はてなキーワード: 知性主義とは
皆さん、おはこんばんちは。bonchacchanga、gudachanことグダポンです。私は文筆業と趣味で社会を動かす所存です。活動の暁に、私自身の夢を実現したいと切望しています。
恐らく1度しかない現世を大切に生きたいと願うことは、誰もが等しく同じであります。私は、社会の現状を改善する政策として、脱サブカル・脱日本を提起しております。詳しくはインターネットで公開しておりますので、ぜひご覧いただき、みなさまに実現に向けてお力添え賜りたくよろしくお願いします。
社会としては、具体的にまぁいろいろ考えておりますが、まず日本の課題として、大日本帝国時代以降の社会問題について、後世課題への取り組みが70年なおざりになっております。日本が日本であるために、日本人の私たちがなすべきことは娯楽社会の清算、モータリゼーションの適正化、知性主義への回帰でございます。反知性主義が60年以上、日本社会を担ってまいりましたが、日本人が反知性で故郷を腐らせてきた、これは紛れもない事実です。その象徴たる娯楽社会、この前時代的制度を排して、本当の意味での知的社会を確立する。そのためには反知性主義の衰退、知性の回復、まぁこれは様々な問題にもリンクしますが、私人からもこれを提起いたします。
日本で問題になっている鉄道社会は2050年代までに、国際標準水準にまで進める、これが私の政策です。鉄道が利己主義に一人勝ちしても、利己主義に徹して「客」などの関係者だけいい思いしても、自動車などの犠牲で鉄道社会があることを考えなければ、日本の鉄道社会はもう明日はありません。特に私鉄社会は、次の大災害後に、復興を機に脱却できるように、それまでのその場しのぎのインフラとし、いまは次の大災害への備えとして自身で非常時の移動手段の確保をすべきだと考えます。
また、地方の復興に向けて、都市鉄道と高速鉄道は公有化した上で、残りのJR含めた私鉄をインフラ事業からビジネス・観光産業に転換して、鉄道はもっと文化と商業に徹した、インフラ色を薄くしたビジネスとして振興していくことを考えております。その際に、私は都市の道路を改善すべきと考えております。そして、インフラと商売交通機関の分離と徹底します。そうすることで、日本にはいくらでも産業化しうる資産が、たくさんまだいくらでも眠っているのです。
日本人とりわけ日本人の云う都会人がいま、いまというよりこれまで平穏で来られたのは、地方や郊外でほんとうに犠牲になっている車社会の被害、貧困問題の被害、必要以上の富裕層人口の増加、そうした困窮を横目に一人勝ちしてきて、閉鎖的社会に閉じこもっているという現実がございます。そうしたものから目を背けて、自分たちばかりのことを考えても、日本いや都会や地方の社会自体良くなることはございません。現実を良くするためには、外へ目を向けることが必要です。
詳しくは、ぜひインターネットに掲げてありますので、ぜひ細かいことについてはそちらを読んでください。皆さまのお力添えをよろしくお願い申しあげます。
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
フェミニズムとは何だろうか。
私はフェミニズムを名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタらしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミに死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。
しかしフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。
そこで手当たり次第に適当にフェミニズムの書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズムの理解の取っ掛かりになれば幸いである。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
ポルノが性犯罪を誘発するという統計的な証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィと性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者が告発することも認められない。
ポルノには、ホモもレズも二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすいゲームやマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノンである。
なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児が押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。
このように家庭内の賃金、労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミは女性の社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性の育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育の重要性を訴える。
なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである。女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統的フェミニズムである。
女性の社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
レズビアン・フェミニズム、ブラック・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグ・フェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアル・フェミニズムとか。
同性愛者とフェミニストの関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線を理論的に張ることが出来るようになった。
リベフェミは広範な男性差別は否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別は肯定する。ラディフェミは男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性だけが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別は肯定されるのかもしれない。
セクハラ、家庭内暴力、中絶、女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタクと関係の深い「性の商品化」について取り上げる。
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。
リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待、強姦、日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全な思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府の検閲に利用されると強く批判する。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
なお、福島瑞穂は非実在児童のポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田の見解がマルフェミの共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノの法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫・昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定数存在する見解であるように思われる。
初期の日本のフェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学の担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロとアマの距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。
こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。
「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。
「理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。
これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。
このようにフェミニズムは一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本のフェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸」フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニストの愛国心に苦言を呈している)。
最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場で上司が女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力は夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正にフェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。
私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。
いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。
東京五輪エンブレムの使用中止に、ネット炎上の影響が「無かった」とは言えないと思う。
もちろんこの「思う」は、関係者に取材をあてて話を聞いたわけではないし、感想レベルだ。
でも、まあそうかな。そうだろう?当たり前だろ!というネットの個々人の反応は予想がつく。
何の証明も無く、何の責任も負わず、ただの「感情」のうねりが、エンブレムを使用中止に追いやったのじゃなかろうか。
そうした“リアルの与論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察や裁判所や第三者機関を介するでもなく、リツイートやシェアやまとめサイトを経由して増幅し、テレビや週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。
(与論はたぶん世論の誤字なんだろうけど、何箇所も有るし俺の知らない用法なのか……?まあ良いや)
シロクマセンセイの「メシウマしたい個人が大挙して押し寄せて、それが世論になるの怖え」というのは、感覚として判る。
ただ、ネット→マスコミ→世論、という、ワイドショーロンダリングによるお茶の間意思形成に一役買ったのじゃないかとは、思う。
その意味で、ギリギリ一歩踏みとどまって、既存のメディアスクラムというか、メディアリンチまでで済んでいる。
勿論この社会的制裁ってやつだってどうかとは思うが、「捏造確定」のような報道は、少なくともしていない。
まあ老獪とか言うのかもしれないが、流石に法務があるようなところで、無茶はしなかろう。
例えば、シロクマセンセイへのブコメにこんなものがあって、スターを集めてる。
augsUK 盗用や捏造の指摘を「叩き」と言ったり「暗い情念」と表現するのは、単純にその人の倫理観がねじ曲がってんのかなとは思う。そもそも「ネット」が一つの人格で動いているような表現がとても気持ち悪いけど。
ブコメ中で「盗用や捏造」と言っているが、何のことだろうか。立証されただろうか。それasgsUKさん個人が、責任取れるだろうか?
捏造していないと裁判の末に証明されて、名誉棄損で訴えられて、30万くらい払う覚悟でブコメ、してないよね?(してたらゴメンネ)
法治国家における倫理観としては、「疑わしきは罰せず」で、容疑者を犯罪者として扱わないことなのかな、と思う。
で、たぶんこの流れを読んでギョッとしたんじゃないかな。
え、いきなり個別のブコメを取り上げてナンカ言うのかよ、みたいな。
そう思ったのであれば、それは「「ネット」が一つの人格で動いている」となんとなく思っているからだ。多分そうだと思う。
当然、それぞれのネット上の発言は、それぞれ別の人格で、それぞれ別々に各発言に意思と責任があるんだけど、そう思ってないんじゃないかな。
だから、言葉が「軽い」し、覚悟がない。まあそんなもんだとは思うけど。
例えば、ザハ・ハディドの個人攻撃あったよね、ちょっと後味悪かったよね、みたいな記事に、こんなブコメがあってスターを集めてる。
Matsuriame そうかなぁ。競技場に関しては「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし、「ザハのせい」にしたがって、建築家だけに責任を押し付けて降ろしたのはむしろ発注者の人達だったけど。
まあ、「そうかなぁ」って書いときゃ免責みたいな空気感、あるよね?
xevra ザハの物を本当に作ろうとするのはクレイジー。ザハは模型を見て楽しむ物であって実際に作ろうとしちゃダメだ。デザインは素晴らしいからコンペは通過しちゃうが実現性無視してるから到底作れない。
はてブで1000超えってワリと珍しいんだけど、xevraさんの他にも「金かかるのデザイナー(ザハ)のせいなのね」というブコメの大合唱ですね。
他にも記録はイッパイあるけど、Matsuriameさんは、ググったり、ブコメを振り返ったりしない人なのかもしれない。(スターつけてるヒトもね)
そういう自分の発言がホントかどうかの責任を意識しないし、取るつもりもないのは、まあ放言じゃないかなぁ。(無責任話法)
勿論ここでは、「そうかなぁ」って書いてて、強く「いや違う!」とはコメントしてない。
感想だし違ってたらゴメーンネってすれば、別に良いじゃんブコメだし、みたいな空気感、あるよね?
「「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし」って、嘘ついても、いや嘘じゃないよ感想だしそういう言い方はヒドイ、とか思うのではないかな。
見境なく社会的制裁を振るう現状は、褒められたものではない。昔だったら居酒屋談義で終わってしまったはずのネガティブな情緒が、インターネットを介してこんなに繋がり、こんなに盛り上がり、こんな風に“世論”に直結して構わないものだろうか?
「構わないものだろうか?」というか、法治国家ならシステム外のプロセスも経ていない圧力でひっくり返るのはマズイと思うよ。
とはいえ、感情や情緒は大切にしましょうというのは、日本のシステムにはプロセス中に組み込まれているし、拡大傾向にある。
amakanata 今回のシロクマさんの見方はちょっと違うんじゃないかなぁ。世界的な賞を許可を得ずに素材を使ったデザインでごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない、という庶民の感情の健全な発露でしょ。
「ごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない」という「ネガティブな情緒」で、「庶民の感情の健全な発露」として「“世論”に直結」。
シロクマセンセイの見立てとそう言ってること違うようには思わないけども、amakanataさんの感覚は、ざっと見ブコメの5割くらいの感覚には近いように思う。
(本人の属性で作品の価値が上下するのは日本では良くある話だし、事業に関わる人の身ぎれいさを要求するのは日本だけじゃないしね)
amakanataさんは「ごまかし続けた」という具体例とかそれが真実ごまかしたのかを立証する責任があるとは思ってないだろうし、まあ実質ないんじゃないかな。
ちょっとブコメするのと同じ気軽さで簡単クリックで1万人自動訴訟できる世の中になったら、またちょっと違うんだろうけど、その非対称性の話はまた別の機会に。
ただ、「ホントだったらヒドイ(=嘘でも責任は俺にはない)」みたいなデマ一直線の発言も、居酒屋談義や床屋政談ならアリだと思うし、そこを気にするのは健全ではない気もする。
監視社会じゃねえのにそんな発言まで責任持ってしなきゃいけねえの?みたいな。いやほんとは責任もってしなきゃいけないんだけど。
信頼出来ない上司の業務命令には疑いの目を向ける、ではないけれども、本質的なところに不信感があるのではないか。
つまり、知性主義というエリートのやることに、なんか違うのではないか、どうも信頼出来ない信用出来ないとの思いがあるのではないか。
それが、判りやすい形で出た今回のエンブレム炎上騒ぎで、「普通の市民の道徳的な感覚として、まっとうな結果」と思う人が多いのであれば、
それは「メシウマ」が(ホフスタッターの言う本来の意味での)「反知性主義」として機能し始めたということなんじゃないかな、と思う。
エリートの言うことは信頼出来ないから、市民団体が監視をします、では無く。
一人ひとりの小さな放言や、調査結果や、情緒からくる感覚や感想が、まとめサイトに束ねられてマスコミがすくい上げて拡大する。
そこには警察の捜査も、弁護士や検察官の立証も無く、過去の蓄積からの裁判所の判断もなく、法律もルールも無縁の所で、
そうだろう、そうに違いない、絶対そうだという、責任のない感情的な判断が積み重なることで、「事実」になる。
それはある人から見れば「暗い情念」だし、ある人にすれば「常識的な市民感覚」だろう。
動機が行為を正当化するとも免責するとも思わないけど、そういうものかもしれない。
クリックで参加できる人民裁判だし、結果死人も結構出てるけど、改まらないしね。
(この増田も、5人から訴えられる可能性あるしなあ。たぶんダイジョブだと思うけど。裁判面倒だよなあ)
「反知性主義」判り難いという指摘を直接受けてまあそうかなとおもったので追記。
「知性主義」は、「専門家主義」と置き換えてもらうのが、一番ホフスタッターのニュアンス近いと思う。
「反知性主義」は、「反専門家主義」となって、つまり「専門家の判断ではなく、むしろ専門家ではなく専門的な知識がないからこそ、正しい判断が下せる」という主義とか態度のことね。
模倣の判断や、建築実現性、刑事民事の責任まで、デザイナーや建築士や弁護士でない、知識を持たないヒトが正しい判断をくだせていると考える(またそれを支持する人がいる)というのは反専門家主義(反知性主義)が受け入れられる土壌が育ってきているのではないか、という話。
専門家でない人達の声で(途中に週刊誌や新聞の専門部署を経ずに)、専門的な判断が覆る怖さについての話なのかなと思っている。
まあ、医療や災害に関しては、ネットでもまだ反専門家主義者が批判されるのを見ると、専門家たちが丁寧に説明することが重要なのかな、と思う。
(とはいえ、教育関係のひっくり返らなさを観ていると、今回の炎上は個別事案であって、脇が甘かったからこそってことなのかも知れないけど。ぬ、訴えられる可能性が上がった気がする。熱狂的な個人は手打ちが面倒だからボカスぞ)