はてなキーワード: 穿ちとは
横だけど父親の件に関して思ったんだが、これ女性差別は関係してなくもないけど切り分けた方がいい問題なのかなって思う。
というのも、性犯罪被害じゃなくっても親は痛い思いした子供に罵声あびせがちだから。
いや、親だけじゃないな。何かの被害者に近しい人が被害者に対して最も辛辣な言葉を投げつけるというのはあるある。
私の周りだとむしろ「大丈夫?」など素直に心配やいたわりの声かけを一番にする人の方が珍しいくらい。
多くの人は被害者の落ち度を詰る。
人間というのは、他人に弱り目に祟り目ってな仕打ちをしたい願望を生まれつき持ってるんじゃないか?というのはさすがに穿ち過ぎかな。
思うに、身近な誰かに何か災難がふりかかったせいで自分の穏やかな日常をぶち壊されたストレスを、一番手近な弱者、すなわち被害者本人に当たり散らす。そういう風にして心のバランスを取ろうとしているのだろう。
まぁあの夫は鬱の兆候は感じるけど
誕生日も妻がケーキやプレゼント買い出しも飾り付けも料理も全部自分でやる
暗い顔の夫にする気づかいは家事をさせないことではなく、心配とその心情に寄り添うことではないですか?もちろん朝の描写でそこまでやれとは言いませんが、心配するそぶりもなく自分がやってほしいことだけ主張しているのは、どうにもいい状態には思えない。
夫が暗いから妻も暗いというのも、健全な関係とはかけ離れていると思うし、誰もそうするべきなんて主張はしてません。それこそ穿ちすぎです。
そもそも、夫が本当に鬱であるのなら妻だけでも明るい顔をするべきという主張はわかりますが、あのCMで夫が暗い顔をしているのは鬱だからではなくて妻の態度や自分の家庭内での立ち位置に疑問を持っているからだと思うのですが。
それは穿ち過ぎでしょう。
基礎研究は短期的には金にならないから、外国にやってもらって、日本としては、外国が育てた後で、応用段階から参加して、とっとと産業化して、確実に効率的に金を産む産業に育成しようってことでしょ。
文化政策なんかでも、文化そのものの保存が目標ではなく、その文化を使っていかに金を産んでもらうかという視点で扱われるようになってる。
日本人の庶民メンタルも、そういうことをナチュラルに支持するようになってきてると感じる。
(自分達も金にならなきゃ切り捨てられると感じているので、研究とか文化とかもいかに金を産むかという観点で扱われないと気に食わない)
元増田ははてなによくいる父親やその親族とはほぼ絶縁してた、って立場なんじゃないの
「叔父は仲が悪いから呼ばない」「父親の友人は私や母親からしたら赤の他人」と言う言葉に色々現れてる
つまり父方親族とは自分も母親も仲が悪いし、父母共通の友人とか家族ぐるみの付き合いの友人、ってのもいないわけだ
それを踏まえて、死んでからこう扱ってやったぞざまあみろ!という父親への復讐心さえ感じるというのは穿ち過ぎでもないはず
一か月後の旅行の話をわざわざ書く辺りもね
「親が死んでも全然悲しくなんかなくて旅行の方が遥かに大切な私」という露悪的なアピールしてる
そういう関係ならありだろう
これからここに書くのは、昨日一昨日のアイドルマスターシンデレラガールズ4thライブのサプライズゲストについて、一昨日から騒ぎになっている事への愚痴です。
ただ、自分は本当にこの件について一昨日からモヤモヤとしたものを抱えていたんだ。
長文になるし勢いのままに書くから読みづらいと思う。許してほしい。
知らない人にざっくり説明をすれば、昨日一昨日とアイドルマスターシンデレラガールズという作品のライブが行われて、サプライズゲストとしてほとんどライブに来ない人が呼ばれたんだ。
それも、ものすごく待望されていた人で、ツイッターではその人が演じるキャラの担当プロデューサーで現地もLVも行かなかった人たちがお通夜状態になった。
その人が来ると知ってたらチケット取ったのにと言う声や
運営に対して、こんなサプライズ最悪だから2度とするなと言いだす人
増田は、この流れに対して、本当に腹を立てている。
自分がいかない選択をしたことに対して、2度とするなと言いだす自分勝手さや
担当が出たことへの喜びよりも自分の事を優先する身勝手さが本当に腹立たしい。
多忙な人が頑張って時間を作って出てくれたのに、担当Pがそんな反応だったら、演者の方は嫌な気分になるだろうと思う。
そんな反応を誰でも見えるところで発信しないでほしいと思う。
そのせいで2度と呼ばれなくなって、不幸気取りするつもりなら見えるところで存分にすればいいと思うけど、そうじゃないなら見えないところでやってくれ。
自分がここまで腹を立ててる理由の一端として、そうやって嘆くPの身勝手さもそうなんだけど
「担当が出ると知ってたら行ったのに」という彼らに取っては何も意識してないであろう発言に対しても怒ってる。
このことに言及したツイートをした人なんかは該当Pやそうじゃない人から賛否両論で色々言われてるけど
担当がいるからライブに行くのは当然だよ。それはどのPだってそうだろう。
ただ、自担以外も誰かがプロデュースしている誰かの担当なんだって事を忘れないでほしい。
アイドルマスターシンデレラガールズという作品は、最近だと中居くんがCMをしているスマホのリズムゲームなんだけど
その歴史を遡れば、モバゲーで展開していたソーシャルゲームで、200人を超えるアイドル達をプロデュースして育て、トップアイドルにするゲームで、今年で5周年を迎える。
まぁ、要はたくさんのアイドルが出てくるゲームで、1年前にアニメ化もしていた。
アイドルが出て来る作品でいえばラブライブとかが思いつくだろうけど、ラブライブと違って、キャラ数が半端なく多くて、その中にモブなんていなくて、200人を超えるアイドル一人一人に、その子をプロデュースして愛情を注いでいるプロデューサーがいる作品なんだ。
増田は今年で5年になる、サービス開始時からずっと追いかけてるプロデューサーで、所謂古参にあたると思う。
自分の担当アイドルはSSA1日目の子だったんだけど(具体的に書くと担当アイドルの名前に傷がつくから伏せさせてくれ)増田はこの子のCDデビューのために総選挙で毎回人に言うのも憚られるほどの金額を投資してきた。声帯がついた時は本当に嬉しかったし、ボロボロ泣いた。
この5年、その子のPとして活動する中で、上位を安定して走るためだとか色々理由をつけて、とりあえずガチャが更新されたらまわしたりもした。
そんな中で、担当以外も愛しくなるし、けど担当を名乗るには愛が足りない、なんて事も思ったりしながら楽しんでいたんだ。
アニメのときなんかはどの子が喋っても感動したし、アニメでサプライズで声がついた担当Pおめでとう、と自分のことのように嬉しくなったりもした。
もちろん、たくさんのアイドルが出ると言うことは人気な子やそうじゃない子もいる。
だけど、みんな違ってみんないいし、自分の担当をシンデレラとしてトップアイドルにしたい気持ちはどのPも同じだと勝手に増田は思ってる。
1日目は、声帯がついてから初めての舞台だったアイドルが多い日で
翌日の2日目公演がアニメで主役のグループの子で固めた日だった事もあって、アニメから始めたプロデューサーなんかはこぞって2日目を求めたし、2日目出演の子達は総選挙でも上位の子ばかり。
SNSのチケット交換は1日目チケットと2日目チケット交換してくださいの募集ばかりだった。
1日目公演が軽んじられているような気持ちは、公演前からあって、それが騒動で爆発した感じだったんだ。
そんな開催前からモヤモヤとした部分はあったものの、ライブは最高だった。
本当に、最高の舞台だったんだ。どの子も素晴らしくて、増田は頭が痛くなるくらい泣いた。
それなのに、家に帰ってツイッターを開いたら、サプライズゲストで大荒れになったタイムラインだった。
運営に対して2度とするなよなんて言葉も散見されるし、上で書いたようなツイートをいくつも見た。
悲しいことに1人じゃない。正直、自分はこの件でサプライズできたアイドルの担当Pが嫌いになった。
彼らが言う「サプライズで来ると分かってたら行った」と言う発言は
裏を返せば
「その公演に出る他のアイドルに微塵も興味ないけど」と言い換えられる。増田の穿ち過ぎかもしれないけど。
理由は、現地のチケットは枚数に限りがあるけど、LVなら会場数は多いし、当日でも空いてるところは探せばある。
それでも彼らは行かなかった。興味がないから。
それぞれに事情があるのは承知の上で、そういった発言に対してひどく悲しくなるし怒りを覚えるんだ。
自分の担当を軽んじられる事が、1日目を初舞台に輝いていた他のアイドル達を軽んじられる事が、何よりも許せない。
自分の担当が、サプライズできた担当が同じような事をされても黙ってられるならいくらでも言えばいいと思うけど
増田は黙っていられなかった。
その身勝手な発言が自分が見送った公演を楽しみに、担当の初舞台を楽しみにしていたPやアイドルを貶すことに繋がると気付いてほしい。
愚痴るなとは言わないから、せめて鍵アカウントなり、その期間だけ鍵をかけるなり、同じ傷を持つ人同士で舐め合ってくれ。本当に頼むから。
単純に、「Mマスは知ってるし好きだけど他のアイマスは知らない」層、
つまり「一個のアイマスコンテンツは好きでも他のコンテンツは知らない」層がMマスは圧倒的に多い。
アイマス各コンテンツにおけるファン層の断絶って多かれ少なかれあるけど、全体をアイマスとして捉えてる層がかなり多い。
皆まとめてアイドルマスター。でも、sideMは違うんだよねー。「sideMしか知りません」って層が半分以上だと思う。
だから、増田が苦手なのはsideMではなく女性向けオタクコンテンツ文化だと思う。
もちろん、女オタクがアレだとか悪いとかそういう話ではなく。
かねてより行きたいと思っていた場所へのバス旅行を見つけ一人で申し込んだ
時期もよく、道中のお弁当も晩ごはんもおいしくてお値段以上の内容だったと思う
交通事情にも恵まれ渋滞にほとんど捕まらず快適な運行スケジュールだったのもよかった
同日出発の同社の別ツアーは夕方17時で未だ目的地に辿りつけないという有様だったことを考えると
満足と言って良い旅であった
しかし一人旅で満了ツアーのため、隣には同じく一人参加の女性が座っていた
78歳のご婦人だ
連れ合いを早くに亡くし、友人との旅行を楽しんできたが最近はもっぱら一人旅で
数日前にも立山黒部アルペンルート一泊二日に一人で参加されたらしい
往路だけではなく復路でもずーーーーーーーーーーーーーーっと喋り通しで
彼女の生い立ちから結婚、夫との死別、子供二人の話に孫の話と78年の年表を作成できるのでは?と
経歴はエリート然としたものばかりなので別に構わないと思ってらっしゃるのかもしれないが
そしてそんなご婦人のパワーに圧倒され、道中寝たいですとアピールできなかった私は
往復一睡もできず疲れを残して帰宅したのであった
今日は金曜日なのでいつもだったら週末に向けて気が抜けてダラッとしていたが、エイヤッ(IT業界語)と公園に行ってきた。
そもそものきっかけは、はてなブックマークでラジオ体操の話題を見ていたのが記憶に残っていたという点は大きいと思う。
ただ、常駐先で一挙手一投足を監視されながら定時まで嵐のように仕事をするとヘトヘトだし、緊張状態が続くので体が
凝り始めたというのが大きな理由だった。「追い込まれてもヘラヘラ笑っているIT超人」みたいな人がたまにいるが、
なるほどああいうタイプはしぶといだろうなとようやく理解出来た所もある。
本当ならば、夏休みの小学生のように朝日を浴びながら体操すれば心にも体にも良いんだろうが、現状でも基本定時帰り
とは言え6時起きで通勤しているので、現実的には厳しい。では帰ってきてから、リラックスモードに入る前にパパッと
着替えて3:16の体操をこなしてくればいい。
音源は落ちていたが、自分の逃げ道を防ぐためにiTunesStoreで購入。200円。
一日目。体操を終えてみると「なぜこんな事に?」という疑問点が出てきた。ウルトラマンである。
二日目。ある程度一日目の疑問が解けた。
三日目。かなり腑に落ちた。
アニメ刀語の主人公の姉であり、「天才」「化物」の鑢七美(やすりななみ)の特技は「見稽古」である。
大抵の技は一回見れば覚える。二回見れば盤石。
もちろん筆者は単なる凡人であってフィクションの天才とは比較にならないが、経験とは馬鹿にならない物で宮本武蔵の
五輪の書における「観の目」的な物が自動的に整理される。パターンの見切りが早くなる。おそらくゲームをあまり
やらなくなったのもその辺が原因だと思う。
まずかなりの人はラジオ体操を学生時代以来やっていないと思うし学生時代に苦になった人は余りいないと思う。
筆者も運動神経は鈍い方だったが、特に苦にはならなかった。ただ、中年の身では余裕だと思っていたが、結構しんどかった。
思い出したのは、小学校時代の運動会で保護者のやっていたラジオ体操だったのだが、それがなんだか子供心に無様に見えた。
早送り気味のチャップリンの映画のように、挙動がせっかちで芝居がかっているように見えたし、テンポも遅れている。
それから昔テレビで見た芸人のラジオ体操。余裕綽々で始めるが体操が終わってみると、半ヤケ気味に満員電車の中で
揉まれたように髪は乱れメガネがズレてシャツがズボンから出ている。オーバーアクションでもなかなか面白かったのを
記憶している。
おそらく原因は二点あって、一つは「年を取ると感情の抑制が甘くなる」という点があると思う。
動作に感情を込めると間違いなく「力む」のだが、その力みがぎこちなさや無駄な動きに繋がっている。
だから感情が豊富なオタクの言動は芝居がかっているし、機械的動きが必要な楽器演奏で情感を作り出す音楽を
やっている人は動作が軽やかで年を感じさせない。多分ラジオ体操もうまくこなすと思う。ただ、オタクも
例えば弓道のような精度を高めてくスポーツにハマれば感情を込めない動きがマスター出来るだろうし、
作品を作る方の漫画家も反復作業が膨大に発生するので技は磨かれるだろうが。
それで連想したのは「料理は愛情」と言うけれど愛情は感情だから品質にムラがあるのでは?
プロとしてそれはどうなのかな?古来からの言葉なのかな?と軽くググると、起源は
『1980年代にオールナイトフジの「結城先生の真夜中のお料理教室」や料理番組「夕食ばんざい」などに
出演していた料理研究家の結城貢のキャッチフレーズ』とある。最近の言葉だった。
どうも、どこかで「愛情を込めて歌う」という文章もあった気がするが、「心を込めて歌う」という表現の方が一般的だし、
理にかなっているような感じがある。感情を込めて歌うとロックのように力んでがなり立てるような歌い方になるか
まともに歌えなくなるだろうし、心を込めるというのは丁寧にやるということでクラシックのオペラ的な歌い方とまでは
行かないまでももっと純粋な歌唱力の問題になるのでは、とここまで考えて、筆者自身「心を込める」という言葉が
どういうことかということを厳密に理解していないなと思い、またもやググってみたが、「いかに相手に真剣に向かい合うか」
それから整理してみると、どうも感情量を増やすような構造に嵌められている気もするが、穿ち過ぎかも知れない。
閑話休題。二点目。
3日目で詳細まで分かったがラジオ体操は「前半は緩いが、ドンドンしんどくなる」ということだった。
一番始めの「腕を前から上にあげて大きく背伸びの運動」。これは緩い。ここで大抵のおっさんは油断してしまう。
粛々とこなして、「前下に曲げます!柔らかく弾みをつけて3回そして、うしろそりぃぃ」。ここで「あれ?俺テンポ少し
遅れてね?」。
クライマックスはその後の「身体を回しましょ~(`・ω・´)!!」からのコンボ。上半身をグルグル回す。クラクラする。
漫画のキャラクターを笑えなくなった。三半規管が弱まっているな……。動作も遅れ気味だ。
続けて「足を戻して両足飛びぃ~」。クラクラしている中、暗い空間をジャンプする。なるほど。これが目眩か。
SFのセンスオブワンダーが目指している領域。ゲームデザインに興味のある人ならおなじみのカイヨワの
「遊びと人間」における「眩暈(イリンクス)」。4分類(他は「競争(アゴン)」「偶然(アレア)」
なんとなく調べて書いてみたけどブログも持ってないのでここに投下。
日本ユニセフは募金額のうち約20%を活動費に回しているが、これは結果論だと言う理解が大事、という話。
ユニセフはその窓口機関(日本ユニセフはユニセフの公式な窓口機関である http://www.unicef.org/tokyo/jp/15408.html )に活動費を全募金額の25%に納めることを要求している。これは募金額の25%を好きに使っていいということではなくて、30億円活動費に使ったら120億円の募金成果を出さなきゃいけないってことだ。
ユニセフの目的は「お金を集めて慈善事業に使う」ことだが、支出に対して必死に収益を上げなきゃいけないという仕組みは営利企業と同じものになっている。その方が不正も少なく、より寄付が集められるからだ。
窓口機関は活動費をかければかけるほどその4倍という寄付を集めねばならず、活動費を私的流用するような余裕は少ない。仮に私的流用をしたい悪い窓口機関があった場合、その分ユニセフに渡る分の寄付金も集めることになり、結果的にユニセフに集まる寄付が増える。
また何度も言うが募金額の25%を自由に使っていいということではないので、募金額に対する活動費の割合はその都度変化する。
2014年度の日本ユニセフは30億円の活動費で170億円募金を集めたから、20%以下の活動費割合になっている。ユニセフの要求より効率的に募金を集めていることになる。
仮に170億円の寄付に加えて130億円(合計300億円)の寄付があった場合、130億の20%がさらに日本ユニセフの活動費になるわけじゃなくて、30億/300億=10%の活動費割合に抑えられるということである。
因果を間違えてはいけない。日本ユニセフの現在の活動費割合が「20%」というのは、募金額がそこそこ(日本ユニセフがノルマをクリアできる程度に)集まったということを示すだけの結果論にすぎない。
要するに、日本ユニセフに寄付したら必ず20%をピンハネされるというのは一ミリも正しいところのない完全なデマ(正確には最低25%〜限りなく0に近い割合まで、活動費の割合は募金の額に従って変化する。活動費をピンハネなどという穿ち方をすればだが)。そもそも疑問に思うこと自体が会計の基本のキもわかってない頓珍漢な疑惑であることがわかる。
ちなみに日本ユニセフの拠出率(募金額のうちユニセフに渡る割合)は世界トップレベルらしいですよ。
http://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_report.html (監査付きの収支報告)
これはつまり日本ユニセフの頑張りに対して標準以上に日本人が寄付をしているということを意味する事実なので、日本人なら誇りに思うべきことかな。(かと言って、だから活動費なんかもっとかけずに同じ額が集まるはずだなんて言うのはナイーブ過ぎるがね。)
(転載自由)
Huluに加入したのは海外ドラマ(特にクリミナル・マインド、CSI、BONES)を見たいのがきっかけだったけど
ここのところ立て続けに海外クライムドラマがシーズン単位で削除されてて、見るものがなくなってきた。
CSI NYのシーズン5は残るのかなと思ったら消えてたし。ダニーとリンジーどうなったのよ。
追加されるものといえば、昔のドラマやら、日テレのドラマやらアニメやら。
というか、日テレに買収されてから、かなり方向性が変わったと思うのは穿ち過ぎ?
正直、日テレオンデマンドに金払う気はないので、日テレ個別にやってくれよと思う。
dTVに乗り換えようかとも思ったけど、こっちも一時期よりごっそり洋ドララインナップ変わってる? みたい。
なのでNetFlixには期待してたんだけど、今のところオリジナルドラマしか推してない気がする。
やっぱり海外ドラマ見たい勢はCSなりBSなりで見てるから、優先度低いんだろうか。確かにCSとBS契約してるけど。
NetFlix契約する予定の人は、なにを決め手にしてるんだろう。乗り換え予定の人は結構いるのかな。
追記。BSはWOWOW。DLifeも見てるけど、遅いからダラ見。
痴漢や女性専用車両の問題を語る時、二言目には「冤罪がー」と言う輩がいる。私はこの様な輩をただのミソジニーのアホなんだと思っていたが、もしかするとここにはある種の内実が有るのかもしれないと思ったのでそのことについて綴りたい。断っておくとこれは私の思いつきであり具体性は無い、形而上の上滑りした話であることは初めにお断りしておきたい。フェミニスト及び親フェミニズムな方に問いたい問がある、以下の様なものだ。
『痴漢冤罪による男性への暴力は女性の権利として正当化されるべきであろうか?』
前提として私は男性であり異性愛者である。痴漢は(主として)男性から女性に齎される暴力で、これは擁護の余地のない加害行為であると考えている。また痴漢冤罪の問題は極めて刑事司法上の問題であり、そこで行われている「人質司法」や「自白強要」などは痴漢という犯罪に於いてのみ特異な事柄では無いので、ことさら痴漢という犯罪についてだけ冤罪の問題を声高に叫ぶのはおかしいと思っている。前提終わり。
この問題について常々疑問だったのは、「なぜ女性は痴漢問題に於いて冤罪の事を持ち出す人間を批判しないのだろう?」ということだった。これは私の観測範囲であまり見受けられなかっただけで実際にはそのような議論をものしている方もおられるのだろうとは思うが、兎に角私にはそう思えた。先にも述べた通り痴漢と冤罪は全く別の次元の問題であり、痴漢被害を受けた、受けたと思い込んでいる、受ける可能性に晒される事を甘んじて受け入れねばならぬ満員電車に乗る女性が負うべき責任では無い。であるがしかし、昨今痴漢冤罪は結構メディアを賑わせているトピックであるし、殊に痴漢という罪に於いては証拠など無くとも「弱者」である女性の告発が事実上強いパワーを持っているように見える構造があるのが現実である。この様な現実に対しては女性側から「確かに冤罪の問題は解るがそれは刑事司法の問題で、痴漢の問題とは別に議論すべし」と宣言する事が必要であるように思うのだが、その手の言説は痴漢問題のたびに「冤罪!冤罪!」と喚く輩と比すれば余りにも少ない。
痴漢と冤罪の問題を切り分けないといつまでも男女の溝は埋まらぬよな、と思う私はこの時ふと思いついた。これは恥ずかしい話本当にただの直感なのだけれど、もしかするとある種の女性の側こそが痴漢と痴漢冤罪の接近を温存したいと言う理路もありうるのではなかろうか?言うまでもなく痴漢という犯罪の前にあって女性は被害者である。被害者である女性が被害事実を以って加害者を告発するのは当然の権利である。痴漢という羞恥させる類の犯罪では泣き寝入りも多いであろうから成る可く告発し易い土壌作りも必要である。しかしそれも行き過ぎれば毒となる、痴漢冤罪に於いては刑事司法制度上被害女性を手厚く遇しすぎている面が拭い難くある。そして人は被害者であるが故に加害者になるということをとても容易に行う。戦前のドイツが、日本が、部落解放同盟が、中国韓国の一部の民族的イデオロジストが……etcetc、様々な場所や時代に於ける「弱者」がそうであるように思う。
痴漢の疑いをかけられたものが雪冤を果たすのがどの程度難解なのか、本当のところは解らない。特に昨今はメディアで痴漢冤罪が取り沙汰されることも増えてきているので、完全に否認している人間を捕まえてそこまで強引に長期拘留などということも出来なくなりつつあるのが現実ではなかろうかとも思う。しかし世間一般に流布されているイメージは違う。
「否認などしようものなら長期間の拘留により必ず社会的地位を失陥する」
「疑いをかけられた無実の人間が選ぶ最も賢い行動はその場からの逃走である」
これらは必ずしも真実では無いかもしれない。しかし現代の神話として男女問わず相当な信仰を得ているストーリーではある。この現代の神話に於いて男性は男性であるというだけで例え無辜であっても常に社会的地位を一瞬に失うリスクに晒されており、彼が男性であるが故に弁明も許されず、出来ることはその場からの遁走だけであるというのだ。これは凄まじい「パワー」であると言わざるをえない。(何度も言うがこれが事実かどうかはこの場合関係がない)「被害者」で「弱者」である女性がこの「パワー」を欲していると疑うのは穿ち過ぎだろうか?この「パワー」を以ってして「加害者」である男性に隠微な復讐を企図していると考えるのは私の被害妄想だろうか?
私は今まで痴漢問題に於ける女性の立場を「女性は被害者であり被害を訴えているだけである」と、とても単純に考えていたのだが。これほど痴漢冤罪ということが取りざたされる様になって来て、女性がその裏にある「パワー」について全くイノセントでいられるのだろうかと考えると、流石にそのような見方は無理がありすぎるような気がしてきた。むしろ女性を馬鹿にしているとすら。勿論本当はそのような「パワー」などありはしない、ただたまたま警察の取り締まり方針の転換と中世さながらな刑事司法制度が組み合わさっただけである。だが、「そのようなパワーがあると思いたい」という点に於いてある種の男性とある種の女性の間で利害が一致している、と思うのだがいかがだろうか?この「被害者であるが故に加害者にすらなる」という問題について、フェミニズムは何か解答を持ち合わせているだろうか?それともフェミニズムとはジェンダーという枠組みから解放されることを目指すのではなく、女性が「パワー」を獲得して男性に対して下克上を果たす事を目的とした運動なのだろうか?是非お伺いしたい。