はてなキーワード: 猛毒とは
ご存知の通り日本の葬式はほとんど仏式で、東京だと「葬式に花を出す」っていうと「カゴ」などと呼ばれる白い菊の花のアレンジメントになる
グレードが上がるとそこにデンファレとかカトレアとかの蘭の色花(白じゃない花)が入る
店によってはカスミソウ入れたりオンシジウム(黄色い蘭)入れたりする
キリスト式とか、仏式でも遺族の希望があれば洋花(菊じゃない花)のアレンジメントが使われる
こちらは比較的自由度が高くて故人が女性ならピンク系男性ならブルー系、ひまわりが好きだったから入れてとか、色々と選びようがある
この白木の祭壇の代わりに遺影を囲むように「花祭壇」といって大きなフラワーアレンジメントを配置することもかなり一般的になってきた
一方で創価の葬式って基本的には仏式なんだけど、生花を飾ることは少ない
基本的には供花の代わりに「樒(しきみ)」という榊に似た植物を使うから緑一色になる
で、祭壇の一番目立つところには学会の掛け軸がどーん
花屋としてはアレンジのしがいがなく、提案のしようもないのであまり楽しい現場ではなかった
俺がいた会社はそれなりの規模があったので学会員の社員がいて、創価の葬式はほぼ彼らが担当していた
たまに手伝いで参加すると彼らから2つのことをしつこく言われた
1つ目は、樒の扱いにはとにかく気をつけろということ
それもそのはずで樒は猛毒だ
茎にも葉にも毒があるんだけど実の部分を食ったら確実に死ぬくらい毒性が強い
おそらく土葬の時代に野生動物よけのために使われ、それが形式として葬儀にも残っているのだろう
そして2つ目に言われたのが
お後がよろしいようで
子なしだが仲睦まじい老夫婦がいる
その分親戚の子らをかわいがっていた
自営業も細々だが続けていた
無理が祟って妻もかつて患った大病がぶり返す
妻も入院加療が必要になったところで夫の施設入所が決まり住民票も移された
50年以上ずっと一緒に暮らしていた夫婦ははじめて別居することになった
度々入退院を繰り返すようになった
裸一貫からふたりの稼ぎだけで建てた家が妻の何よりの誇りだった
クルマがないと不便なところにある家だ
度重なる大病の影響で妻にもやや半身麻痺や認知機能低下が出始めた
後期高齢者年齢に近づくこともあり親戚一同でやんわりと話しした結果
以後は行政のオンデマンドバスやタクシーを使いながら週1の通院を続けている
新しい薬と相性がよいのか最近は一時期に比べればとても元気だ
そう、元気なのだ
「みんなよってたかってこちらを病人と決めつけて免許を取り上げた」
「バスは不便だしタクシーはカネがかかる、クルマがあればすぐなのに」
「買い物にも夫の施設の見舞いにも行かれない」
妻はもともと口が悪いがここにきて恨みが重なり毒の濃度が要ガスマスクレベルにあがっている
先行きの見えない不安とか
血族よりはるかに長い時間を過ごした伴侶と引き裂かれた悲しみとか
コロナ禍で誰とも思うように会えない、出かけられない苛立ちとか
そういった本人も処理できないであろう感情でないまぜになってるのは理解できる
ただ、全方位猛毒スプリンクラー続けていたらそのうちみんな周りから遠ざかっていっそう孤立してしまうだろう
後悔という病はおそろしい
できなかった道、断ち切らざるを得なかった未来が総天然色で襲い掛かってくるのだ
俺はまだ甥の立場だから多少毒も聞き流せるし向こうも手加減してるけど(俺自身に向くヘイトは今のところないしな)
実のきょうだいである俺の親とかには相当すごいことを言ってるっぽい
俺も独り身である意味いまの伯母と似通った立場だからなんとなく背中が寒くなる
綺麗に老いるのは予想以上に難しいんだろうな
どんなに良好な関係であってもまだ生きてる相手に向かって現預金その他資産のありかと大まかな額を教えろとか言えねーよな
なんで食おうとしたし...
怒りだの憎悪だの以前に、「曲解で犯罪予告扱いされて通報されたとき」にどうすりゃいいのかなって思った。
いや、ここ最近?数年?詳しくは知らんが、まぁ近頃のネットは別の意味でピリピリしている。
昔のアングラじみてて、犯罪予告も脅迫もまかり通ってた世紀末な空間だったネット(勝手なイメージです、大昔の2chって完全ノーログサイトで誰も投稿者がわからなかったらしいし)も十分アレだが。
今のネットは過敏すぎるのだ。やれポリコレかパリコレか知らんが、「人を傷つける言葉を使わないようにしましょう。取り繕って、わからない言葉で遠回しに言いましょう。」ってのが流布されてるような気がする。気がするだけだが。
バカがTwitterやティックトックで犯罪自慢したらすぐ燃やされ通報され社会的に殺されるようになった事はいい事だが、それが行き過ぎて「言葉に犯罪性を感じさせたら通報アンド逮捕」みたいになってる。
ほら、いっとき問題になったよね、温泉の萌え擬人化みたいな企画に対して「企画に参加してる人たちの温泉に猛毒流し込まれなきゃいいですね」って脅し。アレね。当然通報されただろうし、言ったやつはヤバいと思ったのか消して逃げた。
でもさ、この文章は確かに悪意を込めた皮肉混じりの脅迫だろうけど、「怖い人たちに襲われる可能性がありますよ」と注意喚起してるようにも見える。まぁ注意喚起に見せかけた脅しだけどね。
逆に言うとそれって、ちょっと過激な表現使った注意喚起も、誰かに「それって犯罪予告ですよね?通報しますね。はいあなた犯罪者。」ってされるわけじゃないかなって。
それどころか、重箱の隅をつつくように人の言葉尻をとらえて「それ犯罪予告ですよね。通報。」ってやるのも出てくると思う。
というかもうきっといるし、被害受けてるのもいる。
そう考えるとさ、何気ない言葉を脅しって取られた時点で、愉快犯や自分を嫌う人間からしたら、「こいつを犯罪者にできるきっかけを手に入れたぞ!」って事なのかなって。
ある程度世界史・人物史に興味があって学んできた人間なら、この説明が一番得心がいく気がする
https://www.fnn.jp/articles/-/321106
プーチン大統領に「2つの恐怖心」 強硬手段を止められない理由を専門家が読み解く
欧米諸国の猛反発の中で軍事侵攻に踏み切ったプーチン大統領。その絶対的な権力を築いてきた歩みを振り返ると、胸に秘める「2つの恐怖心」が浮かび上がってきます。
熱心な愛国主義者だった父に育てられたプーチン大統領。大学卒業後には、ソ連の国家保安委員会「KGB」へ。情報員として滞在していたのは、当時ソ連の影響下にあった東ドイツ。その最中の1989年、ベルリンの壁崩壊が起こります。
首都ベルリンを東西に分けていた壁が崩壊し、翌年の90年に東西ドイツが統一されました。さらに、91年にはソ連が崩壊。母国の激動を目の当たりにしてきたプーチン大統領。その胸中を、ロシア情勢に詳しい筑波大学の中村逸郎教授はこう推し量ります。
プーチン大統領にとって、ソ連が崩壊するというのは自己否定なんですね。そういうことが再び起こるんじゃないかという恐怖というものをずっと抱きながら、今日まで至っているわけなんです。
強硬姿勢の背景には、若かりし日に刻まれた崩壊への”恐怖心”が見え隠れするといいます。一方でプーチン大統領は、国内で絶対的な政治基盤を築いてきました。
大統領に就任したのは2000年。「強いロシア」を掲げると同時に自身の強さを打ち出すイメージ戦略も巧みに使い、世論の支持を獲得。2021年には大統領の任期を定めた憲法を改正し、自身が最長で2036年まで大統領に就くことができるようにしました。
実際、支持率は2022年1月には69%と、これまで60%台で推移してきているのです。その中で過去を振り返ると、2014年のクリミア侵攻時は原油価格が低下。経済が苦しかったということもあったかもしれませんが、攻撃をすることで“強い祖国”にという方針に、国民は一定の支持を示しました。
その結果、支持率は約20ポイント上昇し88%までに。20年以上トップに居続けるプーチン大統領の思惑として、アメリカに負けない強いロシアを作りたいという気持ちが人一倍強いことを中村教授は指摘しています。
しかし、その盤石にみえる長期政権の陰で、ここ数年は反対勢力の動きも活発化していました。2021年1月、プーチン大統領と敵対する反体制指導者・ナワリヌイ氏が自身の取材をもとに「プーチン御殿」を告発しました。
大統領が秘密裏に建設を進めていたと指摘するその内部には、豪華な装飾が施されているほか、スケートリンクやカジノ施設などを備え、価値は1000億円を超えると言います。一説では、プーチン大統領の総資産は22兆円にのぼるとの証言も。告発を受けたプーチン大統領は即座にこの邸宅との関係を否定しましたが、批判の声もくすぶりました。
そうした中で、プーチン大統領はもう1つの恐怖心を抱いていると専門家は言います
プーチン大統領に対して「もう飽きた」「もういい加減にしてくれ」というような気持ちが、特に20代30代の人たちの中に広がっています。支持率が低下傾向にある中で、プーチン大統領は大変な恐怖感を持っているわけです。つまり、自分に国民が歯向かってくるという恐怖心を持ち出すわけなんです。
支持率低下への恐怖…。それを解消するため、ある方法をとっていると中村教授は指摘します。
プーチン大統領は、自分の意に合わない人はどんどん排除していく。または毒殺を使って死に追いやるという政治手法をこれまで約20年間とってきています。
プーチン大統領は関与を認めていませんが、ロシアではこれまで政権に批判的な人物が何者かの襲撃を受ける事態が相次いできました。
「プーチン宮殿」を暴露したナワリヌイ氏は、2020年8月に何者かによって猛毒の神経剤で襲撃されているほか、当局による度重なる拘束を受けました。そして、2006年にはチェチェン紛争を巡ってプーチン大統領を批判してきたジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤさんが射殺される事件が発生。
さらに、ロシアの元スパイで、プーチン大統領を批判していたアレクサンドル・リトビネンコさんも同じ年にロンドンで何者かに毒殺されました。そして今…。
今回ウクライナ侵攻することによって、国民たちの目を外に向けようというところに、実はプーチン大統領の思惑があるわけです。スパイ時代に学んだ政治手法、つまり目的の為には手段を選ばないという、スパイ活動の基本中の基本というものを今、プーチン大統領は取っています。
「目的の為には手段を選ばない」ことを軸にプーチン大統領は行動しているというのです。さらに、「アメリカに負けない強いロシアを作りたいという気持ちが人一倍強い」こともプーチン大統領の思いとしてあると中村教授は指摘します。
そして、政治・経済・軍事にトップは存在するが、実質ロシア全体を掌握しているのはプーチン大統領であり、国内では彼を誰も止められないのではないかと話しています。
細かく言うと、タコピーの原罪の登場人物の母親たちを悪で子供達は被害者という論を何の疑問も持たず振り回し続ける読者達が嫌いだ。
東母がやたらと毒母呼ばわりされているが、開業医として働きながら小学生で満点さえ取れないような次男に向き合っていたら心が壊れるのも当たり前だろう。
息子の満点のご褒美として用意したホットケーキを延々と捨て続けて心がおかしくならない奴はいない。
もちろんここでホットケーキを捨てるのがおかしいなどというのは論外。ご褒美として用意したのに達成されていないのならそれは誰にも食べられないのが当然で、これを可哀相と喚いているのは躾に一貫性かない甘やかし毒親と自分を甘やかしてくれるなら何でもいい毒子の意見に他ならない。
また三千円の眼鏡については何の検査もせずに手渡しているようなので伊達眼鏡だと推測される。老眼鏡ではなどと下衆な推測をする東擁護がいるが、仮にも医師が健康を害するものを与える訳があるか。親にのしかかるのは老眼鏡や合わない眼鏡を付けさせたツケの方が大きい。伊達眼鏡と推測するが、これはある種心理療法的な作用を期待していたのではないか。
多忙な中、学習障害な上に同級女子の殺人の濡れ衣まで引き受けてしまう子ガチャ大失敗猛毒子の直樹に、東母本人は本当によくやった。
潤也だけ産んであとはきちんと避妊していればよかったのにな。
文学者・文芸者としては超一流だった。都知事の会見での回答なども文学者っぽかった。
そういう点では宮崎駿監督も同じ匂いを感じる。絵描き・映像監督と政治家で違うけども、根本は文学者だと思う。
文学や新聞がメディアの中心でなくなった以上、こういう人はもう現れないだろうなあ。
石原慎太郎氏、自作を語る『わが人生の時の時』、死の影と生の充実
「こんなにいろいろ体験した物書きはいない。ある意味、ぜいたくな人生だと思うよ」と話す石原慎太郎さん(酒巻俊介撮影)
DSC_3468『わが人生の時の時』
政界を引退して4年余りが過ぎた石原慎太郎さん(86)はサッカーにヨットにダイビングに、とさまざまなスポーツに熱中してきた。そんな“肉体派”作家の身体と感性が鮮やかに結晶したのが、平成が始まって間もなく刊行された自伝的掌編集『わが人生の時の時』(平成2年)。かけがえのない時の断片を乾いた筆致でつづった40の掌編は死と隣り合わせにある生の輝きを静かにうたいあげる。(聞き手 海老沢類)
この本は不思議なきっかけでね、大江健三郎のおかげなんですよ。テレビ局の依頼で反核運動が盛んだった西ドイツ(当時)に取材に行ったら、同じ目的で来ていた大江と会った。ベルリンの壁の前で僕は覚えたてのスキューバダイビングの話を彼にしたんです。この本に書いたオキノエラブウナギという猛毒をもった不思議なウミヘビと遭遇した体験を語って「海の底は全然違う宇宙で、いろんな発見があるんだ」と。大江はやけに感心して「石原さん、そういう話、絶対書きとめておいた方がいいですよ」と言う。
思えば、僕は他の作家にはない体験をしてきたし、いろんな人と出会って面白い話も聞いてきた。人生を記録として残そうとしたんです。書きながら人生を感じ直したよね、強烈に。
《収録された40編の多くが海での体験談。知人の遭難や自身の大けが、巨大な生物との遭遇などが回想される。弟の俳優・裕次郎さんとの別れや霊の存在を示唆するような不思議な出来事、戦時の日常も描かれる》
僕は肉体派だからね。肉体を使った行為というのはその裏側に必ず死の影がある。スキューバダイビングでも随分怖い目に遭ったし、遭難にも立ち合った。避けようもない落雷をヨットの甲板上で目にする「落雷」という一編があるけれど、あのときはコンパスがクルクル回るのが気持ち悪かったね。
ただ僕はね、恐怖は人間が味わう一番の感動だと思う。恐怖が通り過ぎた後には安息があるし、たった今過ぎていった凝縮された時間の充実をも感じる。死とのコントラストの中での生の味わいは深いですよ。死は人間にとって最後の未知だから興味がある。この掌編群はいわば、いつ死ぬのかな、という緊張の中でとらえた生と死のフラグメント(断片)なんです。
戦時の体験も書きました。横須賀から出航する前、家族と最後の別れをする将校の姿とかね。僕らをかわいがって膝の上に乗せて頭をなでてくれた青年将校が死んでいく。その妻が葬式で何も入っていない骨壺を抱いている…。戦争の不条理や残酷さは僕の中に鬱積して、国家への愛着、そしてアメリカに対する反発となった。盛田昭夫さん(ソニー元会長)との共著『「NO」と言える日本』(元年)もそういうものが潜在意識にあって書いたんです。
《26年、衆議院議員を最後に政界を引退。精力的に執筆を続け、田中角栄元首相の生涯を一人称でつづった『天才』(28年)は大ベストセラーに。現在も文芸誌に小説を連載する》
随分危ないこともやってきたと思うけれど、僕はそれはそれでとてもエンジョイしてきた。自分をつき動かすのは結局、人生に対する好奇心なんだよね。
ライフワークが一つあってね。仏教徒だから法華経を現代語に訳そうと思っている。法華経は非常に哲学的で、存在や時間について深く考えさせる。今は道半ばだけれど死ぬまでに完成したい。
やっぱり小説が一番面白いよ。政治家同士のだまし合いなんか、最も薄っぺらいね。僕は作家だしヨットマンですよ、ずっと。でも時化(しけ)たレースではさすがにもう乗れないな。
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『わが人生の時の時』 文芸誌「新潮」の平成元年10、11月号に掲載。翌2年に新潮社から単行本が刊行され、後に文庫化された。『石原愼太郎の文学』(全10巻、文芸春秋)の第8巻に、エッセー『わが人生の時の会話』とともに収められている。
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〈いしはら・しんたろう〉昭和7年、神戸市生まれ。一橋大在学中の30年に「太陽の季節」でデビューし、翌年に同作で芥川賞。『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、『生還』で平林たい子文学賞。43年に参議院議員に当選。後に衆議院に移り環境庁長官、運輸相などを歴任。平成11年から24年まで東京都知事を務めた。