンがスターリングの女性刑務所に収監された際に発生しました。
ブライソンはレイプ容疑で裁判に出廷した後に初めて自分が男性ではなくなったと決定しました。つまり、自分を女性と認識している人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたのです。これは論理的です。もし男性性や女性性が身体とは無関係であり、すべてが主観的な自己定義に依存するのであれば、ペニスを持つレイプ犯を女性収容者と一緒に収監しなければなりません。抗議があった後、ブライソンは男性刑務所に収監されました。しかし、これもスコットランドの法律の下では問題があります。というのも、今度は自己認識した女性が男性刑務所に収監されることになるからです。
ロンドンのタビストッククリニックは、上級当局から、ホルモンを抑制して胸などの性別に基づく特徴の発達を一時停止させる思春期抑制剤の使用を制限するよう命じられました。タビストックでは、9歳から16歳の性的アイデンティティを選ぶことができないように見える若者にこれらの薬を投与していました。タビストックの臨床医は、性的アイデンティティを決定できない若者が環境の圧力の下で強制的な選択をする危険があると考え、これにより彼らの真の傾向(主にトランスであること)を抑圧してしまうと判断しました。思春期抑制剤は、そのような若者が思春期に入るのを延期し、性的アイデンティティについて成熟した年齢で決定する前に考えるための時間を与えるために必要でした。
タビストックでは、評価のために送られたほぼすべての子供に思春期抑制剤が投与されており、自閉症や問題を抱えた若者も含まれていました。これらの若者は、性的アイデンティティについて不確かであると誤診されていた可能性があります。言い換えれば、人生を変える治療が、医療的な性別移行を望んでいるかどうかを知るにはまだ若すぎる脆弱な子供たちに行われていたのです。批評家の一人は、「性別に苦しむ子供には、時間とサポートが必要であり、後で後悔するかもしれない医療的な道に進ませるべきではない」と述べました。
パラドックスは明らかです。若者が成熟を一時停止して性的アイデンティティについて自由に決定できるようにするために思春期抑制剤が投与されましたが、これらの薬は他の多くの身体的および精神的病理を引き起こす可能性があり、若者たちにこれらの結果を伴う薬を受ける準備ができているかどうか誰も尋ねませんでした。ヒラリー・キャス博士は、「決定を下すための時間を稼ぐのではなく、思春期抑制剤がその決定プロセスを妨げる可能性があるかどうかを知る方法はありません。脳の成熟が一時的または永続的に妨げられる可能性があります」と書いています。
西洋の多くのジェンダークリニックでは、医師が「疑うことのない肯定的アプローチ」を採用することを余儀なくされていると批評家の一人が指摘しています。これは、子供たちの他の基礎的な精神衛生の危機にほとんど注意を払わずに行われています。この圧力は実際には二重のものです。一つには、臨床医はトランスロビーに恐れを抱いており、思春期抑制剤に対する懐疑主義をトランス個人が性的アイデンティティを実現するのを難しくする保守的な試みと解釈します。これに経済的な強制力が加わります。例えば、タビストックの収入の半分以上は、若者の性的問題の治療から得られていました。つまり、ここにあるのは、政治的に正しい圧力と経済的利益の計算という最悪の組み合わせです。思春期抑制剤の使用は、もう一つの覚醒資本主義のケースに過ぎません。
どちらかといえばTERF寄りだよ
https://www.compactmag.com/article/wokeness-is-here-to-stay/
スコットランド政府は、ウェイク主義とLGBTの原因をほぼ極限まで推し進めました。2022年12月、スコットランドの議員たちが個人が法的に性別を変更しやすくする計画を承認し、16歳および17歳にも新しい自己認識システムを拡張した際、「平等のための歴史的な日」と称賛しました。基本的に、自分が感じる通りの性別を宣言すれば、それに基づいて登録されるというものです。予測される問題は、レイプで有罪判決を受けた生物学的男性であるイスラ・ブライソンがスターリングの女性刑務所に収監された際に発生しました。
ブライソンはレイプ容疑で裁判に出廷した後に初めて自分が男性ではなくなったと決定しました。つまり、自分を女性と認識している人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたのです。これは論理的です。もし男性性や女性性が身体とは無関係であり、すべてが主観的な自己定義に依存するのであれば、ペニスを持つレイプ犯を女性収容者と一緒に収監しなければなりません。抗議があった後、ブライソンは男性刑務所に収監されました。しかし、これもスコットランドの法律の下では問題があります。というのも、今度は自己認識した女性が男性刑務所に収監されることになるからです。
ロンドンのタビストッククリニックは、上級当局から、ホルモンを抑制して胸などの性別に基づく特徴の発達を一時停止させる思春期抑制剤の使用を制限するよう命じられました。タビストックでは、9歳から16歳の性的アイデンティティを選ぶことができないように見える若者にこれらの薬を投与していました。タビストックの臨床医は、性的アイデンティティを決定できない若者が環境の圧力の下で強制的な選択をする危険があると考え、これにより彼らの真の傾向(主にトランスであること)を抑圧してしまうと判断しました。思春期抑制剤は、そのような若者が思春期に入るのを延期し、性的アイデンティティについて成熟した年齢で決定する前に考えるための時間を与えるために必要でした。
タビストックでは、評価のために送られたほぼすべての子供に思春期抑制剤が投与されており、自閉症や問題を抱えた若者も含まれていました。これらの若者は、性的アイデンティティについて不確かであると誤診されていた可能性があります。言い換えれば、人生を変える治療が、医療的な性別移行を望んでいるかどうかを知るにはまだ若すぎる脆弱な子供たちに行われていたのです。批評家の一人は、「性別に苦しむ子供には、時間とサポートが必要であり、後で後悔するかもしれない医療的な道に進ませるべきではない」と述べました。
パラドックスは明らかです。若者が成熟を一時停止して性的アイデンティティについて自由に決定できるようにするために思春期抑制剤が投与されましたが、これらの薬は他の多くの身体的および精神的病理を引き起こす可能性があり、若者たちにこれらの結果を伴う薬を受ける準備ができているかどうか誰も尋ねませんでした。ヒラリー・キャス博士は、「決定を下すための時間を稼ぐのではなく、思春期抑制剤がその決定プロセスを妨げる可能性があるかどうかを知る方法はありません。脳の成熟が一時的または永続的に妨げられる可能性があります」と書いています。
西洋の多くのジェンダークリニックでは、医師が「疑うことのない肯定的アプローチ」を採用することを余儀なくされていると批評家の一人が指摘しています。これは、子供たちの他の基礎的な精神衛生の危機にほとんど注意を払わずに行われています。この圧力は実際には二重のものです。一つには、臨床医はトランスロビーに恐れを抱いており、思春期抑制剤に対する懐疑主義をトランス個人が性的アイデンティティを実現するのを難しくする保守的な試みと解釈します。これに経済的な強制力が加わります。例えば、タビストックの収入の半分以上は、若者の性的問題の治療から得られていました。つまり、ここにあるのは、政治的に正しい圧力と経済的利益の計算という最悪の組み合わせです。思春期抑制剤の使用は、もう一つの覚醒資本主義のケースに過ぎません。
理由は大きく3つ
①彼氏に親としての責任感がない。健康について注意しても全く気をつかわない。
②結婚報告のときに彼氏の母親が「産んだあとに籍入れたら?制度的にも有利だし」とか無神経なこと言うので呆れた。
③「嫁入りする度胸」みたいなのを試されてて辟易してる。
詳細な理由としては
①は正直私がつわりで苦しんでるのに「俺も体調悪い」と被せて言ってくるので全く頼れない。自分の非を認めて謝ることができない。彼が2徹明けで長距離ドライブしようとしてたので注意したら逆ギレされた
②はもう結婚前提で話進めてるって彼の両親に話をしたときに言われたので出鼻挫かれたのもそうだし、義母は自分はちゃっかり籍入れて産んでおいて私には籍は後回しで国の制度頼れって、は?って思った。そのくせ生まれたあとに義父母の家にベビーベッド置くとか保育園の送り迎えば義父がするとか言ってて、え?お前らのために産むんじゃないんだけど?????と思ったのでなんか気色わるって思った
③は義父母揃ってうちに来すぎるのと、その度に「⚫︎⚫︎家に嫁ぐということは〜」みたいなありがたい話聞かされるのがもう耳障りでこんな親だからバツついたんじゃねーの?という本音がある。
と天秤にかけたときに、いえいえ間に合ってますって思ったのと、
むしろ下手に籍入れて子供に毒義父母との距離を近くさせるほうが精神衛生に悪そう〜
って思ったら籍入れるの嫌になってきた。
そういや義父経由で「お前(私)のところは父は早死にだし母は入院してるしで遺伝子的に劣ってるんだから、それを義母は気にしてるんだぞ」って言われたことがあって、お前らはお前らで希死念慮ミチミチの発達障害2人も産んでおいて何言ってんだ???とも思った。
どうやって結婚断ろうか?
普段はROM専で、SNSでリアルタイムに反応をもらうことに不慣れでつい舞い上がってしまい、更新ボタンを押す手が止まらなくなってしまった。
また、フェイクは入れまくっていたけれど、身バレするのがホッテントリに入って注目されるようになってから怖くなった。
自分の精神衛生の悪化を感じたので、勢いで消した。私にはSNS上でオープンな発信者になるのは早かったみたいだ。
だけど、どうしてもお礼を言いたくてのこのことまた出てきてしまった。
6月11日現在における今年度の寄付総額は約130万円、寄付件数は79件。
7月13日現在では総額305万3千円、件数は149件! 倍増! すごい!!
自分の投稿がどれだけ貢献したかはわからないけれど、寄付してくれた方々に対して厚く御礼を申し上げます。本当にありがとう。
https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83?pg=400&page=1
読んでみると、過去に授業料免除を受けていたという人が恩返しとして寄付しているのが結構多いのが分かる。
https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83?pg=400&page=1#project-tab03
あとは3つおまけ。
まず大学側の要因として挙げられるのが次の2つ。
私も今回調べるまで、自分の研究科以外の寄付基金の存在を知らなかった。修学支援基金も含めて。自分もお世話になってたのにね……。
OB・OG向けにたまに郵送するニュースレターという形でOB・OGへのアウトリーチする基盤はある。
現役の学生からお金を搾り取ろうとする前に、OB・OGへの寄付の働きかけを強化する手段はあるんじゃないのかな。
関連して第2に、学部・研究科ごとの独立性が高くて、「東京大学」としての寄付の呼びかけに失敗している。
夫は別の学部・研究科の出身なので、ニュースレターを私の出身のところと比較できるのだが、どちらも自分たちのところの研究のための基金の情報しか載っていない。
ふるさと納税における各自治体みたいに、寄付金を巡って本部と各研究科が競争しているような状態なのかもしれない。
あるいは、授業料免除のような学生全体に関わる経済的困難層向けの修学支援は東京大学の本部としての活動になる一方で、OB・OG向けのアラムナイ活動は学部・研究科の所管になっているように見えるから、そこで齟齬があるのかもしれない。
他方で、卒業生側に目を向けると、卒業生には寄付をするインセンティブがない。
寄付をすることに対して、アイデンティティ上の満足や実利など自分のためになる何かがなければならない。
多くの東大生OB・OGには、寄付に対するそうした対価は存在しないと思う。
アメリカの有名大学には寄付による入学枠がある。寄付することが、そのまま自分の子どもの利益に繋がる。
賛否はあると思うけど、その寄付金を使って貧乏人の子どもが入れるようになるならば、うまくできた制度設計だと思う。
でも、これは私立大学だからできることだろうし、東大でそんな制度が採用されるとはとても思えない。
※補足:ハーバード大学やスタンフォード大学などのアメリカの有名大学のほとんどは私立大学。
でも、はてなーは公共心が高くて、公共性への貢献からアイデンティティ上の満足を得られるであろうから、皆さんからの寄付には勝手に期待している。
②なぜ親と折り合いの悪い層にこだわるのか
これは、実際にそういう人を知っているから。金銭面で決定的に仲違いしたから。その人は大学からも去ってしまったから。
大学院に行きたいと言っていたけれど、結局コンサルに就職した。私が知っている中でもかなり天才と呼んでよいほどの頭の人だったのに、ものすごくおもしろい研究をしたはずだったのに、本当にもったいない。
セクシャルマイノリティーの立場から授業料値上げについて書いていた学生のnoteを読む限り、最近でもこの問題が解決してなさそうで非常に残念だ。
私の場合、分かりやすい経済的困難層だったことと、進学には反対したけどなぜか書類の準備には協力的だった親がいたことはすごく運がよかった。
親との折り合いが悪くて授業料免除制度からこぼれ落ちてしまうような学生をどう救うかの問題が解決しない限り、いくら支援制度の充実を掲げたとしても、学生の自助努力の水準を上げる授業料の値上げは行うべきではない。
③最後に。自分のこれまでを褒めてもらえたことはうれしかった。その一方で、危うさも感じた。
やっぱりみんな学力によるメリトクラシー(能力主義)にとらわれすぎだと思う。
特定の能力を持っている人はそれにふさわしい場所に行けるべきという考え、あるいはそれが実現された社会は、最終的にはその能力を持たない人を苦しめることにもなりうる。
学力という一つの能力のみによる純粋な選別装置として大学を機能させることと、社会全体の平等は別の話。
能力によって個人レベルでの格差を乗り越えることができたとしても、社会全体の格差は残り続ける。
世代間の社会的流動性が高ければそれはそれで問題ないのかもしれないけれど、それでもやっぱりいま・この世代において個人レベルで「負ける」人は発生する。
特定の能力による勝ち負けの発生自体をなくさないと東大ヘイトも負け組ヘイトもなくならないんじゃないか。
もちろん個々の能力ごとに勝ち負けが発生するのは避けられないけど、いろんな人のいろんな能力が尊厳をもって扱われて、トータルでみたら引き分けだとみんなが感じられるような社会になってほしいと心から思う。
だから繰り返しの主張になるけど、大学生への経済的支援だけではなく、若者向けの支援も、かつて若者だった人たち向けの支援もやるべきというのが私の立場。
「東大生は社会的に有用だから他を差し置いて特に支援されるべき」ではない。
個々人が寄付という形でその思いを表明するのは、個人の善の構想の中にある自由な選択。
でも、公的に税金を使ってやるべきような正義の話なのかは分からない。
それに、社会的に有用になることを東大生に押し付けることも適当ではないと思う。
社会貢献のためにみんな働いているのか? ジョブズは社会貢献のためにiPhoneを作ったのか?
そうではないだろう。
人々が自由にその能力を発揮して、自分の何らかの価値のために働いて、それが結果的に社会の役に立つ。それが一番健全。
最初から社会のためになんて言ってるやつはうさんくさい。個人の感想だけど。
この投稿以降は再び社会の片隅でひっそりこっそり生きる生活に戻ります。
誤字脱字は直すけど、それは何卒ご容赦を。
勝手に改蔵の坪内地丹の発狂ネタなんて、まるで真っ当な反撃手段を全部封じされなおも加害され続けるいじめられっ子がどうしていいか分からなくなって衝動的に奇行に走るのを見て嘲笑してるみたいで、読んでてひたすらに胸糞悪かった
限度を超えて酷い目に遭うのは、酷い目に遭っても大丈夫で、且つ、酷い目に遭って当然なことをするキャラであってほしい
理想を言えば、ウォーハンマーと言うにはあまりにも大きすぎな鈍器で頭部を激しく強打されて目ん玉を飛び出させ、己の血の海の中で電極を刺されたカエルのようにピクピクと痙攣する一個の肉片に成り果てよーとも、次のコマでは何事もなかったように復活してウザイ悪さをする、そんなキャラだ
それはそれで別の人の精神衛生を著しく害する気がしないでもないが、他人の事というのは煎じ詰めれば他人事でしかないので気にしない
ご意見ありがとうございます。確かに、そのような対応をする人との建設的な対話は難しいかもしれません。
しかし、特定のグループや個人を一般化して批判することは、さらなる対立や誤解を生む可能性があります。むしろ、個々の言動や行動に焦点を当てて議論することが、より生産的なアプローチかもしれません。
例えば:
1. 具体的な発言や行動に対して、なぜそれが問題だと感じるのかを冷静に説明する
2. 相手の意図を理解しようと努め、誤解がある場合は丁寧に指摘する
これらの方法を試みても対話が難しい場合は、その場を離れるのも一つの選択肢です。自分の精神衛生を保つことも大切だからです。
最終的には、私たち一人一人が、より良い対話と相互理解を目指して努力することが、社会全体の雰囲気を少しずつ変えていく力になるのではないでしょうか。
パレットに積まれた8キロ弱の荷物(段ボール)をバラして投入する→商品を手直しするA. B→検品→パレットに積み直す
という感じの流れ作業を日雇いバイトたちてでやる感じ、俺の仕事は最後のパレットに積み直すとこである。
初期配置は
パレットばらし1人
手直しする(A)で2人
手直しする(B)で2人
検品1人
積み直し1人(俺)
という感じ。これでも結構流れてきて大変だった。そもそも俺はパレットへの積み方も荷物の持ち方もの日雇いの現場で一緒になった人らに教えられただけで対して上手くも詳しくもない。
パレットばらし1人
手直し(A)4人
手直しする(B)2人
検品1人
積み直し1人
というシフトになっていく
この時点でひと息もつけない。積んだ位置を修正してるとどんどん流れてくる。
ふと目を向けると作業に慣れた他のバイトたちが片手間に投入を手伝っている。
実質2人で投入しているものだ。
ライン作業の上の方には人が集まってる上にどんどん作業に慣れてくが、ゴールの俺は1人で8キロ弱の荷物をどんどん積むことで体力が削られていくのである。
そらキツイに決まっている。集中力も切れるしそもそも時間的余裕もそんなにない
その結果として社員なのか派遣なのか知らない人にちゃんと積みかたに気をつけろと叱られまくる
しかしその叱られる時もどんどん荷物が流れ、ラインには置く場所がなくなる。検品の人間が気を利かせてか段ボールを積んで場所を確保してれてるのをみて俺は死にそうになる。それに言われて注意したところでちゃんと教育を受けたこともない日雇いのバイトの俺がそんな的確につんでいくなんてことでない。時間がかかるが時間をかけるとラインが詰まって溢れていく。
最終的には「何回いっても治らねぇもう嫌だわ配置変えしろよ」と他の社員へのお願いなのか嫌味なのか知らない言葉を聞こえるように言われる。
イラッと来たが、いやほんと配置換えしてくれマジキッツいわ、と思ってなにも言わなかった。
しかしこれももなんかよくわからない理由で最後までやらせることになった
なんでこんなキッツい仕事受けちまったかなぁ、賽の河原の石積みのほうが軽いだけマシだわ、キツイキツイと定評のや夜間の宅配仕分けでもここまできつくないぞ、そも時給もちょっといいくらいだし、その時給もあそこのシール剥がしてる兄ちゃんねぇちゃんと同じだし、どう考えてもミスったわ。というか配置少しは考えろよ。ラインの上だけ増やしても対応できねぇわ。と嘆きながらおそらく1000個以上(数える気力が途中からなくなったから正確な数かもわからない)の段ボールを積んだ。
途中たまに工場の派遣やさっきの積み方を叱るおっちゃんが手伝ったし、最後の1時間くらい1人の派遣が専属で応援にまわってきてが来てくれたが、それでも殆どは俺が積んでそれで叱られる積んででの繰り返しで死にそうだった。
選んだ仕事が思いの外キツイのは嫌だが納得するしかない。周りだってキツイのだ。
しかしやってる作業量や作業内容が一人だけ違うのは精神的にも体力的にもかなりキッツい。
周りに味方が居ない。なんでシール剥がしてたりシール貼ってる人間とパレット積みやってる俺が同じ休憩時間なんだと僻みまで発生するので精神衛生的にもよくない
仕事がないからって「ちょっと重いくらいですよ(^o^)」みたいに募集に顔文字使うような会社いっちゃいけねぇとか、ちゃんと仕事は選ぼうということを再確認した日であった。
みんな病んでるよね。
そういうものの対抗策として認知行動なんたらとかそういう意識高い話されてもさ、頭に入ってこないんだよね。
俺はメンタルに良いとされる方法をいろいろ触ってみたが、結局のところ究極的には「自分を洗脳せよ❤️」に尽きる。
なにか物事が起きた時、それの受け止め方は人それぞれだが、精神衛生を気にするならば楽観的に考えるべきだ。
しかし妙に現実が見えていたり知識があると、物事に対する解像度が増えて、やはり悲観的になりやすい。
そこで自分を洗脳して、「これは良いことだ」と思い込む。陽気な思考は陽気な行動を生み、そして陽気な性格が出来上がる。これができれば精神的には無敵になれる。
「嫌なことからは逃げろ」というが、あれは半分間違っている。嫌なことを認識しつつもそれをポジティブに捉えられる方がはるかに役に立つ。
これは脳筋が唱える理屈にみえるだろうが、脳筋というのは案外バカにできないものだ。
しかし簡単に言ってもそんなことできないという人が大半だろう。
あれはな、はっきり言ってシラフで聴くとギャグにしか思えないんだよな。
俺が催眠オナニーに接した時は、ニュー速VIPといういまは寂れた古の匿名掲示板にしか、ほとんど情報がなかった。
そこでは通称「双子」と呼ばれる、双子に催眠をかけられる謎の音声が流行っていた。俺も双子堕ちしたよ。
そこでは「催眠オナニーは最悪死ぬ」だのそんなことばっかり書かれていたが、
「催眠にかからないです。どうしたらいいのでしょうか?」という質問レスに対しては
「かかっているフリをしろ」という、バカみたいなレスがついていた。
しかしこれは割と真理なんだよ。
催眠にかかっているフリをしながら、リラックスする。「俺は催眠にかかるんだ」と強く思う。催眠にかかっていなくても双子の声に集中する。そうすると本当にちんぽが双子の催眠にかかるんだよな。
実のところ、認知行動療法がやっていることも大して変わらないのだよ。あれをやっていると思い込み力が必要になる。しかし思い込み力を増やす訓練はあまり深く追求されていない。
しかし催眠オナニーはまさにこの思い込み力を増強する試みなのだよ。
これは日常生活でも応用できることだ。
俺たちは様々な出来事に遭遇するが、いざその場面になると気分が落ち込むよな。
ここで双子でもメスガキでもBLでもなんでもいいが、とにかくハマった催眠音声を思いだす。
思い込むことで、冷静に考えるとバカみたいな音声でちんぽがビンビンになったよな?
ちんぽ(あるいはまんこ)が俺たちの思考に及ぼす影響は過小評価しがちだが、実際のところはかなり大きいと言わざるを得ない。
この経験を元に、あらゆることをポジティブに再定義することが可能なのだ。
考え方のクセは精神に深く関与している。
俺は訓練として、目の前にペットボトルを置いて、俺の脳内に住んでいる双子に「これはえっちだよね❤️」と言わせることで、今ではペットボトルをみるとえっちな気分になるようになった。
同じ理屈で上司に怒られている時もちょっと勃起するようになった。
そういうわけなので、催眠オナニーは精神に素晴らしい影響を与えるのだよ。
近々、これを体系的に発表したいと思っているので、その時は君らも見てくれよな。
そのじいさんが亡くなった。
昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家に帰省するときはレンタカーを予約する。この連休もそうした。
安いので、地元の自動車修理工場がフランチャイズでやっているインディーズ系レンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のbB(みんなの地元のDQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。
そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。
正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。
実家の所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロックだけ会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロックの会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律の目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。
母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。
じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合は公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。
じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身で晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから、今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。
寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。
じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。
そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。
その日にはもう私は実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報に接し、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。
そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分の精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任(良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。
それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。
死ぬということが、生きるということから決して遠くはなれてはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。
最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。
最初に友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき、友達がわたしの隣にいないという人はきっといない。
父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。
父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなたのことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後の最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。
父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEのトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。
亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEをわたしに送ってきた。車というものは私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮の時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。
ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。
(ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった)
そんな感じの人だったので、この世に未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかったことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。
こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだスカイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。
生まれてから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。
生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。
じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。
それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。
ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。
私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、その人にとても会いたい。だから、次の帰省のときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。
私の目にうつり、私が今生きている世界は、そのときには隣に、近所のじいさんがどうしたっていてくれる、そういう世界だ。
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6/22
父の死は、私にとってとても大きな出来事で、父のことを書きたいと1年間思い続けているけど、整理がつかずになかなかかけずにいます。一部ですが少し吐出せて、それを読んでもらえてうれしいです。
私が書いた別の読みたいというブコメをみかけたので、かなり以前に書いた増田ですが、お年寄りの話題・肉親の死が出てくるものを2つほど貼っておきます。
※ビービーの車名直しました。廃車するとき泣きながら見送ったのに間違えてしまった、ご指摘ありがとうございました。