はてなキーワード: 特攻服とは
1978年日大文理学部入学。日大闘争終結から9年たった当時でも、学生運動の名残りが色濃く残っていた。成田空港どうのこうの、日米安保どうのこうのといった立て看がキャンパスのあちこちに乱立し、学生の不穏な動きを警戒してか入構の際には学生証の提示を求められた。登校して学生証を見せなきゃならないのは、日大と防大だけだというようなことが、学生の間で自虐的にかたられていた。その年の冬休みの前だったのか後だったのか記憶がはっきりしないが、ヘルメットをかぶり、ゲバ棒の代わりに竹竿を持った一団が何か叫びながらキャンパスを駆け抜けた。学内はあっという間にお祭り状態。数百人の学生が集まり、あちこちでアジ演説が始まった。その後大学はロックアウト。漸く学内に入れるようになると、見るからにマル暴風の男たちが歩き回っている。大学が雇ったスト潰しか?そればかりか、袖に国s館大学の刺繍が入った特攻服を着た若者が彼らに付き従っている。何故本校の在学生でさえ学生証が必要なのに他大学の学生が我が物顔でキャンパス内を跋扈しているのか。流石にノンポリの僕もこれには怒りを覚えた。
その年の後期試験は中止になりレポート提出だけになった。十数年後懐かしさで母校を訪ねると、なんら身分証などの提示を求められることもなく自由にキャンパスに入ることができた。少しは日大も変わったのかと思いきや、今回の一連の流れを見ると相変わらずのヤクザ体質。これでは在校生は勿論の事OBも日大出身と胸を張ることはできない。
特攻服 着て 殴り込みに行かないと
昨今アイドルゲームやアニメが多い中、度々話題に上がる「ライブにコスプレしてきていいのか」問題について事の整理と個人的な解釈をまとめたいと思います。
まず、ライブの注意事項にコスプレ可・コスプレ禁止等の記述がある場合はそれに準じたルールとなります。
一般に、公共の場所でのコスプレはマナー違反と言われています。
着替える際にトイレを占拠する場合は迷惑ですね。許可の無い場所での撮影会も通行の邪魔になりますし、管理者への迷惑になります。コスプレ自体TPOをわきまえた服装ではないです。
コスプレ禁止の明記が無いからコスプレしてもいいと判断することもできますが、一般にはコスプレは許可されたイベントにおいて行うものという認識の方が多いのではないでしょうか。
ライブ会場やその周囲もいわゆる「公共の場所」です。よってコスプレはマナー違反と考えられます。
しかし、ライブ会場では大きくキャラクターが印刷されたTシャツや法被、特攻服等の服装の方もいらっしゃいますね。その方たちの服装はコスプレに比べライブの服装として容認されているように感じます。
トイレを占拠しての着替えや、同じ服装をした仲間たちとの写真撮影、TPOから外れた服装であることはコスプレと同様です。
いったい何をもってコスプレはマナー違反と言われるのでしょうか。
個人的には一般の利用者が多く居るような施設(お店や道路等)ではそういった服装をするのは頂けないと感じます。しかしライブ会場内で有れば良いと思います。法被や特攻服は羽織るだけですし、フルグラT等は外では上着を着ていれば問題ないと感じます。
そういった点ではコスプレも会場内だけであればいいのではと思えそうですが、トイレ以外着替える場所もなければ、その服で会場に向かうのもTPOが感じられないので難しそうですね。
あとこれも個人的意見なのですがライブにコスプレは結婚式にウェディングドレスで参列するようなものという表現に頷きます。
最後に
先日の某ライブにてコスプレ参加を複数人(男性女性問わず)見かけたことを受けて書きました。
公共の場所でのコスプレは作品と他のマナーを守っているコスプレイヤーさんにも迷惑をかけていると感じます。また、許可されていない公共の場所での撮影会も管理者や利用者に迷惑です。法被や特攻服等の作品を大きく表した服装も時を場所を考える必要があるのではないでしょうか。
また、時折コスプレにしろ作品の名前等が連想される服装(ライブTシャツ等)をしているときは、その作品の看板を背負っている自覚持って問題行動は起こさないようにと聞きますが、どんな格好をしているにも関わらず行儀・作法をいち人間として自覚することが大切ですね。服装だけでなく行動に関しても重きを置くべきです。
まあ正直こんな個人的意見述べたところで昔からの暗黙の了解とかもありますし空気読んで人に迷惑かけないようにうまいこと立ち回って楽しんでる人もいますし、自分が楽しめるようにある程度目に障ることに対して鈍感になったほうが幸せですよね。
猜疑心が強すぎるのでは。そういう乱れた場もあるのかもしれないが、
おそらく実際としては、現役コスプレの子たちの言っているような健全な場の方がはるかに多いのだと思う。
往々にして、外部の風評というのは特別醜悪な部分だけ抜き出し、誇張され、時に捏造されたものなので、
それをベースに現役の子たちに聞くと、その聞き方によっては自分たちを愚弄していると捉えられ、頑なに反発されるのは当たり前のことだ。それを隠蔽と受け止めてしまったのでは。
というより、そのコスプレイヤーたちもあなたの友達だったくらいだから、概ねあなたと同じくらいの知性や倫理観の世界で生きてきた人だ。あなたの憂慮するような事に遭遇したなら辞めていたはず。
続けているということはそういう乱れた層の人間とは遭遇していないか、したとしても距離を置いて、真っ当にやっているのだろうと汲んであげ、配慮した上で訊いてほしかった。
このような、内側の人と外側の人との乖離を、私も別の件で感じたことがある。
私自身、ラブライブという作品のファンで、その作品性に、キャラクターたちの関係性に、演じる人たちの熱意に、心動かされ感動することしきりだった。今も作品を大切に思っているし、ファンも大半は悪い人ではないと思っている。
なにしろ内容が、多様性を尊び、拙さにも寛容で、思いやりにあふれた優しい世界観でありながらパワフルなベンチャー精神を鼓舞するような内容だからだ。
けれども、偏見の目でみられやすい美少女ものかつアイドルものでもある。大ヒットしファンを大量に抱える中で、やはり外部の人からは「気持ち悪い」と思われる部分が、ことあるごとに抜き出され続けてきた。
全身にキャラ缶バッチをつけた人や特攻服を来た人が徒党を組んで街を闊歩しているだとか、ファンが聖地の甘味処で騒いだだとか、あるいは殺人事件を犯した学生がファンだったとか。
そういう悪評に繋がりそうなことを、ネットの暇人たちは目ざとくみつけてきて、そのたびに作品のファンの呼称であった「ラブライバー」は、ネット上においては蔑称として認知されていった。
実際にそれ単体で迷惑を掛けているとは言い難い「痛ファッション」などについては、私自身はいい歳のおっさんでありグッズ収集欲も見せびらかし欲もないとはいえ、
あまりに叩かれるのが不憫で擁護していたりもした。もっと生暖かい目で見られるくらいでいいとは思うのだが、やはり外部の人は弾圧の対象にしたいくらい気持ち悪がるものだ。
ネットを見ていると、非ファンの人が触れる情報は、そういう「ラブライバー」を揶揄するものばかりだから、「あの作品はクズのキモオタ・ヤンキーの集まりなんだな」という印象になってしまっているだろう。
けれども、私が街や劇場などで目にし、触れてきたファンの若者たちは、平均的な若者たちと大差なく、基本的に礼儀正しく、親切で、真っ当なバランス感覚を持っている人が多かった(あとカップルが多すぎ)。
その乖離は、私が運良くファンの一員として内側に居たからこそ気づけたようなもの。
もし2013年のあの時、偶然スクフェスをDLせず、ネットに篭ってゆるいアニオタを続けていたら、ラブライバーにいい印象は持っていなかったと思う。
それほどまでに、「理解しがたい奴ら」への「嫌悪感」は容易に人の心へ侵入してくるものだと言うこと。
2ちゃんのファンが集う板でも、「前は『ラブライバーwww』って見下してたけど…」という人はよく見かける。
けれどもそうした人は、ラブライバーdisで溢れているメジャーなまとめブログのコメ欄などには行かなくなるし、可視化されない。
結果として、他人の醜態を嘲る卑小な感性の人々の持論ばかりが、ネットの総意になりやすい。
同じようなことは、もちろん他作品でもある。○国嫌悪だとか、著名な人、政治家・芸能人・経営者への態度でも起こりうる。
そういえば私はその前に、堀江貴文さんに関しても同じことを経験していた。
彼がなぜ罪に問われたのかについて興味をもって、ニートで暇はいくらでもあったので、日本の司法や経済についてWebコラムや本を読み漁った。
いろんな方面の有識者の彼に対する見方を総合した結果、彼は過剰に批判されていると私は判断した。
そして、むしろ彼の才能や考え方は尊敬に値するものが多いと感じてファンになった。もともと自分の思想傾向が彼同様リバタリアンに近かったせいもあるだろう。
もちろん世間の感覚とは真逆だ。いつまで経っても彼を「でも犯罪者でしょ」と思考停止して評する人が多いのは、息苦しいがどうしようもない。
ただ、彼が他と違うのは、今でも著名な大学に招かるなど、風評と切り離して是々非々で評価する人たちからは求められていること。
彼に限らず、歯に衣着せぬ物言いをする人は、どうしたって悪印象を持たれ、する事なす事マイナス補正が掛けられる。
それでもやってる事が保守的な職人キャラなら好かれることもあるが、破壊的急進的な行動様式の持ち主であれば、多くの日本人は嫌う。
私は「叩かれまくっている人から良さを汲み取れるオレカッコイイフェチ」になっているのかもしれない。
ほかにも、極論ばかりと叩かれる池田信夫だが、氏のブログは普通に勉強になることが多い。感化されて『資本主義と自由』や丸山真男を読むようになったり。
一種の中二病と笑わば笑え、それでも「安易に悪意に染まらない」心という得難いタレントを得たと自分では思っている。
話を戻すと、増田が難儀なのは、コスプレの世界に踏み込みそうなのが彼女だと言う所。
これが自分自身であれば、まだ傷つくのを恐れず飛び込んできちんと判断してやろう、という良い選択肢があるのだが、そうは行かない分、慎重になるのは分かる。
もし、増田があげた彼女のくだりが虚構で、コスプレへの嫌悪感を表明するための方便だったとしたら、この下衆がと罵倒してやりたい所だが、本当にそういう事なら、提案がある。
彼氏彼女の仲なのだから、二人そろってコスプレに参戦してみたらどうか。
彼女を守りつつ虫除けもできるし、彼女にとってもその方が嬉しいし楽しめるだろう。
コスプレの元ネタ作品を一緒に鑑賞する機会などもつくれるし、一石三鳥だ。
それをせずに、彼女にコスプレの醜悪な部分ばかり語って忌避するように仕向けるのも手としてはある。
それも彼女が保守的な性格ならいいが、そうでなければ「了見の狭い男」と取られる可能性もある。
私は常々不思議だった。何故ラブライバーはヤンキーのような外見の人が多いのかと。
確かにアイドルのライブには昔から「○○命」と刺繍を金糸で入れた特攻服に身を包んだ、近寄りがたい方々がいたがラブライバーはそのはるか上を行く。
全身に缶バッジをつけジョジョの奇妙な冒険第7部SBRに出てくるタスクACT4を思わせるような非人間的外観をした怪物がうようよいるのだ。
その溢れ出した自己顕示欲とIQの低さはもはやヤンキーと呼ぶ他無い。
何故だ。
ラブライブという物語それ自体がマイルドヤンキーの文脈に沿っていたのだ。
母校という地元(いばしょ)を守るため、チームメイトという仲間達(マブダチ)と、全国の頂点(テッペン)を目指す。
その根底に流れるものはROOKIESやスクール ウォーズ といったヤンキースポ根ものの血脈だ。
主人公達の大部分が全くの素人であるという部分も上記の作品と共通している。
そしてそれはラブライブサンシャインでいよいよその色を濃くしていく。
まず舞台が田舎である。これはマイルドヤンキーの生息地として適切だ。
そして主人公達は地元民の期待を背負っている。この結束感こそがマイルドヤンキー魂の生まれる土壌だ。
その結束感ゆえ彼女らは大会のルールを叩き壊し、自分たちの地元と自分たちが盛り上がるためのパフォーマンスに興じる。
そう、彼女らは自分たちが内輪で盛り上がりかつ自分たちの存在を知らしめんためにルールという檻を叩き割るのだ。
一作目のラブライブは、この現代社会の中で自分たちの存在を認めさせる方法としてラブライブで健全にのし上がるという方法を取った。
しかし二作目にしてついに、ラブライブのルールという枠組みに囚われず自分たちの信じる道、自分たちがこの一瞬を輝ければ周りの迷惑も今後のアイドル活動すらも投げ捨てる道を選んだのだ。
最終回にこの話を持ってきたということは、制作側は視聴者にこの姿をロックだと感動して欲しかったのであろうことがわかる。
そうでないのならもっと前にこの話をやり、ルールを破るのは流石に駄目だと反省させる物語の作り方をするはずである。
だが、これに感動できるのはヤンキーだけだ。
心をヤンキーにしなければルール無用の大会荒らしで涙など流せはしない。
それならば結論は1つだ。ラブライブは最初からヤンキーによるヤンキーのためのマイルドヤンキーアニメだったのだ。
そう考えれば、あらゆる疑問の答えが出る。
先週、川崎市で中学生の男子が殺害されるという痛ましい事件が発生した。
犯人の少年らと殺された中学生に接点はないものと思われていた。しかしどうやら「ラブライブ」なるアニメに興味関心を持つという共通項を持つらしい。
そのアニメがどのようなものかについて調べてみたが、かなりヤンキーといった反社会的な素質を持つ層から好まれている作品であるようだった。
例えばラブライブに登場するキャラクターを刺繍した特攻服に身をまとったり、ラブライブのグッズを体中に張り付けるという愛好者が相当数いると聞く。
また、愛好者の中には作品の真似事をし各所に迷惑をかける人も多いと聞く。
これらの点より、ラブライブの愛好者の多くは大なり小なり反社会的な素質を持つと推測される。
ラブライブの作品内容はアイドルごっこに興じる女子校生を描いたものである。従って、ラブライブを見ることが殺人含む反社会的行為に繋がるとは考えにくい。
むしろ反社会的行為に親和性の高い層が、ラブライブというコンテンツに群がっていると考えられる。
もちろん殺された男子中学生のように、ごく普通の人間もラブライブというコンテンツを受容していると考えられるが。
この事件を機にラブライブを規制せよという世論が高まることも考えられる。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201203240177.html
でもね、公教育がそれを牽引するとはぜんぜん思わないんだ。
むしろ有害。
江戸幕府が自前で世界一の蒸気船を造るとか言いだしたら、おいおいって思うでしょ。
あんまりいい例えじゃないのはわかってるけど、そんな感じだよ。
文一主席と理三主席を10年分集めて純国産iPhoneとか純国産Googleを作ろうとか言い出したら、どういうものが出来るかなんとなく想像がつくでしょ。
偏ったっていいから、なにかしら思想がないと何も成せない。なにも作れない。
先端教育に限ったことじゃないよ。
草の根に至るまでの初等教育だって公教育である必要なんか無いわな。
それぞれの藩校、私塾、多様な教育があったからこそ、いい人材が育ったんだろう?
幕府直轄で学制とか敷いちゃってたらさ、どんなに才能が溢れてても陽明学と朱子学が駄目だと進級できなかったりしたんじゃね?
教育なんか偏ってていいんだよ。
それが正しかったか間違ってたか、偏ってたか公平だったかなんて、後の世になってみなくちゃわからない。
進化論を否定する学校とか、君が代を歌わない学校とか、いろいろあっていい。
数学に力をいれようが、英語に力をいれようが、授業と称して池田大作を褒めちぎっていようが、構わないんだよ。
全体として多様性が保たれていれば。
もちろん、私立の学校なんて田舎にはないだろうから、公立をなくすわけにゃいかないよ。
公立しか選択肢がないそんな子供たちには気の毒かもしれないけど、悪いけどそこじゃ日の丸は掲げるべきだし、君が代は歌うよ。
子供に強制はしないとしても(したっていいと思うけど)、教職員はそれをするべきだよ。
キリスト教式の結婚式をあげて、「神の前で愛を誓う誓わないは自由です!」ってわけにゃいかないから。
国歌斉唱が式目にあるなら、斉唱するのは参加者の義務にせざるを得ない。
ないなら、歌いたい人がいようが、勝手に歌いだされちゃ困る。
君が代を歌うのが正しいか、間違ってるか、そういう問題じゃなくてさ、式ってものがあるなら式目が必要で、だれかの判断で式目をつくらないとならない。
式目を作ったら、それの通りに式は進行させないとならない。
そういうことだろ?校長の判断でどうこうってのは。
でさ、この人の言い分ってのはおそらく、
「勤務日じゃないから私人として式に参加してるだけだから、君が代を歌う義務なんかない!ビラを撒こうが、プライベートな活動だからとやかく言われる筋合いはない」
ってことでしょ?
そりゃあ通らんよ。
退学になった生徒がバイクで乱入したって同じ理屈が成り立ってしまうじゃん。
「俺達生徒じゃねーもん!特攻服できたけど、卒業生を祝うために一般参加しただけだもん!」
でもありになっちゃうでしょ。
それ以上はするな。