はてなキーワード: 看過できないとは
奴らの罪が集約されてるのが組体操
事故が起きるまでその演出を過激化させ、危険な技を素人である子供達に行わせ続けた
そんなゴミ共が日本の体育教師だったせいでこれだけ多くの子供達が死んだり障害を患ったりしてる
https://toyokeizai.net/articles/-/364635
https://www.jpnsport.go.jp/anzen/Portals/0/anzen/anzen_school/suiei2018/suiei2018_2.pdf
https://mainichi.jp/articles/20211117/k00/00m/040/177000c
未だにわざわざ体育における体罰やハラスメントに関しての注意喚起をしている程である
https://www.mext.go.jp/sports/b_menu/hakusho/nc/1418753_00001.html
大勢の人々を不幸に落とした唾棄すべき存在である事がこうしてデータとして見えてくる
当然最低限の安全対策すらまともに考えられない程度の知能なので、授業の指導力も底辺以下である
こんな連中を税金で雇うのは金の無駄なので、全員解雇して運動系の授業は全てちゃんと安全面に配慮できる学校外のプロに外注した方が絶対に良い
「水を0度で凍ると定義する」ことも傘も殺人も医療も化学も他もすべて、「これを正しいとする定義や指標を作った」という意味でしかなく、同じものだと言ってるんだがな。
これは明確に違う。
傘の窃盗や殺人については社会的な必要に求められた「正しいとする定義と指標を作った」というのには同意するが、医療や科学については必ずしもそうではない。固体が温度が上がると液体になる現象やさらに温度が上がると気体に変化する現象は確かなものだと観察されているが、この現象が人間による定義や指標により作られたということはあり得ない。
そうした科学的検証による妥当性は人間の定義とは関係なく存在している(観察には関係しているが)。そうした現象を基にした判断と人間が作り出した正しいとする定義と指標を基にした判断を同列に扱っている点は看過できない。
ここで一度問うけれど、正しいということは
と、
のどちらなのか。
定義が破綻しているように見受けられるので、その気があるなら再度定義を明確にしてほしい。
またこれは余談ではあるが、他の人が持っている暗黙知や経験知を動物園的な正しさと呼んでしまう感性にはとても共感できない。
他人をなんだと思ってるんだ。本当に。
社会的な性規範の内在化されたものを心の性と呼ぶのは大きな誤りを孕んでいる気がしてならない。人間の心がまずあると仮定してもそこに性別があるなんてどう考えてもおかしな話である。これはLGBTの方々への権利の制限に賛成する話ではない。むしろあらゆる権利はあらゆる個人とあらゆる形式の集団に付与されるべきである。
婚姻制度なんてものはあらゆる人間のあらゆる組み合わせに対応すべきであり現在の状況がおかしい。そもそも法の下の平等概念からして法に男女という概念を持ち込んだやつの頭がどうかしている。同性婚を禁止している現民法はどう考えても憲法違反である。そして重婚を禁止するのも、複数人による婚姻を禁止するのも憲法違反である。というのが私の個人的な意見だ。また恋愛感情などという定義不可能なものを前提としない純粋な資本の接続制度に作り変えるべきだと信じている。これはただの意見だ。もちろん国家や宗教のいくつかのレゾンデートルの一つとして性規範の固定化があるのは言うまでもないことであるが、そもそも国家も性規範も大嫌いな私にそんなものを持ち出しても意味などないし届かない。
しかしそれはそれとして、心の性などというものは私には看過できない概念だ。そんなものは存在しない。血液型性格分類と変わらない無価値で有害な幻想だ。
近年、ある程度は心の性がない人という概念も広く知られはじめてはいるがそれはあくまで特別な人とされている。多くの人にはどちらかの心の性があると考えられている。これがおかしい。そんなものはある訳がない。常識的に物事を考えろ。心の性なんてものは元々人には備わっていない。これは事実であり現実だ。
心の性概念などというものはくだらぬ性規範が内在化されたものにすぎない。自由主義においては規範の内在化に反抗すべきであり、あらゆる性規範の破棄を求めるべきだ。社会的性などというものは当たり前だが許されない。そして性を前提とされない社会においては心の性なんてものはある意味がない。よって存在しない。そこにあるのはどういった生殖器が付いているかによる機械的分類だけだ。我々は人間である。まともな社会においてはそれより先にはなにも要らない。
女に生まれたが心の性が男である、というのは現在の性規範に縛られた糞のような観念だとあり得る。確かにあり得るがそれは性規範を内在化してしまっている、という意味では従前のゴミのような性別概念とほとんど差異はない。結局のところ自由度が2から4に増えるだけだ。そんなちっぽけな自由など自由ではない。無限のバリエーションのある心を二分法で分類する心の性と呼ばれるものなど許される訳がない。性規範を信じる人間と性差別者に本質的な差異などない。心の性なんてものはその実際として現在の性規範に照らし合わせて自身の価値観をどう縛り付けるかを考えより良いものを選択した結果にすぎない。二者択一のジェンダーのうちより自身にとって有利なものを意識的にもしくは無意識的に選択した結果に過ぎない。
心の性など存在しない。そもそも性別などは付いている生殖器の違いに過ぎない。付いている生殖器によって何かしらの束縛を受ける謂れなど我々にはない。自由主義において我々はこう言い切るべきではないのか。
そしてそもそも人は自らを知り得るのか。
恋愛は性欲の詩的表現を受けたものであると言う。恋愛感情という自己認識としてのその主観事実を否定するべきではないし、当人の自己認識は自由権のもとで尊重されるべきだ。しかし性欲について言及した今もう一度考えてみたい。人は独りでに心の性を持ち得るか?
持たない。上述のとおりである。
人はあくまでも社会的に心の性を与えられるだけである。もちろん心の性というものは確かに存在し得るがそれは生得的なものではなく獲得的なものである。身体機能としての性に一対一対応した心の性なんてものはない。ある訳がない。あるのは社会的性の役割であり、ジェンダーと呼ばれるものだ。
スカートを履き、可愛いものを好み、ピンク色が好きで、私立文系に進み、事務職をする、男に恋愛感情を抱く実存。のようなそういう唾棄すべきステレオタイプの集合を心の性と言っているにすぎない。
人が持つのは極めて純粋な身体機能としての性と、社会的な役割としての性の二つだけだ。そして後者は破壊すべき対象である。心の性などというものはそもそも存在すべきではない。
「公共空間で環境型セクハラしてるようなものですよ」って言っているんだが職場じゃないよな。
デタラメ言えないから「のようなもの」つけてるよね。これつけてる時点で定義から外れて拡大してるのは明白。
弁護士出してくるなら法律参照したら?セクハラを法的に定めてるのは男女雇用機会均等法11条(条文につきソース省略)。
中学校の社会科レベルの話で申し訳ないが、日本では憲法13条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」としており、さらに憲法21条で表現の自由が保障されている。何が公共の福祉に反するかどうかは法が定めている。つまり法に定めのない行為は憲法13条・21条で保障されるということ。
で、そのセクハラによる公共の福祉の侵害を根拠に法律が表現の自由を制限しているのが男女雇用機会均等法11条。
(職場における性的な言動に起因する問題に関する雇用管理上の措置)
第1項 事業主は、職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け、又は当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない。
ここでいう
職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により
・「当該労働者がその労働条件につき不利益を受け(ること)」 が対価型セクハラ
・「当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されること」が環境型セクハラ
労働者の意に反する性的な言動により労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること
そういうことなので、現行法上、公共の福祉に反するものとして自由権を制約するセクハラは仕事に関することであって、キャバクラでキャバ嬢に「毎日ズリネタにしてるよ」と言おうが要件を満たさないので所詮「セクハラのようなもの」の域を出ておらず、セクハラには該当しない。つまり問題ない。読売新聞がセクハラという用語を使おうが同様。なお、嫌がる高級クラブのママの生乳を揉むのは刑法の方に抵触するのでこれもまたセクハラではない。
これとかもそうだが未だに日教組による教育被害が云々という言説がまだ見られるんだが。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sivaprod/status/1536206227939950592
この際ちょっとその言説の経緯をまとめておくよ。
この言説のキーマンは小林よしのりなんだがそこに至るまでを説明しないといけない。
日教組が昭和22年に結成されて昭和30年代には組織率8割以上を誇って…というのはWikiとかで勉強してくれ。
右翼による日教組批判が特に熾烈を極めるようになったのは1980年代の後半からなのである。
街宣車で大音量で日教組!日教組!と怒鳴っているので一般の人の日教組の知名度はこの辺りで上がった。そもそもノンポリの人は学校の先生の組合なんて知らんもんである。但し右翼の一般受けは悪かったので日教組の評価は下がらなかった。
また日教組が集会を開くと周囲に街宣車が多数集結して大音量で軍歌を流し音圧を競うようになった。
すると近所の会社は仕事が全くできない。電話どころか窓を閉めても耳を塞がないといけないような状態だ。
でも日教組の知名度が低く、どこで集会をやってるかも判らないので右翼の評判が下がるだけだった。
こういう極端な抗議行動が流行した背景には当時の政治的社会的状況があった。
その一つは「デタント」で、もう一つは「任侠右翼の増加」である。
右翼が何と戦っていたかというと、その最大の敵はソ連だった。これは街宣右翼だけじゃなくて神道系の右翼も統一教会も皆同じだ。
だが1985年にゴルバチョフが書記長に就任するとどうにもならないほど疲弊したソ連の改革政策、ペレストロイカを推し進める。最初は大した変化はなかったが、チェルノブイリ原発事故以後は情報公開も進め、世界を巻き込みながら怒涛のように変化していく。
それによって西側ではゴルバチョフの歓迎ムードが高まり、要するに憎むべき敵性国家で無くなっていったのである。
更にソ連共産党は活動を停止し、遂にはソ連が無くなってしまった。
これは右翼陣営勝利のはずだが、困ったのは攻撃する敵を喪失してしまった事で、自分らのアイデンティティの根幹の喪失でもあった。鈴木邦男はソ連崩壊時に「これは僕らの問題だ」と語っている。アイデンティティ喪失に苦しむのか、敵の乗り換えをしてアイデンティティを保持するかという含みがある。結局鈴木は敵の乗り換えには乗らなかった。
また、街宣車での街宣はやりすぎて体制側に対策が出来てしまった。
まず憲法違反の疑いもある静穏保持法が施行されてしまったので外国公館などの特定箇所で大音量を出すと逮捕される。
またソ連大使館前の道路は街宣車が近づくと全交通遮断される。言っておくがソ連大使館前の道は外苑東通りという都バスも走る幹線道路である。当時は街宣車のせいで道路が遮断されたりそれで周囲が交通マヒしたり運行経路が決まっているバスが20分以上立往生なんて事はザラだった。
こんな風に最大の敵であるソ連がやたら腰が低く物分かりが良くなった上にソ連大使館に街宣掛ける事も出来ない。
という事でこの時期に日教組の悪質性が増加したのではなく、ソ連の変化とデタントの為に日教組批判が熾烈となったのである。
まずそもそも右翼だが、元はヤクザとの明確な区切りは無かった。これは土建屋、鳶や水商売やテキ屋も同じだった。
戦後の右翼は、例えば児玉誉士夫など体制と癒着しそれは米国に従順という事でもあった。
1960年代末に左翼の学生運動が盛んになるとこれに対する体育会と右翼学生が組織されていった。新右翼と呼ばれる。
新右翼の特徴は反ソ反共ながらも反体制、反米である事だった。これは当時の世相や全共闘運動に影響を受けている。
ここを境に右翼系の政治結社が誕生して行く。そしてそれらは「街宣車で軍歌を流し辻説法をする」というスタイルを確立していく。
この街宣車は最初は旧軍や自衛隊の国防色(カーキと灰色:バトルシップグレイ)だったのが後述の事情で威圧感の強い黒塗りになっていく。
よく「街宣右翼」とネットの一部で言われるが、1980年頃から右翼政治結社は街宣車スタイルをみな踏襲しており、それ以外はないような状態だった。ヤクザっぽいがはじめの方の新右翼にはヤクザとの殊更の関係はない。
因みに日本会議の中央の人士らはこういう街宣ではなく、就職しないで大学に残り学生運動を続けた人たちである。
80年代になると校内暴力で学校が荒れ、ツッパリ型不良が大増殖して暴走族も大増殖した。また暴走族の右翼感染が進んだ。特攻服や旭日旗が暴走族の印となったのもこの頃だ。不良or大人への反抗=右翼ファッションだったのである。
こうして右翼≒不良≒ヤクザが緊密化したところで任侠右翼の街宣参入が増えたのだが、もっと大きい商機的な問題があった。
思想右翼の主な資金源というのは機関紙の販売である。これは志を同じくする人からの購買もある。
が、もう一つのパターンは不正や思想的に看過できない行いをした法人へ抗議街宣をして、その手打ちとして機関紙の購買を取り付けるという方法がある。
ヤクザが参入する主目的は後者の方で、民事介入暴力の支払い手段として機関紙購買を取り付ける為に政治結社を立ち上げるのである。民事介入暴力というのは殴ったり蹴ったりじゃなくて、企業の商業活動に暴力団が威圧をもって参入する事だ。
企業恐喝に街宣車を利用するのだ。国防色より威圧感がより強い黒塗りが主流になっていったのはこの為だ。
暴力的手段を行使されないようにみかじめ料として機関紙を購読する会社も多く、大変な出費になっていた。
因みに総会屋も同じことを70年代にやっており、機関紙/誌の執筆者編集者需要が高まり、学生運動で就職が困難になった学生運動家が多数その仕事に就いた。総会屋の多くは内容には口を出さなかったので社会の不正を糾弾する記事を書きまくり、総合誌ブームが起きたが、80年代初頭の商法改正で総会屋が潰されると大方廃刊。
だが技能を身に付けた者は大手メディアでフリーランスとして雇用された。リベラル/左翼ライターには総会屋の手先出身が結構居たのである。
こういう訳で街宣右翼業界は膨れ上がり、日教組の集会や8月9日の反ソデーには黒塗りのハイデッキバスが大挙して集合し爆音で軍歌を流すようになった。それまでのライトバンやタウンエースにスピーカーつけてる貧乏右翼とは大違いだ。
ハイデッキ観光型バスというのは6000万円以上する。それの座席を取っ払ってラウンジ型にしてシャンデリアやカラオケ、自動車電話、冷蔵庫とバーカウンターをつけて車検を通したら1億を超える。それに自民党や共産党のようなプロの街宣用スピーカー、アンプを搭載して、北方領土の日にはフェリーと陸路で釧路とかの空港に回送しておくのだ。組員は飛行機で向かってバスに乗り納沙布岬に向かって「露助この野郎」とかやって帰るんである。
しかも一社あたり3台とか6台とか持ってるのだ。沢山来すぎて根室は渋滞になるほどだ。当時の任侠右翼の羽振りの良さが判るだろう。
ハリウッド映画でもジャパニーズヤクザが描写されていた頃で、特に企業活動への威圧的介入は警察に問題視されていた。
そこで暴対法が施行される事になる。これは大抵の暴力団を社会的に殺す大変大きな力がある法律だった。
伊丹十三のミンボーの女には暴力団が右翼の街宣車で企業恐喝に来るシーンがある。この映画は暴対法施行直後に公開されたので同法施行で先を案じているヤクザを大いに怒らせる事になって伊丹はヤクザに襲撃されて重傷を負ってしまった。
余談だが、この時伊丹を襲撃した組は後にJR東本社前の土地を巡って殺人事件を起こした。JR東本社は道路に面しておらず、また同社は本社付近の建物を次々に押えているのだが、購入すれば都道と面して建築基準が大幅緩和されるその土地に手を付けなかった。それほどヤバい土地だったのだな。
ちょっと長くなったが、「えせ右翼は在日朝鮮人が右翼の評判を下げる為になりすましてる」とか噴飯物の事をいう人が多く居る界隈なので一応説明した。
えせ右翼とは一般には上記のように民事介入目的でヤクザが運営して構成員も被る政治結社の事だ。もっと硬い警察用語では「右翼標榜暴力団」という。
こうして
となってソ連に勝利したはずなのに右翼/保守業界というのは停滞してシュリンクしてしまう事になる。
そして当業界では超直的なそれに代わって冷戦後政治リアリズムを中心に多様性がある論説が流行するようになった。産経新聞のコラム「斜断機」が柔軟で面白くて単行本化されてしまうような時代だ。因みに吉本隆明の門下生が多く書いていた。
そんな中で反共反ソイデオロギー一本の人らには居場所が無い。ソ連無き後に残った残存敵性勢力の日教組をひたすら叩きながら閉じた業界で腐っていたのである。
当時は欧州もみな社民政権でリベラル人気で冷戦後の世界情勢にも楽観的だった時代だった。
玉城沖縄知事「ゼレンスキーです」 基地問題有識者会合前、委員に発言 「冗談」と打ち消し
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米軍基地問題に関するアドバイザリーボード会議であいさつする玉城デニー知事=25日午前、県庁
沖縄県の玉城デニー知事が25日午前、県庁で開いた基地問題に関する有識者会合の入場時に、「(ウクライナ大統領の)ゼレンスキーです。よろしくお願いします」と述べる場面があった。ロシアによるウクライナ侵攻を踏まえた発言とみられるが、出席した委員からは苦笑が漏れる程度で反応は薄く、直後に「冗談です」と打ち消した。
ウクライナ侵攻による国際秩序の不安定化が米軍基地の集中する沖縄にも影響する中、当事国の指導者を冗談に持ち出した玉城知事の認識が問われそうだ。
発言は、県が主催する米軍基地問題に関するアドバイザリボードの第2回会議での一幕。会議は専門家から国際情勢などの意見を聴くことを目的に、オンラインで開催した。会議は非公開だが、玉城知事の冒頭あいさつまでは報道陣に公開されていた。
冒頭あいさつで玉城知事は、ウクライナ侵攻に触れて「生命の尊厳という観点からも、この戦争に向かう危険という意味からも看過できない。一刻も早い両国の平和の回復を、多くの国々の支援によって達成できることを強く望む」と述べた。
これは・・・
あーこれは、匿名空間に限らず今まで人にものを教えた経験が多分少ないでしょ?
信頼関係が形成されてない状況で、いきなり侮辱から入るのは、クリエイティビティを増すのではなく奪う効果しかない。実際に知識を持っていたとしても、マウンティングが目的だと即座にバレる愚行だ。
考え方が整理できてない。
「まだイメージできてないと思う」「ぼんやり考えてるだけじゃ」など、相手の心を削り、モチベーションを割くことに終始している。聞かれてもいない、やるべき論を押し付けて締める独りよがりさに身勝手な性根が透ける。一方で、「絶対に具体的な謎解きを思いつく」など自説の無根拠な称揚があるのは、道化になっている自分に気づいてない証拠だ。考えが整理できていないのはあなただと思う。
「魔法でものを別のものに変身させて謎を解くみたいなゲーム」って、考えた側はそれだけで満足しちゃうけど、実は何一つ具体的じゃないアイデア。
それだけで満足している様子は文中のどこにもない。
具体的さは、どの抽象レベルにあるかによって異なる。すべてのアイデアは具体的だと言えるし、逆に具体的でないとも言える。人を支配するのを目的として、無敵ワードを運用している。
正直、あと一歩ではない。
もしあなたのアドバイス風マウントレターが広く一般に向けられた記事だったなら、俺も、とやかくいうことは無い。ただスルーする。
でも、ごめんなさい。他の有権者の皆さん。私は間違いを犯しました。
マイノリティ当事者を国会に送り込むという理念ただ一点に共感して、参院選で投票した。
その後も、いくつかの公約に疑問を感じつつも、理念への共感をもとにボランティアや寄付などで支援してきた。
その結果、ロシアに対しての非難決議を、全会一致で賛成するという日本の意思表示のチャンスを失ってしまった。
実際、インパクトは小さいのかもしれない。
だが、自由主義の陣営にいる国としてこれは大きな損失だと思う。
選挙権を得て数十年。
これまで自分の投票した議員や候補が不祥事起こしたり、同意しかねる発言をしても後悔することなどなかった。
投票した候補が議席を得られても得られなくても、彼ら彼女らは、それなりの「いいこと」をしており、自分なりに価値を見いだせていたからだ。
どちらかの立場に付くべきじゃないだとか、ウクライナやNATO側も悪いことしているとか、そいうことじゃない。
過去の戦争による加害と核の被害を経験し、それを克服したうえで自由主義の旗を掲げた日本国として、
力による現状変更と核の脅迫に断固として拒否し、そうした行為を非難することそれ自体が目的であった。
他国向けでもある以上に、自国の存在意義の再宣言(再確認)でもあった。
そうした決議を全会一致で採択できなかった。
読みづらいけど自分用なので許して
某実写映画に対して鬱憤を募らせていることを、一緒に見に行く予定の友人に告げるかどうかで悩んでいる。
というのも公開が決まった当初は私も映画の制作に好意的だったためだ。実写化される方のコンテンツ(O)も実写キャストの方(S)も私は大好きだったので、この2つがコラボすることを単純に喜んだ。公開したら何度も映画館に通おうという話もした。ちなみに友人はSのファンで、Oのことは多分知らない。
しかし私が悩んでいる理由は、あの時喜んでいたくせに今更愚痴を言って許されるのか、という認知的不協和に苛まれているからではない。
私の葛藤の一番の理由は、このままではSを完全に嫌いになってしまいそうであり、今の私の雑駁アンチスレ状態な心情を整理せずそのまま友人に伝えたら確実に友人は悲しみ、我々の間にも軋轢が生まれてしまうからである。
なのでもし友人に本心を告げるのならば、身も蓋もない愚痴で友人を傷つけることがないようになるべく正当性のある批判をできるように不満の要点を絞らなければいけないし、隠し通す場合は絶対に友人に悟られず気を遣わせないように、そして単に私がこじらせクソ解釈女なだけの問題であると思ってもらえるように(友人がOを知らないのを良いことに)、問題点を整理していこうと思う。
ひとつ、この間解禁された予告動画について。予告動画によって、二者のコラボが決まったときに何となく抱いていた「これってOがダシに使われてるのでは…?」という危惧が確信に変わってしまった。これでも当時は、「実写映画化なんて結局儲けたいの一点に尽きるんだから、利益を重視した企画なのはしょうがないよね」とは思っていた。(あらゆる実写映画が建前で使う「ファンの幅を広げる」「世界観の再現」というきれい事は儲けたいという意図を少しでも隠すための詭弁に感じる)
なのであのAベックス様(両者のスポンサー)が「人気なOとSをくっつければ売れるに決まってるよね!」という安易な発想に至るのも無理はないし、「全くしょーがねぇなAベックスは……まあ不況だしこういう突飛な案にも飛びついちゃうよね」で済む話なのである。
しかし今回、これはもう看過できないぞと思ったのが、予告の半分がSが意気込みを語る時間に費やされているという事実であった。これはもう確実に彼らをageるための映画以外の何物でもないじゃないかと私はひどく落胆した。
それに、それぞれの意気込みシーンでもデカい個人名と小さく目立たないキャラ名と、表記上でも明らかにSメインの画面構成になっている。
そりゃ実写化の時に俳優さんの豪華さ()がピックアップされるのは知ってるしそれはこの際もう仕方の無いことなんだろうけど、それにしてもひどすぎやしないか。Oはアイドルが活躍するための入れ物ではない。
前売り券についてくる特典のグッズの配色も、Sのアイドルとしてのメンバーカラーになっている。Oの6人にはイメージカラーがあるのだが、それはもう完全無視なのである。9人組なのに主演が6人の作品にねじ込むからこういう事になるのだ。
これを前提にすると、これまでかろうじて許せていたあらゆる点が気になって仕方なくなる。
まずそもそも一卵性双生児(×6)であるという絶対的な前提が踏みにじられている。現実に再現することは無理だと開き直るにしてももう少し何か策はあっただろうに。(数年前の別企業とのコラボでは某俳優さんがCGで6人に分裂していた。こういう飛び抜けた演出を東宝配給でやるくらいの気概が欲しかった)
設定を全然気にしていないのは、はじめからSを売り込むのだけが目的だったということに他ならない。出来ないと分かってるので始めからやりません!はあまりにもOを軽視しすぎではないか。色の付いたパーカーを着せておけば役作りOKではないのだ。アニメの実写はコスプレだと言われがちだがこれはコスプレですらないと思う。パーカーを着て適当なウィッグを付けたら誰にでも出来る。レイヤーですらない、その辺にいるアニメオタクだ。2015年の池袋じゃないんだから。
配役もどうだろうか。キャラクターとメンバーの性格がマッチしていれば確かに納得出来るのだが、それを前提にしているということはもう端からSのファンしか対象にしていないということではないのか。
しかも、全てのキャラではないが、キャラの方がキャストに利用されてんなという描写や設定があった。Sのメンバーの特技や個性をOのキャラクターの要素と無理やり結びつけているのだ。これはその対象が私の好きなキャラクターだったから誇張されて見えてしまっただけかもしれないのだが。
(Oはコラボが非常に多く、余所で色々な職業や役柄を演じているのである特徴だけが取り沙汰されるというのは確かによくある。公式ゲームでもそういう風潮があるので理解はできる。しかし今回のはSありきのOなのでどうしても利用された感が拭えないのである)
キャラ改編とも言えるくらいの逸脱は、「ああもうこれは別の作品なんだ」と思わせてくれるのでこの際怒る気にもなれない。そしてそれはシナリオ上仕方の無いことなんだと思うことにした。Sをageるというシナリオのための。
あと、まだ予告やちょっとした映像しか見ていないのでなんとも言えないが、某メンバーの演技が無理すぎて無理になった。私は彼のことを本当に嫌いになりそうである。もとより私は彼にルックス以外の良さを何一つ見出していなかったのだが、今回見た目という武装を剥ぎ取って眺めた時(なんせみな同じ容姿という設定なので)、彼になんの魅力も感じられないどころか日毎に憤りが増すばかりになってしまった。演技が本当にひどいのである。
(映画化が決まった当初、私は友人に「彼は解釈違いだわ」と冗談交じりに言っていたのだが、冗談ではなくなってしまった。)
そのメンバーはドラマの経験もあるしなんならグループ内では俳優枠みたいな扱いなのだが、私から見たら2パターンしか引き出しがない。顔面に物を言わせたクール()な演技か、とりあえず凄んで狂気を見せる演技の2つである。今回のキャラクターはそのどちらでもないので私はついに別の引き出しを開けてくれるのだとばかり思っていたが、予告を見る限りではその2つが巧みに使い分けられているだけだった。あえて役作りをせず自分の引き出しにあるものを使って演じる役者さんがいるのは確かだが、彼の場合はそのレベルにすら立っていないと思う。出来なくてもせめて表面上はもう少しキャラのこと考えてくれてもいいのにと思った。どんな演技をしたってもと原作のキャラクターにピッタリハマるなんてことは決してないけど、だとしてももう少し研究してくれよ。
これでもまだ、本編を見ればきっと何か認識が変わるかもしれないという望みがある。百聞は一見にしかずなので実際に見なければ何も言えない。根拠の無い誹謗中傷になってしまう。しかし現時点でSの中の人ネタがあることが確定しているので本当に憂鬱である。
見なければいいではないかと思うかもしれないがどちらも好きなので(Sのことは無理になりかけているけど)見ておきたいのである。
例えばロケ地はアニメの舞台と同じ場所が使われているだろうからその様子を確認したいし、小道具や舞台装置などの詳細も気になる。シナリオも大元の原作をリスペクトしたものらしいのでそこもチェックしたいのだ。
なのでSをPRするためにキャラや設定がズタズタにされているのはしょうがないのだと割り切って、どこかひとつでもOを感じられる部分を見いだせたら良いのだと思うことにした。
SがOを演じていると思うからいけないのであって、Sのキラキラムービーだと思えばなんとか乗り切れそうである。二者を切り離せるか否かは私の認識の問題である。
この思いを友人に伝える場合でも、Sage要素が強いのは良くないよね、くらいの批判に留めておこうと思う。あとはもう脳みそドロドロお花畑になるしかない。Sが好きな友人の前でSの愚痴を言いたくはない。
……といってもまだ完全に納得できていないので取り留めもない思いを書いて憂さを晴らしておく。
・グッズがここぞとばかりに高額転売されてる上に検索用ワードにSのメンバーの個人名が入っていて非常に悲しかった。そもそも転売するなよという話だし、実写化に乗じて転売するのも姑息だし、それを買うやつもどうかしてる。みんなまとめて滅びよ
・「私は楽しみだけどね」みたいなツイート
・「O界隈の人がJ界隈に来てくれて嬉しい〜」みたいなツイート
・お前は役作り以前の問題だ。本人じゃん
・誰も童貞に見えない
・彼はアラサーではない
・彼はハーフではない
・誰も3.5等身じゃない
・親孝行してそう
・働いてそう
あと今回の実写化に際して自分の中で様々なモヤモヤが生まれていく中で、根本的なことをないがしろにしていたことに気づいた。
すなわち、Oは実際に存在しているのになぜ実写化する必要があるのか、ということだ。確かにOは二次創作的なものだが、Oの原作から時間的な繋がりがあるという点でパラレルではなく同一世界を描いている。そして昭和から令和を彼ら(作中のあらゆるキャラ)はゆっくりと時間をかけながら生きているのであり、Oは彼らの人生の一部分を切り抜いたノンフィクション風のフィクションなのである。つまりOは、キャラクターたちが自分と同じ名前の役を演じてアニメというコンテンツを成り立たせているものなのである。さっきも書いたが彼らは様々な企業やコンテンツとコラボしており、本人たちがファッションショーに出たことだってある。私は彼らのハイタッチ会に行ったし、彼らが声優さんたちとイベントに出ているところをこの目で確認している。
実際にキャラクターたちは存在しているのだがら、わざわざ実写化する必要はない。そもそもアニメというコンテンツで既に実写化されているようなものなのだから。
この疑問に対してどう考えればいいのかと悩んだが、この実写映画化もまた二次創作なのだという理解に落ち着いた。
思えばこの世の中には、実在の人物の任意の設定を借りただけで中身は全然違う人物が活躍する作品が横溢しているではないか。武将しかり文豪しかり……。もともとの武将や文豪のファンの方にも色々な立場の人がいるとは思うが、多くはその二次的な創作物に賛同しているではないか。彼らは「○○は入れ物ではない!」などと激昂することもないであろう。その寛容の態度を私も見習おう。
Oはそもそも二次創作みたいなものだが、この度再度二次創作される。これは多分シェイクスピアが歴史上の人物を用いて作った戯曲をどこかの劇団がアレンジして演じるみたいなことだ。この度の実写化もそういうことなのだ。
はぁ……