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2017-04-07

筒井康隆

http://fut573.com/compare/?url1=http%3A%2F%2Fjp.techcrunch.com%2F2017%2F01%2F10%2Fline-shimamura%2F&url2=https%3A%2F%2Fmatome.naver.jp%2Fodai%2F2149145661127983501

1:「お前が言うな」の声も想定していた——キュレーション騒動を受けてNAVERまとめが新方針を打ち出した理由 | TechCrunch Japan

2:筒井康隆氏が慰安婦像に関連してひどすぎる発言してる件 - NAVER まとめ

b:id:bigburn

1:Googleロボット検索でやってることを人力でやってるだけ、遠回しに「著作権侵害証明責任侵害された方にある」と開き直ってる。罪の意識が全くない…

2:筒井康隆氏が政治的な正しさ忖度したら、ソッチのほうがガッカリされるわ

b:id:olicht

1:「お前誰?」

2:「はいはい筒井筒井」「また筒井か」で片づけられるポジション確立。どんなことにも100などないのだ。

b:id:pzp

1:四の五の言ってないではやく

2:像のとなりに何かの像を追加していい感じにするというのはどうか

b:id:tettekete37564

1:“専門家ではない人がネットに落ちている情報をもとに「美味しいみたいですよ」と記事をまとめるケースが増えてきました。” < それが NAVER じゃね?

2:強烈な皮肉だと思うけどな。

b:id:tetsuya_m

1:著作権ガン無視でもサービスデカくなれば後でどうにでもなるという先例をYouTubeが作っちゃってるからなぁ

2:ああ、筒井康隆らしいなと思うと同時に今の時代これは許されないんだろうなと思った。昭和アバンギャルドの生き残り

b:id:wow64

1:NAVERまとめが役に立った事はないし、今となっては押し間違える事もないから正直どうでもいい。みんなも「楽して儲けてるやつが憎い」以外の感情はないのでは。

2:後半のBUKKAKEは日本の伝統仕草としても、前半のひねりの無さがわからん

b:id:xvd385hsDdk

1:引用モザイクコンテンツではありません!!

2:で、金を請求されるわけだ。慰安婦銅像になってもやることは変わらんなw

b:id:tzt

1:同じコピーでも検索エンジンが許されてるのはアクセスをもたらしてくれてWin-Winからだが、NAVERまとめ場合NAVERキュレーター()が肥え太るだけでコピーされる側のサイトになんのメリットもないからなあ。

2:本人的にはポリコレザーメンかけてやった狂犬な俺様なつもりなのだろうか。だとすれば勘違いだし、これは恥ずかしいなあ。もうボケちゃったのかな。歳はとりたくないものだ。。

b:id:memoryalpha

1:これはもうLINEという会社の「体質」しか言い様がないねいくら批判しても根っこのところが変わらないと思う。

2:(´・ω・`).。oO(素人批判されるようじゃ手ぬるかったか、とヤル気に燃え筒井氏がこれを上回るもっとえげつない表現で挑んできたらどうするの)

b:id:rgfx

1:やはりNAVERまとめは滅びるべきである

2:底の抜けた当世ともなれば、いくら不謹慎芸人ぶった(&俺は不謹慎芸が理解できる相対主義厨なんだ)ところで「アウトサイダーアートやりたきゃそっち行けば?」にしかならないのが辛いですね。

b:id:YukeSkywalker

1:“ネット界隈で有名な人に引用されたら「ありがとうございます」となるのではないでしょうか”役員からしてこの認識とか、ほんまクズやな。

2:昔からこんなんやん。「俗物図鑑」とか読んでないのかしら。/この騒ぎで懐かしくなってkindle短編集買って読んでたら、「問題外科医」で吹いた。

b:id:raf00

1:一ヶ月寝かせたTechClunchに悪意を感じてしまう。 / Naverまとめ側は前提の認識時点で相当「ハズしている」感があり各項目ごとにツッコミどころが満載。特に現段階でNAVERまとめ善意サービス認識している点。

2:胸糞悪い事を言うのが筒井だし、胸糞悪い言葉を集めた本だって出てるじゃないか。「あの爺またか……」と思わない奴は筒井作品まともに読んでないだろ?

b:id:miruna

1:死ね

2:こんなあからますぎるアイロニーアイロニーに見えない奴が理解できない

2017-01-13

[]筒井

筒井筒(つついづつ、つついつつと読む場合も。旧かなでは「つつゐづつ」)とは、丸く掘った井戸井戸側(いどがわ)、わくのこと[1]。『伊勢物語』、『大和物語』中の物語の題材のひとつとして有名であり、互いに惹かれていた幼馴染の男女が結婚することを内容としている

筒井筒 - Wikipedia

幼馴染と結婚することをこの言葉で呼ぶことがあるらしい?

2015-06-19

実写化アレルギーとか気安く言わないで欲しい

まず結論から言うとだ、良い作品もある、が、クソが多いから「止めてくれ」って反射的に叫ぶんだよ。

判るか?

例えばオマエがゴリゴリ童貞秋月電子にパーツセットを買いに行く時にだ、

良い匂いのする女性、つまり美女に話しかけられたとしよう。

Bの可能性も確かにゼロではない

僕これから25個セット買うから10個お譲りしますよ、と発展する可能性も、存在までは否定出来ない。

だがな、常識で考えた場合、即座にお断りするのが一番正しいんだよ。

ソコ!2時間拘束されても女性と5分話せたんだからお得とか言うな。

ソムリエによる、悪くはなかった実写化作品

結論から言ったら短くなったので、折角だから(罵倒されること前提で)オススメ実写化作品を上げておこう。

なお、自称から判る通り嫌な予感がした地雷自分から踏みに行くタイプだ。売上に貢献しちまってスマンな。

あ、日本原作限定な。ハリポタとか300とかバットマンとか手に負えなくなるから

原作派、原作未読派、双方ハッピー

帝都物語(1988)

実相寺昭雄監督も凄いんだけど、やっぱ加藤役の嶋田久作だよな。

いやー、実写化はかくあるべしというレベルの怪作。

今見るにはツライところがあるとか、嶋田さん別に美男子では無いよなとか、どうでも良くなるレベル

古橋秀之ブラックロッド実写化するなら、ゼン・ランドーは嶋田久作以外だとブーイングだろう)

ピンポン(2002)

クドカン脚本書いて、松本大洋本人もワリと協力してるので、普通に漫画未読」も「漫画読者」も楽しめるようになってる。

カメオ出演も多いし、全体的に小奇麗にまとまってる。

一番のポイントは、この映画石野卓球音楽提供してんだよ。卓球漫画だしな。

のだめカンタービレ(2006~)

フジドラマにしては、キャラクターが良く描けている。

原作ギャグっぽいところがキチンと表現されているところも高得点

まあ映画版は、邦画らしく脚本グダグダでダレる部分も多いので、好きな俳優が居ないとツライかもしれん。

デトロイト・メタル・シティ(2008)

漫画読者なら楽しめる。未読者もまあまあ良いんじゃないかな?

KISSメンバージーン・シモンズの懐の深さを堪能する映画でもある。

でもガチヘヴィメタ好きと観に行くと喧嘩になるので、そいつとはアンヴィルでも観とけ。

原作派としてはビミョーだか、まあ双方ハッピー

ALWAYS 三丁目の夕日(2005)

ああ、あの絵柄がこうなるのかあという感慨はあるものの、まあ漫画読者も満足できなくはない。

個人的には、もっとこう、ジメッとした感じなんだけど、まあソコはソレ)

好き嫌い分かれる映画ではあるものの、良く出来てるよ。

探偵はBARにいるススキノ探偵シリーズ)(2011~)

原作のユルイ雰囲気がちゃんと活きてる。

相棒役に松田龍平おいてあんな探偵役なんて大泉洋じゃなきゃ出来ねえよ、あの人マジ緊張しねえな。

個人的には1の方が好き。全般的ノスタルジックで無い昭和感というのは貴重だと思う。

孤独のグルメ(2012~)

これ、原作とはゴローさんの醸し出す雰囲気が違うんだよね。

でもまあ、納得できるというか、まあアレはアレで有りだよな、という。

ほとんど松重さん人徳に寄るところが多いドラマ映画化は無いだろな。

オール・ユー・ニード・イズ・キル(Edge of Tomorrow)(2014)

まあ原作からすると、全然違うじゃ無えかと思うものの、ハリウッド凄えな、という作品

ループものをアレだけテンポ良く判りやす面白く描くのは層の厚みが違うんだろうな。

なんだかんだ言ってトム・クルーズやっぱカッコイイし凄え役者だよ。

原作派じゃないとキツイが、原作ハッピー

ヤッターマン(2009)

ヤッターマン1号に櫻井翔ドロンジョ様に深田恭子、極め付きはトンズラーケンコバとド直球の地雷配役でアリエナイ傑作。

ただこれ、原作アニメヌルギャグ、ユルイお色気、要らないだろソレっていうスベリ方と、

ほぼパーフェクトなアニメ実写化なので、アニメ知らない若者には相当ツライと思う。

開幕5分で劇場のソコココのカップルから漂う「なんだこれ……」という空気は今思い出しても笑える。

アニメ実写化としてはこれ以上無い完璧作品だと今でも思う。マフラーだけは無念。

そういや、誰もが判るカメオ出演って珍しいかも。

逆転裁判(2012)

なんかタカラヅカだと定番化しててソコソコ人気になってて面白そうなんだが未見。

ここでは軽く幻のドラマ版じゃなくて、2012年映画版な。

ソコのあの真宵ちゃんのピアノシーンとかナンダヨ!という原作派、まあ待て。

一回ちょっと目を閉じて思い描いて欲しい。

これ、ゲーム初回特典DVDとして付いてきた実写版だったとしたらどうだ?

ほら、震えるくらいの超豪華特典だろ?信じられないレベル実写化だろ?

ただし、ゲームやってない人間にはキッツいと思うなコレ。

THE NEXT GENERATION -パトレイバー-(2014~)

原作ヘッドギアの「メディアミックス前提の、アニメ版漫画版独立して存在する」珍しい作品

先行したゆうきまさみ漫画版原作扱いすることも多いけど、やっぱ違うんだよね。

特に横手美智子小説版は忘れられてることが多いけど、作品世界に多大な影響を与えてる。

漫画OVAアニメ小説映画、全部こみこみでパトレイバー

と、いう面から見ると、実物大イングラムデッキアップされただけでも価値はあったと思う。

カーシャがネズミ苦手とか、お武さんの怪談嫌いを彷彿とさせる細かいネタも沢山あったと思うが……

というか、この実写版は流石にどの過去作品にも触れたことが無い人は観てないんじゃないかな?

良くわからないことになってるけど全てハッピー

時をかける少女

筒井康隆小説(1967)原作で、

原田知世版(1983)、中本奈奈版(1997)、細田守版(2006)、仲里依紗版(2010)と4作品ともイイヨ。

特に筒井センセイも納得の細田守アニメ版時をかける少女」の主人公の声あててた仲里依紗のやってる2010年版は、細田守版の影響が尾を引きすぎて隠れてしまった不遇の名作。

ワリと細田版時かけ実写版と言って良いんじゃないかなあ……ダメかなあ……

興行的にヒットしたり、原作派以外がハッピー

多すぎて割愛

というか、このカテゴリーに入る作品を「実写化成功した作品」扱いするのが全ての元凶な気がする。

DEATH NOTEとかさ、テルマエ・ロマエとかさ。

いや、良いんだよ。

特にテルマエとか原作者も喜んでるっぽいし阿部寛良かったし。

でも、アレは実写化として原作ファンが納得する出来なのかっていうと、どうだ?

(他にもスピード・レーサーはワリと酷評されるが作品単品では面白いと思うよ?でもマッハGoGoGo実写化かあれ)

まとめ

探せば「原作ファンが喜ぶ実写化」も無くは無いが、ホトンド無えんだよ。

ハリウッドですら微妙映画化するのに、邦画で出来るのは奇跡に近いんだよ。

というわけで、「実写化!」には「マジか……」が正しい反応。アレルギーとか気軽に言うな。

2015-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20150325125745

筒井康隆も同じような小説書いてたね。

筒井のは男たちが女のことを知らなくて「あいつらなんかおかしくね? 胸も腫れてるし病気持ちかもしれない」って追い返しちゃうの。

2015-01-02

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰4

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

原稿

原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿執筆推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。

さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているもの存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダ偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。

文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダ感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである

はいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。

よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。

水島の「ラノベ文体」と榎本の「ガイド

水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。

具体例として次の例を挙げている。

「すごい美少女だ!」

俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、

――ドカーン

背後で、謎の爆発が!

なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである

何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である

はい学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲーム携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。

読者はバカからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島姿勢はいささか理解に苦しむところである

第一文と冒頭からの3ページ

クーンツ作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。

一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公描写自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るもの描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。

また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。

人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。

しかしながら、これも絶対的忌避されるべきかといえば難しい。

例えば名作と名高い「猫の地球儀」は

あれから七百年と半分が過ぎた。

朧はもちろん猫で、牡で、おいぼれで、最後スカイウォーカーだった。

と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自専門用語を第二文目で出すなど言語道断である

しかし筆者は、上述の水島のドカーンはるか凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。

作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっと妥当であるように思われる。

従って、アクションから入ろうが主人公身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。

情景描写臨場感

頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。

また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果であると主張する。

こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。

止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。

仮に作家自分想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂い付与されているのであれば、臨場感さらに高くなるだろう。

絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法類似点、相違点については十分な調査検討必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。

場面の切り替え

より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校テストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。

これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車ヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである

会話文

クーンツは会話は全体の20~30パーセント必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるバランス必要である

その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツ発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。

ヒックスは会話の機能として、「ストーリー前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。

このようにクーンツヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。

この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本筒井批判するところと言いうるだろう。

人称の効果と神の視点

説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報記述してしまう、という点がよく指摘されるところである

一方で三人称体は登場人物の知りえない情報記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。

このことから水島は、「楽しさ重視のコメディ一人称」が望ましく、「複雑なストーリー三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。

一方で飯田三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。

はい三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。

一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称メリットと、感情移入を容易にする一人称メリットを同時に享受できる極めて強力な技法である

なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロ作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。

他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家登場人物批評したり意見を述べるのは19世紀時代遅れ手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。

端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。

筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論必要であることから本稿では割愛する。

過去の回想/夢

水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリー情報提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。

一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述ある意味でこのフラッシュバック効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。

クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。

推敲

推敲重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。

冲方推敲の要点として、「冒頭とラストインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。

最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディアプロット原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。

投稿文字数上限により、下記へ続く

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰5

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰2

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記の続きとして分割投稿されたものである

作家人格登場人物人格

西谷は「主人公作家分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。

このように見てみると登場人物作家関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。

この点でヒックス登場人物作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分嫉妬深い側面を誇張した人格創造する、というもので、全くの新たな人格創造するのではなく、そのベースあくま自分自身だとする。

これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。

登場人物作家自身である主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体作家人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。

キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物人格ベース自分自身である以上、ほとんど常に作家想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。

なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。

ヒックス登場人物創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックス否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。

ここでいう「夢」はその登場人物人格依存して考えだされるべきものである。これは大塚世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。

もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人人格しかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。

西谷ヒロインブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。

読者による登場人物への感情移入

以上のように作家登場人物関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。

西谷同様、筒井は「自分作品感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。

本格ミステリSFなど、感情移入必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説存在する。しか感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。

さて、基本的に読者の感情移入物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。

まず榎本水島主人公年代ターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベ主人公中高生であることが望ましいと言う。同じ理由性別男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズブギーポップのように女性主人公成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。

まず作者自身モデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。

主人公に求められる特質について、西谷榎本飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。

そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやす主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である

一方で「低スペックで卑屈、無個性へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公ラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。

しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。

さて、筆者はこれらの各説は人物の能力精神倫理区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。

能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能行為名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人能力を持っていても(それが物語必要ならば)問題ない。

次に主人公精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情オープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。

最後主人公倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子モテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。

一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である

Unlimited Blade Worksとかマジカコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しか倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。

さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難戦略だと言える。

こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入成功すると、自然ハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入効果が高いという指摘だと言えよう。

西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。

そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物ギャップである

登場人物ギャップ

本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。

飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面ギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。

ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレ多面的感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。

ツンデレ」は言動まで類型化された属性である本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。

良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶バイト事務的発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。

さて、さら飯田ギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充イメージと「オタク」が持つ根暗コミュ障イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである

このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効機能する。

例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的レベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。

西谷主人公ヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しか主人公ヒロイン親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。

投稿文字数上限により、下記へ続く

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。

はじめに

ラノベ作家になりたいワナビは二種類存在する。

才能のあるワナビと才能の無いワナビである

才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。

これが意味するところは、才能のあるワナビ他人の書いた創作技術本を読んで必死トレースしたりなどしなかった、という非情現実であるノウハウ本を欲するのはいだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビ今日選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。

ラノベ創作技術本は本当に役に立つのだろうか。

スティーブン・キングプロットなど不要だと言う一方でディーンクーンツプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方世界から作らないようでは話にならないと言う。

ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。

しかし、本当に彼らの主張はバラバなのだろうか。

実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。

手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。

もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。

大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。

Hard work beats talent when talent doesn't work hard.

Tim Notke

本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点ラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的努力を実現する上での一助となれば幸いである。

ラノベ定義

本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベル新人賞に向けてワナビ執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的ラノベ定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題このラノベの本質的定義限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。

参考文献

本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。

作家名で適当に並べたに過ぎず、記載の順に意味は無い。

まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。

ラノベの読者

ラノベ作家商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田キャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビ承認欲求を満たすためにあるわけではない。

新城ラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生であるとする。飯田さらラノベの読者はアニメ漫画ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本西谷水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。

ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。

新人賞の下読みの多くは大学生バイトであり(あるいは主婦新人編集者)、選考するのはプロ作家であり、プロ編集者である。いずれにせよ選考過程中高生存在しない。

読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロ作家ワナビでは立場が違う。ワナビラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本現実中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実中高生には圧倒的にウケる20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである

行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。

ラノベ創作の段階に関する整理と比較

最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディアプロット原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。

本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家存在する。

一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。

以下、それぞれの段階についての各論に入る。

アイディア

アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語キーワードフレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである

冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディア連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。

しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。

この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方主題世界、人物、物語文体の5種であるとするし、榎本キャラクター世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体意味を持つものではないが、それぞれが独自用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。

主題

本稿では主題テーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである冲方大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。

主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚作成した主人公像の要素を深化させそこから主題抽出するとしている。榎本プロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。

このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。

繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。

この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。

設定資料集が好きな人存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語設定資料集など誰も目を通してくれはしない。

このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本主題台詞地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツ主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。

世界登場人物

本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報名前性格容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。

一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界である

いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方水島世界が先だとするし、大塚西谷登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。

しかしながら冲方大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。

冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界時代に左右されたもの」と言い、このような世界からこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性要求する。

大塚もまた登場人物個性については「キャラクター所属する「世界」の物の見方価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。

世界登場人物リアリティ

ワナビの「世界」について「リアリティ自分身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校コンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。

冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。

その一方で登場人物については、冲方はそれが主題関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島登場人物プロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初長大キャラ表を作るというワナビありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物存在していない」と断じる。

だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。

登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。

これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャート作成するのが良いとして、さらには性格趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。

ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。

最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである Permalink | 記事への反応(5) | 20:41

2014-10-10

ホットエントリーにいるよっぴーとかってのって

こいつの記事どれもこれもつまらいねほんと

昔の記事みても、ふーん。あっそ。ッて感じ。

なんかもう勢い押しなんだよなあ。最近どれもこれもそう。

おらおらーって突っ走ってきて、俺面白いでしょ、みんなそういってるよってアピールしてきて

自分世界観に無理やり引きずりこんで、顔の真ん前まで顔近づけてきて

ほら面白いでしょ、笑えるでしょ?って言ってきて、そりゃ笑うだろってレベルの笑いばっかり。

作家でも例えば筒井みたいに、文章でしっかりと笑わせることができないんだったら面白くないな。

結局勢いだもんそれ。

だいたい侍魂が一番おもしろテキストサイトって認識がもうあれだよなあ。

本当にテキストサイトあれこれ回ったの?

他にも本当に文章だけで笑わせているサイトゴロゴロしてるのに。

そういうの見てたのか?って思う。

侍魂なんか、あれ結局ツッコミしてるだけで、

テレビテロップみたいに、はいここ面白いですよってところが大文字で出てくるとか

そんなだけのサイトじゃん。

面白い言い回しとか、イメージを膨らます描写とか一切ないじゃん。

あれだけのネタを引っ張ってこれるのは才能だと思うけど、

それはそういう部類の人なだけであってあれをテキストサイト大家みたいな扱いをするのは

どうなのかと思うね。

ただ、みんなそこしか知らないだけでしょ?

ほんと底が浅い。




トラバ意見

気持ち悪いというか、面白くないのに、面白い人扱いされてるのがどうかなって思うんだよね。

今って、面白くなくても勢いとフォロワーだけで祭り上げられるような感じだし

どうなんだろうねと思うね。


ブクマ意見

結局勢いだけのコンテンツが今は注目を浴びてしまっている状態で

面白さ<勢い という構図になってるって話なのだから

どれだけ面白いものを書いたところで、勢いだけのコンテンツが注目されてしまうんだよ。

注目されるには勢いで突っ走らないといけない。

そうすると内容は浅くなっていく。

件のよっぴーという人は、既に注目を浴びてるのでやっていけてるだけ。

2014-09-14

言わせてもらう

くそっ。一体なんだってんだ。

またこんな記事ホッテントリに入っているのか。

こんな内容は俺は既に知っていた。知り尽くしていた。

まりにもある当然の事実だと認識していた。

それがため、誰でも知っていることをあえて書く必要はないだろうと思ったから書かなかったのだ。

書いていたら俺もホッテントリに入っていた。だが書かなかった。

必要になどされていないだろうと思ったからだ。

それをあの野郎は、わざわざ書いたがためにホッテントリに入ったのだ。

誰も知らないと、あの足りない頭でそう考えたのだろう。

しかし、俺はそんなことは既に前から知っていたから、あんな野郎よりはすこぶる頭も良いし

いまさら取り立ててあんなことを記事にしたりしないのだ。

なんていまいましい。いや、浅はかと言えるだろう。

あの野郎はせいぜいが点取り屋なのだ

八方美人で周りにヘラヘラ媚びへつらって、外面だけは良いからこうして毎度ホッテントリ入りするし

ファンもつくのだ。

だってあの野郎と同じ、いや、それ以上の才能を持ちうるのだ。

だけど、そんな媚を売るような生き方はまっぴらごめんだ。

そこまでして点数を稼ぎたくないし、そんなことでは真の実力は見てもらえないだろう。

所詮、同情票なのだ

本当に内容が優れているからではない。可哀想だからブクマされているんだよ。

そんなことも気づかずにあの野郎は同じことを繰り返してばかりで、どんどんファンをこさえていく。

面白いか、そんな生き方で。俺は違う。俺はそうはならない。

あの記事だってそうだ。俺が書いたらもっと面白おかしくできていた。

まつわるトリビアの一つや二つ、さらりとでてくるのだ。かなり深い記事がかけただろう。

それをなんだあの野郎は。感想は「面白い」だけなのかよ。

底が浅すぎてびっくりするじゃないか。

ファンもフォロワーも多くてさぞご自慢なことだろうが、軽薄さを晒しているだけなんだぞ。

俺はフォロワーなんかいない。だからなんだというんだ。

実直に真面目に生きている。神様は俺のことを見てくれている。あの娘もきっと…

そして最後に微笑むのは俺なのだ

あの野郎はどうせ、家族友達愛する人達に囲まれて死を向かえるだろう。

俺といえばどうだ。身よりもない。一人さみしく施設死ぬか、野垂れ死ぬかのどちらかだろう。

それでも、俺は生き方を恥じない。媚びないんだ。

俺が決めた俺の生き方なんだ。

ちやほやされて嬉しがっているような奴には到底理解できないだろう。

最後一言、言っておこう。

しにたい。









筒井っぽく書いたら気づいてくれた人がいてうれC

2014-08-05

ルネ・カントン記事が不愉快

Wikipediaから消された偉人 ルネ・カントン

http://matome.naver.jp/odai/2140706664924864501

「ただの海水で、病気が治っては儲からない」のでウィキペディアから消えている人物:ルネ.カントン-人生は強く,たのしく、しあわせに☆ ネオヒルズというよりも,ネオ日本人

http://ameblo.jp/miho-neo-japanese/entry-11903290899.html

海水療法について-CPA東郷郁三のブログ

http://ameblo.jp/cpa-togo/day-20131013.html

上の3つの記事というか、2番めの記事が3番目の記事を引っ張り出してきてネバーまとめまで作られちゃって挙句の果てにFacebookTwitterガンガンシェアされてて気持ちが悪い。

でも、思ってることを直接伝えることも、友達から消すとかそういうこともしないで何とかならないかと思ってコレ書いてる。はてな記法よくわからん

時期が来たらこれをFacebook上でシェアする。ロンダリング的なイメージ

出典である「ザ・フナイ」を読んでいないのでここに書いてあることがすべて本当だとは思わない、嘘であるとも言い切れない。

医学学んでないからそんなこともあるのかもしれない。でも、私が知っている生物学ではこれは非常に胡散臭い勉強不足なだけかもね。

引用に対する疑問

1.

彼は1907年、初めてのクリニックをオープンしてから血液の濃度まで薄めた海水病人に輸血し、1910年までにフランス国内で約70ものクリニックを開け、50万人以上の命を救った。

これは要は生理食塩水ということか。

今の点滴との違いは各種プランクトン海水中の養分の違いでしょうか。

不純物いっぱいある気がするけどそれでもいいの?

ていうか少なくとも現代環境を考えると点滴のほうが安全だと思うよ。

2.

第二の実験は、体重10キログラムの犬の血液瀉血法で抜き取り、極限まで血を抜いた後に、前回同様、海水を注入するということである

まり、極限まで血液を抜き取り、次に同量の海水を注入すると、どのようになるかという実験である

太平洋戦争末期、九州大学生体解剖事件相川事件)という事件があったらしい

捕虜を生体解剖したという事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E4%BD%93%E8%A7%A3%E5%89%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6

上記ページの関係者の記録証言より引用

捕虜の腕に海水が500ccほど注入されました。この時捕虜はまだ生きていましたが10分ほどして捕虜は死にました。

GHQ取調官:その手術は必要だったのですか?

この手術はどれだけ出血すれば人間死ぬかを見るためのものだったので必要なかったと思います

筒井シズ子看護婦

当時のそれぞれの医療レベルがどれほどだったかはわからないけれど、片や血液を全部海水に変えても問題なかった。片や500ccで死んでしまった。

犬に投与されたものが薄められた海水なら犬は極度の貧血で生死の境にあってどうにか回復したんだと思うけれど、海水ダイレクトだったら浸透圧関係でアウトじゃないの?

3.

日本語版ウィキペディアにはそもそもルネ・カントンの記事は作られていない

削除されたらされたでその形跡が残るのがウィキペディア

英語版現在存在している。

https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ren%C3%A9_Quinton&action=history

ウィキペディアに記事が作られたのは2008年6月28日

引用元ブログ記事が書かれた2013年10月13日前後編集点は2013年9月23日2014年4月4日

この間記事は記事として内容を持って存在している。

4.

第一次世界大戦で負った傷から早死にしてしまったルネの葬儀には子供連れの母親からヨーロッパ中の医者科学者首相を始め政治家など、100万人以上の人々が訪れた。

こればっかりは海水じゃ治らなかったのか、残念だ。

とりあえず、ルネ・カントン万歳している奴らはこれらの疑問に対して説明をしてくれ。

2014-06-19

那珂市議会 議員質問回数

 243月246月249月2412月25年3月25年6月25年9月25年12月26年1月
筒井 かよ子    5
寺門 厚  7
小宅 清史    5
助川 則夫     4
綿引 孝光        1
木野 広宣     4
古川 洋一9
中庭 正一      3
萩谷 俊行       2
勝村 晃夫       2
中崎 政長      3
笹島 猛    5
君嶋 寿男         0
武藤 博光       2
遠藤 実9
福田 耕四郎0
須藤         0
加藤 直行         0
石川 利秋9
木村 静枝9
海野        1
木内 良平         0

2014-06-04

好きなSF短編打線組んだ

仕事が暇なので書きました。後悔はしていない。

1中 オートマチックの虎(キット・リード)

2三 午後の恐竜(星新一)

3遊 しあわせの理由(グレッグ・イーガン)

4一 メタモルフォセス群島(筒井康隆)

5右 シェイヨルという名の星(コードウェイナー・スミス)

6左 詩音が来た日(山本弘)

7捕 たんぽぽ娘(ロバート・F・ヤング)

8二 トインビー・コンベクター(レイ・ブラッドベリ)

9投 たったひとつの冴えたやりかた(ジェイムズ・ティプトリー・Jr.)

中継 マイ・フェア・アンドロイド(岡崎二郎)

抑え 空にふれた少女(マイク・レズニック)

「それでは解説の増田さん、お願いします」

1中 オートマチックの虎(キット・リード)

SF版『山月記』。大好きなので。短いページ数ながらも切れ味のある読み応えと広い守備範囲考慮して、1番センターで起用しました」

2三 午後の恐竜(星新一)

星新一については、小粒ながら小技の利く選手が多いため、当初は2番セカンド『宇宙の男たち』で起用するつもりだったのですが、タイプの似た選手であるレイ・ブラッドベリとの兼ね合いから比較長打力のある『午後の恐竜』をサードで起用することにしました。終末SFとしての情景の美しさは随一ではないかと思います

3遊 しあわせの理由(グレッグ・イーガン)

「説明不要大正義グレッグ・イーガン先生代表作。抜群の身体能力と懐の深さを備えた守備、勝負強いバッティング考慮した結果、3番ショートでの起用となりました。全盛期のジーターみたいなもんです」

4一 メタモルフォセス群島(筒井康隆)

コメディタッチの導入部から、突然ホラーに変わる異色の短編です。放射能汚染された島に生物学者が調査に向かう話。筒井先生が『結末を考えずに書き出してみて、途中でオチ思いついた感』満載なのが笑えます。大好きなので入れました。一応星雲賞をとっているのですが、大変読む人を選ぶ短編で、ハマる人はハマる。ダメな人はダメアダム・ダンのような味わいがあります最後植物名前は作中で明記されていませんが、おそらく『カリクビ』なのでしょう」

5右 シェイヨルという名の星(コードウェイナー・スミス)

囚人たちが地獄を思わせる惑星に送られる話。4番がバクチ性の強い打者なので、ある程度確実性のある、コードウェイナー・スミス先生代表作を5番に選びました。結果、3番大正義からの4番・5番は『この世の地獄』つながり、という大変邪悪なクリンナップが形成されたのではないかと思います

6左 詩音が来た日(山本弘)

認知症患者看護をするアンドロイドの話。連作短編『アイの物語』の中の一編です。5番打者としての起用も考えたのですが、下位打線を『ハートウォーミング』つながりにしたいと考えたため、6番に繰り下げました。率も残せて長打もある、将来の4番候補。『アイの物語』は、他にも読み応えのある短編の多く、お買い得感があります

7捕 たんぽぽ娘(ロバート・F・ヤング)

「『悲運の少女』つながりで投手陣を起用しているため、彼らの球を受けるキャッチャーには、ロマンチックSF代表作を起用しました。タイムマシン未来からやってきた少女出会う話。一時期、『ビブリア~』効果価格が高騰しましたが、新訳が出たので価格は落ち着いた様子。プレミアがついてるうちに売っとけばよかったかな、という邪まな思いが頭をよぎります

8二 トインビー・コンベクター(レイ・ブラッドベリ)

タイムマシン未来を見てきたという男と、彼にインタビューをするアナウンサーの話。『霧笛でも万華鏡でもなく、なぜこの作品なのか』と不思議に思う方もいらっしゃるかと思います。ひいき起用です。SF界の吟遊詩人がつづる『嘘とはなにか』という大演説にしびれます。なお、個人的ブラッドベリ最高傑作は『ウは宇宙船のウ』の序文

9投 たったひとつの冴えたやりかた(ジェイムズ・ティプトリー・Jr.)

「『悲運の少女』その1。少女と、彼女の脳に寄生したエイリアン友情。説明不要の大投手。怪我さえなければ300勝できます

中継 マイ・フェア・アンドロイド(岡崎二郎)

「『悲運の少女』その2。人間そっくりなアンドロイドと、彼女教育する科学者の話。唯一の漫画からの選出です。マナカナ若いうちに、世にも奇妙な物語実写化するべきだと思いますオルセン姉妹ならなお良し」

抑え 空にふれた少女(マイク・レズニック)

「『悲運の少女』その3。隔離された世界から飛び立つことを夢見る聡明な少女の話。連作短編キリンヤガ』の中の一編です。ヒューゴー賞ローカス賞SFクロニクル賞・SFマガジン読者賞・ホーマー賞受賞作の鉄壁クローザー。是非とも沢村賞サイ・ヤング賞を取っていただきたい」

こちらからは以上です。

追記:好きな短編漫画でも打線を組みました。

http://anond.hatelabo.jp/20140605192918

2014-05-10

http://anond.hatelabo.jp/20140509234517

のび太から昨今のニュースを見れば、警察校長教育委員会いじめが解決するとは思えないんだろうよ。頭が悪いと言われようと。

から攻撃力+999の武器を求めたがる。

簡単に殺せる。あるいは一生不具にさせる事ができるからこそ自衛としての威力を発揮するわけで。

筒井だったか小説でもあった、全国民核ミサイルスイッチだったか核融合炉を持ち歩いて完全平和を実現する話を思い出す。

社会平和は確かに維持されるべきだけど、

自分の生死の問題で銃を持ちたいと思うやつがいることを「悪い」と断罪することには違和感があってどうしてもできない。

2014-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20140212000510

人間以外の何らかの知的生命体について考えてしまうのは、思考上のトリックに過ぎない。

「慣れ」と言ってもいいのだが、過剰な敷衍が発生してしまっている。

それは死後の世界について考えてしまうのと同様で、存在しないものについて思考しようとしている。

…という前提で言うと、そういった慣用的な思考を真似することによるフィクションというのは確かにちょっと面白いところはあって、

追求していくと幽霊神様のような存在に繋がる。

ただし、あくまでも物事の本質ではなく影のような存在であるので、囚われすぎると元々の目的を見失う危険性は常にある。

(どう転んでも「人間以外の知的生命体」はただの手段でしかない)

元々の目的

フィクション目的エンターテインメントであってそれ以上ではない。(が、君は他人を楽しませようとは思っていまい)

人を楽しませる以外の目的があるとすると、メッセージ性だが、

メッセージ性は社会全体についての問題意識が土台として必要で、君にはそういう問題意識はないように見える(のでこの方向性お勧めできない)

あるいは芸術家という位置づけならば、単に自分衝動に従っていいと思うものを作ればよい。

だが、この道は険しい道で死屍累々製作を続けることのできる財力と時間がなければ早晩潰えるし、個人資本ではクオリティの向上が見込めない。

死ぬまでがんばってもしょぼいものしか作れない。(新海誠みたいに自分で絵が描けるとちょっと違ってくるんだけど)

個人でできる創作活動とすると小説家もっとコストパフォーマンスがよいのではないか。

狂った幻想をどんどん撒き散らせる職業としては漫画家なんかもいいんだけど、これも画力要求されてしまう。

だいたい読んでいて頭痛がしはじめる作家で言うならば、新井素子筒井康孝が君の考えていることに近い。

山田正紀なんかもかなりイカれている。

70年代くらいの日本SFを読むといいんじゃないか。

2013-07-18

参議院議員選挙についての雑感――自民党ブラック企業

若い世代の方にとって、今回の参院選ではどういうことが話題になったでしょうか。「ブラック企業」と名指しで批判されることも多い、ワタミ渡邊美樹候補を自民党擁立したことでしょうか(ここではワタミが実際に「ブラック企業であるかどうかは問いません)。

ブラック企業」と呼ばれる企業は、労働基準法抜け道をつかい若い労働者を長時間働かせます。もちろん、低賃金で、です。そのような扱いを受けた労働者のなかには、体調を崩し、「うつ病」に近い状態になり働けなくなってしまう人もいれば、自殺をしてしまう人もいます。「ブラック企業」は、どうしてそんなひどいことをするのでしょうか。

ブラック企業」の経営者は、国内や国際の市場における競争に勝つためには、経営努力必要であるといいます。つまり、売上を増やし、売上をつくりだすために必要コストを最大限に下げるのです。際限なくコストを下げようとするとき、まっさきに削られるコスト人件費、つまり労働者賃金です。

そんなひどい低賃金長時間労働をさせられるのなら、退職すればいいじゃないかもっといい会社転職すればいいじゃないか、そうすれば「ブラック企業」などなくなってしまう、と考える方もいるかもしれません。

しかし、現代就職難の状況では、生活していくためのお金を稼ぐために、厳しい労働環境職場を選択しなければならない人々がたくさんいます。誰かが退職しても、いくらでも新しい労働者が「ブラック企業」に供給されるからこそ、「ブラック企業」のようなやり方を続けていくことができるのです。「ブラック企業」は、「お前がやめても代わりはいくらでもいるぞ」と労働者恫喝します。だから労働者労働環境改善するような声を挙げることが非常に難しくなってしまます

まり、「ブラック企業」で働く労働者には、企業の言いなりになって奴隷のように働くか、退職して厳しい求職活動を行っていくかの2択がつきつけられるのです。背に腹は代えられません。いくら低賃金でも、お金がなければ日々を生きていくことはできません。その結果、労働者自分の自由を犠牲にしてでも、ブラック労働環境で働きつづけることを余儀なくされます

さて、一部からブラック」と呼ばれる渡邊美樹候補は、こんなことを言っています。つぎの演説をみてください。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/90354

この演説のなかで彼はこう言っています

日本のこの国を立て直すとしたらですよ。確かに社会保障費、そう動かせないお金もありますしかし半分にしたらですよ。この国、立ち直るんですよ!」

国には、たしかに「経営」としての側面があります。その点では、国の運営にかかるコストを少なくすることが大事でしょう。

ワタミ渡邊美樹候補は、会社経営を合理化するように、社会保障費を縮小し、国の経営を合理化したい、と言っているのです。

社会保障費」は、働けなくなった人、病気をした人、高齢者などの生活を支えるための重要費用です。すこし前に、生活保護不正受給が問題になりましたが、実際のところ、生活保護不正受給というのは、全体のわずか1.8%にすぎません(2010年データ)。もちろん不正受給は許されるものではありませんが、専門家は、生活保護に関してはむしろ、本当に生活保護必要な人に支給できていないことが問題だと指摘しています。つまり、実際には生活保護必要なのに、生活保護が支給されていないケースが非常に多いのです。

このように考えると、渡邊美樹候補の主張に疑問を感じる方も多いのではないでしょうか。

からワタミ渡邊美樹候補を批判しつつ、彼を擁立した自民党を支持するという意見を聞くことがあります

しかし、そのような立場は本当に正しいのでしょうか?

国の経営を合理化し、国際競争に勝つために労働基準法そっちのけで労働者使い捨てるいわゆる「ブラック企業」の精神は、現在景気を回復させはじめた経済政策アベノミクス)を武器に、さまざまな労働改革を行い、社会保障を引き下げ、生活することすら困難な日本に住むマイノリティを排除しようとする自民党精神と同じであるように私には思えます

いわゆる「残業代ゼロ法案」であるホワイトカラーエグゼンプションを推進したり、企業労働者解雇やすくする解雇規制緩和を推し進めようとしているのは、自民党です。安倍首相は、アベノミクスによって60万人の雇用をつくりだしたと主張していますしかし、実際に増えたのは非正規雇用が116万人であり、正社員は47万人減少しているのです。国の経営合理化によって、今後も不安定な非正規雇用を強いられる傾向は、今後どんどん高まっていくのではないでしょうか。

そのほかにも、自民党憲法を改正し、立憲主義の原則を取り壊し、これまで保障されてきた基本的人権を縮減し、自衛隊を「国防軍」として位置づけることによって、日本軍事力を明確にもつことができるようにしようとしており、その点でも多方面から批判されています

しかし、それでもなお、自民党経済政策に期待する声があります

そういう人は、おそらく次のように考えているのではないでしょうか?

―― 「国際競争のなかで日本が負けてしまったら、大変だ。うちの会社がつぶれると、自分も食えなくなる。だから自民党の多少の欠点には目をつぶって、日本をうまく経営してもらいたい。それが結局のところ、自分利益にもつながるのだ」、と。

しかし、この考えは、「うちの会社ブラックだけど、自分サビ残してでも何とかしないと、自分の職がなくなるから困る。食えないのは困るから、ここで働くしかない」という、「ブラック企業」で働くことを余儀なくされている労働者の考えとまったく同じです。

ブラック企業」やそれに近い労働環境で働く人たちは、自分のことを「社畜」などと呼んで、ブラック労働環境ネタ化して、無害化することがあります。ならば、「ブラック企業」と類似した考えによって行われる経済福祉政策を肯定する人たちは、自分のことを「国畜」と呼ぶのでしょうか。

社畜」「国畜」などとネタ化すると、本質が見えなくなります。それは、たんに「奴隷」なのです。賃金がなければ、お金がなければ生きていけないから、基本的人権は制限されてもしょうがないし、社会保障はどれだけ削られてもしょうがない、という考えは、お金という鎖につながれた奴隷以外のなにものでもありません。

無理やりの原発再稼働、ブラック企業正当化国防軍必要だという声。これらに共通するのは、恫喝ものごとを動かそうとすることです。権力者はつねに次のように言います。「原発を動かさないと経済ダメになるぞ! 労働基準法など守っていては国際競争に負けてしまうぞ! 中国韓国に侵略されるぞ! 」、と。

このように、危機に乗じて威圧的論理をつかい政治を動かそうとすることを、ナオミ・クラインは「ショック・ドクトリン」と呼んで批判しました。

もっと簡単にいえば、それは「(現在の危機に対して)いつやるの? いまでしょ! いまやらなければ、さもないとひどいことになるぞ!」という論理です。

こういう論法は非常に威勢のいいものです。たしかに、いますぐ何かをやって、変えてくれそうな気がします。しかし、その一方で、「いま」の危機がどういうものであるのか、という点は覆い隠されてしまます。たとえ国際競争に負けるからといって、過労死者をだすような労働環境正当化されるでしょうか。たとえ経済ダメになるからといって、活断層の上にある原発を動かしていいものでしょうか。

その意味で、例の「いつやるの? いまでしょ!」の人は時代の申し子というか、およそ考えうる最高の(最悪の)タイミングで出てきたわけです。

少しうがった見方をすると、ワタミ渡邊美樹候補というのは、今回の参議院選挙における自民党支持のための逆説的装置なのではないでしょうか。

まり、こういうことです。――世の中では、自民党の勢力が強いらしい。かといってその流れに単に乗るだけでは自分は「自由」ではない。しかし、ワタミ渡邊美樹候補を批判することができる私は「自由」であり、自分で「主体的に」政治についての情報を得ている。だから私は政治を「知っている」。 このように考えることができるというわけです。

要するに、「ブラック企業」といわれるワタミ情報インターネットから得て、それを批判することによって溜飲を下げ、安心して「自由な主体」として自民党を支持できるというわけです――「私は自民党にどっぷり浸かっているわけではない、批判もしている。それゆえ私が自民党を支持することは自由の証である」、と 。

しかし、そのような「自由」は本当の意味での自由でしょうか?

この参議院選挙のあと、自民党憲法改正にむけて大きく舵を取ります。彼らの改正案は、どういうものでしょうか。

その一番の特徴は、基本的人権を守ろうとする姿勢が大きく後退していることです。たとえば、自民党改憲案では、表現や集会や言論の自由は、たしかに保障されていますしかし、この自由は「公益及び公の秩序を害することを目的」とする場合には、保障されません。この規定によって、たとえば今の政府についての批判を行うことが「公益及び公の秩序を害する」と権力者が判断すれば、そのような批判は制限されてしまます政府を批判することすらできなくなってしまう可能性があるのです。

もちろん、批判する必要のないほど完璧政府であればいいでしょう。しかし、日本に生きる全員にとって「完璧政府」などというものが、はたしてありうるでしょうか。

それでも、景気の回復だけを理由に、自民党を支持することができるでしょうか?

こういう逸話があります

ある男が暴漢に拳銃をつきつけられ、「自由か死か!」と問われますふつう、死にたくはないですから、「自由」を選びますしかし、「自由か死か!」という二択を迫られたときに「自由」を選んでしまうことは、その選択を暴漢から強制されることにほかなりません。ならば、その男は、自分が自由であることを示すためには、「死」を選び、自由を放棄するしかありません。こういう逆説がいま、現実に起こっているのです。

経済政策武器に、私たちの自由を奪うような憲法改正を行うとする自民党を支持することは、自分が自由をもっていることを示すために、表現の自由も思想・信条の自由も、さらには基本的人権すら売り渡すことに他ならないのです。

実際に、いままさに私たちの「表現の自由」が制限されはじめつつあります。興味のある方は、次の記事をしっかりと読んでおきましょう。

http://kiikochan.blog136.fc2.com/?no=3113

世界歴史の至るところで、私たち私たちの「自由」を獲得するために、数多くの努力を行ってきました。その結果が、現行の憲法の「思想及び良心の自由(第19条)、表現の自由(第21条)、学問の自由(第23条)」です。こういった自由は、おそらく、あっさりと奪われてしまます。そして、こういった自由をふたたび取り戻そうとするときには、数多くの血が流れることは間違いありません。そのことは、歴史証明しています

すでに長くなってしまいました。

しかし、もう少し伝えたいことがあります

ここまで読んできてくれた方のなかには、「いや、そうは言っても外交問題などは、自民党以外にはまかせておけない」と言う方がいるかもしれません。

ところで、今の若い世代の方のインターネット上の発言をみていると、少なからぬ方が、いわゆる「2chまとめサイト」(「痛いニュース」「保守速報」「アルファルファモザイク」など)のURLSNSに貼り付け、それを情報源として政治について語っていることがよくあります中国韓国北朝鮮といった東アジア外交問題に関しては、とくにその傾向が強いように感じます

しかし、そのような「2chまとめサイト」を情報源として利用することは、とても恥ずかしいことだと私は思います

なぜなら、いわゆる「2chまとめサイト」は、その名の通り「2chで話題になったことをまとめた」ものではないからです。

この点について興味のある方は、次のURLを参照してください。

http://anond.hatelabo.jp/20130705113110

若い世代の多くの方が、「2chまとめサイト」をTV週刊誌などのマスコミから伝えられる情報とはちがった「自分で手に入れた真実情報」として受け取っていますしかし、「2chまとめサイト」は、その話題を提供するプロセスから、その記事作成に至るまで、実はごく少数の人物によって管理されているのです。

多くの「2chまとめサイト」は、嫌韓民族差別ネタを娯楽のようにパッケージ化して私たち提供しています。本当に愚かなことですが、「差別」はもっとも簡単に娯楽になるのです。差別を娯楽として提供することが一番PVを稼げるから、結果として思想的な偏向を生み出しているわけですね。

しかし、その娯楽を享受し、そのURLを嬉々として貼り、情報/娯楽として消費する行為は、まるで、いとも簡単に餌につられ、その餌に群がる昆虫のようではないでしょうか?

少し、個人的な話をさせてください。

私はたぶん2chとの出会いは早かったほう(たしか2000年)だと思います

2ch最初に見たとき、歯に衣着せぬ酷い書き込みの嵐に、「あ、これが筒井康隆が言っていた「ブラックユーモアは厳しい自己認識の手段である」ということなんだな」と思いました。そのことをよく覚えています

作家筒井康隆の作品には、さまざまな差別ネタや障害ネタが登場します。そのため、筒井は「2ch以前から一人で2chみたいなことをやっていた人」のように言われることがあります

しかし、彼の作中での差別や障害ネタは「差別を見て笑って/楽しんでしまう私のおぞましさ」を発見するための装置なのである、と筒井は語っている。私たちは、いくら「差別はいけない」と思っていても、実際に差別を目にしてしまったときに、笑ってしまう、その差別を楽しんでしまうことがあります。そういう「私」のおぞましさを発見させてくれるのが、「厳しい自己認識の手段としてのブラックユーモア」だということです。

文学価値としてはパロディよりもブラックユーモアのほうが高いとされている。なにしろ ブラックユーモアは16世紀のイギリスで発生してこのかた5世紀というスウィフト以来の伝 統を持っていて、それはすなわち死体をもてあそび、宗教冒涜し、病人をいたぶり、糞尿を 好み、身障者を笑いものにし、極端な人種差別をするというものであることはご存知のとおり である。それはまさに人間が、人間であることによって否応なしにもたされた醜さをすべて暴 き立てられ、鏡のごとく自分の醜さに対面させられ、叫ぼうがわめこうがどうしようが、それ を自らの笑いによって証明させられて認識せざるを得ないという、いわば厳しい自己認識手段 なのである。この伝統を守り、20世紀の日本などという建前社会おいて消滅させたりして はならないと孤軍奮闘してきたつもりであったが、今や世の底流はほうっておいてもブラック ユーモア指向しはじめた。「偉い人」だの「尊敬すべき人」だのといった言葉が出てきた限 りは、以後そういうことを言い出した人自身が自分の醜悪さの中にまみれてもらわねばならな い。どうやらまた何かしら倫理を作ろうとする連中がちらほらしはじめている。人間人間倫理など作れるほどの偉いものなのかどうか、自分の魂の地獄サイコダイバーとなっており ていってもらい、じっくり見てもらおうではないか。もちろんおれも一緒だ。安吾先生ではな いが、堕ちるところまで堕ちた人でないと倫理の何たるかすらわからない。

(『笑犬樓よりの眺望』http://sound.jp/kita-g/black.htm より引用)


初期の2chには、おそらく「厳しい自己認識の手段」としてのブラックユーモアがあったように思いますしかし、現代の「2chまとめサイト」は、その差別ブラックユーモアを単に娯楽として消費されるようにパッケージ化しています

こういったサイトの「情報」をもとに、政治の話をするのは、もうやめにしませんか?


最後に、映画監督想田和弘さんと、哲学者木田元さんが今回の参院選について語った言葉引用しておきます

マジでおかしいよ、自民党マジでブラック化している。 」

「僕は別に自民党に恨みがあるわけじゃないんだけどいまだに原発進めたり海外に売ったりTPP公約違反を犯してだまし討ちで進めたりトンデモ改憲案を出したり軍法会議検討したり生活保護切り崩したりワタミ会長公認したりとあまり最近ブラック過ぎて絶対投票するのはやめて欲しいと言いたい。 」

時代には勢いがあります。今ならば、ちょっと右寄りの方がかっこいいとか、そろそろ憲法改正必要だとか、昔日の日本の威光を取り戻そうとか、そういう動きですね。それらに安易同調したり、勝ち馬に乗ろうとしたりすると、とんでもないことが待っているかもしれない。… 戦前日本孤立を決定づけた国際連盟からの脱退に国民拍手喝采しました。その愚を繰り返さないように立ち止まって考え、『勢い』をチェックして、場合によっては抑えることが必要でしょうね。賢さと言い換えてもいい」

http://

2013-07-12

http://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/p-bb-tp3-20130712-1155943.html

筒井一成監督(41)は「試合で倒れるなんて初めてです。何をやっているのか」とあきれ顔だった。

埼玉県高野連・高間薫専務理事(58)は「ちょうど期末試験が終わり、体が慣れていないんじゃないかな。対策を考えないと。毎日これでは困る」

開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。

こいつら熱中症ナメすぎだろ!

2013-07-11

http://anond.hatelabo.jp/20130709003731

増田はその『ヨハネスブルグの天使たち』が「作法強要する」小説だって言いたいんじゃないの?

場末ブラウンやら筒井やらビッスン持ち出して風刺だの予言だのチマチマクダ巻いてるだけなら

普段通りの「あっ変なおっさんがいるな」程度ですんだのにな。

問題について語れるだけの知識も得ようとせずに紛争だの民族だのにモノ申したがり、そのくせその内容が

舞台外国ですごいと思った」「戦争はいけないと思った」の小学生読書感想文レベルじゃあねえ…

2013-04-21

アルジャーノンに花束をダニエル・キイス

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4151101012

SF古典であると言われる本書でありますが、そうでなくとも昔に話題になった作品なんじゃないでしょうか。ちょっと前に日本でもなぜかドラマ化されてユースケサンタマリア辺りが主演でやっていたようなかんじ。

海外SFを読み始めようと思って有名作品を手当たり次第よんでるねんけども、これも読みたいなぁと思っていて、ふと家の本棚を見たらあった。誰や買ったの。

内容としてはSFといえば宇宙だのタイムマシンだの思い浮かべる方が多いでしょうが全然そんなのではなく、純粋空想科学小説であり、且つ、知能とは何かを問いかけるような哲学的な思想もふまえた作品である、とかいう感じでしょうか。

話は主人公であるチャーリーゴードンの手記(というか報告書)によって読み進められていくという形式になっている。

知能が高いと言うことは、果たして良い事なのか、等考えさせられる作品。そしてとても切ない気持ちにさせられます

途中中だるみする部分もありーの、最初の方は読むのがしんどい部分もありますが、名書であると言えるんじゃないでしょうか。悲しくはなったけど、泣けはしませんでした。映像作品なら泣いてるな、と思った。SF初心者の方々は是非読みましょう。

残像に口紅を筒井康隆

http://www.amazon.co.jp/k8bPcf06bSe3-05092-%E7%AD%92%E4%BA%95-%E5%BA%B7%E9%9A%86/dp/4122022878/sr=1-1/qid=1162125763/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

なんか「○○に××を」みたいな題名ばっかりですが、筒井康隆の中期くらいの長編作品です。別にまだ生きてはるんで、中期もくそもないんですが。筒井康隆名前はちょくちょくあがりますが、確実に言える事としては、短編ジュブナイルは読みやすいが、長編は読みにくい、という事。短編ジュブナイル中高生若者ターゲットに絞った小説のこと)が読みやすいのは辺り前といえば当たり前なんですが、筒井さんの長編難解な事で有名でありまして、それが逆にファンを作ってる見たいな所があって、結構どたばたな内容で、よくわからんまま終わってしまうこともあるわけなのです。よくわからんってことも別に無いけど、想像力を最大限に働かせないとついていけないって所はある感じ。まあ普通の人が読んだら、何これ意味わからん、といって切り捨てるでしょう。「残像に口紅を」はそういった筒井長編の中では、かなり実験的な試みがなされている内容になっていて、有り体に言えば「一章を進む事に、1文字ずつ使える文字が減っていく」というトンデモな内容となっているのである

当然文字が消えれば小説なので、その文字で表す事のできる事象、物、人物名などすべて表記が不可能となり、作中から存在のものが消えてしまう。消えたもの意識化では思い出せるが表現ができないので、それこそ残像のような形になってしまうのだ。

また、作中はメタフィクションな構成になっており、作中人物が、自分がいるのが小説の中であると言うことを認識して、文字の無くなった世界でこういう事をやってみるのはどうかなど、提案したりしてより実験度が明るみになるような内容になっておりおもしろい。

しかし、使える文字が半分以下になっても、しっかりと文書を構築できる筒井さんの語彙の深さには恐れ入るばかりなのです。小説家を目指す人はこういう事ができるようにならないと行けないらしいので、一度読んでみましょう。

13階段高野和明

http://www.amazon.co.jp/13%C2%968ekb5-%E9%AB%98%E9%87%8E-%E5%92%8C%E6%98%8E/dp/406274838X/sr=1-1/qid=1162132308/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

これかなああああああああああああああああああり前から気になっていて、映画化されたやつも見たかったけど、見る機会なくてやっと文庫買って読んだってやつ。前にも書いたよね。よね。ですよね。でもないんですよね、どこにも。

内容は松本清張宮部みゆきが書きそうな感じのミステリって感じで、二転三転する展開構成はおもしろいです。話もうまいこと出来てます。後は、現在日本死刑制度とか裁判制度とかそいうった所に焦点をあてていて、まあ社会派サスペンスって部分も兼ね備えている大人のミステリって感じですね。

読んだ後少し陰鬱な気持ちになるような感じかしら。そうでもないけど。

しかし、話はようできていておもしろいです。一度読んでみる価値はあり。二度は必要なし。

七回死んだ男/西澤保彦

http://www.amazon.co.jp/N03Vdek7b093060u37-%E8%A5%BF%E6%BE%A4-%E4%BF%9D%E5%BD%A6/dp/4062638606/sr=1-1/qid=1162126718/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

これはなんとも新しいというかなんというかな設定の本です。この西澤さんという人は、SF的な設定での「縛り」を設けて、その設定の中でミステリを書くというすごい人らしい。本作の主人公パラレルワールドを関知できる、というと語弊があるが、時間の繰り返しを認識する事ができるという能力を持っている。これは同軸時間上に異なる次元が平行で存在するという科学概念があってこそ成り立つ仕組みなんでしょうが、要は同じ日が何度も繰り返されてしまい、その事に気づいているのは自分だけであるという設定になる。このSFばりばりな設定上で、主人公の祖父が殺されてしまい、祖父を助けるべく時間が繰り返される度に試行錯誤を繰り返す、といった物で、まあミステリといってしまうと、そんな物でもないんですが、ラストには驚くべき謎が残されていたりして、そんなこととは思わず読んでいたらびっくり、てな具合でした。

設定もおもしろいが、話も計算されていて、尚かつヒントや複線はそちこちにちりばめてあるという素晴らしい構成。いや、こういうのすごい好きです。SFミステリが同時に楽しめるのだから二倍お得。文章はちょっとライトノベル風って感じではありますが、さらっとギャグはいったり、随所で笑わせてもらえます

他の作品もそれぞれ違った縛りが設定されているので、今後西澤さんの本も読んでいきたい所。

ハサミ男殊能将之

http://www.amazon.co.jp/0cf0b50dfu37-%E6%AE%8A%E8%83%BD-%E5%B0%86%E4%B9%8B/dp/4062735229/sr=1-1/qid=1162131520/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

いや、これはすごい。この作品はメフィスト賞受賞作品の中でも評価が高く、所謂叙述トリックものである、という前評判を知っていながらもまんまと騙されて、頭が混乱させられた。

まあミステリたくさん読んでる人からしたら大したことないわって感じなんかもしれませんが、これは京極夏彦並、とまではいかんけど、宮部みゆきよりはすばらしいです。あ、比較対象がわるくてあんますばらしくないかも。

設定も斬新で、「ハサミ男」とマスコミから呼ばれている連続殺人犯である主人公が、次に殺人しようと狙っていた女学生を、別人に自分がしてきた手口とまったく同じやり方で、先に殺人ををされてしまい、真犯人を見つけるべく捜査を開始するという、トンデモ設定であります

ハサミ男」というとジョニーデップのシザーハンズなんかを思い出しますが、こちらの方はハサミをのどに突き立てて惨殺する連続殺人犯という設定なのだから、いったいどう収拾つけるのか、展開がまったくよめずハラハラドキドキで、最後にドーン、みたいな。

綾辻行人とか、本格推理系が好きな人は一度読んでみて下さい。これは絶対読み返したくなる。ざったい。はざみ。すみとみ銀行

邪魅の雫京極夏彦

http://www.amazon.co.jp/%C2%90aa%C2%9B4506e%C2%96eb-%E4%BA%AC%E6%A5%B5-%E5%A4%8F%E5%BD%A6/dp/4061824384/sr=1-1/qid=1162132608/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

言わずと知れた、待ちに待った京極夏彦です。発売当日に買って、一ヶ月もかけてやっと読み終わりました。

いやはや、うーん。何はともかく京極ワールドといった所なんでしょうが、やはりこの京極堂シリーズは少し迷走しているというか、方向性が変わってきてる感がぬぐえない。

ただ、今回は「小説」としては楽しめるんじゃないでしょうかね。毎度の妖怪うんちくや、蓄積された謎と複線の解明とか、そういったモノがないといえばないんで、京極ファンとしてはちょっと肩すかしって感じでしょうか。

話にしても構成にしても、人間がたくさん出てきて、時間軸が読めなくて、不思議がもわもわ沸いてくるという辺りは毎度のごとく、さすが京極というような内容ではありました。どちらにせよ京極夏彦のすごい所は単発の話のおもしろさは当然の事ながら、内容の連鎖制というか繋がりというか、壮大的な世界構成といった所にあると思うので、やっぱり最初から読んでるファンじゃないと楽しめないよなぁとつくづく思うわけである

でも、巷説百物語シリーズとかはほんまに名作だと思うので、まわりに薦めて行きたいけど、それを読むには前知識として、他の京極堂シリーズ等を読んでいる必要があるので、少しハードルが高めなのが残念。

まあ、でもいいっすよ、京極夏彦。好きな作家の一人です。

なんかたくさん書いたよ。まったく。書く意味あんのかな。

それはそうと寿司が食いたい。すししししししし。

握るやつでもまわるやつでもなんでもええわ、と思ってしまうあたり

俺は大してグルメじゃないなぁと思う。そんなもんか。SUSHI-。

2012-12-18

有職主婦専業主婦、( 世帯所得を調整しても )幸福度専業主婦の方が高い

http://anond.hatelabo.jp/20121218234351

その統計からは読み取れないよね。

自分が挙げた統計から読み取れる事実と、そこには一切書いていないただの自分の思い込みや願望を混ぜて書いて

専業主婦幸せだ、というのは、元エントリの下の方にありますが、↓のリンクにかかっています。 見ました?

最も幸せ日本人像は「30代専業主婦!? http://allabout.co.jp/gm/gc/198309/2/

所得を調整しても、同じように有職主婦幸福度は低く、筒井教授はこれを「労働が不効用をもたらしているのではないか」、つまり、働くことがストレスになっているのではないか、と結論している。

2012-11-12

小説史」なるもの

概要レベルでいいので把握したいんだけども文学史とか文学クラスになると頭パーンてなるので

簡易的なものを誰か勧めろ下さい。

今のところ読破したのはwikipediaの「小説」の項目と筒井の唯野教授

加えて何を読めばよろしいでしょうか教えてエロい人。

2010-10-28

面白かった小説

http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/3061585.html

これに便乗して一部をリストアップ

森絵都    「DIVE!!」「宇宙のみなしご」

加納朋子   「モノレールねこ」「てるてるあした」「レインレインボウ」「ななつのこ

川上弘美   「光ってみえるもの、あれは」「せんせいの鞄」

松村栄子   「Talkingアスカ

さだまさし  「解夏」「眉山

飛鳥井千砂  「はるがいったら」

よしもとばなな「キッチン」「ハゴロモ

梨木香歩   「家守綺譚」「沼地のある森を抜けて」「裏庭」

五十嵐貴久  「パパと娘の7日間」「1985年の奇跡」「2005年のロケットボーイズ

浅田次郎   「月のしずく

・雫井修介   「クローズド・ノート

・松木剛史   「きみはジョッキー

恩田陸    「夜のピクニック」「ドミノ」「蛇行する川のほとり」

瀬尾まいこ  「卵の緒」「幸福な食卓」「天国はまだ遠く

江國香織   「なつのひかり」「神様ボート

豊島ミホ   「エバーグリーン」「夜の朝顔

・黒野伸一   「かもめ幼稚園

中村航    「あなたがここにいて欲しい」「絶対、最強恋のうた」

山本幸久   「幸福ロケット」「美晴さんランナウェイ」

荻原浩    「メリーゴーランド

梶尾真治   「波に座る男たち」「サラマンダー殲滅」

関口尚    「君に舞い降りる白」

重松清    「きみの友だち」「みぞれ

有川浩    「阪急電車

朱川湊人   「花まんま」「わくらば日記

中沢けい   「楽隊のうさぎ

村山由佳   「星々の舟」

宮部みゆき  「地下街の雨」

小川洋子   「凍りついた香り」

梨屋アリエ  「プラネタリウム

乙一     「さみしさの周波数」「GOTH

市川拓司   「そのときは彼によろしく」「いま、会いにゆきます

群ようこ   「かもめ食堂

辻内智貴   「青空ルーレット

上橋菜穂子  「獣の奏者」「狐笛のかなた」

大崎善生   「パイロットフィッシュ

湯本香樹実  「春のオルガン」「ポプラの秋」

佐藤多佳子  「しゃべれどもしゃべれども

水森サトリ  「でかい月だな」

筒井康孝   「夜を走る」「パプリカ

藤野千夜   「少年少女ポルカ」「ルート225」

多すぎた。読んだらどれも面白いなあって思ってしまうのはよくないと反省

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