はてなキーワード: 生命力とは
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
書き直し。
ダラダラと、曲への思いを書きました。谷川俊太郎の詩による合唱曲ふたつ…曲:三善晃「生きる」と曲:木下牧子「ネロ」についてのとても個人的な感慨。最初の方、書けなくて意図的に主語を拔いてるので読みにくくてすみません。ていうか、無駄に長いので読まなくていいですごめんなさい。
全部谷川俊太郎って演奏会を明日やるんだけど、中の2曲が自分の経験に強く結びついててちょっとだけ抱えるのがしんどい。
去年の夏、子供の誕生日にお祝いを頂いたのでお礼の電話をした。子供からもお礼を言って、その時に「また遊びに行くね、今家族で音取りしてる曲があるんだ、遊びに行ったらみんなで歌うから聴いてね」なんて言っていた。
数日後、会社で仕事をしていたら人事から電話があった。なんだろうと出てみたら配偶者から代表電話にかかったのを取り次いでくれたのだった。
数日前に電話したばかりなのに、亡くなったのだと聞かされた。家事支援のヘルパーさんが発見してくれたということだった。電話を切ってから自分の携帯を見ると配偶者からたくさん着信があったとわかった。
会社は早退して駆けつけた。
病院ではなく自宅でだったので、そのあと警察署で手続きやら葬儀社の互助会の書類探しやらで、気がついたらその日にあった合唱団の練習は無断欠席していた。
「生きる」だった。
ちゃんと予習してなかったのでぶっつけでの参加だったけど、タイトルからして親しい身内を亡くしたばかりの自分には重そうだなあ、そんなことを思いながら歌い始めた。
うちの団はパート練習はなくて、音取りは自力でできるのが前提なのだけど、実は私にはそこまでの力はない。♯や♭が多くなりリズムが複雑になるとキーボードを叩くのもたどたどしく実用性がない。その代わり楽譜を見ながらの耳コピは割と速いので、既に歌えている周囲を聴きながら声を出していった。
曲は「生きる」。まあ、三善晃だし、ソプラノはそんな難しくはない(難しいけど)。
……谷川俊太郎の詩によって、「生きているということ」がどんなことか、語られていく。
それはのどがかわくということ
木もれ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
孤独を感じる曲に影響されてか、詩の内容が全部亡くなった人を思い出させる。のどの渇きも、木漏れ日の眩しさと、くしゃみが出そうなムズムも、亡くなってしまった人は感じないことだ。だけどほんの少し前には感じていたのだ。あの人も。
くしゃみをすること、手をつなぐこと
と続く。
「くしゃみをすること」までは生きていること一般の話だったのが、急に、自分の手と存命中のあの人の手をつなぐイメージにおそわれて、───しかし私は一度も手をつないだことはなかった、これからも、もう決して手をつなぐことはないのだ……。
これから介護があるのだろうとぼんやり思っていた。長生きの家系だから、私の今後15年程は、あの家で、あの人と身体をふれあわせて暮らすのだろうと思っていた。
そうはならなかった。
寂しがりなところがある人だったから、一緒に住みたいとおそらく願っていたと思う。
そうはならなかった。
私が選ばなかったからだ。選ばないまま、亡くなってしまったからだ。
私は亡くなった人と手をつないだことがない。
曲はまた、「生きるということ」のいろいろな姿を歌っていく。自然や科学や芸術や…歌詩に出てくるミニスカートは何かな、生命力?若々しさ?を歌う。
あの人はもう、新しく美しいものに出会うことはできない。最後の電話で話した、子供たちの歌にも出会ってもらえないままになってしまった。
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこが揺れている、揺れているということ
いま、いまが過ぎてゆくこと
不穏な曲調で産声や兵士の傷が突きつけられ、それをぶらんこの往復運動が包み込み、ただ時間が過ぎる静けさに着地する。
生も死も同じ時間の中にある。
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
生き物の、自然の、あるがままの姿を歌った流れで「人は愛する」なんて、谷川俊太郎ずるいよね。あぁそうなんだと思わされる。
もちろん、愛さない人もいる。羽ばたかない鳥も轟かない海も這わないカタツムリも存在する。けれどできてない個体のことは今は措く。
それができている個体はなんと尊いことか。生きるということの意味を、「人は愛するということ」ととらえられる、かもしれない。もし私が愛さない人間でも、愛する可能性がある希望。
そして曲はまた、
あなたの手の
あなたの手のぬくみ
生きるという生きるということ
「あなたの手」に戻ってきて、命とはなにか、生きるとはなにか問いかけるように終わる。
私が繋がなかった手のぬくみ。
一人暮らしだった家は空き家になった。夏のことで、風を通したり、植木鉢やあとから頂いた供養の花に水やりをしなければならず数日おきに通った。
空き家にはピアノがあり、風通ししている間の時間で音取りをした。難しい音階を苦労して弾いた。
子供が小さい頃みんなで遊びに行くと、いつも初見でなんでも伴奏を弾いてくれたあの人がいたときのままの部屋で。ピアノには練習していたらしい楽譜が開きっぱなしだ。胸が苦しい。
亡くなった直後のショックや悲しみは今は薄れている。
でも練習で歌うたびに、空き家に風通しに行くたびに、拙く練習したのが思い出される。
去年の夏の、古い家特有の湿り気のある空気やあまりワット数の高くない蛍光灯の薄暗さ。
今日はリハーサルで明日が本番だから、終わったらしばらく歌うことはなくなる。
もう去年の夏を思い出すこともなくなるのか、いや曲を聴くたび一生思い出すのか…。
これはまた、ストレートな死の歌で、主人公の「ぼく」が子犬の「ネロ」を亡くした経験を歌っている。
しかも
もうじきまた夏がやってくる
(中略)
おまえはたった2回ほど夏を知っただけだった
と、「夏に親しい者を亡くす」という、私の経験ととてもリンクするシチュエーションなのだ。
主人公は「もう十八回の夏をしっている」とあるから、若者だ。それは私とは違うけれど、私の子供たちとはとても近い。
何でもかんでも自分と関係があるように捉えるのは無理筋ではあるけれど、私にはこの曲はうちの子たちが別れをどう受け止めたのか、の追体験のif…みたいに感じられる。
今、6月だ。もうすぐ本格的な夏が来る。
もうじき又夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ
去年の演奏会には来てくれた人が、今年はもういない。
お盆あたりには親戚が集まっていたあの家で、今年は新盆をどうしようか、コロナもまだ猛威をふるっているから集まるのは無理だろうか。
去年の夏、せっせと通って水やりをした植木鉢も、一年草はみんな枯れて、鉢から抜いてゴミに出して、鉢も片付けてしまった。
曲は、しかし喪失を嘆くものではない。疾走感とともに「新しい夏」の到来、「新しいいろいろのことを知ってゆく」ことを歌う。
たびたび出てくる「知る」という営為。
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろうと
主人公は何を知りたいのだろう?
なぜネロは死んだのかを?
私にはそんな凡庸な問いしか想像できないが、案外それも全くの的外れでもない気もしている。
詩のなかで飛び飛びに3連に渡って繰り返しネロを思い起こし、
それは死せるネロとともにあるようだけれど、決して停滞ではない。ネロを胸に抱いたまま、
もうじき又夏がやってくる
新しい無限に広い夏がやってくる
そして僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏を迎え 秋を迎え 冬を迎え
春を迎え 更に新しい夏を期待して
そこには若さがある。喪失を抱えていても新しいものを貪欲に取り込む力強さ。
(願わくはうちの子たちもそうあれかしと思うけれどそれは親のエゴというもの、彼らには彼らの受け止めかた、歩みかたがあろう…)
私自身は、「全く別の夏」というところからまだ身動きできないでいる。
冬場からこちら空き家に通う頻度も減ったが、また雑草の伸びる季節になって、草を引くたびに「この家を高齢でよく維持していたものだ」と感慨にふける。
家の中はまだ手つかずで存命の頃と何も変わらない。カレンダーの書き込みもそのまま。去年、子供の誕生日のお祝いを送るためのメモ書きも、電話の横のメモ帳にそのままある。ただ留守を預かっているだけ、という感覚から動けない。
それなのに全く別の夏が来てしまう。記憶が上書きされてしまうのが切ない。感傷だ。感傷だが、血縁ではない私とあの人は、客観的に見ればけっこう長い年月、長い時間を一緒に過ごしていたわけだ。
まだもやもやと引きずってはいくけれど、そういうものなんだろう(ああ、しょうもないまとめになってしまった)。
(「あの人」と書いているのは配偶者の母ですが、普通に表記するとちょっと生々しくて書けなかったので…表記で距離を置かないと吐き出しにくい)
話数 | サブタイトル | あらすじ |
1 | 三平、唐揚げ屋に就職する | 三平は唐揚げ屋に就職し、新たな仕事にワクワクしながら働き始める。初めての日は、店長から唐揚げ作りの基本を教わり、緊張と興奮が入り混じった一日となる。 |
2 | 三平、初めての配達に挑戦する | 三平は初めての配達に挑戦する。彼は自転車で街を駆け抜け、唐揚げを届けるために最善を尽くす。途中で迷ったり困難に遭遇するが、最終的には成功して喜びに満ちた配達を遂行する。 |
3 | 三平、唐揚げを落としてしまう | 三平は誤って唐揚げを落としてしまうミスを犯してしまう。彼は自分のミスに落胆し、後悔の念に駆られるが、仲間たちの励ましと協力により、立ち直ることができる。 |
4 | 三平、唐揚げを食べることができない | 三平はなぜか唐揚げを食べることができなくなってしまう。彼は困惑し、自分の味覚が変わったのかと心配するが、最終的には問題が解決し、再び美味しい唐揚げを楽しむことができる。 |
5 | 三平、唐揚げの秘密を知る | 三平は唐揚げに秘密があることを知る。彼はその秘密を追求し、さまざまな人や出来事と出会いながら、唐揚げの由来や特別な意味を解き明かしていく。 |
6 | 三平、唐揚げのレシピを盗む | 三平はライバルの唐揚げ屋から唐揚げのレシピを盗むことを決意する。彼は様々な策略を駆使し、困難に立ち向かいながらも、ついにレシピを手に入れる。しかし、彼は自分の行いに反省し、正々堂々と競争することを選ぶ。 |
7 | 三平、唐揚げのライバルと対決する | 三平は唐揚げ屋のライバルと対決することになる。彼は自分の唐揚げの腕を試し、お互いに競い合いながら、より良い味を追求する。結果はどちらが勝つのか、一触即発の緊迫した戦いが展開される。 |
8 | 三平、唐揚げの祭りに参加する | 三平は唐揚げの祭りに参加する。彼は祭りの中で様々なイベントや競技に挑戦し、地元の人々と交流を深めながら、唐揚げの祭りを楽しむ。 |
9 | 三平、唐揚げの恋人を見つける | 三平は唐揚げの恋人を見つける。彼はある日、唐揚げを注文した顧客と意気投合し、恋愛関係に発展する。二人はお互いに励まし合いながら、共に唐揚げの世界を楽しむ。 |
10 | 三平、唐揚げの危機に立ち向かう | 三平は唐揚げの危機に立ち向かう。彼は何か重大な問題が発生し、唐揚げの存在が脅かされる状況に直面する。しかし、彼は困難に立ち向かい、唐揚げを守るために奮闘する。 |
11 | 三平、唐揚げの伝説を聞く | 三平は唐揚げの伝説を聞く。彼は長老や先輩たちから古い伝説や物語を聞きながら、唐揚げの歴史と根深い意味を知る。その伝説は三平の心に深い感銘を与える。 |
12 | 三平、唐揚げの島に行く | 三平は唐揚げの島に行く。彼は唐揚げの原点であると言われる島を訪れ、そこで新たな出会いや冒険を経験する。島の人々と交流しながら、唐揚げのさらなる魅力を発見する。 |
13 | 三平、唐揚げの王になる | 三平は唐揚げの王になることを決意する。彼はさまざまな試練を乗り越え、唐揚げの世界で最高の地位を手に入れるために戦う。最終的には、彼は唐揚げの王として認められる。 |
14 | 三平、唐揚げの魔法を使う | 三平は唐揚げの魔法を使う。彼はある秘密のレシピを見つけ、それを用いて唐揚げに魔法をかけることができるようになる。魔法の唐揚げによって、彼は驚くべき出来事や冒険を経験する。 |
15 | 三平、唐揚げの罠にはまる | 三平は唐揚げの罠にはまってしまう。彼は敵の罠によって囚われ、唐揚げの世界から遠ざかってしまう。彼は自身の知恵と勇気を駆使して脱出を試みるが、容易には逃れられない苦境に立たされる。 |
16 | 三平、唐揚げの友達を作る | 三平は唐揚げの友達を作る。彼は唐揚げ屋やその他の場所でさまざまな人や唐揚げに出会い、友情を育んでいく。彼の友達との絆は、彼の唐揚げ人生において大きな支えとなる。 |
17 | 三平、唐揚げの敵を倒す | 三平は唐揚げの敵を倒すために立ち上がる。彼は強力なライバルや邪悪な勢力に立ち向かい、唐揚げの世界を守るために戦う。困難を乗り越え、彼は勝利を収める。 |
18 | 三平、唐揚げの夢を見る | 三平は唐揚げの夢を見る。彼は夢の中で様々な場所を旅し、美味しい唐揚げを堪能する。夢の中での冒険と経験は、彼の現実の人生に新たな希望と活力を与える。 |
19 | 三平、唐揚げの歌を歌う | 三平は唐揚げの歌を歌う。彼は心からの歌声で唐揚げの魅力を表現し、人々の心を打つ。彼の歌声は唐揚げの世界に広がり、多くの人々に感動と喜びを与える。 |
20 | 三平、唐揚げの旅に出る | 三平は唐揚げの旅に出る。彼はさまざまな地域や文化を訪れながら、唐揚げのさらなる可能性や多様性を追求する。旅の中で彼は新たな発見と体験をし、成長を遂げていく。 |
21 | 三平、唐揚げのゲームにはまる | 三平は唐揚げのゲームに夢中になる。彼は仲間たちと共に唐揚げの冒険ゲームを楽しむ中で、新たなスキルやアイテムを手に入れ、最高のプレイヤーになるために成長していく。 |
22 | 三平、唐揚げの本を書く | 三平は唐揚げに関する本を書くことに決める。彼は自身の経験や知識をもとに、唐揚げの魅力やレシピを伝えるための本を執筆する。彼の本は多くの人々に愛され、唐揚げの世界を広める役割を果たす。 |
23 | 三平、唐揚げの芸術家になる | 三平は唐揚げの芸術家として才能を開花させる。彼は唐揚げを美しいアート作品に変え、その魅力を表現する方法を探求する。彼の芸術は多くの人々に感動を与え、唐揚げの美しさを新たな形で伝える。 |
24 | 三平、唐揚げの探偵になる | 三平は唐揚げの探偵になることを決意する。彼は唐揚げの事件や謎を解き明かすために推理力と冷静な判断を駆使し、さまざまな事件に挑む。彼の探偵の才能は唐揚げの世界で高く評価される。 |
25 | 三平、唐揚げの忍者になる | 三平は唐揚げの忍者になる修行を始める。彼は忍者の技術と戦術を学び、その力を活かして唐揚げの世界を守る任務に就く。彼の忍者の腕前は見事であり、敵を倒し平和を守る。 |
26 | 三平、唐揚げの宇宙人と出会う | 三平は唐揚げの宇宙人と出会う。彼は宇宙からやってきた唐揚げ愛好家と友情を築き、宇宙の奇跡や新たな味覚を知る。彼の宇宙人との交流は唐揚げの世界をさらに広げる。 |
27 | 三平、唐揚げのタイムトラベルをする | 三平は唐揚げのタイムマシンに乗って過去や未来へと旅する。彼は歴史的な時代や未来の世界で唐揚げの進化や変遷を目撃し、その過程で新たな発見や冒険を経験する。 |
28 | 三平、唐揚げの恐竜と戦う | 三平は唐揚げの恐竜と対峙する。彼は勇気を持って恐竜との戦いに挑み、唐揚げの力を駆使して巨大な恐竜と対決する。彼の勇敢な行動は唐揚げの世界で称賛される。 |
29 | 三平、唐揚げの幽霊と話す | 三平は唐揚げの幽霊と出会い、交流する。彼は幽霊の物語や願いを聞き、彼らの心を癒す。彼の優しさと共感力は唐揚げの世界で多くの人々に感動を与える。 |
30 | 三平、唐揚げの神と対話する | 三平は唐揚げの神と対話する機会を得る。彼は神の知恵や啓示を受け取りながら、唐揚げの真の意味や使命を理解していく。彼の対話は唐揚げの世界に新たな啓示と希望をもたらす。 |
31 | 三平、唐揚げの悪魔と契約する | 三平は唐揚げの悪魔と契約する。彼は悪魔の力を借りて唐揚げの新たな可能性を追求するが、その力が彼を試し、彼の心に葛藤をもたらす。彼の選択は唐揚げの世界に大きな影響を与える。 |
32 | 三平、唐揚げの天使と恋に落ちる | 三平は唐揚げの天使と出会い、彼女に恋をする。彼らの純粋な愛は唐揚げの世界に幸せと祝福をもたらし、多くの人々の心を温かくする。彼らの恋は永遠の愛の象徴とされる。 |
33 | 三平、唐揚げの獣と仲良くなる | 三平は唐揚げの獣と友情を深める。彼は獣の特性や言葉を理解し、彼らと協力して唐揚げの世界を守る冒険に出る。彼の絆は唐揚げの世界における結束と調和を象徴する。 |
34 | 三平、唐揚げの植物と共生する | 三平は唐揚げの植物との共生を学ぶ。彼は植物の成長と栽培技術を理解し、美味しい唐揚げのために最高の食材を育てる。彼の知識と努力は唐揚げの世界の食文化を豊かにする。 |
35 | 三平、唐揚げのロボットと協力する | 三平は唐揚げのロボットと協力して新たな料理方法を開発する。彼はロボットの技術と自身の料理の知識を組み合わせ、革新的な唐揚げの作り方を実現する。彼の創造力は唐揚げの世界に革命をもたらす。 |
36 | 三平、唐揚げのゾンビと戦う | 三平は唐揚げのゾンビと対峙する。彼は勇気を持ってゾンビとの戦いに挑み、唐揚げの力と知恵を駆使して人々を守る。彼の闘いは唐揚げの世界における生命力と希望の象徴となる。 |
37 | 三平、唐揚げの吸血鬼と噛まれる | 三平は唐揚げの吸血鬼に噛まれ、吸血鬼の力を受け継ぐ。彼は唐揚げの力を吸血鬼の力と組み合わせ、新たな唐揚げの魅力を追求する。彼の変化は唐揚げの世界に新たな衝撃と驚きをもたらす。 |
38 | 三平、唐揚げの人魚と泳ぐ | 三平は唐揚げの人魚と出会い、彼女と一緒に泳ぐ。彼は唐揚げの世界の海で人魚の美しさと秘密を知り、新たな感動と冒険を経験する。彼らの交流は唐揚げの世界に新たな魅力を加える。 |
39 | 三平、唐揚げの竜と戦う | 三平は唐揚げの竜と対峙する。彼は勇気を持って竜との戦いに挑み、唐揚げの力と勇気を駆使して竜を倒す。彼の勝利は唐揚げの世界における困難の克服と栄光の象徴となる。 |
40 | 三平、唐揚げの王に即位する | 三平は唐揚げの王に即位する。彼は唐揚げの世界の統治者として民を導き、唐揚げの文化と美味しさを広める使命を果たす。彼の王としての在り方は唐揚げの世界に調和と繁栄をもたらす。 |
41 | 三平、唐揚げの巨人と戯れる | 三平は唐揚げの巨人と出会い、彼と友情を深める。彼は巨人との遊びや競争を通じて成長し、唐揚げの世界における友情と勇気の大切さを学ぶ。 |
42 | 三平、唐揚げの小人と暮らす | 三平は唐揚げの小人たちと共同生活を始める。彼は小人たちの文化や生活様式に触れながら、お互いを尊重し合いながら共に暮らす方法を学ぶ。彼の経験は唐揚げの世界における共生と協力の意義を示す。 |
43 | 三平、唐揚げの魔女と魔法を学ぶ | 三平は唐揚げの魔女に出会い、彼女から魔法を学ぶ。彼は魔法の力を使って唐揚げをより美味しくする方法を追求し、唐揚げの世界に新たな驚きと魅力をもたらす。 |
44 | 三平、唐揚げの騎士と冒険する | 三平は唐揚げの騎士と共に冒険に出る。彼は騎士としての勇気と正義を示し、唐揚げの世界の平和と安全を守るために戦う。彼の冒険は唐揚げの世界における勇敢さと信念の象徴となる。 |
45 | 三平、唐揚げの王子と結婚する | 三平は唐揚げの王子と出会い、彼と深い愛を育む。彼らの結婚は唐揚げの世界における愛と絆の象徴となり、新たな希望と幸せをもたらす。 |
46 | 三平、唐揚げの姫と救出する | 三平は唐揚げの姫を救出するために冒険に出る。彼は困難を乗り越え、姫を救い出すことに成功する。彼の勇敢さと決断力は唐揚げの世界における英雄的な行為として称えられる。 |
47 | 三平、唐揚げの英雄と讃えられる | 三平の活躍と勇気が唐揚げの世界で広まり、彼は英雄として称えられる。彼の勇気と努力は唐揚げの世界における希望と勇気の象徴となり、人々の心を奮い立たせる。 |
48 | 三平、唐揚げの伝説となる | 三平の物語が唐揚げの世界中に広がり、彼は唐揚げの伝説となる。彼の冒険と成長は唐揚げの世界における永遠の話として語り継がれ、多くの人々に勇気と希望を与える。 |
近隣から延焼したらどうせ使えないんだろうね。
窓が割れたり玄関の鍵も掛からないくらい壊れたら備蓄品を安全に保管することもできないし。人より多く買い込んでたって盗られちゃうだろうし。
何より、運良く備蓄を使えたとしても周りの人が困ってるのを尻目に自分たちだけ助かるというのが精神的に無理。多く持ってたら分け与えないと悪いだろうし。
子供がいるからなんとか子供だけでも助ける義務と責任があるけど、子供の目の前で困っている人を助けず自分たちを優先する姿を見せるのもどうかと思うし。
正直、南海トラフ級の大災害が来たら黙って死んでしまいたいよ。生きてるほうが絶対大変だし面倒くさいもん。避難所生活だって過酷だろうし、その後の復興なんて考えただけでしんどい。大災害のどさくさに紛れて攻め込んでくる国とかない? どうせ壊れてんだからってドンパチ始まっちゃったらやだなあと思うし。
ただ、そうやって何もかもぶっ壊れた状況でチャンスを掴んでのし上がる人もいると思う。英雄は時代が作るとか言うしね。運も生命力も強い個体だけが生き残るんだろうね。
大学四年になる頃、就職活動が本格化した。当時は就職氷河期で厳しい状況だった。講義もレポートもあるし、当然サッカーだってやらないといけない。居酒屋(どんがま、というお店一本になっていた。今はもうない)でのアルバイトは週二に減らした。
当時は、三年の秋から企業説明会が始まって、四年の春以降に面接スタートというのが一般的だった。俺が行きたいと思っていたのは総合商社だった。説明会に行ってみて、とある商社に惹かれたのだ。ほかの総合商社に比べて「オレがやってやるぞ!!」みたいな社員の人が多かった。
三菱商事は、政府の高官みたいなキャラの人が多くて、三井物産はスマートなイケメンキャラが多かった。伊藤忠商事は、頭を鈍器で殴られても生きていそうな人が多かった(生命力があるという意味)。そんな記憶がある。
その春までには、俺とキャプテン君はmixi上でマイミクになっていた。お互いの日記にコメントをした繋がりがあって、サッカー友達ということで俺から申請をしたっけ。いや、もう正直覚えてないけど。とにかく、俺とキャプテン君はmixiで友達になった。
キャプテン君のmixi日記はすごかった。俺も、彼もサッカーのことを綴った日記が多かったが、彼の場合はなんというか、思考のレベルが違った。普通に大学サッカーをやってるヤツが、一生懸命サッカーのことを考えているのだとしたら、彼の場合はもっとずっと、『上の視点』からサッカーそのものを見詰めていた。
例えば、同志社大学のサッカー部は、今でも大学単位のブログを更新し続けている。各選手が自分の生活やサッカーに関する考えを書き綴っていく。
ここにある後輩達の日記は、読む価値がある。若いながらも自分なりに考えて学生生活を過ごしている。
当時のキャプテン君のmixi日記は、この内容をはるかに上回っていた。日記そのものは、すでにこの世にデータはないが、当時の俺個人の日記に断片的なメモがある。
当時、キャプテン君はこんなことを日記に書いていた。ほぼサッカーのことだ。本当は繋がりのある文章なのだが、断片化しているので意図がわかりにくいかもしれない。
・集団というものは常に問題に直面してる。人が寄っている以上は必ず争いが生まれる。価値観の違いとか、追求する目標の度合いとか、相手への要求の基準とか、争いの種は無数にある。それでも同じ集団として、組織として「仲間」を自称して日々共に暮らしている。
・自分らは、全員で一丸となって目標に邁進するために集まったはず。でも、いつからか、別の方向を向いている人たちをひとつの目標に進ませることに奔走してる。組織とは難しい。
・組織には、絶対に衝突や背信が生まれる。リーダーには、それをまとめる人間としての自覚がいる。自分がやらなければならないという責任感が。自分には実力が足りないといって何もしないのは卑怯だ。逃げだ。後輩には、早くこのことに気付いてほしい。
・理想を語って、現実に不平不満をこぼし続けるのは簡単。問題を黙って見過ごすのも楽だけど、人間が腐っていく。
・オレは現状を変えたいと思った。現状を変えるにはかなりの労力がいる。俺はあの時、みんなに不快なことを言ったけど、妥協してほしくないからあえて言った。
・言いたいことを言い合えない集団に未来はないんやで。お互いに機嫌を伺って本音を出せないとしたら、自分らの関係は友人ですらない。本当の仲間って、暑苦しくて、うっとうしくて、そして清々しい。
・ぶつかっても、嫌われてもかまわない。まだ間にあう。オレ達はここからが勝負だ。残された時間を考えると、今は悩みながらでも正しいと信じることを貫くしかないよな!
ぶつかっても、嫌われてもかまわない。何年か経った時に俺の伝えたかった真意を理解してくれれば、それはそれで素晴らしい。
・愚直にやることは本当に重要やで。ひたむきにやらない人間に付いていく気にはなれん。
・結果を出すことは、集団をまとめるための必要条件であっても、十分条件にはならん。サッカーの試合に出れない人の方が多いんやし、俺達のチーム!!って愛情をみんなが持てるチーム作りをしないと。勝って喜んでいるのはレギュラーだけってことにもなりかねない。今の俺には難しい。
・好む好まざるに関わらず、人には立場が与えられ、それに見合った働きが要求される。自分には難しい、できないかもしれないと言ってるヒマがあるなら必死に勉強しなきゃいけないし、責任を負える人間にならんとな。
・今のチームには、勝ちたいという執念を見せるヤツや、自分を演じてでもチームのために尽くそうとする人間が少なすぎる。たしかに個人個人は頑張ってるけど、みんなそこ止まりなんよな。他人に対して意見を言おうとせん。勝ちたいなら叫ばなきゃいけない場面もあるのに。だから俺は三年に怒ったんや。なに自分のことだけ頑張ってんねんと。自分らの代やったらそれ相応に振る舞えと。
・他人に言及することは、自分へのハードルも上げることにもなる。言ったからには自分もやらなきゃいけない。そんな風に、自分を追い込んで成長していかんと。
・時には集団のために自分を演じる必要がある。嫌われ役でも買ってでよう。自分を大事にしすぎるあまり、みんな守りに入ってもうてる気がする。
・自分のことだけに集中して動くのは本当に楽。でも、それなら今の場所にいる意味はないからね。引退までに、俺らの4年間を後輩に叩き込もうと思う。そうやってチームの魂は引き継がれていくものなんやで。
上の日記は、なんJ民が書いたものではない。日記を書いたのは、当時21歳の大学生だ。一般的な学生とはレベルが違う。社会人の域に達している。キャプテン君が反則で退場処分になったサッカーの試合を見た時は只者じゃないと思ったが、ここまでとは思わなかった。
実際、彼はいい奴だった。対面で話したことは数回しかないけど、でも確実にいい奴だった。熱い闘志が漲っていて、爽やかな笑顔が眩しい。それでいて面白いことも言える。ずるい。
就職活動に話を戻す。必死でエントリーシートを磨いて、SPIの勉強をして、面接対策をして、総合商社の一次試験を突破した。二次試験のグループ面接も通って、いよいよ三次になった。
会場は、晴海トリトンスクエアという海が綺麗な高層ビルだった。会場には、当たり前のようにキャプテン君がいた。緊張している様子だったから、声はかけなかった。かと思えば、ほかの志望者と一緒に雑談をしていて、さすがだなと感じた。
面接試験の部屋の前で待っていると、自分の前に終わった人が出てきて、「頑張ってください」って言われた。「ありがとうございます」と返して部屋の前に立った。
肝心の面接試験は、一応やりきることができた。子どもの頃からやっていたサッカーのアピールもできたし、面接官二名もサッカーをしていたことがあったらしい。「インカレにスタメンで出ました」と言ったら、「おー、うまいんだね!!」と言われた。
面接全体だと、簡単な質問もあったし難しい質問もあった。覚えてる限りだと、
□卒業までをどう過ごしたい
□総合商社で叶えたいことは何か
□弊社の弱点を教えて
こんなところか。ゆっくり落ち着いて答えていった。こういう時、サッカーをやっていてよかった。緊張はするけど、それが心地いい。失敗してもいい、飛び込んでもいいやって思えた。よい意味で、周りが見えなくなる。
時間というものの退屈さを感じない。これは採用試験なのだという不安も忘れて、不採用がありうるという事実すら忘れてしまって、どんな恐れすらも感じなくなる。面接、という世界に全身全霊で移り棲んでしまったからだ。
面接が終わった後は、さっきの自分と同じく、面接試験の部屋の前で待っている人がいた。俺は、ちょっと迷ったけど、「頑張ってください」って言った。その人は、「ありがとう。行ってきます」と返して面接室の前に移動した。
それから、普通に社屋を出て、ちょっとその辺でご飯を食べて、夜行バスが来るまで街を歩き回って、バスが来る頃にはすっかり疲れ果てていた。
続き
フェイクだけど、持病があって疲れやすい体質の30代前半の母親です
一人で列から離れて何度もどっか行こうとする
歩かなくなって抱っこを要求
お弁当のおかずを地面に落とす
おやつも地面に落とす
靴下を汚す
うちの子供は多動傾向もあり
親は疲れてしまった
調べてみると、他の幼稚園は遠足の次の日は休息日でお休みという園もあるらしい
うちの園も遠足の次の日は休みにしてほしかったと思ったが、幼稚園が休みだと子供の方から親に「外に遊びに連れていけ」と要求される場合もあるため
親がつかれているときに幼稚園に預けて先生に子供の面倒を見てもらえて助かったのかもしれない
子供に「今日(遠足の次の日)はお休みのお友達多かったんじゃなーい?」と探りをいれると
「休みの人多かったよ」と返事が帰ってきて、お迎えに行ったとき子供の人数が少ない気がして、やっぱりみんな疲れてるんだなと思った
とくに下の子がいて、遠足のときに二人の子供を一人で見ているような母親はものすごく疲れたと思う
3歳の子供の相手するの本当に大変なのに、一人で赤ちゃんの面倒も見るのつらすぎる
室内じゃなくて外だからな
トイレに行くのも大変だ
火曜日の遠足の疲れがずっと残ったまま生活していて、今日はまだ木曜日だ
子供は親と違ってずっと元気だ
持病もちの30代前半の母親の体と
メンヘラ女子って若いうちはたくさんいるけれど25歳過ぎると命運が別れるなと感じた。
元々相当美人で異様に整ったタイプのメンヘラは遺伝子のなせる技なのか25歳から急に良くなっていく。もしくは自覚するか老いを感じて生活を改善するか。周りを見ても美形レベルのメンヘラは自力で生活を直して夜は寝て治療していた。
30歳になると元メンヘラばかりが残っていく。
一見美男美女でも肌が荒れていたら警戒してしまう癖がついてしまった。
恐ろしいのは改善をしなかったタイプはそこそこの容姿で中学までは可愛いと言われたタイプだった。そのことを引きずり延々とその話を三十過ぎても話している。
なんだかんだで医者とかでも美形はゴロゴロいるし容姿だけでは生き残れないし。
周りからの目を客観的に受け入れるタイプの美形はサクッと老いも受け入れるんだろうなと思った。もう年齢も年齢だからこの人しかいないとしがみついているらしい。
メンヘラ直せば容姿とかあんまり大きな問題ではなくなるし年齢いくつでも多分結婚できると思う。
ただ美形はなんでか病気になろうがコロナになろうが回復力が異様にある気がする。なんなのだろうこの生命力??遺伝子?死ににくいのか?
イソギンチャクは何に急いでいるのか――。この問いかけを聞くと、私たちは海の底に住む神秘的な生き物に想いを馳せる。イソギンチャクはその名前からも分かるように、「急ぎ」を意味する「磯」、「銀杏」を意味する「銀杏」、「茶屋」を意味する「茶屋」の3つの言葉から成り立っている。しかし、これらの言葉がどのように関連しているのか、そしてイソギンチャクがどのような生き物であるのか、私たちは深く考察することが求められる。
イソギンチャクは、触手を広げた姿がまるで銀杏の葉のように見えることから、その名が付けられたとされる。そして、イソギンチャクが「磯」という言葉を持っているのは、磯に生息することが多いためである。さらに、「茶屋」の部分は、たまたま響きが似ているだけで、実際には意味はないと言われている。しかし、その名前が持つ意味とは別に、イソギンチャクが何に「急いでいる」のかという問いに対する答えは、私たちにとってさらなる謎である。
イソギンチャクは、クラゲやコンブの仲間である。彼らは海中を漂いながら、触手に付着した毒で獲物を捕らえる。しかし、イソギンチャク自体は動かない。彼らは海底に付着し、その場で生活を送る。だからこそ、「急いでいる」という表現が、この生き物に対してどのような意味を持つのかが問題となる。
イソギンチャクが急いでいるのは、生存競争において優位に立つためだと考えられる。彼らは触手を広げ、獲物を待ち構える。そして、獲物が近づいた瞬間に、瞬時に触手を伸ばして捕らえる。このスピーディな行動が、イソギンチャクの生き残りをかけた「急ぎ」であると言える。
また、イソギンチャクは、共生関係を結んでいるクマノミという魚とも、独特の「急ぎ」が見られる。クマノミはイソギンチャクの触手の間を自由に泳ぎ回り、イソギンチャクの触手に付着した寄生虫を食べることで、イソギンチャクの健康を保つ役割を担っている。一方で、イソギンチャクはクマノミに対して、その毒性を持つ触手で身を守り、安全な生息地を提供している。この共生関係は、互いに支え合いながら生き抜くための、まさに「急ぎ」の象徴とも言えるのではないだろうか。
さらに、イソギンチャクの「急ぎ」は、繁殖にも関係していると考えられる。彼らは一度に多くの卵を産むことがあり、その数はなんと数千から数万にも及ぶ。しかし、その多くは海の中の繁殖競争に敗れ、成長することができない。イソギンチャクが産む卵の数が多いのは、その中から少しでも多くの子孫を残すための「急ぎ」であると言えるだろう。
イソギンチャクの名前が示すように、「急ぎ」は彼らの生活に欠かせない要素である。彼らは獲物を捕らえるスピードや共生関係、繁殖においても、「急ぎ」を見せている。しかし、それは私たち人間にも共通することではないだろうか。私たちもまた、日々の生活の中で「急ぎ」を必要としている。
時間に追われる私たちの姿は、イソギンチャクの「急ぎ」にも似ているかもしれない。だが、イソギンチャクはその「急ぎ」の中で、しっかりと生き抜く術を見つけている。私たちもまた、イソギンチャクから学ぶことができるだろう。私たちが「急いでいる」ことに気づき、それを上手に活かすことができれば、より豊かな人生が待っているのではないだろうか。
イソギンチャクは何に急いでいるのか――。その答えは、生存競争や共生関係、繁殖といった、彼らが生き抜くための戦略にある。「急ぎ」はイソギンチャクにとって、生命力そのものである。そして、その「急ぎ」を私たち人間が学ぶことで、私たちもまた、自らの生活において新たな視点を得ることができるだろう。
イソギンチャクが海底で見せる「急ぎ」は、私たちにとって、自然界における生命の力強さを感じさせるものである。その姿は、まるで磯に打ち寄せる波のごとく、時に激しく、時に静かに、しかし常に前へ進む力を持っている。私たちはその「急ぎ」の姿に、自らの人生においても、進むべき道を見つけ、力強く歩んでいく勇気を感じることができるのではないだろうか。
最後に、イソギンチャクが私たちに教えてくれるのは、「急ぎ」だけではない。彼らは独特の共生関係を通して、お互いに支え合い、生き抜く術を見つけている。私たち人間もまた、互いに支え合い、助け合うことができる限り、どんな困難な状況においても、乗り越えていくことができるだろう。
イソギンチャクは何に急いでいるのか――その答えは、私たち自身の中にある。彼らが見せる「急ぎ」と共生の姿を学び、私たちもまた、自らの人生において、困難に立ち向かい、力強く生き抜く力を見つけることができる。それが、イソギンチャクが私たちに教えてくれる、深い教訓であると言えるだろう。
職場でペットの話になって相手が飼っている猫の写真とかを見せてもらって「かわいいっすねぇ!」みたいな流れになって、
我家ではペットを飼ってないけど、代わりに育ててる観賞植物でお気に入りのものの写真を見せた。
そしてら「え~キモい・・・ちょっと無理かもw」みたいなことを言われた。
見せた植物はベゴニア・マクラータという品種で、確かに変わった見た目をしている。
左右非対称の濃い緑色の葉っぱに銀色の斑点があり、しかも葉っぱの裏側は深い赤色をしている。
ウルトラマンの怪獣がそのまま植物になったみたいなかっこいい植物で、そんな見た目なのに意外と気難しいところが無くて初心者でも育てやすいナイスな奴だ。
日当たりが悪くてもグングン成長するし、茎を切って水に差しておけば根っこが出てきて簡単に増やせる。
独特な存在感と溢れる生命力によって単なる観葉植物を超えて同居人のようなポジションで共に暮らしている。
とにかく、私も猫を育てるのにかかる愛情と同じく愛情を持って家の植物たちの世話をしている。
前から思っていたが、毛の生えた哺乳類を飼っていらっしゃる皆さまは、それ以外の動植物を若干下に見る傾向がないだろうか。
たしかに猫はかわいい。犬もかわいいよ。そして愛情を持って育てているのだろうことは画面越しからでもその毛並みの良さ、完全に心を許し切った姿を見れば分かる。
例えば仮に私が猫が大嫌いだったとしても、その様子を見れば気軽に「キモい」とかは言わないよ。普通そうだよね。
爬虫類とか魚とか昆虫とか変な植物とかにもそういう対応は出来ないものだろうか。
もし猫ちゃん死んだら悲しいよね。わかるよ。私もマクラちゃん(うちのベゴニア・マクラータの愛称)が枯れたら悲しいもん。
と思った君はアプリを開いてみよう。
サ終である。
ラノベ最大の強みは失われたと言って良い。
この変化もかなり痛い。
漫画文化の成熟によりラノベなんぞよりも中身のある漫画が増えてしまった。
レベルが同じなら絵がある方がいい。
無料と言えばソシャゲなんかも最近はストーリーにSF要素を散りばめるのが当たり前になり考察班が各地に作られている。
物語を接種する手法として小説を選ぶ人口比率はドンドン狭くなってきていると言って良い。
じゃあなんでこんなオワコン化しているのにラノベは存続しているのか?
ラノベで人気を出す→漫画やアニメ化される→ポロロッカ的な逆流が起きてラノベの方も「原作」として売れ始める→本格的に収益化される
昔のライトノベルの場合、ラノベで人気が出た段階で十分に収益化されていたが、今の市場でプロレベルの食い扶持を得るにはこのストリームに乗るしかない。
さしずめインディーズバンドがレコード会社に拾われ強強なサポートチームを組まれることでようやくプロとして食えるような状況にある。
ラノベそれ自体の純粋な生命力は自立不可能なレベルとなっているが、その周囲を取り巻くメディアミックスの流れの中で生き延びている。
結果的に生き延びているわけだが、それはあくまで「原作」としての存在価値があるからだ。
メディアミックスで伸びる前にラノベを買う読者の多くも「アニメ化されたときに昔から注目してたとイキれちゃうかな」と下心を持つのが大半だ。
生き残るだろう。
「原作」としての圧倒的身軽さは他のメディアを一切寄せ付けない。
その上で大衆を相手にしたオーディションを既に乗り越えているという背景を持てる。
たとえばツイッターで伸びた漫画が出版されることがあるがそこから映像化まで行った作品は数えるほどしか無い。
だが、小説家になろうやアルファポリスを原作として映像化作品はどれほどあるだろうか?
圧倒的身軽さ、始めやすさ、それ故の人口の多さに一作家あたりの回転率の高さ。
あらゆる要素が高速でサイクルを回してとにかく売れそうな「原作」が産まれるまでのガチャを引き続ける機能に優れている。
売れそうな「原作」の青田買いの現場としてラノベは今後も業界に居場所を維持するだろう。
だがメディアミックスを前提とするこなく純粋に作品として評価される機会は、他の多くのメディアにパイを奪われ続けるのは目に見えている。
たとえば「SAO最高!大好きです!」と言ってる人の多くが思い浮かべるのがアニメの話だ。
原作が好きな人もいるが、そんな人ですら「最高のアニメ化でした!恵まれていて嬉しいです!」とむしろアニメの方をより強く褒める状態だ。
こんな状態がいつまでも続くのなら、もはやラノベが「コンテンツ業界の中枢」として君臨することはないだろう。
あくまでも強い「原作」を引き当てるための巨大なガチャガチャマシーンとしてピラミッドの最下層に組み込まれた状態は、かつての栄光を思えば「オワコン」と言って然るべき没落ぶりだ。
きゅうりって野菜しってます? もともとヒマラヤに生息していたウリ科の植物です
人類は遠い昔、このきゅうりの同意を得ることなく自分たちの生活圏に持ち出して食べるために増やしました。
さらにはトゲや渋みという個性を嫌って、トゲが少なかったり渋みの少ない個体を強制的に受粉させて何代にも渡って計画的に人類にとって都合の良い個体だけを増やし
しかも年中きゅうりを食べたいと思った人類は、本来なら実を結ぶような時期ではないのにビニールハウスや暖房設備などで強制的に実を結ぶようにそだてています。
このきゅうり、人類にとって必須な栄養があるなら人類にとって必要な犠牲と割り切ることもできたかもしれませんが
きゅうりって栄養的にはびっくりするほど低い、ビタミンは取れるけど他の野菜とくらべて優秀なわけでもない
僕はそんなの全然しらなくて、無邪気にきゅうりを丸かじりしてました。
でも知ってしまった今、きゅうりの中心に放射状にあるつぶつぶがすべて種、つまりきゅうりの卵であると知って食べられなくなってしまった
動物なら感情を表に出せるのでイヤな場合はイヤだと態度で示すことができますし抵抗の姿勢を見せることもできるでしょう
人間だって美味しく育ってくれてありがとうと感謝を伝えることもできますし、それらの過程で人間が心を痛めることもできるでしょう
野菜は人間に何も伝えることができませんしこちらの意思を汲み取ることもできません、本当は嫌がってるかどうかも確認できないのに