はてなキーワード: 生存とは
俺が成功者として生きようがお荷物のクズ人間として生きようが、そんなの関係なく人類は発展していくだろ?
だって80億分の一だぜ??
自分の人生を歩むことなんて放り出して、進歩していくものを眺めているだけで満足していたほうが幸せなんじゃないか?
もし眺めている最中に、満足できなくなるくらい看過できない人類の問題を発見した人だけが、動き出せばいいんじゃないか?
現代のほとんどの人はそこまで深刻な差し迫った問題意識を抱くことはないはずだろ?
なのに社会に参加しようとし、苦しみに塗れに行くって変じゃないか?
先人が平和を築き、血族が衣食住の生存環境を与えてくれたのなら、その恩恵に可能な限り浸っていくのはある種の努めじゃないのか?
それとも今がどんな環境であっても後世の人間に同じ苦労、同じ辛酸の味を共有したいと思う人が多いんだろうか?
娘は当然意味を知らなかったし、言ってた大人本人もひょっとすると
知らずに喋ってただけかもしれない。
でも私は、たまたま同人周辺に棲んでたから、『メスガキ』のニュアンスも触れてた。
正直、ため息でしかない。
何の法律にも触れてないし、クレームを入れてもどうしょうもないって諦めてる。
特定の女性に向かって直接「パイスラだ」「エロい」などとは一切言わなくても
女性がそういう目で見られているのは明白だ。
そういう目線が存在すると知っている。だからこそ、生存へのプレッシャーがエグいんよ。
だけど目を背けても、そういう目線が消えて無くなるわけじゃあない。
教員の暴言で不登校→フリースクールに通うように→中学卒業→通信制高校入学→圧倒的に自由な環境で安心して3年間過ごす→卒業→何もできない無気力メンヘラの完成←いまここ
本来は不登校になった時点で死んでたはずなのに、中途半端にフリースクールを見つけてしまったせいで生存してしまった パニック障害もPTSDも躁鬱も治ってないのに学生じゃなくなってしまった
私みたいなどうしようもない人間と関わってくれる友達もできてしまった 死んだら友人が悲しむと理解してしまった 惰性でも生きなきゃいけない
なのに圧迫面接→パニック発作のトラウマで仕事が決められない とかこんなに言い訳してる自分が本当に醜いし愚か やっぱり死んだ方がいいのでは?
「反動」という言葉にはマイナスイメージばかり付くけど、揺り戻しとか修正とか微温的な対応ではなく確固たる意志を持った、批判的意思と抵抗を突き進める立場として私は評価している。
曖昧で定義できず、そしてマイノリティの手そのものからすら離れた、奇妙な概念がすでに十数年も猛威を振るい続けている。
SNS上で過大に増幅され、誰もそれを正確に数値化できず(正確にできないのだから「適量」も当然わからない)、ひたすらポリコレは配慮という贅肉にまみれながら膨れ上がり続けている。
日本より立場の弱いアフリカでもラテンアメリカの各国でも、しっかりと「ポリコレ」に対する大衆の反動は行われ、メディアが奇妙な論理に捉われていないかの「逆・監視」が行われている。日本でもそれは出来るはずだ。
定義も数値化もできないものに対して、我々は卑近な例を挙げるしかない。
我々の生まれ持った素質や外部から定義される優劣を笑いに転換して何が悪いのか?
本当にその芸能人の過去や起した事件は舞台を奪われるに相応しいのか?
なぜ「子ども」が関わると様々な表現が規制されなければならないのか?
アングロサクソン・プロテスタントの一部の道徳基準とその差別の歴史からしか発していない基準をなぜアジアの日本人が採用する必要があるのか?
地上波で裸体が流れてなぜ悪いのか?
芸能人が顔を黒く塗ったとしてそれはWASPのミンストレルショーとは違うものであると何度も説明しているのだが?
そのポリコレを続けたところで、では果していつ、大衆労働者や、地方の人々や、同情されない部類の障害者が尊重される日が来るのか?
その大半の人々の癒しや笑いを不明確に奪い続けてきたのがポリコレではないのか?
上述の通りここでかくポリコレとはとても曖昧なものだ。ブームであり、ムーブメントであり、あるいは野蛮人に対する蒸気機関や機関銃のような物である。
原理はどこかにあるのかもしれないが、それが我々には明かされない。便利なのかもしれないが、ここでは我々を殺す道具にしかなっていない。
そしてそれに対する反発が起きるのは当然である。そして、起きるからには、それこそは明確に「曖昧なものを拒否する。我々は我々の、そしてあなた方より広大な基準がある」というものを示す必要がある。
個別の「昔はよかった論」「弱者男性・女性論」あるいは「不適切にも程がある論」などを乗り越えて、明確な反動を打ち出す必要がある。
そしてそのためには、ポリコレに対する配慮を全く必要としない、確固たる地盤も持つ必要がある。
数ある「炎上」騒動の中でも、自活できる基盤のある会社・個人は、そもそもの圧力を無視するという最高の解決方法を見出せた。これを業界全体、国全体に拡大していく。
そしてポリコレへの反動は大衆やマジョリティのためのものだけではない。マイノリティのためにもなる。例えば障害者も障害者で、「ポリコレ」によって牙を抜かれてきた背景がある。
我々を取り巻いている曖昧な空気を取り払うことによって、始めて、例えば映画館や交通機関における障害者の権利問題も、川崎バス闘争の様に明確に語ることができるようになる。
障害の不便さを笑う芸と、障害者の権利。異性愛であれ同性愛であれそれぞれの機微をポルノに出来る社会と、性的マイノリティ。男女の裸が平然と流れるメディアと、フェミニズム・男女論。それらは同時に生存しているべきだ。それが我々の社会の強さになる。
昨年は2ヶ月の海外出張もあって年収800万頂けてるくらいちゃんと仕事はできるのにずっと独身、「普通の男は結婚してる」の普通からしっかりとあぶれた異常独身男性でござんす。なお最寄りの成城石井までは車で1時間か、電車で40分。とても日常使いには適してない田舎在住。成城石井のターゲットは年収2000万、っていう9割位ウソのアレを見て、成城石井への愛を語りたくなった。
田舎在住なので、休日のショッピングといったら近所のでかいイオンモールに行くとかだ。しかしイオンモールというのは、何でもある。何でもあるが、欲しいものは何一つ見つからない。結局おかしのまちおかでハリボーとプリッツをまとめ買いしておしまいだ。ショッピングというのは、ハレとケで言ったらハレであってほしい。買うものが決まってるショッピングは、普段の生活、ケの買い物となってしまう。生活自体が素晴らしいものであるならば、イオンモールというのは生活を彩る様々なものに一発でアクセスできる、素晴らしい場所なのだろう。しかし、独身でろくでもない自分ときたら、生活は散々やりつくして飽き飽きしている、生命活動を維持するためだけの作業にすぎない。
さて、成城石井だが、私が行ける店舗は小型店だ。もちろん何でもはない。かといって専門店ほどマニアックでディープなものは置いていない。だが欲しいものは最低1つは見つかるのだ。このゲートウェイ性こそが私が好きな成城石井だ。不思議と惹かれる商品がある。試して、十分な体験を得る。そこで満足して安住するもよし、更に深く探求して専門性を向上するもよし。
私は安住の方向に行ったのはスモークチーズ、沼に踏み込んだのはベーコン。どちらも自作するまでは行ったが、チーズはマスプロダクションと最大公約数に勝るものは作れなかった。ベーコンは人の好みがありすぎて、いくらでも手が入る。副産物でスモークチーズも作れる。米国出張中にもベーコンばっかり食べてた。太った。最悪。肉調理の沼はヤバい。肉屋に豚の頬肉取り置きとか頼み始める。家も臭くなる。みんなもやろう。
まあデブの戯言は置いといて、なんかしら欲しいものがあるんですよ成城石井には。
ゲートウェイとしての成城石井をしゃぶりつくしたら、生存への執着が切れているに違いない。そのときまで、楽しい買い物ができる店であってほしい。
ASDとして言うけど、ASDの世界に逆ギレという単語はあまり存在しない。
ASDとしてはその時点でかなり不信感・信頼関係の減衰・不快じゃないかな
感情によって相手を操作したり事実関係より気まずさの解消をコミュニケーションに採用するのは典型的な定型思考すぎるし、ASDの行動としてはかなり不自然なような?
ASDに対して逆ギレという感想を今あなたが持っていること自体がもう既にASDに対する理解のなさ、ASDをとりまく環境の悪さを想像させるかな。
そんな感じだから、蹴らざるをえないほどの状況や憤りを招いているのではないかと
執着の特性があるなら、すぐに病院かカウンセラーに相談して執着の強さを相談してあげてほしい。ただの怠けや不真面目じゃない。
でも本当は執着の強さは、優れた生存能力そのものなので本当なら邪魔せずそのまま残してあげてほしいし社会の方がASDに適応するべきと思ってる。修正させるような定型都合に合わせた定型社会でごめんとせめて謝罪してほしいよね
ASDの感じるプラスの感情はほとんどが作業興奮だし、興味の範囲が極めて狭い。
引き離されるのは自殺を考えるほどにあまりにも辛いんで、元から集中力が限定的で、しょせん集中力じゃなくて他人との愛着形成で飯食ってる定型が、無神経に気軽に邪魔していい話じゃないと思う。
君たち魚じゃないから泳げなくても平気だよね。君たちは泳ぐのを制限されても大したことないでしょ。魚が泳げなくさせられるのは本当に辛いよ。定型だって人から常に嫌われ見下され言葉を制限される呪いをかけられたら死ぬほど辛いんじゃないか?あまりにも他人に対する共感性がないよ
今リバイバル上映中の映画「アイカツ!10th STORY~未来へのSTARWAY~」(以下、アイカツ10th)を見てきたんだけど、昨年公開時よりアイカツおじが減ってて、現役世代、つまりアニメ当時ガチ女児の現JKJD世代ばかりだった
公開当時からアイカツ10thのメッセージはおじたちには殺傷力高いなと思ってたが、、、
そもそも、アイカツのアニメ(以下アニメ版)は2012年10月放送開始で、主人公星宮いちごがトップアイドル神崎美月に憧れて、アイドル学校スターライト学園に入り、仲間たちと切磋琢磨し成長していく話だ
で、アイカツ10thはその約10年後(2023年1月)公開で、アニメ版でユニットを組んでいたメインキャラ3人のいちご・あおい・蘭を中心に、スターライト学園 高等部の卒業を前にした彼女ら18歳の年と、その4年後の22歳の年の、2つの時間軸が描かれる
という感じ
感想に入る前に背景として、アイカツシリーズ全体の根幹を成す概念に「SHINING LINE*」というものがある
これは、「憧れを道しるべに努力で描き、また次に憧れを繋いで紡いでいく軌跡」みたいなもので、
要は、美月に憧れてアイドルになったいちごが努力を重ねトップアイドルになる。さらに、そのいちごに憧れた大空あかり(アニメ版の次の主人公)もまたアイドルになり、努力しトップになる
俺たちアイカツおじは、アイカツ178話を通じて紆余曲折しつつも脈々と築かれてゆくSHINING LINE*に心を震わせ、奪われてきた
ところが、アイカツ10thでは作品を通じて「キミの人生もこのSHINING LINE*なんだよ」と訴えてきている
今の自分は、夢を抱いたころの過去の自分にとっては憧れの存在(スター)で、今は辛くて未来が不安でも、過去から今まで紡いできた軌跡(スターウェイ)は既にあって、これからも自分らしく努力して未来に繋いでいけば大丈夫だよ、それがあなたのSHINING LINE*になるんだよ
もちろん、これは現役世代向けのメッセージだってことは解っている
アニメ版放映当時10歳だった幼女先輩方は、アイカツ10th公開時で20歳になっている。きっとコロナ直撃の高校生活を経て、JDは就活を控えorただ中だったり、高卒就職勢も社会人としてシンドイ時期だろう
そういった子たちには響くと思うし、イチおじとしても頑張っていってほしいと思う(キモくてスマンな)
一方、我々おじたちは、「星宮いちごは俺が育てた」ばりにSHINING LINE*の外側からフアン目線で、なんならいちごちゃんたちの親目線で、彼女らの成長を見守っていたころから10年経った
我々はどう生きてきただろうか
もちろん、努力を積み重ね、10年前の自分に憧れられるような自分になっているおじもいるだろう
今の自分がさほど立派でなくても、着実に、自分なりに人生を歩んできた、自己肯定できるおじもいるだろう
まがりなりにもアイカツを見てきたんだから、いちごちゃんたちに感化され、努力し頑張ってきたアイカツおじはたくさんいると信じたい
でも俺もいい歳なので、そんな人ばかりではないことは知っている
思い通りいかずにクサったやつ、特にやりたいこともなく日々ダラダラ過ごすやつ、現状の文句ばかりで何も行動しないやつ、努力できる環境にもいなかったやつ、……
こんなおっさんらの中にもアイカツおじはいて、アイカツ10thを見た人もいるだろうと思うとツラい気持ちになる
劇場で、あの輝かしいSHINING LINE*をお気楽なフアン目線で久々に見れると思ってたら、「この10年頑張ってきたあなたの人生こそがSHINING LINE*なんだよ」と言われてしまうとは
いちごちゃんにこれまでの己の人生を突きつけられて、無事死亡したおじたちは結構いるのではなかろうか……
成仏してくれることを祈っている
と、昨年公開時に思ってたら、今やってるリバイバル上映ではあからさまにおじ率が低く(N=1だけど)、アイカツおじ達が生きてるか心配になって長文失礼しちゃいました
俺が行ったのがたまたまおじが少なくて、他の回や場所でおじ達が生きてればいいんだけどね
# 2022年に前半上映しとるがな、とか、いちごちゃん3/15生まれなんだから18歳ちゃうやろ、とか、美月さんの前にマスカレードやろがい、とか、あかりちゃんはスターライトクイーンにはなったがトップアイドルか?とか、ツッコミどころは勘弁してな
https://twitter.com/aiaimats/status/1722060414807347466
「昭和生まれの人で、今生存してる人なんていないでしょ?」っていうバス車内で聞いた女子高生の言葉に、じわじわとダメージ食らってる
https://togetter.com/li/1761708
他人との怒りの話題で話が噛み合わないのは、マジでこれが原因だったのよね
ワイの強い怒りの衝動は、相手に謝罪や反省、負の感情を持ってもらうことを求めてはおらず、単純に破壊したいという衝動に基づいている
強い怒りを感じた場合、即座に反撃する。その場で、相手から謝罪を受けても、相手の反省のポーズを見ても、衝動はおさまらない
なぜなら、ワイの行動は破壊したいという衝動に基づいているから
えっ、何?破壊したいってどゆこと?っていうと、そのままだよね
ストレス解消のために皿などを壊したりする、“Rage Room” とか “Break Room” とかのサービスあるじゃん?(日本にも物ぶっ壊し体験としてある模様)
Rage Room
https://en.wikipedia.org/wiki/Rage_room
Rage room | CBC New
ただ、ワイは物や動物に対しては破壊衝動を感じない。『物が可哀想くない?』となったり、『物を作った人に対して悪いことをしている』となるため、物を壊すことに抵抗がある
また、関係のない人に対しても破壊衝動はないが・・・・・・・ーーー直接的な原因となった人や無形のものに対しては純粋に破壊したいと感じる(ホラー)
クソ雑魚ナメクジゆえ、他人に対して物理的な衝動を向けることはないけども、書ける(過去書いちゃった)範囲だと、例えば下記
この強い衝動は、水泳やジョギングをしても収まらず、瞑想や創作、ゲームや映画を楽しむために静かに留まることもできない
場合によっては食事も取れない。そもそも座っていることすら難しく、エネルギーが完全に尽きて眠るまで、対象をどう破壊するか以外にはまったく集中できない
それは1日であるかもしれないし、数週間かもしれない
怒りの対象に対しての目標が単純な破壊であるため、他人の共感を得ることもできない (むしろ、今からそいつを これからそいつを 殴り行こうか〜ってなったら怖いよね)
しかし、この強い衝動に『破壊衝動』というラベルを適用することで、ワイは以下のような認識に至りました:
以上の理由から、破壊衝動に身を任せることは避けるようにしました。万能の解決策ではないけど、多少の効果は感じてる
(そもそも、最近は怒ること殆どないけどね。気張って生きなくなったから)
あと、どんな風に考えようとも、結局、長い時間掛けて認知変えてくしかないな・・・となりました
以下が要約になります。
ある夜、巨大な羅生門の下で一人の下人が雨やみを待っていた。門の上には数多くの死体が放置されており、そこで一人の老婆が死体の髪の毛を抜いているのを目撃する。老婆は死人への復讐が目的だと言うが、下人はその行為を許せず、老婆の着物を剥ぎ取って逃げた。老婆は裸になり、下人の行方を探したがわからなかった。
この物語は、飢餓に喘ぐ平安時代の惨状と、人間の残虐性、生存をかけた行為を描いている。下人は最初は生き残る方法を見つけられずにいたが、老婆の非道な行為を目の当たりにして、自らも非道な行為に走る決意をする。生きるためには時に非道を行わざるを得ない、というテーマが描かれている。