はてなキーワード: 禅問答とは
ニュースで、「補償金に充てることはできないが、協力金に充てることはできる」と半ば禅問答のようなことが起きていますが、なぜこんな面倒なことになるのかを。
日本国憲法では補償について定めてあり、補償対象が憲法の定めに合致しているが法律に特段の定めがなければ、憲法の定めにより補償金の支出を請求することができるという考えが一般的です。
だからといって無際限に認められるわけではありません。
ある街で、都市計画道路を通すために、一定規模以上の建築を認めない区域を定めていたのですが、いつまでたっても60年たっても道が通らないために、その区域に土地を持つ人が、「いつまでたっても土地を利用できないのはおかしい!補償せよ!」と訴えました。
このことについて、最高裁判所まで訴えた結果、「一般的に当然に受忍すべきものとされる制限の範囲を超えて特別の犠牲を課せられたものということがいまだ困難であるから、(原告)らは、直接憲法29条3項を根拠として上記の損失につき補償請求をすることはできないものというべきである」(最判 H17.11.1)という判断により、訴えが退けられました。
この最高裁判所の事例では、
今回のコロナによる自粛については、かなりあらゆる業種ですので「特別の犠牲を課せられた」とは言いづらいです。
また、「受忍すべきものとされる制限の範囲を超えて」いるかというと、仮に開けていたとしても多くのお客さんは来ないことも想定されるので、受忍すべき範囲ともいえます。
ですので、補償の実施を前提とするならば、1つ目のハードルは、あまりにも広範囲に自粛要請をかけたため、また、その結果として、特別な犠牲ではなくなってしまったため、受忍すべき範囲が広がってしまい、補償を正当にする根拠がなくなってしまったところをどうカバーするのか、という論点が待っています。
税金の場合は現役世代に、国債の場合は将来世代にその負担を移転させることになります。いずれにせよ、その国民がどこかでそのツケを回収することになります。
となると、適切な「補償」をする必要があります。どんぶり勘定で、この店には100万、この店には10万とはできません。
ここで「補償」をするべき対象は、「コロナウイルスの感染症の拡大による営業自粛の影響」による利益の減少と言うこととしましょう。
これまで経営があまりうまくいっていなかった場合、「コロナウイルスの感染症の拡大による営業自粛の影響」による利益の減少と区別するためには、何が必要でしょうか。
また、「コロナウイルスの感染症の拡大による営業自粛の影響」の利益の減少と、同時期に営業を自粛しなかったときの利益の減少の区別は、何が必要でしょうか。
少なくとも税金を使う以上は、これらについて適切な説明が与えられる程度には「補償」の根拠資料が必要です。
土地の収用のように、土地の価値がわかっていてその土地価値相当額を支払う話とは異なる性質のため、その資料を用意できるかどうかかなり困難なことが想定されます。
協力金は、単に協力したという事実で支出することができます。つまり、補償の根拠となる証明も必要ないですし、補償金の支出にそもそも該当するかどうかなんていうのも考えなくていいです。
これらを審査する必要もないですから、すぐに支払うことができます。なので、多くの自治体では協力金という形態をとるのです。
税金を使い、政府や自治体がやる以上、この状況は解決しないと思われます。
商品券の発行制限を緩やかにするなど、企業に個人のお金が直接入る仕組みを作ること、これが一番のヒントのような気がします。
もっとも、協力金はより柔軟に支出しても、この状況では違法な支出として監査までなかなかいきづらいでしょうから、やっても良いとも思います。
ただ、生活保護の不正受給に対してもあれだけ厳しい視線が向けられているのであれば、とりあえずお金を出すということはなかなか難しいように思います。
(給付金もあとで税金で引き去ればいいという方も多いですが、結局線引きをどうするだの、そもそも時間の利益あるじゃないかなど、論点は多いです。)
牧瀬里穂です!
ウソです。
どこかの増田で見た
じゃクリスマスのプロなら何を食べるのかという禅問答があって、
そもそもとして
クリスマスのプロって言う時点でなんだかジワジワくる面白げがいとおかしだわ。
で結論までは読んでないんだけどクリスマスのプロって結局何を食べてるのかしら?って疑問よね。
ドタドタドタドタ!
やっぱりクリスマス島でセンメリを聞きながら食べるケンタッキーフライドチキン炊き込みご飯は女将の自慢の一品ですよね!って
青く丸い固形燃料でひとりひとりずつ炊く一人分の釜の釜飯のごとく、
その一人用に炊き込まれたケンタキーフライドチキン炊き込みご飯は、
定着するんだわって思った。
でね
boaさんのメリクリを空耳アワードグランプリの審査員でしか見かけないマーティフリードマンさんがカバーして歌ってるメリクリの曲が私は大好きなのよね!
でも簡単にケンタッキーフライドチキン炊き込みご飯は私にもできそうなので、
となるとさ、
ケンタッキーのプロはクリスマスに何を食べるのか案件も出てくること濃厚じゃないかしら?
きっと美味しんぼの山岡士郎さんが「俺が本物を食べさせてやりますよ!」って
プロレスでリングの場外でプロレス技を選手ごと食らって真っ二つに折れるあの会議机をバーンとと叩く最近見ない姪っ子とおじさんはともかくとして、
美味しんぼの山岡さんが「たべさせてやりますよ!」って行って手を突くあの会議机よ。
会議机で思い出したんだけど、
あれ危なくない?アスファルトの上にそのまま突き落としたり、
でさすがにそれは痛そうだからって
路上で技を掛けるとき突如どこからか出てくる若干クッション代わりの会議机がまたツボっちゃうわ。
あ!ふと思ったんだけど
私って冴えてる!
うふふ。
パンにハム挟むんだ!って訛った感じで言うと素朴な人柄を醸し出せるから真似してみてね。
ストレートのホッツ白湯は欠かさず飲むようにしている今日この頃。
なんだかそれも飽きちゃうので、
お吸い物風味にもいける昆布を使ってみたり、
他の調味料いらないし、
ちょ、調味料ってもはやこれはお吸い物の域よね。
私が本物を食べさせてやりますよ!って山岡さんばりに言ってみたいところだけど、
今日は大人しくとろろ昆布ホッツウォーラーお吸い物風うま味にしてみました。
ところで「うま味」ってタイトルに「うま」とか形容詞入れちゃ駄目よねーって
馬の味だと思っちゃうじゃない。
馬食べたことないけど。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
右の定義をなくしたら右はなくなってるよ。
例えば、かつて右腕と呼ばれた腕そのものはあるかもしれないが、それははもう右腕ではない。左腕を右腕と呼ぶこともできる。
で、ヤクザとのやり取りがみなモンスターカスタマーとの禅問答のやり取りになるんだが。
安倍が禅問答にしてないというなら、ここにある定義がされていないシシカバブーに君が当てはまってるか否か、またその証明ができるはずだ。
定義をなくすというのはそういうこと。
禅問答したいなら禅寺にいけよ
なんだそれは、高度な禅問答か。
今日もまたジャニーズの話になってしまって、無言でお茶を飲んでいた
ああこの人たちがジャニーズの話なんかしなきゃいいのに、と思うが
他人が思い通りにならないことに苛立ちを感じることは、一体何歳になれば卒業できるのか
(この歳までダメだったのだ。生涯このままの可能性の方がが高い)
悲しいことに未だ苛立ちという感情を封殺することが出来ないので、せめて隠し通そうと2人が話している間私は疲れたふりをして無言でいたのだ。(本当のところ拗ねていただけだ)
コントローラブルからは程遠い人生に翻弄され、他人が思い通りにならないことを赤ん坊のように苛立っている自分にも、この無力な人生にもうんざりするし
ただなんの意味もない気がする
きっともっと人間に近い人間に生まれられれば、こんな風に自分から一歩引かずに「どうして私が興味ないってわかってるのにジャニーズの話するの!💢」とか言って不機嫌になれてたかもしれない
そうすれば優しい友人のことだから、私に気を使って別の話題に移ってくれただろう
結局のところ、言うべきことを言わないことで人生が思い通りにいかないのだ
しかし、他人が思い通りに動かないことには苛立つが、思い通りにしたいとは思わないし
幼稚な事を言えば、後から幼稚な発言をした自分にも嫌気がさすことは目に見えている
他者と関わる事で自分を感じるとは言うが、この臆病で陰険で幼稚な人間性を感じたくないから、人付き合いは嫌いだ
人間自体は好きなのだ。話すのは好きだ。人肌も好きだ。副次的に発生する自己の認知が嫌いだ。それは特に、自分と他者が違えば違うほどはっきりと感じられる。
ああなぜ私は私なのだろう。友人すら他者と呼ぶほど他人との距離が遠い。人に心を開かない。パーソナルスペースは広くとりたい。近づいてこないでほしい。肉親の葬式でも泣かなかった。泣くべきだったのに。大事なのだが、大事分の執着がもてない。他人に興味がもてない。そして一応アスペではないのだが、軽度にその傾向が入っているのは確かで、興味のあるフリすらできない。
人は色々なものに執着していられるので羨ましい。好きなものがたくさんあったら幸せだろう。どうして好きでいられないのだろう。その辺のオスを運命の相手だと信じ込んでヒロインになれる動物的に正しい人生があってもいいじゃないか。
羨ましい。他人のことが好きで、興味を持てて、人間と常に過ごすのが苦でなく、同族と群れを作り生きる人々が。
一方で彼らのようになりたいとも思わず、彼らを嫌い嫌悪している自分もいる。
人とは仲良くしたいが、距離を置きたい。でも都合がいい時はそばにいてほしいと思うのだから傲慢だ。自分自身の傲慢さを許容できればよかったのだが、残念なことに健全な精神の育成に失敗した半生のせいで理想には程遠い自分を許すことができない。こんな傲慢な自分を人に見せるわけにはいかないので、他人とは取り繕えるだけの短期間しか会いたくない。
自己の中で色々なことが相反し、それを処理しきれない。処理しないまま傍若無人に生きている人もいて、そうなりたい気持ちと、別にどうでもいいような気持ちと、ああはならないようにしなくてはという強迫観念から逃げきれずにいる。
それはジャニーズを好きになりたい気持ちと(人間の女に迎合したい)、別にどうでもいいような気持ちと(生来興味がないのだと思う)、あんな馬鹿っぽい奴らを(と母がいつも言っていた)奴らを好きになってはいけないのだという観念によく似ていると思う。
どうなってはいけないか、どうしたらダメか、といつも考えるのだが、肝心の自分が「どうしたいか」ということはよくわからない、というかあまりその欲求がない
どうにもなりたくない。
苦しまなければそれで良いのだが、幸せを勝ち取ろうとしない限り+1どころかマイナスに陥るのが人生だろう。(下方婚増田系の増田はその辺を理解していないのではないかと思う)
人生が0に近づければそれでいいのに、漸近線で永遠に0には近づかない。プラスを望む人間は少なくともマイナスにはいないように見える。
生きていくのはよくわからない。あと10分生きること、あと10年生きること、何が違うのだろう。終いには全てなくなる。自分が死ぬことを私は観測できない。よくわからない。この溺れ続けるような人生の意味が。
上へ、水面へと、もがかなければ沈み続ける。
しかし、どれだけもがき続けようと最終的には沈む。早く沈んだほうが楽ではないか。
しかし、それは間違った考えで、世の中というのは皆が正しいということの方が大抵正しい。私だって昔は多くの間違った考えを持ち、それを正しいと信じていたいたが、成長するにつれて自分の間違いのほうが圧倒的に多いと気づいた。
つまりこの死生観は間違いである。少なくとも、幸せな人生を送るためにはニヒリズムを捨て去る必要がある。
だが、ニヒリズムとの付き合いは遡ること幼稚園の頃からのことであり、エラーのように生まれてくるニヒリストの1人が私であった不幸はもう取り返しがつかない。
意味がない人生に、「意味を見出すことが幸せである」と信じながら、見出せずに生きていくのだろう。
世の中に馴染みたい。だがそれにもなんの意味もない気がする。このような思考こそが全く意味がないことであり、今は明治時代のように人生の意味など考えている暇があったらタピオカの列に並ぶのが正義である時代だ。ああつまらない。人など皆死ねばいい。
せめてこの世に絶望することぐらいは否定しない世だったらよかった。しかし、嘆きは文句と取られつべこべ言わずに幸せになるなり死ぬならしろというのが今の世だ。
黒板の上に学級目標の「ポジティブに」の文字に押し潰されそうな気持ちでいた頃から何も変わっていない。
ただ私だけ禅問答のドツボにはまり人生を嘆いている間に、人は実態の幸せを手に入れたり捨てたりしているのだ。取り残されていくように思うが、初めから私は同じところにいなかったようにも思う。
オブジェクト指向の本質なんて禅問答に近いものだから教えられない。
ちなみに俺は問題の切り分けをしたときにその「切り口」をインターフェースによって規格化できて、
問題を構成する部品を交換可能になるるあたりに本質があるのではないかと思う。
まあそれはどうでもいいとして、プログラミング言語におけるオブジェクト指向という機能の説明なら、普通にできるでしょ。
データとそのデータに対する操作をひとまとめにしたものがオブジェクトです的な。
あと具体的にいけ。
多態性は犬とネコをワンニャーさせるのではなく、テキストボックスとボタンでそれぞれFocusメソッドを呼び出す説明をせよ。
あっ、消火器について聞きたかったのね。禅問答みたいな言い方しないで最初からそう言ってくれたらいいのにw。
では、僕の意見を言うね、
まず、この問題は聞いた話っていうのと、さらにその聞いた相手がダンプ燃やした当事者からしか聞いてないってことです。(ミニストップ店員からの話はない)
この時、コブシ大の大きさの火っていってたってことだけど、まず、ブレーキ火災は表からは見えにくい。見えた部分がコブシ大ってことなのかな?実際はもっと燃えてた可能性もある。
ってやり取りはやったことあるんじゃないかな(僕はありますww)
このように人間って自分の過失って過小申告する傾向はあるんじゃないかな??
それに、ダンプのタイヤって破裂して、ホイールカバーが近くに居る人に当たると人って直ぐ死ぬよ。(これの死亡例はぐぐれば直ぐ出てくる)
その場合、責任問題ってどうなるの??消火器貸したら貸した人も責められるんじゃないかな??
結論として、僕の意見は初期消火するのも素直に消防待つのもどちらも正しい(要するにどちらが正しいかは判らない。多分、ここは水掛け論になって結論はでないよ)
ってとこかな?
現場状況が判らない以上、ここは議論してもしょうがないって思ってる。(どうしても決着付けたければダンプ運転手とミニストップ店員が裁判でもすればいいんじゃないかい??)
それよりも、僕が言いたいことは本文に何度も書いてるようにミニストップは善意の第3者ってこと。
多分、消火活動のために駐車場整理もしたであろうし、仕事にもならなかっただろうし、ミニストップは迷惑しか被ってない。
それを無かったことにして、消火器貸さなかったから悪いって論調はおかしくないかい??
後、蛇足だけどミニストップつぶしたいって言ってる人もいるようだけど、そこの店つぶれたら、今まで待機場所に利用してたダンブ業者が一番困るんじゃないかい??
禅問答やってんじゃないんだぞ
前置きとして、この話に出てくる男性には個人的に嫌悪があるため口汚い物言いになってしまうことをお断りしておく。
その際弱者男性全体への批判のような物言いになることがあると思うが、主語のすり替えであることは筆者も重々承知している。
前もって謝っておくね、ごめんなさい。
できるだけ公正な視点で書く努力はするものの個人的な体験であるためどうしてもそういう部分は出てくるだろうから余りこの手のネタが好きじゃない人は閉じてほしい。
インターネットで良く目にする弱者男性と付き合ったことがある。
アラフォーで、年収は200万円前後で、実家暮らしで、スーツの上からでも分かるほど腹がぽっこりしていて、顔は骨格もパーツも皮膚も良くない。
何故そんなのと付き合ったのかというと、告白された時にお断りを理解してもらえなかったからだ。
「俺たち付き合う?」と聞かれた時にはっきりと「付き合わない」とお断り申し上げた。申しあげたのだ。
けれどこの男性(以降Aとする)は粘り強かった。
間髪いれずに「どうして?」と聞いてきたのだ。私も間髪いれずに「付き合いたくないから」と説明した。
そうすると今度は光の速さで「なんで?」と聞いてきた。なんでもクソもない。私も光の速さでなにかしらの説明をした。勿論お断りの方向で。
これを何回も繰り返し、あっこれは頭のヤバいやつだナ。と思った私は渋々了承した。してしまったのだ。
Twitterに生息しているAという男は私が食事をしたことを写真付きであげるとそれをRTして、その後にその店のURLを晒し、最後に「8000円のランチ。増田嬢の優雅な昼下がり」などと呟いて、それをエスプリ満載なコミュニケーションの一つだと勘違いしているような人間だからである。
それならば付き合わなければいいのに、前述の通り断っても理解しないヤバさと弱者男性への哀れみがそうさせてしまった。死ね。
無事私の了承を取り付けたAは嬉しそうに「じゃあ、よろしくのチュウ」と言って顔を近付けてきた。
女性への接触に慣れていない人間特有の「触るぞ触るぞ触るぞ」の興奮が隠しきれない鼻息の荒さで。こええよ。
早速後悔が押し寄せてきたけれど女に二言はないのだから、私は「じゃあ、よろしくのチュウ」とやらを受けた。死にたい。
機嫌の良くなったAは「オフ会であった○○ちゃんの方が君より顔はいいけど性格が嫌い。人に色々質問してくるから。男子校ですか?って聞くとか失礼だよね」や「君を紹介したら結婚詐欺だって疑われるだろうな」と嬉しそうに話していた。
○○ちゃんというのは私が大好きな女の子で、それを初っ端くさすのはどうかと思ったが、彼は哀れな男なのだと思って我慢した。後者の発言も大概である。
次にAがやり始めたのは、私の家で私の大切なものを触ることだった。
より個人に近しいもの、例えばぬいぐるみなんかをベタベタと触って「よろしく」と話しかけるのだ。なんとも言えないマーキングのような気配を感じて私は止めた。
それ以降、毎週末、それから祝日の度にAは来るようになった。曰く「どうせ俺は短い間に振られるからそれまで思い出を作りたい」からとのこと。
余談だが私はその時病気のため長期療養中でできるだけゆっくりしたかった。
これによって我が家の食費は三倍に、光熱費は二倍に膨れ上がった。
一度すき焼き鍋が食べたいと言ったAにすき焼き鍋をはじめとして五品くらいの料理を出したところそれぞれ二人分作っていたのに全て食べられたことがある。
余りのことに唖然としたが本人は「お皿分けてないからわからなかったよ。コンビニでなにか買ってきてあげようか?」と何故か気の利く彼氏のような口ぶりで可愛くすねてみせる。繰り返すが、Aはお顔の見苦しいアラフォーのおっさんである。
末っ子長男という立場の実家でなら和やかなエピソードにもなろうが、二十代半ばの私ではアラフォーの末っ子長男を甘やかすことはできない。舌を噛み切りたい。
このように自分が食べるものには無頓着で、常備菜も断りなく勝手に持ち出して食べてしまうAだったが、金銭感覚とやらには人一倍敏感だった。
ある日突然「君の家の冷凍庫にはステーキ肉があるでしょ?あんなのうちの実家にはないよ。贅沢なんだって分かってる?」と責められた。
私はAが我が家の冷凍庫をあけたことなんて知らない。なによりなぜ私が家賃を払っている家で私の払っている電気代で私の食費の範囲内で存在しているステーキ肉を贅沢と言われなければならないのか困惑した。
なんでだろう。ただの業務用スーパーの肉なのに。海外産なのに。
こういうことはままあった。
私の家の別室にいつの間に入ったのか、私の服が殆どUNIQLOであることに対して言及する。同じ口で、私の服装はハイブランドっぽいから他人に威圧感を与えるとあてこすられる。
自分で家探しして、UNIQLOであることを把握しているのに。
肌の手入れをしている時、家の掃除をしている時(余談だがAは私が洗濯物を干している方向に向かって寝そべった姿勢で放屁したことが何度かある)とにかくことあるごとに
・それは文化資本の高い裕福な家庭で育ったから身についたことだ
・そういうのは人に威圧感を与える
という趣旨であてこすってきた。一見褒め言葉とも思えるが、その時のAの表情は「世間知らずの小娘に、弱者として様々な荒波に揉まれてきた俺がものの道理を教えてやる」という優越感に歪んでいた。
これが、毎週末起こればどうなるか。
病気療養中でただでさえ体力が落ちていた私はメニエール病になった。病気のお代わりである。
実家で未だ末っ子長男の立場にいるアラフォーが呼んでもいないのに毎週末入り浸り、どんどん荷物を運び入れてくる、ついでにジンギスカンのタレ(私の住んでいる土地は北海道ではない)や生姜湯のタレやカフェオレのタレや実家にあった食べかけのスプレッドなどをお土産としてドヤ顔で押し付けてくる。
金銭感覚の狂っているところと金を持っているような見た目だけがたまに傷で、そこは俺が矯正してやらないとな。
俺が結婚してやるから、婿に入れて跡継ぎのパパにさせてね。お家のことは任せてくれていいよ。
無理だった。哀れに思って物乞いに施しを与えるつもりで付き合っていたけれど、風俗嬢とキャバクラ嬢と家政婦とママと財布のハイブリッドにはなれない。
金銭感覚が狂ってるのはあんただ。他人の家で好き勝手食い散らかして、風呂も毎日溜めて、家事も食事の世話もしてもらって当たり前と思ってるけど年収200万円でそんな生活はできないんだよ。
実家暮らしでそれが当然になってしまってるお前の金銭感覚の方が狂ってるんだ!
そう言いたいのを飲み込んで私は「うちに置いてる荷物を持って帰ってね」と通告した。泣いてたけど知らない。
禅問答のような告白劇からわずか一ヶ月半のことだったが、色々と我慢の限界だった。
うちに持ち込んだ荷物は手提げ二袋に詰めてもまだ残っていたので、私が大きい段ボールに詰めて送った。
私に了承を得ていない様々なところに荷物を置いていたので探し出すのに苦労した。
別れた後もオフ会した女の子の品評が送られてくるなどした。「焼肉奢ってやる価値なんてなかった」「デブだった」「立ち居振る舞いに品がなかった」「増田がどれだけ素晴らしいか分かった」
うるさい、死ね。腹がぽっこりしてるアラフォーのおっさんが女子大生に向かってなにを偉そうに。その子が可哀想だ。
またまたその後便箋七枚ほどに及ぶ懺悔の手紙が送られてきた。字があまりにも汚かったので、読めたところだけを要約すると
「コンプレックスに苛まれていろいろとしたことを反省します。プライドが邪魔をしてしまったんだ。だって俺は稼げないし」
稼ぎがどうこうじゃなく人間性の問題であることを理解できないのが哀れだと思ったが。
後日談として、
その後Aは自分のコンプレックスを払拭するためか親にいれている金を免除してもらって株式投資をはじめ、順調に年収分くらいの損失を出しているらしい。
異性として見られる魅力もなく、自信となる稼ぎもなく、実家暮らしで萎えた自立心と金銭感覚、末っ子長男扱いと狭い人間関係で肥大しきった自己評価
彼の不幸の全てが弱者男性という社会問題のせいとは言わないけれど、でも私は二度とその手の男性に近づかないだろう。
たとえ差別と言われても、この記事に書いた奇行、書ききれなかったその他の様々なコンプレックス由来の奇行どちらも私を頑なにするには充分だった。