はてなキーワード: 牢獄とは
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
昨日起きたら体の節々が痛かったり喉が痛かったり体の明らかに調子がおかしくて、熱を測ってみたら39.2度くらいあった。
まあコロナかな~って思って病院探したけどPCR検査できる病院はどこも予約できなかったからとりあえず検査非対応の適当な病院で解熱剤とかだけ貰って一先ず安静に。
両親に「コロナかも」ってLINEしたら父親がすぐに仕事抜け出して保存食とか日用品とか市販薬とかを持ってきてくれて、PCR検査できる病院見つかんないからコロナかはよくわからんって言ったら母親が家周辺の病院探して開いてるところ探してくれた。(検査結果は普通に陽性)
危ないと思ったらすぐに救急車を呼べとかしつこいくらいに言われて、大人になってから久々に親の優しさに触れた。
でも、俺みたいな醜くて弱い男を愛してくれる存在なんて、多分生まれてから生涯の最後まで両親と祖父母くらいしか存在しなくて、
きっとこの両親が死んでしまったら俺の人生には本当に誰一人味方のいない牢獄みたいな永遠の孤独が待ってて、多分俺の性格的にそれは地獄みたいな苦しみで、
両親が死んだら、そのまま俺も首を吊って自分も死のう、もしくは、悲しんでくれる両親がいるうちに死んでしまおう。
こんな思考回路自体コロナの影響かもしれないし、そんな両親がいる立場で贅沢な悩みかもしれないけど、そんなナイーブなことを考えてしまった。
辛いな、人生。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
これの改変か
以前に放置していたリエーニエの「死の鳥」「死儀礼の鳥」とケイリッドの「夜の騎士」2体を撃破。
「死儀礼の鳥」は冷凍ブレスがけっこうウザく、レベル差あるはずなのに近接だとけっこうYOU DIEDする。
面倒なので武器を「グレートソード」から「番犬の錫杖」に変更、少し距離とって遠距離攻撃で撃破するも、やっぱりエルデンリングのバトルは近接の方が面白い。
ただ、これから状態異常の範囲攻撃とか増えそうだし(止めてほしい)、脳筋キャラ的に「番犬の錫杖」にはお世話になりそうな予感もするので貴重な「喪色の鍛石」を使ってレベルアップしてみた。役に立つといいのだけど。
ケイリッドでは「夜の騎士」を探す途中で未開放だった祝福や「牢獄洞窟」を発見、ついでに探索して「狂った闘士」を撃破。
「狂った闘士」とはずいぶんレベル差ありそうだったけど、「牢獄洞窟」ってそんなに初期の訪問を想定した場所なんだろか。
エルデンリングの敵レベル設定、同一エリア内でも高低差が激しいのは放置推奨で意図的なんだろうけど、レベル低い時に攻略サイトとか見ないで「牢獄洞窟」に辿り着くだけでも相当な猛者なのでは?と思う。
「牢獄洞窟」のボス部屋を抜けた先(こんな所に出るのかと驚いた)で遠距離攻撃できる剣「エオヒドの宝剣」などゲット。
「エオヒドの宝剣」の戦技は多段ヒットで出血も狙えて良さそうだけど、ボス戦ではあまり役立たなそうな予感。
これ以外にも使ってない武器が大量にあるけど、これら全部を使い物になるレベルにしようと思うと、ルーン稼ぎでとんでもない時間が必要になってしまう。
「鍛石」についてはもう少しランダムドロップ増やしてもいい気もするのだけど、ゲームバランスに直結する要素でもあるし、ソウルゲー的にはこの仕様で仕方ないのかな。
あとは「壺の村」に行って癒しキャラっぽい「小壺」との会話を進めたり、使ってない戦技の中で「番犬の錫杖」以外に有効そうな遠距離攻撃あるか試したり、ぬるま湯的な感じ終了。
今週は目標たいして更新できなかったので、土日でもう少し先に進めたいところ。
以下、今後の目標。
大後輩大先輩乙であります。
自分もほぼ同い年のアラフォーですが、高卒で入って20年公務員をしております。
公務員としては自分がそちらの大先輩に当たりますが、高卒なんぞで公務員なんぞに入った手前人生経験は大後輩と言えるでしょうね。
そんな大先輩大後輩が疑問にお答えしましょう。
職場でコロナが出て名ばかりの交代勤務・自宅勤務になって暇だからじゃないですよ。
これは地方にいきなり飛ばされて家族とも切り離されがちな国家公務員がいきなり野垂死なないための配慮だと思われます。むしろ民間って50日ぐらい無給で働くの?こわ
まさしくこれは公務員最大のゴミ要素ですね。『残業代は定時以後の残業のうち50%しかつかない』。これが定説だと思ってください。早出はした分だけ損になります。つまりは始業時間ギリギリにつかない限りは損する一方なのです。ですが家が遠い人になると早出しないと遅刻のリスクが高まるため流石に早出するのですが、それに残業代はつきません。すると不公平感が渦巻いた結果みんながある程度早く出てくることになります。
残業申請のシステムは役所ごとにありますが、早出に残業代をつけるようにシステムが組まれてはいないため皆で損をしてます。ゴミです。クソです。死にたくなります。
何がヤバイってここに甘えて定時前の早出が前提の業務が平気で命令されます。遅刻しないようにするための念のためでなく明らかにその業務のために早く出てきても残業代はありません。新人いびりじみたお茶くみ・鍵開け・見回りだったり、平~専任級がやるような現状報告、係長~科長級であってもまた別の現状報告、様々な早朝勤務がノー残業代でやらされます。ゴミです。死ね。
これは年度末年度始がクソほど忙しいからでしょう。この時期に積極的に雑談をするのは全てに疲れ果て愚痴を吐くだけのマシーンと化したメンタルダウナーが多いです。5月ぐらいになって一段落すると雑談が増えてきます。夏休みシーズンぐらいになると皆フラフラしだしたりします。
まともな正社員>まともなバイト(派遣)>公務員>まともじゃないバイト(派遣)=非正規公務員=まともじゃない正社員
この図式は公務員の私でも知ってますので民間から来た方が知らなかったのは意外でした……。まあうちも物凄く偉くなればある程度の給料はありますが、その能力がある人は民間に行けばもっと給料がよくなるし仕事も面白いと思われるので勿体ねーとしか思いません。いっちゃなんですけど「普通に就活したらまともじゃない職場にしかいけない人が何度も転職ガチャ引きたくないから比較的マシなゴミで妥協するための就職先」以上の価値はありませんよ。どうせ市民・国民に貢献できてるなんて思える仕事はありませんし。
職場環境のための経費がキッチリ決まっていて、その中から出すには名刺シートは高いからです。ハンコやキングファイルを買うのに予算が使われているので付箋紙やボールペンは自腹で買うものと割り切りましょう。割り切れないなら辞めましょう。
PCがゴミ、エアコンがゴミ、トイレが汚いなども諦めてください。諦めてください。たまにウンチの流し方も分からなくなった壊れた人がウンチを放置していきますが諦めてください。助けてください。
諦めてください。だんだん「縦割りならちゃんと縦割りでやれよ?なんか俺の部署の仕事勝手に増えてない?逆にうちが処理ししないといけない仕事お節介で巻き取って勝手にミスってる奴らいない?つうか規則で決まってるとか言うけどなんだかんだローカルルールで曖昧に処理されてない?これヤバくない?ヤバイ?え?じゃあどうすんの?諦めてる?マジ?え?マジ?」ってなるけど諦めてください。でないと心の病院に行くことになります。それが公務員としての技術なのです。
はい。
なにそれ怖い。あっ違うなうちもあったな。毎年ちょっとずつお金徴収して何に使ってるのかわからない奴。意味不明だけどみかじめ料だと思うしかないですね。やったもん勝ちですかねああいうのは。
一部OBが再就職先として保険会社に潜り込んで情報を売ったり圧力をかけてきている感じですね。仲良くしたいなら仲良くしてもいいですが、結局保険会社に行っちゃったOBなんて偉そうなだけで実際には今の仕事に影響力持てないわけですから仲良くしたくないならズバっと切ってもいいです。でも公務員向けで割りと悪くないコースとかあったっぽいんでアリっちゃアリですね。
話ちょっと変わりますがOBが積立投資の会社に入って身内の情報売って投資を勧めてきたりするんですが、アレも全然今の現場には影響力内からソッチは全力で拒否って大丈夫ですよ。「ウチは興味ないから営業やめてください」っていうとかけられなくなるっぽいで勇気を出してくださいね。あれで電話ふさがられると周りが迷惑なんで。
掃除用手袋が欲しいなら自腹で買えば良いのです。それが公務員の世界なので。それをズルだって言うようなキチガイが住み着いてるならそれは公務員以前の問題なので通報してください。
これを思ってない公務員はいませんね。まともな民間には絶対勝てない代わりに最悪な民間よりはマシかも知れないが公務員という仕事の立ち位置なので。マイナス100を引くのを恐れてマイナス50で妥協して世の中にはプラス50ぐらいならいくらでもあるという現実に絶望しながらもそこにたどり着かんと踏み出す勇気を持てない臆病者の集まりですよ。つまりは無能で不幸であり続けることを選んだゴミの群れですよ。分かってますよ。俺だって分かってるんだ!でもさあ!転職しようにもずっと不景気続きでタイミングなくてさあ!その間に世の中の仕事のやり方はどんどん進化してるのに俺達は未だに紙の書類にハンコペタペタ押しててさあ!電子データで送りますねと言って送るのは編集も検索もできないスキャナーで取り込んだPDFっていうゴミみたいな世界での暮らし方しか知らないんだよ!もう終わってるんだよ!ショーシャンクの空にって映画をご存知ですか?あの映画にずっと刑務所で暮らしてきたお爺さんが……あっ【ネタバレ注意】
50年ずっと刑務所で暮らしてたお爺さんが仮釈放されるんだけど、ずーっと刑務所暮らしだったから外のこともよく知らないし何よりずっと同じ刑務作業しかしてきてないから新しい仕事に上手く順応できないしで苦しくなって最後には首を釣って死んじゃうって話があるじゃないですか。まさにアレなんですよ。この公務員という牢獄の中で暮らし続けることに順応しすぎてもう外の社会には馴染めないんです。あの映画で主人公は「俺もそうだったけど変われたよ」みたいに去っていきますけど、あれはまだ若くて可能性があって能力があって、とにかくやり直せるだけの物があったからなんですよ。でも自分には無い。いや多分全く無いわけじゃない。ある可能性と、その可能性がはまるような職場がどこかにあるはずだってことは分かる。でも踏み出す勇気がない。
【ネタバレ終わり】
ショーシャンクの空には踏み出す勇気があれば道が拓けるって映画なわけですが、公務員として苦しみながらも適応することを選んだ自分たちはその逆の道を行ってるんです。自分から刑務所へと人生を押し込み、そしてその人生が刑務所から出ていかないように自分の体で扉を塞いでいるようなもんだ。畜生。悲しくなってきた。なんでこんな人生にしてしまったんだ。でもこれも全て、氷河期ってやつのせいなんだ。この国がまとまな経済活動を行っていて、まともな働き口が沢山あったら、こんな雪山のビバークみたいな仮の住居に何十年も住み着いてイエティみたいになって暮らしている妖怪がウヨウヨいるようなことはなかったんだ。そうだこの国はいまやどこもかしこもそうだ。民間だって派遣社員をずっとやってきて気づいたらそういう感じの人がいる。期間工の話なんて聞くとまさに抜け出せない無間地獄に自分から落ち込んでいった人達。日本中にそういう自縄自縛のどうしようもない奴隷がウヨウヨしていて支えているんだ。この國の下には奴隷が埋まっている。まるで古代の世界地図で世界の下を支える巨大な象や亀みたいに奴隷が風車小屋の車輪みたいなものを必死にグルグルと回してその上に見せかけの世界が浮かんでいるんだ。助けてくれ。助けてくれと叫ぶ権利を得るためには歩み出さなきゃ行けないってのがそもそも暴力的じゃないか。なんなんだ。人生の最初の20年、そのうちの最後の3年間ぐらいで人生のあまりにも多くが決まり過ぎだろう。終わることのない奴隷としての暮らしがアソコで決まっていたんだ。やり直したい。でもやり直してまともじゃない民間をグルグルと這い回ったら今よりもっと辛い暮らしが、最悪は死が待っていると思うと今さっき祈ったことさえ取り消したい。産まれてくる時代を間違えた。もっとずっと豊かな時代に産まれたかった。
怒りを抱えているのか
それとも不安なのか
無意識に体に力が入る
いろんなものが混ざっているというか
たくさんの糸がこんがらがってしまっているというか
ああ、毎日の生活の中で少しずつ受けた摩擦のようなものが、いつのまにか深い傷になってしまったのか
それとも浅い傷があちこちにできて痛むのか
物事の捉えた方は人それぞれだという
捉えた方を変えれば傷ついたり怒りを感じたりしなくて済む、または回復が早いという
中には気が付かないうちに処理してしまっている過程もあるだろうし
そういう捉え方の一つ一つの積み重ねで大きなストレスになっているのなら
どうしようもないように思ってしまう
途方に暮れる
いや、工夫のしようはあるはず、とも心のどこかでは思う
大嫌いな同僚と毎日顔を突き合わせて仕事しなければならないこととか
同僚のにおいがキツいこととか
先のことを考えすぎたくはないが備えなければと思うことがたくさんある
不確定な要素が世の中には多すぎる
いつも備えていないといけない
社会的資本というのだろうか、自分には人とのつながりがあまりない
親は遠くにいるし、おそらくこの先はもうそんなに頼れなくなる
兄弟はどうだろうか、少しは助け合えるかもしれないが、向こうは向こうのことでそれなりに手一杯だろう
雇われて働くのは、結局は人の指示から逃れられない
できれば生活のために労働をしなければならない日々から解放されたい
いや、下手するとそれ以下だ
一日のほとんどを食うためだけに費やしている
オレも「増田」って括るけど、増田の個体イメージが思い浮かばないんだよ。
なんかスライムみたいな感じ。
だいたいこういう人間に収斂するんじゃないかなぁ、っていう人物像が浮かばない。
増田もそうだ。
たまに現れる保育園日本死ねとかの超弩級はあれは増田ではなく、増田以外の名有りの存在として認識されちゃうし。
「増田」という括りで捉えきれるおおまかな輪郭が思い浮かばない。
(暇人なのは間違いないと思うが暇人≒増田ではない。それでは雑すぎる。)
はてなー、ってのもそう。
「コイツ死ねばいいのにな」っていうアカウントはポンポン思いつくけど、それがはてなの平均像、とかと被ることはない。
この腐った牢獄SNSに収監された当初は「KKO+やたら口先だけ」って全体イメージがあったけど、今はぼやけてる。
強いて言えば、「世界に害意と憎悪を募らせた存在が『はてなー』」というイメージがいちばん近いのだが、これもやっぱり違和感がある。
多くの人がピンとくる「はてなー」像ってなんなんだろうね?
周りにやってることを言えないいかがわしいSNS って意味では5chやTwitterも大差ない感じがするし。
あとついでなので死んでほしいと思って思い浮かんだアカウントはなるべく早く死んでください。
死ねばいいです。
惨たらしく死ねとかそういう贅沢は言わないので。
死ねばいいです。
リアル脱出ゲームをご存知だろうか?
歌舞伎町に東京ミステリーサーカスという大規模施設があり、最近はバラエティ番組やCM、謎解き好きの芸能人が取り上げたりする。
私は、2013年?2012年?にリアル脱出ゲーム 初の全国ツアー作品 名探偵コナン 摩天楼からの脱出に参加し、謎の部屋から脱出で大ファンになった。
コナンの某地方公演で、使った爆弾に見立てた小道具を回収し忘れて、警察沙汰になった話は未だに忘れない(笑)
この10年で何十公演に参加してきただろうか。脱出ゲームが好きすぎて、3年ほど中の人として閉じ込める側回った経験もある。脱出率はイマイチだが、
好きな公演は、
個人的にはアジト型と呼ばれる実際に閉じ込められる公演が好きだ。物語の主人として、非日常を体験できる。そんな所が魅力的だと思っている。
ただ、最近の公演はアジト型もホール型もあまり楽しめなくて、自由度も低くなってきて、魅力が無いと思ってる。過去の初期のこのあと何が起こるんだろう?というワクワク感が無くなってきた。
全員で足並み揃える意味も分からんし、参加してめちゃくちゃ後悔した作品
→大謎がびみょい。
→同じく大謎が....
なんだろうな、このリアル脱出ゲームじゃなくていいじゃん?と言いたくなる..公演..
これは私が月日を得て、単純に冷めただけなのか、なんなのか..リアル脱出ゲームが好きな人いたら教えてほしい。
好きなものが有名になって万人受けや売上に走ったことでだんだんと嫌いになるってこんな気持ちなんだろうなぁ。
TMCは何度も行ってるけど好きになれなくて、浅草アジトや東新宿アジト、なんなら旧道玄坂ラボが好きで、公演の度にマイクリップボードを持ち込んでいた時代が好きだった。
(※ホール型
私が日本で中共のサブカル規制を見た最初のニュースは子供のゲーム時間規制だった。
未成年の「ゲームは1日1時間」+「金土日だけ」=「週3時間」 揺れる中国、その影響は?
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2109/11/news030.html
一斉に規制が始まる予感が過った。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.itmedia.co.jp/news/articles/2109/11/news030.html より
中国人の開発系の人に聞いても居たが、実際中国の開発会社では「影響は小さい」と思っているところが多いらしい。岩崎さんの話もわかるけど、地下に隠れてインディーズゲームが作られたりとかするんじゃないの?
中国当局、2021年7月から新作ゲームを1本も承認せず。約1万4000もの関連企業が登記抹消
https://japanese.engadget.com/china-ame-regulator-not-approved-new-titles-040053815.html
未成年は世界が少数のおとなと大多数の未成年で出来ていると思ってるけど、実際は逆だからな。未成年がどうなろうと、世界に大きな影響はない。
“未成年がどうなろうと〜”から文化一つなくなるレベルまで早かったね。
こんな最悪な歴史でも繰り返すんだなって。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
近年では香港の事もあり、己の声の無力さも身に染みてるけど。
それでも私は声を上げ続けようと思う。
とりあえずこのサブカル規制ぶり、真剣に言うけど、漫画やアニメやVTuberが規制されるのも時間の問題だと思う。
ゲームがなくなったら余計そっちのコミュニティに流れるだろうし。
中共の事だから、明日言い出されて数日で全部終了しても何もおかしくない。
執着しても良いことはないと思うので、中国を市場と見る企業は早く見限って他国の市場を開拓した方が経済的にも精神的にも名声的にも良いと思う。
吉本の芸人のEXITというコンビがソニーからアーティストとしてデビューし、その新曲の「なあ人類」が公開された(https://www.youtube.com/watch?v=-llgmjt0C7U)。
されたんだが、これを聞いてみるとまあ酷いというか、現代においてどういう態度が「知性的」とされているかを象徴するような内容だった。
この曲の歌詞は要約すると、「"正義"を振りかざす人間が一番他人を抑圧しているだろ」というよくあるものだ。
具体的に見ていくと、
よくある誤解だが、多様性とは「一つの正解のみが存在するわけではない」という思想であって、「不正解が存在しない」という思想ではない。
こんなのちょっと考えれば解ることだが、我々の社会はすでに法律という規則を設けて、ここから逸脱するような人間を牢獄にぶち込んでいる。明確に正解不正解を権力で判定しながら暮らしているわけ。
この「不正解」の中に実は正解が入ってないか常に見直しましょう、というのが多様性のある社会の一つの姿勢で、「同性愛者」「危険な思想を公言しただけの人」とかいろいろな属性がその中から救い出されてきた。
要するに、社会というモノには厳然として「不正解」は存在する。この辺を曖昧にしてるとすぐ「人の権利を侵害する権利」だの「差別主義も多様性の一つ」みたいな御託が沸いてくる。
じゃあどこで「正解」「不正解」の境界を引くのか、というのが重要で難しい問題で、ここに多様な議論があるのは間違いない。「萌え絵を公共の場に出すな」みたいな議論は「萌え絵」を不正解の側に追いやるような議論な訳で、こういうのには私も同意しないよ。こういう点でリベラルとかフェミニストとかが万全に正しいわけじゃないとは自分も思うが、「不正解とかないし」はいくらなんでも、いくらなんでも酷すぎるほど粗雑。
「どこで正常と異常に線を引くのか?」という、最近なら朝井リョウの小説『正欲』みたいな問題意識なら大きな価値があるだろうが、この歌が言いたいことは「なんか説教してくるやつウザい」でしかない。さすがに中学生くらいでそのメンタルは卒業してくれ。
ここがこの歌のヤバさが爆発するところだが、マジでWikipediaでコロンブスを記事を流し読みするだけでもこんなことは口が裂けても言えないだろ。
コロンブスがアメリカ大陸を見つけた頃の人類社会には言論の自由も思想の自由も信教の自由も職業選択の自由も・・・・・・列挙していけばキリがないくらい何の自由もなかった。
奴隷という身分が公然と存在していたし、そもそもコロンブスは奴隷商人だった。
コロンブスがアメリカ大陸を見つけたのは「希望」だったのかもしれないが、アメリカ大陸側にしてみれば破滅的な悪夢の始まりだった(本当の本当にアメリカ先住民の歴史についてミリも知らないとしか思えない)。
百歩譲って、コロンブスのような当時の社会のマジョリティにとっては自由や希望に溢れた社会だったかも知れないが、なぜその当時差別される側だった有色人種のEXITがこれを肯定的に歌っているんだろうか。あなたたちが大航海時代にタイムスリップしたとしたら、「自由」も「希望」も全く享受できない身分だと思いますけど。この手の人って自分も世界的にはマイノリティの部類なのになぜかマジョリティの視点に共感しがちなんだよな。
コロンブスが生きた時代に、自由も希望もなく絶望に支配されていた人たちが、それでも希望を失わず戦い続けた遙かな延長線上に現代社会があるわけだけど、マジで違う世界を見ているんじゃないかとさえ思ってしまう。
もうね、この歌って要するにリベラルとかフェミニストに対する反感で全てが支配された人間の思考なんですよ。上でも書いたけど、いわゆるリベラルとかフェミニストの中にも粗雑な議論をする人はいっぱいいるし、そもそも端から見れば釣りメガネを掛けた女性教師的な、鼻につく傲慢さを感じるところもあると思うよ。
でも歴史的なスパンで見てリベラリズムやフェミニズムを否定することはいくら何でも出来ないわけ。基本的人権はなくても良かったとか、黒人や女性の人権が向上しなくても良かったと断言できる人だけがそういうことを言うべき。
これもうんざりするほど使い古された「正義の暴走が一番怖い」ってやつなんだけど、頼むから正義の暴走を懸念する前に正義がないことに怒ってくれ。
こういう人たちって例えばアメリカのBLMに対して「あんなのはただのテロ」「こういうことをするから黒人は差別されるんだ」とか言ってる人にかなりダブると思うんだけど、BLMの過激さに憤りを示せるのであれば、長年にわたってアメリカで公然と行われてきた黒人差別にまず怒ってくれよ。なんで彼らがああいう行動に出た考えてくれよ。