はてなキーワード: 科学史とは
さて、後半やるか…。なんかもう嫌になってきちゃうな。ここから先、自閉症はおろか発達障害さえ出てこない代わりに、「男らしさ」がマジックワードとしてメキメキ頭角を現してきます。「男らしさ」の指標は論文によって様々であり、その点にrei氏は意識的かどうかは怪しいところですが、少なくとも段落ごとに「男らしさ」の内容が変転していきます。では読みましょう。
知らんがな。次。
テストステロン値の高い男性は顔の横幅が広くなる傾向にあり、テストステロン値の低い男性は顔の横幅が狭くなる傾向にある。そしてチー牛の元となったイラストの男性も面長であるが、先進国の女性全般に「面長の男性らしくない男性を嫌い、横幅の広い男性らしい男性を好む」傾向が確認されている。例えば、米国で若い男女を対象としてスピードデート研究を行ったところ、男性の顔つきの男らしさが短期的な関係に対する女性の関心の差異の34%を説明していることが示された。
https://ink.library.smu.edu.sg/cgi/viewcontent.cgi?article=2727&context=soss_research (論文d)
スピードデートっていうのはいわゆる婚活パーティ。この論文dでは、顔つきの男らしさを、テストステロンに影響されると考えられている顔の縦横比で表しているみたいです。多分婚活パーティでの女性の反応と男性の顔の縦横比の関係を調べたんでしょう。で、rei氏は"先進国の女性全般に「面長の男性らしくない男性を嫌い、横幅の広い男性らしい男性を好む」傾向が確認されている。”と書いてますが、この主張の出典はどこですか?論文dの先行研究に触れてる部分にもDiscussionにも、国の発展度合いは女性の嗜好と関連性がある、といった記述は見受けられません。関連性が本当はあるのだとしても、米国内の研究だけを例に挙げて、"先進国の女性全般に"と言い切るのは流石に通らないです。もっとも、顔の縦の長さや横の長さが女性にとってなんらかの関心を引く要素の一つであることは間違いなさそうです。これはさすがに誰か気づいて指摘してるだろうと思うんですけど、この論文dを出したのは米国の大学ではなくてシンガポールの大学なんですよね。ざっと見た感じ、アメリカで行われたともアメリカ人を対象にしたとも書かれてません。次の段落に移ります。
論文eの題は"Dominant looking male teenagers copulate earlier.”、和訳すると支配的な見た目の10代の男子はより早く性交する、ですね。このリンクをクリックしてもらうとわかるんですけど、Abstract(要約)しか書いてません。本文はどこでしょうか?試しにCitation(引用)って書いてる下のあたりのリンクを踏んでみましょうか。でもやっぱりAbstractしかありません。実は、論文ってタダで読める訳じゃないんです。検索して出てきた論文を読みたいと思っても、お金を払って電子ジャーナルや学術誌を購読しないと読めないことが多々あります。大学生や研究者の場合、基本的に大学が代わりに費用を負担しているので割り当てられたメールアドレスを使えば無料で読めます。私も大学のアカウントでサインインして読みました。大学生や研究者でなくても大学図書館に行ってコピーすれば印刷代はかかりますが、可能でしょう。しかしこのご時世、ほとんどの大学図書館は解放されていませんでした。以上を踏まえると、rei氏は電子ジャーナルを個人購読していると考えられます。なんと素晴らしい心がけ!一般企業勤務年収700万の会社員であるrei氏が支払う購読料で出版不況に喘ぐ学術誌業界はきっと大助かりのことでしょう。みなさんにこの感動を伝えたいあまり、すっかり前置きが長くなってしまいました。では論文eの内容を概説します。
アメリカの7thGrade、8thGradeの男の子、日本で言えば中一中二の男子に対して、男子の性行為経験の有無、身体の男性的成熟度、リーダーっぽい支配的印象の程度、イケメンな印象の程度の四要素間の相関を統計的処理にかけて調べました。その結果、身体の男性的成熟が進んでいて、支配的な印象を与える、イケメンな男子ほど性的活動が活発な傾向があると判明したそうです。
論文eは捉えがたい「男らしさ」を多面的に定義づけ、そして「男らしい顔つき」の男子はより早く性交渉する機会があると分析したわけで、なかなか面白いなあと思ったりするんですが、それをrei氏は"顔つきの男らしさは童貞卒業の早さを予測する因子であることが示唆されている”の一行で済ませてるんですよ。まとめ方が雑。情報取りこぼしすぎ。ちなみに論文eによると支配的な顔つきの男子やイケメンな男子は眼鏡をかけていない傾向があったそうですが、この記述から、眼鏡をかけているチー牛顔の男子は性的経験に乏しい、とまで言えるのかどうかは正直よくわからないです。次の段落に移ります。
しかしながら、チー牛顔がここまで忌避されるのは「豊かな先進国だから」という事情もある。たまにインターネットでは「所詮この世は弱肉強食強ければ生き弱ければ死ぬ」みたいな事を言う人間がいるが、この世は弱肉強食ではなく適者生存であり、また社会が豊かで平和だからこそ、そのように言ってられる面がある。人間は戦争や災害時など本当に弱肉強食な環境下では、所謂「群れ」になる。そして野生動物の群れを見れば分かる通り、群れ内では弱肉強食の摂理は働かず、互助や相互監視や役割分担といった形で群れ内は「平和」な形になる。これは考えれば当然の事であり、本当に厳しい環境下において同じ種で争っている場合ではない。要するに個人主義は社会が平和である事を前提とした価値観なのだ。
色々トンチンカンなこと書いてるrei氏のこのnoteで、最も意味不明な箇所がここです。何を言いたいのかマジで把握できなくて、読むだけで一時間くらい費やした。ここまで可読性が低いのはいくつか理由が考えられて、まず接続詞がおかしい。段落頭、「しかしながら」は逆接の接続詞のはずですね。前の二段落でrei氏が言いたかったであろう主張は「女性は男らしい顔を好む」のはず。しかしながら、この段落では突然、「平和な社会状況であることが人々の行動に与える影響」の話が出現します。新規情報です。新キャラです。「しかしながら」の前後で予想を裏切るような意味内容の反転は生じていません。もう一つ指摘するとすれば、対立軸が不明確な言葉遣いである点。「先進国」ときたら「発展途上国」、「弱肉強食」ときたら「共存共栄」、「個人主義」ときたら「全体主義」もしくは利己主義の逆という意味で「利他主義」。こうした対義語にリードされてあっち行ったりこっち行ったりしながら議論を進めていくのが一般的なリズムな訳です。現代文の定石です。ではもう一度読んでみましょう。
……………。何が書いてあるか、何を主張したいかわかりましたか?私にはわかりません。とりあえず”この世は弱肉強食ではなく適者生存"の部分に着目してみましょう。なにやら進化論じみた雰囲気がしますね。弱肉強食と適者生存、進化論については、科学史や哲学史関連の書籍を出版している吉川浩満氏のインタビュー記事がとてもわかりやすかったので、ちょっと長いですが紹介させていただきます。
https://synodos.jp/science/17264
この記事によると、弱肉強食を世界認識モデルに組み込んでしまうのは素人あるあるらしいです。rei氏も度々モテ/非モテ論の文脈に位置付けられる文章を書いていましたね。インタビュー記事は続いて「適者生存」概念の歴史的経緯へとトピックが移ります。吉川氏によると、ダーウィニズムは進化の目的や生物の序列を認めない立場なのだそうです。そして、絶滅を免れて生き残った生物種のことを適した生物、すなわち適者であると定めましょう、というダーウィニズムの考え方を端的に表すスローガンこそが、「適者生存」なのです。生存する者を適者とみなす「適者生存」とは、ダーウィニズムにおける議論の出発点にすぎなかったんですね。これをひっくり返して飲み込んでしまうと、お前は適者でないから生存できないんだ、俺は劣っているから勝負や競争に負けるんだ、となってしまいます。これはよくない、本当によくないですよ。優生思想ど真ん中、ナチスドイツの大虐殺。そんでもってこれがrei氏の手にかかると非モテだから結婚できないんだという同語反復に陥っちゃうわけです。
わかりましたか?rei氏は語の意味をまともに調べることすらせず、雰囲気だけで文章を練り練りしてるんですよ。キリがないんで次行きますね。
それは異性選好においても同様であり、34か国の異性愛女性4483人のサンプルを使用して、社会的、生態学的、経済的変数が女性の顔の男らしさの好みをどのように予測するかをテストするかを調べた研究では、国の健康指数と人間開発指数が高い国でより強くなると報告された。男らしい顔に対する女性の好みは、子孫の生存率が高く、経済状況がより好ましい条件の下でより強いことを示している。
アッ!前段落の最後の部分、"要するに個人主義は社会が平和である事を前提とした価値観なのだ。”の意味がわかりましたよ。社会が危機的状況に陥っているときは生存を目指して仲良く男女協力して生殖に励むけれど、現代の平和で裕福な先進国ニッポンにおいて女性は利己的に振る舞うために男性的魅力に乏しいチー牛顔の人々は選ばれないのだ、ってことですね?世が世なら俺たちには女があてがわれるはずだった、でも時代がそうさせなかった、とrei氏は言いたかったんですね?うぅ、頭がクラクラしてきた……。いや、確かに人間は動物の一種だけどさ、何もそこまで野山の猿やジャングルのゴリラと同一視するのはやりすぎでないか?なんだよ、"男らしさの好みをどのように予測するかをテストするかを調べた研究”って。日本語になってないじゃん……。
https://note.com/hiroko_yayane/n/n7970f9279b51
6/17追記 ↑リンク先が謎の理由で消滅していましたが、新しく書いて頂いたみたいなので貼り直しました。
そして男らしい顔つきの男性は攻撃性、不正行為、自己中心的な衝動性、欺瞞、搾取的行動など「所詮この世は弱肉強食」マインドを持つ傾向があることが示唆されている。要は豊かで自由で安定した先進国になるほど優しい男性はモテなくなる傾向が存在するのだ。
論文gでは、顔の縦横比と攻撃性の関係しか見てません。先進国の話もモテ/非モテの話もしてません。"要は"以下の部分は導けないと思います。
それにnoteのタイトルは「何故、我々は三色チーズ牛丼顔なのか?」でしたが、なぜか結論は「先進国ほど優しい男性はモテなくなる」に着地しているんですね。
話がめちゃくちゃズレていってるんですよ。rei氏もそれに気づいてないんですよ。
でね、ようやく全部読み終わったと思うじゃないですか。まだ喋らせてください、まだあるんですよ。この記事本当にすごくて、本文の下にあるコメント欄を見てみましょう。
https://www.nature.com/articles/s41598-017-09939-y#Sec17 (論文x)
ま〜た何をどう修正したのかよくわからん論文のリンクが貼ってありますね。
私が読んだ時には既に修正されていたんですが、他の方のツイートによると、もともとrei氏は、コルチゾール値が高くなってテストステロン値が低下するから発達障害男性は「男らしくない」顔つきになるという論証の根拠として、結論が真逆の論文を引っ張り出していたみたいです。
https://twitter.com/reefedgeswim/status/1265592680915931136
この論文xは、タイトルの「ASD男児及び女児における顔面形態学的な超男性化傾向と症候学との関連」からわかる通り、一番最初に読んだ論文aの結論「ASD男性の顔は両性具有で男らしくない」とは反対のことが書かれています。時系列的には論文aの方が先で、論文xは後。そしてDiscussionの中で論文aと相反する結果について考察しています。その考察によれば、論文aの実験2の対象として選ばれたのは二十歳前後の男女であるのに対し、論文xの実験対象は三歳から十二歳の児童であることが重要な違いを生んだ可能性があるそうです。思春期の間に男性は血清中のテストステロン値が女性と比べて爆発的に増加します。この思春期におけるテストステロンがなんらかの働きをしたせいで相反する実験結果が出た可能性がある、というわけです。しかし、これまたややこしいことに、成人の顔の形に関して出生前のテストステロンが与える影響の方が出生後のテストステロンが与える影響よりも大きいとする論文もあるそうで、研究者の間でもどちらがどうだと確定的な結論は出ていないっぽい。
文章の誤リンクの件に話を戻しましょうか。可能性の話をしますが、数多くの論文を渉猟しているrei氏のことですから、貼りたい論文と題が似ているのを間違えて貼っちゃったのかもしれませんね。訂正前の論文のタイトルは"Hypermasculinised facial morphology in boys and girls with Autism Spectrum Disorder and its association with symptomatology”で、訂正後の論文は"Enhanced Cortisol Response to Stress in Children in Autism”です。Autismとin、二つも単語が重複してるじゃないですか!論文のタイトルは全体の要旨を簡潔に書き表したものですから、その中の重要な単語が二つも同じであれば、内容が近い論文だったような…と曖昧な記憶が生成されてうっかり取り違えてしまうことがあってもおかしくないでしょう、とでも言うと思ったか?ちゃんと論文読み込んでるやつがこんな凡ミスするわけねえだろ。だいたいさ、何が正しいのか誰もわからない研究のフロントラインで色んな科学者が仮説を立てて検証してディスカッションしてるような事柄の、おそらくこうかもしれない、って部分を、論文だから百パーセント正しいんだとピックアップしてるのありえん不誠実でしょ。今後まだまだ検証の余地があるって書いてあることを揺るぎない事実として取り上げちゃってるってこと、わかりますか?
reiさん、あんまり疑いたくないんですけど、本当に論文読んだんですか?
rei氏の書く文章、noteでもtweetでも、どういう意図なのか全くわからないけど、ほぼ全て漢数字が半角数字に置き換えられてるんですよね。でも恐ろしいことに、このチー牛顔を取り上げたnoteでは、3色チーズ牛丼顔と書いてないんです……。
「何をバカなことを」
そうおっしゃるのは貴方達が科学史について教科書レベルの知識、いわゆるニュートンだダーウィンだといった物事しか知らないからです。
いや、教科書レベルの知識であっても、普通に持ち歩けばどこかで爆発してしまうニトログリセリンから安全に持ち運べるダイナマイトが作られたという歴史を知っているはずだ。
フロンガスのオゾンへの悪影響から代替フロンが作られたように、ガソリンの持つ内燃機関工学的特性を損なうことなく、狂人による空中散布によって爆発現象を発生させられる危険性を極限まで下げたガソリンを開発すればいい。
違いますか?
それは今まで人類が歩んできた科学の歴史の延長線上に存在し得ないものですか?
必要は発明の母、需要は実用の父、新たなる科学の子が誕生する準備は既に整っているのです。
あとは、産むだけです。
頑張りましょう。
高卒の私には出来ないが、きっと東京大学大学院卒の方々なら出来るはずだ。
頼みましたぞ。
「文系の学問において資料の実在を証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。
Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味でWikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。
参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!
参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます。
このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります(最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。
えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リストが存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。
これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。
a)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
b)増田はうんこを漏らした。一方、同人作家はおしっこを描いた。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
c)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います。
日本の出版の問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います。注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。
もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題にしかなりません。しかしいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述の典拠はいったい何なのか」という根本的な問題を惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説を初心者向けにわかりやすく纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)
もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。
増田はうんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.
MLA style:
増田はうんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対に必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。
“自分の実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系の論文での引用見たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね
理系の学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系の論文はちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。
このうち、理系の論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文の重要な核を占めているのです。
たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまでハゼの遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。
しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本は研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。
私が最初の増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合、理系ではこういう資料は引用しないですよね(最近だと古天文学で歴史的史料を引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。
もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります。文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったものが資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地の言語を習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語の話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。
文系の生データは出典となる書籍だったり、原典の資料がある場所と。原典の原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式が理想ってわけか。一時情報が当事者の証言なら信憑性高いって判断にはなるし
違います! 当事者の証言だからといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪で裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女の証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。
歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき、日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカの外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものだから。
なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学の入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたから虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?
(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります。特に科学史や史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)
図書館にScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノードの消滅にも耐えられる。しかし日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマは逮捕なので
出来るといいな、じゃなくて、既にあります。
たとえば国立国会図書館のデジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館のデジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFでダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀のドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。
しかし、当たり前ですが全ての史料が電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも近現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権の問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料にアクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。
また、多くの国では、公文書館の史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所のちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本は戦前の外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。
(さらに言うと、史料が必ずしも公的な機関によって保存されているとは限らず、貴族や武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族の屋敷には私設の文書館が付属している場合もあり、日本の歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールド・ハウスに赴いて史料を収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)
ただ、「みんなが読みたがる重要な史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスやオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内の研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学の研究者は結局それらを所蔵している大学の図書館に行く必要が……
注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛の意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな
注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報を摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。
これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者のあいだから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)
注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語の二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者の仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通のニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。
物理分野では「参考文献」の意味が増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。
誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。
や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。
あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生に上から目線でアドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます。史学科出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科の常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?
科学史上の発見で、「この科学者がいなかったら発見されていないであろう法則、事実、理論」みたいなものは存在するのかという話
たとえばニュートンの万有引力とか、ダーウィンの進化論とか、アインシュタインの相対性理論とか、個人的には、もし彼らが生まれてこなくても、後にだれかが同じ発見をしたんじゃないかと思うわけですよ。科学を表す言葉に「巨人の肩の上に立つ」ってのがあるけどまさにその通りで、ノーベル賞レベルの天才だってみんな膨大な先行研究の上に一つ積み重ねた個人に過ぎないから、他のだれかでも同じ発見はできたんじゃないかと思うんだけど
そういうのが通用しない異能みたいな科学者っているの?先行研究を何段も飛ばして天才的な閃きで重要な発見をした科学者っているんだろうか。その個人がいなければ間違いなく現代でも未発見だろうっていう法則とかってある?
https://tbyml.com/2019/01/25/coping-with-misogyny-in-art-history/
ココらへんとか見ると、あれコレってホイッグ史観なんじゃない?っていう疑念が湧いてくる。
ホイッグ史観が何かと言うと19世紀のイギリスのホイッグ党が自分たちが歴史の正しい側に立っており、
歴史とは進歩的な我々と遅れたあいつらの戦いである(もちろん勝つのは我々)という歴史観である。
そのために当時の価値観などを無視して現在の価値観で過去の人物等を評価断罪するのである。皇国史観などもホイッグ史観の影響を受けている。
なぜかといえば我々は科学の答え合わせを知っているのでどうしてもその観点から間違った科学者と、正しい科学者という二分論に陥ってしまったという過去があるからだ。
anond:20180205025330に悪の科学者がいないと書かれているが、悪の定義は難しい。
科学史の闇なら事例がたくさんある。
・ロボトミー手術
など。
科学者たちは悪いことをしてやるぜゲヘヘヘと実験をしていたわけではなく、
どうなるのか知りたい!知りたすぎる!とか人を救いたい!という純粋な思いから科学をスタートさせている。
いいか悪いかは倫理的に判断されるが渦中にいるとだんだん倫理の線引きがずるずると緩くなっていってしまうのだろう。
他にもこういう事例があったら知りたい。
フランケンシュタインの誘惑は全部見ている。
(マッドサイエンティストは狂った科学者の意で書いたけど表現が適切かはわからない。)
今にして思えばSTAP細胞事件が典型的だったと思う。妄想(ゆめ)を語る研究者に対する人々の期待がバブルのように膨らみ、マスコミや業界紙はそれをさらに煽るべくショーアップする。結果として、彼らの下には多額のカネが集まってくる。
結局、そのバブルは弾けて水泡に帰した。しかし、本来、科学的研究などというのは失敗してナンボのものであり、提案された成果の追試が成功せずに認められないことは珍しくない。STAP細胞も、そのような失敗した研究の一つとして粛々と科学史の闇の中へと消えていく程度の話であったはずだ。
しかし、現実には有名研究者であった副センター長の自殺という衝撃的な結末を迎えた。何が、彼をそこまで追い込んだのか?
翻って今回の場合、齊藤氏とその技術者チームが開発したスパコンはGreen500で四位という立派な成果を出したのであり、その技術力は虚像ではない。だが、その発言が非常に危ういものであったことはすでに指摘されている。
(中略)
次世代のスーパーコンピュータの必要性は、もう釈迦に説法であるかもしれないが、さまざまな手法による省エネルギー、そして新エネルギーであり、最終的にはエネルギーフリーに持っていく。小型熱核融合といったところには核変換の機能が付与されるため、資源問題が大きく改善、解決されていく可能性がある。
食糧問題というものも、植物工場のあり方次第で大きく変わってくるということや、衣食住がその次のフリーになるというようなところも議論としてあり、続いては安全保障、軍事の議論もここに含まれてくる。やがて保有するスーパーコンピュータの能力が国力という時代が非常に近づいてきているのではないかと思う。
http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/2030tf/summary_281003.pdf
夢を語るのは良い。だが現実には何が起きたか。おそらくは、彼の描く楽観的なビジョンに対して次々と舞い込んだ多額の助成金が、後ろ暗い勢力を引き寄せる結果となり、最後は食い物にされた。それが、今回の件の実態なのではないか。
(追記:四億円だけの話をしているわけではないよ。)
同じく委員会に参加していた「東ロボくん」などのプロジェクトで知られる新井紀子氏は、今回の件についてこうコメントしている。
マクロのパラメータが痛んでるときに、最後のブラックボックスであるイノベーションにかけて一発大逆転を狙うと必ず無理がたたってインパール作戦になるので、現実を直視し、エビデンスに基づいてコツコツ修正するように、と言ったのに…。 経産省にも責任があると私は思う。
この指摘は非常に正鵠を射ていると思う。今や、この国のあらゆる人々が一発逆転を期してユメを語る人間にカネを託すようになった。言い換えれば、経済が停滞を続ける状況下において、ブラックボックスは最もカネになる存在となったのだ。
このことは、昨今の政治スキャンダルの様相が変わったことと大きく関係していると思う。前世紀と比べて、我が国ではハコモノ利権は相当に厳しくなった。これは、有権者の目が嚴しくなったこともあるが、マクロの経済環境が停滞した結果、そもそもバラ撒くためのカネがないということもあるだろう。
一方で、昨今に取り沙汰されている政治スキャンダルを振り返ってみると、全て「教育」「構造改革」「イノベーション」に関するものだ。繰り返そう、ブラックボックスはカネになる。子供の中にも先端技術の中にも無限の可能性があり、そこに対する投資は無条件に正当化される。
既存の利権の伸びしろが無くなった今、ブラックボックスに対する期待をカネに変えて配る、すなわち「イノベーション利権」の構造こそが、この国の政治の最先端の姿なのではないか。
河野議員の手腕が注目されると最後に書いてあるけど、本来ならばそれこそ学術会議あたりがとっくに動いて然るべきだったのでは……という感想しか出てこないな。 https://t.co/s5VhHrtKm9— 有賀暢迪(科学史の人) (@ariga_prdgmmkr) 2016年12月12日
自分たちはtwitterで文句垂れるだけで何もしなかったのに動いた人に対しては感謝とかないんですね.
すごい.
自分の属してるコミュニティに対してtwitterで愚痴るしか能のないひとが多いから世の中良くならないんだよ.
とりあえず恥を知った方が良さそう.
福島の現状について非常識なことばかり言う人の中に、特定の何某を趣味にしてる人がいるとたまに
「周りもこいつをいい加減何とかしないと、その趣味に興じてる人全体がそんな奴だって思われるぞ」
みたいなご意見を見かけることがある。
確かにその通りだよねーっと思うし自分もそういう人にはいい加減にしてほしいと思ってるんだけど、
じゃあ何かたしなめる意見をそいつに言えるかっていうとまあ無理。ごめんなさい無理。
趣味で人が集まる時って大抵その手の話はタブーで踏み込まないし、そんな相手に直接言ったらこっちが何されるかわかんないし。
その手の変態って声がでかい人が多いから自分のことをどこで何て言われるかもわからない。
もし相手が趣味の集まりでキチガイな発言をしてくれれば追い出せるかって言うとそうでもなくて、
高々タブーに触れたくらいのことだから周囲の人が少し距離を置くようになるだけ。
まあやり過ぎれば多少は問題視されるだろうけど、あくまで敵失に頼ってるだけだし、
たしなめる人がいたとしてもそれで少し収まるかと言えばそんなことも無い。
あと、この手の人って往々にして趣味とか学歴の類を「理知的な自分」を印象付けるための飾りにしちゃってることがあって、
飾りだから趣味の会合とかにも殆ど顔を出さずそもそも直接会うこと自体難しい。
Twitterなんかやってると割とマトモそうな学者をフォローしてたりもするんだけど、あくまで飾りだからそういう人のツイートとかたぶん読んでない。
以前自分と同じ趣味で、福島じゃ放射能で大量に人が死んでるけど隠ぺいされてるみたいなことばかり呟いてた人が
少しはマトモになるのかなと期待してたけどここ5年間で大して変わってない。
科学史っていろんなジャンルの人が見るしなんか賢い感じもするし、
本業の人は座学だけじゃ厳しいだろうけど既存の知識をそのまま披露するだけの知った風なことを言う素人にとっては飾りに使うのに持ってこいな感じ。
あ、科学史やそれに注目する人がそういうのを飾りに使ってるという意味じゃなくて、これも一部の変な人の話ね。話がずれたけど。
東日本大震災が発生してから半月ほど経った頃である。或る趣味サークルのサイト上で、被災地を元気づけるためのプロジェクトを立ち上げるという告知があった。内容は、趣味に関する書籍を集約して被災地の各地で無償配布すると共に、募金で海外サークルのメンバーを日本に招待し、子供たちに様々な芸を見せて心の平穏を取り戻す一助となろう、というものであった。このサークル団体は東京を中心に活動しており、地方にも幾つかの支部があって(東北には無い)、全体としては数百名の会員で構成されている。
当時、私は知人を何名か津波で喪ったにも関わらず、自分としては動くこともできず歯がゆい思いでいた。そこで、このイベントに賛同し、大切にしていた書籍を何冊か団体に贈った。この団体と私の関係は一方的なもので、単にサークルの機関紙を購読しているに過ぎなかったのだが、「自分と同好の人々が運営するサークルでそのような活動をしてくれるのならば、何某かの縁もあろうからそれに任せよう」と思ってサークルに託したのだ。後に、保管場所が確保されない状況下で古書を送る行為の問題について色々と知り後悔したが、恥ずかしながら当時はそこまでの考えに思い至らなかった。当時は自分も何かの拍子で突然死亡する怖れが頭から離れず、死んだ場合は所有している書籍が活かされぬまま捨てられるということを恐れていた。そこで、所持していた書籍の多くは近所の市民図書館にも置いてあるのでそれを読むことにして、いつでも本を読みたいという若い子の手元に本があった方がいいのでは、と考えていた。書籍を送付後、サークル団体の代表から「書籍を被災地での活動のために有効に利用させていただく」との返信があった。
サイトの報告によると、2011年4月に最初の活動があったらしく、趣味サークル内の数名と海外のサークルメンバー数名が宮城県沿岸部にある数か所の避難所に赴いたようである。東北を縦断するイメージだったので、宮城県のみに限定した活動であったことに若干の違和感を覚えたが、その後も幾度か被災地へ向かうようであり、「落ち着くまでは様子を見ようという判断なのだろう」と思っていた。
この活動について違和感以上に不信感を抱いたのは9月頃だったと思う。その団体では例年8月に大きなイベントがあり、海外のサークルメンバーが何名か来日するため、そのメンバーらと共に再び被災地へと出向いて活動したという報告が機関紙上でなされた。だが、その下に「なお、送付された書籍のうち入手が困難な貴重な書籍については、団体が運営する有料の図書館に納入した」と書かれていたのである(この図書館というのは避難所の地域の図書館に納入したという話ではなく、団体が所有する蔵書を団体の東京事務所において有料で読むことができるサービスのようである)。
これには目を疑った。最初の告知にはそのような記述は無く、代表からの手紙にもそのような記述は無かった。これでは震災に乗じて個人の貴重な書籍をサークルが吸い上げた格好になるのではないか。しかも具体的にどういう書籍を何冊納入したのかという記述も無い。貴重な書籍を図書館に納入したというのに、閲覧する権利のある側にその内容を示さないというのはおかしな話だ(無理やり擁護する見方をすれば、一般的にこの手のプロジェクトにおいて自分史が持ち込まれる場合が多々あり、そうした配布しづらい物を自身の図書館に倉庫代わりに納入したという線はあり得なくもないのだが、もしそういうことがあったのだとしても何らかの説明は欲しいところだ)。そして、活動先は相変わらず宮城県のみであり、岩手県でも福島県でも活動していなかった。
宮城県での活動というのは、このボランティアイベントの参加者の一人が宮城県内の教育機関に務める人物らしく、それ以外の地域においては土地勘が無いのかも知れないと思っていた。しかしその機関紙には、当団体とは別の団体組織に属する福島県のサークルが震災後の自身の活動について述べた寄稿を寄せていたので、「寄稿を載せるくらいならばその団体のメンバーにも声をかけて福島県で合流して一緒に活動をすればいいのではないか」とも思った(福島の人々に案内の負担を強いるのかということもあるが、そもそも既に宮城県内に在住する人物を連れて活動しているのだから、福島県内の人を連れて活動することにさほど躊躇する理由は無いように思えた)。宮城県が東北で最も津波被害の大きかった地域であるということは重々承知しているが、図書館の件とあわせて、「被災地に赴くと言いながら宮城県のみというのも少しおかしいのではないか」と若干訝しく思い始めていた。
少し話は変わるが、2011年の10月ごろだったろうか。私は当団体の活動に関わっている主要なサークルメンバーのブログを幾つか覗いていた。そこで、サークル団体において有料図書館の運営・管理に携わっているという或るメンバーのブログが目にとまった。
そのブログにはクリストファー・バズビー氏やアーニー・ガンダーセン氏の名が載っていた。ブログの記事を遡ってみると、LNT仮説に基づいて「福島県では年間千人が癌で死亡する」「トータルでは6桁もの人が死ぬ」などの記述があった。福島県だけではなく、当時千葉県で見つかったホットスポットについても、その周辺で7000人が死ぬと書かれていた。ブログの記事の日付を見ると2011年6月中旬ごろであり、まだまだ情報は錯綜していた時期ではあったものの、ブログの内容は怖れによって混乱しているという様子ではなかった(LNT仮説に従ったとて、ガンが発生する人数の予防的な見積もりであって、ガンの発生が100%死に直結するという話ではない筈だ)。ツイッターのアカウントもあったので見てみたが、「福島廃県」「日本は核武装を目指している」などの字面が踊っていた。
この人物は機関紙上において度々評論を行っていたため、名前だけは知っていた。東京在住で、東京大学の大学院において科学史や科学哲学を専攻していたらしい(名前で検索したところ、在学中に科学技術社会論若手の会に参加したこともあったようである)。また、サークルの有料図書館の運営・管理に携わるほか、海外メンバーの通訳や書籍の翻訳作業も担っている。どうも他の主要メンバーからはサークル入会当初から理知的な存在として一目置かれていたようで、未だにこの人物の評論がサークル誌に載っていることを見ると、その状況はあまり変わっていないようである。
ボランティアイベントの報告によれば、そのメンバーの名前はイベントスタッフの中には含まれていないため、この人物は被災地には訪れていないのだろう。しかし、有料図書館での管理業務を考えれば、貴重書の選別には関与していた筈である。また、仮にそのメンバーがイベントに深く関与していなかったにせよ、ブログやツイッターで垂れ流される内容やサークル内での立場を考えると、そのイベント活動に何等かの口添えをしている可能性は十分考えられ、イベントのメンバーが海外のメンバーを連れながらも東京により近い福島県には訪問していないという事実が個人的に気になるのである。この活動に全く関与していなかったにせよ、被災地のためと銘打った活動をする団体がこの人物の主張をどう考えているのかという疑問は残る。
2012年にもこの団体は同様のイベント活動をしたようであるが、結局今までに宮城県以外で活動したという報告は無い。何故それ以外の県に行かないのかという理由も明かされていない。「こちらが勝手に東北を縦断するようなイメージを想像していただけだ」と指摘されればそれまでなのだが、協力する側としては、被災地で活動すると宣言していた以上、宮城県以外でもこのサークル団体が活動することを期待した上で書籍を寄贈したのではないか(募金の一部については額が提示され、育英会に納入されているようである)。
とはいえ、未確認なことも数多く、単に私の邪推だと指摘されればそれまでであるため、増田として具体的なサークル名や人物名を明かさずにここに述べた。愉快ではないが、こちらとしても寄付金や書籍の使用用途はサークルに任せた面もある。目論見には具体的な訪問先について特に記載は無く、書籍の利用方法も「子供に配布するなど」という風に書かれていたうように記憶しているため、最初から宮城県内のみで活動するつもりだった、あるいは有料図書館に書籍を納入するのも有効な利用方法の一つだ、と言われてしまえば元も子もない。
件のメンバーはその後も、宮城県石巻市でのがれき処理の背景には巨大利権が絡んでいるとのブログや、甲状腺調査で嚢胞の数が異常に多く見られているというヘレン・カルディコット氏の主張を掲載したブログ、不正選挙についてのブログのリンクなどをツイートし、先の選挙において安倍首相は福島入りをしていないというフェイスブックの記事までリツイートしていたりする(なんでも福島の水田の前で会見をした首相の影が不自然で明らかに合成なのだそうである)。先日のISISによる人質事件においては、日本において大政翼賛会の形成がすでに始まっていると述べている。残念ながら、ここまでではないにしても、彼以外にもこの団体においてそうした主張に近い人物は何名かおり、先日も東海地方の支部で活動する人物がどこぞのブログの「福島県の農産物は安全ではない」というリンクをツイートしていた。百人に一人くらいはこういう人はいるのだろうとは思っていても、少々心配するくらいにはこうしたものを目にする。福島県在住のメンバーがこうした主張を目にした時にどう思うのだろう。私としては混乱時に古書を贈る行為については恥じ入るところだが、敢えて述べれば、もし団体の中枢にこのようなメンバーがいることを事前に知っていれば、贈る前にもう少し検討しただろうとは思う。震災からもう4年近く経過している。周囲の人々も、もう少し目を開いて物を見て、自分で考えてもらいたいと思う。
この先生は、常に声が裏返っており、目は焦点があっていない。話も脈絡がない。
見るからに危ない人であり、正直、怖かった。
確か、科学史・科学論という講義だったと思うが、面白そうなので取ったが意味不明な授業だった。
内容はほとんど覚えていないが、少なくとも科学に関することは何も言ってなかった。
野球の話や最終日だけ来たら単位はあげるとかそんな話ばかりだったと思う。
ということで授業にでたのは3、4回だった。
翌週、野球の試合かなんかで授業どころではなかったことを明かしてくれた。
そして、最終日のテストの内容は、自分の死に方、この人は本当に大丈夫かと思った。
20個くらい黒板に死に方の候補を書き、それを選んで回答用紙に番号を書くだけ。
基本は80点で選んだ死に方によって加点される方式であった。切腹を選んだら90何点かで合格した。
当時ですら大学って変なところだと思ったが、今だったらこんな講義やったら問題になるんじゃないか?
この先生はクビになるかもしれない。
なんか、こういう変人たちの受け皿がどんどん無くなっていっている気がする…
こういう変人たちは、大学にいられなくなったらどうなるんだろうか。
まともな社会では相手にされないだろうし、引きこもりまたは犯罪者になる、それか自殺するくらいしか道はないんじゃなかろうか…
画像流用、博論序章丸パクリで、日本科学史最大事件になることが濃厚になってきた小保方論文だが、そもそも何故このような人物が生き残れていたのか不思議に思う人は少なくないはずだ。
特に早稲田大学の博士論文でのコピペは、小保方晴子一人が責任を負うような性質のものでなく、指導教員等、小保方の周りにいる人間たちの問題である。
このことから、むしろ再生医療に無知でかつ、剽窃の禁止等の科学的作法に興味がない小保方を使ってなんらかの意図を通そうとした集団がいると疑える。
では、この意図とは、そして集団とは何なんだろうか。それは、山中伸弥によるiPS細胞発見によって研究資金がiPSに流れることを嫌った人間たちであろう。
小保方が、大和雅之のアドバイスに従って再生医療に興味を持ったのは山中氏らがiPS細胞の発見を公表する2006年。時系列的に山中氏の公表が先であったか、
小保方のテーマ変更が先かは定かではないが、少なくとも公表より前に、大和雅之の耳にはiPS細胞の実現可能性は耳に入っていたであろう。
そして、その大和の前にやってきたのが、小保方であったはずだ。
ひたむきで出世意欲があり自己顕示意欲がある小保方の性質は、大和雅之、早稲田大学関係者にとって最高の素材であったと言ってよいだろう。
文科省等からの資金がiPSに流れてしまうことが確実な情勢の中、彼らはそれを押しとどめるべく小保方に誤った研究材料と研究作法を教え込んでいく。
小保方も疑問に思う日があったのかもしれない。しかし、彼らについていくことで得られたのはハーバード留学、20代でのプロジェクトマネージャーという餌であった。
科学者の矜持や善意では食っていけない。栄誉と金を前にして小保方のそれは無力であった。
予想以上にNatureに手こずらされたものの、2014年に公表されたS(ス)T(タ)A(ッ)P(プ)細胞の発見は、小保方の影にいる者たちの意図が通じた瞬間でもあった。
iPS細胞一辺倒であった報道姿勢はものの見事に変わり、iPSのデメリットが喧伝された結果、山中がいくら反論しようともiPS細胞助成への態度は明確に変わっていくことが予想される
(癌化のリスクがあることを誰が言い出したか調べるとさらに分かりやすい)。
それで小保方を操った人間たちの意図は十分に果たせたのだ。一般国民にとって、小保方の異常な剽窃・データの不正使用癖は、小保方個人に問題があったと思わせることが出来るだろう。
いくら、研究者がこうした教育しなかった指導教員のせいであるといっても、その主張はとどかない。
あとは、しらを切ったり、タイミングよく小保方バッシングをすれば小保方を操った人間たちは、免罪である(ベル研の時のように)。
小保方に使った金は高々数千万円だろう。これにより、計り知れない利益を得たものが分かりやすく固まった形で存在する。
院生とはそれこそ多能性を持った存在であり、まともな指導者がまともに指導すれば、剽窃などしない研究者に育っていくものである。
学校で役に立つことを教えろ、ねえ…
まあ、読み書き算盤といわれたような、50音と漢字の読み方、足し算引き算掛け算割り算はできないと困るなあ。
今みたいな文学入りの国語はやめちゃっていいや。そんなものより、説明書の読み方書き方を教えるべきだと思う。テクニカルライティングな。
社会科は何県の名産が何でなんてどうでも良いから、法律とその活用の仕方(区役所市役所県庁と警察と裁判所と弁護士の使い方と商用契約の結び方)を教えるべき。
歴史は「何があったか」を全部捨てて「どうしてこういう流れになったか」に重点置いてほしい。あともっと科学史を。
数学はもっとみっちり。高校物理と高校微積分のへんな分離はもっと融合して欲しかったと思うけど今どうなってるのかな。
科学が"正しい(確かな)こと"をつくる過程が、実は全然世間に知られてないってことが(あるいはその認識がないことが)、ニセ科学が跋扈する背景にあるんじゃないかと思えてきた
現在日本で観察されるニセ科学が言ってることは、「最先端の科学だから間違ってるとは言えない」ってことよりもむしろ「ある程度すでに分かっていることから考えてもこれはおかしい」と思われることが多い。
つまりニセ科学というのは、ある程度科学者コミュニティ内でのコンセンサスが得られている事柄に反しているのに、それを無視して「科学的」な知識であると標榜することだとひとまず僕は理解している。
「科学的」であればすべて正しいと考えてしまう市民(非専門家)の"性質"を巧みに利用して、「主張」を信じさせようというところに、ニセ科学の罪がある。
後出しですが、ここまで何度か使ってきた「科学的」という言葉を僕は「科学者コミュニティの中での精査の繰り返しによる確かさの増大によって、ある一定の確かさが保証されている」みたいな意味で使っています。
科学は正しいことを言っている、という素朴なイメージは間違ってはいない。実際、理科の教科書に載っていることは一般的な意味ですべて"正しい(確かだ)"。今日の科学文明を見ればなんとなくわかる(ただしこれは価値判断を含んでいる)ように、科学は"信用できない"わけではない。
ただ問題なのは、「科学だから正しい」になってしまうことだ。つまりいつのまにか、科学的なこと(数式とか専門用語あるいは科学者の肩書など)が言われていればそれは正しいのだと思い込んでしまう。ある意味で科学への信頼の表れでもあるのだが。
実際そう考えるのは無理もないことだと思う。学校の理科教育は当然"正しい"ことしか教えられないからだ。教科書の中の科学はすべて正しいんだから、"すべての科学(とそれっぽいもの)"は正しいと考えるのはまあ自然である。
しかしこれでは見過ごされるポイントがある。教科書の中の科学でさえ、最初からまったく正しかったわけではないということだ。残念ながら普通の理科の授業(初等、中等、もしかしたら少なくない数の高等教育でも)では時間の制約上、そういうことに言及されることはない。事実は事実として(初めからそうであったように)教えられる。むろんこれは間違ったことではない。学校教育の宿命かもしれない。
科学が今のような強固な体系を持っている理由のひとつは、科学が広い意味で積み重ねの産物であることだ。それもただの積み重ねではなくて、数えきれないほど多くの科学者による検討と実験による再現性のチェックなどを経たものだ。学術論文をはじめ科学的知識はピアレヴューや引用、反証とそれに対する反論なんかの積み重ねで、ある水準の確かさを保っている。
この、科学の正しさが積み重ねられたものであるという認識が、世間には意外とないんじゃないかと思うのです。これはつまり、いわゆる"通常科学"とよばれるものの認識、に近い。
こういう科学の"裏側"みたいなものはあまり世間では語られないような気がする(実際、日本では科学の高等教育を受けた人でさえ学部なら4年生になってはじめて(すこしだけ)わかるようなものだろう)。それで科学的事実は科学的事実として生まれる、みたいなイメージが固定化されたら、"科学のベール"をまとった主張をすんなり信じてしまうのは無理もない。相手がそれを逆手にとって、初めから騙す気でいるならなおさらだ。
教育の力は大きい。すくなくとも義務教育は全国民が受けるのだから。理想論ながら、理科教育は科学の多く(ここは大事ですね)は積み重ねの営為によってその確かさ正しさを増してきたのだという認識を育む教育であるべきだと思う。そして"通常科学"におけるその過程をもっと積極的に教えるべきだと思います。要するに科学が"正しい(確かな)こと"をつくる過程、科学の裏側がもっと世間に知られることが大事なのではないかと。
「科学的」だから正しい、という前提が世間にあるために、「科学的」なものの"絶対化"が促進され、その権威に付け込んでニセ科学が跋扈する。そしてニセ科学を批判するために科学の言葉を使うと、社会は科学のなかの対立だと見なして、科学全体に不信感を持つ。さらにこれによってニセ科学に「(ニセ科学を批判している)科学は常に正しいとは限らない」という言い訳を与えている。科学の妄信的権威化の前では、ニセ科学は光に対する影のようなものだ。
まず社会が前提とすべきは、科学の知識の多くは積み重ねによってより正しい(確かな)ものになっていく、さらにいえば、いまこの瞬間もそうなっていっているという認識ではないか。より実践的な意味で重要なのは、ニセ科学は単に科学的な誤りというだけではなくて、現在の日本のニセ科学のすべてが、科学者の真摯な積み重ねを無視・拒否していることです。しかし、こういった認識はまだ一般的でないような気がします。
もちろん、科学的真理というものがあるとすれば、それは科学者コミュニティの中の多数決で決まるというものでは決してない。単に時間が解決してくれるものでもない。時には、そのときの科学ではまったく説明のできない問題が生じ、"ただの積み上げ"だけでは科学の正しさが保証されない場合もある(というか何度もあった)。しかしながらニセ科学はクーンの言う"危機"の発端ではないだろう。むしろ"通常科学"のなかで淘汰されるべきものだ。
ニセ科学という影に対峙するためには、むやみやたらな科学の絶対化は止めるべきだ。しかし、「じゃあ科学の相対化!」という(お決まりの)流れになるのではなくて、まずは世間にある静的な科学観をもうすこし現実にそった動的なものにかえていくべきではないだろうか。科学教育や科学コミュニケーションの出番はここにあると僕は思うのです。
そのためには、たとえば理科教育に科学史や科学哲学や科学社会学のエッセンスを加えてみるだとか、また理科の時間に拘らず、国語、社会科の時間に科学という営みのエッセンスを振り分けてもいい。あるいは実際の研究の前線を知っている博士号教員を増やすだとか、そういうやりかたもあるんだろうと思う。
科学の楽しさ素晴らしさを知ってほしい!っていう理科教育はもちろん素敵である。いっぽうで、科学とはどういう営みなのかということを誠実に教えること、あるいはいっしょに考えていくことは、科学のもたらす"正しい"知識を教えることと同じくらい大切なことではないだろうか。"科学という営み"についての観点も含めて、"科学リテラシー"なのではないかなと思うのです。
要求するだけなら、実は簡単なんです。例えば、私は耳から聞き取ることが苦手です。だから、「指示はメモやメールなど、目に見える形で頂けると助かります」と申し上げることは出来ます。ただ、「ボイスレコーダーを隣に置いて仕事をし、指示を上手く聞き取れなかったときはレコーダーを聞き直しながら仕事をしてもいいですか?」でもいいと思うのです。また、私が思いつかないだけで、他に配慮して頂ける方法もあるかもしれない。
言うだけ言えばいいんじゃねそれ全部…
その中で、どんな配慮がいい?と尋ねられても……申し訳ないですが、それは私には分からないです。メモを渡す方が都合のいい職場もあるでしょうし、メモを渡す余裕のない職場かもしれない。どんな配慮が出来るかは、職場によりけりだと思いますから。
それはあんたの「言うだけ言う」を受けて職場が考えることじゃね…
また、これは純粋に、他の方からのご意見を聞きたいと思っていることですが、
貴方が面接側の立場だったとして、一方的に「ああして欲しい」「こうして欲しい」と要求ばかりする求職者を採用したいと思われますか?
どうして欲しいかわからない人よりはニーズ述べる人のほうが入れ易いんじゃね…
譲歩するとかしないとかは
互いのニーズすり合わせる段階で(入社した後で)考えることじゃね…
だから、私は障害については出来るだけ説明するようにしており、
意図的だろうとなんだろうと
具体的なことが何にも書いてない&聞くと口ごもる人は採用しづらいよね…
それって「私との連絡は全部テキストベースにして欲しい!ここは譲れません!」よりずっと採用しづらいってわかってる?
貴方が私の立場なら、どう返答されるでしょうか。
私が貴方なら、自分のして欲しい具体的なことを思いつくだけ最初に全部言います
内容は広く、言葉としては簡潔に
その際の細かいコツとしては
>「指示はメモやメールなど、目に見える形で頂けると助かります」と申し上げることは出来ます。
>ただ、「ボイスレコーダーを隣に置いて仕事をし、指示を上手く聞き取れなかったときはレコーダーを
>聞き直しながら仕事をしてもいいですか?」でもいいと思うのです。
こういうのはあまり良くない
あなたとしては誠実に様々なオプションを示しているつもりであっても、
口頭で聞いてる相手はなにか、扱いきれないほど膨大で煩雑なことを言われてる気になる可能性はある
貴方が言っていたこと全てを含みながら簡潔で、相手も聞きやすくなります
なんでもないような感じに広範な事を要求するのが大事
どう返答されたらわかりやすいものになるでしょうか。
あなたの障害に対して必要なコストが「自分達に対処可能なものか」について気にしてると思います
あなたは自分の障害についてわかってる範囲で「こういうことが必要ですよ」と言えばいい
もっと言えば「それなりの便宜は必要ですけど、あなた達がコントロール不可能なほどの事は何もありませんよ」
と示してあげればいいだけ
まず、私の中では、
障害者=怒られない、は存在しない。また、障害者=必ず配慮されるべき者……ではないような気がする。
そもそも、間違えた部分は、注意されるべきだし、怒られるべきだと思う。指摘されなければ、間違いは分からないのだから。
理不尽なのは、『何故』怒られるのかが『分からない』こと。なぜなら、『分からない』ままだと、『直す』事が出来ないから。そして、直す方法を考える手段がないまま、『直せ』と言われるのは、流石に理不尽だと思う。
ただ、それを説明するのは難しい。なぜなら、これまでの人生で口にした時は『言い訳』としか取られなかったから。
ーーと、その辺の所をぐだぐだ説明した(注:たしか、このあたりで泣き始めた)ところ、
あなたのこれは悪いけど面接という限られた時間、限られた目的のフォーマルなシーンでは真面目すぎるし深すぎる
相手がそういう話を求めてなかったのはその場に居なくてもわかる
貴方にとっては障害が日常であるからそりゃ障害についての考察は深く深くなるだろうけど
相手はその道の初心者だと言う事を貴方の方から配慮しないといけない
他の面接の例にするなら
「在学中に〇〇の研究をしたそうですが、どんなものですか」って聞かれたとして
その会社と関連性のある部分だけダイジェストにして簡潔に喋るよね
その研究の科学史上の深い意義や本質とか、それやってるときの自分史とか、研究完成間近に愛犬が死んだドラマとか、
>「普通の人なら、間違えたら『違うやろ』って叱れる。でも、障害者の人を叱ることは出来ない。
>なぜなら、障害が原因で間違いを起こしていたとしたら、それを叱るのは理不尽でしょう?
>それならば、そもそもその向かない仕事はしてもらわずに、出来る仕事をしてもらえばいい。
>でも、貴方のように目に見えない障害で、何を配慮したらいいか分からないと、こちらもどうもしてあげられない。
例えば
仰るとおり、私の障害は一目で見てわかるようなものではなく、ご心配の趣旨はわかります。
そこで私は本日、自分の障害のある分野を簡単にまとめたレジュメを持参いたしました。
これに目を通していただくことで、私の障害の傾向やパターンのようなものは
どうぞよろしくお願いいたします。」
と述べれば
相手の質問が不明瞭なままでも話の流れはこっちの都合に沿って進むし
相手もそれに沿って会話を続行するよ
「どう思う?」っていう質問は確かに指示方向が広範で、あまり真剣に考え出すと意味がわからなくなる
そういう質問の仕方をする人は、慌ててるか、頭が悪いか、どっちにせよ混乱してる
私はそういう時は全部自分の都合のいい方向に回収して自分の演説おっぱじめちゃうしそれで得をしてきた
ぱっと見ると貴方には「図々しさ」と「相手の立場を読む心」と「適当さ」が足りてないように見える
過去に「図々しい」とか言われた事があってその反動でそうなってるの?
ただし深いレイヤーは避けて、浅く浅くね