はてなキーワード: 物理的制約とは
ゲームは好きだけどかなり長いことやっていない。
中学生の頃初代プレステやPCゲームを1日2時間くらいやりこんでた時期もあったけど、それ以降は2年に1回くらい何かのソフト買ってやるとか、社会人になってPS3をブルーレイプレイヤーとして購入したに過ぎず、気づけば20年くらいゲーム事情をまとまに追ってない。
YouTubeにも飽きてしまったのでここいらでゲーム機をまた買おうと思っている。
外出先でもプレイできるように小型ゲーム機が欲しいので私の嗜好に最適なモノをオススメしていただけると有難い。
ちなみにスマホゲーはやる気がない(低スペ中華スマホを当分買い換える気がない&課金ありきのゲームをやる気がない&サービス終了リスクを受け入れられないため)。
パワプロ、ウイイレ、ファミスタ等のスポーツゲームをとにかくやり込んでいた。
また、プロ野球チームを作ろうや高校野球シミュレーションやベストプレープロ野球やキャピタリズムなどのシミュレーションゲームも好んでやっていた(A列車で行こうはダメだった。物理的制約が絡むシミュレーションは自分にはダメなんだと思う。なので恐らくマインクラフト?もダメだと思う)。
俺ガイルというアニメが好きだったがそれの恋愛シミュレーションゲームがPSVITAにあると知って一式買おうか悩んだことがある(他のソフトのラインナップが自分の好みから外れたものばかりだったらあまりにコスパ悪いので結局思いとどまった)。
時のオカリナ?とかインファマスとかメタルギアソリッドとか「感動するくらい面白い」と評判のゲームを触らせてもらったこともあったけど、いずれも20分そこらでギブアップした。
電子書籍は小説しか読まないとか漫画しか読まないとか、用途が定まっていると便利なんだけど、いろんなタイプの書籍を読もうとすると画面の大きさという物理的制約がかなりの足枷になる
家の中で図表やイラストの多い大判の書籍を読むなら画面は大きくないと困るけど、それだと移動中にちょっと小説を読みたいというときには不便
用途に応じていろいろな大きさの電子書籍端末を何種類も買うというのもムダが多い
そもそも大判の見開きサイズを表現できるほどの大きさの電子書籍端末なんてデカすぎ重すぎで邪魔
複数の書籍を同時に開いて見比べる必要があるようなジャンルにおいても紙書籍優位だ。
電子書籍なら分割して一部ずつ表示するか、画面を縮小して小さくしないとこれができないし、机に何冊も同時に広げておくようなことができない。
辞書なんかも、"画面"の大きさはかなり重要なもので紙の辞書と電子辞書は用途が違う。
とっさに意味を調べたいときには電子辞書で引くけど、リラックスして辞書を引くのに時間をかけてもいいときには、
当方、自称JDで増田にて活動している完全なオッサンですが、テレビ卒業歴20年を記念して、以下にその理由をまとめたいと思います。
・構造的問題。見たくもないCMが含まれていることが気に入らない。
・私は作り手のターゲットから漏れていると思う。(見たい番組があまりない。遅く浅く広い番組が多い)
・多様性の欠如(同じような顔ぶれで同じような構成で同じようにスタジオで大騒ぎする番組ばかり)
・全般的にパッケージ商品的な番組が多いのでニーズ的に個別商品(特定の芸人が見たいなら検索すればいい)に劣るため。
・是非はさておき、流し見を前提とした番組など私は見たくないが、それが多い。
・物理的問題。(あらゆる物理的制約による時代的な相対的劣勢により、消去法的に見ない)
1-1 序
情報空間でこれだけ匿名で思想が交換されているのに、その淘汰の中で哲学が生み出されるのは不自然ではないだろう。物理的空間に拘束されていた先人が、その環境に必要だと感じられた概念を生み出してきたように、物理的空間と情報空間に境界はない今の「日常」に、最適な概念の創出を理想に掲げた思想が生まれてしかるべきだからだ。逆に言えば、物理的空間に拘束されていた人々が生み出し且つ淘汰されてきた思想は、そのような外的環境における状況に最適なのであれば、現在の「日常」に当てはめるのには限界があるのだ。従って、物理世界と情報空間が統合化されつつある環境で存続する知性にとって最適な思想を、過去にとらわれることなく自ら模索するというのは現存の知性にとって急務であるとも言える。
1-1-1 情報空間と物理空間が融合化された社会における知性を対象とした思想の深耕、展開における前提条件
物理空間と情報空間の融合が前提の社会における思想を深耕、展開させるうえで増田をその場とする主要な理由は、その匿名性にある。つまり情報空間と物理空間が融合しつつある社会においては、ある思想を発した、または提起した特定の人間を神格化するというのは適切でないとの思想からだ。思想は往々にして人間に額面以上の価値を付加してしまう。そしてそれが多くの対立を生み出すのが常だ。だが、物理空間と情報空間が融合するという、従来では考えられることのなかった社会体系を人が享受しつつある今、この新たな社会体系においては人が思想を所有し、過去と同じような対立状況を生み出してしまうことは望ましいことではない。そしてこの発想自身、増田哲学における根本である。つまり、それぞれが匿名で考え方を晒し、取捨選択の中で淘汰されて生まれる思想を特定のひとが「所有」するという状態は生まれるべきではない。つまり 増田哲学において、その思想は物理空間、情報空間に関わらず「無所属」であるべきである。
更に言えば、生成される思想は、「静的」なものでなく「動的」なものである必要がある。たしかに思想の交換の中からは「不変のモノ」も生まれ得る。しかし、「更新」を前提にすることこそが、情報空間における相互依存が前提である知性社会においての哲学のしかるべき姿なのだ。
「更新」も前提にするべきものである。時代とともに、新たな情報が交換される中で新たな知がそこに統合される必要があるからだ。それこそが情報空間で生まれた「哲学」の所以である。
「拡散」、「改変」、「複製」、「転載」も自由だ。様々な、改変、解釈が行われていっても最終的に優れたものだけが淘汰されて残り、それが改めて集約されることで思想自体の「更新」へと繋がるからだ。
でありその均衡状態を念頭に、いずれそれを達成するために準拠しうる行動指標を示しうる思想を目指す。その本質的な部分は
恒久的視野からみた「大いなる良」を達成するうえでの「相互補完」
ということになる。「相互補完」とは各知性の「個」を尊重しつつも同時に「他」の存在なしには持続的存続はあり得ないということを理解し、「他」を「自」と実質的な「等価」として常時意識する状態を指す。そして、「大いなる良」とは、「相互補完」の意識が浸透した「個」が相互に、そして「全体」と連結することで、存在しうるあらゆる知性がそれぞれにとって最適な存続環境を作り出すうえでの均衡状態を持続的に維持することを実現する思想であり行動様式を指す。
増田哲学における「あらゆる知性」とは、物理的制約に縛られている存在、すなわち「限定知性」(以下、前述の制約に存在する知性について言及する場合のみ限定知性と呼ぶ)に加え、物理的制約から解放された知性の存在をも内包する。現段階においては、物理的制約から開放された知性が存在するという確固たる立証は存在していない。ただし、そのような存在が悠久の過去における一時期、もしくは未来永劫存在し得ず、且つ時間軸、空間軸並びに次元を超えて介入し得ないと断言することも否定する。また、これらの知性は「大いなる良」というあらゆる知性の理念達成の名の下に、間接または直接的に物理的制約に縛られ知性と交わる可能性も否定しない。これらを踏まえ、増田哲学において、思想を深耕、展開させる際は、これら全ての知性の良を意識したうえで展開していく。むろん「全て」などという概念は無謀であるということを認識しつつも、それを理想とするということをここに付記する。
http://anond.hatelabo.jp/20160805213252
ネット社会が普通になったし、そろそろそれにあった思想とかがうまれても普通じゃね?ネットが無い時代にうまれた哲学っていうのは、ネットと現実がひとつになるなんてことを考えていたわけじゃないから、いまの時代とフィットするわけがないよ。だからネットと現実がひとつになった時代に生まれた俺たちがゼロから考えるべきなんだよ。これまでのことはとりあえず意識しないで。
増田なんだから、これは俺たちみんなのモノっていうことで。あと、みんなで考えるから、過去、現在、未来と常に変わらない考え方も出るとは思うけど、基本、バージョンアップされるのが前提だよね。ちなみに、基本的ポリシーは、「ここで生まれる思想はそれに関わる皆に所属するということ」、「常に更新されるべきということ」、「コピペ、改変、新解釈、拡散、すべて自由」。あとは、増田の住民がそれが正しいかどうかを判断するよ。
増田哲学をとりいれることで、人間も、宇宙人も、A.I.も、クジラ、シャチ、イルカなど独自の言語体系を持つ高等生命も全てがハッピーになればいいよね。お互い愛し合って。出来れば永遠に。
あと、ふつう、みんながハッピーにっていうといま生きているものが重要だけど、138億年以上もある宇宙の一時期、またはこれから未来永劫、時間とか空間から解放された存在が絶対に存在しなかった、または、存在することは絶対ムリとは言い切れないよね。あと、時間や空間から開放されるっていうことは、何らかの形で現存する世界に介入をすることも。分かってる。これはかなりぶっ飛んでるよ。でも、これまで生きてきた数十億という先人たちが伝承してきた存在、つまり神とか菩薩、精霊とか、グレートスピリットなどなどとかいう概念も単なる「迷信」とかで片づけずに、いろいろ考えていくよ。
iOS 7でとうとうAppleもフラットデザインに舵を切った。
今までのAppleのデザインはメモ帳やカレンダーといった現実世界に既にあるものをソフトウェア上で表現するものだった。
このスキューモーフィックと言われるデザインは、ユーザが画面を見た瞬間に、現実世界の事前知識から「そのソフトウェアが何であるか」をすぐに理解できるメリットがあった。
iPhoneによってあらゆる人にコンピュータが広まる過程において、ソフトウェアの概念をスムーズに理解させるには、このような現実世界のメタファを利用することが有効な方法だった。
ただ、この方法では、メタファにこだわればこだわるほど、「ページをめくる」「ゴミ箱に丸めて捨てる」というような現実世界で対応する動作が無いと機能を追加しづらくなるデメリットがあった。
そして、iPhone発売から6年経ち、スマートフォンを活用して生活するのが当たり前になりつつある状況になった今、Appleは新しいデザインコンセプトへとシフトした。
新しいデザインをAndroidやWindows Phoneと同様の「フラットデザイン」と呼ぶべきか否か議論はあるかもしれないが、便宜上ここではフラットデザインと呼ぶ。
フラットデザインの一番本質的な違いは質感や影のあるなしではなく、ソフトウェアをソフトウェアそのものとしてデザインしているところにある。
ソフトウェアは現実世界にある道具と同様の機能を果たす面もあるが、それだけには収まらない様々な機能を提供可能な新しい「モノ」である。
Appleは今まで「カレンダーを画面上で再現したもの」という存在だったソフトウェアを、「日付を知るという機能を物理的制約のない画面上で最適な形で表現したモノ」へと変化させたのである。
これは既存のメタファに一切頼らないという意味で、直感的な理解が難しくなる危険性をはらんだ変更である。
中にはこの変更についていけない人も出てくるだろうが、それでもソフトウェア本来の能力を引き出すためにはどこかで現実世界のメタファから卒業する必要があったのである。
Appleは人類全体の中の十分な割合の人が、ソフトウェアというモノをメタファに頼らずとも理解できる段階まで来たと判断して、今回の変更に踏み切ったのだろう。