はてなキーワード: 社会実験とは
この記事ね。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
読むのめんどい人のために雑にまとめると、とある大学教授が生徒相手に男女差別を体験させる授業をしたって話。
そんで、その中で「『リボンあり』が作った折り紙を100円、『リボンなし』のそれは50円で買い取る」、てくだりがあるのよ。「リボンあり」は男性、「リボンなし」は女性で、両者の賃金格差の差別を体験させよう、てことよね。それは別にいいんだけどさ、
いや、こんなこと言う奴いる?
俺もクソみたいな差別発言いっぱい見たことあるけどさ。「女が倍働けば男と給料一緒じゃん」「女だけ品質上げれば〜」みたいな方向性はさ、見たことないんだわ。
明らかに、授業の方針に合わせてロールプレイしました(しかも滑ってる)、て発言じゃん。
「そう思うのはお前の感想だろ」って思った?
そうなんだけどさ、じゃあ記事本文に「この種のリアクションをした人は何%」とかのエビデンスはない。ていうか手法の解説もフワッとしてるし、再現性もあるのかないのか分かんない。つまり、この記事自体が感想の羅列に過ぎない。
それもそのはずで、この記事は論文でないだけでなく、そもそも「体験授業」を紹介してるに過ぎない。もちろん実験ではない。
それを、あたかも科学的正しさが「あるかのように」「さももっともらしく」記事を作ってるのがハフポストとかいうクソ媒体なわけ。
確かにさ、記事内では「実験」とは言ってないし、科学的な正しさがあるかのようには書かれてない。ただ「それっぽい」だけ。でも、現実には、反知性的で科学的な思考ができない可哀想な人たちが科学的な正しさがあるかのように勘違いしている。
こんな風に→https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
「印象的だったのは、内海﨑さんとのやりとりを続けるうち、教室内では徐々に「正しい答え」に合わせることが諦めとともに受け入れられていったことだ。」
地方紙に載ってる「●●小学校で豆まきが行われ、児童の一人は『鬼もかわいそう』と語っていたのが印象的でした」とかのほのぼの記事レベルの話やねんぞ。
この教授さんはさ、ただ「差別を体験させよう」て意図で、別に社会実験のフリをしようとしたわけじゃないのかもしれない。ハフポスが勝手にやっただけかもしれないーーーーて、そんなわけあるかーい!
明らかに内容チェックしとるやろ。チェックした上で、ただの体験授業を社会実験っぽく糊塗(捏造ではないので嘘はついてないところがポイント)したこの原稿にOK出してるやろ。それ、学問に携わる人としてどうなんですかね?ちなみにチェックしてなかったらもっとやばい。本人の実名、役職、顔出しはともあれ、生徒の実名まで出てるんだからさ、これハフポスに勝手にやられましたはヤバ過ぎでしょ。
ちなみに「2004年からこの授業を続けている」そうだけど、18年もやってきて、なんのデータも蓄積されてないとしたらヤバいし、蓄積されてるのに直近の授業に対する「記者の印象」だけで記事を作らせるのもわりとヤバい。
要点をまとめるとだね。
・この体験授業にあるような男女差別は存在すると思う。少なくとも自分の実感では存在する。詳しくないから分からないけど、ちゃんと論文とかもあると思う。
・この記事はクソ。この体験授業では男女差別の存在も、種類も、何も明らかになってない。
ここから先は余談。
フェミニストたちがしばしば見せる、この「科学的でも何でもない自分達の感情あるいは願望を、あたかも科学的であるかのように塗り固める(でも科学的であるとは言ってないので嘘ではない)」ムーブは本当にクソだ。
「たわわ」の件もそうだった。
フェミニストたちはいかにも「科学的正しさを重視します」「教授です」「公的メディアです」「国連です」て顔しながら、科学と全く関連しない嘘八百をもっともらしい雰囲気で垂れ流す。卑怯としか言いようがない。
この記事ね。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
読むのめんどい人のために雑にまとめると、とある大学教授が生徒相手に男女差別を体験させる授業をしたって話。
そんで、その中で「『リボンあり』が作った折り紙を100円、『リボンなし』のそれは50円で買い取る」、てくだりがあるのよ。「リボンあり」は男性、「リボンなし」は女性で、両者の賃金格差の差別を体験させよう、てことよね。それは別にいいんだけどさ、
いや、こんなこと言う奴いる?
俺もクソみたいな差別発言いっぱい見たことあるけどさ。「女が倍働けば男と給料一緒じゃん」「女だけ品質上げれば〜」みたいな方向性はさ、見たことないんだわ。
明らかに、授業の方針に合わせてロールプレイしました(しかも滑ってる)、て発言じゃん。
「そう思うのはお前の感想だろ」って思った?
そうなんだけどさ、じゃあ記事本文に「この種のリアクションをした人は何%」とかのエビデンスはない。ていうか手法の解説もフワッとしてるし、再現性もあるのかないのか分かんない。つまり、この記事自体が感想の羅列に過ぎない。
それもそのはずで、この記事は論文でないだけでなく、そもそも「体験授業」を紹介してるに過ぎない。もちろん実験ではない。
それを、あたかも科学的正しさが「あるかのように」「さももっともらしく」記事を作ってるのがハフポストとかいうクソ媒体なわけ。
確かにさ、記事内では「実験」とは言ってないし、科学的な正しさがあるかのようには書かれてない。ただ「それっぽい」だけ。でも、現実には、反知性的で科学的な思考ができない可哀想な人たちが科学的な正しさがあるかのように勘違いしている。
こんな風に→https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
「印象的だったのは、内海﨑さんとのやりとりを続けるうち、教室内では徐々に「正しい答え」に合わせることが諦めとともに受け入れられていったことだ。」
地方紙に載ってる「●●小学校で豆まきが行われ、児童の一人は『鬼もかわいそう』と語っていたのが印象的でした」とかのほのぼの記事レベルの話やねんぞ。
この教授さんはさ、ただ「差別を体験させよう」て意図で、別に社会実験のフリをしようとしたわけじゃないのかもしれない。ハフポスが勝手にやっただけかもしれないーーーーて、そんなわけあるかーい!
明らかに内容チェックしとるやろ。チェックした上で、ただの体験授業を社会実験っぽく糊塗(捏造ではないので嘘はついてないところがポイント)したこの原稿にOK出してるやろ。それ、学問に携わる人としてどうなんですかね?ちなみにチェックしてなかったらもっとやばい。本人の実名、役職、顔出しはともあれ、生徒の実名まで出てるんだからさ、これハフポスに勝手にやられましたはヤバ過ぎでしょ。
ちなみに「2004年からこの授業を続けている」そうだけど、18年もやってきて、なんのデータも蓄積されてないとしたらヤバいし、蓄積されてるのに直近の授業に対する「記者の印象」だけで記事を作らせるのもわりとヤバい。
要点をまとめるとだね。
・この体験授業にあるような男女差別は存在すると思う。少なくとも自分の実感では存在する。詳しくないから分からないけど、ちゃんと論文とかもあると思う。
・この記事はクソ。この体験授業では男女差別の存在も、種類も、何も明らかになってない。
ここから先は余談。
フェミニストたちがしばしば見せる、この「科学的でも何でもない自分達の感情あるいは願望を、あたかも科学的であるかのように塗り固める(でも科学的であるとは言ってないので嘘ではない)」ムーブは本当にクソだ。
「たわわ」の件もそうだった。
フェミニストたちはいかにも「科学的正しさを重視します」「教授です」「公的メディアです」「国連です」て顔しながら、科学と全く関連しない嘘八百をもっともらしい雰囲気で垂れ流す。卑怯としか言いようがない。
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
"物価上昇を通じて経済の好循環をつくるという「リフレ論」は幻想だった。大々的な社会実験の結果、そのことが明白になった。"
"「近年、多くの経済政策が実施されてきたが、結果として過去30年間のわが国の経済成長は主要先進国の中で最低レベル」「初任給は30年前とあまり変わらず、国際的には人件費で見ても『安い日本』となりつつある」
安倍氏はこれをアベノミクス批判と受け止めた。「安い日本という表現もおかしい。アベノミクスをなんだと思っているんだ」。安倍氏はそう漏らしていたという。(朝日新聞2022年6月3日)
この報告書は最終的に、安倍氏からの強い申し入れで次のようなくだりが盛り込まれた。「我々は平成24年末に政権を取り戻し、『アベノミクス』によって(中略)革新的な政策を実現した」。それに続いて、GDPが約560兆円まで増加して史上最高水準となったこと、雇用も約440万人増加したこと、史上初めて有効求人倍率が全都道府県で1を超えたことなどが詳しく記された。
とりわけ雇用の改善は安倍氏が「アベノミクスがもたらした成果」として強いこだわりをもって明記を求め、盛り込まれたものだった。"
"安倍氏が昨年来、講演のたびに「日銀は政府の子会社。紙とインクのコスト20円で1万円札がどんどん刷れる」とややセンセーショナルな表現でリフレ的説明を重ねていたのも、アベノミクス路線は健在とアピールしたかったのだろう。"
"2020年9月に首相を退任した安倍氏が最初に受けた単独インタビュー(読売新聞2020年9月20日)で、「政権のレガシー(政治遺産)を何と考えるか」という質問を受けた安倍氏があげたのは、今もこだわり続ける「400万人超の雇用を作った」実績だった。
さらにもう一つ、意外なテーマを挙げた。それが「2度の消費税率引き上げを行った」ことだった。
あれほど消費増税をいやがり、財務省を遠ざけ、2回も異例のかたちで消費増税を延期してしまった安倍氏が、みずから消費増税を「政権の遺産」にあげたのである。その理由として「伸び続ける社会保障費に対応し、国の信認を維持するため」とも述べている。"
「お先にどうぞ」で歩行者妨害は不成立 道を譲られたドライバーの交通違反が撤回へ 警察が謝罪
大手メディアにも取り上げられ警察は面倒な議論を避けるために火消しに回っただけ
そこまで含めて弁護士の活動によってクライアントの利益は守られたのであり弁護士としては勝ちだ
弁護士としては
クライアントを守るためなら言い逃れの余地のない殺人犯でも弁護する。
法学的には具体的な歩行者のみを指すのだろうがこれを言い出すとあらゆる交通取締りは整合性を失う。
スピード違反の取締を行っているがこの場合の保護主体は誰であるか、
スピード違反をしてそれが原因で事故を起こしたときだけ処罰すれば良いことにはならない。
つまり社会政策、道路交通全体の秩序を守るために取締をしている。
敷衍し、38条の妨害の客体は具体的な歩行者のみならず道路を歩くすべての人が対象になる。
手を降って通過を促した歩行者男だけではない。
社会が自動車優先社会を容認し続けるか、欧米のように法律通り(道交法は道路条約の縛りがあるのでどの国も内容はほとんど同じ)歩行者優先に転換するか。
歩行者が先に通過するようなジェスチャーをし車が動き出したにもかかわらず歩行者は止まらずに車と接触した場合。
さぁこれ法的にどう処理する?
このように考えればこの事案で無違反主張するのは筋が悪いのがわかるだろう。
自動車が100%悪い、ドラレコ出そうがムダ。簡単に言えばダメなものはダメ。
車はルール通り停車し歩行者へ先に通過するように合図し待ち、それでも歩行者が頑なに動かない。
なるほどこれが数十秒も続けば期待可能性の議論になるだろうが、あの動画を見る限りそんな時間は経ってない。
さて、警察が今回どのようなロジックで取り締まりを撤回したのかわからんが、
説明すべきだわね。まぁ答えないだろうけど。
可罰的違法性あたりで有耶無耶にするだろうが、これは警察は負けてほしくなかった、司法できっちり処理して判例を残すべきで。
警察はネットの力を過大評価しすぎ、ポピュリズムに呑まれてほしくなかったねぇ。
骨がない。
面倒な議論を避けるためにあっさり取り消ししたのが非常に残念。
さて、次の問題、
歩行者が違法に立ち止まって自動車に通行を促したというならば、改めて歩行者を検挙すべきだ。
ん?
そっちはどうするのだと。
警察はこっちやるの?
やらねぇわね
76条4項
二 道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること。
今回ゴネてる自動車運転手側は改めて歩行者を告訴すべきだろう、歩行者の違法行為によって取り締まりを受け弁護士を雇って警察と交渉などと煩わしい目に合わされている。
あれれぇ
なぜこれ怒らないのぉへんだねぇ
ドライバーはそこまで主張するのは筋が悪いのは自分でも分かっているのだ。
ちなみに38条は
横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。
件の弁護士は歩行者自らが通過を促したのだから「妨げ」になっていないと主張している。
歩行者がそのまま進行すれば自動車と干渉することを歩行者自身が認識しており、動画をみてもその位置関係から明らかであり、
「妨げ」ていることが証明されている。
妨げるは本人のお気持ちではない、形式犯の規定なのだからその通りに解釈すべきだ。
道交法の理念は円滑で安全な道路交通の実現であってそれには歩行者も含まれている。
諸外国と比較して日本が極端に歩行者の事故が多いのは戦後モータリゼーションの国策誘導によって自動車を過度に優遇したツケであり、それをいい加減に転換しましょうという世相にも逆行する。
日本は歩行中(1644人)と自転車(712人)の死者が2356人に対して乗用車の死者が1046人
アメリカ 7000人 対 13400人
ドイツ 900人 対 1500人
フランス 700人 対 1800人
異常な国。
信号のない横断歩道で自動車優先が当たり前に代表される社会通念が結果として歩行者を殺している。
止まるのが当たり前であれば歩行者は平然と通過したであろうし、欧米は実際そうなってる。
どんなに歩行者が先に行けと促しても自動車側も頑なに歩行者の通過を待ち
そうすりゃ歩行者の死者は減る。
社会実験はとっくに結果出てる。
道交法運用の転換過渡期であるから従来の常識と不整合が起きて理不尽と感じる取り締まりも出るだろうが。
うまく転換できれば死者は万人単位で減らせた。
この流れを止めた。
それが世論でもある。
あーあ
自動車は止まるのが当たり前、歩行者は我優先と渡るのが当たり前。
何年遅れることになるのか。
件のドライバー、弁護士は間接的に被害者を増やしたと自覚して欲しい。
タイトルの通り。
俺は反アベだが、こんな終わり方はやるせない。
安倍総理が在任中に起こした数々の疑惑やスキャンダルに問題発言、はぐらかし、忖度した人間達は出世して、逆らった人間は自殺に追い込まれた。それが明るみになってもなんの自浄作用もなく野党は騒いでるだけと上手く印象操作され対抗勢力になりえず、マスコミも東京新聞の望月記者とNHKの関西支局の記者以外に本気で戦った人を知らない。
森友学園は籠池が捕まり、学校は放置され、加計学園は何食わぬ顔で営業している。桜を見る会はなくなったが今になってサントリーが酒類を提供していたことが明らかになったり、赤木さんの裁判は前代未聞の国側の白旗で賠償金満額支払いチャンチャン。
あべ本人は歴代最長政権記録を更新してからコロナ対策でお腹が痛くなってリタイヤ。党内では権勢を誇り、噂ではまだ返り咲くとの評判もある。国家の予算は日銀を手中に置き無限国際発行という人類史上始まって以来の近代先進国による社会実験を我々国民の財産を担保に戻れない所まですすめてきた。
他にも色々あったと思うが、色々追求があった時にまともに司法が機能してアベを逮捕取調べ裁判をして情報公開されていたらこんな事件は起こったのだろうか。
日本には1億人いるのでキチガイは沢山いる。俺だってアベは嫌いだ。でもやるべきハードルを乗り越えてきていたら殺されることはなかったと思う。田中角栄の方がヘイトは集めていたと思うがちゃんとミソギをしたのでキチガイの標的にならない。アベはあまりにもノーダメージだった。記者会見は懐柔されてるし、国会でしか追求されないが国会は野党がバカにされるシステムが完成している。検察はお友達をトップに据えてるから無敵。
経営者だったり株とかやってたらファンになってたかもしれないが、批判的にテレビや新聞を見てる層にとっては純粋に悪である。凡庸なしかも無能だけどシステムハックした異世界転生の主人公並の絶対的存在といえるかも。
ソイツに「無敵の人」が一撃チャンスがあるとするなら実行する可能性は十分考えられる。歴代総理を思い出しても殺されるべき標的になりうるのは安倍晋三が一番の候補にあがるだろう。
別に殺されて当然とか言うつもりはないし、殺人されるべきではないと思うが、あまりにも安倍総理はノーダメージ過ぎたし、証拠だらけなのに司法がまともに機能してなかったとしか思えない。だからなんの禊もなく標的になるべき存在になってしまったのだと思う。
アベがすごかったりすごく悪かったんじゃないがあまりにも何故か誰にもわからないが強すぎた。それが原因のひとつなのだとおもう。
タイトルの通り。
俺は反アベだが、こんな終わり方はやるせない。
安倍総理が在任中に起こした数々の疑惑やスキャンダルに問題発言、はぐらかし、忖度した人間達は出世して、逆らった人間は自殺に追い込まれた。それが明るみになってもなんの自浄作用もなく野党は騒いでるだけと上手く印象操作され対抗勢力になりえず、マスコミも東京新聞の望月記者とNHKの関西支局の記者以外に本気で戦った人を知らない。
森友学園は籠池が捕まり、学校は放置され、加計学園は何食わぬ顔で営業している。桜を見る会はなくなったが今になってサントリーが酒類を提供していたことが明らかになったり、赤木さんの裁判は前代未聞の国側の白旗で賠償金満額支払いチャンチャン。
あべ本人は歴代最長政権記録を更新してからコロナ対策でお腹が痛くなってリタイヤ。党内では権勢を誇り、噂ではまだ返り咲くとの評判もある。国家の予算は日銀を手中に置き無限国際発行という人類史上始まって以来の近代先進国による社会実験を我々国民の財産を担保に戻れない所まですすめてきた。
他にも色々あったと思うが、色々追求があった時にまともに司法が機能してアベを逮捕取調べ裁判をして情報交換されていたらこんな事件は起こったのだろうか。
日本には1億人いるのでキチガイは沢山いる。俺だってアベは嫌いだ。でもやるべきハードルを乗り越えてきていたら殺されることはなかったと思う。田中角栄の方がヘイトは集めていたと思うがちゃんとミソギをしたのでキチガイの標的にならない。アベはあまりにもノーダメージだった。記者会見は懐柔されてるし、国会でしか追求されないが国会は野党がバカにされるシステムが完成している。検察はお友達をトップに据えてるから無敵。
経営者だったり株とかやってたらファンになってたかもしれないが、批判的にテレビや新聞を見てる層にとっては純粋に悪である。凡庸なしかも無能だけどシステムハックした異世界転生の主人公並の絶対的存在といえるかも。
ソイツに「無敵の人」が一撃チャンスがあるとするなら実行する可能性は十分考えられる。歴代総理を思い出しても殺されるべき標的になりうるのは安倍晋三が一番の候補にあがるだろう。
別に殺されて当然とか言うつもりはないし、殺人されるべきではないと思うが、あまりにも安倍総理はノーダメージ過ぎたし、証拠だらけなのに司法がまともに機能してなかったとしか思えない。だからなんの禊もなく標的になるべき存在になってしまったのだと思う。
アベがすごかったりすごく悪かったんじゃないがあまりにも何故か誰にもわからないが強すぎた。それが原因のひとつなのだとおもう。
出生率を上げるためにはとにかくたくさん子どもを産むしかないし、子どもを産めば後からいろんな支援や社会的な対策がついてくるのではないか、と思うんだけどどうしてそういうことをいう人がいないのか不思議だ。多分決定的に何か考え方が間違っているのだろう。
とにかく1年で150万人くらい子供が生まれて、それが何年か継続すれば保育園も学校も社会的な支援もせざるをえなくなるし、ある程度ボリュームのある世代層が一気に誕生したら一気に世の中変わると思うんだけどなあ。何よりも人口ってパワーだもん。振り向いて欲しかったらまず頭数を揃えないといけないし将来の清き一票としても使えるし、そして何よりも消費者が増えれば経済のパイも大きくなるし、支援を求める前に、支援の対象となる人間をとにかくたくさん産みまくることから始めてみてもいいのではないか、と思うんだけど、1人じゃ社会実験はできないから難しいなあ。とりあえず子供三人くらい産みたい。
生まれ育ちは大阪市南部(東住吉区・住吉区)、数年前から河内長野市在住
大阪府の右下の隅っこ。奥河内と呼ばれる歴史資産が豊かな山と棚田と新興住宅地が占める。
東京で言うとあきる野市みたいな感じの郊外だが、電車の便が良くて難波や阿倍野まで40分で行けるので70-80年代に大規模に住宅地が造成され大阪市内通勤の住民が多い。
映画「鬼ガール!!」の舞台。https://www.amazon.co.jp/dp/B096R5386X/
現市長は嘉田由紀子さんとこで勉強してきた人で無所属。前回、大阪維新の元市議会議員を破って2期目突入。
大阪維新の会 | 4名 | (+2名) |
公明党 | 4名 | |
市民クラブ | 2名 | |
自民党 | 2名 | |
日本共産党 | 3名 | (-2名) |
会派無所属 | 3名 |
大阪維新の会 | 10696票 | (+3837票) |
公明党 | 6952票 | (-1723票) |
市民クラブ | 3932票 | (-1295票) |
自民党 | 5080票 | (-761票) |
日本共産党 | 6537票 | (-1854票) |
会派無所属 | 4479票 | (+107票) |
はしがみ和美 前回、補欠選挙で当選し今回が2期目。圧倒的獲得票数で俺を大いに驚かす
吉竹 英行 新人。歯科技工士。ググっても情報が全然出てこない
西田よしのぶ 新人。無職。「努力したものが報われる社会に」というスローガンが維新的。松井吉村浦野の応援をアピール。ググってもよく分からない。
にわ実 現職。[旭ケ丘]
堀川かずひろ 現職。スポーツマン。自治活動頑張る系。[美加の台]
みちばた俊彦 現職。SNSやYOUTUBEで市民に向けた情報発信に熱心[木戸西町]
若林やすし 新人。自宅でテレワーク中の日鉄ソリューションズ社員。自治活動頑張る系で美加の台なので上の堀川氏と被ってる感。[美加の台]
((ちなみに南花台と美加の台は自治意識高いエリアで比較的裕福))
河内長野は住みやすいとこなんだけど、にわか河内長野市民の俺の感覚だが、その住みやすさの立役者が共産や市民派議員、そして市長にあると感じる。
二言目には身を切る改革と言う維新とは非常に相性が悪いと思う。果たしてどうなるか。
ていうかさ、維新の基本政策の一つはコンパクトシティ構想なんだよね。それを大阪で社会実験するのが大阪維新という存在。
大阪市一極集中(それが都構想にもつながる)は実現すれば河内長野市は切り捨てられる側になると俺は解釈してる。
大阪市民は維新を選ぶメリットがあるが河内長野市民は下手すると自殺行為ではないか、そう懸念してる俺である。
以上。
――国内事業が軌道に乗りきらず、資金が潤沢にあるわけでもないなかで、シンガポールや台湾への積極的な進出を決めました。普通であれば、まずは国内事業を軌道に乗せて財務的な体力の回復を待つことを優先しそうですが、なぜあえて攻めることができたのでしょうか?
日本でずっと同じことをやっているよりも、海外でやった方が面白いと思ったんです。国内にいようが海外にいようが、どうせ戦うことに変わりはないじゃないですか。
――失礼なことを言いますが、日本企業の海外進出ってだいたい失敗しますよね? 貴社の海外事業がうまくいっているのはなぜなんでしょうか?
まず、海外に出ていく会社は基本的に日本でうまくいった会社ばかりです。だから日本に軸足が残っているんですね。「背水の陣」で臨んでいるようにはあまり見えない。
つまり日本で成功している企業の海外進出にはその会社の「二軍」が来るんです。一軍の部隊は日本で仕事をしている。日本のマーケットはかなり大きいので、成長の限界がなかなか来ないんですね。だから、国内で首位になっても伸び続けられる。
――私も海外駐在をしたり、海外で会社の経営をしたりしたことがありますが、言葉や文化の違いもあり、大変なことも多いですよね。
当社の現地法人の社長を任せる人材を選ぶ際には国籍は関係なく、適性があるかどうかで決めます。当社は既に社員数をみると海外の方が多いんですけど、僕が英語が話せなかったのがよかったと思っています。僕はカタコトの英語でコミュニケーションをしています。英語は勉強したんですけど、ムリですね(笑)。
自分自身で英語を頑張って身に付けるよりは、翻訳ではなく自分の伝えたいことをきちんと“意訳”できる人を雇った方がいいなって。海外進出すると急に「英語ができる人がエラい」みたいな雰囲気が社内にできるじゃないですか。当社も最初はそんな雰囲気がありました。でも今では、そんな「英語ができるマウンティング」みたいな文化は当社には全くない。だって、社長の僕が全くしゃべれないですから(笑)。
それによって、例えばデザイナーとかエンジニアとか各部門のプロフェッショナルが「英語ができる、できない」という理由で活躍の機会が削がれることがなくなりました。
社長が英語をペラペラ話せると、英語を話せない社員たちが一歩引いてしまう。そうすると、せっかく日本でそろえてきた有能な人材を活用しきれない。英語はただのスキルなんです。全員が中途半端に勉強するぐらいなら、語学が堪能な人を雇って通訳してもらった方が断然効率がいい。
――確かに海外進出は社長のカラーが出やすいですね。大手企業には英語を公用語化した会社もありますね。
大人になってから語学を勉強しても、費用対効果がとても悪いんですよ。言語は人間が持っているもともとの能力です。どんな人でも現地にいればしゃべれます。逆に、使う環境がない中で習得するのは非常に難しい。海外進出した当初は英会話教室でビジネス特訓講座を受けていたんです。家でもやっていたので、カタコトのコミュニケーションは3カ月ぐらいで、なんとかできるようになりました。
そのころ、新入社員に英語がペラペラの人がいて、「社長もあと2年くらい今みたいに勉強し続けて、そこから半年くらい海外留学すれば僕みたいに話せるようになりますよ!」って言われたんですね。「2年半かけて新卒と同じスキルを身に付けてどうすんだよ!」って思って、英語の勉強はそのときにすっぱりやめました(笑)。
僕の仕事は会社経営であって、海外には英語の勉強をするために行っているんじゃない。ビジネスを伸ばしに行っているんですよね。そのために今自分が一番時間を使わないといけないのは、中学生レベルの英語を勉強することではない。進出した先の国の歴史や文化的な背景、経済や政治の仕組み、その国の会計基準を真っ先に勉強しなきゃダメだろって。そこを履き違えないようにしています。
私は彼のインスタのアカウントを全部追うほどYouTuber Mickの大ファンだった者であり、今もAsuka Louisとしての彼の活動を追っていて、これからの彼の大ファンにそのままなるであろう者である。彼のことは大好きなのだが、最近の彼について勝手に心配に思っていることや意見したいことがあるので、この場で並べさせていただきたい。
彼は顔を出して堂々と活動しているのに私は顔はおろかネットのアカウント名さえ出せないようなつまらない者なので、ただの1ファンのつまらない意見として受け取ってほしい。こういう長文でダラダラ書くのは彼の潔いスタイルとはかけ離れているし物事を伝える上で効率的ではないのだが、私はこういう形でしか残せないので、もし目に止めてくれたらこんなに嬉しいことはない。
Mickは活動をやめてしまった。彼はたくさんの動画を消してしまったので発言を引用することはできないが、ジャスティンビーバーと同じ事務所に入ったばかりでYouTuberとしても音楽家としても活動をどんどん大きくするであろうという一番楽しみなとき、アメリカでのアジア人種差別についての学びのある社会実験動画をあげてしばらく経ったタイミングで日本のメディアに取り上げられ、その記事の題名に「日本育ちの韓国人」と書かれたことがショックだったというような発言があったと記憶している。
私は彼のような出自ではないし大して有名になったこともないので彼の辛い気持ちを推し量ることはできないが、なぜそこにそんなにショックを受けてしまったのか少し疑問に思った。
彼は人種差別についての動画をあげて、演技とはいえその中でアジア人であることを揶揄される。演技でもそれがすごく辛いことは簡単に想像できるし、あの動画を撮るのはすごく勇気がいっただろうなと思う。それには耐えられたのに、記事の題名がそんなに辛かったのか。
彼はもともと、自分が血筋上は韓国人であることは公表していたし、日韓英3ヶ国語が話せるという動画もあげていた(カッコいいなと思った)。それに、あの題名はMickがそう公表していたから付けられた題名であるわけで、そこに差別の意図は全くないはずだ。むしろあそこに日本人YouTuberと書くほうが大いに失礼だし、逆になにも書かないのでは記事の意図がよくわからないから、担当者がつけたにすぎない。
もともとあの動画は、アメリカでも差別に反対している人はたくさんいる、むしろそっちの方が多数派だということを伝える内容だったはずだ。なのに、Mick本人がアメリカではなく日本での差別にとらわれ過ぎてしまっているような印象を受ける。過去に辛いことがあったのかもしれないが、私含めほとんどのMickのリスナーは彼が韓国のルーツを持っていることを好意的にカッコいいことだと捉えていたはずなのだ。それを彼にはもっと知って欲しかった。
しばらくあらゆるSNSの更新を止めた後、彼は全く違う姿で戻ってきた。緑のパーマ、顔と首に大きなタトゥー。彼がひっさげたアルバムも、音楽性は大きく変わった。明るくアコースティック感の感じられる曲調から、どこか影を感じるビビッドな電子調に。それからインスタライブで彼は日本語を喋らなくなった。
Mickとしての彼が本物の彼自身でない演じられたものだったのなら、カメラに写る姿を本物の自分に戻しただけだ。でもMickerの私からしたらそれは全く違う人がカメラに写っているように感じられた。
私は彼の新しい門出を応援したいが、あまりに唐突すぎるように感じた。Mickを応援するファンはたくさんいたのに、一気に動画を消すのは少し自己中心的ではないか。もちろんMickerはものすごく凝ったクオリティの高い動画をタダで見せてもらって楽しませてもらっている立場なのだから彼は自分の動画をどうしようと勝手なのかもしれないが、Mickerがいたから元の彼は活動ができていたのだ。英語がわからないMickerもいるだろうに、Asukaとなった彼は日本語を話してくれないのだから、なにが起きたのか説明はないのと同じだ。
私はMickのオシャレな編集が大好きだった。音楽もシーンによくあっているし、映像の色合いも美しく、何より彼自身が楽しそうで、アメリカはこんないいところなんだと思わせてくれた。
せめて、彼がこんなにゼロから全てを変えて始めようとしているなら、Mickのチャンネルは手つかずのまま新しいアカウントを作って再スタートを切って欲しかった。もしくはMick時代の動画は消さないでおいて欲しかった。(最近MVなどをちょこちょこ戻してくれているようで嬉しいな。)
顔のタトゥー(シールかもしれないがいつもついているので私はタトゥーではないかと思っている)も心配の要因だ。タトゥーについてつべこべいうのはいかにも日本的価値観だと私自身思うし、誰にも迷惑をかけないのだから自由にすればいい。アメリカではタトゥーがカジュアルなことだと知っているし、私自身海外に住んだらいつか入れてみたいなと思い始めているレベルだ。でも顔に入っている人は少ないしやはり異質な感じを受ける。以前某YouTuberが顔にタトゥーを入れて炎上(というより心配されていた)していたが、その人のはAsukaのよりは小さめだった。もともとMick時代から腕や足にタトゥーがあったのならまだわかるが、こんなに唐突に、しかも顔に入れるなんてよほどの心の変化があったのだろう。
それから言葉。彼は曲は日本語で歌って(ラップして)いるが、SNSではほぼ英語のみを使うようになった。正直曲を日本で売ろうと思っているのなら日本語も少しは使うべきだと思うし、日本語だと自分の感情をうまく表せないと言っていたが、いくら英語が使えるとはいえ母語である日本語の方が圧倒的に得意なはずだ。私は彼が英語のみを使うことで、前の自分との違いを際立たせているようにしか見えない。以前よりもswear wordsを使うことも圧倒的に増えているし、曲にもたくさん使われている。私はAsukaが無理に変わろうとしているように感じられて少し心配だ。
躁鬱病という、躁(めちゃめちゃ気分がハイになり、取り返しのつかないことまでなんでもしてしまう)と鬱(反動で何もできない、気分がすごく落ち込む)を繰り返す病気があるのだが、こういう行動は躁っぽく感じるので尚更とても心配だ。絶対に自分は違うと思えても精神のことは自分ではわからないものだから、ぜひ周りに相談してほしいと思う。
8月末のインスタライブでは笑顔も久々に見ることができ少しだけ安心したのだが、気になる発言があった。「本物のファンというのは俺がどんな馬鹿げたことをしてもついてくる人だ」というような内容のことを彼は言っていたと思うが、それは違うのだと言いたい。Asukaが言っているのはただの信者であってそれはファンではない。本当のファンは、いつも応援している人に心配なことがあったらそれを伝えることができる人のことだと思う。(頭ごなしに否定するのはただのアンチ。)
Asukaは私のことをファンではないと思うかもしれないけど、これからも応援しています。別に辛いことがあってもリスナーの前で無理してカッコつける必要はない、等身大でいて、これからも私たちを楽しませてくれればそれでいい!本当の自分を一番大切にしてください。
おかげで「馬鹿のための」地域振興券が無意味って症例を安くで社会実験してくれたじゃん。経済学者や社会学者が欲しくて仕方がない事例を作ってくれて感謝して仕方がないでしょ。
経済のシステムとしての共産主義はまともに機能しないことが20世紀の壮大な社会実験で何回も確かめられたので、それをもう一回やるのは愚かでしかない。
認知能力に限界のある人間が、あらゆるものの需要を予想して供給をコントロールしようとすることに無理がある。それは基本的に市場に任せたほうが上手くいく。
働いた分だけもらえる仕組みではないのも問題だ。個人の成果は国家に回収され、必要な人に必要なだけ配られる、あるいは平等に配られるという建前で、個人がどれだけ努力や工夫を凝らしてもそれが個人の賃金に反映されない。すると労働モラルが低下して生産性が上がらなくなる。国の経済が成長しなくなる。
日本共産党が「経済政策については資本主義に転向します、なので党名も変えます」となったら、その他の政策次第では検討してもいいかなと思う。でも、共産主義から共産的な経済システムを取り除いて資本主義をぶっこむと、それはただ単純に独裁×資本主義の中国スタイルになるだけかも?