はてなキーワード: 登山道とは
「必死にレベル上げしても全然強くならないし強くなっても同じことの繰り返しなゲーム」
「レベル上げはサクサクでレベルを上げる度に色々なことが出来るゲーム」
どっちの方がユーザーを惹きつけるかなんて考えるまでもないじゃん。
環境だったり才能だったりに恵まれて無い人はクソゲーを歯を食いしばりながらプレイして「もう無理だこのクソゲーもうやめる!」って投げ出しそうなのと日々戦ってる。
環境や才能に恵まれている人は「これマジで神ゲーだわ!」と日々のめり込んでいく。
そんな当たり前のことに対して何故か皆して「いいや、才能に恵まれているやつほど折れやすく、才能がないやつほど努力家なんやぞ?」と言い張る。
気持ちはわかるぜ。
生まれた瞬間に回したガチャの結果を生涯に渡って引きずり続け、どこまでも差がつき続ける惨めさに耐えなくちゃいけないんだからな。
才能がなくても些細な成功を楽しめばいいというのは簡単だが、いざ何かやりたいことが出来たとき、才能の無さや環境の悪さは残酷なほどに強烈に襲いかかるからな。
高い山に登りたいと思ったのに生まれつき手足が不自由で貧乏だから登山道具も揃えられない、そんなシチュエーションに人生のいたる所でぶつかることになるのだから。
実験内容は興味がないわけではないし、なかなかお目にかかれない機器を使ってデータをとるのはなかなか楽しい。
しかし、レポートがきつい。とにかく量が膨大だ。回によってまちまちではあるが、少なくても15ページで4000字程度、多いとその倍以上になることもある。これを1週間で書き上げなければならない。
書いても書いても終わらず期限目前になってしまい、中途半端な出来で提出して再提出を食らってしまう。そもそもタスク割りが下手なのもあると思う。
再提出の締め切りは1週間後で良心的に思えるが、次の実験のレポートの締め切りと被っている。再提出のレポートをやるのに時間をとられ、次のレポートに取り掛かることができずこちらも再提出になってしまう。以下同じ事が永遠にループしている。とうとう今週は再提出のレポートも次のレポートも提出できずに終わってしまった。我ながら情けない。
タスクが終わらない不安感はメンタルを蝕んでいく。おとといから2日ほどレポートもほかの授業の課題も手につかず、一人暮らししているアパートの一室で横になってぼんやりしていた。部屋にはゴミが散乱して台所のシンクには洗い物が溜まっている。何もする気力が起きない。できるのはYouTubeや漫画を眺めるくらい。今も死にそうになりながらキーボードをたたいている。
実験を一緒にやっている班員は「きつい」といいつつも、きっちり期限内にレポートを仕上げて提出しているようだ。同じ学科の友人も同様にうまいことやっている。周りが優秀なだけに、どうして自分だけ無能なんだろう、と自分を責め続けてしまう。
そもそも学部3年の実験なんて、やる内容も決まりきっている。結果もわかりきってて考察内容だって模範解答が存在するものだ。舗装された登山道を自力で登るようなものだろうに、なんで私だけできないんだろう。ここで躓いていたら、4年の卒論や修士課程なんて乗り越えられるはずがない。
実はメンタルが不調になるのは初めてではない。大学に入学した直後にも派手にやられている。今よりもかなりひどくて、なかなか2年生に進級できず1年生を2,3回やったほどだった。
そのときは大学のメンタルヘルス部門を訪れたり休学して実家に戻ったりして、何とか復調できた。一度元気になってからは順調で、フル単ではないが3年生までストレートに進級できていた。
agricola 車道の路肩を爆走してきた自転車が、前方の交差点の車両用信号が赤信号だからと歩道に移って左折中の自動車を左からぶち抜いて横断していくことが良くある。俺が見てないところで事故って死んでほしい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210616172337
「自分の嫌いなクラスタの人間は山にワイヤートラップを仕掛けて殺したい」と主張するはてサも底が抜けすぎている
high-speed-soba 歩道を自転車で走る無知が多すぎる。増田氏に同意 https://trafficnews.jp/post/77050 あと登山道を駆け降りてくるBMXにはワイヤートラップを仕掛けたい
御在所岳という山はとても素晴らしい山なんですが、道迷い、遭難、滑落事故が多数起きている山でもあります。かくゆう私も、先日の登山の際にまさかの道迷いで、なんと山岳警察に救助をお願いする事態になってしまったのです。
山登りで道に迷って遭難するなんて、こんなみっともなくて恥ずかしい話を増田に書くなんて、やめようかどうしようか迷ったのですが、どうしても書かずにいられない思いがいろいろあったので、批判されるのを覚悟で書こうかと思います。
御在所岳の中道というルートを下山していたときです。7合目を過ぎて少し行ったあたりに、ロープが張られている個所があります。
この先に大きな岩があって、キレットになっているのですが、私はそれに気づかずこの岩の先には道は無いと思ったんです。どちらに進んでいいかわからなくなり、岩を登ってみたりもしたんですが、登山道らしきものを見つけることができず、なんとなく下れそうな坂道へ入って行ってしまいました。
登山ルートは、その岩を登って超えていかなければいけなかったのですが、事前の知識もなく地図も持っていなかったために、誤った道へ行ってしまったのです。
そのまま、道なき道を下って行き、途中で「絶対におかしい」と思いながらも、すでに引き返すことができないくらい進んでしまっていました。
山って、怖いですね。改めて思いました。
ちょっと登山道から外れると、なかなか元の場所に戻れないんです。特に坂を下ってしまうともう登れない。
ずるずると、滑るように斜面を下っていくと、なんとなく道っぽくなっている場所があったので、これは!と思いその道っぽいところを進んでいくと、頭上の高いところにロープウェイが行きかうのが見えました。
なんとなくほっとしてそのまま道っぽいところを進んでいきましたが、その先にあったのは断崖絶壁でした。
これはもうだめだな、これ以上進んだら死ぬ。
と思いました。まだ時間帯はお昼の15時くらいで、ロープウェイからは時々人の声が聞こえてきて、天気も良くおだやかな山の中でしたが、私は死ぬか生きるかの瀬戸際にいる気持ちでした・・・。
意を決して、とりあえず御在所ロープウェイの代表電話に電話してみたところ、遭難したのなら警察に救助依頼をしてくださいとのこと。
携帯電話があって良かった。
それはともかく、そのあと救助されたのですが、山岳警察の救助後の対応がとにかくひどかった。
一人の方は「けがはないですか?」と聞いてくれましたが、もう一人の方は、現れるなり横柄な態度で「だから単独で登山するとこうゆうことになるんだと」と説教されました。
そして、「歩きながらの事情聴取なんて疲れるから、もう署に連れてくわ」と。
え?連れてくって? 連行ですか?
で、下る道中も、なんだかひたすら文句ばかり言っている警察の方。なんなんでしょう。なんかほんとすいません。めんどくさいことさせちゃってほんとすいません、って思わせるような態度なんです、ずっと。
しかも、その二人がやたら内輪でいろいろ揉めていて、なんか団結してないってゆうか、っ警察官同士が嚙み合ってない・・・。無線でもやりとりも、無線の相手の人に向かって悪口ばっかり言ってるし、なんだかすごく感じ悪かった。
で、登山道の入り口で待機してくれていたパトカーに乗ることに。そのパトカーの運転してる人もすごく嫌な感じでした。そもそも、何も聞かされずにただパトカーに乗せられて、とにかく何も説明が無い。で、また何か内輪でいろいろ揉めたりしてる。
なんだか本当に雰囲気悪い。車中でも仕事の愚痴ばっかり言ってるし。
でも、文句は言えませんよね。忙しい中、わざわざ私のために3人も動員して、重装備で山を下りてきて、命懸けで救助に向かってくれたわけですから。
登山で道に迷って遭難して救助を要請するなんて、本当に申し訳ないと思っているし、多大なご迷惑をおかけしたと思っているし、来ていただいて感謝してます。
でも、でも、それでもやっぱり物申したい気持ちになるような、酷い対応だったわけですよ。そこの警官の方は。
救助に来たお二人は途中で降りられ、運転してきた警察官と二人になり、「これからどこへ行くんですか?」と聞くと、ここから車で20分以上かかる警察署に行って取り調べをする。との事。しかもその取り調べは1時間くらいかかるそうで。
なぜ、わざわざ警察署まで連行されなければいけないのか、全くもって意味が分かりません。
その時の時間はすでに18時半すぎ。私は駅の近くの宿を予約しており、宿の人から電話がかかってきて「19時までに入ってもらえないと夕食が手配できない」旨を伝えられたので早く宿に行きたかったのと、もう疲労のレベルが半端なくて、とにかく早く身体を休めたかったという状況もあって、その警察官の人にお願いしたんです。
「なんとか取り調べはこの場でしていただくか、明日にしてもらえませんか」と。
そもそも、最初から遭難者の救助というものに不満があったんでしょうね。ずっとブツブツ文句を言っていたし(虫に刺されたとかなんとか)。うざっ。
その警察官は、
「警察はただでさえ人手が足りていないのに、山に登って遭難した人間から110番通報があると夜勤明けでもなんでも行かなけれないけない。こっちは命懸けなんだ。警察をタクシー代わりに使うな。有難いと思え、感謝の気持ちが無い。警察はサービス業じゃないんだ。」
というような話を延々としてました。
でもね、私もさすがに腹が立って色々言い返しましたよ。私だって悪気があって遭難したわけじゃないし、気軽な気持ちで救助を要請したわけではないんです。
対して能力もなさそうな若造の警察官を相手に感情的に言い返してしまった私も良くないとは思いましたが。
確かに、多大なるご迷惑をかけていることは事実です。本当に申し訳ないと思っているんです。来ていただいて本当に感謝しています。
そもそも、遭難した人を救助をするのは警察の仕事ですよね?ね?
なんで仕事中に、ぐちぐち仕事に対する文句ばっかり言ってるの?
やりたくないなら、やらなければいいじゃない?
警察の方のその言いぐさは、「遭難者の救助なんで仕事めんどくせーし、ダルイからやりたくないんだけど、公務員だからしたかなく来てやってんだよ。おめーら有難く思えよ。」と言っているようにしか聞こえません。
いや、サービス業でしょ、公務員は。だって、困っている人を助けるのが警察官の仕事じゃないの?困っている人を助けるのって、サービス業みたいなもんじゃん。
大体、「警察はサービス業じゃない」なんていうセリフを吐く人に、助けてもらいたいって思わないよね、普通。
なんでそんなに「助けてやっている」という上から目線なんでしょうね。
てか、何様なの?
市民の安全を守るために、日夜働いているんでしょうけど、それを仕事だと思っていないようです、この警官は。
やりたくないけど仕方なくやっているボランティアみたいなものだと思っているんでしょうか。
そもそも、人としてどうなの?ってことですよ。
山で遭難した人に対する対応って、もっと優しくなりませんか?普通。
私、なにか犯罪を犯してパトカーに乗っているわけじゃないんですよ。遭難をしたのは自業自得だってことはまあ分かっています。私が悪いのは分かっています。多少迷惑をかけてしまったのは分かっています。
でもね、山で一人で道に迷って、遭難して、歩き回って、不安で、心身ともに疲れ切っているんですよ。そんな人間を相手にあんな態度がとれるのって、人としておかしいと思うんです。
なぜあんな風になってしまうのか、育った環境が悪かったのか。謎ですが、警官にはそうゆう類の人間が多いというのは、よく聞く話ですよね。
もちろん、一概に警察官はどうのこうのとは言えませんが、とにかく、その若造の警察官は最悪でしたね。
警察署についてからも、横柄で高圧的な態度は変わらず。「俺よりももっと厳しい上の人に自重聴取されるから覚悟しろ」的なことを言ってきました。
それと、「ハッキリ言って、いま俺の腹わたは煮えくり返ってるから」
とか言われた。
警察署ではお決まりのマニュアルに沿った簡単な事情聴取と、始末書を書かされました。
その始末書も、マニュアル通り。始末書の見本を見せられ、それを丸写しすればいいとの事。
なんだそれ?
しかも、車で20分以上かかる場所にある警察署に勝手に連行しておいて、その若造のいう事と言ったら「ホテルに電話して迎えに来させます」だって!
あんた、まじで何様なの?
結局ホテルに電話してくれないし、結果タクシーでホテルまで戻ることになって・・・。なんであんな遠いとこまで連行されたのか、未だに意味が分からない。
富士山の頂上には富士山頂上浅間大社奥宮という神社があり、夏頃には富士山の登山客が多く参拝している。しかし現状ここに車椅子の人が参拝をするのは限りなく不可能に近い。さて五体満足の人であれば行くことができるこの神社に車椅子の人が行けないのは移動の自由の制限にあたるのだろうか?
結論から言えばこれは制限にはあたらないと思う。なぜならそもそも車椅子の人でも登れるように富士山の登山道を改造することは現状の技術力では不可能だからだ。技術的に不可能なことはどれだけ倫理的に問題があろうと改善の仕様がない。
では全ての無人駅に車椅子の設備をつけるべきだろうか?これも不可能だ。ごく一部の秘境駅以外は駅に車椅子用の設備を備えることは技術的には可能だ。しかし財政的にこれは不可能だ。国の施設であるなら車椅子用の設備は必要だが、JRは私企業にすぎず改善するべきであってもある程度限界がある。無人駅というのは人を置くほどではない小さな駅である証拠であり、わざわざ車椅子用の設備を置く必要などない。国鉄からJRに民営化した時、地方路線が廃止され地方が切り捨てられるのと同様に障害者も切り捨てられる運命になっていた。今はまだJRは頑張って設備を整えたり、地方路線を残したりしているが今後利用客が減れば、確実にここら辺は削られることになる。
結局のところ、移動の自由というのは確かに存在するが技術的、財政的に全ての人が全ての場所に行けるようにすることは不可能だ。将来的に無くすようにしていければ最善だが、現状不可能なものをいくら言っても意味が無い。
無理に電車やバスを使うとかじゃなく障碍者用タクシーを使いたいとき自由に使える形でバリアフリーを目指すのじゃダメだったんだろうか
バリアフリーの無人駅で降りたって、その先の移動も考えなきゃいけないんだし、つなぎを考えるだけで面倒そう。
まさか登山道を5km歩かなきゃいけない秘境の温泉宿に行き来したいとかまでサービスしろとか言わんよな?
(普通の高齢者だってそのへん歩くの無理な人は行けないで断念するわけだし、健常者ですら天候や諸事情で行けなかったりするし)
なお金の問題については、俺はカネはいくらでも出せばいい派です。失業者使えばいいだろって思ってる。
30歳で人生に飽きた増田の言う通り、自分のような凡人がお絵描きやスポーツや料理や技術やらを極めようとしてみたところで、クオリティや評価・名声といった絶対値の上ではほとんどの確率でトッププロに及ばないわけで、つまりプロの引いた道を後からなぞって疑似体験してるだけの消費者って気がしてくる。
一方で、例えばよく消費と言われがちなアニメ鑑賞でも視聴を通して自分の世界を広げてフンフンと頭をひねりニヤニヤできていればそれなりに創造的な気もする。
自分を例に挙げると登山になるだろうか。自分の場合、正直言って無雪期に登山道を通って山頂を目指すだけの登山は比較的楽しくない場合が増えてしまった。あまりに開拓・確立された山は他人の跡をなぞっているだけのような気分になって、あえて自分がそれをやる意味を見出せなくなり、それに伴ってやる気も楽しさも減ってしまうような気がする、という具合だ。
自分も含め、山にある程度ハマった人は一定数おおよそこのようなことを感じるようで、より高度な登山を目指したり、気候や地質や植生に注目したり、速さに拘ってみたり……。自分の場合は少人数のパーティで他人のいない眺望の良い場所をだらだら歩くのが好きでよくやっている(つまり登攀や冬季の登山が多くなるのだが)。
多分、これらは何かへのマウントのためにやっている人ばかりではない(全員山へマウントしているが)。いずれの場合も、あえてそれをやる意味と、その意味に伴って増える楽しさを求めてそうした道を選んでいるような気がする。もちろん登山にも素晴らしいプロはたくさんいるし、技術的な意味では到底及ばないが、自分の立てた計画でその日その気象条件でその場の景色を楽しんでいる自分だけ、みたいな理屈で、なんだか楽しい気分になれるのだ。「オリジナリティ」「自分だけの何か」と言ってしまうと酷く陳腐に聞こえるが、消費 <-> 創作の間に限らず、そうした自分を納得させる、言い換えると自分の脳を騙せるようなラインを自分自身に問い続けて見極めることって、けっこう大事だけど多くの人の間ではあまり重視されてない気がするな、みたいなことを考えてた。
山を管理する人がおらず、間伐されていないので草木が密集しすぎてる
登山道なんかもないからこの状態の山に入るのはジャングルに分け入るのと一緒
見通しが悪く歩き辛いのでヘビ、毛虫、イノシシ、サル、クマなどの危険生物が接近していても気付きにくく逃げにくい
樹が生えてる=カブトムシやクワガタが採り放題!ではない 都合よく虫が採れる種類の樹が生えているとは限らない
都会で言うと自分の住んでる街に高層ビルがたくさん建ってるけど
自分にとって縁もゆかりもない企業のオフィスやマンションばかりで誰でも入れるような商業施設がない感じだろうか
ただただ生えてるだけの木
ただただ建ってるだけのビル
絵の描かれた壁に囲まれてるのと一緒
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/-/326120
先発ブコメが「何が問題なんだ!」と頭沸騰してスター集めながら、後発ブコメで「いや私有地だし」と先発ブコメを責めるものが散見されるようになってる。
Webアーカイブで見比べてもらえれば分かるが、原因は「アクタージュの件」と同じで、アップしてしばらく経った後で、大文字の点火場所は私有地だという一文が記事に追加されているのだ。
登山道として開放されているにしても、大文字のいたずらをさせるために開放しているわけではないので、不法侵入で警察沙汰にすることも可能なのではないか。
先発組は、「私有地って重要な情報をあとから追加するなんて京都新聞はずるい!」とブーたれるかもしれないし、その文句がでるのもしょうがない面もあるかもしれないが、ただ他のブコメに書かれている通り「大文字のいたずら」には阪神ファンの前例があり、少しネットを調べれば、その時の新聞記事を読むことができ、いたずらの場所が私有地であることを知ることもできたはずなのだ。ブーたれるのは甘えでは、という残念な事例だと思った。
ちなみに「京都の大文字焼きが過去にいたずらで『犬』にされたことがある」ってのは都市伝説っぽいですよ。京大生の噂話ばかりで当時の新聞記事の紙面とか全く見つからないみたいっす。『犬』の大文字焼きを見た!というのは秋田の大文字と間違えてないですか?
関連(書いた増田は別人です)
https://anond.hatelabo.jp/20200808182056
今日のモーニングショーで取り上げられてたけど、地元警察はただ明かりを灯しただけと見なして捜査には着手しない方針だと放送されてました。土地の所有団体が正式に不法侵入の被害届とか出したらまた捜査するか考えるのかもしれないけど、阪神マークの事案でも事件化されてないから、そこまではやらないだろうな。
https://www.htb.co.jp/news/archives_8233.html
「空沼岳から札幌岳にむけて登山中」とあるので、空沼岳から札幌岳への縦走ルートのどこかと思われる。
https://yamap.com/maps/305/trails
筆者は空沼岳・札幌岳ともに登ったことはないが、どちらも単体では簡単な部類の山に見える(北海道の山は本州より難易度高めに見積もった方がいいが)。
しかしこの縦走ルートは距離も長く(コースタイム3時間程度)途中にいくつか危険ポイントもある。あまり使う人の多くないルートだろう。
今年は新型コロナの影響で例年より人出が大幅に少なく、この手のマイナールートはしばらく誰も通っていない可能性を念頭に置く必要がある。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4036904.html
こちらの記事には「登山道がササに覆われていたため日没までに下山できず、救助を呼んだ」とある。
ワンゲル部の生徒・教師に怪我人は出ていないため、他に理由はないと思われる。
登山道を覆っている藪をかきわけながら進むことを登山用語で「藪漕ぎ」と言うが、大変に時間もかかるし疲れもする作業である。
今回は笹が縦走ルートにびっしり生えており、ワンゲル部のグループより前に藪漕ぎをしてくれた登山者もいないという状況だったのではないか。
本件はヘリタク(ヘリをタクシー代わりに使うこと)案件であるが、学校の部活という事情があるためタクシーやむなしだったと思う。
本州の山ならビバークするところだが、羆がいる北海道の山で夜を明かすのは筆者もやりたくない。
函館で遭難したまま見つからない高校生が羆に食われたのではないかと噂されているだけになおさらだ。
ただし、札幌岳縦走をさっさと諦めていれば自力で下山できたろうし、そもそも計画に無理があった。
顧問の教師は猛省してほしい。生徒に責任はもちろんないが、勇気を持って撤退を提言してほしかった(言ったのかもしれないが)。
(程度の差はあり、中には最適な温度で地表に湧いている温泉もたくさんあります)。これは地面から湧いてくる灼熱の水を人間に適した温度まで水で薄めて利用していると言えます。ここで注目すべきはやはりマグマが関係していることと、熱い流体が地下から湧いてくる現象であるということ。そして温泉は火山の近くに形成されるということ。温泉はそれこそ風呂なんて概念を人類が運用する前から自然には存在していて、人類以外の動物も利用してきました。猿が風呂に入っているイメージなんかし易いですが、鹿や熊なんかも温泉に浸かるらしいですよ。それで火山の噴火による被害も昔からあったと思います、そりゃ地震も火山が原因で起こるので、「地震は人類が地球上に留まる限りその被害に遭い続ける」と言われるように火山の噴火も似たようなもんです。地震ほどもたびたび起こりませんけど(そうだったら人が土地に住めません)。何が言いたいかというと星の中にはマグマが流れていて、これは時に地上に激しく噴出しては火災などの致命的災禍となって人類を脅かしてきたという事実があり、そして鉱石や宝石や温泉といった、人類の利益になるものも火山の活動によってもたらされてきたので、人類がいままで継続してきた人類らしい生活を続ける限り、火山の脅威から完全に逃れることはできないってことです。マグマに焼かれる可能性を完全にゼロにしたいならば、既存の資源が採れる地上を捨てて空の上に逃げるしか道がありません。キリスト教では人間は人間である為に原罪というものを抱えていたので、神の子イエスさまは磔刑にかかるという形で人間の原罪を御許しくださったそうですが、罪を抱いたら落ちる先の地獄が灼熱の世界であることと、人類の文明が依存する金属資源が地下世界に流れる灼熱のマグマに由来することはなんだか面白い話に思えています。あとは、火山活動は間欠泉の他にはしばしば人間に有毒な気体を地面から吐き出させることがあり、この毒ガスにまかれて人が死ぬ事件なんかも昔からあります。ドラゴンは火を吐く他には毒の息を吐くなんて話もあるので、地獄が火山に由来するものであるならば、ドラゴンの活動とはすなわち火山に由来を見出すことができます。これで宗教的で、地理的で、人類学的なドラゴンの話は終わりです。
結びに、あまり触れられなかった気象的なドラゴンの話に急ぎ足で触れたいと思います(こっちは語れるほど詳しくないので一番最後になりました)。
ドラゴンもしばしば気象を操り、毒の息や火を吐く他には雷を吐くなんて言われます。怪獣映画のゴジラに出てくる怪獣キングギドラは雷のようなジグザグに飛ぶ光線や、ずばり雷そのものを吐き出しますがあんな感じです。
これは山の天気が変わりやすいという話と関連づけられて話されます。高い山の上は気象学的に雷雨が発生しやすいそうで、ここで発生した嵐がそのまま人里まで降りてきておそろしい災害をもたらしたこともヨーロッパでは珍しくなかったそうです。西洋の山々は高く険しい秘境で、ドラゴンの他には魔法使いが住んでるとか言われ、その険しさゆえにとても道路として利用できるような場所ではないので、いまよりも適切な登山道具や技術が普遍化されていない昔の時代に住んでいた人が山越えをするとなると、それは決死の覚悟で臨むものでした。つまり山の上には滅多に人が行き交うことがなかったので、空想のドラゴンやお伽話の魔法使いが住んでいてもおかしくないと言われたのでしょう(そう言われても嘘か本当か確かめるのが現実的ではない)。
また「雨を降らせる」とか「気候を操る」とか言われるとピンと来る方もいると思いますが、東洋の龍はもっぱらそういうことをする存在で、火よりも水と関連づけられていることの方が多いようです。川の化身なんて言われることもあって、こういう姿はジブリ作品の千と千尋の神隠しに登場したハクという人物のテーマにもなっています。水は高きから低きに流れるとか言う通り、山から人里に向かって川が形成されている様子をじかに確認することが日本では現実的であったので(日本の山でも人死はたくさん出ていますが、山越えに臨めばほぼ間違いなく死ぬと言われるほどではなかったようです)、川の神である龍は山の神もまた兼任することがあり、日本人の昔話的世界観において山と川とは切り離せない親しい関係にあります。というか、ずばり川の中に竜宮城がある(浦島太郎の話に出てくる、海の中にあったというあの竜宮城とほとんど似たようなものです)場合もあります。山の中にあるという鬼の居城もこの竜宮城が零落して悪評に貶められたと考える向きもあり、有名な鬼の祖に龍神が数えられていることもあります(酒呑童子という鬼の祖は伊吹山の神であると言われ、これは素戔嗚尊という英雄に退治された龍神のことだと言われています)。それで「山の気候は変わりやすい」なんて言い回しは日本人がよく口にする言い回しなので、山の神である龍が雨を降らせて川を流すという話はそういう思想が背景にあると思われます。奈良の大神神社に坐す大物主なる神はたいへん好色の蛇神として知られ、イケメンの男性に化けてから人間の女性と夜な夜な逢引をしていたというロマンチックなエピソードがある一方で、機嫌を損ねた時には疫病を流行らせて人を大勢殺したので時の天皇を困らせたとも言われています。この大物主が住むというのも三輪山という名山で、奈良のその周辺は川と山とに囲まれた肥沃な土地であったと言われています。今でも風景が綺麗なので、近くに住んでいるなら見に行くのも悪くないと思います。話が脱線しましたが、疫病が流行るというのはいろいろ理由がありますけど、川の氾濫といった水害が原因でも発生します。川から水が溢れて街が水に浸かると、下水道という設備がなかった昔はトイレの汚物が街中にぶちまけられるというのも珍しくなく、川の底のかき混ぜられた汚泥と一緒に環境を汚染するのでたいへん不衛生でした。なので的確に対策をこうじなければそこからあっという間に病気が流行り始めるのです。川が溢れると畑がダメになって作物…つまり食べ物もとれなくなるので、飢えて体が弱り病気になりやすくなるというのもあります。川がなければ水を畑や田んぼに引くことが難しく農業が瀕するので全く無いというのは困りますが、川が溢れ出しても人間は困るのですね。なので川と龍が縁深い日本では、川の工事(水害対策)に従事していたと言われる仏教の僧侶が悪さをする龍神をこらしめて改心させるなんて話も結構あります。西洋における聖ジョージやジークフリートなんかが、日本においては偉いお坊さんになってしまう訳です。すこしがっかりするような話ですね。そういったように、悪者のイメージが根強い西洋のドラゴンに対して、日本の龍というのは非常に気まぐれな存在で善悪両方の属性を持ちます。人間を助けることがあれば人間を脅かすこともあるし、人間に助けられることもあれば人間に倒されることもある。ところで東洋の龍という括りでいうとそもそも「龍」という漢字と考え方自体は大昔の中国にあったというたいへん豊かで大きな国からやってきたとも言われますが、中国文明は三大文明が一つ黄河文明と数えられている通り黄河という大きな川が育てた土地を耕して発展していったので、そりゃあもう川の整備には手を焼かされたそうです。大洪水で国中が水浸しになってみんなが困ったので、見かねた仙人が龍に乗って山から降りてきて洪水を治めたのでたいへん感謝され、皇帝の座についたという伝説もあるくらいです。というか、日本の坊さんがどこで川の整備技術を学んだかと言われれば当時の中国で学んできました。もっと正確に言えば、治水技術に秀でた仏教の僧侶が日本に布教するのにやってきて広まったのです。ユーラシア大陸から、「龍」という漢字や東洋龍のイメージと一緒に、「龍」と形容されるほどの荒れた川を治める技術もやってきたのです。お互い川を見ながら川の周辺で農業やって生活してきた民族なので、当時から生活風景がそこそこ似通っていたのでしょう。なので龍神は今日に至るまで日本の思想世界に受け入れられ親しまれ、日本独自の派生も見られるほどになりました。
誰かの空想からはじまった存在が、国を渡って話されどんどん遠くまで伝わって、その国でしか見られない風景や生き物の姿を継ぎ足して、そこに住む人々の固有の文化におさまっていく様子を前から後ろへと辿ってみるのは大変面白い娯楽でありました。今回は特にドラゴンについて言及しましたが、とてもキメラテックな話だったでしょう? キメラテックなのもたまには悪くないという気持ちに僕はなってきました。
更なる余談ですが、東洋の龍の「胴体が長く、翼を持たず、身体をくねくねさせて空を飛ぶ」イメージ(アニメ日本昔話のオープニングのようなやつです)なんですが、胴体のところは蛇をモチーフにしてあるのは一目瞭然ですよね。完全なる受け売りなんですが、この龍の顔の部分は馬をモチーフにしているという説があるそうです(髭があるところとか)。確か神武天皇だったと思うんですが、彼の皇が長旅をされた時に愛馬に水を飲ませようと泉に立ち寄って、その時誤って剣でその馬の首を切り落としてしまったそうです。自分が殺された側なのに、自分が死んで大泣きして悲しむ皇の姿をあまりにも気の毒に思った馬は、首だけで泉の中を泳ぎ始めてやがて馬のような顔を持つ魚になった、なんて伝説があります。空を泳ぐ龍が馬の首を持つ一方で、馬の首が泳ぎ出して魚になったという伝説もあるのは面白く、たまに関連づけて語りたくなります。ただ学問的な裏付けのないこじつけなので、こういう笑い話の場でしか言及しないことにしています。
ここまで読んでいただいた方がいらっしゃるなら、たいへん貴重なお時間をいただきました。あなたに御礼さしあげます。ありがとうございました。
(追伸、語り口調で一行が長かったり、誤字脱字が多くて申し訳ありませんでした。ちゃんと推敲する習慣をつけようと思います。重ねて、ここまで読んでいただきありがとうございました。)
新しいポケモンの化石ポケモンが話題になっていて、ずばりギリシャ神話のキマイラのことではなくて、普段からよく話題になる想像上の生き物で「複数の動物の特徴を掛け合わせているやつがいたなぁ」って思ったりしてたんですよ。
そいつ「ドラゴン」とか「龍」とかいう呼び名でよばれているんですけど。
個人的な分類なのでそれが常識ということは全然ないので構えずに聞いていただければ幸いなんですが、ドラゴンって呼ぶ時は西洋伝承の竜、「龍」って呼ぶ時は東洋伝承のリュウを意識しています。西洋伝承との比較の話題のときにはわざわざ東洋龍をドラゴンとかよんだりして自分からルールを破るので、本当にそこは私事ですよね。
ちょっと前にNHKの特集でドラゴン伝説に関する番組があったりしたんです。
テロップに「人類学者」「歴史学者」「宗教学者」って表示される人の他には、古生物学者さんとか比較生物学者さん、気象学者さんなんかもコメントしていたのが印象に残ってます。あと世間話でドラゴンって話題に出すときには、地理学を勉強している知人と話していることが個人的に多かったりもしますね。結構、色んな分野からドラゴン伝承というものを話題にすることができるってのは面白いなと思います。
古生物学的な知見から語るドラゴンとはずばり恐竜の化石の話でした。僕たちの世代ともなると人間何人ぶんくらいの恐竜の化石が見つかったとして、それは人類が成立する前の時代の、大昔の生き物の痕跡であって「こんな生き物がいまも生きて闊歩している」とは咄嗟にも思わない訳ですが、それは今日に至るまでの研究成果とそれを知識として普及できる教育の賜物であって、それがなかった時代の人たちはそうは思えなかったって話です。
番組ではルーマニアで有名な翼竜の化石が見つかっていると言及されていましたが、ルーマニアはドラキュラ伝承の元になったヴラド・ドラクル公の故郷ですよね。「ドラクル」という別名は彼の自称で「悪魔の子」って意味だとよく言われますが、本当は「竜の子」とかそういう自称だそうです。言語には明るくないのでもっと正確な意訳ができず恐縮でありますが、無知の身上なので「音が似てますもんね」とか言います。どうしてそれが「悪魔の子」だなんて受け取られ方をしたかと言えば後述したいと思いますが「ドラゴンは当時の人々にとっておそろしい敵役で、悪魔に連なるキャラクター」だったからです。竜の子なんて自称するのはその宗教的事情を考慮するならば自ら悪魔の敵役を名乗る型破りなことだった訳ですね。かなり話が脱線しましたが、竜の子ヴラドの伝説的な話が根付くルーマニアで、空を飛ぶ恐竜の化石が見つかっているという話がなんだか面白いなと僕は思う訳です。「無関係とは言えないだろう」とか僕なら思っちゃうし言いたいですし、当時の文献記録に化石の発掘らしき出来事の記述とかあるならそれは想像が捗るので素敵な話だと思います。
比較生物学的な見地からはいまも生きている生き物、特に蛇が槍玉に挙がっていました。ずばりって感じがします。番組では「何故ドラゴンは火を吐く?」という疑問に対して、蛇がちろちろと舌を出す様子に触れつつ、この蛇の習性が「誤った情報伝達の仕方をして」ドラゴンに火を吐かせるようにしたのではないかという話をしていたのでこれが面白かったですね。
まずドラゴンという想像上の生き物が成立する。次に「ドラゴンは想像上の生き物で、実物を人前に持ってきて伝えることができないから」人間は想像を絵に描いて伝えようとします。この間に、ドラゴンというのは実在しない生物なので、かわりに実在する他の生き物の特徴を取り込んでイラストとして出力されてしまう訳です。無いものを描くことはできないので、かわりに実際に有るものの特徴を代用して想像を膨らませていく。会話で比喩表現を使うようなもんですよね、「奴は蛇のようにずる賢い性格なんだ」とか「鳩が鉄砲で撃たれたような顔してるぜ」とか。
それで番組に出てきた絵なんですけど、たぶん火を吐いてなかったんですよ。イラストの横に難しいラテン語でびっしり説明文書かれていましたが、「これは火を吐いている絵ではなく、蛇のように舌をちろちろさせているドラゴンのイラストです」って言われたら僕はそれで納得してしまいます。そんな絵でした。
ところで遠い土地に住んでいる人に自分の描いた絵はこういうものだと事細かく説明できますか? 僕はそういうのが得意ではないので、しばしば伝言ゲームみたいになっちゃうんですよ。これが誰もが当たり前にまだラテン語を読めなかった時代で、聖書の記述すら読み書きの技術を持つ教会の神父様に読み聞かせていただかなればならなかった時代となると、もっと大変だったと思います。もちろん、そういう誤解が広がらない為にバチカンの偉い司祭様たちは色んな対策を立てたと思いますが、果たして「悪魔の姿形まで全員の意見を一致させようと手を回す余裕があったのか」はわかりません。イラストというのは文字や言葉より強烈です、写真の無かった時代ならそれは写真の代わりすらつとまったほどに。それでもやはり限界はありますよね。実際にあるものを観察して正確に描いたものなら兎も角、空想の風景を自分が見たことのある風景に喩えながら暗中模索で描きあげたらしいドラゴンのイラストですから尚更。もちろんそれを見せる相手が目の前にいたなら言葉にして説明できたでしょうが、その絵が本に載って遠い土地にいる人たちの手に渡った時、そして彼らが字を読み書きできないとかそもそも違う言葉を喋っている人たちだったりしたら、蛇の舌の絵が火を吐いているように受け取られたりしても即座に訂正したりできないのでそのまま広がってしまいますよね。
ここでちょっと本旨に触れていますが、空想上の生き物は実際にはいないのでそれが絵や銅像といった形にされる際、実在する動物の特徴をつぎはぎにして成立する時がある、というのが比較生物学的な知見で言いたかったことであるように思います。
恐竜の化石にしたって、伝説に語られるファブニールやヒドラそのものにしか見えない代物が発掘されている訳じゃありませんから。そもそも恐竜の化石から想定した想像図が最近すこしずつ変わっているらしくて、僕が映画で見たティラノサウルスはコモドドラゴンじみた堅そうなウロコに覆われた姿でしたが、いまは鳥のように羽毛が生えていたのではないかと言われているそうです。ここはもう少し言及すると、恐竜の末裔はいまも空を飛んでいる鳥、特に渡り鳥である、なんて話にも波及していきそうですが、僕はそのへん浅学なので触るだけで容赦していただきたく思います。
最後に歴史学、人類学、宗教学、あとすごく恐縮なんですが地理学から見たドラゴンの話をしたいな、と思います。ここがすごく自分が興味ある分野になるので話が長くなりそうなんですが、そのほとんどが他の人からの受け売りの知識・聞きかじりの知識であることを先に明言してから話したいと思います。この話を僕にしてくださった皆様に限りない御礼と尊敬を。
まず、先程までドラゴンが火を吐くのは、蛇の舌の特徴を取り込んで描いた想像図を見た別の人が、その絵の様子を「火を吐いている」と誤解して広がったからではないのか、と話題にしていました。さらにここを掘り下げて「何故火を吐いている姿に見えた(誤解した)んだろう?」という話をしようかと思います。
ドラクル公の話にも戻りますが、西洋ドラゴンは悪魔に連なる存在であり、人々にとっておそろしい敵役だったと言います。これは特に難しい理由がある訳ではなくて、人間より大きく、翼を持っていたり、人間の頭を咥え込める大きな口にずらりと牙が並んでいたり、ずばり「人間に噛みついて攻撃してくる蛇という生き物が人間よりでかかったら食べられそうで怖い」という恐怖心が、当時の宗教的道徳観で形成されている独特の恐怖心とつよく結びついた結果だと思います。恐竜は人間を食べそうだから怖い、ドラゴンは人間を食べるから怖い、悪魔は地獄にいて人間に悪いことをするから怖い、というのが全部同じ話になってしまった時、「ドラゴンは悪魔の手先である」という話になるんですね。そこにバチカンの神父様まで話を合わせはじめるともう誰も待ったをかける人間がいなくなる。恐怖とは使い方があるのです。「食べ物を粗末にすると目が潰れるからしてはいけない」なんて言い回しが日本にはありますが、本当にそうなのか?といえば絶対にそんなことないですよね。それが本当の話になってしまうと、目が見えない障がいと向き合って生きている人たちはみんな「食べ物を粗末にした」罰でそうなったという理屈が通じてしまうので大変失礼な話になります。ぶっちゃけこの言い回し、嘘か本当かで言えば嘘の話ですよね。でもいま食卓に並んでいる食べ物を、少なくないお金を支払い、少なくない労力を駆使して調理し、なんとか苦労して食卓に提供し続けている親からすれば、それを子供に台無しにされるのはひどくつらいことであるしその悪癖を矯正しないまま大人になっても子供のためにはならないからなんとかやめさせたいと思うのは当然なわけです。しかし、突然の家庭不景気に陥れば金銭交換ままならず明日にでもご飯が食べられなくなるという話を、お金の単位すら知らない無知の子供に納得してもらうまで言い聞かせるのは大変な交渉スキルと言語センスを必要とされます。これが「何故人が人を殺してはいけないのか?」「何故人が人から物を強奪してはいけないのか?」というレベルから説明しなければならないとなれば途方もない気分になってきますよね。なのでそれを説明する側は、悪いことをしてはならないという理由として「悪いことをすれば怖い目に遭う」と方便…つまり一種の嘘を用いるという苦肉の策を導入することにしました。これが日本で言えば「目が潰れる」とか「人攫いにあう」とかで、キリスト教が国教である場所では「悪いことをすれば悪魔のいる地獄に落ちるぞ」とか言われるようになる訳です。ドラゴンに食べられるのは誰だって嫌ですよね、僕はジュラシックパークでティラノサウルスに食べられるレベルから嫌ですしサメだって怖いですから、悪行に対する応報としての悪魔、地獄で罪人を責め苛む悪魔がドラゴンを操るなら当時の人たちにとって2倍の怖さになる訳で、時の宗教家たちはおそろしいドラゴンを悪魔に与えることでみんなが神の御言葉をもっと信じて慎ましく穏やかに生活する世界(=悪人が悪魔とドラゴンをおそれて悪行を思いとどまったり、間違えてからでもそれを悪いことだったと反省して償いをする世界)が形成されることを期待したわけです。なので実は違う種類の複数の恐怖が、宗教道徳という枠組みの中で融合するのは全然難しい話ではないってことですね。ドラゴンが英雄に退治される話が多いのも似たような理由です。人間の勇者が悪いドラゴンを退治して財宝と美しい伴侶を獲得して幸せに暮らす…というのは敵が強いぶん本当にそれを乗り越えられるならば素晴らしい成功であるように思える訳ですね。実際に、ドラゴン退治の伝説は宗教に組み込まれた結果、聖ジョージのドラゴン退治など、有名な宗教説話としてたくさんの人々に親しまれています。強いドラゴンが悪であったほうが都合がよかった時代や場所があったということです。
この長い前提があって、ドラゴンが火を吐く話が続きます。まず多くの宗教において死者の国・地獄とは地下世界に想定されます。そして程度の差はあれど、地獄とは炎の世界で、罪をおかして死んだ者はその炎に焼かれてずっと苦しむと説かれます。これはキリスト教も例外ではないというか、悪魔が住む地獄とはその典型例であるように思いますね。何故地獄が燃えているかと言えば、人間が火に焼かれる痛みを強烈に忌避する話の他に、古い時代の街並みが火災に弱いというのが挙げられます。日本でも江戸時代の平屋づくりなんか想像してくだされば分かりますが、木材を含む家屋が道の両脇にずらりと並んでいるのは火災に脆弱なんですよ。火災の真の恐ろしさとは「燃え移る」「燃え広がる」ことです。デマゴーグが人々の間であっという間に拡散して個人の名誉毀損の度合いがもう取り返しがつかなくなってしまう様子を「燎原の火」などと喩えますが、あれは草原に火を放つと一瞬で更地になるほどの規模の火災になることのようだと言っています。この草が家に置き換わったようなことが頻発しやすい都市計画というのが密集した家屋群にあたります。隣の家同士の距離が近ければ近いほど深刻だという認識で間違いないと言えます。対岸の火事なんて言い回しもあるんですが、実は一つの川を挟んだ対岸で火事が起こっているとしても、風向きと風速次第では火の粉が飛び火してきて火事になることも珍しくないらしいです。キリスト教の地獄の話をしているのでその圏内にある国の歴史を話題にするなら、ロンドンのテムズ川を挟んだ両岸の街々が飛び火が原因の大火事の被害に見舞われたことがあるそうです(これはNHKのドラゴン特集の受け売りです)。時代が昔に遡れば遡るほど消火技術というのが未熟なので、燃え盛る地獄のイメージが成立したほどの大昔となると一度家に火がつけば街一つ灰になるのも特に珍しくなくて、それが冬越し前ともなれば家の壁と屋根なしで厳しいヨーロッパの冬を耐えなければなりません。みじめなんてものではなくて、死にます。火事から助かったとしても家も財産も食べ物も燃えてしまっていて、最悪の場合助けてくれる隣人の家まで飛び火で火事になってて誰も助ける余裕なんかないとなれば、そういうのを「地獄のような風景だ」と言うのでしょう。これを避ける為に毎晩高台に見張りを立てるなどの習慣が根づいたそうです。ファンタジーでやぐらに立つ見張りといえば敵国の侵略者を瀬戸際で発見するだとか怪物が村や街に侵入しないようにする為だとかいうイメージで、もちろんそういう意味での見張りもありますが、一番怖かったのは火事だそうです。というか、敵国の兵士に火付けされることだってあります。火攻めとか言われる戦法で、この場合は侵略者と火事が同時にやってきます。侵略者は火で街の財産がすべて灰になる前に大急ぎで火事場泥棒をはたらくので容赦する時間的余裕はありませんし、火をつけられた街の住人だって火に焼かれるか人に殺されるかの極限状態ですから狂乱しています。ただの火事より、もっと大勢が死ぬでしょう。侵略者はまさに地獄からやってきた悪魔や化け物に見えたでしょうね。そうやって実際にあった大火災の惨事の記憶が、架空の風景である地獄のイメージを補強して、いまの地獄絵図というものがあるそうです。だから「悪魔の手先であるドラゴンが火を吐く(操る)のは当然だ。地獄からやってきたのだから」と言われれば、なんだかすごく話の筋が通っているように思いませんかね?
その上で更に別の解釈を交えます。地獄は地下世界にあると先述しましたが、地下にあると言えば何を想像するでしょうか。道具や芸術品の材料や貴重品そのものとして今でも生活の身近にある鉱石や宝石も地面の下から採掘される資源です。しばしばドラゴンは財宝と関連づけられることを思い出させられますね。化石も地下から現れることが多いです。ドラゴンが地獄に住まう悪魔のペットであることと、ドラゴンのイメージを形成するのにひと役買ったらしい恐竜の化石とがつよく関連づけられるような気がしますね。それで、マグマも地下には流れていますね? マグマによる火災被害、つまり火山の噴火というのはそれほど頻繁に起こる訳ではありません。少なくとも、毎日地球のどこでも火山が噴火しているともなれば人間の生存圏はもっと狭くて、地球は人間には住みづらい星だったでしょう。将来的にそうなるかもしれませんけどね。それはそれとして、噴火は頻繁に起こらないので毎日人間がマグマに殺されているというほどではないと思いますが、それ故に今でも予測して対策が立てづらく一度起こってしまえばおそろしい被害規模となる天災でもある。邦画にもなった漫画テルマエロマエの舞台くらい昔のローマにおいては、伝説的な火山の噴火によって当時の大国が大打撃を受けたらしい…そしてそれはただの伝説という訳ではなく、地質学や考古学的な研究からも実際に大災害が起こっているという史実的な話だそうです。ところでテルマエロマエという作品に触れましたが、これはお風呂をテーマにした漫画です。日本でも観光地各地が抱える温泉施設というのは間欠泉という自然現象を利用したお風呂であることは周知ですね。この間欠泉…温泉というのが、地下の水源がマグマによってあたためられて地表に噴き出す現象で、多くの温泉はそのまま人間が入浴するには適さないほど高熱だったりします、死ぬような大火傷を負うほど熱いこともあります(程度の差はあり、中には最適な Permalink | 記事への反応(1) | 14:56