はてなキーワード: 社会主義革命とは
文鮮明と統一教会の麻薬犯罪について、調査報道ジャーナリスト・ロバート・パリー氏による下の記事がある。
統一教会の麻薬犯罪について、犯罪組織としての統一教会について、日本ではほとんど報道されていないが、記事の内容から、統一教会の犯罪組織性を汲み取った場合、「家庭庁が呑気に質問権を行使しているしている場合ではない」と解釈することも可能だと考えるが、どうだろう?
著者は、90年代後半から2000年代にかけて統一教会問題を精力的追及した調査報道ジャーナリストのロバート・パリー氏。AP通信やニューズウィーク誌に勤務し、George Polk AwardやI.F. Stone Medalを受賞。
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https://www.consortiumnews.com/archive/moon6.html
(略)
しかし、この連載が始まって以来、文氏の国際的な政治的つながりについて、さらに厄介な事実が明らかになってきた。文氏の浪費癖を考えると、最も気がかりなのは、アジアの組織犯罪やラテンアメリカの麻薬取引につながる極右主義者との長年にわたるつながりである。このような関係、そして南米で深化する文氏の事業活動は、米政府が文氏がどのようにして米政治帝国に資金を供給しているのかを正確に確認する必要性を強調している。
文氏の代理人は、遠く離れた場所でどのように事業を維持しているのか、その詳細を公にすることを拒否している。しかし、武器や麻薬の違法な密売で利益を得ているという度重なる疑惑には、怒り心頭で反論している。
アルゼンチン紙『クラリン』による銃乱射の質問に対する典型的な回答として、統一教会のリカルド・デセナ代表はこう答えた。私たちの運動は、民族、国家、宗教の調和に応え、家族が愛の学校であることを宣言しています」。[クラリン、1996年7月7日]
しかし、文氏と麻薬に汚染されたギャングや堕落した右翼政治家との関係は、アジアにおける統一教会の初期にまでさかのぼる。文氏の韓国を拠点とする教会(統一教会)は、かつてイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニを "完璧なファシスト "と称賛した日本のヤクザ犯罪組織のリーダーである笹川良一の支持を得た後、1960年代初頭に日本で最初の重要な進出を果たした。日本と韓国では、影のヤクザが麻薬の密輸、ギャンブル、売春で利益を上げていた。
笹川は日本の与党である自民党の裏指導者であったため、笹川とのつながりは文に改宗者と影響力の両方をもたらした。国際的な場面では、笹川はアジア人民反共同盟の設立に協力し、ヘロインに汚染された国民党中国の指導部と韓国、日本、その他アジアの右派を結束させた。[詳細については、デイヴィッド・E・カプランとアレック・デュブロの『ヤクザ』を参照されたい。]
1966年、アジア連盟は、より伝統的な保守派とともに、ヨーロッパの元ナチス、アメリカのあからさまな人種差別主義者、ラテンアメリカの「決死隊」工作員らを加えた世界反共連盟へと発展した。文鮮明の信奉者たちは両組織で重要な役割を果たし、CIAとも密接な関係を保っていた。
(略)
新政権を祝福するためにラパスに到着した最初の好意的な人々の中に、文鮮明の最高副官ボー・ハイ・パックがいた。文の組織(統一教会)は、ガルシア・メザ将軍と会談するパクの写真を掲載した。山深い首都を訪問した後、パクは「私は世界一高い都市に文鮮明の玉座を建てた」と宣言した。
後のボリビア政府や新聞の報道によると、文鮮明の代理人がクーデターの準備に約400万ドルを投資したという。ボリビアのWACL代表も重要な役割を果たし、文の反共組織の一つであるCAUSAは、ボリビアの主要なクーデター実行者のほとんど全員をメンバーとしてリストアップしていた。[CAIB、1986年冬号]
クーデター後、アルセ=ゴメスは、トラフィカンテのキューバ系アメリカ人密輸業者を含む大物麻薬密売組織と手を組んだ。クラウス・バービーと彼のネオ・ファシストは、ボリビアの主要なコカイン王を保護し、国境まで麻薬を運ぶという新しい任務を得た。[コカイン・ポリティクス]
「準軍事組織--バービーは新しいタイプの親衛隊として構想した--はコカイン男爵に自分たちを売り込んだ」とヘルマンは結論づけた。「ラテンアメリカにおける民族社会主義革命という考えよりも、コカイン取引で手っ取り早く稼げるという魅力の方が強かったのだ」。
レビンによれば、アルセ=ゴメスはある一流の密売人にこう自慢したという。クーデター勢力もそれを支持した。
「ボリビアはすぐに、当時まだ駆け出しだったコロンビアのカルテルへのコカイン・ベースの主要な供給国になり、彼ら自身がアメリカへのコカインの主要な供給国になった。「そしてそれは、DEAの暗黙の協力とCIAの積極的かつ秘密裏の協力なしには成し得なかった。
1980年12月16日、キューバ系アメリカ人の諜報員リカルド・モラレスはフロリダの検察官に、ボリビアの新しい軍事支配者からコカインを輸入する陰謀にフランク・カストロと他のピッグス湾の退役軍人が関与しているとするマイアミを拠点とする捜査「ティック・トークス作戦」の情報提供者になったと語った。[コカイン・ポリティクス]
数年後、メデジン・カルテルの資金洗浄者ラモン・ミリアン・ロドリゲスは、ジョン・ケリー上院議員(マサチューセッツ州選出)が議長を務める上院公聴会で証言した。ミリアンロドリゲスは、カルテルの初期には、"ボリビアは他の国よりもはるかに重要だった "と述べた。[1988年4月6日]。
麻薬王がボリビアで権力を強化するにつれて、文鮮明の組織もその存在感を拡大した。ヘルマンの報告によると、1981年の初めには、戦犯バービーと文鮮明の指導者トーマス・ウォードが一緒に祈る姿がしばしば目撃されていた。アルゼンチンの諜報部員ミンゴラは、ウォードをCIAの給与管理者であり、月給1,500ドルはウォードの代表のCAUSA事務所から支払われていると述べた。[CAIB、1986年冬号]
1981年5月31日、文鮮明はラパスのシェラトン・ホテルのホール・オブ・フリーダムでCAUSAのレセプションを主催した。ボー・ハイ・パックとガルシア・メザは、暗殺未遂事件からのレーガン大統領の回復のために祈りを捧げた。ボー・ハイ・パックはスピーチの中で、"神は共産主義を征服する者として、南米の中心に位置するボリビアの人々を選ばれた "と宣言した。後のボリビアの諜報機関の報告によると、月の組織はボリビア人の「武装教会」をリクルートしようとし、約7000人のボリビア人が準軍事訓練を受けたという。
しかし1981年後半になると、明らかにコカインに汚染されていたことが、アメリカとボリビアの関係を緊張させていた。「文鮮明の一派は、到着したときと同じように一夜にしてボリビアから密かに姿を消した」とハーマンは報告した。ボリビアの情報機関が民政移管を進める中、ウォードと他の2、3人だけがボリビアに残った。
ヘルマンの証言によると、ミンゴラは1982年3月、ラパスのホテル・プラザのカフェテリア「フォンタナ」でウォードに会った。ウォードはボリビアの作戦に落胆していた。「アルトマン(バービー)とのこと、ファシズムとナチズムのこと、あれは行き止まりだった」とウォードは愚痴をこぼした。「文鮮明とCAUSAがここにいるのは愚かなことだった。[CAIB』1986年冬号)この記事に関するウォードのコメントは得られなかった。
コカイン・クーデターの指導者たちは、すぐに逃亡することになった。アルセ=ゴメス内相は結局マイアミに送還され、麻薬密売で30年の刑に服している。ロベルト・スアレスは15年の実刑判決。ガルシア・メザ元大統領は、権力乱用、汚職、殺人の罪でボリビアで30年の刑に処せられ、逃亡中である。バービーは戦争犯罪で終身刑を受けるためフランスに戻された。彼は1992年に死亡した。
しかし、文鮮明の組織はコカイン・クーデターの代償をほとんど支払わなかった。米国の保守政治会議に資金を提供し、1982年には超保守的な『ワシントン・タイムズ』を創刊し、レーガン大統領をはじめとする共和党の有力者に取り入った。文はまた、南米に政治経済的基盤を築き続けた。
1984年、ニューヨーク・タイムズ紙は文鮮明の統一教会をウルグアイにおける「最大級の外国人投資家」と呼び、その前の3年間に約7000万ドルを投資した。投資先には、ウルグアイで3番目に大きな銀行であるバンコ・デ・クレディト、モンテビデオのホテル・ビクトリア・プラザ、新聞社ウルティマス・ノティシアスなどがあった。文鮮明のベンチャー事業は、ウルグアイの軍事政権による寛大な税制優遇措置に助けられた。「教会関係者によれば、ウルグアイは海外での利益の本国送還を容易にする自由な法律があるため、特に魅力的であったという。[NYT、2-16-84]
ニカラグアのコントラ反乱軍を支援する文鮮明の組織は、ニカラグアの国境沿いにコントラにベースキャンプを提供した強力なホンジュラス軍とも密接な関係を築いた。ここでもまた、文鮮明の代理人は、米国へのコカイン輸送を支援している疑いのある将校と接触していた。マイアミの麻薬ネットワークにつながる反カストロのキューバ人も、アルゼンチン軍の情報将校と同様に、反共の大義を推進するために登場した。
ホンジュラスとのつながり
ケリーの上院報告書は、ホンジュラスが北へ向かうコカイン輸送の重要な中継地点になったと結論づけた。「ホンジュラス軍の一部は1980年から麻薬密売人の保護に関与していた。「ホンジュラス軍の一部は1980年以降、麻薬密売人の保護に関与していた。米国は麻薬取締局のホンジュラス駐在を強化し、米国がホンジュラス人に提供していた対外援助をテコに麻薬密売の撲滅に断固とした態度で臨む代わりに、テグシガルパの麻薬取締局事務所を閉鎖し、この問題を無視したようである」。[麻薬、法執行、外交政策--ケリー・レポート--1988年12月]。
1980年代半ば、ジャーナリストや議会調査官が麻薬密売の証拠を探り始めたとき、彼らは文鮮明のワシントン・タイムズから厳しい攻撃を受けた。私がブライアン・バーガーと共同執筆したAP通信の記事は、タイムズ紙の一面で「政治的策略」と非難された。[1986年4月11日]
タイムズ紙は、まずケリーの調査官を金の無駄遣い[1986年8月13日]、次に司法妨害[1987年1月21日]で攻撃した。今、南米の麻薬に汚染された役人たちとの文の歴史的なつながりがより鮮明になり、これらの調査に対する嫌がらせは、自己防衛の可能性という別の様相を呈している。[詳しくは「文鮮明のダークサイド」シリーズを参照されたい。]
さらに最近、文師はウルグアイの豪邸に活動の拠点を移し、南米に保有する資産を拡大し続けている。彼はアルゼンチンのコリエンテス州に多額の投資をしている。コリエンテス州はパラグアイに近い国境地帯で、主要な密輸センターとして知られている。
《パラグアイ》旧統一教会敷地内の麻薬輸送滑走路を爆破=国際犯罪組織が利用、教会関与の疑い(ブラジル日報)
https://news.yahoo.co.jp/articles/64477ef04951e7916bd1426874a3e9a6064a903c
1996年1月2日、文鮮明は信者たちに対する説教の中で、南米の遠隔地に小さな滑走路を建設し、沿岸警備隊のパトロールから逃れるための潜水艦の基地を建設する計画を発表した。飛行場計画は観光のためのもので、「近い将来、世界中に多くの小さな空港ができるだろう」と付け加えた。潜水艦が必要なのは、"世界には国境による制約がたくさんあるからだ "と彼は言った。
その経歴と知名度から、文鮮明とその組織はアメリカ政府の監視の目にさらされるのは当然のことのように思える。しかし、文鮮明は多くの有力政治家を買収することで、立ち入った調査に対する保険をかけているのかもしれない。~
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(中略)党は、この状況を打破して、まず平和で民主的な日本をつくりあげる民主主義革命を実現することを当面の任務とし、ついで社会主義革命に進むという方針のもとに活動した。
(四)第二次世界大戦後の日本では、いくつかの大きな変化が起こった。
(中略)第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である。この変化を代表したのは、一九四七年に施行された日本国憲法である。この憲法は、主権在民、戦争の放棄、国民の基本的人権、国権の最高機関としての国会の地位、地方自治など、民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は「国政に関する権能を有しない」ことなどの制限条項が明記された。
この変化によって、日本の政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備されることになった。
(中略)国民主権の民主主義の流れは、世界の大多数の国ぐにで政治の原則となり、世界政治の主流となりつつある。人権の問題では、自由権とともに、社会権の豊かな発展のもとで、国際的な人権保障の基準がつくられてきた。人権を擁護し発展させることは国際的な課題となっている。
最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、(中略)レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
(中略)
いかなる覇権主義にも反対し、平和の国際秩序を守る闘争、核兵器の廃絶をめざす闘争、軍事同盟に反対する闘争、諸民族の自決権を徹底して尊重しその侵害を許さない闘争、民主主義と人権を擁護し発展させる闘争、各国の経済主権の尊重のうえに立った民主的な国際経済秩序を確立するための闘争、気候変動を抑制し地球環境を守る闘争が、いよいよ重大な意義をもってきている。
(中略)
(一一)この情勢のなかで、いかなる覇権主義にも反対し、平和の国際秩序を守る闘争、核兵器の廃絶をめざす闘争、軍事同盟に反対する闘争、諸民族の自決権を徹底して尊重しその侵害を許さない闘争、民主主義と人権を擁護し発展させる闘争、各国の経済主権の尊重のうえに立った民主的な国際経済秩序を確立するための闘争、気候変動を抑制し地球環境を守る闘争が、いよいよ重大な意義をもってきている。
(中略)
日本共産党は、労働者階級をはじめ、独立、平和、民主主義、社会進歩のためにたたかう世界のすべての人民と連帯し、人類の進歩のための闘争を支持する。
(一二)現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。
(一三)現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容は、次のとおりである。
1 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。
2 国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。
3 選挙制度、行政機構、司法制度などは、憲法の主権在民と平和の精神にたって、改革を進める。
4 地方政治では「住民が主人公」を貫き、住民の利益への奉仕を最優先の課題とする地方自治を確立する。
5 国民の基本的人権を制限・抑圧するあらゆる企てを排除し、社会的経済的諸条件の変化に対応する人権の充実をはかる。労働基本権を全面的に擁護する。企業の内部を含め、社会生活の各分野で、思想・信条の違いによる差別を一掃する。
6 ジェンダー平等社会をつくる。男女の平等、同権をあらゆる分野で擁護し、保障する。女性の独立した人格を尊重し、女性の社会的、法的な地位を高める。女性の社会的進出・貢献を妨げている障害を取り除く。性的指向と性自認を理由とする差別をなくす。
7 教育では、憲法の平和と民主主義の理念を生かした教育制度・行政の改革をおこない、各段階での教育諸条件の向上と教育内容の充実につとめる。
8 文化各分野の積極的な伝統を受けつぎ、科学、技術、文化、芸術、スポーツなどの多面的な発展をはかる。学問・研究と文化活動の自由をまもる。
10 汚職・腐敗・利権の政治を根絶するために、企業・団体献金を禁止する。
11 天皇条項については、「国政に関する権能を有しない」などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。
(一四)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。
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日本共産党が民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。
ソ連や中国の方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義の確立を目指すという意味では、共産党は憲法の擁護者であったし、自由と議会制民主主義の擁護者としてふるまっていると思っていた。
そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由や民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代、60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義を擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。
そこで日本共産党綱領を民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。
まとめると、以下の特徴が読み取れた。
・民主主義的な変革(革命)は専制政治や覇権主義との闘いである
・変革(革命)の担い手は労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生からなる統一戦線である。
民主主義は設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動と認識されている。その主体が定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在の匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ、人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。
綱領は最後に、現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立・安全保障・外交の分野から憲法と民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。
この中には安保破棄といったおなじみのものから、ジェンダー平等など最近になって共産党自身が認識を改めたものも含まれている。
経済的民主主義の分野においては、労働規制、食糧安保などが強調されているが、自由主義経済の擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。
憲法・民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要なメカニズムが全く記載されていないことだった。
ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっとも重要な概念が抜け落ちてしまうのか。
共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギーの進歩として達成されるべきものと認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。
民主主義が革命に向かう運動と理解され、この革命の担い手「主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言を攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。
というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。
広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムやレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済や社会の進歩は、特定のイデオロギーによって達成されるのではなく、優れたものが自然に選択されるという淘汰圧が客観的な社会のダイナミズムとして理解されている。
表現の自由についていえば、特定のイデオロギーの正しさは、歴史が自然に結果を出すものであって、教会や政府が真理として押し付けるものではない、というのがヨーロッパでもアメリカの政治体制でも共通の前提となっている。
そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会に存在することを排除しないのが美徳となる。
差別的言論しかりであり、正しくないと思えるものが一定程度、社会に蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会が進歩するための副産物と考える。
したがって、雑にまとめれば、自由主義社会の制度設計では、ブルジョアやプロレタリアートといったイデオロギー的な主体の覚醒は必要とされないし、イデオロギー的な主体の覚醒や人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラル側からみた共産主義の問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体が統一(戦線)されることが変革のキーだと考えられている。
民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。
そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手の気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。
これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手を教育し、同じ価値観やイデオロギーを共有させようとする契機がある。
これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。
綱領に言論の自由の記載が一行も存在しないのも納得である。言論の自由のもつ社会のダイナミズムを理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。
というわけで、社会の変革にとって、イデオロギーに共鳴する主体醸成を重視するか、
それとも自由のダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
みたいなイメージになった。
しかし、共産党の皆さんに是非、戦後の世界の歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、
言論表現の自由がもたらす社会の不協和音、暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。
この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激な言論を民主主義の副産物とする社会のプラットフォームがあることによって、運動の価値が昇華された。
暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者の概念】とその暴力性は、革命の概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。
異なる出自をもつ二つの権利、争議権と言論の自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。
他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端の存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩も進化もない、という、それはやはり、進化のプロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。
争議権というのは、学校が停止したり電車を全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会が改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力を一定のコントロールに置いたうえで社会の進歩を進めてきたといえる。
ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。
敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望と社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労と新左翼だけが残った。そして秩序を乱す奴イコール、テロリスト、という空気が蔓延した。
日本は国労が新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉に象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命で政府を転覆させるぜくらいの勢いで。
ともあれ、自由主義社会が社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。
絵画にトマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会は社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパのニュース上ではResistantと表現されてもテロリストと表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ。
なんなら、「LGBT」しかり、なのだ。共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器が社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。
https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/
LGBTの存在に気が付き、こうした修正が可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論を放置できる社会だからだ。そのくせ日本共産党がLGBTをあたかも自分たちの応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動の屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本の文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事を執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。
結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体そのものの議論が決定論的なものになってしまい、議論されにくい。
その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾をはらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムのジレンマだ。自由主義社会でダークヒーローのドラマや映画のプロットが西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定の需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。
でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。
その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループを統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。
であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバをコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。
今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。
一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり【寄り合い】だ。
なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本の労働運動が労使間の秩序模索に堕落した一因であるし、日本的組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本の農村漁村を調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセスが共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトローの存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。
民主主義という視点に戻ると、言論の価値、そして、争議という変革の手法が組織どころか社会に迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。
しかしちょっと考えると、別にこれでいいのではないかと思った。
今や国民の過半数ともいえる無党派が非自民に求めているのはきれいな自民党だ。
このことは自民党総裁候補に期待されていることにも表れている。
日本国民の大多数は、政権交代に革命的な変革、まして社会主義革命など求めてはいない。
たかだか修正資本主義の範囲でどのあたりのバランスを選択するかの違いでしかない。
安全保障政策で日本一国丸腰論による平和構築など求めてはいない。
対米関係と国際協調を基軸として、アジア太平洋の平和と繁栄を目指す。
大半の政策は、政権交代したからといって1年でラディカルに転換するなどという話にはならない。
むしろ外交安保にことさら触れていないのは、共産党・社民党に引きずられた異常な方針は採らない。
政権運営しながら、関係諸国や国民と対話し、自民党政権とは少しづつ異なる答えを模索する。
政権交代後、すぐに方針転換するもの、徐々に転換するもの、自民党政権の方針をそのまま継承するものを振り分ける。
すぐに方針転換できるものは国内事項に限られるのは当たり前の話だ。
相手国との交渉事項なのにもかかわらず、拘泥して政権交代を瞬時に終わらせた普天間移設問題の轍を踏まないことが肝要だろう。
そうするとコロナ禍にもかかわらず、まともな財政政策が打てず緊縮策を継続している現状、
つまり20年度予算のうち30兆円超が21年度に繰り越されているような状況を打開すること。
予算の執行がある特定利権者と強固に結び付き固定化されている構造。
国家の大義などかけらもない私利私欲と保身のみで、政府与党が一体となってゼロ回答に終始した問題の是正。
これらは日本のみでやれることだし、政権交代が必要な意義でもある。
権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する(ジョン・アクトン卿)
Power tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely.(Lord John Acton)
男性が常に強者で勝者であるとするならば、あの真夏なのにエアコンなんてものはなく巨大扇風機が生ぬるい風をだらだらと放出し続ける倉庫で、全員時給1000円で集められた日雇いの現場で、女性にはビールの段ボールにベルトコンベアの上で景品を貼り付ける仕事があてがわれ、男性にはびろんびろんに伸びきったまさに言い訳程度のコルセットと安全靴を装着させた上で、ビール350mlが2ダース入った段ボールを上げ下げする仕事があてがわれた思い出はどう処理すればいいんですかね(挨拶)。
むろんこの場合女性を憎む……のではなく、日雇いという弱者同士で連帯してそこでボーッと突っ立ってる監視役の倉庫社員をぶん殴る……のでもなく、倉庫社員とも連帯してサントリーを誅して社会主義革命を起こすのが唯一の正解であることは皆さん御存知の通りである。
さて、この増田では2009年に出版された澁谷知美『平成オトコ塾―悩める男子のための全6章』の内容を紹介する。澁谷は上野千鶴子ゼミの出身であるようだが、いわゆる「フェミニズム」的なテーマではなく、『日本の童貞』『立身出世と下半身』などを出版している、個人的に信用している書き手である。
目次は次の通り。
第1章 その「男の友情」は役に立つか?
第2章 「僕がキミを守る!」と思ってる?
第5章 包茎手術はすべきか否か
2009年の本で、いま論じられているテーマの大体が既に出ていることに驚くだろう。我々は弱者男性問題それ自体だけでなく、議論が12年でほとんど進んでいないこともまた嘆くべきだろう。というかこういう話になると非モテ論壇とか言って侃々諤々やってたのが昔のはてななんだよな今の新参は昔のはてなを知らないから困る。失われた10年……。
それはともかく正直、456章はそれまでの言ってきたことと関連性が薄く、また前の章ほど爆発的に面白いわけでもないので、言いたいことはわかるのだがこの本にいるか?という感じはする。なので、とりあえず3章から見ていくことにする。
3章の冒頭でいきなり研究者としての特大のお気持ちがドロップされていて面白いので少し長くなるが引用しておこう。
ヘテロ男性の非モテ現象だけを扱うというと、必ず来るのが「ヘテロ女性の非モテの方が、あまり苦しみが言語化されないだけに問題が多い。なのに、なぜあなたはヘテロ男性の非モテを扱うのか」という反応です。世の中には、Aという現象を扱う人に対して「A以外も扱え」と指摘することがエライのだ、これこそ目配りというものだ、と思う方が多数存在するみたいで、かなりの確率で前述のような発言に出会います。
が、そういう発言は魚屋に対して野菜を売れと主張するに等しい。非モテ女子の話がそんなに重要なら、重要と思う人がすればいい〔澁谷注:私もいつかはしたいと思っていますが、「非モテ女の話の方が重要だ!」って言う人はどうぞお先に。止めませんよ。〕。それに、その手の話が見当たらないということは、苦しみがそれだけ大きいことを表しているのかもしれませんが、苦しみの不在を端的に表しているだけかもしれません。有力な傍証でもないかぎり、言語化されていないということから苦しみの有無を推定することはできないという、当たり前の事実も指摘しておきます。(p.75-76)
「女性の問題を扱え」といちゃもんつけられたことが一度や二度ではないのであろうことが怨念の籠もった書きぶりからわかる。まあ、それは12年後のネットを見ていてもよくわかるところで。
男性について語れば女性の方がつらいから女性について語れと言われ、女性について語れば男性の方がつらいから男性について語れと言われる。もういい加減そういう「やってる感」を出すための100字ですら余るようないちゃもんはやめにしませんか。お前がやれ。俺もそいつもやったのだから。
澁谷は非モテを3種類に分類する。
a-1 性的存在としての異性との関係性を欲しているタイプ(セックスをしたい、「女性」の存在に癒されたい)
a-2 とにかく他者承認を欲しているタイプ(オレを認めてほしい!)
「恋愛」を押しつけてくる世間や、いま現在「恋愛」と呼ばれている行為の中身や、それを統制するルール等々に違和を感じているタイプ(p.90)
この分類に対して何か意見を言うことは誰にとっても容易であり、それは分類表の絶えざる細分化を招くだろう。むろんその行き着く先は完全に無意味な、総人口分のパターンである。だから、ここでは非モテ男性に最低でも三種類ある、という点を強調しておくことが必要だろう。
男で、かつ非モテ、という狭く見えるテーマに絞っても最低これだけのバリエーションがある。そのことを非モテ男性当人達ですら大抵わかっていない。aのタイプの非モテ男性が「今すぐ女をあてがうべき」とまでは言わなくても「女をあてがってくれると嬉しいのは確か」ぐらいに思うことは自然であるが、bのタイプの非モテ男性から見ればまったく話が合わず、「非モテの中でも過激な野蛮人」と感じられることだろう。それをきっとaは「すかした奴だ」とか「きれい事を言っている」とか感じるだろう。まして女性が受け手の場合はさらに混乱が深まるだろう(男女の非対称性については後で論じる)。
澁谷は当時の主流であった「経済的問題が解決すれば結婚は増える」「機会をつくれば結婚は増える」といった主張を論駁し、「フリーター論壇」が経済について述べたフレームワークを非モテの問題にスライドさせることを試みている。その過程で澁谷は「あてがえ論」について、2009年の時点ですでに考察している。
非モテ問題の場合、これ〔若年労働者問題におけるベーシックインカム〕を「ベーシック異性」によって解決する発想がありえます。女性をもれなく男性に分配する制度です。(p.95)
澁谷はこの論が全くの荒唐無稽でないことを、19世紀半ばの宗教的コミュニティ、オナイダコミュニティを例に挙げ示すが、結局現代においては不可能であろうと言う。
当然のことながらこれを現代日本でやることは不可能です。「分配」される側の女性の中には、どうしても相手のことが好きになれない人が出てくるでしょうし、男性とつがいになりたくない人だって居ることでしょう。そうした女性に男性との共同生活やセックスを強要するのは、現代日本の常識においては、「人権侵害」となります。
もちろん、男性にとっても全く同じことが言えます。あなた好みの女性があなたのもとに「分配」される保証はありません。〔…〕「なんであいつには美人が来て、おれのとこにはそうでないのが来るんだ!」なんていう新手の「格差問題」も生じるかもしれません。(p.97)
この「格差問題」という未来予測は面白い。「チェンジ」なんて贅沢は、限られた資源(女性)をやりくりしないといけない政府が許すはずもない。チェンジOKをうたう風俗でも2回目以降は有料だったりするのだから。
個人的にはこの例示こそ「あてがえ論」に対する何よりのカウンターであると感じる。仮に「あてがえ」とガチに主張する人がいたとして、その人に人権を説いても馬の耳に念仏だろうが、こっちの懸念は聞いてくれるような気がするのである。
澁谷は続いて、経済問題における社会保障にあたるものとして、思想的セーフティーネットの構築を提唱する。まあそれ自体は正しいと思うのだが、本田透『電波男』における主張ほど面白いものではないのでここでは省略する。『電波男』を読め。
暴力的だったり、女性にたいして思いやりがない場合をのぞき、ある男性が女性から選ばれないのは、その男性のせいではありません。女性にとっての「よき男性像」が特定の偏り――収入と学歴が一定以上あり、ある水準以上のルックスをしていて、会話が続く――を見せている限り、そこに当てはまらない人や当てはまろうとしてもできない人が出てくるのは当然のこと。それは、男性陣が特定の偏りを持った「よき女性像」を持っており、そこに当てはまらない女性(非モテ女性)が出てくるのと同じことです。(p.100)
おそらくこの記述で多少救われる人もいるに違いない。KKOは来世に期待するしかないが、それはあなたのせいではない。
ただここで考えたいのは、「暴力的だったり、女性に対して思いやりがない場合」をしれっと除外している点である。そんな男でも「女をあてがわれた」のがかつての日本社会であったことは、澁谷も指摘している。
とはいえ、ちょっと脇道にそれますと、「分配」の方法は問わずに「男性にもれなく女性がくっついた」という現象だけを切り取ってみれば、それに近いものを一九五〇~六〇年代の日本に見出すことができます。当時の男性の生涯未婚率(五〇歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)はわずか一%台でした。九八%の男性が一度は結婚したことがある、つまり女性を「分配」されたことがあったのです。
何故これだけ広範囲の「女性の分配」が可能になったのか。「男女とも結婚して一人前」という社会規範が強かったこともありますが、なにより男女の経済格差が今以上に大きかったことが上げられます。
この時代、一部の職種を除いて、女性が一生続けられるような仕事はありませんでした。有名企業に就職できたとしても、当時は、女性にのみ適用される「三〇歳定年制度」によって追い出されてしまったのです。一方、男性には安定した仕事がありました。給料は毎年上がり、先の見通しも明るい、なんといっても高度成長の時代です。(p.97-98)
ちなみに本書では2005年の男性生涯未婚率15.4%という数字を引いているが、2020年には23.4%になっているらしい。
それに加えて、上で述べた加害性が必ずしも本人の責任ではないということも、90年代以降の精神医学や社会学が明らかにしてきたのではなかったか。
とすれば、KKOのみならず、KKKO(キモくて金が無くて加害性があるおっさん)もまた、必ずしも本人のせいとばかりはいえず、社会に包摂すべき、という話になってくるかもしれない。その際には「ラベリング」「過剰包摂」など、社会学が障害者やホームレスなどについて積み上げてきた知見を生かすことができるだろう。というか、福祉の現場の人たちはいまもKKOだけでなくKKKOも社会の内側へと復帰させるべく頑張っているのではないか。
なぜ、おっさんが問題なのだろうか。あるいはより学術的な言い方をするならば、非モテはなぜ男性の問題になるのか。本書はその問いに直接的に答えてはいないが、ヒントは与えてくれる。以下は1章のはじめの方の記述である。
皆さんは、なーんか気分が晴れない、ってことありませんか? あるいは、漠然とした不安があるとか。原因不明の体のだるさがあるとか。そういった不快な状態、つまり精神的に健康で無い状態を「ディストレス」といいます。そのディストレスが、独身男性と既婚男性とで、どちらが高いかを測った調査があります。〔…〕結果は〔…〕二八歳から七八歳まで、どの年齢層においても既婚男性のディストレスのほうが低かったのです(稲葉昭英「配偶関係と精神的健康」『日本の男性の心理学』二〇〇八)。男性にとって、そばに異性(=妻)がいる人生は、いない人の人生にくらべて、ハッピーなようです。(p.15)
澁谷はディストレスと妻帯のどちらが原因でどちらが結果かはこの調査からは分からないと述べるが、続いて妻に感情を見せることによって、夫が精神的に健康になっていくことを示す調査を引用し、「つまり女性と一緒に暮らすことがディストレスを低くすると考えるのは、間違っていないようです」と一旦の結論を置く。そして次のように続ける。
ならば、男性は女性から精神的なケアを引き出している、といえる。「女性だって同じことでは?」という反論に答えておくと、女性は独身か既婚かでディストレスに大きな差はありませんでした。〔…〕統計的な傾向でいえば、男性の精神的健康に女性の存在は欠かせないが、その逆はない、ということです。(p.16)
この下りはまったく読んだ記憶がなく、今回読み返して一番驚いた部分である。増田の実感としては「男がいないと鬱病になって死にそうな女」はよくいるが、その逆はあまりいない印象であるが、それはどうやら必ずしも正しくないようである(むろん男がいる=結婚ではないとか、ディストレスが高い=鬱病になって死ぬではないとか、そもそも元の調査やその読解がどうなのか、とかは考えなければいけないだろうがそれはそれである)。
上の論述は、女性(強者弱者フェミニスト非フェミニストを問わず)による「女に頼らずに男同士の友情で満足すればいいじゃん(私であればそれで満足するのに)」という主張が、必ずしも的を射ているとは言えない可能性を示唆している。もちろん逆もしかりで、「男性と夫婦になれば女性だって幸せになるはずだ(俺のように)」という男性の主張が間違っている可能性も同時に発生している。
ここに性にまつわる問題の隠れた難しさがある。「相手の気持ちになって考える」ことと「相手の気持ちになって考えたつもり」を区別することは、専門家であっても難しい。さらに加えて、先に述べた非モテ男性の三分類といった差異も隠れている。とにかく、話題への参入障壁が低い(男もしくは女であれば誰でも一家言持っている)わりに、トラップが多すぎるのである。これが2009年から今に至っても議論が終わらないし前に進んでもいない一因だろう。
こうした非対称性が発生する原因として澁谷は、現在の社会において女性が男性より相手の話をよく聞くように育てられており、それに対して男性は競争的に育てられていることを挙げている。その結果として男性は女性に癒やされているし、女性も女性に癒やされているのだろう。
一応言っておくとここで澁谷や増田は「男性と違って女性は人を癒やすべきだ」とか、まして「男は働いて女は家にいるべきだ」とか主張しているわけではない。ただ、そういう傾向がいまの社会にあるようだ、と言っているだけである。それを望ましいとか望ましくないとか考えるのは社会科学の領分ではない。「〈こうである〉から〈こうであるべし〉を導くことは不可能である」(ウェーバー)。
12年後のいま、澁谷の主張に触れると、多くの部分はそのまま現在に流用可能であると感じる。しかし、目配りが足りていない部分もある。おそらく澁谷は包茎手術と高須クリニックの関係よりも、男性における経済的問題について語るべきであっただろう。「女はホームレスにならなくて済むからいいよな」「いや危険だから女はホームレスになれないのだ」「それでも事実として死ぬでもホームレスになるでもない選択肢がある女は恵まれている」云々のあれである。むろんそれは今だから言えることであるのだが。
それでも増田が望んでしまうのは、そうした議論が両者ともにマジでクソだと考えるためである。ホームレスと実地で接しろとは言わないからせめて、ホームレスに女性は本当に少ないのか、少ないだとすればホームレスになるはずの女性はどこへ言っているのか、それはほんとうに「恵まれている」といえるのか、といった事実についての認識は両陣営ともに共有すべきであるし、その時点で認識に差異があるならどの点で異なるのかを明らかにすべきである。
そうした仕事を澁谷が12年前に済ませてくれていたら、と思う。思うのだが仕方ないことなので、現在を生きる我々がやるしかあるまい。というところまでは澁谷の背中に乗って増田が到達させたので、ここから先はお前の仕事だ。頑張ってください。たまに手伝いに行くかもしれない。
===
(追記)
バズったので宣伝します。狐火という、この記事や通念における弱者男性というカテゴリーからはみ出す部分はありながら、それでも弱者男性であることを納得せざるを得ないリリックを10年以上紡ぎ続けているラッパーがいます。売れろ!
https://www.youtube.com/watch?v=tmJBGEFXOvU
勇気が欲しい
余裕で頭を下げられる
勇気が欲しい
勇気が欲しい
https://www.youtube.com/watch?v=MRLXZGylQRg
絶対こんなはずじゃなかった
オレこんなはずじゃなかったんだよ
https://www.youtube.com/watch?v=loWcv5VEObM
よく聞かれる
歌えないんじゃないですか?」
https://www.youtube.com/watch?v=z1J8BbnBLyQ
27才までに見ていた夢は全て叶った
良い分類と整理だと思う。
「弱者の男性」問題は、議論が深まり社会の認識がされていくことを期待する。
だが、今、はてぶで吹き上がっているのは「弱者の男性」問題ではなく「強者ではない男性」問題。
たとえ社会的成功を収め、人間関係に恵まれていても、その自意識に自分は弱者であるという意識があれば弱者男性になれてしまうのだ。 |
「強者ではない男性」問題で当事者の不満をブコメを参考に分類した。
2.恋愛強者または高所得の女の方が社会的弱者とされることへの不満
3.強者男性や恋愛強者または高所得女に比べ、社会的な承認が得られていない不満
1は、自由競争を基本原理とする資本主義社会を前提にすれば、女はともかく、金は仕方がないのだ。
(女の問題は3で後述する。)
この社会で「人権」として認められるのは「健康で文化的な最低限の生活」までで、俺の知っている強者男性と同じだけよこせといっても認められない。
この不満を解消したいなら、資本主義を否定し新たな社会主義革命を目指すしかない。
(一方、伝統的な社会主義国でもこの不満は解決しないことは歴史が証明しており、新たな社会主義でも同様だろうという私見を持ってはいる。)
2だが、そもそも「特定の属性」を持つ個人を、その属性を理由に冷遇することを差別といい、被差別属性を持つものが社会的弱者である。
元増田が整理したように「強者ではない男性」の属性は特定不可能なので、「強者ではない男性」全体を被差別集団には認められない。
一方、女性は、女性であるという属性を理由に、入試問題やセクハラ問題などの冷遇を受けていることが明らかになっている。
いや、自分は貧困属性があるという「強者ではない男性」には、「貧困属性は男女問わない。貧困男性と貧困女性は等しく扱う」という回答になる。
(恋愛については3で後述する)
3だが。
社会的承認や尊敬、周囲からの愛情や好意。異性からの恋愛感情といった物は、社会資産として分配出来ない。
社会は各々人権を持つ個人の集合体で、各個人は自分の幸福な人生を追求する権利がある。
人権の衝突と主張をする増田もあったが、異性を女と固定して男への世話役を要求するのなら、そもそも衝突ではなく一方的な女の幸福追求権の侵害だ。
かつ、社会でうまく他者と関われない個人はいるが、その属性は男女を問わない。また、男だから、女より社会的承認や異性からの愛情が多く必要だという事実はない。
対人スキルが平均より著しく低い個人に対し、社会的な支援は用意されるべきだが、それは、対人スキルのトレーニングといったものになるだろう。
今33歳だけど、一週間ほど経って落ち着いてきたから話をしたい。
100過ぎた頃まで生きてその辺りから記憶曖昧で、多分死んだと思う
そこで意識がはっきりしたのが一週間前なんだが、若い頃使ったネカフェで目を覚した。
文字にすると頭混乱してくるから文章下手なら申し訳ないが、とにかく情報だけを残しておこう。
読みなおしてみると何言ってるのかよく分からない。
夢って言葉じゃ片付けられないけど夢を見てたんだと思う。
普通に100付近まで生きてたはず。20歳~100歳くらいの記憶がある程度鮮明に残ってる
今は100歳丁度らしいんだが、逆に20歳までの記憶はすごく薄いというかでも今の俺は100年も生きてない状態なんだよ。
とりあえずぱっと思いつく大きい事でよければ書いておくよ。
あと、別に未来からきたーとかそういう事ではないから予知では無いとだけ断っておく。
東海地方と西日本で群発的な災害(地震と水害)があった。とにかくすごい被害の映像はよく見たな
それが原因で東京オリンピックだとか大阪万博の開催がすごい揉めてた気がする。結局開催した
この頃くらいに地球温暖化が悪化しているとか言って社会現象になってた
福島原発のなんか大事な撤去作業で原発の欠陥だかが大きく言われて全国の原発が事実上廃炉となった
Googleがインフィっていう携帯出した。小さいプレステのコントローラーみたいな感じの物で、今の四角い感じの携帯が一気に消えてった
鉄道の公有化や多国籍企業化が進んで交通難民が都市部や地方で大量発生し、公共交通が破綻する。
リニアが走りだして山梨と長野が発展する変わりに神奈川と静岡の衰退が始まった
この頃は日本の人口問題がすごい言われてた。けどこの頃を境に全然話題に無くなった
タイムマシン実現って騒いだ。光じゃなくて量子?だかなんだかの理論を応用したんだってさ
自動運転の車が急激に普及して鉄道会社が世界的に潰れ、東京や大阪など局地的で大恐慌になったと思う
西側諸国各地で社会主義革命が起きて、資本主義がオワコンになっていた
AIの極端な発達で人間の社会が大きく変化し、99%の雇用はまったく違う種類になっている。
この頃から煙草や酒の規制が進みすぎて吸う奴飲む奴いなくなった。
日本だけでこの規制の動きは2040年まで。それ以降は日本が主導で規制してそれに他の国が着いてくる感じだった
日本の人口は移民の殺到や出生率の回復などで1億5000万人に達し、アメリカの人口が4億人に達していた
同時期に世界中が社会主義と共産主義みたいになってえぐい事になってた。日本も影響受けまくってた
電気無線で飛ばすみたいな技術が一気に発展した。電力革命って騒がれた
おそらく地獄の時期というか、戦争でもなんでもとりあえず人類終わるんじゃねって一般的にでも思われだした酷い時期の始まり
あとこの頃は結構雑じゃなく細かい事も覚えてるけど、どうでもいいくらい大きい事多すぎるからそれだけに絞る。
アメリカと日本が技術協力して火星への移民やってるとかいう噂が出来て、日本でもデモが起きた
世界大戦ピークから終わりの時期だったけど、日本人の生活は2000年代に比べて発展しまくってたと思う。
三次大戦の時日本は兵器輸出だけってのが条件だったから生産ライン攻撃されたニュースはよく見た
兵器生産をやめろーとか、この県から兵器生産工場を無くせーってみんな騒いでた
ピーク過ぎくらいから世界中の国々が地球統一を望んでいてソビエト以来の巨大な国の併合の時期になってた
最終的に1つの国だけになった。
終わった後になって戦争の理由が火星への強制移住であることが明らかになって、記憶の中では最大のデモが起こった
俺も参加しちゃったくらい本当に皆デモしてた。首相変えられるくらいの
この頃俺が事故って脳に障害した。3割障害者みたいな感じになった
経済そのものが概念から破綻し、お金が使い物にならなくなり、日用品は配給制に、ぜいたく品は身分によって持てたり持てなくなったりした
食事もファストフードやSF食のような極端なものだけになる。お寿司?何それ?
地球の人口は40億人を切り、火星の人口は環境難から人口が伸び悩む上に災害や戦乱などによる死者が多く、12億人にとどまる。
結局地球の人口減少は32億人の時点で止まるけど、火星の人口はゆるやかな減少に転じる。
人類の病気や障害がほぼ完治できるようになり、また老衰の概念が消えて半永久的に生きられるようになり、死者はごく一部の不治の病と事故死と殺人などを除いて発生しなくなる
タイムマシンは過去と未来の両方に行けて、その技術を応用してワープが開発された
なんか病院でぼんやりしてた。病気と障害の完治治療が確立されてたのは覚えてるけどなんで死んだのか知らない
多分死んだ
これは思想の左右とは関係なく、市場の要請=売る相手が居なくなると国内経済が困るから、であって、政治思想とは関係ないのでは。
強いて言えば、財界≒右なので、右サイド(持てる層)の人たちの「認識不足」だと言えなくもないですが…。
リベラルは弱者保護というよりも、多様性の許容という理屈立てだと思います。
信じられないかもしれませんが10年ぐらい前は、子を産んだ女は「いったん社会から強制退場」だったので、そうじゃない「人生の多様性」を獲得したい、という主旨だと思います。
「産んだ人=弱い=守らねば」ではなく、「産んだら退場」=扶養家族増えたのに稼ぎ口減る=社会的弱者」、という、もう一段階前の存在を忘れないでほしいです。
そして、出産に義務を課しているわけでもない。ご自身でも仰っているように、出産を義務と見なしているのは右でしょうね。夫婦別姓も大嫌いな人たちですし。
このように考えてしまう理由は、恋愛(ここでコミュニケーション弱者が発生)→結婚(ここでは主に経済弱者が脱落)→出産、
というヒエラルキーを想像しているのかもしれませんが、この「自然的市場」を否定するのであれば、
社会主義革命か、もしくは地球全土が中世ぐらいまで生産性を下げる(必然的に生殖行為=生産性向上に直結するはず)ぐらいしか方法が思いつかないですw
なので、本増田は、絶対的なものとしてこのヒエラルキーを想定するのは、人間としてい続けるためには(ワンオブ生物であると開き直るなら別ですが、私はそれは人間とはみなしません)
間違っていると思いますし、むしろ「人生の多様性」を広げることで、野生生物的ヒエラルキーの意味を削いで行くことが可能だと考えています。
ただし、何しろ人間という「生物」は、かれこれ1億年ぐらい、「産む=生産性」というシンプルかつ野生な環境でやってきたので、簡単に変わるとは思いませんが…、
『同志ウリヤノフ。思想、意思、自制、魅力、統率、扇動であります。』
『………。』
『私にはあと10点が足りなかった。私が革命をついに為し遂げられなかったならば、残り10点の欠落によるだろう。』
――同志アレクサンドロヴナ。風船を用いた飛行船によってルビッチとプペルが煙に突入。全て計画通りに進行中。
鼓膜を擦するような雑音混じりの伝令通信により、アレクサンドロヴナは甘い微睡から目覚めた。
即座に胸まで浸かりかけた追懐を殺す。感傷を潰す。
素早く一つ、いや二つ深呼吸する。
――了解。
憲兵どもの銃弾にこめかみを貫かれた同志ウリヤノフの胸をナイフで引き裂き、大動脈と大静脈を引きちぎって心臓を掻き抱きながら敗走したあの日から、私は私ではない。
埋葬もなく、墓標もなく、告別すらなく憲兵どもの放った犬の餌になり果てた同志ウリヤノフの手足であり、声であり、遺志だ。
故に自身に宿った同志の一粒種にも、父親役を演じる部下を通して同志の言葉を贈り続けた。
「信じぬくんだ。たとえひとりになっても。」
残党になり下がり、地下に潜った革命軍に残された希望は、少年に育った一粒種ルビッチと同志ウリヤノフの心臓、それのみであったが、心臓の所在が遂に憲兵どもに摑まれた。
当局がまだその存在を把握していないルビッチをアレクサンドロヴナが、同志ウリヤノフの心臓を父親役の部下が、それぞれ抱えて逃走した。
部下は心臓を8つ複製し、それぞれを異なる配達屋に預けたうえ、町の果てまで追走してきた憲兵どもの目の前で自刃した。見事な最期だったという。
何も知らぬ配達屋たちは全員、我々が仕組んだとおりに配達途中で心臓を取り落とした。
手間と賃金を換算し、配達屋たちは目論見通り誰一人捜索に一切着手せず、何事もなかったかのように配達業務に戻った。
憲兵どもに拉致された彼らは尋問され、拷問されながら、自分が何故かような仕置きを受けているのか全く理解できぬまま死ぬことになるだろう。彼らの屍を捧げることで、同志ウリヤノフの心臓の痕跡を消し去ることができる。危機はしかし、好機だったのだ。
私は私ではない。同志ウリヤノフの遺志を継ぐ道具。機械。
故に死後、地獄に落ちることも厭わない。
憲兵どもが配達屋たちを責めている間に同志の本物の心臓を回収し、ルビッチが父のものだと頑に信じている銀のペンダント、それは事実同志ウリヤノフ所有のペンダントで昔日に私に贈られたものだ、を脳核としてヒトガタを造る。
この町の99%を占める最底辺のプロレタリアートそのものである。
脳核たるペンダントから、父親役だった部下の写真を取り出し、代わりにプログラムを埋め込む。
ルビッチには、父親は漁のさなかに波にのまれて死んだと伝えた。
止むことなく流れる涙を見ながら、脳髄に刻むように言い聞かせる。
私は私ではない。私は同志ウリヤノフの遺志を継ぐ道具。機械。私は私ではない。私は私では、、、
――同志アレクサンドロヴナ!ルビッチとプペルが煙を突破しました! その先の何か、その先にある何か偉大なものに邂逅した模様!
この国では労働者は搾取され続け、資本家どもは肥え太り続ける。
労働者は朝も晩も、資本家どもの富の代償である煙に包まれ、煙によって目が冒され、肺が冒され、脳が冒され、死ぬ。
平均寿命は50に満たない。まっとうな状態でいられるのはせいぜい40までだ。残りの10年は苦しみしかない。
煙は資本家どもの贅肉そのものであり、この国を閉塞する蓋であり、持つものと持たざるものを隔てるイェリコの壁である。
しかし今宵、角笛は吹かれた。
壁が崩れる時が来た。
持たざるものが、煙を超えたのだ。
「諸君! 私は確信する! 遠くない未来、我々の矜持を、尊厳を、希望を、光を奪い続けた煙が晴れることを!」
「革命の父、イリヤ・ウリヤノフの息子ルビッチ! ルビッチ・ウリヤノフ! それが煙に突撃し、煙を払う者の名である!」
「同志ルビッチ・ウリヤノフ!万歳! 同志ルビッチ・ウリヤノフ!万歳! 」
「今宵この日は! お金の奴隷解放宣言が叶った日として永劫記憶されるだろう!」
「ギブ&ギブ! ギブ&ギブ! ギブ&ギブ!」
『伝説…』
『どれだけ資質を備えていても、どれほど有能であったとしても、人は不完全だ。しかし民衆は指導者に完全を求める。残念ながら人は人ゆえに、完全には成り得ない。ではどうする?』
『………。』
『理解に至りません。同志ウリヤノフ。』
『彼は選ばれた者なのだ。だから盲信するしかない。そんな諦めだ。
自身と比較し秀でているから信じるのではない。自身と比較できないから信じられるのだ。』
『………。』
『たとえばこの煙。どこまで続くか誰も知らぬこの絶望の煙を超えて、その先にあるものにまみえた。そんな、常人では発想することすら笑い話になるような伝説だ。』
『煙の、その先…』
『たとえばの話だがね。…しかし、見てみたいものだな。その先にあるものを。…きみとともに。』
10年に渡る激しい革命闘争の果てに「煙突のルビッチ」を最高指導者に戴く政治結社「赤い星」は、ついに世界史上初めての社会主義革命を成就させる。
ルビッチは言う。
『他の誰も見ていなくてもいい。
黒い煙のその先に、お前が光を見たのなら、
信じぬくんだ。たとえ一人になっても。
ドキドキしてる?』
今は少なくとも平均値は上昇してるけど。地域限定で。北陸と関東くらいか。
そもそも資本主義の世界で「全員分の椅子」があった時代なんてない。
あんたの言を正しいとするなら今更社会主義革命でも起こすか?って話になるけど。
「リスクを払えば全員が良い職にありつけると思ってるのか」って
それ「リスクを払う」時点でありつけない結末もそりゃあるよ。
あなたには移動の自由があり、就業の自由がある。創業の自由もある。
一体何が不満なの?トリクルダウンはそりゃ取りに行った奴にしか降ってこねーよ。
若者の投票率を上げようというキャンペーンがいたるところでやっていた。
もう32歳にもなる自分も、まだ若者のうちだろうか、などと考えながら、投票所にいった。
前回とも前々回とも変わらない、入場券と引き換えに投票用紙をもらって、紙に書く古典的なシステムだった。
タッチパネルにでもすりゃあ集計が楽でいいのに、と思った。
陶片追放の頃から進歩したのは、陶片が紙になったことくらいか。
入場券で投票用紙をもらう時に、本人確認もなにもなかったので、
「これ、本人じゃなくても投票できないですか?」
とクレーマーになってみた。
「入場券は住所にお送りさせていただいてますので…」
「でも、普通郵便ですよね?悪意さえあればマンションの郵便受けから何枚でも盗めると思うんですけど。」
「ええ、しかし、ひとりひとり全員の本人確認というのは難しく」
ところで、思ったんだけど、投票率が低いのがなにが問題なんだろう?
そんなに世代ごとの民意を抽出したいんだったら、世代ごとに投票箱をわけて、世代ごとの得票数を世代ごとの投票率で割ってから合計すれば、世代ごとの意見が反映されるじゃないか。
そうしちゃうと、自ら選挙に来る人間の意見が拡大されすぎると言われる気がするが、選挙ってそういうもんだろ?
選挙権がある人全員のなかで、投票したい人の意見だけあつめるより、適当にランダム抽出した人に支持政党聞いたほうが、民意を反映してんじゃないの?
ランダム抽出した10万人で選挙した結果と、全員で選挙した結果で差なんかでないわけで。
ランダム抽出のやり方がまあネックではあるけど、とにかくも10万人くらいならさ、投票率90%以上にするのも可能なんじゃないか?
くらいの大盤振る舞いしたって、1億で済むわけで。
ああ、もう、国会議員そのものを全国民のなかからダーツで決めりゃいいんじゃね?
衆参あわせて700人もいれば、だいたい民意を反映するよ。
どうせ議員立法なんて滅多ないんだし、閣僚にその道のエキスパート集めればなんとかなんじゃね?
話を戻そう。
あのキャンペーンは、誰が金を出してるんだ?
若者が投票しないと、若者に不利な政治になる、とか言われてるけど、若者があのキャンペーンをやってるとは思えないんだが。
これが、40年くらい前なら、若者の票を結集すれば、社会主義革命くらいやれたかもしれないけど、ねぇ。
第一、若者の支持政党って、そんな特異な偏りを示してるとは思えないんだけど。
若者よりの主張をしてるのは維新と幸福あたりだと思うが、若者から絶大な支持って感じだとは思えない。
他の世代と一緒で、第一党が自民党で、あとは団子だと思うけどな。
とにかく、若者が選挙に来なくても、大きな問題はないし、それでシステム上の問題があるってんなら、なんでシステムを変えないんだ?
わからん。