はてなキーワード: 砂の城とは
大学生だった2007年頃から趣味で他愛もないホームページをつくっていた。
ワードプレスやライブドアブログのようなCMSには頼らず、1から10まで自分で作ることにこだわった。
すぐにのめり込んでいき、大学の図書館にこもりWEB関係の本を借りまくった。
しかしWEB関係といってもPHPやSQLは理解できなかったので、まずはHTMLとCSSだけ勉強して静的なページをべた書きで量産していった。
HTML,CSSですら最初はつまづいていたけれども、自分の意図した通りにデザインできるようになってからは面白かった。
アクセスは全く増えず、一日100PVにも満たなかったが、僕はめげなかった。
講義には出ず、学園祭にもサークルにもいかなくなり、周囲からは「まだやってたの」「何がしたいの」と呆れた目で見られるようになった。
付き合う人も限定されて社交性は衰えていった。
半年が経っても動的なページをつくれる技術はなかったので、未だに力押しでページを量産していた。
しかしデザインにはこだわっていたので、単純なHTMLでも、見た目にはそれなりのサイトに仕上がっていた。
内容はくだらなくても、いっちょまえなレイアウトで書けば、それだけで見栄えのする物になった。
PVはすぐには伸びないとわかっていたので、平均滞在時間、平均PV、直帰率を目標にしていた。
ユーザビリティには独自性は無用で、正解があると思っていたので、ヤコブニールセンのWEBユーザビリティの本を買って、素直に勉強した。
PVが少なかったので、平均をとっても余り意味がないのだけれども、平均PVは8はあったと思う。
ビジネスの基本は選択と集中だと考えいたので、PVが伸びなくてもサイトのテーマは広げず、なるべく狭く深くを追求していった。
サイト制作をはじめてから8ヶ月ごろではじめてグーグルアドセンスが振り込まれた。
ヤフーニュースの関連する記事にリンクが貼られたことも大きかった。
アフィ収入は年間400万を超えて、僕は大学3年で親の扶養を外れた。
稼げるようになってから、周囲の目が変わった。
いまどきアフィリエイトかよと呆れていた人が僕にジャンルや手法を訊いてくるようになった。
この頃から僕は自分にはプログラマの適正があると勘違いし始めた。
HTMLやCSSは狭義のプログラミングではないにもかかわらずだ。
調子に乗った僕はプロの話を聞きたいと思って、広告で見た翔泳社のデベロッパーズサミットに参加した。
年に一度開かれるITエンジニアの割と大きなカンファレンスだが、仕事で来てる人がほとんどだと思う。
名刺がないので受付で恥ずかしい思いをした。
javaのカリスマエンジニアやオラクル、NTTデータ、MSの偉い人、はてなの人などが講演していた。
当時HTMLとCSSしかわからず、PHPとMYSQLをかじったばかりの僕には話の内容は1割も理解できなかった。
引きこもってプログラマごっこを続けているうちに大学4年になった。
一生アフィで食っていけるわけもないので、就職活動をはじめた。
WEB系はブラックが多いとそれとなく聞きかじっていたので、大手IT企業や大手SIerを中心に受けた。
(新卒でWEB屋の門を叩かなかったことを、今でも本当に後悔している。)
結論から言うとMSもデータもオラクルもグーグルもユニシスも全部落ちた。
営業職も応募したけれど、いずれにせよPHPとSQLをかじっただけでは戦力にならないし、そもそも、WEBとSIでは言語の畑が違うのだろうが、たぶんそういう技術的な事はどうでもよかった。
技術的な事は入社後に教育する体制ができてるので、学生には何よりもまず社交性を求めていたのだろう。
~でも、私には在学中に専攻外の事を勉強していった自主性があります、
~これに関しては誰にも負けません。
とアピールしたのだけれども、ダメだった。ただの独り善がりの変なヤツに見えたのかもしれない。疑わしきは落とす。
結局僕は社交性、人間性、社畜適正、その他、大企業が学生に求める普遍的な魅力を欠いていたから内定がでなかったのだろう。
文系の学生が独学で中途半端にプログラミングの勉強を始めたばかりに、それはIT業界から内定を得る上での強みになるどころか、致命傷になったのだ。
友人は立派な会社に就職していったので、当時リーマン不況のまっただ中で就職難だったというのは理由にならない。
facebookで大学の友人をみると勤務先がNTTデータとかアクセンチュアになっていた。僕よりも人間的な魅力があったのだろう。
サイト制作は趣味と割り切り、日本を支える製造業を仕事に選んだ。
内定をもらってから卒業するまでの間に、僕よりもずっとITに明るい友人に、アフィで成功していたことを買われて起業を持ちかけられたが、何度も衝突し、結局2ヶ月で僕の方から音を上げてやめた。
起業するなら一人でスタートして人を雇うなり外注するなりすべきで、チームで始めるにしても誰が一番偉いのか最初に明確にすべきだと、このときに確信した。
就職したが、毎日のような飲み会と、週末のゴルフ、一発芸の強要など体育会系の慣習に嫌気が差した。
僕は仕事の傍らの片手間の作業でも収入が増えていくアフィに目をくらませて、半年で退職し、専業アフィリエイターになった。
今は無き海外ニートブログの労働観と、後述するコピペが僕を後押しした。
専業になってから収入は伸び続け、一番多いときで月80万を超えたが、その代わり孤独になったので、以前のような精神的な余裕がなくなった。
技術的には大学在学中からほとんど成長しておらず、未だにhtmlのべた書きで、サイトの一部でphpとsqlを使用してる程度だったからだ。
僕のサイトはWEBサービスといえるような代物ではなく、ただの一方通行のサイトで、コメント欄をつくる技術もないので、放置していもユーザーが勝手にコンテンツの価値を高めてくれるということはなかった。
ページを増やすのは社員を増やすようなものだと考えていたけれども、僕の身体は一つなのでべた書きで増やせる量には限界がある。
一人で安定してコンテンツを生み出すには、今後は趣味のサイトからは卒業し、より商業的なユーザー参加型のCGMを作らなくてはならない。このままではまずいと感じていた。
しかし僕はcakephpのようなフレームワークを使用せず、というかMVCを理解できず、。
ワードプレスのようなCMSもつかわず、力押しでべた書きで作っていたので、できることには限界があった。
僕と同じ個人事業主がつくっているW3Qのような立派なサイトをみるのが怖かった。
僕のサイトはブログやニュースサイトではなく、テーマが普遍的なサイトだったので、放置していもPVは減るどころか増えていった。
あぐらをかいた僕はサイト制作を完全に放置して、不安を紛らわすために現実逃避で遊びはじめた。
目的地も決めず、平日に思いつきで一人旅やサイクリングにいった。
仕事を辞める引き金をひいたのが、2chの独身男性板でみたこのコピペだった。
もし仕事に行きたくなくなったら、そのまま反対の電車に乗って、
海を見に行くといいよ。
陽に当たりながら飲むといいよ。
ビールが無くなったら、そのまま仰向けに寝ころんで、
流れる雲をずっと眺めるといいよ。
そんな穏やかな時間がキミを待ってるのに、何も無理して
毎朝ネクタイを締めるときにストレスで吐いていた僕の背中を押してくれた。
なんて罪なコピペだろう。
気晴らしのはずの一人旅なのに、旅館の人に今日はお仕事お休みですか?と聞かれたのが辛かった。
他にも一人で野球観戦に行ったり、映画を借りまくったり、早朝深夜のメジャーリーグの試合を見まくったり、夜更かししてロンドンオリンピックを見まくったりした。
野球中継に関してはスカパーのプロ野球セットを契約していたので、144試合中130試合は1回から9回まで見ていたと思う。
僕はサラリーマン時代に味わえなかった自由をほとんどすべて享受した。
サイトの方はなんだかんだで半年以上更新してなかっただろうか。
そして昨年の11月に事件が起こった。
グーグルのアルゴリズムが変わり検索順位が大きく下がったのだ。
打開するための次のサイトのアイデアはあるのだけれども、技術がない。
フロー理論でいう挑戦と技能の間の大きなギャップがあり、不安に駆られ現実逃避しか出来なくなった。
収入は落ち込んでいくのに、サイト制作をする気にもなれず、この一ヶ月前に自営業を断念した。
僕は公務員を目指すことを考え始めた。
一ヶ月後の6月が試験であるが参考書だけ買って全く勉強は進んでいない。
今年は無理だろう。
しかし今年で27歳だ。公務員になるにはそろそろ年齢制限にひっかかる。
来年筆記試験にうかったとしても、年増が面接に受かるだろうか。
27歳にもなるのに職歴がなく、独学でphpとSQLを囓った程度ではWEB制作会社は雇ってはくれないだろう。
詰んだかな、これ。
もっと外に出て、みんなと同じ大学生活を送って、みんなと同じ就職活動をして、みんなと同じように働いていれば。
初めての増田。
気持の整理ができたのでよかった。
13/5/18 15:00
はてな、ツイッターでの様々なご意見、ご指摘ありがとうございます。
27歳で実務経験のない僕が現時点でのスキルでWEB制作の仕事にありつけるとは思えず、納期がある請負も性にあっていないので、やはり公務員試験の勉強をがんばります。
僕のサイトははてぶ400userもありませんが、最後にホッテントリ入りしてWEBに小さな足跡を残せたので、悔いはありません。
#象の足
見つけないで欲しい。たった一人で逆上がりをする細い腕の、規則正しく失われてい
った憂鬱と。まだ失われていない真っ昼間に、これから失われる夢の続き。押入れ。
幽霊。原っぱ。糸電話の向こうから叫ばれ続ける”たとえば世界がなかったとしても”
という声に耳を塞いで、待ち続ける、待ち続け、失われ続ける、続けた、続けていた。
待ち続けて、待ち疲れ、青い空を見て涙が出た。何かを殴りつけた。読むことのない
手紙を燃やした。草むらに横倒しになった巨大な冷蔵庫を前に、立ち尽くすことしか、
できなかった。
消えていく輪っかと
現れる独り
消えていった人の
ぼやけた横顔
消えていかない海に
追いつかない時間
#追いかけっこ
障子に開いた五つの穴の、そこに当てられた四人の目の。何を見て、何を見ようとし
て。「不安なの?」と誰かが言った。押入れの中から声がした。震える体を抱きしめ
ようとしてくる人がいて。それでもひたすらに独りだった六畳間の、中吊り棚に立て
かけた、気象衛星の鉛筆デッサン。指先が痙攣し、はぐれ、引きちぎられ。破れた人
差し指から海が広がる。見覚えのある海岸線に、燃え上がる袈裟姿の坊主。もつれる
足に指し貫きが引き摺られ、砂の城がそれに巻き取られる。波の打ち寄せる音だけが
鮮明に聞こえる。悲鳴は隠される。波は多くを攫い、やがてそこには誰もいなくなる。
何も見えなくなる。
喉もとに
纏わりついた
途方のない痛み
うっ血した首筋
窓を叩きつける
冬の土砂降り
底冷え
#十二月
2010年。かくれんぼの日。六本指で生まれなおした真っ暗な午後三時に、手紙を書い
た。寝巻きのまま、口笛を吹いて夜になった。一つの真っ暗が終わってまた別の真っ
暗がやってくる。手紙を書き終えることはできない。くしゃくしゃになったPPC用紙
からこぼれた言葉、が、角膜に焼きつき。”天井に人型の染みができて、やもりの見
る夢、バイオロイドの見る夢、もう一度だけ話がしたい、黙って取り残されたのも、
本当にもう手探りで、びっくりするくらいに遠く、押入れの戸締りが、夏になったら、
弱弱しく
手を繋いだ
聾だったのに
片耳を塞いで
生きる、ということ
生きている、という
その
#大赤斑
人に差し向けた人差し指に鬼やんまが止まり、失われていったものはもう一度失われ
る。人を指していた自分の指に突き刺される。逆上がりをしてひっくり返った景色と
ひっくり返らなかった世界。何もかもが悲しいのは”それがそこになかったとしても”
という声を枯らしてしまったから。待ち続け。待たれ続け。待たされ続け。目の前で
大口を開ける坊主の、かき消された叫び声。両目を覆った十一本の指。その隙間から
ちらちらと覗く青い空が、鮮やか過ぎて、恐ろしく、涙を流し、殴られ、手紙を書き、
書いては、燃やす。伸び縮みする宇宙膜に手を伸ばし、広がりの切れ端に俺は飛び込
む。
前回:http://anond.hatelabo.jp/20100805013139
また大分間が空いてしまったけれども。
今はとても穏やかに時を過ごしている。何もすることもなく、何かしなくてはいけないこともなく。ただ、浅い眠りをうつらうつらと繰り返し、意識が清明なときだけネットを見たり、外に出かけたりしている。好きなゲームにはほとんど手を出していない。アニメは…ちょっと見るようになった。劇場で「インセプション」を見られるようになったというのは、自分では大進歩だと思っている。題材的にも、劇場へ足を運ぶという行為自体も、前の状態だったら絶対に無理だっただろう。
そして、この平穏があと2週間くらいしか続かないことも、知っている。
まずは眼科。これは生活上目が見えなくて困っていたからで、眼鏡とコンタクトの処方を変えることで大分改善した(あと、生活環境をMacに替えた)。緑内障の恐れがあるから、視野検査も受けなくてはならないが…。
次に歯医者にいくことにしている。十年来奥歯に痛みを抱えていて、これは生え方がおかしい、いわゆる「埋没歯」というやつなのだが、こいつの手術をしなくてはならない。入院がいるだろう。そこまで派手な治療をしてくれる歯科の心当たりはないので、聞いて回らないとダメなのだろうな。
あとは耳鼻科で耳垢を取ってもらう(俺のは医者にやってもらわないとマズいらしい。素人は手を出すなといわれている)とか、メニエール氏病の検査を受けたりしなくてはならないが、このへんはまあいつでもできるし、重要でもない。
問題は、循環器科案件。この件について知っているのは家族と親しい友人数名だけなのだが。俺は首の動脈に爆弾を抱えている。何らかの弾みでこいつがはじけたら一発アウトのあの世行き。手術することもできるのだが、その後のケアが大変すぎるのと、そもそも成功例があまり多くない? らしく「ほっといてポックリいったほうがいいですよ」などと言われる始末である。どちらにせよ、そう長くは生きられそうにもない。この休職の間にこの案件を片付けるか。それとも忘れたふりをしているか。さすがに忘れてしまうことなど出来るわけもない。ちなみにこの爆弾が原因で、俺は1日に大量のボルヴィックを浴びるように飲んでいる。血の巡りが悪くなるとこの爆弾に着火する可能性が高いからだ。
この休職により、ついに俺は社会的に死を迎えることになった。後は生物学的な死だ。むろん、お金が稼げず飢え死にするなどということは充分に考えられるが、それよりもこの満身創痍の状態でいつまで耐えられるのか、のほうが問題だろうと思っている。
結局のところ、俺はもう半分死んでいて、近々完全に死ぬのだ。それが自らの意志なのか、それとも抱えている地雷が爆発するのか、それとも別の原因なのかはさておき。時期もなんとなく、休職の明ける11月くらいなのだろうな、と言うのがうっすら見えている。一応増田たちに責任をかぶせたくないので、いわゆる「自殺」を積極的に選ぶことはしない、ということは約束する。ただ、そういう状況に追い込まれてしまったときには、謝って許してもらえるだろうか。…無理だろうな。それでも謝っておく。ごめんなさい。
今はとても穏やかに過ごしている。死んで行く事への恐怖を除けば。
再チャレンジ不能である世の中というのも案外よいもので、あの血を吐くような苦労をして、それが結果徒労となり、砂の城が崩れ落ちていくこと自体、しなくてすむというのは、とても楽な気持ちになれる。あるいは成功したとしても、それは誰かの生き血をすすり、返り血を浴びた結果であることは承知の上。そんな汚れた人間が大地に両足をつけ、太陽を仰ぐ、みたいな非道い生き方をしなくて済むのは、楽だ。
むろん、自分の作っていたものには「命をかけてもいい」と思っていたのも事実だ。ただ、会社に「命をかける必要なんかない」と言われてしまった時点で、俺のあの案件への情熱は冷めてしまった。プロとしては失格。しかし、実際に掛け金に命を賭けろと強要していたのは、どっちだ? むろん、言い出したのは俺だが、その結論に陥るトラップを入念に準備していた人たちがいたのは知っている。
そう、結局社内政治と自分の弱さに負けたんだ。そして今もまだ負け続けている。
あとは願い。完全にくたばってしまう前に、自分のやりたかったことを、形として残しておきたいと思っている。それに何日かかるのかは分からないし、なにせ相手のあることだ。そううまくはいかないだろう。それでも。俺にできるだろうか。時間が普通にあって、記憶力が常人なみで、集中力が続くのであれば、なんでもなくできること。そもそも、そんなこと、俺がやる資格があるんだろうか。
わからない。怖い。そうしたまま、今日も夜が過ぎる。
「管理しなければならない」ということでなければ、いったい誰が管理するんだろうか。他に管理ができる種族がいないのに?
もちろん生命種の絶滅は恒常的に発生してきたことではあるのだが、
人類発生以降の種の絶滅速度はそれ以前に比べると非常に大きくなっている。
これをこのまま放置するべきではないと考える。我々は環境を無目的に破壊すべきではない。
一つには遺伝子情報のバラエティを守る必要性があるということ。
進化の常道から言うならば、遺伝子情報の蓄積が大きければ大きいほどに将来的な危機に対応できる可能性が高まる。
これは単に「遺伝子を保存する」ということも考えられるのだが、当然生態系まるごとを保存したほうが有利。
また、自然界のバランスというものを我々が完全に把握しているわけではない。
未知の現象を知らぬ間に発生させて破壊しているかもしれないし、環境に与えたダメージがまったく未知の弊害をもたらす恐れもある。
まだ我々が知らない生物をそのつもりがなく絶滅させてしまうことすら十分に考えられる。
人類の存在はあまりにも強力すぎる。自然に作られた砂の城に土足で踏み込んであらゆるものを壊しているようなものだ。
人類以外の種の軽視ということはつまり我々自身のバラエティの軽視ということにも繋がる。
センチメンタルな発想ではあるが、多様性こそが生存と進化の鍵であり、我々もその恩恵を十分に被っている以上、バラエティを軽視することはできないと思う。
二時間近く経っていた。 吐きそう。 きもちわるい。 内臓が重い。
思わずひきこもっていた部屋を出て、好きな音楽を聴いたりして、
くだらないテレビでわらいながら両親とどうでもいい話をしたり、
重圧しか感じないし、まだ不安は消えない
けど、これはこれでいい傾向なはずなんだ。そう言えよ誰か。
高校の時メンヘラってた頃から筆をとりはじめて、一二年狂ったように小説を書きまくった。
短編を一週間にひとつは書いた。三百枚だか四百枚の長編を書き上げた。
自分の肉を削っては丸めて、自分の血を吐いては塗り固めて、そうして無様に書き続けた。
幼稚で稚拙だったけれど、身内はこぞって賞賛してくれたし、涙を流したひとさえいた。
祈りながら書いた。海辺で砂のお城を建てるような、緻密な指先で。その城で暮らせるあの子を思い浮かべて。海抜数十メートルからの景色をまぶたの向こうに見やりながら。
オリジナルの文芸理論を組み上げて、誰でも小説が書けるシステムを構築した。 科学的に考証した設計図は、何よりもの安定剤となった。
これさえあれば、人の心をつかめる。だれかの心の中にいられる。 この城はじょうぶできれいだから、みんな安心して暮らせる。 みんなよろこんでくれる。
そう思い込んだ。 価値創造だと言いくるめた。 自分の身長ほどもない砂の城にしがみついた。 ひとりぼっち夕暮れの海。
つもりだった。 図に乗った。 しがみついたら、くずれ落ちた。 日は落ちていた。 なぜか震えている僕。 かじかんでキーボードがうてない。
受験勉強に追いつ追われつしてうまく合格してそれから半年以上経って、いま僕はなにも書けていない。
無い能力が枯渇したら自分の存在意義さえ否定されそうで……っていうのは、うそだ。
でも書くべきだし、書きたい。何より、自分の書いたものを僕自身が読みたい。超読みたい。
だからこうして、また苦しみはじめた。砂浜に、引き戻した。11月8日。つめたい指を 必死で もみほぐす。
音楽でも絵画でも、創作せざるを得ない人間が生み出した作品は 圧倒的 だ。
程度の差こそあれ方法論なんかより“作者を潰しかねないほどの必然”こそが傑作を生むのだ。
卑近な例で申し訳ないけれど、僕だって安定剤におんぶにだっこだった頃が一番活動的だった。
だから、 つまり、
こうして気分が悪くなってることは からだ が創作意欲に燃えはじめたって解釈していいはずだ。
他人を困らせたり迷惑を掛けたりしなければいい。それは十分学習した。なんなら体罰も再履修する。
そこさえ注意すれば、そろそろすごいものが作れるはず。 シンデレラ城だって夢じゃないのさ。
言い聞かせる。火を灯すように、指先をもむ。
ていうかそれを信じなきゃやってらんねえんだってば。
トムヨークは『病気と芸術を結びつけるのはアホだ』みたいなこと言ったしそれはそうだけど。
そういうのじゃなくて、一応 生みの苦しみ ←これでいいだろ?
彼女から連絡が薄くなったのとか友達がいろいろ勤しんで離れていくこととか他人への信じられなさとか臆病とか自己嫌悪とか駅のホームでなんとなく身を投げたくなることとかメールの来ない携帯電話をベッドにたたきつけたこととか正しさとか愛とか自分の中の暴力性とか卑怯さとかこんなやり場のない自己陶酔とか腐臭漂うナルシシズムとか癒しなのか慰めなのかわからない日々のオナニーとか不感症とか人格障害とか甘えとか足りない皮膚感覚とか愛とか = 生みの苦しみ
いいって言えよ誰か。誰か!
こんなものを書いてるエネルギーをどっかにちゃんと使用してればいいのに。
疲れていて、でも身の回りの人は心配させたくないから増田にこう書いて自分を癒す (汚いもの見せてごめんなさい)。
よかったら、今までの文章なんかぜんぶ無視して誰か僕に「おつかれさま!」と言ってください。みなさん迷惑かけてごめんなさい