はてなキーワード: 現代医学とは
気のせいかもしれないが、最近著名人ががんで亡くなるニュースが多い。
私は30代で乳がんにかかってしまい、現在は休職してがん治療を行っているのでそのせいもあるとは思う。
がん治療中の身としては、正直逝去のニュース自体シャットアウトしたい気持ちが強いが、テレビやスマホで見たくなくても目に入ってしまう。
ニュースへのコメントなどでいろいろと考えさせられてしまうことが多くなったので、すっきりしておくためにここで書いておきたい。
きっかけとなったのは、さくらももこさんが乳がんで亡くなられたニュースだ。
詳細は不明であるが、彼女は一旦病院での治療を行い、最終的には代替医療でがんを治療しようと試みていたようである。
そのニュースに対し「お悔やみ申し上げるが、怪しい根拠のないインチキ療法を行うからこんな目にあう。
病院でちゃんと治療をすることが必要だ」といったコメントが散見された。
私もがんが発覚する前、小林麻央さんのニュースを見てそのような感想を抱いた記憶があり、
がんを患ったことがない人、がん患者が周りにいない人にとっては一般的な感想になるのかもしれない。
ただ、がんを患う身となってから勉強・体験をするにつれて、若干考え方が変わるようになった。
がんの種類にもよるが、まだがんの腫瘍が局所にしかみられないステージ0~3のケースにおいては、
がんを根治することを目的に病院は手術や抗がん剤、放射線といった科学的根拠に基づいた標準治療を行ってくれる。
ただし、がんは標準治療が終わっても、必ずしも治ったと言い切ることができない。
寛解状態を維持できる方もいる一方、一旦治療が終わって寛解状態となっても、他の臓器に転移して病状が進む方もいる。
患者としては、ステージ0~3の場合は抗がん剤治療などの辛い治療を耐える気力もあるかもしれない。
私は現在乳がんの根治を目的として抗がん剤治療を行っているが、正直結構辛い(副作用が軽い人もいるが)。
最近はいい吐き気止めがあるので吐いたりこそはしないが、抗がん剤をうって1週間は寝たきりで起き上がれないし、
白血球の数が大分減り細菌・ウイルス感染をおこしやすいため体調が回復しても行動はある程度制限される。
抗がん剤治療が終われば生えてくるし、カツラがあるから大丈夫と人には言ってはいるが、やはりショックだったことは否めない。
薬によっては手足がしびれてペンや包丁を持ったりすることができなくなる。
肝臓や腎臓の数値も悪くなるなど、高齢の人や持病がある人は身体的に耐えられないこともある。
私が使っている抗がん剤の副作用は上記のようなものが中心だが、他にもいろいろなものがある。
また、手術で体の形はかわる。健康な体とはやはりどう見ても違うし、リンパ節を切除することもあるから後遺症も残る可能性がある。
「治る可能性がある」と医者に言われているから、憂鬱ではあるものの病院に行き、
我慢して標準治療を受けているような状態だが、がんが発覚してもこの治療を受けたくないといって拒む人の気持ちは理解できる。
副作用自体が仕事や価値観として耐えられないこともあるだろうし、
頑張って標準治療を受けても、まれとはいえない確率で再発・転移して一気にステージ4の病状へ進むことがあるからだ。
ステージ4は、がんの腫瘍が局所のみならず、他の臓器や部位に遠隔転移をしているような状況を指す。
このような病状では、基本的にがんを根治することを目的とせず、抗がん剤治療を中心とした、延命とQOL向上を目的とした治療方針をとる。
現代医学の限界として、ステージ4のがんの根治は難しいようだ。
樹木希林さんのケースのように転移を起こしても10年程度生きられるといったこともあるが、早期に亡くなってしまうケースも多いようだ。
自分ががんを患うようになって、ステージ4に進行した場合は代替医療をやってみる選択肢を否定できないな、と思うようになった。
病院で治療をしたとしても数年以内にはおそらく死ぬとわかったときに、
患者として副作用てんこもりの抗がん剤治療をやる気力が残っているのだろうか。
ステージ4の場合は原発巣の治療とは異なる薬剤を使うようだが、どうしても前に受けた治療の苦い記憶が思い起こされてしまう。
治らないとわかっている延命治療にお金を使うくらいなら、インチキかもしれないが奇跡的に治ったという人もいるという代替医療をやってみてもいいんじゃないか。
こんな風に代替医療を選択する人がいたって、おかしくないと思うようになった。
もちろん法外なお金をとったり、標準治療は間違っているなどと言ったりしている代替医療に関しては、
それを提供するクリニックや団体自体は問題だと思うが、患者の判断が問題といった物言いはできない。
代替医療を選択したいと思う気持ちをフラットに聞いてくれたり、下心なく相談に乗ってくれたりする人はなかなかいないと思う。
がんは日本人の2人に1人がかかる病気なので、病院の外来待合室はいつも患者とその家族で大盛況だ。
医者や看護師は忙しく、話を聞いてくれる余裕はなさそうで、「治療を受けるのはあくまで自己判断です」とオブラートにつつんでいわれるのが関の山だろう。
代替医療に科学的根拠はない、それ自体は間違ってはいないが、代替医療を選んだことを責めるのは心苦しいと思うようになった。
だって科学的根拠のある治療とやらでは、ステージ4のがんを治療したいと思う心はなぐさめられないのだから。
がんが発覚してから、ステージ4まで進行したら、と考えない日はない。
自分がこんなにも生きていたいと思っているとは、今まで思いもよらなかった。
もしステージ4に進行してしまったら、気楽な代替医療にすがってしまうかもしれない。
そんな時、「あなたの選択肢はおかしい、科学的根拠のある治療に切り替えるべき」なんて訳知り顔で言われてしまったら、本当に腹立たしいだろうな。
アスペルガーという言葉は、2015年頃から広く本のタイトルなどに取り上げられるようになったのではないだろうか。ちょうどその頃に、幼い時分から苛まれていた無力感、焦燥感、虚無感の根元にある直視し難い性質が何なのか判然としたことに感動したのを覚えている。家族を巻き込んで不幸をもたらす憑き物を現代医学が心の病だと看破したかのような爽快さがそこにはあった。私はこの障害のことをもっと知り、前向きに治療をしていこうという気持ちを持ち、それは今でも続いている。
しかし、障害を知覚したところで苦痛が晴れるでなし、それ以降もこの長きに渡る連れ合いは私を苛み続けた。正体見たりと凄んだところで、死角から刺されるのが堂々と名を名乗り正面から切り伏せられるのに変わったに過ぎなかった。
その日は取引銀行の支社長が社長宛に挨拶に来るということで連絡を受けていた日だった。いつもなら、というか"正常なら"同席の程を上司である財務担当の役員に伺うところなのだろうが、今回はそれが出来なかった。
何故なのか全く分からない。先方が名前を挙げてないのに同席させるのは失礼じゃないか。それとも担当なのだから同席しない方がおかしいのか。時間を取らせるくらいなら私が同席すれば良いのでは。頭で考えるだけの道は無数に枝分かれをし続ける。"一体何が正解なのか"。
そうこうしているうちに混乱から別の業務に手をつける、というサイクルを繰り返して日付が変わり、約束の30分前に私はその役員から呼び出された。
「なぜ俺は今日声を掛けられてないんだ」
「社長の予定を確認してからずっと黙って見てやっていたが、我慢ならん」
「そういう気の回らないところが頭に来るんだ」
こってりと絞られた後、心にいつもと違う感じが差したのをうっすらと覚えている。
私は今までこの気が回らないということを必死に隠してきた。中学生かそこいらまで、親からよく気がつかないとか人の気持ちを分かれとか言われて過ごした。その頃は親から怒られること自体が苦痛だったため、幸か不幸かそれを自分の性質と捉えることなく、説教を回避したい一心で人への接し方を注意しながら生活できるようになった。それでも学校生活で求められる他者との関わり合いなどたかが知れている。
やがて企業に勤め社会に出るようになると、その性質に大いに悩まされることとなった。上司の、同僚の、客の言うことがわからない。わからないまま、説教が始まる。しかし、正すべき箇所とその方法が見えないため、またそれに悩む。この繰り返しで自尊心をズタズタにしながら、三度目の就職で東京を転がり出て辿り着いた現在地点が今の片田舎にある中小企業だ。
私にとって、人の気持ちだの上司を立てるだのということが分かる機転は、尻尾のようなものである。生まれた時から有しておらず、今後手にすることも能わない。そういう能力が無いことを自覚して、別の器官で補いながらなんとかかんとか死なずに生きてきたのだ。
しかし今日、私は尻尾が無いことを隠すのを忘れ、尻尾が為すべき仕事を手や足で為さなかった。そして運悪くそんなタイミングで「尻尾のない奴は頭に来るんだ」という一言が飛んできたのだった。
こういうことで叱咤を受けることは歳を重ねて減ってきたとは言え、もちろん何度も経験している。普段なら自分なりに飲み込んで処理できる筈なのだが、全てはタイミングなのだと思う。
それはなぜか異常なほど深く私に突き刺さり、刺さった言葉は体内を刺激し、文字通り身を裂くような勢いで疎外感を噴出させていった。
「かわいそうだな」
自分を客観視する自分に気がつく。解離が始まった。早く戻らないと。早く自分に戻らなければならない。しかし、昼過ぎに始まった葛藤は定時の鐘が鳴るまで続き、何もせぬままそこからさらに三十分ほど放心して、私はとぼとぼと帰路に着いた。
俺はメーカーに勤務しているので、毎朝決まった時刻になるとラジオ体操が流れて、ラジオ体操をすることになっている。
工場を有するメーカーでは、そのようになっている会社がほとんどだろう。
それだけでなく、地域や組織のスポーツ大会などでも、準備体操としてラジオ体操が流されることは多いはずだ。
でも、ラジオ体操が作られたのって、70年近く前なんだよな。
70年近く経ってもなお、ラジオ体操は多くの人に親しまれているわけだけど、現代医学的にも怪我防止や準備体操に効果がある、普遍的にいい体操と言えるものなのだろうかと疑問に思う。
「腕を振ってあしをまげのばす運動」は、膝関節にダメージを与えるだけにしか思えないし、
「胸をそらす運動」は、腰にダメージを与えそうだし(ヘルニアとか)、
「腕を上下にのばす運動」は、何のためにやっているのか分からないし、
「両あしでとぶ運動」も、足や膝関節にダメージを与えそうだと思う。
毎朝疑問に思いながらラジオ体操をしている。
アーミッシュが電線を使わないのは、発電設備など高度なインフラを必要とするものがあると、『貧富の格差』が生まれてしまうから、というのが理由だそうです。同様な理由でガソリンも使わなかったと。
正確に言うとインフラの否定なので、アーミッシュは自宅家屋に電線を引きこむ(つまりインフラ)を否定してるんだよね。別に電気使うのは否定してない。アホみたいなロジックだと思うけれど、彼らはそう言ってる。
また自動車免許を取ることを否定している(若いアーミッシュは両親や教会に無断で免許を取り、これがしばしばトラブルの種になる)けれど、自動車に乗ることは否定してない。なので外部と接触するときは相手側に運転を要求する。
アーミッシュは技術の進歩について「新しいものは悪魔のもの」っていう信仰をもってて否定的なんだけど、一方で「聖書は現代医学を禁じてない」という理由で現代医療を受けることは認めてる。これもダブスタに見えるけれど、まあ、そういうふうに言ってるんだからそうなんだろう。一方で彼らはその宗教観から医療保険(と言うか社会保障全般)を認めていない(神の試練だとしている)ため、それらの参加をしないし、アーミッシュの参加を許さない。なのでフリーライダーとしての批判が根強い。
総じて「自分らは開発しないし手を汚さないがその利益を受け取ることはやぶさかじゃない」というのがアーミッシュのポリシーらしい。機械化農業はしないけれど通販で農機具は買うとか。
最近になって母に打ち明けて母は俺や父に話した。
母は宗教が好きではなく、それというのも少し前に有名宗教の知り合いと
ちょっとしたトラブルになってそれから宗教そのものを批判することがあった。
そんな母を見て、耐えられなくなったようで
父はそこまで悪評の少ない宗教だよと言っていたから俺も安心していたんだけど
最近検索したら、2chの危険宗教ランクのコピペの上位にあって吹いた
何年も黙ってたのに母に打ち明けたからか、今度は次女に打ち明けて
神社に行こうだのなんだのと誘うようになった。
次女は俺にそれを相談して、見せてもらったLINE内容があまりにもガチ過ぎてひいた。
手をかざしたら病気が治る系のことを言ってて、
母の持病も治るとか言ってんの
もう完全に詐欺やんけってわかるんだけど
それを信じ切っているのね。
お兄ちゃんはめちゃくちゃブルーになったよ。
ただ信者には完全にマインドコントロールをかけるらしい
そんなにちょろい非科学に騙されるとは思っていなかった。
色々物欲で買いそろえてきたけど結局何かを獲得してもそれで何かが満たされるわけでもなかった。
実際に手に入ると同時にほぼ無関心になる。
そしてそうなることが学習できているのに、
欲しくなるとどうしても手に入れなければという欲求が爆発的に膨らむ。
けど今なら分かる。
まだ自己分析、ハッキリできていないが、たぶん既に趣味物そのものに対しての欲求はとうに霧散しているのだろう。
しかし、それを認めてしまってはアイデンティティの崩壊を招き、ひいては生きる活力を失うと暗に恐れている状態なのだ。
そしてそれをごまかすために趣味を消化するのではなく、さらに招集することで仮初の欲望を満たそうとしている。
本当に時間が足りないかもしれないが、そう思い込んでいる可能性もあるだろう。
つまり、もはや生きる楽しみを失っているのだ。
アジカン風にいうと「情熱 燃やしたあの頃を金銭注いで取り戻すんだ」ってとこだろうか。
実際には帰ってこないから乾き続けているのだが…
それを認められないのだ。
これも人工的にβエンドルフィンの化合物を脳に注入することができれば解決するはずだが、現代医学では不可能なので諦めるしかない。
そもそも、統合失調症という疾病概念(をはじめとした多くの精神疾患)は20世紀以降の概念だ。
なので、江戸時代に「(現代医学的な定義に基づく意味での)統合失調症」の人はいない。
だから、アレな人のことを、気違いとかって言ったわけなのよね。
統合失調症という疾病区分が最近のものだからといって、アレな人が江戸時代にも確かにいたわけで、そういった人たちがどういった妄想・幻覚・幻聴をもっていたかを判断することは、かなり難しい。
確かにそういった人たちや周りの人たちが書き残した資料を見つけ出すくらいしか手立てはない。
そもそも、アレな人は、江戸時代の小早川療養所を描いた黒澤明の「赤ひげ」に出でくる女性のように監禁状態にあってもおかしくはないし、多くの場合はそうであったかもしれない。
あと、手塚治虫の「ブッダ」に出でくるアナンダは、大蛇に追っかけまわされる悪夢を見てるんだけど、これって統合失調症的な幻覚幻聴に思えたんだよね。
元増田の興味とはずれるかもしれないけれど、病跡学っていう方法もあるよ。
誰か亡くなった人(誰でもいいんだけど偉人を対象にすることが多くて例えばフォンノイマンとかでも良い)が、何らかの精神疾患だったり発達障害だったのではないかということを現在残っている資料から推察するっていう学問だよ。
病跡学って(発達障害とかは必ずしも悪いものだとは限らないから)面白いと思うんだけど、書籍や論文にあまりなってなかったりするんだよねー。
http://togetter.com/li/921444などでアキネイター的なシステムでなんとかならないのかといったコメントがあるが、だいたいの病院は受付にいる人(※全ての受付にいるスタッフというわけではない)の脳内にそういうのが構築されており7〜8割方はその振り分けでなんとかなっている。逆にいうと2〜3割はどうにもならない最初から適切な診療科を選択するのが無理ゲーなものである。
はてブでもよくお見かけするなんちゃって救急医先生のサイトに「地雷疾患番付」というのがあり、そこから具体的な事例を見ていただきたい。
http://case-report-by-erp.blog.so-net.ne.jp/20070730
たとえ総合診療科があったとしても、そこで100%適切な診療科に振り分けられるとは限らない(現代医学では不可能である)ということはもっと広く知られるべきだと思う。
○ 性的指向とは、恋愛・性愛対象として「どの性別の人を好きになるか/ならないか」という根本的な傾向のこと。性的指向が他者から「感染」することはない。
○ 異性の人しか好きにならない人は「異性愛者」、同性の人しか好きにならない人は「同性愛者」、異性の人を好きになることも同性の人を好きになることもある人は「両性愛者」と呼ばれる。
○ 「生物学的に異常」という表現がそもそも成り立ち得ない。近代以降の生物学はダーウィンの進化論を原理とするが、進化論は「環境に適応した動物が生き残る」という事実判断を示しているのであって、種や個体の在り方について「正しい/誤り」「正常/異常」などという価値判断を示しているわけではない。
○ ナチスドイツのように「優秀な遺伝子」の繁殖を至上命題とする「優生学(優生思想)」ならば事情は異なるが、生物学は「子孫繁栄」を種の目的として掲げているわけでもない。
○ 「性行為が生殖に結び付かないのに性欲がある」個体を「異常」とみなすならば、同性愛者だけではなく、不妊症の男女もまた「異常」ということになる。「生殖に結びつく能力を持たない」個体を「異常」とみなすならば、同性愛者一般ではなく、不妊症の男女(性的指向は問わない)のみが「異常」ということになる。
○ 生物学と異なり、医学では「正常/異常」という表現を使用し得る。
○ 1974年にアメリカ精神医学会は『DSM(精神障害の分類と診断の手引)』第3版で同性愛を治療対象から除外し、1993年にはWHO(世界保健機関)も『ICD(国際疾病分類)』改訂第10版で「同性愛はいかなる意味でも治療の対象とはならない」と結論した。
○ 日本でも1994年に厚生省(現:厚生労働省)が『ICD』を公式基準として採用し、1995年には日本精神神経医学会が『ICD』を尊重するとの見解を示した。
○ 性的指向に「正常」も「異常」もないというのが現代医学の「常識」である。この「常識」を覆そうとするのは自由だが、同性愛が治療対象(医学的に「異常」)であることを証明するのは難度の高い試みだろう。
○ 「アブノーマル(異常)」が「ノーマル(正常・まとも)」の対義語であることを踏まえれば、仮に発言者に悪意がないとしても、「同性愛は異常」という主張は必然的にネガティヴな表現として理解される。
○ 同性愛には「異常(アブノーマル)」として排斥されてきた歴史もある。不特定多数を「誤解」させたいわけでもなければ、同性愛者が少数派であることを強調したい場合には最初から「少数派」や「マイノリティ」という単語を使用する必要がある。
○ 既述したように、「同性愛は生物学的に異常」という主張は「私が信じるところの『生物』の在り方として同性愛は異常」という思想的メッセージにすぎず、「同性愛は医学的に異常」という主張は事実に反している。現代の社会において「同性愛は異常」という主張は差別的発言として理解される。
○ 法務省人権擁護局の『主な人権課題』に基づけば、特定の人種や性別、性的指向を理由とする差別的発言は人権侵害にあたると考えられる。
○ 同性愛者や両性愛者は、誰もが自分の性的指向をカミングアウトしているわけではないし、誰に対してもカミングアウトしているわけでもない。実のところ、それは異性愛者も同様である。異性と交際・結婚していることは異性愛者である証とはならない。
○ 「同性愛は異常」という主張は、自分の周囲に同性愛者はいないと思い込んでいる人ほど発しやすい。しかし、実際には同性愛者や両性愛者はごくありふれた存在で、複数の調査によれば人口比3〜6%程度は存在するとされる。
○ 目の前に同性愛者がいる可能性を考慮せずに「同性愛は異常/気持ち悪い」と発言することは、実は目の前にX県出身者がいるのに「X県出身者は異常/気持ち悪い」と発言するのと同様、他者を侮蔑する行為である。偶然、その場に同性愛者やX県出身者がいなかったとしても、目の前にいる人の家族や友人が同性愛者やX県出身者かもしれない。
○ 日本の同性愛者や両性愛者の男性の中には、異性愛者の男性の約6倍もの自殺未遂経験者がいる。
○ 誰も他人の心の内を透視できないので、内心で何かを思う分には誰からも何も問題視されようがない。ただし、「同性愛は異常/気持ち悪い」という発想が「黄色人種は異常/気持ち悪い」「男性は異常/気持ち悪い」などの発想と同様の差別的思想であることはそろそろ理解されるべきだろう。
○ 自分が同性の人を愛せないことと、「同性愛は異常/気持ち悪い」と思うことは異なる。性的指向の合致しない人に恋愛・性愛の感情を抱かないのは自然だが、自分と異なる性的指向を嫌悪することは差別的思想によるものである。
○ 「同性愛は異常」と主張する人は、以下のいずれか、または複数の誤謬を自然なものと信じ込んでいる。
○ 実際には、生物の目的は生物学では説明されないし、同性愛は障害でも病気でもないし、同性愛者を気持ち悪いと思うことは自然な感情ではなく主観的な偏見である。これらの事実を示されたとき、事実を受け入れるか、それとも受け入れるのを拒んで「差別主義者」として生きるかは各自に委ねられている。
どの部分で「医者は死んで欲しい」になるのかよく分からないが、
ここか?
「診察を拒否され」ってのがよく分からないぞ。病院に行ったら不調が消えたから「症状が出たらまた来てください」って言われた、って感じか。
でもって、パーキンソン病で突然の呼吸器の異常を発症して死亡、と。
PD(パーキンソン病)患者211例のなかで死因を解析した結果,突然死が15%に認められ,PDの突然死は稀ではないことが明らかになった。
とか言ってるレベルだぞ?
現代医学万能とか思わないで、医師にだってできる限界があるってことは認めてやってくれ。「明らかに許し難いミス」とかでなければ医者を責めるな。無駄に責任を追及して医者のモチベーションが下げれば、結局社会全体が不利益を被るのだから。あなたの納めがたい情動は、もう少し社会にとって有益な何かを生み出すために使ってくれ。
古希を超えて数年たつうちの母親は、東日本大震災の直後ごろに、北斗晶とは部位は違うけれど、ガンがみつかって「ステージⅣ 五年後生存率20%」て診断されて
その年に2回手術をうけて、もう4年たつけれど、結構元気にしている。
人並みに健康診断は受けていたのだが、そのガンは、「検診では見つかりにくい部位」であった。
ちょうど、最初の手術のころは、「輪番停電」がつづいていて、病院が薄暗くて、しかも、電力の不安から人によっては手術時期を延期される人もいる中
「おたくのお母さんは、もし今手術しなけりゃ、余命数か月ですから」と予定通り手術したことを思い出す。
とりあえず、2回の手術を経て、完全にガン細胞を取り除くことはできず、
その後は、保険診療で抗がん剤治療を続けているのだけれど、最初の宣告をうけた翌年には、「これが最後になるかもしれない」ということで、
そしたら、翌年も「今年も行けそうだけど、どうします?」と主治医に聞かれたりする程度の経過をみせ、
最近は体調みながら2~3週間に一度、抗がん剤治療をうけた直後は、2~3日はだるそうにして、
食事つくる以外は、ほとんど横になっているけれど、その期間をのぞけば、随分元気にしていて、この夏は、友人と三泊くらいの旅行に出かけているし
まあ、抗がん剤の影響があるので、「レディースアデランス」が手放せないが。
まあ、病気の経過というのは人それぞれだから、なんともいえないが、母の周りには、そういう人も結構いて
「五年生存率20パーセントと宣告されてから、はや8年」なんて人もちらほら。
病院も、まあ、公立みたいなところ(数年前まで社会保険病院だったのが、組織改革でちょっと名前がかわった)なので、
超有名病院で名医に特別な最先端治療を受けているわけでもないし、後期高齢者なので、アフラックの保険がないと対応てきないような高額な医療費もかかっていない。
もちろん、予想以上に「悪い」展開をたどる人もいるのだが。
ガンにかかった時に、ほかの病気を抱えていたり、病気とまでは言えないけれど「血圧が高め」とか、「貧血気味」とか「肥満が過ぎる」とか
そういう人は、治療が大変だったり、良くない展開をたどりがちのようだ。
あと、ちょっとしたことで、食欲が落ちて、しかも「無理してでも食べよう」という気合がない人。
なんといっても、そういう人は、使える抗がん剤の選択肢が減る。
「がん以外は健康」でないと、抗がん剤治療に耐えられない、ということらしい。
抗がん剤というのは、一つの薬をあまり長く使い続けることができないらしく、また、人によって「あうあわない」があるようで、
基本的には、使ってみて、その後の体調とか、腫瘍マーカーの変化やらを見ながら、
使用を継続したり、中止して別の薬に切り替えたりするらしい。
うちの母親の場合、すでに3種類目だか、4種類目だかになるのだが、
現状では、「今回のは、前ほどきつくないけど、抜け毛は前より増えたのが悩み」だそうだ。
「数年前に認可が下りたばかり」という薬が次々出てくる
実際、うちの母親は、主治医に「○○さん、あと5年早かったら、使える薬がもうなくなっちゃってたかもねえ」とか言われている。
まあ、ガンに根本的な治療法がまだない以上、「がん以外は健康にしておく」というのが大事かなあ、というのが、傍から見ている人間の感想。
あとは、素直に医師(もちろん、まともで常識的な)のいうことを聞くしかないのだろうなあと。
最近、ガンで亡くなった女優さんが、「抗がん剤治療を拒否して、純金製の棒で、患部や体全体をさすったり、押さえたりする民間療法を受けていた」というニュースがあったけれど
個人的には、あれ、完全に間違っていた、と思う。。
いや、それぞれが、自分の納得いくように治療を受ける(受けない)のは自由だけれど。
彼女は「最後まで女優として生きて、次の舞台に立つことを切望していた」らしいから
多少、抗がん剤でつらくても笑顔をみせて、髪の毛が抜けても、カツラをかぶってでも舞台に立ってほしかったなあ、と。
そういえば、母がガンになったことを話したら
「現代医学は医者と製薬会社が暴利をむさぼるために、やたらと抗がん剤など使って人のことをボロボロにする。いい療法があるから教えてあげる」
といってきた友人がいた。
何しろいい奴で、本気で心配している様子なだけに、困ってしまったのだが。
ああいう人たちってなぜ「医者や製薬会社は暴利をむさぼっている」と憤るくせに、
効果のない療法でお金を取っている人たちを「暴利をむさぼっている」というようには思わないんですかね?
ちなみに、その友人とは、いろいろな義理や関係性もあって、必要最小限度の接触を保つ関係が続いている。
その程度の付き合いにとどめていれば、きわめて「いい人」ではある。
ADHDで苦しんできた俺。
ストラテラを飲み、症状は治まってきたもの感情が薬で一定のレベルにコントロールされている感じがして
悲しく怖くもなく、常に楽観的でなんか変な感じである。
抗鬱剤を飲むと、クマと出会っても逃げないというが本当にそんな感じである。
有名どころはこんな感じらしい。
この中の一つ。
http://www.nannbyou.com/medical/shouni15.html
http://www.dojima-hari.com/example/
http://www9.plala.or.jp/niconicocupido/NAC/yama41.html
http://homepage3.nifty.com/dairyuukou/contents06.html
http://www.hadamamo.com/category14/
ストラテラを80mg飲んでいたが、1か月かけて40mgに減薬。
一回に5000円程度、かかる鍼治療に月8回通う。
月4万円。 高すぎる。。。。。。
でも、最初のうちは針を打って数日は頭がすっきりした気持ちになり。
そのうち、薬がなくても過ごせるようになる。
これが半年くらい。
再発しないレベルまで持っていくにははあと半年は通う必要があるという。
ただし、鍼治療ではこの症状にはこのツボではなく、全体を触診できる必要があるし
なので、ときには科学的に採用された過去の公式や定数が、再検証や新たな発見で書き換えられたりするわけです。
だから、今の科学の常識が将来には「間違い」と言われるかもしれない。ただ、今わかっている範囲でも、それなりに妥当で有用で世の中がそれなりにうまく回るから、みんな科学に割と頼っているわけですよ。それで、たとえば現代医学が頼りないと思っている人のなかには、民間療法などを試したりもする(ただ、一部の宗教みたく、信じることの強制は原則的にしてこないですね。白い眼で見られたりはするけど)。
民主主義だって「民主主義なんてクソだが、ほかにマシなものがないからやっている」と、英国チャーチル首相が50年以上前に話したことですが、民主主義のやりかた自体にも議会制から全員参加までいろいろありそれぞれ利点弱点があるし、民主主義自体が正しいとどこかから認証されているから採用されているのではないですよ。
93歳の夫が体の痛みを訴えていた妻に頼まれて殺害したとして、嘱託殺人の罪に問われた公判が千葉地裁で開かれている。夫は「今でも愛しております」と語り、2人の娘は「父は追いつめられていた。ごめんなさい」と悔やんだ。(朝日新聞デジタル)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150618-00000012-asahi-soci
頭おかしいんじゃないのか。
尊厳死には条件がある。
①現代医学では治せない傷病で、死が近づいている場合に、単に死を引き延ばすためだけに延命するのはやめてくれ
③植物状態に陥ってそこからの回復が望めない場合は生命維持装置を切ってくれ
というのが尊厳死だ。
今回の事件はせいぜいが骨折からきている慢性疼痛にすぎず、尊厳死の適用案件には程遠い。尊厳死が法的に整備されていたとしてもこのケースで妻を死なせることはできないし、あってはならない。
これはただの殺人だ。人の尊厳を尊重する行為じゃなく踏みにじる行為だ。
検察が「軽率」と称したのもそこから来ているのだろう。不治の病でもないものを殺して救ってやろうとするなんて傲慢以外に当てはまる言葉はない、というのが本来の司法のスタンスであるはずだ。そこを「軽率」と称したこと自体相当叙情酌量してる。
「軽率なんて言わないでほしい」ってバカか。判決ならまだしも検察側が「軽率などとは称せない、壮絶な苦悩があった、追い詰められていたし仕方ない」的なコメントを出してみろ。
今後いったい何件の殺人事件がそうやって美談に祭り上げられるかわかったもんじゃない。
これは殺人事件で、人を殺すというのは悪いことなので徹底して回避されなければならないことだ。それが社会というものの目指す姿だ。
※懲役5年に執行猶予を狙ってるだろうという意見があったが俺もそう思うしその線を狙うのは妥当。物の本によると、こういう「追い詰められて最愛の人を…」系の殺しで無罪放免にすると裁判後に罪悪感で自殺したりするそうなんで、執行するかは別として刑を科すのは意味があると思う。
※話が飛ぶが、逆に裁判長は「どうすれば良かったですか」とか聞いてんじゃねえよと思う。俺が被告だったら「俺が聞きたいわ」って逆ギレすると思う。いや、反省の度合いみたいのを見るために聞いてんだろうとはわかってんだけど。
例えば安楽死センターみたいな施設を作って死にたい奴はみんな受け入れるようにしていたら?
それは社会的な自殺強要でしかなく、自発的に死にに行ける状況を提供することで逆説的に「そんなだったらもう死ねばいいのに。なんでまだ死なないの?」というプレッシャーを正当化するだけに終わるのは明らかだとは思わんか?
条件を設けると尊厳死に行き着くんで、安楽死センター要らないよ? あとこの事件の妻みたいな人はたぶん利用できなくなるよ。
この妻みたいなパターンが利用できるような利用者条件って相当ゆるい。「苦痛から逃れたいと思っている人」ぐらいの感じにしかならない。
これはわかる。気持ちとしては痛いほどわかる。
だって殺しを依頼して実行してもらっちゃったことで最愛の夫は妻殺しになっちゃったし、娘たちはそれこそうつ病のひとつやふたつ発症してもまったくおかしくないくらいに傷つけられている。
その点では妻もやっぱり追い詰められていたというのがよく分かる。冷静になれるだけの余裕が(精神的にも、体力的にも)あったら、「迷惑かけたくないから殺してもらう」がどんだけ矛盾してるか気がつけただろう。
これだけぶうぶう言っといて何だけど、この事件は社会制度とか公共福祉とかそういうレベルでしか解決は図れなかったろうと思う。
自分の身内がこういう状態になって死にたいと言い出したとき、できることってのは「殺してあげる」か「それでも殺さない」のどちらかを選ぶことしかないと俺は思ってるってことだ。
そして、自分でも、「『それでも殺さない』一択だろアホか」と、その状況になってみても言えるかどうかは自信がない。言えなくてもまったく不思議じゃない。だからこそ今は言っとくわけだけど。
鎮痛剤の適用について言及したコメントがあったが、そういうアプローチはもっと追求されていいだろうと思った。あと介護ロボか?
介護サービスを嫌がってたというが、その辺のニーズ(助けが必要なんだけど人様に助けて欲しくない的な)に応えられるのはもうロボくらいしか思いつかん。
あと自己防衛として「人に助けてもらう上で生じる抵抗感をいかにして減らすか」ってことだけど、貧困文学『アンジェラの灰』で示されたように、尊厳があるってことは他人に借りがないってことだから、抵抗感を減らすとかそういうベクトルの努力はどうしても焼け石に水でしかない。
近親婚が障害の率を上げるのは事実。
だが、それを以てして近親婚を「重大な」タブーと看做すのは実は現代医学の観点からすると根拠薄弱。
近親婚による遺伝的障害の発生率上昇というのは実は何代も続かなければそんなに高くはなら無い。
純粋に障害問題の観点から近親婚を問題とするならば、兄妹婚、姉弟婚よりも、高齢出産の方を問題としないと辻褄が合わないくらいの話でしかない。
近親婚をタブーとするのは、人の交流が現代に比べると遥かに閉鎖的で、意識しなければ長期に渡っていわゆる「血が濃くなる」状態に陥りがちだった時代の知恵であり、そのためにあえて実際の危険以上に強調されて固定された文化的タブーであると言っていい。
別に「近親婚万歳」と主張するわけでは無いが、実際の確率以上に近親婚のデメリットは強調して認識されすぎているきらいがあり、障害発生率を根拠にするのは筋悪。
記録しておく。
25の時に結婚。いつ妊娠してもいいので結婚式後から避妊はせず。
体調は夫婦ともに悪くなかった。
私は生理もきちんときていた、たまに生理痛が辛い時もあったが、病院にかかるほどではなかった。
2回目の診察の時に、旦那の結果を知らされた。薄いと告げられた。
それが問題でしょう、とのことだったので、人工授精になると思った。
その後で、私の卵管のチェックをした。両卵管閉塞だった。自覚0だった。痛みも不調も何もなかったから。
人生で一番凹んだ。”自然妊娠できない体”というのがショックで、悲しくて泣いた。鏡で自分の姿を見るのが辛かった。
凹みながらも、もう体外受精しか道はない(手術で卵管を通すこともできるが、それはオススメしないとのことだった)ので、翌週から仕事を休職し、治療に専念することにした。
勢いだった。もちろん仕事をしながら治療する人も多いと思うが、リーダーという立場上、自分の心がもたなさそうだったので思い切って休職した。
体外受精は、卵子をホルモン注射などで増やし、それを手術で取り、精子とくっつける。
2〜3日に一度病院に通い、痛い注射を打った。打った後は体はぐったりした。
約1ヶ月調整し、手術をして卵子をとった。全身麻酔で、午前中手術をしたら午後に帰れた。
できた受精卵は3つだった。もっとできると思っていたので少しがっかりした。
その月に受精卵は戻さず、すべて凍結して翌月以降から戻していった。
1回目、ダメだった。ショックだった。
2回目、妊娠反応が少しだけでたが、ダメだった。妊娠反応が出たことで、1回目よりはショックではなかった。
3回目、妊娠した!しかし、初期は流産も多いと知っていたので、あまり喜べなかった。5ヶ月ぐらいになった時、やっと少し喜んだ。
その半年はすごく辛かったが、半年で済んでよかったと思っている。
私は「卵管閉塞」という体外受精に直行な不妊原因だったので短くて済んだのだと思う。
原因不明や、女性ホルモン系の不妊になると、タイミング療法→人工授精→体外受精、とステップを踏まないといけないので時間がかかるからだ。
育児はそれなりに辛いけれど。
現代じゃなかったら、私は子供産めてないのかなぁと思うと、現代医学に感謝してもしきれない。
妊娠しないなぁと思っている人には早く病院に行って欲しいです。
私ももう1年早く行けばよかったなと思ったりします。
忘れないうちに、記録でした。