はてなキーワード: 物言いとは
その結果が以下。
https://i.imgur.com/UBzZTBy.jpeg
このラフがしっかり仕上げされる形になってて本当にびっくりした。
軽く自己紹介すると、ワイはお絵描きが趣味でIT系の仕事をしとる人間や。
最近のTwitter上のオタク界隈はAI絵の炎上が絶えない。
Stable Diffusion は出たての頃にちょっと触ってみたんやけど、何百枚も生成して使える絵は片手で数えるほどだったという印象があってそのあとはあまり真面目に技術を追いかけとらんかった。しかし最近の炎上を見てて、技術的にどこまで可能でどこからが不可能になるのか確認したくなり、もう一度環境構築からやり直すことにしたんや。
Stable Diffusion の WebUI の Docker 版を入れて、イラストに特化したモデルを入れて、VAEで画像のボヤけを解決し、噂の ControlNet を入れてみて、手元にある未完成の絵のラフを Canny につっこんでみて、プロンプトとパラメータを調節したらこの出来やで。
ちなみに貼った生成画像は無修正や。プロンプトにキャラ名は入れてないで。
何やろうね、このなんとも言えない気持ちは。
もしもワイにとって絵が道具やったら、簡単に十分なクオリティの絵ができてラッキーだと思っとるところやと思う。
でも、ワイにとって絵は目的やったから、描くこと自体が楽しいものやったから、理不尽な物言いだとは分かってるけど、それを奪われたような気持ちになったというのが一番近い表現やと思う。
というわけで当初の目的だった技術的に可能な点不可能な点を探るってのは今んところ不発に終わってるわけやけど、ワイが1年以上前の Stable Diffusion に触ってて思っていたところよりもよっぽど先まで話が進んどるんやな、とは思った。
正直、ワイみたいに描くこと自体が目的のヤツは少ないやろうな、と思う。大多数の人にとって絵は自分のブログ記事やプレゼンの資料を飾るための道具や。だから、この技術が今は法的に決着がついていないところを抱えているけど、それにはそう遠くない未来に決着がついて、一般に普及すると思う。
この技術がなかった頃にはもう戻れない。
せやから、ワイはこの技術と向き合っていきたい。それは、積極的に絵に活用するって話やない。この技術がある世界でもまだ絵を描き続けるという選択や。
別にプロでもなんでもないワイがそんなことしてても世の中何も変わることないとは思うけれども、でも、ワイはやっぱり絵を描くのが好きなんや。
ワイより上手い人たちはいっぱいいるけど、それでも絵を描き続けてきたんや。機械がワイより上手い絵を生成するようになったからって、そんなの今更やめる理由にはならんで。
【追記】
一つだけリプするわ。
お前の絵を見たい奴はAIに頼むようになるし、お前の絵はAIのためのクローラしか見に来なくなると思うよ。誰にも伝わらないなら、いったい何のために表現するんだ
絵は鑑賞されてこそ作品という考えやな。
ワイはネットが普及する前から絵を描いてるから、絵を見てもらえてないことが数字化される pixiv や Twitter も相当気持ち的には辛かったで。
今だって誰にも見てもらえないとまでは言わんけど、万バズとかいう言葉からは遠く離れた人間や。
でも、見てもらえないという現実と絵が完成したときの見て見て!っていう気持ちの落差があっても絵をやめることはできなかったんや。
だから、たとえ核戦争が起きて自分だけ地下シェルターで生き残って誰にも会えずに死ぬのを待つだけになったとしても描ける。そんな気がするんや。
カッコつけすぎやけど、正直な気持ちやで。
今日も今日とてX(旧ツイッター)が生成AIのあれこれで燃えている。
直近の一週間だけでも、ゴールデンボンバーの配信音源ジャケット絵・プリキュア20周年・文化庁のパブコメ公開第一段……と、もはや日替わり定食かという勢いで話題が移り変わっている。
生成AIの推進派(親AI)と規制派(反AI)が互いの陣営の行儀が悪い行いをつるし上げ、ファンネルを飛ばし、お気持ち表明を行い、相手をバカにし、互いを憎み合っている。
反AIの一部ネームドアカウントを中核とした集団は先鋭化&晒し&引用リプライ爆撃を続けており、また親AI側も徹底的に文化庁資料や現行法を基礎とした理詰めロジハラでの徹底抗戦を継続。
反AI側の言動が、過去にXで繰り広げられていたツイフェミ・悪質撮り鉄・限界左翼・反ワクチン界隈の言動と重なりつつあるのだ。
そして、反AIを正面から叩き潰そうとする親AI側もまた、上記4界隈の敵対サイドに重なる要素が見えてきた。
この増田では、生成AIを巡るインターネットバトルを蚊帳の外から傍観する自分が上記の様に感じた理由を述べ、その上で生成AIを巡るインターネットバトルについて今後の進展を予測したいと思う。
温泉や献血の広報活動への二次元美少女起用やサイゼリヤで喜ぶ美少女絵への攻撃を中心にX上での活動をしていたツイフェミ界隈。
ツイフェミの電凸攻撃のせいでキャンペーンが中止となった事もあっただろう。例えば、マイメロママの発言をまとめたグッズの発売中止などである。
そんな過去の栄光(?)はどこへやら。もはや昨今では発言力を失い、2024年に至っては三重交通への物言いをした程度しか記憶に無い界隈である。
こんなシーンに覚えはないだろうか?
それまでは特に問題ないとして世の中で扱われていた広告や広報コンテンツに対し、ツイフェミ界隈の大御所が苦言を呈すると、まるでゾンビ映画のワンシーンの如く大量のツイフェミアカウントが群がって攻撃をする。
半年以上当たり前のように掲示されていたポスターや、一年以上サービスを継続していたゲームに対し、突如として大量のツイフェミアカウントが群がり、襲い掛かり、電凸を行う。
襲い掛かるツイフェミアカウントの中の人にとっても、もっと早くからそれら攻撃対象は目に入っていただろう。
何なら、ツイフェミアカウントの中の人の通勤経路上にそれらコンテンツの広報ポスターなどはあたりまえに掲示されていただろう。それを一切問題としてとらえる事なく、平穏に日常を過ごしていただろう。
そんな、静穏な日常を送っていたツイフェミアカウントたちが大御所ツイフェミの攻撃指示を受信するなり、
突如狂暴化して攻撃的になり、「ツイフェミのルールで攻撃して良い存在」めがけて攻撃を開始する。
この行動を、「犬笛を吹くと突然ファンネルが襲い掛かる」と形容した次第である。
某イラストレーターや某同人作家や某漫画家、あるいは正体不明のよくわからないネームド反AIアカウント(もやし、水玉、赤髪、モノクロ男性など)が取り上げるやいなや、
彼らが取り上げた存在は「攻撃して良い存在で社会悪」と認識され、無数の有象無象によって攻撃が行われる。
言いたい事があるのならば、犬笛や攻撃指示の有無にかかわらず、個人として行動をすれば良いのだ。
しかし反AIもツイフェミも、鉄砲玉が自らの意思で攻撃をする事はない。鉄砲玉は鉄砲玉として、攻撃指示を待っているのだ。
ネームドの攻撃命令によって「攻撃して良い存在」と化した相手へのみ攻撃を行う習性が見受けられる。
まるで日頃から攻撃して良い存在をギラギラとした血走った眼で探し求め、攻撃して良い存在が出現するなり暴力性を解き放つ怪物の様だ。
はっきり言って、異常である。
まず、感情を持つ事は問題ではない。好き嫌い、支持不支持、良いと思う悪いと思う…など。人は感情を持つ生き物だ。
筆者にも好き嫌いはある。パクチーは嫌いだし、きのこの山派だし、野球はオリックスファンだ。
擬人化ゲーではアズレンが好きだし、ブレイバーンは正体判明後も気持ち悪いと思う。
ウマ娘ではヒシアマゾンが好きで、スマホはiPhoneの方が好き。FateシリーズではZeroがイチオシだったりする。
何が好きか? 何が嫌いか? という感情を持つ事。それ自体を筆者は否定しない。
二次元美少女イラストが嫌いだ。生成AIが嫌いだ…そういう感情を持つ事自体は、特段問題ではない。
問題となるのは、何か世の中のシステムを変える(=社会運動をする)時に、感情をベースとする事だ。
「私が嫌いなものは社会悪だ!ケガレだ!この世界から排斥しなけれはならない!死刑にしろオオオオオオ!!」……こんな主張をする政治団体が存在したら、貴方はどう思うだろうか?
例えば、某漫画家はかつて、生成AIを批評する際にケガレ思想に通じる発言をした事がある。
あるいは、某イラストレーターや某説教騎士アカウント(凍結済み)については、生成AI利用者を盗人・泥棒・反社・スジモン…と形容した事がある。
生成AI問題を追い続けている人であれば、そんな事もあったなぁと懐かしい気持ちになるのではないだろうか。
ここで断言したい。現代日本で社会変革を求める際、ケガレ思想を持ち出して対抗勢力を叩くというのは最悪中の最悪。悪手である。
なぜケガレ思想を持ち出してはいけないの? あいつらはケガレだぞ? 人権の無い存在だぞ? など真顔で言い返す人はいないと思うが…もしいるのならば、道徳の勉強をして頂きたい。
議論をするのであれば、感情を表向きでも排し、徹底的に理詰めで話をしなければならないのだ。
「キモいモンはキモい!」「ケガレはケガレ!」「キモ男はタヒね!」「生成AIは犯罪者だから死刑!」……先鋭化した人物の言葉は、やすやすと社会通念上許されないラインを超える。
そうなれば、もはやその発言者は社会運動の場から排さなければならなくなるのだ。
少なくとも、謝罪を行い、過去の無礼を詫び、相手側がその謝罪を受け入れるまでは議論の場からは出禁処置が妥当であろう。
……それが、できない。感情一辺倒のケガレ思想混じりでは、冷静な議論ができない。敬語も使わず相手に罵倒の言葉を繰り返すのみである。
その結果、ツイフェミ界隈は「話を聞くだけムダな人達」「どうせウチの客じゃないから電話ガチャ切りでOK」……という認識をされてしまったのが現在である。
筆者としては、このままでは先鋭化した反AI界隈が「話を聞くだけムダな人達」「あいつらは無視してOK」という認識をされる様になるのではないか…と思う次第である。
もちろん、礼儀を尽くし、感情的にならず、相手を敬い、発言は常に敬語で接し、その上で徹底的に理論的で理詰めの会話ができるのであれば、反AI界隈も議論の場に参加できるだろう。
なので、まず、感情的になっている反AI貴兄らにおかれては、常に敬語で相手に接するという人間社会の基礎中の基礎から学んで頂きたい次第である。
言わずもがな、パブコメに喧嘩腰で罵倒文章を書くなんてのは論外である。
殺したいくらい憎い相手であっても、八つ裂きにしたい存在であっても、文をしたためる際は常に敬語と丁寧表現を心掛ける。それはもう、義務教育を終えた人間の基礎であろう。
悪質撮り鉄……電車撮影に熱意を燃やし過ぎた結果、迷惑行為や危険行為に及ぶ一部撮り鉄の存在である。
例を挙げると、電車撮影のために田畑や私有地に入る。ホームに脚立を立てる。街路樹や柵を破壊する。子供を恫喝する。江の島自転車ニキに罵声を飛ばす…など。
定期的に問題行動がインターネットを賑わせ、時にニュースでその姿が取り上げられる集団。それが、迷惑撮り鉄である。
これは驚くべき事なのだが、迷惑撮り鉄界隈というのは独特の秩序は敷かれており、一応の平定が為されている。というのも、昔の上司が撮り鉄だったので、そこで聞いたのだ。
場所取り一つ取っても、現地撮り鉄界隈の大御所センセイに顔を覚えて貰わなければ良いポジションには陣取れない……らしいのだ。
また、新参者が先輩方よりも高いレンズを使うのは失礼。まずは陣取った撮り鉄集団の後ろの方で撮影を行い、大御所の撤収準備や車の運転を務め、徐々に顔を覚えてもらうことでベストポジションでの撮影が許されるようになる。……らしいのだ。
昔の上司がいた撮り鉄集団が独特のルールを敷いていた可能性はあるが、
少なくとも、こういった先輩・大御所優先の風潮というのは、撮り鉄以外の界隈でもある程度共通して敷かれているものである。
例えば、芸能界や体育系の部活などだ。先輩がクロをシロと言えばシロになる。社会通念や法律よりも、目の前の大御所の言葉や感情が優先される。そこには、一定の秩序が存在している。
……その結果、時に芸能界ではとんでもないスキャンダルが起き、体育会系の部活では暴力や薬物の蔓延がニュースになるのだが……。それはつまり、彼らの秩序・ルールが法律を侵してしまったという事であろう。
反AI界隈、特に絵師・同人作家を中心とするメンバーの中では、こういった傾向が散見される。
大御所センセイが言っているから正しい。法的な正当性は二の次。だって〇〇万人フォロワーで〇〇の案件を受けて、企業Vの〇〇のママであるセンセイの発言なんだから、正しい!
あの先生の発言の邪魔となるルールは間違っている! 法律がおかしい! 即売会のルールがおかしい! 文化庁がおかしい!
愛があれば二次創作は合法! コミケでウン百万の利益が出ても合法! skebで小遣い稼ぎをしても合法! 著作権は親告罪だから権利元が文句を言わなければ合法!
生成AIは愛が無いから違法! こんな技術は違法! コミケから叩き出せ! 権利者が誰かは知らないけど違法! 生成AI使用罪を作れ! 非親告罪だ!
……いや、ちょっと待ってくれ。
大手企業Vのデザイナーである事と、著作権法に精通している事は何の関係もないではないか。
フォロワー50万人の大手絵師で、ソシャゲで絵を描いていて、同人誌にプレミアが付く事と、法解釈の妥当性については何の因果関係も無いではないか。
大手絵師のセンセイが今まで十年単位で絵を描き続けた修練の期間を、文化庁の職員は法律の勉強を行い、法解釈と政務の実践をしていたのだ。
なのになぜ、大手絵師のセンセイの方が文化庁の職員よりも著作権に詳しいと言えるのか? 私には分からない。
そういった学習、勉強のプロセスも経ず、なぜいきなり法律の新解釈を叩きつけられるのだ?
絵師界隈であれば、あなたのお言葉は法律であり、教典であり、条例であり、判決だったかもしれない。
だが、フィールドが違うのだ。界隈が違うのだ。界隈のローカルルールは通用しないのだ。
なのになぜ、あなたは絵師界隈のルールで戦おうとするのか? 法律の世界に対して、なぜ絵描きとしての実績で殴り込むのか? 私には分からない。
端的に言うと、生成AIを著作権侵害で叩き潰そうとするのであれば、相当抜本的な法改正が必要となる。
その結果、著作権侵害の非親告罪化や絵柄・画風・アイエデアの保護……あるいは類似性と依拠性といった判断基準の見直しが発生する可能性があるのだ。
そうなると、同人誌は権利元以外から著作権侵害として叩かれる可能性がある。(非親告罪化である)
また、類似した絵柄や画風、塗りや作風、ストーリー展開について、先駆者しか書けなくなる可能性がある。(画風やアイデアの保護である)
現在の日本で二次創作がおおっぴらに認められており、堂々と著作権侵害コンテンツで金稼ぎができるのは、現行の著作権法がユルユルであるという特殊な状況の恩恵を受けているからに過ぎないのだ。
その著作権法をAI憎しで締め付けるとなると、回り回って全ての二次創作作家が焼き払われる……など。
……これで理解できれば良いのだが、「愛があれば合法」のムラルールで動いている界隈に響くのか、不安である。
後半戦、限界左翼界隈・反ワクチン界隈との類似については以下の通り見出しだけ書いておくので……。
まあ、こういうことだよね…と思っていただければ幸いである。
数年前に亡くなった祖母は15年ほど車椅子ユーザーでした。高校生の頃は介護もよく手伝っていました。そんな私が今回の騒動で感じたことを書いてみます。
今回の騒動では、そのインフルエンサーの普段の行いだとか、感謝もしないとか、そういう面がよく取り上げられています(過去の似たような炎上もそうでした)。
が、この問題の始まりは劇場側のスタッフの物言いが悪かったという点です。そこに関してはイオン側も認めて謝罪しています。
①車いすユーザーに近い立場にいたこと 劇場スタッフの物言いが悪かったこと
持ってきた時点で関係者であった優位性と、劇場スタッフ側の問題性について傾けたい意図が感じられて正しく問題について考えられないと思われます
今回の件で映画館側の、今後のバリアフリー化に対する課題が生まれたのは良いことだと思います。
別に誰であろうとよりよい環境やサービスがあればそれを受けてみたいと思うでしょう
それを料金以外で利用が可能とみてだれも適していないと明言をしていないからといって使用することとそれをSNSで流すことは問題行動であってそれを課題と見るかは関係者の裁量です
お金がないけどプレミアムシートでみたい、という人にお金がないけど見れるサービスを抽選などで行うというのも「課題」だとすれば課題として「生まれる」かもしれません
そらくほとんどが健常者の社員だと思います。当事者じゃないと分からない課題というのはどうしてもあるため、障害者からのリアルな声が上がったことは良かったのではないでしょうか。
よく目にするのは、「車椅子専用席があるんだからそこで見れば良い」ということでしょうか。
車椅子専用席って、位置的にスクリーンは非常に見にくいです。想像したら分かると思いますが。
そういう不利益があるから、障害者は安い料金で映画を見られるわけです(もちろんそれだけが理由ではないけど)。
ただ、あの見にくい席で映画を見るのは嫌だという気持ちも十分理解できます。だったらお金を払ってでも良いシートで観たいと思うのは、別に悪いことでは無いと思うんです。
一方で、非常時の避難誘導の際はどうするんだ!という声もありました。
③それ以外の問題
そういう問題やサービスの提供で補っているのだから通常必要がないとされているので通常の運営では提供していないのだと思います
まあそれもそうなんですけど、毎週映画館に行くような人でも、非常時に遭遇することなんて一生に1度も無いと思うんですよね。
(昨今地震が多いですから、確率は上がってるかもしれませんが)
ほとんどの人が、非常時に遭遇することなんて想像していないし、遭遇しても(仮に死んでしまっても)「まあ運が悪かったよね」としか言いようがありません。
そんなほんの僅かな可能性を引っ張りだして「非常時は!」「非常時は!」と責め立てるのは、正論ではあるけれど言葉の暴力に感じます。
ガチの非常時がおこったら、車椅子席で見ていたとしても他の観客は速やかに逃げられるでしょうが車椅子だとそうもいかないでしょう。
車椅子がノロノロと進んでいたら、健常者の我々の命だって危険です。極論、障害者は同じ空間にいるだけで健常者にとってはリスクになるんです。
「だから障害者は一切外に出るな!」と思いますか?(思う人は少なくないんでしょうね…)
昔バイトしていたスーパーでは、毎日手回し充電ラジオと懐中電灯のチェックをしていました。正直無駄だと思いましたよ。週一でいいじゃんと。
でも安全のために仕方がないのです。
どう感じようと、自分がたった1件の車いすユーザーの関係者であった事をあげてきている以上、その1件をもってしてその関係者たる意見を支える骨子にしていますよね
あなたが自分の家族の非常時を「しかたない」ですませられるかもしれませんが、100人いればそれですまない人がそのうちに何人かいるわけです
この部分は先の運がどうのと、運にまかせてはいけないと混ざって全体の目的を不明瞭にしています
だったら、建設的に今回の騒動を取り上げたほうが良いと思います。
そのためにすでに施策がとられて、そこに車いすが入ると想定されていないわけです
それを「あらたな課題」として「車いすを通したら(いや通さないで現状ある)」とすることで「なにをすべきか(今しなくてすむようになっている)」をわざわざする必要性に
「車いすだっていい席で見たい(車いす以外にもいい環境で映画をみたい人はいる)」をとりあげる意味がわかりません
車椅子の人があの位置で映画を見るのはちょっと見づらいよね。じゃあ通常料金にはなるけど、車椅子の人でも見やすい席は作れないか?
そのためには劇場をどのような設計にすれば良いか。どうすればスタッフに負担をかけすぎずにそれができるか。
いろいろ考えることはできると思うんですよ。
⑦考える事のコスト
考えるだけならタダですけど車いすユーザーがそこまでして映画の席を整備してもらう必要性が、映画館のどこにあるのかを説明すべきでしょう
自分は年に一回しか映画にいけない、それだけの経済的余裕がないとする人が自分のために一年に一度だけだから特別に席を用意してほしいと願うなら、なにをしてあげられるでしょうか
特に必要性を感じませんが、その1個人についてのみ解決を必要とするとお考えならその人にチケットを誰かが渡すだけでよいはずです
映画館がたった一人のだれかについて、ほかの全体の映画視聴者をまきこんで対策をする必要性を感じるならそれを述べるべきです
たった数人しかいない利用者のためにそこまでする必要があるのか?と思う気持ちも分かりますが、なぜ数人しかいないのか?そういう劇場の設計だから諦めてきた車椅子ユーザーがそれなりの人数いるからだと考えることもできます。
介護疲れという言葉があります。私も介護疲れで、祖母が亡くなった時は、申し訳ないと思いながらも身体が軽くなりました。
介助側にも休息は必要です。
障害レベルの差はあれど、障害者でも1人で気楽に外出できるような環境が整えば、私のような介助者が休める時間だって増えるはずです。
社会のバリアフリー化が進めば、我々健常者の負担は減るんです。
街中で障害者を見かけても手助けする必要が無い社会を目指す必要があると思います(100%無介助とまでは言いません)。
その実情が、車いすユーザー自体の改善努力や我慢が映画の状況を左右するのかどうかということです
SNSで話題になってそうしないと社会的な批判を受けて株価の低迷や売り上げの低下につながりとなった場合対策をせざるを得ないという状況にはなります
それこそが暴力ではないですか?
ユーザーが多くてそうしてほしい声が多いならその声をもってして改善の必要性を掲げるべきではないですか?
今回のようにインフルエンサーの過去を引っ張りだしたり、どこかの団体とつながっていたり、そういう問題外の部分で叩くのは不毛です。
SNSの拡散による社会的不利な立場へ批評をあつめるような行動で、経済的活動に存在を与えんとした行動をもってして問題なので不毛でもなんでもなく、そこが原因だと思います
声をあげた最初の行動が、不利益をちらつかせて改善を提案するという情報の流布から問題提起をする事と、それによる注目度という活動自体の目的と利益がある事自体が問題です
障害者に優しい社会は、健常者にも優しい社会だという考えをもう少し持ってほしい。
今回、インフルエンサー側に立っている人たちは「もし自分が障害者になったときの事を考えてみて!」というような事を言っていますが、それだけじゃ甘いです。
数年前に亡くなった祖母は15年ほど車椅子ユーザーでした。高校生の頃は介護もよく手伝っていました。そんな私が今回の騒動で感じたことを書いてみます。
今回の騒動では、そのインフルエンサーの普段の行いだとか、感謝もしないとか、そういう面がよく取り上げられています(過去の似たような炎上もそうでした)。
が、この問題の始まりは劇場側のスタッフの物言いが悪かったという点です。そこに関してはイオン側も認めて謝罪しています。
今回の件で映画館側の、今後のバリアフリー化に対する課題が生まれたのは良いことだと思います。
おそらくほとんどが健常者の社員だと思います。当事者じゃないと分からない課題というのはどうしてもあるため、障害者からのリアルな声が上がったことは良かったのではないでしょうか。
よく目にするのは、「車椅子専用席があるんだからそこで見れば良い」ということでしょうか。
車椅子専用席って、位置的にスクリーンは非常に見にくいです。想像したら分かると思いますが。
そういう不利益があるから、障害者は安い料金で映画を見られるわけです(もちろんそれだけが理由ではないけど)。
ただ、あの見にくい席で映画を見るのは嫌だという気持ちも十分理解できます。だったらお金を払ってでも良いシートで観たいと思うのは、別に悪いことでは無いと思うんです。
一方で、非常時の避難誘導の際はどうするんだ!という声もありました。
まあそれもそうなんですけど、毎週映画館に行くような人でも、非常時に遭遇することなんて一生に1度も無いと思うんですよね。
(昨今地震が多いですから、確率は上がってるかもしれませんが)
ほとんどの人が、非常時に遭遇することなんて想像していないし、遭遇しても(仮に死んでしまっても)「まあ運が悪かったよね」としか言いようがありません。
そんなほんの僅かな可能性を引っ張りだして「非常時は!」「非常時は!」と責め立てるのは、正論ではあるけれど言葉の暴力に感じます。
ガチの非常時がおこったら、車椅子席で見ていたとしても他の観客は速やかに逃げられるでしょうが車椅子だとそうもいかないでしょう。
車椅子がノロノロと進んでいたら、健常者の我々の命だって危険です。極論、障害者は同じ空間にいるだけで健常者にとってはリスクになるんです。
「だから障害者は一切外に出るな!」と思いますか?(思う人は少なくないんでしょうね…)
昔バイトしていたスーパーでは、毎日手回し充電ラジオと懐中電灯のチェックをしていました。正直無駄だと思いましたよ。週一でいいじゃんと。
でも安全のために仕方がないのです。
だったら、建設的に今回の騒動を取り上げたほうが良いと思います。
車椅子の人があの位置で映画を見るのはちょっと見づらいよね。じゃあ通常料金にはなるけど、車椅子の人でも見やすい席は作れないか?
そのためには劇場をどのような設計にすれば良いか。どうすればスタッフに負担をかけすぎずにそれができるか。
いろいろ考えることはできると思うんですよ。
たった数人しかいない利用者のためにそこまでする必要があるのか?と思う気持ちも分かりますが、なぜ数人しかいないのか?そういう劇場の設計だから諦めてきた車椅子ユーザーがそれなりの人数いるからだと考えることもできます。
介護疲れという言葉があります。私も介護疲れで、祖母が亡くなった時は、申し訳ないと思いながらも身体が軽くなりました。
介助側にも休息は必要です。
障害レベルの差はあれど、障害者でも1人で気楽に外出できるような環境が整えば、私のような介助者が休める時間だって増えるはずです。
社会のバリアフリー化が進めば、我々健常者の負担は減るんです。
街中で障害者を見かけても手助けする必要が無い社会を目指す必要があると思います(100%無介助とまでは言いません)。
今回のようにインフルエンサーの過去を引っ張りだしたり、どこかの団体とつながっていたり、そういう問題外の部分で叩くのは不毛です。
障害者に優しい社会は、健常者にも優しい社会だという考えをもう少し持ってほしい。
今回、インフルエンサー側に立っている人たちは「もし自分が障害者になったときの事を考えてみて!」というような事を言っていますが、それだけじゃ甘いです。
第一印象で言えば、増田で見かけがちな『挫折したエリート』『やたらと小難しい言い回しを好む人』と言った所か。
Eは「自分は以前いた会社でイジメられた経験がある」と言っていた。
何でも新卒で入社した会社はイジメで退職、次に入った会社もその事を弄られた事がきっかけで
おかしな人達に目をつけられイジメにあい、一時期は精神を病んでしまったという。
そんなパーソナル且つコメントし辛い事を入社そうそう言うのもどうかと思いつつ
イジメられた事自体は可哀想だと思うし、周囲も最初は同情していた。
今まで辛い経験をしてきたであろうEには配慮してあげよう、という事になった。
ところがEは、とんだ人間だった。
まず、相当に口が悪い。
正確に言えば口調「だけ」は丁寧だけど物言いが酷い。
例えば仕事でミスをしてしまった新人や若手に対し、ミスを注意するだけに留まらず
「こんな事(ミス)をする為の教育を◯◯大学(その人の出身大学)はしてるんですかね?」
「◯◯大学は幼稚園なのかな?あっ失礼、◯◯さんの頭の出来が悪いだけでしたね」(実際は大したミスでは無い)
「不出来な人間を育てたあなた(新人)の親御さんも可哀想ですね」
などという、社会人としてはあまりにもあまりにもな物言いを平気でしていた。まさに慇懃無礼。
勿論周囲や上司から注意されるけど、「私は先輩として注意・指導しただけです」と平然とするだけ。
当初のイジメの件もあり、周囲や上司はEにはあまり強く出れなかった事も災いした。
Eからの口撃に疲弊したのか、Eと同じグループの新人や若手はEが退職する頃には何人か退職してしまっていた。
目下(Eによる主観からしたら)の人間だけでなく、年長者にも同様の態度だった。
ある社員(N)は事情があって大学中退だったのだが、これもどこから知ったのか本人から無理やり聞き出したのか知らないけど
EがNの中退の事実を把握した途端、露骨に馬鹿にしたり挨拶を無理したりする様になった。
NはEとは別部署の管理職に当たるのだが、部署からの依頼でもN経由だと露骨にスルー。
Nさんが怒ってEに直接問いただした所
「あなたみたいな所詮大学中退の欠陥品、いえ欠陥人間の仕事を優先する理由があるとでも?」
といった事を言った。本当に言った。
Nさん当然激怒してEに「何故そんな事を言われなければいけないのか?」と怒鳴った。怒って当然だと思う。
しかしそれが不服だったのか、EはNに「周囲の面前で一方的に糾弾されパワハラされた。精神的苦痛を受けた」
として、人事を巻き込みN所属の部署の上の方にまで被害を受けたとある事無い事騒ぎ立て、結局NさんがEに謝罪する事で決着。
しかしNさんはその事を不服に思ったのか、程なくして退職・転職してしまった。
一方で、「その事が一方的に嫉妬されて前にいた会社では迫害され、イジメられた」と言っていた。
Eは自身を優秀であるかの様に自負していたが、残念ながら自己認識ほどに優秀では無かった。(寧ろ無能寄りだった)
業務知識「だけ」はあるが、それを実務に活かせない場面が多く、典型的な頭でっかちタイプだった。
また手抜きする上に確認を怠る悪癖があり、既存のコピペを多用するが変更すべき所も変更しないでそのまま出す為
結局は誰かが確認・修正の時間を取られ、修正もEには出来ないしやらないので、尻拭いをする羽目になった。
Eにその事を指摘しても
「上司の指導が悪い」「自分がミスをしたのは不可抗力であって私の責任では無い」
などと騒いで回り、決して自分の非を認めなかった。
尻拭いさせられた方が、Eから「勝手にEの仕事を盗む、ケチをつける」「(Eの成果物のケチをつけるのは)私に嫉妬しているんですか?」
また、先の通り普通に無礼千万で、取引先相手にも失礼なメール(ダラダラと持論を書き連ねた無駄な長文メールや、相手の会社の偉い人を呼び捨てにするなど)
を平気で送り付けたり、対面でも失礼な言動を重ねていた。
例えば、相手の会社でもMT途中で退席し、そのまま戻って来ず、勝手に帰社しており
理由を問いただすと「あいつ(取引先の担当者)の説明が退屈だったのでお付き合いする価値は無いと思ったので」と平然と言い放った。
その取引先は割と大きな所だったので、後日上司と自分が平謝りに行ったが、Eは同行をするとすら言わなかった。
一事が万事そんな調子だったので、Eが入社して数ヶ月経つ頃にはすっかりEは腫れ物扱いになった。
挨拶ぐらいはするし業務上のやり取りはするけど、それ以外は一切ノータッチ。
会社や課としての飲み会には一応誘う程度。(Eは酒なんて飲めないので行きません!って感じだったけど)
するとEは「周囲の連中にイジメられている!」と騒ぎ始めた。
「飲み会に一人だけ参加出来なかった!」(あなたが断っただけ)
「自分を飲み会などの集まりから省いて孤立させようとしている」(勝手に孤立しているのはお前)
「ランチは複数人の飲み会に自分だけ誘われなかった」(当たり前)
「そういった場で自分の根も葉も無い悪評を捏造している!」(そんな事実は無い)
「周囲に無視されている。雑談をしようとしても避けられている!」(当たり前では…)
本人が騒いでるだけならスルーするだけだったが、Eは本社の人事に事実無根のイジメ被害を通報するだけでなく
更にその上の上層部にまで「イジメ被害」の直訴のメールや書類を送り付けたり
周囲は疲弊したし、問題が大きくなったのもあって、最終的にはEの所属部署の上司が責任を取って退職。
同様にイジメ加害者だの騒ぎ立てられた何人かの社員も退職した。
Eも最後には「こんな幼稚なイジメをしてくる会社なんて居られない。地獄に堕ちろカス共」
というメールを本当に送って辞めていった。
多かれ少なかれEみたいな被害者様的なタイプはいると思うんだけど(増田でもちょこちょこ見かける)
後にも先にもEみたいな人間には出会った事が無いし出会いたくもない。
Eの自称を信じるのであれば、Eは優秀な学歴で、両親や親族も優秀な経歴の持ち主でそこそこのお金持ち家庭のご出身。
E自身も自慢しつつ何故か親を下げていたが、Eの年齢・ポジションの給料では明らかに不釣り合いな
高級腕時計を何個も所有し、高価な電化製品も事ある度に買い替え
便利な立地の高級マンションに一人暮らしで(親が家賃出しているらしい、と聞いた事はある)
にも関わらず、あそこまで攻撃的且つ他責性が強い割に被害者意識は異常に強烈な人間になってしまうのは
まさしく『育ちが悪い』としか言えなかった。
さすがにもう関わる事は無いだろうけど、Eが辞めてから結構経ってるのに未だに覚えてるし
たまに夢に出てきてうんざりさせられるぐらいに強烈な人間はEで最初で最後にしたいなって思う。
本当に、二度と会いたくないし関わり合いになりたくない。
どう考えても、車椅子を持ち上げさせるような重労働をやってもやらなくても給料同じというのが納得いかない。
車椅子だと自力で座りたい席に座れないのは映画館の施設の問題であって、従業員には何ら非がない。なのにいきなり「人が乗った車椅子を持ち上げて運べ」とか引越し屋でもやらないような苦役を強制されるのはおかしい。
労基法か何かで会社側に「車椅子持ち上げ手当」でも出させるようにしなきゃダメだ。1回車椅子を持ち上げたら1万円貰える、とかしないと労力や危険性考えたら割に合わない。手当が出るなら金稼ぎたい奴は車椅子を見ると「ラッキー」と思うだろうし、会社側は手当払いたくなければ施設整備に金を出すようになる。
とにかく、今の「車椅子の客が来たら運ぶのが当たり前」みたいな物言いは一刻も早く潰さなきゃいけない。あらゆるサービス業でこんなことが罷り通ったら誰もやる奴いなくなるぞ。
「両性の合意のみに基づいて」の「のみ」は、婚姻を異性婚に限るという意味ではなく、婚姻をする2者以外の意志の介入(端的には家制度下による両者親族の意向など)に歯止めをかけるために入れられた文言である、というのが、24条1項の立法者意思についての一般的理解。そもそもこの憲法が誕生した時代に、「同性同士が結婚する」というアイディアは、法曹界だけでなく当時の同性愛を実践する当事者にとっても全く現実的なものではなかった。
このことから、立法者意思説に立った場合も法律意思説に立った場合も、24条1項は、同性婚を積極的に禁止しているわけではなく(人間と法は、その時点での想定の枠外のものを「禁止」しない)、同性婚を「想定していない」(未規定)という解釈が一般的である。2021年の札幌地裁判決に始まる各地での同性婚訴訟の判決も、このような解釈に基づいている。その点で、https://anond.hatelabo.jp/20240316113208 の増田が書いている「憲法は同性婚を想定していない、というのは憲法学会の通説であり」は100%正しい。
ただし、同じ増田が追記で書いている「両性の合意がない以上、それに準ずる制度は作れたとしても憲法上の婚姻には該当しないって理屈付けしなきゃ無理」のほうは間違っている。「憲法で同性の婚姻が保障されていない状態のまま、民法戸籍法において規定された婚姻を同性に拡張すること」自体は法律論的には問題がない。憲法上では未規定だった対象や事項を下位法で包摂するというのは、憲法24条以外の憲法条文でも当然存在する。たとえば肖像権・プライバシー権は憲法上では想定されていなかった未規定の権利だが、第13条の幸福追求権という抽象的な包括的人権から敷衍される具体的権利性のひとつととらえることにより、後に民法で規定され保護されることになった。そこは、増田も引用している高橋和之先生がこのように書いている通りである。
「日本国憲法は、人権をそこで列挙した個別的人権類型に限定したのではなく、時代の変化に応じて生ずる個人の新しい必要・要求が具体的人権として個別化されることを認めている」
なお、ここで元増田に都合の悪いことも書いてしまうと、元増田が引用している高橋和之氏の「立憲主義と日本国憲法」 の
婚姻の自由については憲法24条が保障しているが、近年議論され始めた同性間の結婚まではカバーしていないというのが通説である
という部分は、実は2020年発行の第五版では「通説であった」と改められている。このことは国会質疑でも取り上げられている。https://twitter.com/P_reDemocracy/status/1597644240489701377
それはともかくとして、2021年札幌地裁判決では、少なくとも同性カップルに対して権利保護の仕組みを一切立法しないのは国会の裁量範囲を超える違憲状態であり、このような違憲状態を解消するうえで、実際に現行の民法戸籍法が規定する婚姻を同性に拡張することで解消するか、それとも海外のシビルユニオンやPACSのような、婚姻と似たような形で同性間にもパートナーシップの法的保護を保障する、別建ての法律を新たに創設することで解消するかは、国会の広範な裁量に委ねられる、としていた。以後の各地域での同性婚訴訟の基本的な流れも基本的にはこの立場にあった。「同性間に結婚を許してもいいし、同性向けに(あるいは同性も含めて)結婚みたいな別制度を作ってもいいから、とにかく何かやりなさいよ」ということだ。
一方、今回の札幌高裁判決は、この建て付けから一歩踏み込んで、現行民法戸籍法が同性間の婚姻を認めていないことは、憲法24条1項にも違反するとしており、ここまでの判決とは大きく意味合いが変わった。これは同性婚訴訟の当事者を支援する法曹にとっても予期せぬ判決で、驚き混じりの賞賛の声が出ているほどだ。ただし、その「違憲である現行民法戸籍法のあり方」に対してどのような立法的解決を図るかは、引き続き立法機関たる国会の裁量に任されていると考えられる。よって、憲法24条1項の定める「婚姻」の下位分類として、現行民法戸籍法の定める「婚姻」と、新たに民法で規定される「何か」(たとえばシビルユニオンやPACSのような婚姻類似制度)が併存する、という建て付けも可能であろう。その点では、札幌地裁判決に続く一連の判決での示唆と、求める立法的解決の形が激変しているわけではないと思う。
とはいえ(これまで保守派が「同性婚を禁止している」と認識していた)24条1項自体にもとづいて「現行民法戸籍法は違憲だ」という判決が出るというのは結構すごいことで、おそらくこの判決が出たことで「国会がどのあたりを落としどころにするか」というラインも変わってくると思う。おそらく自民党保守派も「婚姻制度が提供する法的保護のごく一部について最低限保障するようなショボいシビルユニオンを作れば違憲状態は解消され、保守派も何とか納得するだろう」だったものが、「同性パートナーシップを現行民法戸籍法の「婚姻」には絶対入れさせたくないが、そのためには、あるていど充実したシビルユニオン法案を提案せざるを得ない」という感じになるかもしれない。法相から以下のような物言いが出てきたのはその潮目の変化を表していると思う。
小泉龍司法相はこの日の定例会見で「国民生活の基本や国民一人一人の家族観にも関わる問題で、国民的なコンセンサスと理解が求められる」とし「われわれも、議論を進めるという意味では貢献できるところがある」
岸田首相「同性婚規定、なくても憲法に違反しない」 札幌高裁が「違憲」判決出したのになお後ろ向き:東京新聞 TOKYO Web
与党内でも、公明党はもともと同性婚推進派だし、自民党内で同性婚反対の論調をリードしてきた安倍派はいまズタボロの状態にある。外堀は徐々に埋まりつつある気がする。
客観的におかしいことを真剣にやってしまいネットにさらされるバカ
目立ちたがりだが特に能力がないので馬鹿にしてよさそうなものを全力でバカにして目立とうとするバカ
誰でも見れる場所に投稿する癖に自分の想定する反応以外が来ないように予防線はりまくるバカ
パブリックだからと手あたり次第見えるようにそれに反応するバカ
色々把握しすぎた気になって何やっても二番煎じだと何もできなくなったバカ
とにかく早く出すことだけ考えて情報不十分なものを世の中に出すバカ
いくら準備しても100%なんてこないのにひたすら準備だけしてるバカ
ただ発言しただけでは周りが動かないと思い、必要悪ぶって周りをあおるバカ
煽られたのが普通にムカついたのでレス場に持ち込もうとするバカ
数字追っている奴を見ると本能的に嫌悪感を抱く本能に全力で屈しているタイプのバカ
能力、容姿、金、その他もろもろ何かしらに恵まれて歯に衣着せぬ物言いをしても許されるようになった傍若無人バカ
周りが気分良くなるように立ち回りまくってるバカ
なぜかメンタルダメージが全然効かないタイプの化け物、人も自分みたいになれると思っているが決してなれないことに気づいてないバカ
自分のメンタル状態を理由にネット上の知らない人間にならどんな立ち振る舞いをしてもいいと思っている画面の向こう側の人間すら想像できてないバカ
努力なら誰でもできるだろうと自分レベルの努力を他人にも強要するバカ
自分にできることならほかの人にもできるだろと安易に進めて道を踏み外させるバカ
自分のポジション的に有利だから賛同しているだけなのに、無駄に回る頭で後付けで理論をくっつけて論者ぶってるバカ
あらゆることを客観的に見れるような気分になっているが当事者に引きずり落されたとたん人間性を取り戻すバカ
勤務開始30分前だから手短乱雑に書くけど
全然わかってない
警戒立哨の意味をわかってない
道案内に対応するということは、その間
異常が無いかの監視、目を光らせて抑止する職務の遂行に支障が出るということなの
道案内で持ち場から離れて、目が行き届かなくなって、その間に事件事故が起きて、警備員の対応が遅れたら
さてその警備員はどうなるでしょう?
Togetterにまとめられた人もこう言ってるよね?
職業差別も確実に関係している。「しょせん、ただの警備員だ」と思ってお気軽に話しかけられる。「お仕事中、大変申し訳ありませんが、お時間を割いていただくことはできますでしょうか。実は道に迷ってしまいまして……」などと接触してくる人なんて、まずいないよ
そう、この「今いいですか」の一言
めちゃくちゃこだわり強いのにその自覚がない。「冷めた飯で良い」じゃなくて「冷めた飯じゃなきゃ許さん」でしょ。緩和してるような言い方だけど逆に制約キツキツじゃん。ストライクゾーンめちゃくちゃ狭いじゃん。
そのせいで早めにご飯作ったり段取りしなきゃいかんし、増田1人のためだけに他の家族とタイミングずらした作業が発生してるから負荷上げてるじゃん。
別にこだわりは人それぞれだから、こだわり自体は否定はしないけど、こだわってるくせにこだわってない素振りは卑怯だな。
あと、たくさんのコメントにイチイチ悪態ついてるのがかなり粘着質だけど、それよりも、「俺様が必ず正しくて、他人は必ず間違ってる」という思考にしか読み取れない。大勢にそれだけ批判されてるんだから、全部とは言わないが率直に受け止めて自分を客観視した方が良いよ。
turn one's headは必ずしも性的な意味ではない、そういう使い方もあるという程度だ。
単に振り向かせるという意味しかないし、そのニュアンスが状況によって単に後ろを向かせる、驚かせる、魅力を感じさせる、目を背けさせると変わる。
どちらかと言うとあの広告は魅力的に見せると言う文脈で勝手に「性的」というニュアンスをこじつけた小児性愛者のような思考の人間の難癖だ。
本邦で90年代のファッション誌によく見られた「ライバルに差をつけよう」のようなニュアンスの広告、コピーだと考えるほうが自然である。
この増田の物言いは月曜日のたわわの時に広告に書いてもいない「女子高生を見て元気を出そう!」と言う文言に切れてたフェミたちに似てて気色悪い。