はてなキーワード: 神隠とは
ごちうさの3期が終わり、『ゆるキャン』と『のんのんびより』へと続く。これから少なくとも3ヶ月先は移住先を探すこともない安泰な日々が続く。
しかし、ここから先はどうなるのか。さらに先に『まちカドまぞく』の2期があるが、1期より作風が変わると聞く。ひょっとすれば、『NEW GAME!』のようにいざこざの多い作品に変わっていくかもしれない。日常系アニメの新作がないかと不安になっている人がいるはずだ。
そういえば、アニメ化が発表されたきらら原作漫画は『球詠』だったよな。この作品を最後にアニメ化の発表がされた作品が現れなくなって1年半も経つ。
しかしながら、これからアニメ化の発表がされるきらら原作漫画が増えていくだろう。だが、それと同時にきらら原作アニメに対して「自分が期待していたものと違う!」という批判が急増していくと思う。
なぜなら、まんがタイムきららからきらら系と呼べるような日常系が減ってきているからだ。
私は日常系アニメが大好きできららの雑誌を読んでいる身だ。未来の日常系アニメが出てくることを楽しみにしていた。
しかし、私は、2018年ぐらいから、きららの編集部は日常系を冷遇するようになったと感じた。
そして、きらら編集長のインタビューを読んで、まんがタイムきららから日常系がなくなるのは確実だと確信した。
ただ、最初に『ひだまりスケッチ』がアニメ化し、『けいおん!』、『GA 芸術科アートデザインクラス』と続いていって、きららといえば女子高生4・5人の学園ものという印象が我々の想像以上に強くなってしまった。もっと4コマに多様性を見出そうと思って企画したきららが、いつの間にか多様性のなさの象徴みたいになってしまっていたんですね。どこかで一度その固定観念を壊して、新しいきららの形を作らなければいけないと思い、2011年に「まんがタイムきららミラク」を創刊しました。
芳文社創立70周年を迎えて。「まんがタイムきらら」編集長が考える“これからの日常系”の形
やはり、「きららといえば日常系」という風潮に対して、きらら編集部は好ましくないと思っていたようだ。
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では、まんがタイムきららについて振り返ってみよう。
2011年に『あっちこっち』、2012年に『夢喰いメリー』のアニメが放送された。「まんがタイムきららは日常系だけではない」とアピールする機会になり得たが、いずれも成功したとはお世辞にも言い難かった。特に『夢喰いメリー』は原作ファンから酷評をされている。
2013年に『ゆゆ式』のアニメが放送し、『きんいろモザイク』『ご注文はうさぎですか?』へと続いた。この頃に「まんがタイムきららといえば日常系」というブランドイメージが確立された印象だ。
きららに対するイメージが確立された後も、日常系ではないきらら原作漫画がアニメ化して放送されたが、そういったアニメが日常系アニメに比べたらヒットしているとは言い難い。
一方、編集部から大きな期待が寄せられたまんがタイムきららミラクだが、けいおんやゆゆ式のような大ヒット作が現れず、2017年12月号を最後に休刊してしまった。
そして、ミラクの末期の頃から、既存のきらら系列雑誌の作風が変わっていった。
まず、2018年から2019年前半ぐらいかけて、まんがタイムきららMAX連載の未アニメ化作品が、2~3巻分の短期で、次々に連載終了していった。特に『どうして私が美術科に!?』の連載終了はきららの読者に大きな衝撃を与えた。元々、きららMAXは、前衛的な作風やマニアックなネタを扱う作品が多かったが、ミラク創刊の影響で、きららMAXは萌え要素が多い作品が増えた。ミラク休刊を期に、尖った作品が増えてきた。
さらに、『ななどなどなど』のような和気あいあいとは言い難い作品や、『RPG不動産』のようなファンタジー系の作品が増え、『奥さまは新妻ちゃん』『一畳間まんきつ暮らし!』『メイドさんの下着は特別です』のような男性読者に媚びたお色気要素が強い作品も出てきた。
そんな中で編集部からプッシュされていた印象が強いのは、きらら本誌で連載していた『甘えたい日にはそばにいて。』である。この作品は『幸腹グラフィティ』の作者、川井マコトが送る小説家の少年とアンドロイドの少女の恋愛を描いたシリアスな作品だ。
きらら作家としてそこそこ知名度があるとはいえ、アニメ化されていない作品としては破格の待遇で編集から猛プッシュされていた。3回連続でセンターカラー連載したし、1巻発売当時、アニメが放送していた『スロウスタート』との合同フェアを行った。
しかし、鳴り物入りで連載されていたにも関わらず、アニメ化されることなく3巻で終わってしまった。
そんな長期に渡る試行錯誤だったが、きらら編集部の期待に応える傑作がようやく現れた。それは『ぼっち・ざ・ろっく』である。
『ぼっち・ざ・ろっく』は、これからのまんがタイムきららを語る上で絶対に外せない作品である。
この漫画は、タイトルが示す通り、陰キャな主人公がバンドに加入してロックスターを目指す王道のロック漫画である。間違えても『けいおん!』と同じようなものを期待して見るものではない。むしろ、『けいおん!』が嫌いだった人が見るものだ。個人的には、この作品が売りにしている主人公の顔芸と陰キャネタが生理的に受け付けない嫌いな作品だ。
『ぼっち・ざ・ろっく』はとにかくすごい。単行本1巻発売日直後に重版がかかり、LINEスタンプが発売された。そして、「次にくるマンガ大賞 2019」で8位にランクインした。
おかげで、きららでは陰キャ主人公モノブームが巻き起こっている。そのブームは、荒井チェリーというきららの創刊期から連載作品を持つベテラン作家ですら巻き込んでいる。列挙すればこんな感じだ。
そんな『ぼっち・ざ・ろっく』にアニメ化の話が来てもおかしくない状況だと言える。では、肝心の出来はどうなるのか。制作会社ガチャと呼ばれる風潮が強いが、それに関しては心配する必要はないだろう。
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ここからは、個人的な妄想。内情を知らないので、今後どうなっていくかは、まだ分からないことだということに留意してもらいたい。
テレビアニメ『ぼっち・ざ・ろっく』は、アニプレックスが間違いなく神アニメにしてくれるはずだ。きららの切り札である以上、粗末に扱われることは絶対にないだろう。作画に関してはしっかりした制作会社を選ぶし、脚本だって原作ファンからの高評価であふれかえっているので十分保証できるだろう。
それで、なぜ『ぼっち・ざ・ろっく』の話にアニプレックスを出すのか?
その大きな理由はソーシャルゲーム『きららファンタジア』にある。このゲームはアニプレックスがパブリッシャー(配信元)でドリコムがディベロッパー(開発元)である。
『ぼっち・ざ・ろっく』の連載が始まる頃は、きららファンタジアの販促に力を入れていた時期だった。それを象徴するアニメは、2017年秋季に放送された『ブレンド・S』と、2018年冬季に放送された『スロウスタート』である。この2作品は、アニプレックスとドリコム、そして芳文社が製作委員会に名を連ねている。
この頃のきらら編集部はアニプレックスを強く意識していたんじゃないのかな。特に『ぼっち・ざ・ろっく』の場合、その傾向が強く表れていると感じる。主要人物の名前は、ASIAN KANG-FU GENERATION(アジカン)のメンバーが由来だ。アジカンは、アニプレックスの親会社、ソニー・ミュージックエンタテインメント所属である。ここから、作者と編集は、構想の段階でアニプレックスを意識していたのだろうと推測している。
『タイムパラドクスゴーストライター』というジャンプの打ち切り漫画には、「実は(アニメ化の)オファーだけなら、早い作品だと1話目の次点で、もう来るんだよ」というネタ画像がある。ひょっとすれば、『ぼっち・ざ・ろっく』は、比較的早い段階でアニプレックスからオファーが来ているのかも知れない。逆に、芳文社からアニプレックスにアプローチしていたのかも知れない。それだけ芳文社とアニプレックスの距離感が近いはずだ。『きららファンタジア』が配信されたばかりの頃は特に。
そういえば、こんなTwitterアカウントがあるけど、遅くてもこのアカウントが作られる前からアニメ化が決まっていたんじゃいないのかね。主人公が演奏動画の投稿をきっかけにSNSを始めるエピソードだけど、このアカウントの初ツイートが2019年8月16日、このエピソードが掲載されているきららMAX発売日は2019年08月19日である。早すぎないか。
ファンがやるにしても、フラゲでもできないだろう。最新のツイートあたりに、音楽が流れる一枚絵があるけど、この絵は作者が描いたものじゃないよね。ひょっとしたら、アニメの作画担当が描いたものかも知れない。ちなみに、Twitterは、YouTubeやニコニコ動画とは違って、JASRACと許諾契約をしてないから気をつけてね。
『きららファンタジア』は、リリース開始期に多くのトラブルに見舞われて短命で終わるとささやかれていた。しかし、そんな悲観的な予測を超えて、2020年の12月にリリース3周年を迎えた。それを記念してメインクエスト第2部がリリースされた。これから、またアニプレックスのきらら原作アニメが増えていくのだろう。そのトップバッターは『ぼっち・ざ・ろっく』になるに違いない。
ビジネスは出だしが肝心だ。アニプレックスと芳文社は『ぼっち・ざ・ろっく』にまんがタイムきららときららファンタジアの命運を賭けるつもりでいるに違いない。それ故に、アニメスタッフは錚々たる顔ぶれがそろうし、宣伝にもかなり力を入れるはずだ。
具体的には、『鬼滅の刃』のプロデューサーを担当した高橋祐馬、『紅蓮華』を作曲した草野華余子、「チカっとチカ千花っ」で大きな反響を読んだ中山直哉が名を連ねることになるだろう。ロック界の重鎮たちも出てくるんだろうね。アニメーション制作はufotableが最有力になると考えている。次点は、A-1 PicturesとCloverWorksだ。
ぶっちゃけ、このアニメに鬼滅の刃のスタッフが集うことすらあり得ると思う。宣伝映像の冒頭に「鬼滅の刃のスタッフが送る」というナレーションを添えるだけで、誰もが飛びつくに違いない。まさに鬼に金棒。
テレビアニメ『ぼっち・ざ・ろっく』はアニメファンはおろか一般人ですら唸らせる出来になり、アニプレックスと芳文社が望んだ通り大ヒットするに違いない。そして、「きららといえば中身のない日常系」というネガティブイメージを抜本的に改善していくだろう。
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これがどれくらい当たるのか。答え合わせは2021年1月19日から始まるだろう。まんがタイムきららMAXの発売日だ。その次の月の2月25日は『ぼっち・ざ・ろっく』の単行本3巻が発売される。その間に、重大なニュースがやって来るはずだ。
いずれにせよ、きらら編集部にとって『ぼっち・ざ・ろっく』はまんがタイムきららを変える大きな存在だということには間違いない。
実際、ごちうさ3期に放送されたきららMAXのCMで紹介された作品は、ごちうさときんモザとこの作品だけだった。新型コロナウイルスのせいかもしれないが、はっきり言って、きららMAXの未アニメ化作品は「『ぼっち・ざ・ろっく』以外は雑魚」という扱いなんだなと感じた。それだけ、『ぼっち・ざ・ろっく』の注目を集めるのに必死なのだろう。
私はきららの雑誌を読んでいて、日常系が減ってきていると感じていた。
きらら編集長のインタビューを読んで、きららから日常系が消えていくのは確実だと痛感した。
きらら編集部は『ひだまりスケッチ』や『けいおん!』がヒットしたときから、「きららといえば日常系」のイメージに危機感を持っていたのだ。
きららの編集長はインタビューで「多様性」という言葉を使っていたが、我々が持つきららに対するイメージに対して、作者も編集もプライドが許さないのも大きな理由の一つなのだろう。そりゃそうだよな。自分たちで一生懸命作って世に出した作品を、きららというだけで、萌え日常系と言うだけで「中身が無い」とか「低俗だ」とかと酷評されたら誰だって傷つく。そんなイメージを払拭したくなるのは当然の話だよね。
10年以上前から受けてきた屈辱を晴らそうと、長期に渡る試行錯誤の結果、『ぼっち・ざ・ろっく』という今後のきららにふさわしい作品が表れた。あとは、大ヒットを目指してアニメや宣伝に力を入れていけばいい。そして、『ぼっち・ざ・ろっく』に続く「中身のある作品」を出していけばいい。そうすれば、まんがタイムきららから「中身のない日常系」は駆逐されていくだろう。
だから、私は言いたい。
先日の三連休の日曜日、AirPodsが無くなった。とは言ってもケースだけが無くなった。移動したところといえば、ベッドとトイレと食事ぐらいだったのに、無くなった。ベッドをひっくり返しても、ゴミ箱を探しても、移動した部屋、廊下をくまなく探してもどこにも見つからない。無くした心当たりは全くなく、記憶を辿ってみても、やはりポケットの中か、ベットの上にあるはずなのだ。
たしかにモノを無くすことはあるが、こう、不自然なほど突然、神隠しに遭ったかのように消えてしまうのは初めてで、不思議で仕方ない。ちなみに寮生活で、周囲の人に聞いて周り、探すのも手伝ってもらったが、見つからない。次第に、自分の中で誰かが盗ったんじゃないかという疑念が湧き、疑心暗鬼になったが、どうやら周りに不自然なそぶりを見せる人間はいないし、そもそもイヤホンケースだけを盗むことは考えにくい。だとしたら、どこに消えていってしまったのだろう。
無くなったショックが大きく、なによりも堪らなく不思議で、今週は気が気でなく、生きた心地がしなかった。飯の味がしない。消えたアイツはいま、どこにいるのだろうか。誤ってゴミ箱に捨ててしまったのか、トイレに流してしまったのか。どこか寒いところで雨に怯えてはいないだろうか。あるいは平行世界の自分が、身に覚えのないイヤホンケースを手にして驚いてはいないだろうか。あらゆる可能性を考えてみるが、一向にケースは出てこない。探すのをやめたとき、ふと見つかるというが、そんなこと言ってみても見つからないものは見つからないのである。
幸いなことに無くなったのはケースだったから、新しいものを買うことにし、ひとまず探すのを諦めたが、不思議なものは不思議で仕方がない。それにアイツ(イヤホンケース)はもう、その生まれ定めし役目を果たすことはないだろう。やるせない、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。ひどく、つらい。きっとアイツはどこかで、ひとりぼっちで彷徨っていることだろう。ここに彼の冥福を祈りたい。
私は一介の十二国記ファンである。中高生の頃にはまり、「白銀の墟 玄の月」で再燃した。
本記事では、十二国記世界の疑問点について語り、次回の短編集の内容について、時には私の好みで脇にそれつつも、予測したい。その途中で、私自身のこの作品に対する解釈や思い入れにも立ち入るかもしれない。
各物語のあらすじについては、熱心な読者が多いと思われるので、略す。さて、この順で読み返すと、次のような傾向がみられる。すなわち、王と麒麟の視点から見た世界よりも、庶民から見た世界の比重が大きくなっているのだ。確かに、「月の影 影の海」では陽子は大変な苦労をして玉座に上り詰めるし、「風の万里 黎明の空」「黄昏の岸 暁の天」では、いかに王としての責務を果たすかが語られる。一方で、同じ「風の万里 黎明の空」は民衆のレジスタンスの物語であり、それがさらに大輪の花を咲かせるのが「白銀の墟 玄の月」だ。これは都市の規模ではなく、国家規模にわたる抵抗だ。
もう一つの傾向とは、読者層の拡大である。もともと少女向けレーベルで出版されたからだろうか、十代の少年少女にとって教訓となるような個所は少なくない。「風の万里 黎明の空」における鈴、祥瓊の扱いを見れば顕著だ。一見同情すべき境遇にいるようでいて、それに甘んじている彼女らを待ち構えているのは叱責であり、罰である。この年齢になって読み返すと、幾分説教臭く感じなくもない。
しかし、「丕緒の鳥」からシリーズ全体の印象ががらりと変わった。組織の中で働く官吏や、避けられない災害を前にして自分のできることに必死になる民衆の姿は。年齢を重ねた読者の心も打つ。少女向けとされる小説から最も縁遠いように思える、中高年の男性もうならせるだろう。この作品は、あまりにも不条理な世界で生きる人々へのエールとなっている。
つまり、これから尚隆や陽子の視点から物語が描かれることは少なくなるのではないか。きめ細やかな民の物語を描くとき、王の存在は強すぎる。「東の海神 西の滄海」も、一歩間違えれば「俺TUEEE」っぽくなってしまう(そうならならずに尚隆が有能かつ魅力的に描ける腕前がすごい)。そう考えると「白銀の墟 玄の月」で出てきた尚隆は作者なりの大サービスだったのかもしれない。それに、神隠しにあった泰麒で始まった物語は、一応は解決しているのだ。王や麒麟のこの先に物語は、長編としては出てこないかもしれない。
前項でも述べてきたが、次に尽きるだろう。
十二国では天帝が定めた天綱が憲法としてあり、王が定める国法、地綱はそれに反することはできない。また、州の法律も王が定めた法に反することはできない。
天帝は民に土地を与え、それを耕すことで生計を立てるように命じた。逆に言うと、天の設計した社会では、民衆は生まれた里で農業だけをして過ごすことしか想定されていない。
しかし、現実はそうではない。「図南の翼」に出てきた珠晶の家族のような大商人もいるし、「白銀の墟 玄の月」に出てきた宗教関係者もいる。冬器を作る工房もある。私塾もあれば宿もあり、雁のように豊かな国では副業で馬車を出す者もいるし、事実上の奴隷だっている。
そして、最大のイレギュラーが定住民でさえない黄朱の民だ。彼らが歴史に関わってくるあたり、実際の中国の歴史にもよく似ている。
言い換えると、天は王と官吏と農民だけの世界を想定していたが、天の条理の隙間を縫う形で民は複雑な社会を形成してきた。そして、この世界の民衆はルールの穴をつき豊かに暮らしているし、謀反を起こす力もある。これは、専制君主の世界ではあるけれども、ランダムで選ばれた大統領に支配される民主国家の姿に、少し似ているのだ。私たちの世界の大統領・首相も間接的に選ばれるため、民意がどこまで反映しているか、はっきりしていないところがある。十二国世界は、実は私たちの世界の鏡像なのだ。
今後の作品の傾向としては、黄朱の民のように条理からはみ出てしまった人々にもスポットライトがあることと思う。と同時に、黄朱の民はこの世界の条理に生じた大きなほころびでもある。現に、彼らの里木はよそ者が触れれば枯れる、大きなペナルティを負っている。
それと、この世界では思いのほか宗教がしっかり根付いていた。我々が最初にこの世界の宗教を教えてくれるのが合理主義者の楽俊だったため、この世界の人々はあまり天に頼らない印象を受けたが、子供を授かるには祈るほかはないわけで、むしろ熱心な信仰がないと不自然であった。
十二国記が元々は少女向けに書かれたことをうかがわせる設定はいくつかある。例えば、王と麒麟の運命的な出会いだ。女性向けフィクションにはオメガバースをはじめとして、そうしたパターンが多い印象がある。もう一つはときとして未婚の女性をひどく不安にする妊娠・出産からの「解放」だ。女性の苦痛が大幅に減らされており、またこちらの世界とは異なるいくつかの価値観も女性に優しい。王も麒麟も官吏も(軍人を除けば)男女同数だし、子供のいる女性は再婚相手としてむしろ歓迎される。ジェンダーSF・フェミニズムSFとして十二国記を読み解くことも可能だろう。血縁意識が薄いのもその傾向を示している。とくに、楽俊はこちらの遺伝について、似たような顔をしたやつが同じ家にいるのが薄気味悪いのでは、と漏らしている。
しかし、この期待は裏切られる。ここはけっして楽園ではなかった。「白銀の墟 玄の月」のなかで李斎は、男社会の軍隊で生きる女性の苦しさを吐露する。また、明らかに性暴力を受けた女性も登場する。それに、序盤からすでに妓楼も登場している。この世界のセックスワーカーがどれほど過酷な生活を送っているかは不明だが、妓楼に行くことはあまり道徳的に褒められたものではないようである(余談だが、楼閣が緑色に塗られているのは現実の中国にもあった習慣であり、「青楼」と呼ぶそうだ)。
考えてみれば、官吏は女性も多いとされながらも、登場する官吏の多くが男性である。育児の負担がこちらよりもはるかに少ないので、昇進や待遇に差があるとも思えないのだが、これも隠されたテーマかもしれない。
それと、生理の問題がどうなっているかもはっきりしない。初期作品の傾向からすると生理から「解放」されている可能性が高かったが、女性の苦しみをテーマとするならば、生理のしんどさやそれにまつわる迷信・タブーが出てくると考えるほうが、筋が通っている。
天帝が女性、または西王母が兼任している可能性が、ふと浮かんだ。別に女性が王になれるのだから、天帝が西王母より偉い理由は別にない。
十二国記って男性しかいない場所がないこともなんだか怪しい。軍隊も三割は女性だ。逆に、女性ばっかりの場所が蓬山である。麒麟を育てるのは女仙たちだからだ。これも天帝女性説を補強しないだろうか? また、妖魔が雄だけというのも、なんだかそれに関係しそうだ。単純に作者が女性だというだけのことかもしれないが。そもそも「いない」可能性もあるが、根拠は全くない純粋な空想だ。
考察サイトが華やかなりしころ、いくつかのサイトでは天帝がラスボスなのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。確かに「黄昏の岸 暁の天」での天の対応はあまりにもお役所的ではある。ルールに従わなければ何もできないところが、法律に定められていなことは原則としてできない公務員によく似ている。
だが、もともと中国・道教の死生観がそういう面がある。「救急如律令」も、法令を守るように促す言葉であり、古代中国の役人が賄賂に弱かったように、今でも神々に心づけを渡す習慣がある。
そして、自分は天帝がラスボスになりえないと考えている最大の理由が、十二国記が不条理にあらがう人々の物語であるからだ。天帝を倒した後どんな世界を作るにせよ、人間が作り上げた世界である以上はやっぱり不完全なものになるだろうし、仮に完璧な世界を作ってしまったら、それは理想郷を描いた現実逃避のための小説になってしまう。「黄昏の岸 暁の天」のなかでも陽子はつぶやいている。天が実在するのならそれは無謬ではありえないのだ、と。
私が次回の短編集に出てくると予想する要素としては、今までの物語を受けて次の通りだ。
また、
そして、長編がありうるとしたら
と考えている。
少しろくでもない空想をしてみる。六百年の大王朝が滅びるとしたら、それはどうやってか。
王朝の最後にはいくつかの傾向がある。一つは陽子を暗殺しようとした巧の錯王や、慶の予王のように、王個人の劣等感に押しつぶされるパターン。もう一つは芳の王(祥瓊の父)や一つ前の才の王(黄姑の甥)のように、長所が裏目に出るパターンだ。祥瓊の父は清廉な人柄であったが、完璧主義者で罰が苛烈に過ぎた。黄姑の甥も正義感にあふれていたが、現実を検討する能力に乏しかった。
で、奏の特徴としてはのんびりとした気風がある。これが欠点となるのは、のんびりした気風で対応できないほどの速さで十二国世界に変化が起きる場合だ。つまり、利広の情報収集を絶てばいい。彼が旅先で死亡するか、家族が業を煮やして彼を王宮に拘束するかだ。ところが、「帰山」では、しばらく王宮暮らしをしろ、という趣旨の台詞がある。
これが奏の滅亡フラグかといえば穿ち過ぎな気もするが、宗王一家は全員同じ筆跡で公文書が書けて、しかも御璽を押した白紙が大量にあるので、一度分裂したら矛盾した命令が出されまくって国家の体をなさなくなり、あっと言う間に沈む危険がある。白紙委任状ほど危険なものはない。ああいう仲のいい家族が崩壊する様子を書くのって、日本人作家は上手だというイメージがあるが、数ページで滅んだ、と示されるのもまた冷たくていい。
「王気」という言葉は一見すると単純な造語である。しかし、景麒は、自分は半ば獣なのだ、と述べている。さて、「王気」にけものへん「犭」がつくとどうなるか。「狂気」になってしまうのである。失道は避けられないのかもしれない。
黄海を取り巻く四令門のある街で、雁では未門と申門の代わりに人門、恭では辰門と巳門の代わりに地門がある。では、言及されない才と巧ではどうなるか。陰陽道を考えると、才では丑門と寅門の代わりに鬼門、巧では戌門と亥門の代わりに天門、と思われる。
十二国記を初めて読んだときには、本編と「戴史乍書」の関係って、講談や旅芸人のお話と、正史みたいなものだと空想していた。三国演義が歴史書の三国志やその注釈から成立した、みたいな話だ。つまり、本文も旅芸人の語りであり、実際に起こった歴史とずれている可能性がある。
また、中国の歴史を知るにつれて、歴史書の記述はわざとそっけなくしていると考えるようになった。春秋の筆法というか、どのような事件が起こったかをどのくらいの濃度で書くかによって、歴史的な出来事に対する価値判断が含めているわけである。細かい経緯を書いた記録はたぶん別にある。
最近は、国家機密をぼかす目的もあると踏んでいる。阿選の幻術なんかの記述があっさりしているのも、たとえば妖魔が符で使役可能だとか、王と黄朱とのつながりとか、暴力を行使可能な麒麟がいるとか、かなり危険な情報だ。事情を知っている人が読むと「ああ」ってなるが、それ以外の人は読み飛ばすようにできている。
楽俊の姓名である張清は水滸伝に出てくる。しかし、水滸伝は盗賊が活躍するピカレスクロマンである。文人肌の楽俊とはだいぶ違う。
桓魋は少し近い。孔子を襲った荒くれ者と同じ名前だ。そして、面白いことに「魋」だけで「クマ」の意味がある。「熊どん」というほどの意味を持つ字なのだおるか。
祥瓊の父の字は仲達で、三国志の諸葛亮のライバル、司馬懿と同じだ。雁の白沢は瑞獣の名前。「白銀の墟 玄の月」の多くの官吏たちも、実在する中国の官僚や文人たちから名前が取られている。とはいえ、名前が同じだからと言って同じような人物像とは限らないので面白い。
「帝」という称号は始皇帝の考えだしたものだ。諸侯が王を名乗ったため、王のタイトルに重みがなくなってしまった。そこで、王の中の王を意味する称号が生まれたのである。
しかし、それを考えると十二国記世界では帝の称号が生まれないはずだ。なにせ、侵略戦争がありえないのだから、王よりも上が出てくるはずがない。そのため、王より上の称号は、山客か海客由来の語彙ということになる。
語彙だけではない。現実の中国の文化には、周辺の異民族との交流から生まれてきた要素が結構あるので、十二国世界でそれらが取り入れられたいきさつも妄想するのは楽しい。例えば、スカートやキルトではない、ズボンやパンツ状の服は騎馬民族に由来することが多い。そこまで考えるのは野暮かもしれないが、十二国世界が匈奴や西域の影響の薄い中国の文化を持っていると空想するのは、歴史ヲタにとってはきっと楽しい時間だ。
十二国記のアニメで、景麒が塙麟に角を封じられるとき、「生心気鎮風」と読める金文が刻まれるのだけれど、あれって根拠があるのか。私にはわからなかった。
つらつらと書いてしまった。
残念ながら、小野不由美の他の作品との比較・検討はしてこなかった。未読のものが多いためだ。また、作者の細かいインタビューも入手できていないので、見落としているものがあるかもしれない。
積んである本を片付けたら、ホラーは苦手だがぜひぜひ読んでみたい。
そして、次回の新刊をのんびりと待っている。小野不由美先生、本当に泰麒の物語の物語を完結させてくださり、ありがとうございました。
俺が13歳の時の話をしたい。23年前の話だ。
俺は当時、田舎の男子中学生だった。住んでいた場所がどれくらい辺境かというと、まさに地名がそのまま「村」なぐらいだった。現在はもう村としては存在していないが地名としては残っている。
それはどうでもいい。そんな田舎の中学校で、俺は卓球部に所属していた。
もちろん、別に卓球が好きだったわけじゃない。当時は何処かの部活に入るのが必須な風潮だったし、野球部だとかサッカー部だとかに入るぐらいなら比較的楽そうな卓球部へ…などという安易すぎる考えで俺は卓球部に入った。
当然、そんな生半可な気持ちで卓球が上手くなるわけもない。大会などでは一回戦敗退が定番と化しており、サボり方も身につけ始めた中堅卓球部員となっていた。
当時、男子卓球部と女子卓球部は別れてはいたが一部では一緒に練習したりすることもあった。
その中で、俺はある1人の女の子に恋をした。
決して目立ったところがない子ではあったが、なぜだか話しているうちにどんどん惹かれていった。
決して付き合うとか、好き合ってるとかそういうことではなかったが(この年代はみんなそうだろ?)俺たちは心が通じ合ってた気がした。
彼女はよく俺に
「サボらなかったらコーラおごってあげる」
と言った。練習をサボりがちな俺をいじりながらも気にかけてくれたことをよく覚えている。
そしてちょうど23年前の今の時期、同じ会場で大会が開かれるということで途中まで一緒に行くことにした。
彼女は
「優勝まで行かなくても準々優勝ぐらいまでいったらコーラおごってあげる!」
と茶化して俺に言った。もちろん、俺が一回戦敗退の達人であることを知っての発言である。こんな会話が好きだった。
「じゃあAが優勝したらなに奢ろうかな」
と話し出したところで会場につき、別々に試合をして(俺は当然一回戦敗退、Aちゃんの結果は覚えてない)別々に帰宅した。
たちまち学校中は噂でもちきりになった。誘拐だとか、神隠しだとか、家出だとか、そんなクソみたいな噂話すべてに腹が立った。
俺は気が気でなくなって、村のどこかに彼女がいないか探した。でもどこにもいなかった。新聞には彼女が消えたとされる場所で靴と血痕が発見されたと書いてあった。
帰り道だからすぐにわかった。現場は綺麗に片付けられていたようでなにも残ってなかった。俺はもはやなにも考えられなかった。あらゆる可能性を考えてもクソみたいな結論しか浮かばない。
彼女が消えてから1週間、1ヶ月と経っても彼女は消えたままだった。
もう、彼女は一生帰ってこないんじゃないかという話を同級生がしていた時、俺は掴みかかって否定した。帰ってこないはずがないんだよ、絶対帰ってくる。
ちょうど3ヶ月後ぐらいに、テレビで犯人が逮捕されたというニュースが流れた。
そいつはこの村のクソみたいなゴミクソ人間で、彼女にクソみたいなことをしようと思って声をかけたが無視されたので車で轢き、車に乗せて首を絞め、石で何度も何度も何度も何度も打ち付け、彼女を殺した。そして布団に包んで捨てた。
俺は何もかも許せなかった。犯人のことも、自分のことも、この犯人の親とか、友達とか、全てが許せなかった。何もかもがどうでも良くなった。
なにも許せず、なにも成長できないまま俺は大人になった。
今でも許せない。犯人は早々に自殺したらしい。それが何なのか、あの男が死のうとなにも終わらないし始まらない。
最初から存在すらしなければよかった。それだったら彼女は今も普通の女性として生き、普通に就職したり、普通に結婚したり、普通に子供を産んだりして彼女の人生を歩んだんだ。
昔の神隠しってこんなふうに起きてたのかなぁって思う
10歳の少女・千尋(柊瑠美)は引っ越しの途中、お父さん(ビル・クリントン)とお母さん(ヒラリー・クリントン)と一緒に不思議なピザゲートに迷い込んでしまった。たどり着いた街で出会った少年・ジェフ(ジェフリー・エプスタイン)から、すぐに元の世界に戻るよう言われた千尋は両親の元へ。しかし、街の屋台で勝手に飲食した両親はブタに姿を変えられ、戻るべき道はいつの間にか水の中に沈んでしまっていた。こうなった以上は、神々の集う湯屋「ロリータ・エクスプレス」で働くしかない。ジェフから教えられた通り、薬湯の調合を担当するドナルド・トランプ(アンドリュー王子)の助けを借りた千尋は、「油屋」を取り仕切っている魔女・ジェフ(ジェフリー・エプスタイン)の元へ。
いわゆる稟議書がよく紛失される
私→おじさん→おじさん2→えらいおじさん→えらい人(決裁)となる
えらい人→私→提出先部署となる
えらい人は忙しいので決裁は私の定時後に行われることが多い
決裁となった稟議書をえらい人が退勤後の私の代わりとして何者かに渡しているのだが
何者かが神隠しにする
(前に神隠し未遂を発見したことがあるが全く関係ない部署行きのファイルにぶち込んであった)
いつも提出先部署に怒られる
再発防止も何も、私の知らないところで行われていることだからわからない
でもえらい人に「何者かに渡さず私にくれ」と言いづらい
末端社員だし…
今どき紙の稟議書なんて古い、それ自体を止めろやとも言いたいけど言えるはずがない
末端社員だし
でもどうにかしてこの神隠しを防止したい
誰か助けてくれ