はてなキーワード: 秦檜とは
この件。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180223-00000006-jct-soci
皆さん随分モンゴル政府の対応に理解を示していらっしゃいますが、チンギス・ハーンが何やった人か忘れてませんかね?
金やホラズムといった周辺諸国に次々と侵攻しいくつもの都市を陥し、場合によっては住民を皆殺しとかにしてた人ですよ。彼の後継者が築いた帝国はモスクワを征服したり高麗を滅ぼしたり日本に攻め込んで対馬と壱岐でさんざん残虐行為を働いてきたわけですよ。
大昔のことで被害者なんて生き残ってないし、歴史の流れの中でモンゴル人が被支配者・弱小民族に転落したから許されてる(というか歴史認識問題に発展してない)だけでしょ。100年前の人物だったら各国で非難轟々のはず。
別にモンゴル人が「わが民族の偉人」としてそれを誇ることはいいと思う。日本人の私からしても、いやー壮挙だなー、って思うもん。今更チンギス・ハーンへの恨みなんてない。だからモンゴル人がチンギス・ハーンを尊敬してでっかい廟とか作っちゃう分にはどうぞご自由に。でも、日本の民間人がちょっとチンギス・ハーンをからかう漫画を描いた程度のこと(ウランバートルのチンギス・ハーン記念式典とかで日本政府の代表が粗相したんじゃねーぞ)で外交官が抗議してくるなら、こっちも「チンギス・ハーン(およびその後継者)の所行に対して謝罪と賠償しろ」くらい言ってもいいんじゃないの? 先に歴史認識問題にしたのはどう考えてもモンゴル側だよね。
私は、豊臣秀吉の朝鮮出兵について現代の日本が謝る必要なんてないと思うけど、韓国人が豊臣秀吉の絵に下品な落書きしたとして、それに日本政府が「うちの国の偉人を侮辱するな!」って文句つけたら、「その偉人様がうちの国に何したと思ってんだ」って言われて当然だよね。この件もそれと同じ。
もちろん、例の漫画が民族差別的なイラストだったら許されないと思うけど、単に教科書に載ってる歴史上の人物のイラストに語呂合わせで下ネタ落書きしてるだけじゃん。そんなん聖徳太子や織田信長やペリーやザビエルだってやられてることで、特段モンゴル人差別というわけではないよね。
しかもモンゴル政府、単に「不愉快でムカつく」と言ってるだけじゃなく(それならまだ理があっただろう)、「わいせつ物頒布、児童の権利の保護に関する日本の法律にも違反していると考えています」って抗議しちゃってるからね。どの辺が児童の権利を侵害してるのかよくわからないし、あれがわいせつ物なわけねえだろと思うけど、これまでさんざん表現の規制に使われてきたわいせつ物頒布を持ち出して脅しつけたっていう事実は重いよ。なんでこれに屈しちゃうかね。
ちなみに、チンギス・ハーンがここまで熱狂的に崇拝されているのはここ数十年の話なんで、その辺も気をつけた方がいい。はてなの皆さんは創られた伝統とかそういう話が大好きですよね? 先日も神武天皇陵の話で盛り上がってたし。
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005265401
中国とソ連に分断統治され、社会主義政権下で伝統文化を破壊され中国では少数派に転落したモンゴル人が、アイデンティティのよすがを過去の英雄に求める事情はわかる。わかるんだが、何でそれを日本人が尊重しないといけないのか。しかも、これが純粋に芸術家とか科学者とか、あるいは亡国の英雄とかなら理解できる話なのだが、やったことは周辺諸国への軍事的侵略と大虐殺である。未だに像に唾を吐かれる秦檜さんなんかを見ていると、罪もない落書きされるくらい受け入れろとしか言えない(実際の像に落書きしたんなら問題だけど、今回は器物損壊ではないよね)。それを受け入れられないっていうんなら、モンゴル帝国の所行の責任を引き受けてもらわないと釣り合いが取れない。千年近く前の人物の所行に責任を取れだなんて無茶だって? 千年近く前の人物のイラストに落書きする程度のことで外務省が抗議入れてくる国が何を言ってるんだか。モンゴル国にはまずエジプトやベトナムやロシアに謝罪行脚をするところから始めてもらおう。
兄の荘公の夫人と密通し、その兄が死んだ後に自分を差し置いて魯公となった甥を殺した。
代わりに立てた閔公が、慶父の弟である季友を信頼する姿勢を見せると、これも殺してしまう。
自らが魯公とならんとするも、周囲の支持を失い追放され、後に送還されて季友から弾劾され、自害した。
始皇帝が亡くなると、丞相の李斯を唆して遺言を書き換え、本来の後継であった扶蘇を自害に追い込み、その弟である胡亥を即位させる。
功臣を殺し、圧政を敷き、それによって反乱を招くと、李斯や胡亥を弑して劉邦に内通しようとしたが、扶蘇の息子と言われる子嬰に殺された。
傀儡として立てた幼い皇帝に「跋扈将軍」と揶揄され、その聡明さを恐れて毒殺した。
桓帝の代になってようやく梁冀は粛清され、一族も悉く処刑された。
武力によって専横を極め、悪政暴虐の限りを尽くした。
密告を奨励した唐の則天武后の下、来俊臣は犯罪者を取り調べる役に抜擢された。
凄惨な拷問を編み出して、次々に無実の者を死刑台へと追いやった。
ついに来俊臣は、これまで自分がやってきたように密告され、斬罪に処された。
街に晒された死体は恨みに燃える民衆によってバラバラにされたという。
玄宗が気に入った者や、皇太子の周囲にいる者、自分の地位を脅かすような人物を次々に陥れて殺した。
温和な顔をして政敵を追い落とす様は「口に蜜あり腹に剣あり」「真綿に針を包むごとし」と評された。
南宋において宰相を務め、圧力を増す金との講和を唱えると共に、反対派を弾圧した。
後世、岳飛が忠臣の象徴とされると、秦檜の名は売国奴の代名詞となった。
岳飛廟の前には、秦檜夫婦が縄で繋がれた像が立てられ、訪れる者はそれに唾を吐きかけたという。
明の嘉靖帝は政治を顧みず道教に熱中し、道教の祭文に通じていた厳嵩は気に入られて高位に就いた。
賄賂が横行する悪政を二十年に渡って行ったが、やがて勢いを失った。
同じく権勢を振るった息子が処刑されると、家財を没収され、庶民に落とされた。
明の宦官。
東林派と反東林派の争いに乗じて権力を握り、大々的に東林派を弾圧した。
全国に間諜を放ち、自分を批判するものは全て投獄して処刑した。
周囲には「九千歳」と唱和させ、自らは「尭天舜徳至聖至神」とまで名乗った。
清の絶頂期を築いた乾隆帝も老いては耄碌し、和珅はその寵臣として長年に渡り政治を壟断した。