「知性主義」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 知性主義とは

2017-08-25

それじゃアホの方が治安良くなるって言ってようなものじゃん

反知性主義なのか知性主義なのかどっちかにしてほしいわ

治安の維持どうでもいいってんなら強盗殺人にあってから発言しろ

2017-02-22

bonchacchanga、gudachanことグダポンです。

皆さん、おはこんばんちは。bonchacchanga、gudachanことグダポンです。私は文筆業と趣味社会を動かす所存です。活動の暁に、私自身の夢を実現したいと切望しています

恐らく1度しかない現世を大切に生きたいと願うことは、誰もが等しく同じであります。私は、社会の現状を改善する政策として、脱サブカル・脱日本を提起しております。詳しくはインターネットで公開しておりますので、ぜひご覧いただき、みなさまに実現に向けてお力添え賜りたくよろしくお願いします。

社会としては、具体的にまぁいろいろ考えておりますが、まず日本課題として、大日本帝国時代以降の社会問題について、後世課題への取り組みが70年なおざりになっております日本日本であるために、日本人私たちがなすべきことは娯楽社会の清算、モータリゼーション適正化知性主義への回帰でございます反知性主義が60年以上、日本社会を担ってまいりましたが、日本人が反知性で故郷を腐らせてきた、これは紛れもない事実です。その象徴たる娯楽社会、この前時代制度を排して、本当の意味での知的社会確立する。そのためには反知性主義の衰退、知性の回復まぁこれは様々な問題にもリンクしますが、私人からもこれを提起いたします。

日本問題になっている鉄道社会2050年代までに、国際標準水準にまで進める、これが私の政策です。鉄道利己主義一人勝ちしても、利己主義に徹して「客」などの関係者だけいい思いしても、自動車などの犠牲鉄道社会があることを考えなければ、日本鉄道社会はもう明日はありません。特に私鉄社会は、次の大災害後に、復興を機に脱却できるように、それまでのその場しのぎのインフラとし、いまは次の大災害への備えとして自身で非常時の移動手段の確保をすべきだと考えます

また、地方復興に向けて、都市鉄道高速鉄道公有化した上で、残りのJR含めた私鉄インフラ事業からビジネス観光産業に転換して、鉄道もっと文化商業に徹した、インフラ色を薄くしたビジネスとして振興していくことを考えております。その際に、私は都市道路改善すべきと考えております。そして、インフラ商売交通機関の分離と徹底します。そうすることで、日本はいくらでも産業化しうる資産が、たくさんまいくらでも眠っているのです。

日本人とりわけ日本人の云う都会人がいま、いまというよりこれまで平穏で来られたのは、地方郊外でほんとうに犠牲になっている車社会被害貧困問題被害必要以上の富裕層人口の増加、そうした困窮を横目に一人勝ちしてきて、閉鎖的社会に閉じこもっているという現実がございます。そうしたものから目を背けて、自分たちばかりのことを考えても、日本いや都会や地方社会自体良くなることはございません。現実を良くするためには、外へ目を向けることが必要です。

詳しくは、ぜひインターネットに掲げてありますので、ぜひ細かいことについてはそちらを読んでください。皆さまのお力添えをよろしくお願い申しあげます

2016-03-07

キモオタによるフェミニズム概論

フェミニストからキモオタ死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミ死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。

フェミニズムとは何だろうか。

私はフェミニズム名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミ死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。

しかフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。

そこで手当たり次第に適当にフェミニズム書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズム理解の取っ掛かりになれば幸いである。

フェミニズムとは

フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラルフェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。

ラディカル・フェミニズム

現在のラディフェミ理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズム表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源ポルノであるという揺るぎない確信からポルノ法規制を推進する。

ポルノ性犯罪を誘発するという統計的証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィ性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者告発することも認められない。

ポルノには、ホモレズ二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすゲームマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノである

なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノ諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。

リベラルフェミニズム

J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義ジェンダー家族",1989,*3)であり、「女性男性重要差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。

夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。

このように家庭内賃金労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミ女性社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育重要性を訴える。

なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性創造",1965)が示すように、フェミニズム男性女性権力闘争化することに否定的立場をとる。

マルクス主義フェミニズム

出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統フェミニズムである

女性社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。

日本ではさらにそこに独自思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸君が代シンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。

その他のフェミニズムと補足

レズビアンフェミニズムブラックフェミニズムエコロジカルフェミニズムポストモダンフェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグフェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアルフェミニズムとか。

補足1:クィア理論

同性愛者とフェミニスト関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイレズビアンの視点と、ポスト構造主義理論を、政治的ひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線理論的に張ることが出来るようになった。

補足2:男性差別

リベフェミは広範な男性差別否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別肯定する。ラディフェミ男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性けが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別肯定されるのかもしれない。

フェミニズムが扱う問題

セクハラ家庭内暴力中絶女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタク関係の深い「性の商品化」について取り上げる。

「性の商品化」の法規制

マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。

リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待強姦日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府検閲に利用されると強く批判する。

一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示権利行使であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本フェミニズム6,2009)」とする。

ここから見えてくる点として、女性が「不愉快であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから表現の自由は全く関係のない話である

不愉快」による法規制正統性

リベフェミであるマーサヌスバウム嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニング妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的ポルノ市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳フェミニスト宣言",1997)としてゾーニング効果がないと批判する。

ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。

そのような不快感を根拠とした規制は恣意的運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているかである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである

なお、福島瑞穂非実在児童ポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田見解がマルフェミ共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノ法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定存在する見解であるように思われる。

日本草の根フェミニズム

初期の日本フェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロアマ距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。

こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。

「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。

理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。

これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。

おわりに

このようにフェミニズム一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本フェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニスト愛国心に苦言を呈している)。

最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場上司女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正フェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。

私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。

いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。

2015-12-20

http://anond.hatelabo.jp/20151220155105

少なくとも、

ある人物を「知性主義」なのか「反知性主義」なのか?

のどちらかに分類しようとする人物は、「反知性主義」者であることに間違いない。

2015-09-03

反知性主義としてのメシウマ五輪へ猛威をふるう情緒人民裁判

東京五輪エンブレムの使用中止に、ネット炎上の影響が「無かった」とは言えないと思う。

もちろんこの「思う」は、関係者取材をあてて話を聞いたわけではないし、感想レベルだ。

でも、まあそうかな。そうだろう?当たり前だろ!というネットの個々人の反応は予想がつく。

何の証明も無く、何の責任も負わず、ただの「感情」のうねりが、エンブレムを使用中止に追いやったのじゃなかろうか。

それは、本来意味での反知性主義に近いのでは無いか。

リンチ人民裁判と、群衆から石を投げる人達

 そうした“リアルの与論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察裁判所第三者機関を介するでもなく、リツイートシェアまとめサイトを経由して増幅し、テレビ週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。

ネットの暗い情念が“世論”と接続してしまう怖さ - シロクマの屑籠

(与論はたぶん世論の誤字なんだろうけど、何箇所も有るし俺の知らない用法なのか……?まあ良いや)

シロクマセンセイの「メシウマしたい個人が大挙して押し寄せて、それが世論になるの怖え」というのは、感覚として判る。

まだ、ネット世論にはなっていないとは思う。

ただ、ネットマスコミ世論、という、ワイドショーロンダリングによるお茶の間意思形成に一役買ったのじゃないかとは、思う。

その意味で、ギリギリ一歩踏みとどまって、既存メディアスクラムというか、メディアリンチまでで済んでいる。

勿論この社会的制裁ってやつだってどうかとは思うが、「捏造確定」のような報道は、少なくともしていない。

まあ老獪とか言うのかもしれないが、流石に法務があるようなところで、無茶はしなかろう。

証明の難しさと、放言無責任

例えば、シロクマセンセイへのブコメにこんなものがあって、スターを集めてる。

augsUK 盗用や捏造の指摘を「叩き」と言ったり「暗い情念」と表現するのは、単純にその人の倫理観ねじ曲がってんのかなとは思う。そもそも「ネット」が一つの人格で動いているような表現がとても気持ち悪いけど。

ブコメ中で「盗用や捏造」と言っているが、何のことだろうか。立証されただろうか。それasgsUKさん個人が、責任取れるだろうか?

捏造していないと裁判の末に証明されて、名誉棄損で訴えられて、30万くらい払う覚悟ブコメ、してないよね?(してたらゴメンネ)

法治国家における倫理観としては、「疑わしきは罰せず」で、容疑者犯罪者として扱わないことなのかな、と思う。

で、たぶんこの流れを読んでギョッとしたんじゃないかな。

え、いきなり個別ブコメを取り上げてナンカ言うのかよ、みたいな。

そう思ったのであれば、それは「「ネット」が一つの人格で動いている」となんとなく思っているからだ。多分そうだと思う。

当然、それぞれのネット上の発言は、それぞれ別の人格で、それぞれ別々に各発言意思責任があるんだけど、そう思ってないんじゃないかな。

から言葉が「軽い」し、覚悟がない。まあそんなもんだとは思うけど。

感想だし責任ないし、と思ってても、積み重なると世論に見える

例えば、ザハ・ハディドの個人攻撃あったよね、ちょっと後味悪かったよね、みたいな記事に、こんなブコメがあってスターを集めてる。

Matsuriame そうかなぁ。競技場に関しては「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし、「ザハのせい」にしたがって、建築家だけに責任押し付けて降ろしたのはむしろ発注者人達だったけど。

はてなブックマーク - 【新国立競技場】「なぜ実務家たちは、ザハ・ハディドを支持するのか」建築家・藤村龍至さんに聞く

まあ、「そうかなぁ」って書いときゃ免責みたいな空気感、あるよね?

xevra ザハの物を本当に作ろうとするのはクレイジー。ザハは模型を見て楽しむ物であって実際に作ろうとしちゃダメだ。デザインは素晴らしいからコンペは通過しちゃうが実現性無視してるから到底作れない。

はてなブックマーク - 新国立競技場の工事費が下がらない理由|建築エコノミスト 森山のブログ

はてブで1000超えってワリと珍しいんだけど、xevraさんの他にも「金かかるのデザイナー(ザハ)のせいなのね」というブコメの大合唱ですね。

他にも記録はイッパイあるけど、Matsuriameさんは、ググったり、ブコメを振り返ったりしない人なのかもしれない。(スターつけてるヒトもね)

そういう自分発言ホントかどうかの責任意識しないし、取るつもりもないのは、まあ放言じゃないかなぁ。(無責任話法)

勿論ここでは、「そうかなぁ」って書いてて、強く「いや違う!」とはコメントしてない。

感想だし違ってたらゴメーンネってすれば、別に良いじゃんブコメだし、みたいな空気感、あるよね?

「「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし」って、嘘ついても、いや嘘じゃないよ感想だしそういう言い方はヒドイ、とか思うのではないかな。

居酒屋談義の無責任さが、そのまま社会的制裁

見境なく社会的制裁を振るう現状は、褒められたものではない。昔だったら居酒屋談義で終わってしまったはずのネガティブ情緒が、インターネットを介してこんなに繋がり、こんなに盛り上がり、こんな風に“世論”に直結して構わないものだろうか?

ネットの暗い情念が“世論”と接続してしまう怖さ - シロクマの屑籠

「構わないものだろうか?」というか、法治国家ならシステム外のプロセスも経ていない圧力でひっくり返るのはマズイと思うよ。

はいえ、感情情緒は大切にしましょうというのは、日本システムにはプロセス中に組み込まれているし、拡大傾向にある。

執行猶予とか、情状酌量とか、裁判員制度とか。

amakanata 今回のシロクマさんの見方ちょっと違うんじゃないかなぁ。世界的な賞を許可を得ずに素材を使ったデザインごまかし続けた人間の作ったもの神輿にしたくない、という庶民感情健全な発露でしょ。

ごまかし続けた人間の作ったもの神輿にしたくない」という「ネガティブ情緒」で、「庶民感情健全な発露」として「“世論”に直結」。

シロクマセンセイの見立てとそう言ってること違うようには思わないけども、amakanataさんの感覚は、ざっとブコメの5割くらいの感覚には近いように思う。

(本人の属性作品価値上下するのは日本では良くある話だし、事業に関わる人の身ぎれいさを要求するのは日本だけじゃないしね)

amakanataさんは「ごまかし続けた」という具体例とかそれが真実ごまかしたのかを立証する責任があるとは思ってないだろうし、まあ実質ないんじゃないかな。

ちょっとブコメするのと同じ気軽さで簡単クリックで1万人自動訴訟できる世の中になったら、またちょっと違うんだろうけど、その非対称性の話はまた別の機会に。

ただ、「ホントだったらヒドイ(=嘘でも責任は俺にはない)」みたいなデマ一直線の発言も、居酒屋談義や床屋政談ならアリだと思うし、そこを気にするのは健全ではない気もする。

監視社会じゃねえのにそんな発言まで責任持ってしなきゃいけねえの?みたいな。いやほんとは責任もってしなきゃいけないんだけど。

反知性主義としてのメシウマ

信頼出来ない上司業務命令には疑いの目を向ける、ではないけれども、本質的なところに不信感があるのではないか。

まり知性主義というエリートのやることに、なんか違うのではないか、どうも信頼出来ない信用出来ないとの思いがあるのではないか。

それが、判りやすい形で出た今回のエンブレム炎上騒ぎで、「普通市民道徳的感覚として、まっとうな結果」と思う人が多いのであれば、

それは「メシウマ」が(ホフスタッターの言う本来意味での)「反知性主義」として機能し始めたということなんじゃないかな、と思う。

エリートの言うことは信頼出来ないから市民団体監視します、では無く。

一人ひとりの小さな放言や、調査結果や、情緒からくる感覚感想が、まとめサイトに束ねられてマスコミがすくい上げて拡大する。

そこには警察捜査も、弁護士検察官の立証も無く、過去の蓄積から裁判所判断もなく、法律ルールも無縁の所で、

そうだろう、そうに違いない、絶対そうだという、責任のない感情的判断が積み重なることで、「事実」になる。

それはある人から見れば「暗い情念」だし、ある人にすれば「常識的市民感覚」だろう。

動機行為正当化するとも免責するとも思わないけど、そういうものかもしれない。

クリックで参加できる人民裁判だし、結果死人も結構出てるけど、改まらないしね。

(この増田も、5人から訴えられる可能性あるしなあ。たぶんダイジョブだと思うけど。裁判面倒だよなあ)

追記

反知性主義」判り難いという指摘を直接受けてまあそうかなとおもったので追記。

知性主義」は、「専門家主義」と置き換えてもらうのが、一番ホフスタッターのニュアンス近いと思う。

反知性主義」は、「反専門家主義」となって、つまり専門家判断ではなく、むしろ専門家ではなく専門的な知識がないからこそ、正しい判断が下せる」という主義とか態度のことね。

模倣判断や、建築実現性、刑事民事の責任まで、デザイナー建築士弁護士でない、知識を持たないヒトが正しい判断をくだせていると考える(またそれを支持する人がいる)というのは反専門家主義(反知性主義)が受け入れられる土壌が育ってきているのではないか、という話。

専門家でない人達の声で(途中に週刊誌新聞の専門部署を経ずに)、専門的な判断が覆る怖さについての話なのかなと思っている。

まあ、医療災害に関しては、ネットでもまだ反専門家主義者批判されるのを見ると、専門家たちが丁寧に説明することが重要なのかな、と思う。

(とはいえ、教育関係のひっくり返らなさを観ていると、今回の炎上個別事案であって、脇が甘かったからこそってことなのかも知れないけど。ぬ、訴えられる可能性が上がった気がする。熱狂的な個人は手打ちが面倒だからカスぞ)

2015-01-06

http://anond.hatelabo.jp/20150106190642

ちゃんと分析すれば成功するはずだ、というのは知性主義的だけど、であればこれだけ有象無象コンテンツが世の中に氾濫しちゃいないよ。

それ以上に運とかタイミングとかタレント(才能)等々のままならない要素のほうが往々にして大きい、と俺は見ている。

それから、外から有象無象に見えるゆるキャラ郡も、案外愛好家がいるんだよ。コレクターとかさ。

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