はてなキーワード: 生態学とは
雨で急流にもまれて流されていく側溝のカエルを助ける方法について、同じこと小学生の頃に考えて同じように夏休みの自由研究にした。
試した材料は、シュロ、藁の束、細く裂いたスポンジなどを使って実験した。
ショボかったけど機械工作で定期的にゆっくり陸地に上がるようなものも作った。
カエルの自発的な運動に頼るべきで、その際にはどのようにするのがいいのか仮説も立てて今後の研究の余地を示した。
正確な生存率は導きだせなかったけど、カエルがいることで田畑の生態環境にどのような変化があるのかを調べた。
その時の教師に言われたことを今でも覚えてる。
「こんなの研究でもなんでもない。遊んでただけじゃない。夏休み何してたの?」ってね。
その年の自由研究の優秀作品は、女の子が描いた水彩画の「絵日記」だった。
親だって周りの親族だって「あいつはカエルが好きなんだな」程度の認識しかなかった。
カエルが流されるのを可哀そうだといっても、感受性が豊なのね程度だった。
大学生の頃に生態学の研究で同じようなことをやったら田んぼのおっさんに叱られた。
不審者なんだとさ。
世の中そんなもんですわ。
追記
みなさんが生きていく上できっと袖振り合わすこともないであろう「側溝の中の人」について紹介しておくよ!
例えば「全国小動物保護側溝研究会」とか知ってもらえればうれしく思います。
こういう側溝に落ちる動物なんかを研究しているところは結構あるので、ぜひ覗いてください。
ちなみに僕は「全国小動物保護側溝研究会」の中の人ではないので悪しからず。
さて、特定される可能性もあるからかなり端を折ったけど、小学校の研究について少し補足しておくよ。
身バレするかもだけど、そうなったら余生をひっそりと側溝で暮らします。
カエルに注目していたけれど、側溝で流されるのはカエルだけではないことが分かった。
流されてきたものを挙げれば、昆虫などが一番多く、次いでモグラなどの小動物が多かった。
側溝の15cmの水深で溺死する人もいるくらいなわけで、雨水を流す側溝はなめたらダメだ。
そして意外にカエルは途中でどうにかしてた。
落ちた動物での死亡率で言えば、モグラなどの小型哺乳類はほぼ100%に近い値で死に至っている。
カエルやヘビの類は結構自力で何とかするから案外側溝に落ちた場合の死亡率は低いというのはわかった。
(あの時、実験のために側溝に落としたヘビさん、ごめんなさい)
したがって、カエルだけを救済するような道具では生態系のレベルでみたら「ほぼ役に立たない」というのが結論だった。
小学生の頃に示した研究の余地は「モグラなどの小動物はカエルだけに着目した道具では助からない。
生態系という広い目で見た場合には側溝の構造そのものを変える必要がある(くぼみを作って水が滞留する場所を作るなど)」といった感じ。
先生は、この「ほぼ役に立たない」という結果と「側溝の構造そのものを変える必要」という提示に対して「こんなの研究じゃない」と判断したんだと思う。
思うに、結果は必ず成功したものに限った話じゃなくて失敗だって研究結果なんじゃないのかと。
こういう失敗があるからこそ、同じようにカエルを救ってやろうとした人間が、僕のような失敗例から学んで側溝がブラッシュアップされていくんじゃないのかと。
底生生物(ていせいせいぶつ)とは水域に生息する生物の中でも基質に生息する生物の総称でありベントス(Benthos)ともいう。
生態学ではこのベントスという語を使用するほうが一般的である。
この場合の底質とは水域の底に当たる岩石や砂地、泥地からコンクリートなどの人工建造物によって形成されている底及び
そこに付着する海藻やサンゴのような固着生物などの生物も含む。
したがって、底生生物は、水底の岩、砂、泥にすむもの、及びそこに生活するサンゴや海藻などにすむものをも含む。
底生生物 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%95%E7%94%9F%E7%94%9F%E7%89%A9
http://www.yomiuri.co.jp/matome/archive/20150831-OYT8T50095.html
「あまりぜいたくは言わないけど、できれば20代後半の女性がいい」(40歳男性)
うわぁ…
うん、勿論夢見るのは自由だと思うよ。
同世代の女としてはこういうのに寄って来られたくないからどうぞどうぞそのまま二十代を狙い続けてくださいって思う。
だけど「ぜいたくは言わないけど」はねーだろ…40代が20代を狙うって事が既に物凄い高望みだって自覚がないのは怖過ぎる。
(複合遺産:文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるもの。)
(1) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
(2) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
分からん。
(3) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスだ!!なんせうんこが出るんだからな!!アナルは日々進化している!!
(4) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。
アナルは芸術だーー!!逆さに盛り上がったアナルは人類の創造的才能を表現している!!
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
建築物とかではないな。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
知らん。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
関係なさそうだ。
(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
これも関係ない。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
顕著で普遍的なアナル思想、アナル信仰だ!!さらにAVという芸術作品と直接関連している!!
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
花粉症が嫌だから、杉や檜を切って、日本本来の植生に戻せばいいっていう人がいるんだけど、
まぁかくいう私も花粉症なんでね。
気持ちも分からんでもないけど、
そういうこと言っちゃう発想って、杉や檜しか植えなかった我々の先人の馬鹿どもと同じレベルの発想なんで、
ジョークでも気をつけてねという真面目な気持ち。
まぁ大学では環境問題が専門でやってたんで、こういう短絡的考え方を見過ごせないんですがね。
切ると更地になるけど、植生が回復するには最低でも50年くらいはかかるが、
その間以前の植生が担ってきた水源涵養機能はどうするか?
埋める?どこに?
みんな大好きフェルミ推定ですよ。
みんながイメージする広葉樹林って、実は人が管理してるからこそできている植生なのですが、
林業従事者やそういう植生のそばに住む人って過疎で少なくなってるよね。
つまり、管理するコストが払えない社会的状況にあるわけだけど、どうする?
っていうね。結論として、われわれは腐海とともに生きるしかないんですよ。
科学的な下地のない短絡的な感想はともすると害悪しかないことを学生時代に嫌というほど学んだので、
ついこういう話には突っかかっちゃうんですが、
すいません。結論から言うと生態学学んで出直してきてください。もしくは、花粉とともに生きよう。
まぁ細かいとこ間違ってるかもしれないけど、
言いたかったことは、そんなに単純じゃないよっていうこと。
もし、ちゃんと考えた方法があるなら議論したいですね。
別のタイトルを考えていたけど、文字数オーバーだったから釣りっぽくこっちに。
さて、つい今し方、「 議論するならTwitterより2ちゃんねるのほうが向いている - A Successful Failure」というエントリを見たのでその反論。
http://d.hatena.ne.jp/LM-7/20100825/1282742633
まずこの方の意見をまとめると
つぶやきツールとして設計されたTwitterはそもそも議論に向いていない。議論は分散しがちで、2ちゃんねるに比べて知の集積の効率は悪い。
ということらしいけど、その結論に誤りがあるのはそれぞれのアーキテクチャに対する認識が甘すぎることによる。
上の人はスレッドが1000レスで打ち切られることを重く見ているようだけど、そのことは本質にはまったく関係がない。
一番重要なのはいうまでもなく、議論の性質である。
2ちゃんねるは完全に匿名であり、場合によってはIDすら表示されないことがある。当然それぞれの書き手のバックグラウンドは互いにはわからない。
J.スロウィッキーはかつて「集合知が発生するためには、意見の多様性、独立性、分散性、集約性の四つの要件が満たされる必要がある。」と書いた。
つまり、不特定多数が意見を言い合う場を有意義なものとするためには、これら四つが必要である。が、2ちゃんねるにおいてはそれらが充分に確保されていない。
一つずつ見ていこう。
2ちゃんねるは匿名であるがゆえに自由に意見を提示できると思われがちだが、実際には見えない大きな力に左右されていることが多い。
上の人の紹介する『アーキテクチャの生態学』にも書かれてあるとおり、2ちゃんねるは集団主義/安心社会型のソーシャルウェアである。それが個人主義/信頼社会型である欧米で2ちゃんねるのような匿名掲示板が流行しないゆえんであろう。
歴史的に見れば、2ちゃんねるは匿名であるがためにお互い空気を読みあって秩序を保っていく必要があった。そのために、AAやコピペ等の内輪の文化を醸成させ一体感を求め、部外者を排除してきた。
このような文化的背景と匿名という性質からは突出したオリジナリティーは出しにくく、自然とプレイヤーは均一化されるため、多様性が認められることは少ない。
これも2ちゃんねるの集団的性質に依拠する。2ちゃんねるは個をエンパワーメントさせるものではなく、むしろ発言者を反撃不可能な安全地帯の中に埋没させる。
そこでは見えない多数派の意見が支配的となり、少数派はその渦の中に巻き込まれ、自らも多数派の意見に同調するかもしくはその場を去ることを余儀なくされることになる。
例えば、「ニュース速報」板においては、斜に構えた反社会的な意見が多数派とされる。そこで社会経験の豊富な大人がまっとうな意見を書き込んだとしても、そんな豆粒のような匿名の書き込みは大きな流れの中ではまったく注意を喚起しない。
繰り返すが、匿名掲示板は個人が主張を行うためのものではない。
ネットの性質上、プレイヤーはそれぞれまったく異なる環境に身を置いているため、分散性は確保されていると言えるかも知れない。
ただ、それにより意見が対立した場合は、支持者とアンチというように単純に二極化され、無意味なレッテル張りと根拠のない中傷により議論はさながら罵倒合戦の様相を呈すことになる。
意見の集約に関してはいわゆる「コピペブログ」であるとかスレ冒頭のテンプレなどが存在しているが、それらの書き込みはいうまでもなくある個人によって我田引水な思考によって選抜されており、その者の主張を多数の意見の引用によって代弁させているにすぎない。
また、そういった悪意がなかったにせよ、少数派の意見が吟味されることは稀であり、多数派の意見を流れに沿ってまとめているだけに過ぎない。
このように、2ちゃんねるはそのアーキテクチャ上の制約により到底自由闊達な意見の場であるとは言えない。
このアーキテクチャにおいて、議論は不可能だ。そのために2ちゃんねるが時代遅れになっているのは否めないが、断続的に情報が提供されている事に関しては充分に利用価値がある。
実際にコピペブログを閲覧するにしても、ニュース系やアニメ・ゲーム感想系の「議論によって充分に洗練されていない素人的で極端」な“意見”は毛ほども参考にならないが、VIPや専門板の豆知識には膝を打つことも多い。
本来的には「つぶやきツールとして設計されたTwitter」は議論に向いていない。
けれど、日本で使用されているtwitterは本国のそれとは異なっている。
周知の通り、同じ140字の文字でも日本語では英語に対して2から3倍の内容を詰め込むことができる。アメリカではマイクロブログとしての利用が主だが、日本では一つ一つがブログエントリそのものである。
多くの人が一つないし二つのツイートでその主張を完結させている。
そしてそれに対してリプライすることで相互のコミュニケーションは可能となる。
ネットの利点と言えば不特定多数の人とコンタクトできることであるが、人間の脳リソースには限界があり、数百人に及ぶ意見を公平に処理することはできない。
ぶっちゃけて言えば、多くの人の意見は取るに足らない。集合知を発生させるために多くの意見を集約させ平均化させることができればそれが理想だが現実には不可能だ。有意義に議論するためには発信者側がその反論者を取捨選択しなければならない。
そのため、過去の発言をさかのぼって優秀な書き手を選び取れるブログやtwitterに勝るツールはない。
また、同様にハッシュタグを用いて広範な意見を取り入れる必要もない。有識者は同じく前提知識を持つものと生産的な議論を続ければいいし、それがtogetterという形で世に出ることで公共の財産となる。
私は私で、同じレベルの人と有意義に議論することに努めたい。頭のいい人の効率を下げたくないし、馬鹿に重箱の隅をつつかれて妨害されたくもない。
2ちゃんねるのアーキテクチャに支配されている限りは独自性のある意見をいうことはできないので議論には不向き。アトランダムで単体の情報の仕入れ先にすべし。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
数学と物理学を省略したければ,数学を『理学を志す人のための数学入門』とAdvanced Engineering Mathematicsとに,物理を小教程(熱・統計は適当に補う)にしたらよい.
まあどのくらいの数の異所属カップルが誕生するかは別にして,「生命科学専門でもないが理系で化学系の知識があり,生物にもそれなりに好奇心がある」ような人を想定してコンセプトを選択してみようと思う.(彼女を専門に引き込むというよりか自分の興味がこんなことなのだよと紹介する意味で.同じことを彼女にもしてもらうとよいかもしれない.)あくまでコミュニケーションとしてなので,あまり概念中にたくさんの専門用語がでてくることは避けたい.多くて半ダース.あといくら基礎だとはいっても,いきなり宇宙はエネルギーのあり方で生命はその一形式だというそもそも論も避けたい.
彼女は中学の生物は大体覚えているが高校の生物は習っておらず,専門は理論化学よりの有機合成化学の学部生で頭は切れて時々おっちょこちょい,生化学や分子生物学には興味がないわけでない,というきわめて好都合な条件の下紹介すべき十概念を考えてみた.以下の順番はちょっとした思想の配列として少し気を使ったがあからさまにそれを伝えなければいけないほどのものでもない.
まあ,いきなり大御所だがここははずせない.物質科学全盛の時代に生命科学もそこにアクセスする活路を切り開いたということで.ただここであまりの情報の蓄積を彼女にぶつけてしまうとうんざりさせてしまうかもしれない.素材自体が一級なのだから彼女の興味と質問とが誘起されるような語り口がよいと思う.
「生命科学系の学生が考えるに有機化学の学生に受け入れられそうな概念(思い込んでいるだけ.実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど,それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな.
彼女も酵素の構造が機能と密接にかかわっていることは知っているだろうし,それを酵素や分子機械で実現することの面白さをぶつけてみたり,代謝が全体として大きな制御システム回路のようなものになっていことをぶつけてみたり,その中で彼女の生物特有の機構への興味が増せば儲けもの.
iPSはノーベル賞をとるといわれているし鉄板かな.案外作るために必要なことは制限酵素とウイルス遺伝子の挿入が本質でわかりやすく応用可能性も広い.
細胞創造と生命の起源の話はいままでの話よりはコアかなと思う.でも彼女は有機合成が専門だし細胞を合成するという巨大なプロセスに興味をもってくれるかもしれないし,それが一回地球の表面でおこっただろうということはロマンだよな.地雷でもあるかもしれない.
これはもう完全に僕の興味とスケベ心からで,マニアックすぎるかもしれないけれど,これからの生物学の方法としてかなり有力だし,分子数が多い細胞の中の各要素(components: DNA, RNA, Ribosomes, Electrolytes, water, cytoskeleton etc)間の関係性をシステムとして記述することの重要性と難しさとを語ってみたい.もし彼女が難しい素反応がたくさんある合成との類比で興味を抱いてくれるとよいのだけれどあまり深追いはできないな.
そんなに新しくないし,フォンノイマンみたいな人が見たら不動点定理に過ぎないと怒り出すかもしれないが,線形で静的で平衡系が非線形で動的で非平衡の系のちょっとしたヒントになることと分子・細胞・個体・生態のどのレベルでも同じような思考ができるというこれまでの話をちょっと豊かにする意味はある.遺伝子で始まり生態で終わるのも少し対比があってよいかと思う.ただこの話題には全然自信が無いからよければもっとぴったりするものを提案してほしい.
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/world/europe/090924/erp0909241703004-n1.htm
いつも思うんだけど、社会進化論的な誤認しているひとって、ほんと多いよな。
適者生存という事実が存在すると言うことと、個別の適者生存がよいことか、それにどう関与すべきかってことは、全然、別の問題なんだよな。
たしかに、生態学的なエコシステムの場合は、人間が関与しない状態をもって、「正しい」と定義しても、まあ、大過ないかもしれない。
(もっとも、これだって、厳密にはぜんぜんそうはいえないのだが)
自然状態では淘汰されるような種であるということは、それが保護されるべきかどうか、という論点について、少なくともまったく決定的ではない。
だから、生物学的には正論とか書いちゃう人は、根本的に、事実問題とべき論を混同してしまってるんだよな。
まあ、パンダに保護のリソースを優先的にまわすのがいいかどうか、というのは、それはそれとして議論があっていいが。
あと、種の保護は、かわいいとか、愛護とかじゃなくて、絶滅したら取り返しがつかない、というのと、エコロジカルな意味で果たしている役割というのと、それに関連して、種の多様性を環境の変動リスクに対して担保しておく必要性、ということがある。
「自然界で起きている事だからそれが正しい、或いは優れているのだ。よって自然界に存在する行為を為せない人間は劣っていて当然」ってバッカじゃねーの。
動物行動学・行動生態学の発展の中で、子殺しの行動が見直しをされるようになったきっかけは、インドのサルの一種であるハヌマンラングールの例である。
このサルは、成獣の雄が多数の雌の群れをハーレムとして持ち、雌たちとの間で子供を作る。群れで生まれた雌は群れに残るが、雄は群れから出て若い雄の群れを作る。成長した雄はやがてハーレムを持つ雄に攻撃を仕掛け、勝てばハーレムを所有するに至る。この時、群れを乗っ取った雄は、その群れの雌が抱えている乳児を、全て食い殺してしまうというのである。これは突発的、異常などではなく、群れを乗っ取った雄は必ずこうするのだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%AE%BA%E3%81%97
コレを人間社会に当てはめると、結婚する相手に連れ子がいた場合は、その子を殺す事が優れた行為であり、よって連れ子を殺す人間が優れているということになる。
つまり「子孫を残せない方が劣ったマイノリティーなのは必然だよ。生物の種の保存の法則から言えばね。」とかほざく人間は
上のような「連れ子を殺す人間が優れていて、連れ子を殺さない人間は劣っている」という価値観であるわけだ。
じゃあいいです。俺、別に劣っていても、連れ子を殺す事が立派なこと(優れていること)だと思わないので。それは価値観の違いですね。
で、もしこの行為が「優れた行為ではない」と主張するならそれは何故ですか?普通に自然界に存在する行為なのに何故それを否定するんですか?
コレを否定するというのならそれは、自然界にある行為や事象の中から自分の価値観に添った物のみを恣意的に持ち出して、なんだかよく分からない「自然科学」という権威をちらつかせて、自分の価値観を正当化してるだけという事です。そしてそのような言説を撒き散らす人は所詮、自分の価値観を権威にすがることでしか主張、説得することが出来ない怠惰な無知蒙昧の軟弱者だということです。
http://anond.hatelabo.jp/20081223010218
まとめると、前提として、「幼児性愛者と、幼児性愛行為による加害者は全く別物」というごく当然の常識を置いた上で、
a.合意形成した場合の、合意主体間の非対称性の問題と、
c.他のセクシュアリティよりも、性犯罪に至る実質的な危険性が高い
の問題の3つの要因から、ロリコンは他のセクシュアリティとは区別されるべきである。という話な。
性行為そのものに同性愛全般や、異性愛全般よりも、当事者間に非対称性が発生する可能性が高く、それが問題となりうる可能性が高い、というのはその通りだと思う。
ただまあ、ロリコン一般ってもけっこう含意がひろいからある程度、グラデーションなのよね、そこは。
性行為については「被害者」「加害者」のくっきりとした色分けが難しい場合があるからなぁ
a1.相手が性行為について十分な知識と判断能力を持ち、かつ行為を行った相手に対して一定以上の性的欲望を抱いていており、合意した子の場合。(これはOKではないか、と)
a2.相手が性行為について十分な知識と判断能力を持つが、行為を行った相手に対して合意をしていない相手の場合。(これは大人のレイプと同じ扱い)
a3.相手が性行為がどういうことであるのか、理解が中途半端な場合。(いちばん微妙)
a4.相手が性行為の意味を理解していない場合。ただし、被性行為に対して被害者感情を抱かず、実質的な被害(妊娠など)がまったく起こらない子の場合。(これも扱いが微妙)
a5.相手が性行為の意味を理解しておらず、かつ、被性行為に対して被害者感情を抱く、あるいは実質的な被害(妊娠など)が起こる子の場合(これはわかりやすくアウト)
現行の社会通念や、法律との衝突さえなければ、「a1」に関してはOKだと思うけどね。
「a3」「a4」はめんどくさいけど、まあ、グレーだから、黒ということにしたほうがラクなので、1と2の間で、白と黒の境界線を引くのがいいかなぁ。
「現行の法秩序に反する」からダメ、という議論については以下のような反論がありうる。
「現行の社会通念にはまったく反しない(むしろ推奨される)が、現行の法秩序には残念ながら反する」行為があった場合、それは法秩序のほうの変更が要請されると思われ。「法的にまずいから、まずいんだ」式の議論は、個人の利得を考えた上での行動基準としては妥当だと思う。だが、一般論としてそれを言ってしまうと、いかなる悪法もそれが法である以上、それに背く全ての議論がだめだと言うことになってしまうのできまずい。よって、「法に反するから」はそれ単体では責めを追うべき十分な理由とは言えない。
同様に「社会通念に反する」からダメという議論については以下のような反論がありうる。
現行の社会通念に反するとしても、様々なことを鑑みると、社会通念からするとよくないことになってしまうが、社会通念から外れた考え方をしたほうが、意外とみんながみんな幸せになれる解決法に近いもの、というのがある。よって、社会通念に反するから、ということだけでは十分な理由とは言えない。
ただ、もちろん。「十分な理由」ではないだけで、「一定程度、説得的な理由」だとは認められるべきではある。考慮されるべき指摘ではあるが、それで議論をすべて終了させてしまえるほどに強い理由ではない。
まあ、そのことを確認した上で
[a]で確認したグラデーションは、どうやって認定するのか、という問題がある。たとえば、
b1.年齢
b3.周囲の大人10名程度
b6.一般的な知能検定
などが考えられる。いずれか一つかの認定基準だけでは、不完全だと考えられる場合が多い。
(例えば、IQ160で性知識豊富な15歳の女の子が、1年以上悩む期間を与えられた上、あきらかな自発的合意の上で行為に至ったと認められる場合に、子の親が被害届けを出したとき)
現行は、「1:年齢」の基準が適用されているが、
あたりまえだが、年齢という基準だけでは、「a1」「a2」に類する事例も含んでしまうので、現在の法システムはかなり不完全ではある。なので、「ほんとにまずいロリコン」と「別に実質的にたいして問題がないと考えられるロリコン」とがかなりおおざっぱに放り込まれている。よって、「ロリコンは悪いのか」といったとき「ロリコン全般」の問題が迷路に迷い込んでしまう。「現行の法的基準上、問題になってしまう」ということではおそらく、議論が難しい。
わからん。
c1. じゅうぶんに妥当と認められる程度において小児への性的「犯罪」を犯した者の人数 ÷ 一定の小児性愛志向を有する者の全て
c2.じゅうぶんに妥当と認められる程度において同性愛への性的「犯罪」を犯した者の人数 ÷ 一定の同性愛志向を有する者の全て
c3.じゅうぶんに妥当と認められる程度において異性愛への性的「犯罪」を犯した者の人数 ÷ 一定の異性愛志向を有する者の全て
c4.じゅうぶんに妥当と認められる程度において両性愛への性的「犯罪」を犯した者の人数 ÷ 一定の両性愛志向を有する者の全て
c5....じゅうぶんに妥当と認められる程度においてその他の性的「犯罪」を犯した者の人数 ÷ 一定のその他の性的志向を有する者の全て
の割合を比べた場合に、c1が、c2,c3,c4,c5...と比べて有意に高いと言えるのかどうかを調査した研究があればそれに従う。
しかし、グーグル・スカラーでさらっと論文検索してみても、この問題をきちんと正面から調べてるっぽい研究みつからず。
確かに、理屈的に言えば、13歳以下のロリコンの人とかは、13歳以下と行為に直接に及ぶというのが最大の性欲求達成行動にはなる。
しかし、チャイルドポルノ、ロリコン向けエロマンガ等による代理的機能がどの程度でかいかも、わからず。結論:わからない。
よって、たぶん、現在までのところ、「ロリコンが異常で犯罪に及ぶ率が明らかに高いセクシュアリティである」は出ていないと思われる。
あるいは、たとえ、ロリコンが他のセクシュアリティよりも、多少危険だったとしても、
「酔っぱらって、レイプしちゃうオヤジ」とかの危険率を上回るかどうかとかいう議論に応じて、議論にはかなりグラデーションが出るはず。
ということで全体の結論:
改めて議論をまとめると次のようになる、
1.深刻な小児性愛者の一部が、他のセクシュアリティの持ち主よりも、当事者の合意を得ない性行為を行ってしまう可能性はある。だが、そうでない可能性ももちろんある。
2.現在の小児性愛者犯罪を認定する法的基準がじゅうぶんに妥当であるとは言えない可能性がある。
3.小児性愛者は、他のセクシュアリティの持ち主よりも危険であると推測される理由は存在するが、実証的に示しうる根拠はない。
つまり、
小児性愛者が、他のセクシュアリティの持ち主よりも危険である可能性はありうる。
だが、ほんとうに危険かどうかはさっぱりわからないので、それは可能性の議論にすぎない。
小児性愛者を犯罪予備軍として扱うのに十分妥当と言いうるだけの根拠はない。
よって、
小児性愛者を犯罪予備軍として扱うのは早計であるばかりでなく、セクシュアルマイノリティへの妥当ではない社会的差別や抑圧として働く可能性がある。
少なくとも現時点では、小児性愛者全般を、深刻な犯罪を犯す可能性が高い人々だと考えるのは積極的には認められるべきではない。
はあると思う。
ロリコンの人全体が非難されるべきではないけれども、
1.レイプやセクハラが防止されるべきなのと同じ理由で、その運動は妥当な運動である
2.しかも、レイプやセクハラよりも、被害を受ける側がより一方的に無力な被害者となりうる可能性は高い。
なので、レイプやセクハラよりも重点的に行われるに足る理由がある
しかし、
3.子供を性犯罪から守る運動が、小児性愛者を抑圧する形で展開された場合、それは過剰な社会的差別や抑圧として働く可能性がある。
子供を性犯罪から守る運動が、小児性愛者への攻撃として行われているのはなんともなぁ。
この記事では、ロリコン、ペドフィリア、小児性愛者といった用語をあまり厳密に区分して使っていません。すみません。
fromはてブ
「家庭内DVみたいなものとして、ロリコンが問題になりやすい」点も要考慮とのことです。
これは、統計とかで出してくるのが難しいからなぁ…
ただ、これも「ロリコンをセクシュアリティとして禁止すること」によって積極的に解決ができるタイプの問題というよりは、「非公共圏(親密圏)における暴力の解決」という枠組みで処理したほうがいいように思われる。セクシュアリティそのものを抑圧しても、問題が目に見えなくなるだけで被害は増えると思うので。
非公共的な空間における暴力発生メカニズムについては、最近まで積ん読して放置しておいた内藤朝雄の『いじめの社会理論:その生態学的秩序の生成と解体』は評判通りけっこうおもしろかった。でも、どういった介入が効果的か云々って話はむずかしいよなぁ。そこから先は専門家の領域になるんだろうなあ。ただ、「専門家」においても、ロリコンを、セクシュアルマイノリティとして認めるよりも先に、「犯罪者予備軍」的な先入観から入る人が多いから、なんかあんま会話にならない場合とか多いよね。この領域こそ、まさしくフーコー的な話の出番っつーか、いや、まあ専門でやってる人たちはおそらくそこのディスコミュニケーション状況とかにとっくにげんなりしたままはや数年とかっていうような世界なのだろうけれど。漏れも、知り合いの福祉関係の仕事やってる人にロリコン擁護的と受け取られる発言するたびに、白い目で見られるものなぁ。
あと、人に教えてもらったがこのページも問題提起的ですた
http://www7.plala.or.jp/vitamin/p/sub01.htm (昔懐かしの、トップページでいきなり音楽がながれるページなので要注意)
→続き的なエントリを書いたよ。
「ロリコン」の論点整理2
修士にいったきっかけは元増田とほぼ同じ。生き物いじりが大好きだったから。ただ、研究者を一直線に目指したわけではなくて、一般職種にも研究の道にもいけそうな曖昧な選択肢をしていくように意識しました。簡単にいうと食べ物とか産業になりそうな種の研究とかですね。具体的には書けないけど。
でも、4年の研究室選びでつい生き物いじり側を重視した選択、生態学を学ぶ道を選んでしまったので、その時点で一般企業の専門職等の道はほぼ閉ざされました。生態学者になるか、大学でやったこととまったく関係ない一般企業に勤めるか。その時点では公務員は選択肢にありませんでした。なんとなく。
しかし、自分は研究者としての実力も覚悟も研究者として芽がでるまでの耐えられるバイタリティ(経済力)もなかったのでM1の11月くらいから就職活動開始。元増田が思っているとおり、明確なビジョンがないままの就職活動だったのでM2春では無い内定。
秋採用を狙おうと思ったけど、修論の追い込みで忙しくて何もできなかった。できないと言い訳してやらなかった。
このまま惰性でDにいく予感がしていた。Dにいっても研究者はきついので、公務員か自殺か…。
なんて考えていた冬、とある市町村の出先機関で理系修士卒条件の技術職の公募があった。面接のみ。応募者は自分を含めて2名だけ。この時期ならDに行く人以外はみんな内定式も終わってるからね。
面接対策はその市町村の基本的な情報(人口、主産業、問題点など)を調べ、その出先機関に勤める上で、どのようにその市町村に貢献できるかを自分の言葉でまとめたくらい。
そして採用。
現在は地方公務員です。その出先機関では大学で学んでいたことは違いますが、一応、生物を扱った研究ができるところです。
このご時世、かなり幸運な進路だと自分でも思っています。大学の進路情報係にはこのような時季外れな採用情報もあることがあります。そして意外なことにそういう係をとおさずに、大学教授に「いい学生いない?」と聞いてくる機関もけっこうあります。いわゆるコネです。でも忙しい大学教授は「こんな時期にねぇよwww」と情報を握りつぶすパターンがあるのです。
俺のがまさにそうでした。そうなりかけるところでした。このくらいの時期まで内定なしでぶらぶらしていると、自動的にドクターにいくもんだと決めつけてたみたいです。自分のところの教授とは深く交流をもち、採用情報がきたら教えて欲しいと強く表明するべきです。採用情報くれくれオーラを強く出すべきです。そうすると意外と学生の耳に届いていない採用情報が多いことに気がつきます。その中には自分のように幸運な勤め先もあるかもしれないですよ。
資料を整理していたら昔のレポートが出てきた。そこには、「イミフ、意味わからん、まちがい、嘘・・」などと書かれていた。一番印象的なのが、「観念論・現実を見ていない」だった。
そういえば、インターネットやテレビ、本から知識を得ることはあっても、日常生活から何も学んでいなかった。学校と家の往復。家では定期的にRSSや動画を見たり、ネトゲ、読書をしていた。外に出ることはあっても学校と近くのお店だけ。今も昔も現実から離れていたんだなと実感した。
理解できないものを無理やり理解しようとしていたのかもしれない。頭の中ではどんどん抽象化していってわかったつもりになる。いざ文章を書くと、何を指しているのかわからない。
でもわからないな。どうすればよかったんだろう。物理や数学、生態学はわからないと認めればよかったのか。わからないと指摘された場所を改善するように努めればよかったのか。でもどうやって?
ニュースや新聞じゃなくて、現実を見ている人ってどれだけいるんだろうか。現実の体験をもとに考えられる人はどれだけいる? いや、そもそも、座学と実験、家ではネットと読書しかしていなかったから現実を見る機会がなかっただけか。それだったら、どこに行けば現実が見れるんだ? そういえば、石油の価格が上がったといっても、車の免許すら持っていないから実感が沸かなかった。カップ麺の値段が上がったぐらいか。
もっと現実が知りたい。理解できる範囲で知りたい。ということで、身近な出来事から辿って行こう。何かいい方法ないかな。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
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