はてなキーワード: 米国大統領とは
支持率2%キープしたし、改憲勢力2/3を切ったしもう何をこれ以上望む。
特に改憲勢力が2/3を切ったことはもう10年、20年単位で改憲の芽は潰れただろう。
それは安倍政治が経済政策をしくって、まぁまぁの状態に出来なかったのが原因で日本死ね、オリンピックと憲法議論まで持っていけなかったためだろう。
民主党反発で大きく改定まで狙えたのにそのために超えなきゃいけなかった中間層以下の生活の向上、少なくとも良くなる期待を上げるができなかったのが原因だろう。
その一方でじりじりと社民党は萎んでいったが、改憲の千載一遇のチャンスをフイにさせたことは自分たちで誇っていい。
あと、社民党は6年は残るだろうし、次の米国大統領選で社会主義も争点になりそうだからまた不死鳥のようにまた盛り上がるかもしれない。お疲れ様。
なお、私はN国党に入れました。
まぁ、普段からPTAタイプの人は、昨日の水曜日のダウンタウンに思い切り噛みついてるの別に矛盾してないし通常営業っすねって話でしかない。
AKBグループの選抜なんちゃらとか、乳の形丸出しのVTuberが解説するなんちゃらだって、見る人によっちゃそれなりにグロテスクだと思うのだが、恐らく男性それも非モテ派の発言力が強いはてな界隈じゃそういうものもグロテスクだとは認めないだろうが。
クロちゃん企画にブクマ民はすごい怒ってる、怒ってないにしても強く関心を抱いてる人がいる、見てもないと腐しながら見てもないものに馬鹿にした体で関心を示している。
そもそもこちらは、元ネタ(テラスハウス)も、そもそも地上波TVでプライベート恋愛感情まるだしなのも(虚実は知らんが)すげー下品だと思うわけだが、テラハはなんで怒られなかったんだろう。私は十分アレも嫌いだった。
さらに、それを言えばそんな感じのTV番組なんて大昔からあるしその手の番組を経てタレントになってる人もいたりするし、日本に限ったことでもない。リアリティ・ショーといえばTVの定番人気コンテンツである、現職の米国大統領も出てたぐらいだ笑。
広めにくくったらもっとある。ドッキリ系の番組とかマネーの虎的なものとかラップバトル的なものとかガチンコなんとかとか、枚挙に暇がなく、そういうのにPTAメンタリティの人が怒るのは論理的帰結である。まぁそうでしょうね。
もっと広めにくくったら、質の低いYoutuberなんてのもそのたぐいだろう。ネットは関係ないなんて言うなよ、今やネットよりもYoutubeの方が子供が見てる。
twitterで色々反応を見てたら、もっと昔には完全な素人が告白タイム!とかやってたらしいじゃないか、セミプロ(クロちゃん含む)やワナビーを集めてやってるだけまだ人道コンプライアンス的に幾分はマシなぐらいだ。一応時間帯もプライムまで落としてるから視聴者配慮もしてた。もちろん、としまえん近隣住民に著しい迷惑をかけたのはノット・コンプライアンスではあるが。
私は水曜日のダウンタウン自体は面白い企画やほのぼの企画もあるので家にいるときは好んで見ている。でもあの企画は嫌いだったので始まるとTVを消したり流れでつい見てもすぐ耐えられなくなりTVを消す程度のつまみ食いではあった。だがつまみ食い情報だけでもお腹いっぱいのグロテスクさではあった。
いつだかたまたま見ちゃった回で、非モテモンスター・クロちゃんは「自分が一番有名人で自分ありきの企画なのだから、自分の思い通りにして当然だ」と、そのリアリティショーの他の出演者にかん高い声で恫喝まがいの言葉をまくし立てていた。それで、うひゃーこれもうバラエティと言うよりもホラー・メタ・ドキュメント作ってるつもりなんだろうなーと思って、逆に興味が沸いた。
なので最終回をつい見た。面白おかしいバラエティ番組ではなく、世界のグロテスクさを伝えるドキュメンタリーから目をそらしてはいけないのでは、という謎の義務感を持って見た。
ドキュメンタリー番組で流れる世界のグロテスクさについては、おお酷いと正義の場から嘆く人はそれなりに多いだろうと思う。だがこの手の「非モテ・ホラー・ドキュメント」って、ドキュメンタリーがまだ進出してない分野なのではと思う。たぶんだが、「非モテ」の部分が人道的には扱いづらいテーマだからではないかと邪推しているのだが、非モテモンスター・アイコンを擁してお笑いの仮面をかぶれば可能ということになる。「そういう仮面がありゃ番組作れるんだな」という、社会全体の構造(そういう企画が通るということは、そういう社会でもあるということでもある。現実はそのようにグロテスクだ)自体が、本当にグロテスクなわけだが。
みなさん、こんにちは!ここに来ることができ、とてもうれしく思います。今回の日本訪問で、我々は、日米両国の素晴らしい同盟関係を再確認しています。ですので、皆さんに感謝を伝えたく、ここに立ち寄りたいと思っていました。兵士の皆さん、家族の皆さん、ありがとうございます。皆さんは、日米同盟の中核を担っています。感謝いたします。
「ウォーターボーイ」ことブシェー大佐、ガルザ最上級曹長、ありがとうございます。大勢の人たちがいますね。下士官、上級下士官、将校、一般兵士、国防省の文民職員。家族の皆さん、声を聞かせてください!
黄川田外務大臣政務官、福田市長、国会議員の方々、園田海将補、自衛隊員の皆さん、この場にお越しいただいた日本の友人の方々に、感謝申し上げます。素晴らしい、岩国市民の方々にも、お礼申し上げます。母国を遠く離れて使命を果たしている米国兵士への皆さんからの温かい歓迎は、わが国にとって、非常に大きな意味を持ちます。皆を代表してお礼を申し上げます。ありがとう。
なるべく手短に話をしたいと思います。というのも、できる限り多くの皆さんと握手をしたいからです。先に注意しておきますが、自撮りはご遠慮ください。そうすると、一日中ここにいなければならなくなるからです。
しかし、まずなによりも、米国大統領として、米軍兵士の皆さんの最高司令官であることは、この上ない名誉であることを、申し上げたいと思います。皆さんは米国民を守り、世界中で平和と安全を促進しています。「戦没者追悼の日」の週末を皆さんと迎える機会をうれしく思います。なぜなら、この日は、危険と犠牲が皆さんの仕事の一部であることを思い出させ、自由のために命を捧げた人々を決して忘れず、敬意を払わなければならないことを、再認識させてくれるからです。
大統領として私は、米国が再びアジア・太平洋地域で主導的な役割を果たせるよう、取り組んできました。なぜなら、この地域は、我々が共有する安全保障と繁栄にとって不可欠だからです。そのためには、安全保障での協力が必要です。貿易協定、人々の間で築かれる関係が必要です。そして、優秀な、日本の自衛隊員と協力して、米軍兵士が域内で実施する、誇りある奉仕活動が必要となります。
ご存知のように、今日の午後、私は広島を訪れます。これは、第二次世界大戦で命を落とした、全ての人々を追悼する機会であり、核兵器をもはや必要としない世界の平和と安全を求める決意を確認する機会でもあります。広島訪問は、最も痛ましい亀裂でさえも埋め、かつて敵同士にあった日米がパートナーとなるだけでなく、最も緊密な友人となり、最も強固な同盟国となることが可能だということを示す証左となります。
日米同盟の強さは、ここ岩国で端的に示されています。岩国基地は、両国の信頼、協力および友好関係を示す好例です。米国海兵隊は、自衛隊と力を合わせ、平和を守り、域内のパートナーと連携し、人道支援および災害救援を行っています。皆さんは、フィリピンとタイを襲った洪水やバングラデシュに壊滅的な被害をもたらしたサイクロンの対応にあたりました。2011年の東日本大震災では、救助・救援活動で、極めて重要な役割を果たしました。日米は共に、域内で、数え切れない数の人命を救ったのです。このことは、我々の大きな誇りです。
ここでの皆さんの奉仕は、自由、民主主義、人権、法の支配といった、今日、日米両国が共有する価値観に根ざしています。その結果、日米同盟は両国だけの安全保障にとって不可欠となっただけでなく、域内および世界において、欠くことのできない安定の源であり、繁栄の土台となっています。皆さんは、我々の生活の質を支える礎なのです。
最後に、日米同盟の本質を如実に語る、素晴らしいエピソードをひとつご紹介します。テッサ・スノー大尉はどこにいますか? この場にいるはずですが、、あっ! いましたね。スノー大尉は、オスプレイのパイロットで、先月の熊本地震の際、自身の飛行隊を率い、被災者へ人道支援を行い、物資を届ける任務を遂行しました。ある日本人一家は自宅の倒壊を恐れ、何日も屋外で過ごすことを余儀なくされました。皆さんの取り組みにより、その一家をはじめとする多くの被災者が、食料や水など必要な物資を受け取ることができたのです。
さて、その一家ですが、6月に女の子が生まれる予定です。テッサの任務のおかげで助かったことを知り、生まれてくる子どもに、テッサにちなんだ名前をつけると決めたそうです。家族は、誠実さ、勇気、責任感、進んで他人を助けようとする気持ち、といったテッサと同じような素養を備えた大人に育ってほしいと願っているそうです。
これらは、海兵隊の基本的価値観ではないでしょうか? 幾世代にもわたって、米軍兵士を特徴づけてきた素養であり、日米両国が持つ最も優れたものの象徴でもあります。皆さんの奉仕によって、人間の尊厳と自由に対する日米が共有する決意は、この地域および全世界で、存続していき、この地域は繁栄していくでしょう。そして、我々はどこに行っても、希望を広め続けていくでしょう。私は皆さんを誇りに思います。日本側に感謝いたします。米軍をこの上なく誇りに思います。
皆さんと皆さんの家族に神のご加護がありますように。そして米国に神のご加護がありますように。皆さん、ありがとうございました。
20日に米国大統領の職に就いたトランプ氏の独走が続いている。いくつもの大統領令にサインし、直近のニュースでは その反発として、メキシコ大統領との会談は流れ、自国の司法省長官代行からはNoを言われ、海外の複数の国から「懸念」を表明されている。
昨年7月トランプ氏が共和党の大統領候補になった時 いったい何人の日本人が、この(政治経験ゼロで女性蔑視・人種差別発言を繰り返す)人物が米国の次期大統領になると考えただろうか? しかしそれは現実となった。
大統領選翌日のことだ。
私は前日の選挙の行方をネットでは見ていたのだが、一連の流れをいまひとつ現実のものとして捉えることができないでいた。
いつものように市場へ行くと、その中央付近に新聞スタンドが在るのを思い出しそこへ足を運んだ。
そこには同氏の勝利を伝えるいくつものニュースペーパーがきれいに配されていた。
それを見た私は人生で初めて、何かを見て眩暈をおこす、という経験をした。
得意顔のトランプ氏が大写しになったそれは、どう見ても出来の悪い三流映画の小道具にしか見えなかったのだ。
ここはどこだ。 世界が横滑りして、別のどこかに雪崩れ込んでいくような感覚。
ここは本当にフィリピンか? 本当に世界と繋がっているのか? ネットの情報も含めみんなで騙しているんじゃないのか?
頭がクラクラしている。
ダメだ、何でもいい、何か考えなくては、と思ったところに新聞の見出しが目に入ってきた。
偶然か、ニ紙がその見出しとなっていた。
英語初学者の私はその O M G というちょっと見慣れない略語について考え、後ろのTrumpという固有名詞を頼りに、もしかして「オーマイゴッド」の略!?と閃いた。
答え合わせをするために店番の女性に何の略か訊いてみることにした。
しかしその女性は新聞を取るなり本文とにらめっこを始めて、一向に答えが出る気配ではない。
客として訪れた男性に改めて訊いてみたところ、やはりオーマイゴッドとのこと。
オーマイゴッド…
私の中に現実感というやつがあるとするなら、それは明らかに退潮していった。
私がまっすぐ歩けないほどの高熱を発し、隣市の公立病院へ行ってデング熱と診断されたのは その数日後のことだった。
あのクラクラがデング熱の初期症状に拠るものか、トランプ氏の「歴史的」勝利への不適合からきたものか、今となっては分からない。
分かっていることといえば、破天荒な大統領とそれに相応しい政令が当面の間続くということだけだ。
ネットの情報に拠るとデング熱は回復後も数週間にわたって疲労感、倦怠感、現実感の無さが続くことがあるらしい。
お〜い、私の現実感〜、早く戻ってこ〜い
石原さとみは米国大統領特使に見えないし、英語も下手だから、全然合わない……というのは、これまでにさんざん指摘されてきた。だから、ここでは繰り返さない。
では、それだったら、どうするか? 彼女を下ろすか? それとも、別の役に割り当てるか?
東宝はどうやら石原さとみを押しつけたいらしい。(進撃の巨人もそうだ。) だから、はずせないらしい。だとしたら、他の役を割り当てる必要がある。では、どの役?
お薦めは、泉ちゃんの役だ。「君がまず落ち着け」というセリフはどうでもいいが、華麗な人脈を誇るところがいい。泉ちゃんが華麗な人脈を持つというのは、どうにも不自然だ。あいつが華麗な人脈を持つはずがない。そんなタイプじゃない。磊落すぎる。細かな気が利くとは思えない。
その点、石原さとみなら、適役だ。彼女ならいかにも人脈がありそうだ。フランスにもコネがありそうだ。(昔の彼氏が首相か大統領になっていた、とかね。)
ただし、泉ちゃんの肩書きである政調副会長というのは、彼女にはふさわしくない。そこで、首相秘書官というのはどうか? これなら、首相が亡くなったあとで、特別チームを補佐するというのは、おかしくない。
泉ちゃんには消えてもらって、かわりに石原さとみが首相秘書官として登場すればいい。それなら、「石原さとみが米国特使だ」なんていう荒唐無稽な配役は、やらないで済む。かわりに米国人女優を使えば、米国での興収もアップするはずだ。サンドラ・ブロックあたりを使いたいところ。(高額のギャラが払えれば、という条件で。……払えるか? とても払えそうにないが、払える。なぜならその分、米国の配給会社が高値を出してくれるから。サンドラ・ブロックを出すだけで、米国の興収は大幅アップだ。)
ちなみに、石原さとみを使ったことでは、米国人の観客たちから笑いものになっている。「英語をまともに話せない女性が、米国大統領をめざすって、何かの冗談か?」と。
なぜにサンドラ・ブロック ?
石原さとみみたいにかわいくて、しかも米国大統領を目指せるほどの貫禄がある、という2条件を満たすので。
この両方を満たす女優が他にいれば、挙げてみてください。別にサンドラにこだわるわけじゃないので、もっといい女優がいれば、そちらでもいいですよ。
たぶん誰入れても同じことだったと思うので石原さとみが見れるだけ良いのでは。
石原さとみを消すわけじゃないですよ。お間違えなく。彼女は登場したまま、配役を変えるだけです。
泉ちゃんを おろすなんて とんでもない
松尾さんは消えるけど、松尾さんが石原さとみに代わるんだから、かわいくなるだけいいのでは?
スカーレット・ヨハンソンがいいな。
http://gqjapan.jp/entertainment/movie/20120717/w_sj
彼女のギャラだけで、シン・ゴジラの製作費全額を上回りそうだ。
スカーレット・ヨハンソンを上回る。
http://matome.naver.jp/odai/2140720956822370601
高嶺の花でした。ごめんね。
私も一瞬そう思ったけど、ベッキーも石原さとみも身長は 157cm で、同じ。
英語は、ベッキーは「苦手」であるとのことなので、ベッキーの方が下手。
ベッキーの方がいいのは、瞳だけ。石原さとみもカラコンを入れれば良かったかも。
http://blog.livedoor.jp/sky_wing2010-geinou/archives/49411631.html
シャーロットケイトフォックスは、私も好きだし、演技力だけなら申し分ないが、いかんせん、米国人は誰も知らない。ゴジラの宣伝で各地を廻らせても、誰も知らない女優では、宣伝効果がゼロ。コストはゼロ同然だが、効果もゼロ同然。普通の女優なら、コストの何倍もの宣伝効果があるので、普通の女優を使う方がマシ。たとえば、スパイダーマンやバットマンのヒロインとか。(名前は忘れたが。)
セリフの量をうんと減らして、演技力を求めなければ、ミランダ・カーでいいんだけどね。
アメちゃんに笑われようがどうでもいい。
どう思われるかが大事なのではなく、アメリカの興収が増えるかどうかが問題。興収が増えないと困るでしょ? アメリカの興収を増やすためには、米国人を登場させる必要があるんだよ。
2014 ゴジラだって、作中に日本人がいっぱい登場したから、日本では大ヒットした。仮に日本人が全然いなくて、出演はアメリカ人ばかりだったら、日本ではあれほどヒットはしなかっただろう。
世界的ヒットを狙うには、「オール日本人」では、やはりまずいんだよ。うまくやれば、全世界ヒットで、日本の興収の 10倍を世界で稼げる。日本よりは世界を狙うべきだろ?
【 続編 】
シン・ゴジラの真価は、これから広がるであろう一見さんによる批評の中にこそ有る。
つまり、「満点からマイナスされうる特撮映画」が帰ってきた、と言う意味だ。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
確かにその通りで、それは欠点だ。
それは、長年特撮ファンが受けたくても受けられなかった指摘だ。
「まあ、子供向けの怪獣映画にしては良く出来てたよね」という感想からの脱却。
「対象年齢を考えても酷い」とか「大人の視聴に耐えうる人間ドラマ」とか
そういった「オヤクソクを共有している視聴者」向きの話じゃない。
つまり、「ファインディング・ドリーと比べて」とか
だからこそ「大傑作」であり、それ故に「まあまあ面白かった」という感想が併存しうる。
最近は「ゼロからプラスして積み上げる特撮映画」しか無かった。
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)特撮部分は良かった」
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)ドラマパートはヒドイ」
みたいな「邦画の予算規模で制約の多い特撮映画において」という限定が常についていた。
粗はある。荒削りでもある。
それでも恐らくは邦画の現場における特撮映画のベストを尽くした映画だと思う。
それは特撮ファンなら邦画の環境に絶望せずに希望を見いだせる一筋の光であるし、
一般人から見れば、「怪獣映画だけど面白いらしいよ」と観に行ける映画になってる。
「日本の特撮映画として100万点」のシン・ゴジラで終わるならソレまでだ。
でもきっと「世界の映画の中で70点」のシン・ゴジラだと評価してもらえる。
怪獣を通じて、日本の災害を正面から描き、国のあり方をポリティカルな視点から捉える。
世の中は稼いだものが正義で、投資してもらえるのは評価された作品だけだ。
その意味で、きっと一般人からみても、投資に一口のれる出来じゃないだろうか。
ダシに使ったので、不満点に共感しつつ、違う視点を提供しておくよ。
映画観に行った後のファミレスでダベってる感じで読んでもらえればと思う。
(人は感じたことが全てであり、反論しようとは思っていない)
主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。
シン・ゴジラの主人公格である長谷川博己演じる内閣官房副長官の矢口蘭堂は、
竹野内豊演じる内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)の赤坂秀樹から
「会議は結論ありきで進んでいる。かき回すな」と助言を受けている。
また、エレベーターの中で、立場が上の人間に対して「楽観やこうあって欲しいという願望が、先の大戦で何百万人も殺した」とワリとハッキリ苦言を呈している。
矢口は生物と断定しているのではなく、「巨大生物の可能性を俎上に載せないのはマズイ」と判断しているのではないだろうか。
(ネット上の映像がフェイクであれば、それを作った人間の動機がテロで無いことを確認するまで安心しないタイプ)
ニュース映像での「巨大生物の尻尾」について、ニュースの真偽を問うシーンがないのは映画の都合だと思う。
ニュースの第一報だと見るのが妥当なシーンだし、それならアレは何のジョークだと笑うのが現実的ではなかろうか。
同種の別個体については、検討は並行で続けているが、映画の都合でカット、じゃないかな。
別個体だとすると、観客は「ゴジラ対究極生物なのか?」という疑念を抱きながら観ることになり集中力が削がれる。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
たぶん、残りの一箇所は、自衛隊の戦車が潰れるシーンか、注入第一部隊の全滅の部分じゃないかな。
マンションの荷物を詰めていてマンションごと押し倒される家族、川からの逃げ遅れ(たぶん画面の奥側に向かって走る男性)は、
災害の描き方の問題で、ゴジラによる人死を描いているわけではないと思う。
あの一連のシーンで感じる「いまどこに災害が近づいてきているか一般市民には把握できない」という恐怖は演出として一貫していると思う。
(状況把握のしようがなく、気がついた時にはもう遅いという恐怖は、5年たってやっと直視できるようになった映像だと思う)
病院とか今まさに災害の現場は出てこず、災害が通り過ぎた後の映像だしね。
密室と俯瞰した映像に寄る災害描写は、予算制約を逆手に取った脚本の作り方の問題であり、
その意味で「巨大不明生物がなぎ倒したビルにも当然人が残っている」というのを伝える手法に限界があったのかな、と思う。
ほぼあの家族しか直接の被害は確認できないのに、それ以後の緊迫感は違う。
だけど、アレ入れて欲しくない、というのも判る。
浮いてると思うよ。これはシナリオの歪みが集中してるせいだと思う。
これ、後でちょっと付記するけど、「シナリオの都合の上で」リアリティラインは高く見えるようにしてあるんだと思ってる。
例えば、東京駅前に当然あるはずの広大な敷地について劇中一切言及されていない。明らかに不自然。
筋論として、日本が米国に頼り、米軍が日本国内で武力行使する、という流れのハズ。
仮にも主権国家に対して、他国が熱核攻撃を短期間に強行する理由がない。
日本が壊滅するまで自由にさせておき、主権が及ばないところに出てからの攻撃になるはず。
ちょっと日本以外のまとまりが良すぎるというか、世界があまりにも日本に対して冷淡すぎる。
「ゴジラを生み出したのは、牧元教授という日本人では?」という点、
外務省や駐在武官を無視して政権が直接軍事について外交を行うと言う部分を抑えると
祖母が原爆による被害者であり、日系人でアメリカ政権に対して一定の譲歩を引き出しうる通常外交ルート外の存在は、
石原さとみ演じる米国大統領特使のカヨコ・パタースン以外であっても、
やっぱり荒唐無稽に見えるだろうし、どうしても浮いてしまうのは仕方がないと思う。
彼女はシナリオの不備による歪みを一手に引き受けて浮いているのだと思う。
まあ、じゃあどう直せば良いかって言うと、アメリカ側を描くには予算が足りなそうだな……
ゴジラに原子炉載せて、排熱への対処(生存本能)で進化するって道筋つけると、焼却 or 凍結ってのは判りやすい。
シナリオの都合でアメリカに熱核攻撃を担わせると、日本が特撮的な花である爆発(焼却)を使うのは難しい。
そもそも「カタルシスを得られない」ということそのものが、演出意図なのではないかなと思う。
一応、血を流すことから排熱に血流を用いているのではってのは合理性があるし、血液凝固材も30種類?試して効くのは確認してる。
元素変換する相手ならどこに投与しても一緒って意味では、口に見える部分に引っ掛けて体内注入するってのは効果的とも思う。
仮定に仮定を積み重ねて、地味な作業で原子炉の終息にもってくってのは、福島第一原発事故対応への直喩だろうし。
「ショボい」処理で、しかも「まだ終わってない」ってのを、東京駅に凍結させたゴジラで示しているのでは、と。
(政府が冷温停止を宣言したのも、冷やし続ける必要があるってのも、同じ構図だよね)
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。
一応は、逃げ遅れた人がいるかもしれないけどやる?とか、線量が予定よりも多いけど続行するのか?とか、判断はあったと思う。
どっちかというと、多分最初に感じたであろう「え?総理大臣は逃げるの?残らないの?」みたいな感覚を
「いや、指揮官は後方に控えてないと死んだら終わりだから」に観客の気持ちを変えたかったんじゃないかな、と思う。
それでもまあ、良くあるヒーロー映画みたいにゴジラに触れるような最前線までは最後まで行かないし、良かったんじゃないかな。
(良く言われる「陣頭指揮」を観客がどう捉えるかが、映画を見た後で変わったのではないか)
正直に言えば、予算の都合で、東京のみの話にしないと収拾が付かないと思う。
「福島第一原発事故」が「東京駅」で起こったとして、煽りじゃなくて日本としての機能がどうなったか考えるとゾッとする。
その俺の思いと重なるが、何度も「経済的」な話が出てくる。
経済的には莫大な損失とか、熱核攻撃を受けて世界から支援を受けないと復興できないとか。
損得勘定で熱核攻撃を仕方がないと受け入れる「論理」と、象徴的な意味で核攻撃を受け入れられない「感情」との対立軸にも見える。
「国」とは何なのかを観る人に問うシナリオになってたんじゃないかな、と。
まあ観たひとに届かないのであれば、そりゃ成功してないわけだけど。
まあ、観たひとに届かない思いは独り善がりなワケでダメなんだと思うけど、
最初に書いたように、そういう「普通の映画のダメ出し」してもらえるところにシン・ゴジラの価値がある。
と、思うわけで、やっぱり気になる点を俺も最後に列挙して置こう。
熱核攻撃をあの付近で行うことに対して、日本人が触れないってのはあり得ない。
「彼らはここがニューヨークでも同じことをするそうだ」とはセリフにあるけど、あれ「ワシントン」じゃないんだよね。
(あくまでも経済の中心であるというセリフであって、象徴的なんだけども)
突然地上にさまよい出た、排熱の為に進化した、冷却のために海に戻った。
突然さまよいでることも、デタラメに動くのも、再冷却の為に海に戻るのも災害っぽい。
進化の方向性として陸上に特化してしまったとして、海水を捨てて地上に出てくる理由が不明。
牧元教授が好きにした結果、ゴジラを生み出して、意思を方向づけたなら判らなんでもないけど。
(配偶者を原爆で亡くし、国と核を憎んだ牧元教授なら、先の大戦の直接の責任者である国の象徴にまず向かい、その後アメリカ上陸を目指すのは理にかなっている)
途中、スパコンの計算能力貸して欲しいって海外の研究機関に依頼するときに、
一旦「ウチの技術を盗むかもしれないから断ろう」みたいなセリフがあるんだけど、
もしも「間に合わなかったら首都が熱核攻撃を受ける」みたいな状態なら、
「ひとを信じよう」みたいなのんびりした話にはならないと思う。
(秘密裏に国連安保理が熱核攻撃を容認するって、日本は外交力ゼロってことになる)
(そうすると、フランスと裏取引する外交技術との整合が取れない)
シナリオが福島第一原発事故を念頭に置いてるからなんだろうけど、
ゴジラに対して調伏(焼却or冷却)しか選択肢が無くなってるのに違和感がある。
保護が無理、退治が難しそうなら、通常は追い出しの手段を検討するんじゃないか。
餌で釣るのか、行動パターンを読むのか、押し返すのかは別にして。
追い出しにリソースが避けないって言う描写は欲しかったかな……
(これはほとんど「他の個体についての言及がない」ってのと同じポイントだな)
映画を見ながら、実際に災害になったらどう逃げようか俺は考えた。
かなり踏み込んで災害を描いてるような気がするけれども、どうかな。
以下、ネタバレ感想。未見の人はまず映画館へ。かなりよくできていて、金の無駄だと発狂するレベルではありません。少なくとも「エヴァンゲリオンQ」よりは面白いよ!!!平成ゴジラではナンバーワンだね!(白目)
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【ストーリー】
2004年以来、12年ぶりの国産ゴジラ。いわゆるリブートってやつで、今までのゴジラシリーズをちゃらにしてゴジラ初登場という映画になります。エヴァンゲリオンの庵野秀明が脚本、総監督。
で、ストーリーはだいたい以下のとおり。
自衛隊出すの?鳥獣駆除?防衛出動?関係省庁の意見のすりあわせ大変や~とかステレオタイプの官僚主義会議が続く
まあ自衛隊だしたらワンパンチやろ!と思ったらめっちゃ強いじゃん
当初は「ゴジラで得られる科学的知見はうちがごっそりいただいていくで~」と陰謀たくましくしていたアメリカ、ゴジラが子どもを産んで世界滅亡の危機ありと知るや核ミサイルを東京にぶっこむ宣言
東京を救うべくぎりぎりのところで粘る日本の政治家&官僚、研究者
最後は高層生コン・ポンプ車でゴジラの口にお薬を注入して封印に成功”
映画の枠組みを一言で言ってしまうと、「福島原発事故がこんな感じで解決されていたら良かったね☆」というもの。ポンプ車での冷却とか、米軍の無人機出動とか、放射線気にしながらの作業とかわかりやすすぎ。官僚主義とか御神輿首相とかダメダメ日本だったわけですが、危機に際して覚醒。「この国にはまだ希望がある」(わかりやすく劇中で出てくる台詞)ですよ。棚ぼたの奇跡じゃなくて、人々(といっても政治家、官僚、科学者、自衛隊、土建企業の皆さん、あとトモダチ作戦の米軍有志)の努力で日本は救われる。
映画見ていてちょっと泣いた。あー、こんな風に福島原発事故が解決していたら良かったのに、と。
「日本人にはまだ力がある。このダメダメな現状を変えられるッ!」というエールととらえればすばらしいんじゃないでしょうか。
でもね、もう福島原発事故から5年が立っちゃったんですよ。震災で民草がうちひしがれている時、2012年ぐらいまでにこの映画があったら手放しで喜べたと思うんですよ。私も2011年当時、「この大震災から日本は立ち直るのだ、復興するのだ」とがらにもなく魂をふるわしましたよ。でも結局、日本人は覚醒しなかったし、ダメダメな構造は今も続いている。その状況で「福島原発事故がこんな感じで解決されていたら良かったね☆」っつーのはたんなる自慰行為ではないでしょうか。
日本のなにがダメダメかっていちいちあげませんが、少なくとも映画内でもそのがっかり感はたっぷりとにじみでています。米国が主導する多国籍軍の核攻撃を遅らせる官僚のがんばりが「知り合いのフランス政府関係者に連絡」「首相代理が駐日フランス大使に頭を下げる」だったのにはあんぐり。あと「日本政府は米国の犬なので、米国大統領「東京に攻撃するよ♪」日本首相「I Understand」と速攻受け入れ」とかの単純化を見ていると、問題の本質に向き合おうとしない日本のダメさかげんが反映されているとしか。
首相代理にひたすらお願いされるフランス、ゴジラの解析にスパコンを貸してくれるドイツの研究所の偉い人。そして「安保理は東京への核攻撃に賛成。特に中国とロシアが」「東京に核ぶっこんだら、おわびに各国が復興資金出してくれるんやって」という台詞ベースの説明ぐらい。
でもさ、ゴジラの口にお薬をぶっこむポンプ車ですが、あれって福島原発事故の時に中国の三一重工が供与してくれたエピソードから採用しているわけですよね?なんで中国が出てこないの?台湾もぼくらの馬英九総統(当時)が特番で煽りまくって募金を集めまくってくれたわけですが、そのエピソードも無視。
いや、福島原発事故のエピソードを全部ぶっ込めというつもりはないっすよ。でも日本にとっての国際関係は米国しかないのかい?!とか言いたくなってしまうわけで。この薄っぺらい国際感覚で日本は覚醒できるのでしょうか?復興できるのでしょうか?
【その他】
・さんざん文句をつけましたが、絵作りとか特撮とか最高。予算15億円と聞きましたが、古い怪獣映画らしい雰囲気を出すことで低予算を苦にしない絵になっていると思いました。特に列車爆弾のシーンはスタンディングオベーションしたいぐらい。最高っす。ハリウッド版ゴジラと比べたら100倍ぐらい面白いよん。
・テンポが邦画とは思えないほどいい。会議シーンが多いのに飽きさせない。
・なぜスカイツリーを壊さないのか?!隅田川にこいよ、ゴジラ!
・石原さとみは大好き。妻が見ていたドラマ(洋菓子屋の若旦那と不倫するやつ、坊さんと恋愛するやつ、IT企業の風雲児と恋愛するやつ)を見ていて思ったんですが、あんなにエロさを出せる女優さんは日本にいないんじゃないでしょうか。でも今作は……。石原さとみの英語を聞くたびに発狂しそうに。
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
他の自治体とか国とかを相手に交渉して有利にになるようにするわけでしょ。お金大好きってヤツに任せないと逆に不安だし。
トランプとか言ってることめちゃくちゃだけど、金好きって意味では一貫してるし、あんなのが米国大統領になったらアベちゃんじゃ心配じゃん。アベノミックスとか言って買いまくったドルを全部持って帰りそうじゃん。
もうさ、クリーンなイメージはいいから田中角栄とかみたいなんでいいからお金大好きで頼もしい奴に政治家やってもらいたい。このさい甘利でもいいよ。ちゃんと成果あげたらちょっとぐらい私腹肥やしてもいいからその分頑張って。
出張だっておれらの代表としてでかけていくわけで、しょぼいホテルに泊まるより一流んとこ止まって欲しいし、くるまはヴィッツ乗ってるより運転手付きのリムジンに乗っていって欲しいし、いつもヨレヨレの一張羅よりオーダーメイドでビシっと決めて欲しいし、赤ちょうちんじゃなくてちょっといい感じのバーで飲んでいいじゃん。庶民感覚とか言って庶民みたいな体で外に出ていくよりよっぽどいいと思うの。そのぶんちゃんと仕事で成果出してくれれば。
なんか選挙権すらない日本人が米国大統領選にグダグダ言うの流行ってるみたいだから、俺もやってみる。
共和党候補として有力なのって、トランプ、クルーズ、ルビオでしょ。
で、定番の話題といえばやっぱりドナルド・トランプか。でも、トランプはどうでもいい。
日本のテレビ番組だと「トランプは反日、ルビオは親日」だから、ルビオがいいみたいなこと言ってる。
例えば、ニューヨークの弁護士資格を持つ八代英輝(@TBS『ひるおび』)さんなんかね。
でもさ、ルビオって経歴ヤバイでしょ。Wikipediaで経歴見てびっくりしたよ。
以下に俺がヤバイと思ったこと列挙するね。
・元モルモン教徒 ←
・最低賃金の引き上げ反対
・銃規制に反対
遠縁にヤクザがいる不法移民の子どもが一国のリーダーに成り上がれる国っておかしいだろ。
こんなブラック出自な奴が大統領候補になれるアメリカも狂ってる。
オバマもブラックでマリファナ大好きで出自が複雑な人だけど、苦労人の一言で収まる範疇だ。
ルビオって日本で例えればさ、中国から密入国してきた人の子どもで、
姉の旦那が蛇頭(中華系マフィア)の関係者で、元創価学会員って感じの人物が
自由民主党の総裁になるって言ってるようなもんだぞ。公明党じゃないぞ。自民党だぞ。今井絵理子レベルじゃん。
あるいは、北朝鮮から密入国したコリアン2世(帰化済)で遠縁に朝鮮労働党の幹部がいる元統一教会信者って感じか?
で、そんなでそいつが「女子高生が集団レイプで妊娠したとしても堕胎は許さーん!」とか主張してるの。
暴言王(トランプ)、不法移民の子ども(ルビオ)、進化論と気候変動を否定するキチガイ宗教右派(クルーズ)。
こんな3大珍品が揃いも揃って世界で最も影響力の強いアメリカの大統領選に出馬してそこそこ支持されてる。
ほんとアメリカ終わってるな。
自分、正直アベ首相嫌いなんだけどさ、ルビオ、クルーズに比べたら月とスッポンくらいマシだよ。
つまり「なぜトランプ?」ではなくて、「なぜルビオとクルーズ?」と問うべきなんだ。
そうだね。わかる。
もちろん、アニメにリアリティを求めるのも野暮だとは思っている。
他のアニメでも「悪のマッドサイエンティスト」とか「世界征服を企む悪の組織」とか
不自然なキャラクタはよくあるけれど特に突っ込まれている事もないよね。
GATEの場合は自衛隊とか米国大統領とか実在のものが登場するので
雑な設定が気になってしまうのかもしれない。
その辺りを置いておくとしても、僕はこのアニメをどう楽しめば良いのかよくわかっていない。
殺戮が一方的すぎて俺TUEEE!とはとても思えない。むしろ人類が悪役だよ。
異世界軍が戦車に竹槍で万歳突撃している一方で主人公たちはのんびり日常アニメでなんだか狂気すら感じる。
「ゲートが閉じて主人公だけ取り残される」くらいじゃないとバランスがとれないように思う。
それから、リアル系の自衛隊員の中で異様に目が大きいアニメキャラクタが紛れ込んでいるのが気になってしょうがないのだけれど
見続ければそのうち気にならなくなるのだろうか。
原爆なんて、原発なんて、最初からなかった—全体主義に怯える西洋の知識世界が総力を挙げて案出した虚妄の世界から脱出し、全人類を解放せよ!!
2015/4/25追記:ネタですた。詳細はぶくまこめ参照