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はてなキーワード: 現代アートとは

2024-09-21

anond:20240921034324

これはAIに頼らない時代作品なんです!ってコンテクスト普遍的価値を持ちうると思ってる?

現代アート価値算定基準普遍的価値を持ちうるんですか?

anond:20240921033010

え、なんで?

現代アートに対する解像度が極めて低そう

品質は低いけどこれはAIに頼らない時代作品なんです!ってコンテクスト普遍的価値を持ちうると思ってる?

うーん

ひとことだけ言わせていただきます

おまえは、バカ

2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

1. 古代哲学宗教
2. 中世近代哲学
3. 近代現代哲学思想
4. 科学技術の発展
5. 心理学自己啓発
6. 芸術文化
7. 人類学コミュニティ
8. 倫理学道徳哲学
9. 政治哲学社会思想
10. 科学哲学認識論

2024-09-13

カオスラ(カオスラウンジ)ハラスメント告発のその後について

以前pixiv東浩紀などを巻き込んだ現代アート騒動を起こし、またハラスメントがあったという告発話題になったカオスラ(カオスラウンジ)のことを覚えているだろうか?

先日、そのハラスメント告発に絡んだ名誉毀損訴訟地裁判決があり、告発側が敗訴した。

ハラスメント告発記事については300ブクマ以上がついているが(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.businessinsider.jp/post-228812)、

その後の裁判についてはろくに追いかけていない奴がほとんどだと思うので解説する。

カオスラのハラスメント告発に絡んだ訴訟というのは全部で3つある。

これは告発者の支援者概要をまとめているのでそれを参照してほしい。

https://bewithayanoanzai.cargo.site/27406331

この3つの訴訟のうち、最初セクハラパワハラ告発カオスラが名誉毀損として訴えた裁判は、

セクハラは認められたがパワハラ部分は認められず、告発者が55万円を支払い記事を削除するという判決が下され、控訴審もそれが維持され判決が確定した。

2番目は告発者が不当解雇を訴えた裁判で、これについては告発者の主張が全面的却下されるという判決が下された。これは控訴現在係争中だ。

そして先日、カオス社員2名が告発者を名誉棄損で訴えた裁判地裁判決があった。この判決では、告発者が2名にそれぞれ55万円を支払うという判決が下された。

まり、この一連の裁判をまとめると、カオス代表による個人的セクハラこそ認められたものの、それ以外の争点や主張については告発者がほとんど敗訴しているのだ。

最初記事ブクマや、それ以降の記事https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bengo4.com/c_18/n_13718/)(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22904)などでは、

ほとんどがカオスラ側を批判するものばかりだったが、ここで批判ブクマをしたブクマカたちは今この結果をどう思っているのか?

ちなみに、3つ目の裁判においては社員側の主張として、賠償金を増額するべき理由としてあの北村・雁林裁判におけるカンパ罪の判決引用されており(https://drive.google.com/file/d/1ftozT81cRknv5DJFD-bC02wIF4orTLZA/edit

最近話題にも接続できる要素がある。

2024-09-01

anond:20240901132543

体育会系の男兄弟がいなかった人?

「食える最低ラインクリアしてて腹が膨れればいい奴」には

大盛りスパゲッティ市販ミートソース

大盛りカレーハヤシライス

クソデカオムライス(薄焼き卵は巻かずに載せるだけでもいい)

冷蔵庫の余り物と卵の大盛りチャーハン

なんか楽な大盛りの丼もの海鮮丼豚丼牛丼親子丼など)

に、適当に切った大盛りサラダつけるだけのを永遠にローテーションでオッケー

 

増田旦那みたいな人種に「味わって欲しい」は「一般はてな民美学美術史文脈を踏まえて現代アートを読み解け」くらい無理な注文なんや

2024-08-31

村上隆が嫌われる理由

「俺は海外オタク文化翻訳して伝えてあげているんだ」発言

村上がこの発言をした2010年頃であれば、ある程度は説得力のあった発言かもしれない。

しかし今や漫画アニメ複数言語翻訳され、日本海外時間差なく配信される事態であり、もはや村上のような中間業者必要ない。

そもそも村上知名度があるのは「海外アート業界」内だけなのに、「海外に向けて」は嘘・大げさもいいところだ。

アート業界転売ヤー界隈と同じ

現代アート作品投資対象であるコレクター作品が好きだから買うのではない。将来価値の上昇が見込めるから購入するのである

クリエイターゴミを作り、アート評論家ギャラリーアート雑誌神輿に担ぎ、投資家ぶりたい小金持ちが買う、というダサイクルだ。

近年のガンプラポケモンカード界隈のようなもので、作る側もグルになっている分より悪質だ。

海外転売ヤーにお前らの作品を売ったらみんな絶賛してくれたぞwww」と言われて喜ぶクリエイターが居るのか。

カオスラウンジを持ち上げた張本人

村上隆はpixiv,東浩紀と組み「彼らこそ日本ARTの新しい射程だ!」と言ってカオスラウンジを大々的に押し上げた張本人である

カオスラウンジ2011年ネット画像をパクったことを開き直ったのが原因でネット大炎上し、2020年には代表黒瀬陽平女性社員との不倫裁判沙汰になったことが原因で活動停止した。

黒瀬カオスラウンジ活動の中で「日本悪い場所であり、我々はそれを打破する新しい表現を~」と宣っていたが、結局女性スキャンダルという日本文系業界あるあるで失脚することになった。

黒瀬陽平こそが「悪い場所」の体現者であり、そんな輩を持ち上げていたのが村上隆なのであった。

魔法少女アニメ映画製作

オタク業界でも何かしらの実績が欲しくなったのか唐突アニメ映画を作りだしたが

出来たのはまどかマギカ流行に数年遅れて乗っかったような駄作アニメであった。

・他のアニメにない目新しさでもあれば良かったのだが、結局オタククリエイターとしてもダメ、という評価が固まってしまった。

2024-08-28

anond:20240828151536

死を意識してこそ万博テーマであるいのち輝く未来社会デザイン」が本当に理解できるのだ、っていう趣旨現代アートなら良くできてると思う

anond:20240828123801

挙句

skel 前澤氏が一括で買ってくんないかなぁ。激レア現代アートと名声が同時に手に入るからお買い得だと思うけど。



前澤買え!だからなw

どこまでも他人任せなクズども

2024-08-03

現代アートなんて、内輪でやってる悪ふざけに似たような趣味金持ちが「いいじゃんそれw」って金を出したものに、商売が上手い奴がそれっぽく価値風味をつけて売りさばいているだけなのに、

それをマジになって「かっこいい」とか「これがわからない奴は・・・」って悦にいっちゃってるやつは終わってる。←SNSに良くいるイキり

「これがわからない奴は・・・」って演技してる奴は売りさばいて儲けたい奴。

庶民がありがたがるようなもんじゃないよ。

2024-07-31

anond:20240731094458

原作通りのマイメロママ名言グッズが炎上して中止になったこともあったな

作品執筆当時の時代背景やその資料性を鑑みて、原文のまま収録することとしました」

あたりを初手に持ってこないといかんのかも

今回なら現代アート無罪の御旗を前面に押し出すべきだった

2024-07-20

「アブジェクシオン(abjection)」は、フランス哲学者精神分析学者のジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva)が提唱した概念

この用語は、汚物死体などの「穢れ」とされるものに対する心理的な反応や、社会から排除メカニズムを指す。

アブジェクシオン自己他者境界を守るために重要役割を果たすが、同時に恐怖や嫌悪感を伴うものである

 

アブジェクシオンは、自己主体)と他者(客体)の境界を保つための心理的な反応。主体自分と異質なもの排除しようとする過程で生じるとされる。

身体的または精神的に「汚い」と感じるもの血液排泄物死体など)に対する反応であり、これらのもの社会的にもタブーとされ、排除対象となる。

クリステヴァは、文学芸術がアブジェクシオン感覚を探求し、表現する場であると考えている。これにより、個人社会無意識の中にある恐怖や嫌悪が表面化されると。

 

この考えの面白いところは、よく起こるWeb炎上説明できること。

たとえばフェミニズムにおけるアブジェクシオンは、女性身体が「汚れた」ものであると扱われたプロセス説明するものだが、トランスジェンダー排除生理的感覚説明するものでもあり得る。

また、性的もの公共から排除したいという感覚や、「美しく無い」現代アートに対する感覚説明するものでもある。

2024-07-14

現代アート作品を「美しく無い」「汚い、残酷だ」「よって価値がない」とする意見はよく見かけるが、これはちょっと変な視点だ。

「美しく無い」「汚い、残酷だ」が事実として、それが「価値がない」に直結するのは違和感がある。

そうした作品が持つ、醜さ・残酷さ・グロテスクさは、人間がそれを避けながらも、どこかでそれを求めてしまう面があることを感じさせる。

その気付きを与えられる時点で、一定価値があるとも言える。好き嫌いとは別に

こうした違和感を突きつけるというのは、よく考えると漫画アニメの得意技でもある。

2024-07-11

anond:20240711234634

事実現代アートだのキュビズムが好きなんてヤツらは変わり者扱いされるだろ?

2024-07-03

anond:20240702122142

美術ってのが何を指すのかによるけど

いわゆる現代アートってもんがどうしようもない袋小路に入り込んで何が美なんだかようわからんみたいになってるって意味なら同意

文脈の上でしか価値を持たないもの視覚芸術聴覚、その他でも同じ)ではない

まぁあれは金融資本主義とびっちり結びついた時代の徒花なんで

2024-06-29

関東おすすめ美術館沖縄県編)

  1. 沖縄からの人の出入りの99%は空路である
  2. 沖縄から最も航空便が多く発着しているのは羽田である
  3. ゆえに沖縄県は関東である証明終わり。

沖縄県立博物館美術館

企画展東京でやってるヤツの巡回がほどんど(地方にとっては、それはそれで充分意義のあること)だが、常設展美術館コレクションを定期的に入れ替えてやっている。

沖縄出身作家について大規模に収蔵されているのはここしかない。個人的には安谷屋正義が好きで、「塔」か「望郷」のどちらかが展示されているのでそれを見に行っている。

ゆいレールおもろまちから徒歩10分。

佐喜真美術館

宜野湾市の私設美術館丸木位里丸木俊による「沖縄戦の図」の収蔵で知られているが、それ以外にもルオーの絵を結構持っていたりする。

浦添市美術館

常設展琉球漆器。名のある作家作品と言うより、歴史的資料としての漆器の方が多く、博物館に近い。

壺屋焼物博物館

国際通りから外れた平和通りの奥。長年研究されている学芸員の方がいて、展示・収集のサイクルがきちんと回っている印象。

アヤミハビル

与那国島郷土資料館の類いに近いが、日本最大の蛾であるヨナグニサン(最大で全長30センチ)の標本が多数見られる。運が良ければ生体も見られる。

おまけ 上原清善記念館

篤志家で、あらゆるところに寄付をして生涯に5000枚以上の感謝状をもらったという上原清善さんが、晩年老人ホームを寄贈して、その片隅に設置した記念館。大量の感謝状が並ぶさまは現代アートといえるかもしれない。

anond:20240628162906

2024-06-24

anond:20240624234707

成功した経営者も、所詮個人で、スーパーマンじゃない。

追い詰められれば、言動もわけわからなくなる。

たぶんあまり寝てないだろう。

Xのアカウントが乗っ取られた件をXに書き込むのはなんだ?現代アートか?

広報機能してないみたいだ。

2024-06-19

都庁プロジェクションマッピング

これ

https://x.com/hiko_ARMY1230/status/1802275850450063752

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/x.com/hiko_ARMY1230/status/1802275850450063752

 

別に50億でこれだけじゃないだろう

 

2月のやつとかまだマシだぞ

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000032.000020452.html

 

まあ既にダサいと言われてるけどw

https://togetter.com/li/2327337

 

これ、一般財団法人プロジェクションマッピング協会(本社東京都渋谷区代表理事:石多 未知行)

がやったってことでいいの?

もしくは選定者がやったか

いや、協会がかな、Youtubeとか見ると

 

まあ、ダサいと言うか、「自分には理解できない」だけど(気を使って)

 

これさ、アートなのかエンタメなのか観光資源なのか

そこらへんが曖昧なのが問題なんじゃないか

たぶんアート寄りになっちゃってると思うんだけど

アートってほとんどは「Not for me」で、理解できなきゃスルーするじゃん

例えそれが現代アートで、東京都税金でやってても大丈夫なんだけど

プロジェクションマッピングって外向きに見せるんだよね

そこじゃないか

2024-06-08

anond:20240608093126

「ゲージュツなんだから意味がわからなくて当たり前」というならな

それこそ淫夢動画だってその場の思い付きとしょうもない身内ノリばっかりで、外部の人間には意味不明だろ

「どうしてこの動画がそんなに草生えるのか」なんて、文脈過去の積み重ねをちゃんと踏まえた、ネット全体からすりゃごく一部の物好き以外にはわかんねーんだよ

(だいたい「草」の由来からしてそういうコンテキスト込みなわけで)

そんなものふたばみたいに身内ノリやジャーゴンが幅を利かせるタコボム社会であれば、所詮どこにでも見られる光景しかない

タコツボエコチェンなんていくらでもあるのに、現代アートけがむやみに孤高面したって笑わせるだけだわ

から結局、トリエンナーレ不自由展みたいな文化ムラが文化ムラたり得ている要素って、作品社会派・党派性まみれのメッセージそれ自体じゃないんだよね


単にこいつらの利害関係共犯関係で成り立った、いたって資本主義的な営為しかなくて(ここは元増田もある程度自覚的ではあるが)

「何が芸術か」なんて、実際のところ誰も考えちゃいねーんじゃねーのか

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(後半)


(前半からの続きです。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093126


現代アートの不満


もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。


大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品ほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。


思い返せば2020年トリエンナーレにあった「エビSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビ水草の入っている閉じた水槽)の中でエビ酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビ生殖をしなくなる。そこでエビ生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品エビセクシーな格好をさせるとか、エビ秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶していますしかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球生態系比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています


2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家メモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。


現代芸術作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます人文学哲学歴史学経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。


かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家自由作品を作れるはずなのに、ただ社会要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります


しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。


作品」と「意味


トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。


しか問題受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケ作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります


今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています作品意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います


私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメ解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかアニメ本編とはズレているか面白い。YOASOBI の歌はアニメストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界アートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います


しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。


批判いたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレ批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーション環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感理解できますが、それとは別に芸術資本関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品意味もつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。


むすび


咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーター解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義マルボロ広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランス果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーター真剣構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います


要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます


魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風ファンになり、富山妙子画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号オブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛け作品が好きでした。


つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。


横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-05-30

東京近辺の美術館、誰かまとめてほしい

美術館レベルみじんこの俺が知ってるやつ

いつもごっちゃになる

 

東京都現代美術館

清澄白河の方のアレ

現代アートやってる、基本理解は出来ない

から遠い

暑い、見たあと「何か食べていく?」「何ある?」「うーん何もない」ってやり取り2回した

 

東京都美術館上野の森美術館

上野公園の中にあるアレ

どっちがどっちかわからない、確か入り口に近いほうが東京都美術館ちょっと小さいのが上野の森美術館

基本迷う、大体並んでて混んでる

なんとなく知ってる画家の展示の広告見たら大体ここでやってる

宣伝が多いよね

今やってるやつ行きたい、あれなんだっけ、シュールっぽいやつ

森なので少し涼しい

 

国立新美術館

乃木坂駅で降りる唯一の理由

「ああこの美術館写真で見たことある」のところ

なんか色々な展示やってるけど、一個一個入場料がかかる

カフェだけで利用しても良いなあと思うけど一生しない

 

森美術館

六本木ヒルズって何があるの?」「美術館があるよ、行く?」「行かなーい」

って毎回女子に言われるから行ったことない美術館

 

東京国立近代美術館

近代とか言いつつ他よりは古めなものが多い

現代アートよりはわかりやすいけどやっぱり理解できない

静かすぎる、靴の音しか聞こえない

入場料めちゃくちゃやすかった記憶がある、税金の力を感じる

広い

景色を楽しむ場所がある

ていうか周辺散歩したほうが楽しい

 

まとめ

名前が似すぎなんだよお前ら

 

____

 

この前地方美術館行ったんだけど

やっぱ広くて良いね、案外地方のほうが良いのでは

でも美術館のために遠出はできないんだよね

2024-05-16

気づいたこと。ワイ、人間より芸術作品の方が好き

生きている人間よりも、芸術作品の方が素晴らしい

ここでいう芸術作品古典とか現代アートに限らない

無名クリエイターでもなんでもいい

 

10万人とか100万人に1人みたいな芸術家の作り出すものけが素晴らしいと心のどこかで思っているか

 

年齢関係なく無名の人が不慮の事故で死のうが

マジでどうでもよくて

 

逆に有名な芸術家が亡くなると本当に悲しい

2024-05-11

さがしています

90年代終盤から00年代の前半くらいまでだとおもうのだけど、美術作品現代アートで、クマぬいぐるみからイヤホンを表皮の全体に生やして、中に何個かのラジオを仕込んで、それぞれ全て異なる放送局に選局しておく、普段は雑多な放送内容が相互邪魔してノイズのようにしか聴きとれないが、時報の瞬間だけは音が揃う…

てな仕組みの作品情報を捜しています

当時、実際に展覧会に観に行ったような、それとも美術雑誌か展示予定チラシの解説で知ったのか、もう忘れてしまいましたが、その外観写真のなかなか強烈な印象は今でもときどき思い出すことがあるくらいです

どなたか御存知ありませんでしょうか?

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