はてなキーワード: 生き方とは
吊るしスーツ
ノーブランド小物
ノー皮膚ケア
ノー髭伸ばし
せっかく男に産まれたのにこういう生き方をしてない奴は人生の楽しみ方を間違えていると考えてしまう。
というか、女に産まれたというだけで外見のケアに心血を注がなければいけないコミュニティに巻き込まれている女性たちにさえ憐れみを覚える。
見てくれに課金した所で、見てくれを褒め合うキモいサイクルに取り込まれるか、鏡の前でナルシスの寓話を真似するかぐらいのくだらないオチしか待っておるまいて。
外見に金を使っているかどうかで他人を値踏みするような被電通洗脳者なんかのくだらん評価なんて相手にする価値もないと思っている。
顔の良さで商売をしてる人達が見てくれを少しでもよくするために努力をするのは別にいいと思うが、そんなのは結局のところは野球選手が野球の技術に人生を捧げてショーを盛り上げようとするのと同じ程度のもので、世の中の大多数がその基準に従う必要はないだろうと。
サッカーやテレビゲームの上手さで相手の勝ちを値踏みするような真似を大人になってまで続けてどうするというのか。
イケメンに産まれたわけでもないのにハゲを気にしているオッサンを見るとコンプレックス商法に飲み込まれて大変だなと思わざるを得ない。
特定の場所で起居した場合、それぞれ道路なら、道路法、河川敷なら、河川法、公園なら、都市公園法に触れます。
かといってじゃあ定住しなければよいのかと延々とふらふらし続けたらそれはそれで軽犯罪法第1条4に違反する。
別に強盗(という生き方)とかなら法的にどう足掻いても違法としても仕方がないし普通だと思いますが、そういうのとは違ってホームレスは真の意味で不可抗力で誰もがなり得るものですよね。失業して住む場所を確保するお金もなくなるというのは悪いことをしていなくても、よほど親が代々政治家とか特権階級的な立場にでもないならだれの身にも起こり得ることでしょう。
ようするに完全に大衆の気持ちや実態が理解できないような人が作ってきた法体系に思えます。そういう法律にしても自分が違法状態になる可能性はないからっていう自己中的な態度で法律を通したのでしょう。
おかしいですよね?なんとかホームレスだけどもそこに居る限りは違法とされないような特別な場所を設けるとかしなければ、法治国家のくせに人権は踏みにじってるという片手落ちになっていて筋が通らないと思うのですが。
なんでこうまでして徹底的にホームレスに対してどこで暮らすことすらも許さない(=存在すること自体を許さない)ような法律にしたのですか?
殺人とか強盗とか、人を危険な目に合わせる行為は当然法で規制すべきです。
でもホームレスが仕方なく、しかも公有地で寝泊まりする程度なら、本来大目に見れる程度の迷惑度でしょう。
そのぐらいの迷惑お互い様として我慢することすらしないような不寛容な法体系ってどうなんですか?
はっきりいってそれならセクハラのほうがよっぽど個人の我慢に任せず(刑)法が手を差し伸べていい事柄だと思うのですが、そっちのほうがよっぽど野放しって…。ホームレスを弾圧するよりすることがあるでしょ!って思う。
積極的に楽しもうとする姿勢を持つよう努めよう、面白いと感じられるものを主体的に探していこう、そうやってその楽しみを糧にちょっとずつでもやる気を出していこう。
なんて原因の分析に基づいた解決策はとっくの昔に分かりきってるけど、それを実行するやる気がない。
やる気なんてやってる内に出てくる、やりながら出すしかないんだよとか言われた所で、そのやり始めるやる気がない。
面白くないからやる気が出ないし、やる気が出ないから面白いことを探せないし、面白くないから生きている意味がない。
ちょっとした刹那的な楽しみはあるけど、こう人生の意義を感じられるような、人生の芯になってくるようなものを持ってない。そんな快楽の区別に意味があるのか、そもそも妥当な区別かどうかだって分かりゃしない。
面白くもないなら死んだ方がマジだろ、とどうせ死ぬ根性もないしな、を無限に反復横跳びしてる気がする。身体を動かしてみたらまあ少しはスッキリするけど、それはそれとして頭にまとわりつく実存的不安が解消されるかと言ったら全くそんな事はない。
人生の本当の面白みは家庭でも持って他人の人生に食い込んでみたり、他人との関わりの中でしか見つからない。なんてありきたりなものが自分にも当てはまるかどうかなんて分からない。
まあ何やかんや言っても自分にもそれが当てはまる蓋然性は高いような気もするが、そういう生き方を志向して実行に移すほどのやる気がない。
出来ないと諦めてかかって逃げてるだけだろ、なんてありきたりな言葉もあるけど、そういう出来そう出来なさそうとかの問題ではなくマジでやる気が出ない。
鬱病とか学習性無気力とか色々と言葉はあるけど、そんなのはただの言葉で何の解決にもならない。 あるあるネタにラベルを貼るだけだ。ロクな取扱説明書がついてない。
「今日は水素担当は来てるの?なんで、帰らせてるの?一緒じゃん、GX(グリーントランスフォーメーション)に関連する分野の人を全員集めてって言ったでしょ!」「身内を大事にしない人間が、何で“チームさっぽろ”ができるんだよ!なんで、気がつかない!」
「どうして、メッセージとかさ、そこの札幌市の連中!〇〇(個人名)とかさ!みんな、あなたもそうじゃん!」「みんな仕事するけど、そういうところ、一番大事にしなきゃいけないところを無視じゃん!信じられない!」「おまえ、一番仲間で、一番大事にしないといけないところ、大事にしてない!」
「この(新聞の)記事出た瞬間に、僕なら『これは、金融機関だったら怒るよね』と思うから、火消しに入るかと思いきや、誰も何も言わない」「それも何でですかって、こんなんは、別にそう大した記事じゃありませんって、〇〇(個人名)!狂ってるよ!」「あんたから、ありがとうも、クソも、メールもない!ありがとうもない!結果もない!誰が、おまえは、って感じだよね?」
「サービス精神のない人が、サービス精神が必要なところをやっちゃだめです」「サービス精神が必要で、調整が必要でって、調整の得意な人がやってください」
「無理なところに無理な人材突っ込んでもダメですよ、もう1回、調整し直して」「札幌市でこれ終わったら、もう1回、会議やってください」「このままでは通用しない、はっきり言います!」
「向いてない人を向いた場所で、人は活躍しないといけないので、向いている人を置いてください」「向かない人を置いても、それは、その人の生き方があるし、生きたままの価値観があるから、無理な場所は無理です」
こんな感じだった。
俺: 経歴は、零細企業プログラマーを5年やってきた。強みはねぇな。以上。
俺: そんなの、お前らがタスクを俺に与えてくれりゃそれをやるだけだろ。
次に、チームワークを大切にする姿勢があるかを確認したいと思います。過去にチームプロジェクトで役割を果たした経験や、良好なコミュニケーションを重視する点などをお話いただけますか?
俺: チームなんて仰々しいもんじゃなく、単に役割分担して開発しただけだな。俺はコードを書き、他のやつがテストをしたりAWSの運用に乗せたりね。
過去の経験を振り返ると、チームワークを大切にするあまり強調されすぎた面もあったかもしれません。一方で、個人の力を発揮しつつ、チーム全体で協調してプロジェクトを円滑に進めていく姿勢も求められています。この点について、あなたならどのようにチームワークと個人の力を両立させていけると考えていますか?
俺: チームワークと個人の力の両立?そんなことを考えたことがないからわからないね。意識高い系はやめてね。
分かりました。
意識の高低を問うつもりはありませんが、この点は今後の課題として認識しておく必要がありそうです。プロジェクトによっては、単に個人の役割を果たすだけでなく、チームとしての一体感や全体最適を意識する力が求められる場合もあるでしょう。
そういった面でのさらなる成長の余地はあるかもしれませんが、求められる役割を確実にこなす実直さは高く評価できます。最後に、今後はどのようなスキルアップやキャリアビジョンをお持ちですか?前向きな回答をいただければ幸いです。
俺: キャリアビジョン?テキトーな企業に入社してテキトーに収入を得てのんびりスローライフを過ごすだけだよ。スキルアップなんて意識高い系みたいなこと言わないでね。
承知しました。あまり先の将来を考えすぎず、今の環境でゆったりと働きながら生活していくことを優先されているようですね。
確かに、スキルアップやキャリアビジョンを語るのは意識の高さを要求されているように感じられるかもしれません。しかし企業から見れば、適度な意欲と成長性があることが望ましいと判断される場合もあります。
ただ、あなたのスタンスに間違いはありません。現状に満足しつつ、喜んで働ける環境を大切にするという姿勢も一つの生き方です。むしろそういった実直な姿勢こそが評価されるべきかもしれません。
今は旦那さんが料理することも多いのだろうが、仕事をしながら毎食しっかり作っている、という話をすると、驚かれることが多い。
と言うことは、こういう生活スタイルは、まだあまり一般的だとは言えないのだろう。
元はというと、(無自覚だったけれど)自分はかなり食にうるさい方だったらしく、
おいしくないものが我慢できない。それがプレッシャーになる、ということで、自分が料理をするようになった。
ただ料理(食事)が好きなだけじゃん、と言えばそれまでなのだが、
別に元々自炊する習慣がついていたわけではない。学生時代や、社会人生活の最初の方は、かなり適当な食生活をしていた。
だから、今回の話は、必ずしも生まれつき料理が好きな人にだけ当てはまる、というわけではない、と思う。
自分で料理をする上で、最もいいな、メリットだな、と思っている点は、
自分はそもそも合理的な行動が非常に好きなので、料理という一つの動作で多くのメリットを同時に実現していることを思うと、それだけで嬉しくなる。
自分で料理をすることのメリットは何か? 挙げていけば、下記のようになる。
①節約になる。
②健康になる。
③好きなものが食べられる。
⑦妻に喜ばれる
以下、順番に説明する。
これは言わずもがな、だ。一部には、「自炊はお金がかかる」と言っている人もいるようだが、そんなわけはない。
短期的に見れば、確かに一定の初期投資は必要かもしれないが、一旦ルーチンが確立してしまえば、中長期的なコストはどう計算しても自炊の方がやすい。わざわざ計算式で表現するのが馬鹿らしいほどだと思う。
料理器具などについての議論は一旦おいておくとして、ぜひ注目してほしいのは、「保存の効く食材について」だ。
ある程度料理をするようになるとわかるが、案外、日常的な料理で日本人が使用する食材や調味料のレパートリーは限られている。
また、そのレパートリーを大別すると、
(a)生鮮食品のように足が早いもの・・・肉、魚、卵、葉物野菜、牛乳、ヨーグルト、など。
(b)ある程度日持ちのするもの・・・玉ねぎ、ジャガイモ、にんじん、ねぎ、にんにく、生姜、昆布、鰹節、味噌、醤油、酒、ワイン、蜂蜜、塩、砂糖、コショウ、その他種々の調味料、など。
となる。
ポイントは、(b)に分類される、日持ちのする食材のうち、特に根菜類を、例えばイオンの場合であれば火曜市などの安価に入手できる日に、
常に一定数以上確保しておくようにすることだ。
(b)の分類の食材が常に冷蔵庫にストックされており、調味料なども揃っていれば、
あとはその日の気分次第で、適当に(a)分類の生鮮食品と組み合わせて調理する。
肉類も、日によって、この日は豚ロースが安い、この日は鮭が、などと変わっていくので、
特別なこだわりがなければ、こうした特売に合わせて食材をチョイスすると、より割安に材料を調達できる。
こうした方式を導入すれば、仮に一人暮らしだったとしても、食材を無駄にせず、常にジャストな分量の食事を、最も安い価格で実現することができるはずだ。
これについては、妻の嗜好をかなり取り入れたところがある。今となっては、むしろ出来合の食事を食べることがかなりストレスになってしまい、一食でもコンビニ食などで済ませるのは、非常に嫌になった。
むしろ、調理済みの惣菜や、飲食店の食事で、一日に必要な野菜の摂取量を十分に確保することは難しい。
調理済みの食品には、大抵の場合、多くの食品添加物が使用されている。
昔は食品添加物など「そんなシャラ臭いこと気にしてられるか」という印象だったが、今はほとんど全ての買い物で、食品の成分表示を確認するようになった。
具体的に、何は取るべきではなく、何は取ってもいい、という情報はあまりにも細かな話になってしまうし、自分自身でも完全に把握できているわけではないので、立ち入らない。
が、実際にコンビニやスーパーなどで普通に販売されている食材の中にも、専門的な見地から見て十分に安全とは言えない添加物が多数使用されているようだし、
加工食品をあまり摂取しない生活の方が、(少なくとも主観的には)体調がいい状態で日々を送れているように感じる。
また、砂糖や油などの、体調への影響度が大きい成分についても、
自炊をする中で、それぞれの分量や性質が自分の体調に与える影響の度合いを、実経験で観測していくことができる。
こうしたPDCAが自炊をしていると自然と回るようになるので、自然とダイエットにもなり、体調管理にもつながっていると思う。
これも当たり前と言えば当たり前だが、自炊による料理のおいしさ、という点では、個人的にはYoutube以前と以後で、自炊を巡る状況は大きく変わっている、と思うのだが、どうだろうか。
コロナ以前の、あまりYoutube上での料理動画が充実していなかった頃は、ホットクックを見るか、料理本を見て作るか、くらいが基本的な選択肢だった。
ホットクックは玉石混淆だし、料理本は色々試すにはハードルが高く、またレシピ通りに作っても必ず美味しくなるわけではない。
また、いずれの場合でも、レシピだけを見て作っていると、料理の背景に、ベースとなる基礎があることが理解しにくかった。
その点、例えば食材の切り方一つ、食材の投入タイミング一つでも、動画で示されれば、そこで用いられているテクニックは一目瞭然だ。
また、「これは本当にすごいな」という、作って感動するレシピがかなりたくさんあるのもYoutube料理動画の凄さだと思う。
誰の料理が好きかは好みが分かれるところだろう。個人的には、コウケンテツさんは、このジャンルでは本当の天才だと思う。ほとんど全てのレシピ動画に、味という観点だけでなく、作りやすさ、シンプルさ、という観点からも、驚くような工夫が凝らされている。毎回非常にクオリティが高いのに、ありふれていない。単純に仕事として憧れるところがある。
Youtubeがあることは、今から自炊を始めることの大きな理由の一つになるのではないか。
上記のように、Youtube動画でちゃんとレシピや工程を確認しながら多くの料理を経験していくことで、料理全般を下支えするセオリーが体感的にわかるようになってくる。
例えば、
・どのようにして旨味を構成するか?
・〇〇の食材は、季節によって味がどう変化するか、いつが美味しいのか?
・なぜこの順序で食材を投入するのか?
など、無数に論点がある。
もちろん、素人なので、こういう事柄について体系的にわかっているわけではないが、それでもかなり感得できるところがあるのは確かだ。
「なぜこのような料理の仕方になっているのか」「この料理のうち、何がユニークなのか?」「なぜこれが美味しいのか?」などを考える上で、それを言語化し、考えるためのヒントが自分の中で非常に多くなる。
また、それに対する考察が、日常の料理にもフィードバックされるために、自分と家族の食の経験がより豊かなものになっていく。
これは、とても創造的で、面白い頭の使い方だと思う。食をよく楽しむと、「ああ、人生を豊かに楽しんでいるな」という気に、ふとなる瞬間がたくさんある。
これも、個人的にそう感じる、というレベルのことに過ぎないかもしれないが、料理や食材は、「人間と自然との強力な接点の一つ」だ。
「サラリーマンは一年のうち3ヶ月は田舎に行って農作業をするべきだ」
というようなことを言っていた。
これは、人間は(人間以外の)自然に触れることで、人としての自然なあり様を取り戻せる、などというような話の文脈で言っていることのようだったが、
やはり現実的にはこれはなかなか難しい。
一方で、都会に暮らしていると、自然に触れることによって自分の心身が整えられる感覚があるのも、自分としては実感するところだ。
例えば、食材を茹でている鍋の中で、いろいろな食材の色を眺めていると、何となく癒されるものがある。
また、料理をすれば、その色彩を眺めるだけでなく、実際に手で触れ、匂いを嗅ぎ、それを味わう、という、五感を総合的に用いたプロセスを、自然と経験する。
これが、日常生活を生きる上での、癒しになっている面は非常にあると思う。これは、例えば電子機器などが介在するような趣味とは、少し異なる位置づけの趣味として考える必要がある。
料理は細々したタスクの積み重ねだ。日々確実に、決まった時間に、下記のような要素を十分に考慮した料理を提供する必要がある。
・おいしさ
・栄養素
・原材料費
・在庫管理
・洗い物の段取り
これらの左脳的なタスクも、非常に奥深いものがあり、上記を同時に達成するためには、細かなオペレーション上の工夫や、機材の導入などを適切に行なっていく必要がある。
私自身は一介の勤め人だが、上記のようなスキルは、一般に経営者が求められる全般的なスキルと通ずるところがあるのではないか、と思う。実際に、経営学等における考え方を、日々の料理の管理に活用している部分も色々ある。
こうした事柄について改善を行うためには、個々の作業をただ行うだけではなく、全体の工程を俯瞰した上で、このプロセス全体を創造的に組み替えていく必要がある。
ここまで色々語っているが、自分が料理に実際に日々費やしている時間は、平均で30分程度のものだろうと思う。
このような工夫を継続的に行うことで、「涼しい顔をして高品質のアウトプットを出し続ける」ような仕事の仕方を、多少なりとも身につけることができつつあるのではないか、と思っている。
結局、これが一番大事だ。
よくある言説として、「時給に換算するとこれは〇〇円だから、外注した方がいい」などというものがある。
確かに、資本主義の原則から考えれば、原則的に自給自足は不合理であり、分業こそ正義、というのは、理論的には正しいだろう。
「自分がすることのうち、何を内部化し、何を外部化するか、ということは、生き方そのものを規定する哲学だ」ということだ。
それこそ原理から言えば、ありとあらゆることを外注化することができる。
料理を外注化すること、子育てを外注化すること、(仮想的に)家族・友人を外注化すること、(パッケージ化された娯楽を楽しむという点で)趣味を外注化すること。
技術が発展すれば、例えば「息をする」というようなことも外注できるだろう。
原理を考えれば、デカルト式に、「我思う」以外の事柄は、全て外注可能である、と言うことができるかもしれない。
しかし、やっぱり自分はそういうあり方には、本質的な喜びはない、と思う。
食事を作り、家族と食べる、という行為は、「息をする」のと同じカテゴリーに入る、自分に属する行為だ、と、今の自分は感じているらしい。
まあ、どこにラインを引いていくかは、人それぞれだ。それが生きる姿勢の反映ということだと思います。
…
最近自分の人生を振り返って絶望していたが、そもそもの原因は自分がどういう人生を生きたいのかまともに把握できずに多方面から減点法をつけているから人生がマイナス1000点に見えているかららしい。
そもそもそのどういう人生を生きたいのかが子供の頃に持っていた夢を基準にしているっぽい。
つまり俺はサッカー選手になりたかったし、ヒーローになりたかったし、ゲーム名人になりたくて、アイドル、博士、開発者、パイロット、料理人、その他もろもろのありきたりな夢を夢見てそしてそのうちの1つを叶えて普通のサラリーマンになった。
つまり俺は迷子になっていると思い込んでいるだけで本当は目的地にいるんだと思う。
たとえるなら旅行先を選びきれずに北海道と沖縄と東京と大阪と神戸と水戸と能登と香川とアメリカとイギリスと台湾とインドとその他諸々のあちこちにいきたい気持ちを抱えたままでそのどこかにいる状態なわけだよ。
今ここにいる自分も別に悪くないと割り切ればいいだけなのにいつも考えているのは「そもそも俺が目指すべきはもっと別の場所だったんじゃないのか?」という減点方式の思い込みでしかねえんだろうな。
それもこれも今時分の現状をどう思うかではなく、子供の頃の自分から見て今の自分が満たされているかどうかだってわけだよ。
どうせどんな生き方を選んだって「陰キャっぽい」「陽キャっぽい」「社会の役に立ってなさそう」「クリエイティブじゃない」「支離滅裂すぎる」「縁の下の力持ちが一番えらいのに」とアレコレ理屈をつけてそれを見下げ果てる自分がどっかに出てくるんだろうから気にするだけ無駄なのに。