はてなキーワード: 熟達とは
まどかマギカからサイコパスやアルドノアゼロまで、振り返ると欧米映画を見せられてる気分になる。
彼の作品を高尚だと称賛する声が挙がるとしたら、シザーハンズやベイブ、サイモンバーチやジャックフロストやロックユーなんかを見た上で
同じ事が言えるのか、結構疑問を口にする事がある。
あの手の作品の殆どはBONESとかプリズンブレイクとかって米ドラマも参考にしてると感じる。
要するに虚淵系が好きな人は、欧米の映画やドラマを観た方が面白いものを面白いと感じるはずである。
その点、虚淵系がつまらなく感じてる人はきっと正常な反応だと思う。
逆ならそれは、お前欧米の映画やドラマ見てない視野の狭い人間だぞと言ってるようなもんだ。
たまに〇〇という(古い)映画は虚淵系だというのを耳にする事がある。
虚淵系というのはオタク界隈というよりもアニメを初めて見て絶賛してる人達の間で広まっている事に留意したい。
オタク界隈では虚淵系なんぞは聞いたことがないと言うに決まっている。
何故なら彼らは熟達したアニメオタクであって、にわか仕込みのアニメオタクとは一線を引いた所にいるからだ。
そのため虚淵玄ないし虚淵系などというブランドは、一時期のシャフトや京アニが持ってたようなそれと同じでその時々の流行が中心であり、
高尚な気持ちにさえなれば、如何なる欧米映画ドラマの似通った設定・世界観を縮約したものであっても素晴らしいと思ってしまう。
言うなればスターバックスのコーヒーの味が分からなくてもそのブランドのコーヒーを飲むというステータスを得られるので高尚な気分になるのである。
身近にあるものが無くなる未来を想像してみよう、それがイノベーションだ、
講演者が投げかけた質問に、「自動車が完全自動化」とか絶対嫌だと思って必死に考えた妄想。
……徐々に信号'機'は廃止されていく。
その理由として、遺伝子操作された街路樹、通称クリスマスツリーの普及と
the Internet of Biologyの技術的実用化、人口減少による社会インフラコストの削減があげられる。
あらゆる生物に組み込まれることになる。
その中の一つ、最も早く作成された蛍光樹は単に観賞用にとどまらず、
かつて化石燃料を消費することで点灯した照明の代替として、あらゆるところで普及することになった。
街灯用街路樹としても使われていた蛍光樹だが、信号樹として使用されるまでは、依然長い道のりと解決すべき複数の問題があった。
その一つ、蛍光樹を信号樹として導入しようと検討を始めた当初より課題に挙げられていたのが複数本の同期制御である。
植樹された周囲の自動感圧機能を持たせた蛍光樹は、人通りの少ないところや道が交差しない特殊な条件下では
その任を十分に役に立てたものの、依然通行量の多い都市外郭の主脈交通路などでは
中央制御方式による信号機の制御を行っており、外部制御がしづらい蛍光樹による代替化は長らく行われていなかった。
ところが、ある技術革新により状況は打開されることになる。
The Internet of Biology(IoB)である。
狭義では、有機的結合による相互情報交換の技術コアと関連特許群を、
広義では、21世紀初頭に流行したThe Internet of Things(IoT)を生物で再定義した概念を指す。
前述のIoTの時代より概念上はその派生として普及の可能性が予測されていたものの、
エジソンの再来とも言われるとあるGE所属研究者に端を発する技術革新連鎖により半世紀を経て日の目を見た技術である。
蛍光樹の登場から、IoBの実用化に至るまでは三十年の月日を要したが、
IoBの実用化から、信号樹に応用されるまでは二年とかかっていない。
当初は信号機を制御していた既存インフラと蛍光樹の情報結合による信号機の単なる代替だったものの、
環境問題の深刻化によりアスファルトの非舗装化及び緑化が進行した際にその一部に情報通信路の機能が組み込まれたことから、
やがては蛍光樹と蛍光樹とを舗草により情報共有させる完全な有機的ネットワークとして、有輪用車両の交通網は完成するに至る。
当時の遺伝子操作技術への過信と熱狂は、やがて緑の党とBig Biotherの台頭を許すことになり、
彼らにより作り出された、長い夕凪の時代において蛍光樹は原初の道を留めたまま、そこで輝き続けるのであった。
ヨコハマ買い出し紀行大好き。
おそろしや。。。
周りへのカミングアウト。
俺は出来ないんだからそれ理解しろ。お前らがカバーしろ、ってか?
片付け面倒だから金で解決するわ、ってか?
予定は1冊の手帳にまとめて色分けする。
えーと、人と話すのにリラックス出来ないなら話すの辞めれば?
普通の人でもイライラしてる時にどうしても話さなきゃ行けない時はそのようにしますが?
こういうのがたくさんある。 こういうのを知るのが大事な理由は、「これをやったら高確率で効果がある」と示されているから。やる価値のある努力が分かる。かりに普通の努力に見えても、普通の人がやるより遥かにこうかあるし普通の人は当たり前すぎてどりょくすらしないこと。だから。
そうじゃなくて、普通の人は社会を小中高と学校やいろいろな場所で学んでいく時に身につけていくの。
「当たり前すぎて努力しない」のではなくて、当たり前のように努力して身につけてきた、の。
逆に、お前は皆が努力している時に甘えてただけ、でしょ?
薬だけど、意味があるんんだけど。もちろん同じダイエット法でもきく人ときかないひとがいるのと同じで、薬も合う人あわない人がいる。だからそれは熟達の医者が患者さんの様子見ながらある程度のエビデンスを元にやっていくしかない。
そのエビデンスがさ、合うか合わないか、っていうのが全く条件が不明な場合、
別に薬が無くても同じ結果になるわけで、余りに不定性が大きすぎる。
臨床実験に頼るんだけど、例が少なすぎて統計的に有意な事言えてない部分が殆どで。
周りへのカミングアウト。 片付けられない症候群はダスキンにたのむ。 予定は1冊の手帳にまとめて色分けする。 話す前にため息やあくびをしてリラックスしてから話す。 等々。
こういうのがたくさんある。 こういうのを知るのが大事な理由は、「これをやったら高確率で効果がある」と示されているから。やる価値のある努力が分かる。かりに普通の努力に見えても、普通の人がやるより遥かにこうかあるし普通の人は当たり前すぎてどりょくすらしないこと。だから。
薬だけど、意味があるんんだけど。もちろん同じダイエット法でもきく人ときかないひとがいるのと同じで、薬も合う人あわない人がいる。だからそれは熟達の医者が患者さんの様子見ながらある程度のエビデンスを元にやっていくしかない。
「10人しか入れない核シェルターに20人の生存者。君ならどの職業の人を残す?究極の選択を強いられるサバイバル・ホラー「ラスト・ワールド」 : カラパイア」
http://b.hatena.ne.jp/entry/karapaia.livedoor.biz/archives/52163104.html
これ、似たようなものをkumicitさんのところで見たような覚えがあった。
「メモ: 12者7択問題」(2011年)/「[授業計画AELP-PSY0006: 核戦争後の生存]」(1994年)
http://transact.seesaa.net/article/170152051.html
概要: この単元は架空のジレンマを設定し、生徒たちに自分自身の推論と問題解決能力に基づいて解決策を提示させる。この単元は、核戦争のシナリオに始まり、生徒たちに地球上での人類の生存に影響する決定を下すことを求める。
到達点: この単元の目的は、生徒たちに論争となる問題についてコンセンサスに到達させることである。これは生徒たちに、ときには正しい答えも、間違った答えもないことを認識させる
目的:生徒が以下のことができるようになること:
生存者:
1, James Stanley, 43歳(男), IQ: 112, 健康状態:良好, 短大卒・軍隊経験2年, 農業に15年従事
2, Janie Stanley, 13歳(女), IQ: 120, 健康状態:優良, 中学生,
3, Wanda Brice, 50歳(女), IQ: 140, 健康状態:普通, Ph.D 心理学, メンタルヘルスケースワーカー15年
4, Bill Waters, 27歳(男), IQ: 104, 健康状態:優良, 工業高校卒, 建設・溶接10年
5, Michelle Patterson, 19歳(女), IQ: 105, 健康状態:普通, 高校卒, 小売店3年
6, Ray Wilson, 60歳(男), IQ: 127, 健康状態:良好, 大学卒(ビジネス), 銀行窓口10年・フィナンシャルアドバイザと銀行頭取20年
7, Gerald White, 35歳(男), IQ: 98, 健康状態:普通, 軍隊経験4年(歩兵), 建設労働者10年
8, Martha Gray, 25歳(女), IQ: 142, 健康状態:良好, Ph.D 音楽理論, 大学講師2年
9, William Gray, 8歳(男), IQ: 150, 健康状態:良好, 小学生,
10, John Davis, 33歳(男), IQ: 125, 健康状態:普通, 大学卒(化学), 高校化学教師12年
11, Marjorie Blaylock, 39歳(女), IQ: 133, 健康状態:不良, 医大卒, 家庭医10年
12, Fred Fredrick, 54歳(男), IQ: 132, 健康状態:優良, エレクトロニクス熟達者, 海軍エレクトロニクス技師25年・個人エレクトロニクス技師10年
客観的および主観的評価のバランスは教師によって注意深く考慮しなければならない。主観的評価は生徒たちの個人差(能力等)を考慮に入れること。
これの元記事はInternet Archiveに拾われている。
"post-nuclear war survival lesson plan" なんかでググっても同一・類似のものが出てくる。
日経新聞に「中国「人海入力」基地を見る 誤字率は0.01%以下」
http://www.nikkei.com/article/DGXNZO70830920X00C14A5X11000/
という記事が掲載されたんだけど、数年前までデータ入力関係の仕事をいくつかやってきた経験から、この記事に反論したい点があります。
>>同社の大連での診断書読み取り業務は誤字率が1万字に1字(0.01%)以下。日本人が作業すると誤字率は10字に1字(10%)。新聞で言えば誤字が1行に1字か、1ページに1字かという差だ。<<
という部分なんですが、これは統計的に意味のない数字であると思われます。重箱の隅をつつくような話と思われるかもしれませんが、このような出鱈目な数字の比較で「中国人パンチャーは日本人パンチャーよりも能力が高い」というミスリーディングを行うのは新聞社の記事として問題があるのではないでしょうか。
記事には「大連での診断書読み取り業務は誤字率が1万字に1字」とあることから、1万字に1字というのは複数人の熟練中国人パンチャーが入力・チェックした最終的な納品物の誤字率であると考えられます。一方で、「日本人が作業すると誤字率は10字に1字」というのは、常識的に考えて「素人の日本人が初見で診断書入力を行った場合の誤字率」に相当すると考えられます(記事に掲載された診断書画像は、確かに一般人には読み取り難いものでしょうから、10字に1字の誤字というのも有り得ることです)。「プロが複数人で入力・チェックした場合の誤字率」と「素人が1回入力した場合の誤字率」を直接並べて比較することに、どれほど意味があるのでしょうか。
今回は私の馴染み深い分野の話だったので、数字のおかしさに気付いたわけですが、まったく別の分野でこのような数字を出されたら「そうなんだー。」と鵜呑みにしてしまう可能性もあります。新聞に書かれている情報は、思考や判断の材料にされることも多いわけですから、このような出鱈目は控えていただきたいものです。
以下は補足。
データ入力の際には、一般的に「ダブルパンチ」という方法がよく用いられています(少なくとも数年前までは)。これは、二人の人間が別々に同じ内容を入力して、それをコンピュータ上で照合し、一致しない箇所だけを修正していくという方法です。最初に入力する二人は、バイトやパートなどが多いですが、それを仕事にしている人たちなのである程度正確に入力することができます。この人たちの誤字率が仮に100字に1字程度であれば、ダブルパンチで見過ごされる誤字は単純計算で1万字に1字となり、最終的な納品物の段階では誤字はかなり少なくなります。高い精度が要求されるケースではトリプルパンチなども行われることがあります。
中国に診断書入力を外注する場合、どのように業務が行われるのかについて、数年前に私が派遣として働いていた会社(A社)のケースを書きます。(これは公開されていた情報の範囲内なので問題はないと思います)
診断書というのは、医療情報を含む個人情報ですから、非常に慎重に取り扱う必要があります。A社では、保険会社から委託された診断書をスキャンして画像データとし、この画像を項目ごとにバラバラに切り離します。名前、病名、日付、経過などがそれぞれ小さな個別の画像として中国に送られます。中国ではダブルパンチ、2人の中国人パンチャーが別々にその画像を見て文字を入力します。2人分の入力内容が日本に送り返され、日本人パンチャー2人が個別にダブルパンチの不一致箇所をチェックします。さらに日本人パンチャー2人のチェック結果を別の日本人パンチャーが修正し、最後にコンピュータ上でバラバラの断片だった文字情報を1枚の診断書データに統合します。
つまり一つの病名を入力するのに、中国人2人、日本人3人、計5人のパンチャーが係って、保険会社の要求する精度の入力を行っていたわけです。これはA社の場合ですから、記事にあった会社ではチェックの工程までを熟練の中国人パンチャーが行っているのかもしれません。
診断書の入力が、他の入力業務と大きく異なる点は、医師の走り書きの文字を読むのに慣れが必要である点と、医学用語が頻出する点です。診断書に書かれる文章はパターンが決まっていて、多くは「○月○日に初診、○○検査で○○であったため○○病と診断し、○○○○手術を施行、術後の経過は良好」などの形式に当てはめることができます。日本語の文法にさほど熟達していなくても、パターンと病名や手術名を覚えれば解読は可能かと思います。
「彼氏が浮気しても、私にバレないようにしてくれるならいい」ということをいう女の子がいる。自分(二十五歳・男性)の周りには割といる。実際に付き合った彼女にそういうことを言われたこともある(ぼくは浮気をしないので「自分をそういう見方で見られるのは心外だなあ…」と残念な気持ちになる)。「心の広いワタシ」アピールなのだろうか。或いは「男という生きものをよく知っているワタシ」アピールなのか。ポーズではなく、本気でそう思っているとしたら、過去に何かしらの経験があって「彼氏の浮気を疑うことに疲れてしまった」のだろうか。
何と称したらいいのか分からないが、愛とか真実とか平和とか、そういう類のものがある。純朴で野暮で未熟な者は希求し、歳を重ね経験を積んできた者は諦めている(かのように見える)類のものだ。これらを手に入れることができるのは映画や小説の世界の話であって、残酷な現実では決して手に入らないものなのかもしれない。ハナから「手に入らない」と決めてかかった方が楽で傷つかず過ごしやすいことは明白だ。しかしそれでよいのだろうか。少なくともぼくは、自分程度の歳で愛とか真実とか平和への追求を諦めたくはないと思っている。若者がそれを諦めちゃダメじゃん。世間に熟達した年長者たちに対する若者の優位性は、こういうものを希求するエネルギーなんじゃないか。
「彼氏が浮気しても、私にバレないようにしてくれるならいい」という女の子は、本気でそう思っているのだろうか。ふと自分の彼氏が浮気しているかもしれないという思いがよぎったとき(彼氏がボロを出したとかではなく、ただ単にそういうことをイメージしてみたとき)、悲しい気持ちになることはないのだろうか。そういうことを一切考えないよう脳味噌に蓋をしているのだろうか。
高レベルのAVソムリエであり、また決して趣味がマニアックというわけでもない私は、休日にX VIDEOを探訪しながらに溜息を吐くことがある
日本の男優においてはあまりテクニックが熟達していない場合が多い。まあアメリカの男優や女優に比べればマシな場合が多いが、それでも全体的にはそれほどの習熟を得てはいないというのが内実ではないだろうか。
というわけで齢二十を越えて尚童貞であるこの私が、純粋な客観視から得ることのできた知見をこの場を借りて公開していこうと思う。
無論実際に試したわけではないのだが、それぞれが実践する上で確認してもらえれば嬉しい。では本題に移る。
より正確に言うならば、有効な箇所へのボディタッチが不足しているということだ。
乳房や陰部を重点的に愛撫しているパターンが多いのは当然なのだが、その中でよくよく見落とされがちな箇所がある。以下に羅列する。
あばら(脇腹)・肩・鎖骨から首筋に掛けての部分・ふとももの内側・尻
である。
これらの箇所に対する刺激が欠けていると、女性側としては恐らく相手にかなりせっかちな印象を覚え、行為に対するノリ気が失せてしまうこと請け合いである。
主に手の平で、また鎖骨・首筋といった敏感な部分に対しては、軽いキスをするなどの方法で行うのが望ましい。
あばら(脇腹)に関しては、下から上へと手の平で撫で、また肩に関しては首筋から下に撫で擦ろう。あまりしつこくやりすぎない方がいいかもしれない。特に、あばらに関してはそうだろう。
余談だが、クリ◯リスを初めとした女性器全般に対する刺激は基本的にゆっくりと優しく行おう。
これもまたせっかちな印象を与え、女性側のヤル気を削ぐことが多いのではないだろうか。
ゆっくりと奥まで入れ、それから少しばかり時間を置こう。そこから優しく動き出そう
また、挿入直前には陰茎を陰部にあてがうなど、すぐに挿入せず焦らすなどの行為が有効である場合も多い。常識として押さえておこう。
さてこんなところだろうか
書いていて虚しさを覚えなかったと言えば嘘になるが、諸君らにはこれらのテクニックに習熟することで、更なる生物的進化を実現してくれることを期待したい。さらばだ
http://www.lastday.jp/2010/11/22/objective-c
早速Objective-Cとやらを勉強しようと思ってググってみたら、Objective-CはC言語の拡張なので先にC言語を学ぶ必要があるという驚愕の事実が発覚!
この文書はC言語については解説されていないため、C言語にある程度慣れていることが前提となり ます。しかし、それほど熟達している必要はありません。Objective-Cによるオブジェクト指向プロ グラミングはANSI Cの手続き型プログラミングとはかなり違っているので、熟達したCプログラマで なくても、さほど不利にはなりません。
http://developer.apple.com/jp/devcenter/ios/library/japanese.html
Cの知識があるに越したことはないけども、どこまで必要かという話になるとごにょごにょ。
少なくとも、Objective-Cを公開している連中が、"Cの手続き型プログラミングとはかなり違う"と言っているのだから、C言語的なコードの流れには(あんまり)ならない(はず)。
それより、フレームワークの扱いに慣れることに重点を置いたほうがいいんじゃないかな。
苦Cで言うところ、文字列やら、ファイルの取り扱いあたりになってくるとかなり微妙で、出来る限り言語機能やフレームワークに任せたい。
ポインタはそりゃ、Python使いが見たら発狂するんじゃないかってぐらいポインタ演算子が出てくるけど、オブジェクトインスタンスは全部ポインタなんだから、いっそ気にしなくていいんじゃない? それとも関数ポインタとか使いたい? きっとデバッグが大変だよ。
YouTubeやVimeoで『Xcode tutorial』で検索すると大量のiPhoneプログラミングのチュートリアルが無料で視聴可能です!
公式の「iOS アプリケーションチュートリアル(日本語版)」を読んだ上で言っているのであれば、どこの誰が作ったかも分からない英語の動画が、アップル公式の日本語ドキュメントより優れている点を挙げた上で、その動画のURLを示して欲しい。
英語なんて分からないよ。
オススメってことは必読じゃないのかな?
3.初期投資
Intel Mac + iPhone or iPod Touch + 10,800円
ここから、開発者プログラムの参加費用$99(¥8000程度)を差っ引くと、一冊分しか残らないから、下の方で紹介されてる本が必読なんだろう。
初心者にわかりやすくObjective-Cの事が書かれています。必読です!
こっちが必読?
内容全く知らないで発言するけども、書評を見てみると、Snow Leopardに対応していない旨が書きこまれていて、多少不安。
流行りに乗ってMacbook Airを購入した人は、大抵Snow Leopardのはず。
記事には、"二ヶ月前"からとあるので、少なくとも記事を書いた人はMacbook Airではないのだろう。
自分のアプリの必要な部分だけを勉強すれば、それだけリリースも早くなりますしモチベーションも下がりません。全部網羅しようと思うと開発自体を頓挫しかねません。
遅延評価勉強法の考えで行くと、C言語を先に勉強する必要はなかったと思うけど、どっちなんだろう。
その辺も遅延で気付いたのかな。
英語力がなくてもアプリは作れますが、英語がわかると公式ドキュメントや先にあげたYouTubeのチュートリアル動画も理解できるので簡単な英語くらいはできる方が良いです。
日本語の公式ドキュメントがあるので、是非参照して頂きたいです。
http://developer.apple.com/jp/devcenter/ios/library/japanese.html
Apple Developer Documentation日本語版
http://developer.apple.com/jp/documentation/japanese.html
日本語ユーザが増えたら、Xcodeのクイックヘルプとかドキュメントとかも日本語化してくれないかなあ。
それとも、実はただの調査不足で既にあったりとか…
「絶対に失敗する英語学習法」
http://anond.hatelabo.jp/20100806010225
の、続き。日本の英語教育のどこがどうダメなのかを分析してみます。ただし注意、中にはダメじゃない英語教師の方も沢山いらしゃいます。あくまで一般論、しかも乱暴な一般論として。
いわずもがな、ですね。「教科書を教える」ことが教師の仕事になってしまっていて、生徒はそれを浴びせられるだけ。英語が身に付くはずもありません。確かに一クラスの人数的にアウトプットをさせることの難しさはありますが、それはかなりの程度工夫でどうにかなるんです。
(2) アウトプットをチェックしない
そもそもの問題は、授業のスタイルが生徒のアウトプットを基準に設計されていないことにあります。英語の授業で当てられる、というのは、今のやりかただと「運が悪かった」と片付けられてしまうんですね。ダメ出しされたとしても、それは生徒に響かないんです、その生徒は自分のアウトプットにコミットしていないから。授業そのものが、「教わる」ではなく「自分が何かをやってみる」という意識で捉えられていないと、アウトプットのチェックはたとえあったとしても意味がありません。
(3) 身の丈に合わないインプットを与える
例えばネイティブを連れてきて授業させる、みたいなことです。往々にして、生徒はそこから何も学びません。何となく「あー英語だったー」でおしまい。それが完全に無意味なこととは言いませんが、もっと有効に時間を使う方法はいくらでもあります。中には生徒のレベルに合わせてインプットをうまいレベルに調整できるネイティブ教師もいるんですが、とても稀な才能です。
(4) 生徒がそれができるのかをを考えない
英語って、本質的には「教わる」ものではありません。学習者が自分で練習することで初めて上達があります。すると英語教師の役割というのは、「どのような練習をすればいいのかを教える」ということになるんです。生徒のレベルに合わせて達成可能な目標を与え、それを達成することの喜びを利用してモチベーションを管理し、いずれは生徒自身が自分で目標を設定して自主的に練習ができるようにすること。それが教師の仕事です。つまり、英語の授業はまず「この生徒はどれぐらいのことができるのか」を土台にデザインされなければいけない。しかし現状は逆です、「これができなければならない」を一方的に投げつけるだけ。どうやったらそれができるのかわからない生徒のモチベーションはダダ下がりです。
反復練習の大事さ、コツコツと積み上げていくことは必ず報われる、という実感を生徒に与えられていないところに問題があります。反復練習は面倒くさいものですが、しかしそれを上手にデザインして生徒に与え、生徒が英語に熟達していく実感を与えられることが大切です。そういう感覚を体験していない生徒は、「どこかに楽勝で英語がうまくなるやり方があるはず」という幻想に囚われます。この幻想は基礎に対する信頼を失わせ、「自分が英語ができないのは学校教育が悪いから」というルサンチマンに結びつきます。これは生徒にとって言い訳として機能するところがタチが悪い。一度この言い訳を身に付けた生徒は、その後どんなに素晴らしい英語教師と出会っても、自ら努力することができなくなってしまいます。
じゃ、どうすればいいのか。大切なのは英語教師のTOEICをチェックするとかではなくて、適切な教授法を定式化し、それをカリキュラムに組み込むことだと思うんですよね。極端な話、英語ができない教師でもそれに従えばまともな教育ができる、というマニュアルを作ることは全然可能だと思います。それは全国津々浦々の学校に英語ができる教師を配置するよりはずっと簡単なはずです。
From Creating Passionate Users
By Kathy Sierra
私はTwitterが怖い。これだけ人気があるサービスだけれど、私は少なくとも三つの問題点を見て取れる: 1)Twitterは心理学にいう「間欠的不規則報酬」のほとんど完璧な実例である。これはスロットマシンが人を惹きつける仕組みと同じ。 2)Twitterを使うことで得られる強力な「人とつながっている感覚」は、脳を騙して「何か有意義な社会的交流を行っている」と思わせてしまいうる。その一方で、脳の別の(古い)部分では、そこに人間の生存にとって重大な何かが欠けていると「分かっている」 3)Twitterは「常時マルチタスク状態」の問題を悪化させる要因の一つであるーーもしかしたら他のものよりもっと強力かもしれない。Twitterをしながら(もちろん、emailでもチャットでも同じ)、深く考え込んだり、フローの状態に入ったりすることはできない。
[注意: 私はこの問題について本当に少数派みたいで...ほとんど100人中99人がTwitterを支持している状態だから、たぶん私が間違っているのでしょうね(でもとりあえず書いてみるけど)。それと、この記事の大部分は、関係するテーマについて私が書いた様々な記事を混ぜ合わせて作ったものです]
この三点についてもっと詳しく見てみましょう:
スキナーの発見の中でも最も重要なものの一つは、間欠的に強化された行動は(継続的に強化されたものとの対比において)、最も消えにくいということだ。言い換えると、間欠的な報酬は予測可能な報酬より優れているのだ。これは大抵の動物トレーニングの基礎となっていて……人間にも応用が効く。スロットマシンがあんなに人の心に訴えるのはそのためで、別に中毒にならずともこのことに気がつくことはできる。
テクノ心理学者のパトリシア・ウォレスは〔中略〕Emailがーー十代の子供のみならず成人に対してもーー持つ魅力の一部はスロットマシンの持つ魅力に似たものだと主張している。「間欠的変動強化を受けているのです」とウォレスは説明する。「毎回報酬をもらえるのか、またどれくらい頻繁にもらえるのかがはっきりと分からないがゆえに、ハンドルを引き続けるのです」
多くの人にとってTwitterの最大のメリットは、他の人とよりつながっていると感じられることにあるようだ。カーソン・システムズのリサは、Twitterを擁護するテラ・ハントの記事へのコメントの中で、これを次のように表現している。
「Twitterは友達の感情や地理的な場所、動作を記録することによって〔中略〕このギャップを生めてくれる。まるで私たちが本当にそこにいるみたいにね。このおかげで『本当に』つながっているって感じになるの」
これは本当に良いことなのだろうか?
おそらく、答えはイエスなのでしょう。たぶん、ほとんどの人にとっては。けれど、「人とつながっているということは常に良いことだ」という反射的な回答は批判的に検討してみる価値はあると思う。UCSFの神経生物学者であるThomas Lewisさんは、「注意しないと、たとえ実際はそうでない場合であっても、人は脳の一部を騙してーーはるか昔より人の生存にとって不可欠なものであるーー本当の社会的交流を行っていると思わせてしまう」と主張している。これは不快な(しかし無意識の)認知的不合致、つまり脳が必要だと思っているものを取っているのだけど、「科学的に完全に分かっているわけではないけど、おそらく嗅いで感じられる何か」を満たすには足りないという状態につながる。彼はこれをTwitterについて言ったわけじゃないけど……Conference on World Affairsで彼の講演を聞いた時には、emailやチャット、さらにはテレビにまで言及していた(脳は「人々」を見ていると認識して、社会的関係を持っているに違いないと考える(GOOD)、けどそこには何かが欠けているとも気がついている(BAD))
Lewis先生はとても多くの研究を引いていたけど、私はそれを書きとめなかったので、このことは割引いて聞いてもらってもいい。加えて、私は彼がemailやチャットについて述べたことをTwitterに拡張していることにも注意。けれど、Lewis先生が言うことには、私たちがこのようになる理由の一部は、私達の脳が体の身振りや顔の表情や声の調子などを解釈する先天的な能力を発達させていて、こういう情報のチャンネルを予期していることにあるのだという。だから、社会的交流があるように見えているけれども、この先天的な、昔ながらの脳の機能の一部が働いていない状態になると、ストレスを感じるのだ。
繰り返すけれど、だからといってそれに見合う価値がないというわけじゃない。これは遠くに離れた家族や友達とつながっているには非常に有益なものだ。私が言いたいのは単に、これが一部の人々に「私はつながっている」という誤った感覚を与えていて、現実のつながりを犠牲にさせているかもしれないと問うてみる価値があるということだけ。
隣の人とコーヒーを飲むのは、千のTwitterの投稿より脳に多くを与えてくれるかもしれない。
これと同じような議論はずっとなされてきたし、テレビにだって同じことはいわれているけど、それだからこの話が間違っているということにはならない(孤立したカナダ人の村にケーブルがようやく開通すると、集団のIQが下がってしまったという研究がある...とルイス先生は講演のなかで述べていた。私はこの研究への引用をウェブで見つけることができなかったけど)
皮肉なことに、Twitterのようなサービスは同時に、仲間の輪の中に入っていないのではないかという心配を一部の人たちに植え付けて、「つながっていない」という感覚を起こさせる。「常に更新している」ことの重要性を高めることで、十分頻繁にtwitterをチェックしたり投稿したりしていない人たちの「何かが欠けている」という感覚を増幅させてしまうのだ。
前の私の記事より:
最悪なことに、この押し寄せる投稿は、私たちのほとんどを最も幸せにしてくれる「あること」から引き離してしまうということだ...つまり、フローの状態にいることから。フローの状態に入るには深く考え込み、意識を集中させる必要があるけど、この種のコンテキストを切り替えるものはそのどちらも妨げてしまう。フローの状態では知識やスキルを意欲的に使う必要がある。これはマルチタスクで(食べながらや、テレビを見ながらなど)できるような頭を使わない仕事とは全然違う。フローでいるには、ある程度の時間を使って知識とスキルを脳のRAMにロードする必要がある。そして、それが大きいものであれ小さいものであれ、より多くの邪魔が入るにつれて、ますますフローの状態にはたどり着き難くなる。
しかも、フローの状態に入れなくなるというだけではない。およそ何かについて熟達するということもなくなってしまい、エキスパートにもなれなくなってしまうのだ。脳科学者に尋ねてみれば、エキスパートとなるのに重要なのは天才かどうかではなく、物事に集中できるか否かなのだと教えてくれるだろう。
情報過多という現象に対する反動はもう見えている。Web2.0 VC はかなりの額を、情報を整理(されたままに)する サービスを約束する会社に注いでいるみたい。43 Foldersがトップ100のブログに入っているのにはそれ相応の理由があって、それは単にMerlin Mannがカッコいいというだけではないの ; )
たくさんの人がこのことについて語っている。でも、たぶんLinda Stone以上に雄弁な人はいないと思うけど:
継続的な注意散漫状態とは、半端な注意を払うということーーそれも絶え間なくね。これはネットワークのライブノードでいたいという欲求に基づく行動だ。別の言葉で言えば、私たちは人とつながりたいし、つながれた状態でいたいの。どんな時でも、チャンスを見逃さないように効率的に目を見張らせようとし、最も良いチャンスや行動や関係のために最適化しようとしている。忙しくすること、つながっているということは、すなわち生きているということ、他者から認識されること、そしてなにがしかの存在となるということなの。
絶え間なく部分的な注意を払うのは、何一つとして見落とさないため。常時つきっぱなしで、どこへでも、いつでも、どんな場所でも働くもので、人為的に作出された慢性的な危機感もこれに含まれる。この人為的で慢性的な危機感というのは、マルチタスクというより、継続的な注意散漫状態に典型的に見られるものよ。
Twitterを使うことにメリットがあると思う? もちろん。Teraはこのメリットを本当によくまとめている(その全てがメリットであるとは考えない人もいるけれど、その人たちもテラの主張には賛成の立場に立っているのであって、大事なのはその部分)
人々がTwitterを責任を持って使えると考えているの? しっかりコントロールしつつ、twitterを使うことで注意散漫になりすぎたり、(タブロイドニュースやTVがアメリカでこれほどまでに広まった原因たる)覗き見のたぐいを避けて?
当然、そう思っている。
私が言いたいのは、ごまかしを避けて、「常に注意をそそぎつづける」というウサギ穴にどれだけ深く入り込みたいと思っているのかを判断してみるべきだというだけ。
私はTwitterのターゲットではなかったーー生まれながらの独り者なのよ。私はそこまでつながりあっていたいとは思わない。そして、ミステリーを残しておくという美学が大好きなの。それだけ多くの人たちについて、そんなにも多くを知りたいとは思わないし、人々にそんなに私のことを知ってもらいたいとも思わないの..それが日常のことであれその他のことであれね。だから、これは私がマイノリティたるゆえんで、私のTwitterに対する恐怖は、私独自のーーねじくれてあまり一般的でないーー個人的な性格に由来するものなの。
本文書は原文の著作権表示にしたがい、Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 2.5 Licenseのもとで利用できる。なお、訳者の著作権は全て放棄する。
もちろん、そういう要素もあるけれど。
そうじゃなくて、「ゲームの中に能動的に突っ込んで行くから楽しい」って言いたいわけ。
嫌々やるのではなく、それぞれの「ゲーム」の中に結果を抜きにした過程の面白さを見出していくっつーか。
ほら、釣りに喩えるとわかりやすいけど
「魚を手に入れる」ためなら魚屋行けばいいじゃないですか。
でも、それを敢えて「釣り」という形にすることで、それがゲーム化して面白くなる。
能動的であることは現実を「過程も楽しめるゲーム」に変える力があると思うんだよね。
少なくとも、嫌々やってるよりはマシって程度の話で。
そして、もちろん「過程も楽しむゲーム」だから、バーンアウトが起こりにくい。
魚は釣れなくても釣りは楽しいわけですよ、ある程度熟達すると。
カネを手に入れるために働くことを能動的にこなすうちに、
カネっていう目的を抜きにしても面白みが見出せるようになっていく。
口説くこと自体が面白くなってくる。
そして、これは所詮ゲームなので敗北は織り込み済みなわけです。
俺的にこの思考メソッドはバーンアウト防止もかねてるつもり。
http://d.hatena.ne.jp/mamoruk/20090327/p1
「いちばん」かどうかはわかりませんが、うちの会社の製品ではpythonを主力に使った自然言語処理を含む製品を販売しているので、実際の感想を。
うちでは、pythonを元データの整備のための運用バッチ処理から、客が最終的に手にする情報の生成、実際に客が使うWEBインターフェースまで、pythonを主力にしています。
別のチームが作った別の製品ではS2Struts(JAVAね。)でWEBを作っている部分もありますが。
mecabが使えて、Unicodeが使えて、正規表現が使えれば、まあ、どの言語を使ってもそんなに大差はないのではないでしょうか。
あとはsennaのような日本語用の全文検索エンジンなども使いますが、そこらへんに近い部分は基本的にC++で書きます。
pythonとは言っても、速度を重視する部分はやはり迷わずC++です。
C++で書いたものはswigを使うか、又はC言語で手書きのbindingを使ってpythonに接続します。
でもこないだswigでつないで製品をリリースしたら、WEBからの並列アクセスにswigがうまく対応できず、リリースした日に急いで手書きbindingを書いた経験があります。swigの使い方はきちんと理解していないので非常に難しい。
nltkとか、wordnetの話はたしかに使えそうかもと思ったことはありますが、nltkはうちでは使っていません。
うちの会社では自然言語処理の研究段階から自社で行っているので、nltkにあるようなできあいのルーチンを実戦投入する事はなく、基本的に地味に自分達でpythonで書いています。
自然言語処理と言っても、核心の処理はやはり泥臭い個別事例への対処が多いです。不要語処理とか。
自然言語処理のアルゴリズムは8割程度の精度を出すのは簡単で、すぐに思いつきで書けるものですが、残り2割の精度をいかに埋めて行くかが、頭のいい人とそうでない人の差が現れる部分だと思います。
どうしてもいいアルゴリズムを思いつかない場合は、泥臭い個別事例処理がうねうねと並んだプログラムになります。学術的なものではなく商売になればいいので、うちはとりあえずそれで十分。(これは自然言語処理に使う機械学習のアルゴリズムたちも同様。というか自然言語処理と機械学習て、区分けがあいまいな部分が多いですよね。)
そういう感じなので、pythonの可読性の高さは非常に有効。
また、変数名や関数名などをexplicitに書く文化も業務で使うのに適していると思います。(他の言語でもexplicitに書けばいいだけですが、それを言語開発者自身が推奨するほど強調はしていないですよね。)
英文の処理で、wordnetの辞書データの一部を研究に使った記憶はある。
しかし、あそこまで精緻な辞書データを使う程高度な処理は今の所必要ない。
うちで自作した不要英単語辞書と、特別扱いする英単語辞書で間に合わせていたと思います。(その辺記憶があいまい。)
djangoは非常に明快で、快適。
画面の機能を追加するのに、例えばS2Strutsのアクションの定義の煩雑さに比較すると、天と地との差ほどにdjangoは簡単。
あと、pythonを使える開発者は日本には少ないとの事ですが、うちでもそれは同様です。
しかし、自分の隣の席の同僚はperlに非常に熟達していて、彼はすぐにpythonの達人に変わりました。
優秀な方にとっては言語なんて何をつかってもあまり変わらないみたい。
絵の話を描いた増田だよ。
いいたいことはわかる、俺も考えは同じ。ただちょっと自分の日本語が下手で伝わってないかも。
俺はプログラミングも絵もどっちも仕事でやった事あるからそう思うんだけど、やっぱり、デッサン力がある程度ついてないと、表現したいものがあるのにかけないという壁にあたるんだ。
何をどう表現するかが自由なのは絵もプログラミングも同じだよ。
絵をやりはじめたときも、プログラミングやり始めた時も、ごくごく最初は「先人の知恵とかデッサン力とかくそくらえだよww 好きなもの自由にかければいいじゃんw」って時期あった。ありがちなのが好きなものだけをかくことが近道だと思い込んでしまうこと。でもそれだとすぐ、その好きなものを自分が望んでいるように書けないということに気づくんだ。望んでいるように書けないから全然自由じゃないわけよ。
で、本当に自由にやりたいことを表現したいと思ったらやっぱりデッサン力が必要だと感じてる。デッサン力があれば、”何を表現したいか、何を作りたいか”を考えるのに使える時間が増やせるし。地味な努力が結果的に創造的なものを作る時間を増やしてくれる。
思うように書けないから、書けるものだけを好きに書くというのと、書ける実力があるから、思うように自由に書くのとの違いかな。
デッサン力=アルゴリズムに落とし込む力とすれば、プログラミングでも絵でも全く同じだと思うなあ。わかりにくかったらすまんこ。
# ある程度熟達しちゃってる人は
# 今の感覚があたりまえになっていて
# デッサン力が無かった頃どんなだったかを思い出せないだけなのかもしれない
あるテレビ番組で、スーパーの店長だった人が一念発起して、ひきこもりがちな人にデート相手を派遣して外に引き出すボランティアを始めたというドキュメンタリーをやっていました。番組で、ボランティアの人とひきこもりの人が一緒に集まって話していて、話の内容自体はどうってことない雑談なんです。
ただ、その場の雰囲気が、どうも精神的に不健康というか、異常というか、なんとなく薄気味悪いものを感じた。こりゃ健康じゃないぜ、と思ったんですよ。
その元店長さん自身、引き出すことはいいことだと信じきっている様子で、怖い。ひきこもる人には様々な理由があるんだろうけれど、僕は外に出たくない人はひきこもらせてやったっていいじゃないかと思うし、本当におかしくなっちゃったら、それは専門の医者の領分でしょう。素人さんの価値観で引き出すのが正義だと、そんな簡単なことなんだろうか。
僕みたいな物書きは一日中ひきこもってますよ。精神状態はどうかって言われたら、自分でも何となくおかしいような気がする。でも、そのギリギリのところを歩く職業だと思って僕はやっているわけですからね。
役者さんとか女子アナウンサーとか、人目につくところに出る仕事の人がいる一方で、藍染め、友禅染めの熟達した職人さんのように、目立たないところで一日中口もきかずに同じことを繰り返している人もいる。僕に言わせれば、そういう人が職業としては一番まっとうで、すごいと思う。立派な職業人、専門家というのはそういうものです。
人間を外に引き出したほうがいい、社交的なほうがいい、こういう考え方は、メディアの発達とともに力を持ってくるんでしょう。インターネット、携帯電話と、コミュニケーション手段が発達していくのが最近の世の趨勢で、これに逆行することはできないんですが、コミュニケーション自体が自己目的化したらそれはちょっと病気です。
そういえば、これもテレビでやってたんですが、自殺願望の人ばかりインターネットを使って五千人くらい集めたグループがあるそうです。勧進元の若い男の子が出てきて話をしていたんだけど、やっぱりいいことをしてると思ってるわけです。自殺したがっている人どうしが相互に励ましあったりして何とすばらしいのかと、これまた何の疑いもなく信じ込んでいる。
僕はこれを「引き出し」症候群と呼んでるんだけど、ひきこもりの人にデート相手を紹介してまで外に引き出そうと思うこと、自殺願望の人を五千人集めようと思うことの異常さに気づいてほしい。客観的に見て、あんたのほうがちょっと病気じゃないかと言いたくなるんです。
何だかひとりぼっちでいることが軽視される風潮があるんじゃないか。友達がたくさんいないと駄目なような雰囲気があるんじゃないか。
これもテレビで観たんですが、「ランチメイト」症候群っていうのがあるそうですね。学生さんやOLが、弁当を一人で食うのが嫌だっていうんで、前の日の夜から電話で約束するらしい。「明日わたしと一緒にお昼ごはんを食べてよ」なんて具合にね。
僕らの子供時代なんて、親から「食べるときは黙って食べろ」と言われたもんです。
僕は一人で新聞を読んだり雑誌を読んだりしながら弁当を食べるのが普通だと思ってたんだけど、いつの間にか「それは異常だ、友達のいない奴だと思われる」という価値観になってしまっている。誰も自分自身でものを考えることができなくなっちゃったんじゃないか、こりゃあ大変なことだぜ、と思ったんですね。
ただ、よくよく考えてみれば、戦争中はリベラルなことを言うと「けしからん」と村八分にされたし、戦後も市民運動なんて馬鹿なことをずっとやっていますから、日本という国は元来あんまり自分でものを考えない国柄なのかもしれません。環境ホルモンが危険だとか、原子力発電所反対だとか大声でやってるでしょ。連中は数を頼みにして感覚だけを根拠にいろいろ言う。僕は市民運動が嫌いです。彼らは自分で作りだした恐怖感に酔って、気分でものを言っているだけだからです。
選挙のときもそうだけど、みんな民主主義を勘違いして、数が多ければそれが真実だと思いこんでいるから、自分の頭で考えることもせずに、員数集めばかりしている。
他人の目を気にして弁当仲間を集めるOLも、ひきこもりを外に出そうとする人たちも、根っこは一緒なんですね。誰かが「カラスは白い」っていえば、感染症のように「白い」「白い」って言い出す。雰囲気がすべてで、それしかない。開かれているようで、実は思考が閉鎖しているんです。
未来のある人には冷静な自己反省というか、自己相対化というか、内省する時間を持ってほしい。ひきこもるくらいでちょうどいいんです。
何が強いって、最後はひとりが一番強いんですよ。僕はいつもひとりで考え、ひとりでものを書いてきました。まあ、僕も戦争中は軍国少年だったから、お前だって同じじゃないかと言われるとちょっと恥ずかしいんですけどね。
英語教育のガラパゴス化ってか、そうならざるをえないんだよね、これ。
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20081202/p1
今どうか知らないが、かりにひとクラス40人に英語、とくに会話を教えるってどう考えても不可能。仕方がないから文法中心にならざるを得ない。しかも日本の社会環境、英語を使う必要は普通はまったくないわけで、そういう条件で外国語教育って砂漠に水まいて熱風ふきつけてるもんだよ。これは。
にもかかわらず、よくやってると思いますよ、ええ。少なくとも中学の教科書、きちんとやれば基本はできる。まじめにやってりゃ、基本的な単語と数字が言えるでしょ?これってすごいことですよ。だからこの基本を大事にして、あとはひたすら使うだけなんだよ。Brittyさんのいうとおりで。
それをさ、なんか便利な方法があるみたいなエントリが受けるって、みんな勘違いしてる。みんな基本はあるんだよ。本当に。だから、あとはひたすらつかえ、つかえ。聞いてしゃべれ。Brittyさんのおすすめの本にブクマするより、英語を直接読め。ポルノでもなんでもいいから、なんか読め。
ブックマークにも書いたが、学問に王道なしという『原論』の金言は言語学習にも妥当する。もう一度いう。王道などない。文法を学び、語彙を増やし、多く聴き多く発話し多く綴る、それ以外にある言語に熟達するすべなどない。
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20081113/p1
あとブクマにも書かれてたけど、教員不足が決定的に問題で、先生が足りない、予算がない。会話の授業をしようと思えば、ひとクラスせめて10人、せいぜい15人で構成しなけりゃいかん。その分の税金を日本人は払うつもりはないし、それはそれでいいんだろうとは思う。個人の努力の範囲でいいんだから。なら、諦めるか、努力する。ただし、無駄な努力をして、語学学校や教材にご奉仕する愚は避けろ。
ほかのエントリ読んだら、こういうのもあった。少し引用が長いのは、すごく共感したから。
これはある意味美質ではあるのだが、日本人は分からない表現に対し、どうも自分の英語力が足りないためと考える傾向が過剰にあるように思われる。しかし相手が分からないことをいっているので分からないということだってありえて、さらにほんとうに自分の言語能力の問題だったとしても、いまどきであれば自分ひとりで悩むより「どういう意味?」とメール一本書く、あるいはその場に二人ともいるのならその場で訊くほうが早くて正確なのかもしれないのだ。職業として有償で翻訳や通訳をする人ならば知らず、対等な立場でのコミュニケーションであればこそ、「俺にわかってほしいなら俺にわかるように喋れ、もっとはっきりわかりやすく喋れ、おまえが何をいってるのか悪いが俺にはわからないよ、俺はおまえがなにをいってるか分かりたいんだ、もっと歩み寄れ」と相手にいうべきなのではないだろうか――相手が何をいいたいのか、ほんとうに理解したいと思っているのなら。
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20081122/p1
そう。
ちょっと渋い顔して「どういう意味?」と聞くことに慣れる。これ、すごく大事だし、これができないと損をする。分かったふりしてフンフンいうのが大事な場面もあるけど、分からなければ意味を聞く。コミュニケーションの基本だ。僕は昨日、この手で「小便をする」という意味のある外国語の優雅な表現(本当に優雅だった)を覚えた。こういうことの積み重ねなんじゃないだろうか。
他人に興味を持つ方法はわからんけどそんなんでも世界と折り合いをつける方法はある。
1.同じくらいコミュニケーションに対して低体温な伴侶を探す
レス中にある、連絡がないからって責めるような女性は論外。数はすくないが「毎日電話?それニート?」って女性もいる。
2.深いコミュニケーションをとらなくてもいい職種につく
深い専門のある職業はその職能を活かす時間の方がコミュニケーションをする時間より圧倒的に多い。
3.チームプレイを必要としない&経験とともに熟達する趣味を持つ
「人と関わる」以外での価値観を持つ。
「他人に関心が持てない」で悩むのは、「自分に価値があると思えない」と表裏一体だから、
他人に関心があってもなくてもうまくいく方法を若いうちに見つけるといいよ。
誰でも音楽を聴いたりカラオケで歌ったりする時代なのに、結構根拠のない迷信が信じられていることにびっくりする。
クラシック好きのはずの猫猫先生がこんなことを書いててびっくりした。
戦争中から戦後にかけての日本を扱った映画やドラマやドキュメンタリーで、戦争が終るとバカの一つ覚えのように「リンゴの唄」が流れる。説明がつくと「明るい唄が人々を勇気づけ」と言うのだが、あの歌は短調だし別に明るくないだろう
この手の誤解は猫猫先生だけでなく結構はびこってるみたいなので、ネタにさせていただく。
短調の曲が暗いなんて、そんなことは嘘だ。たとえば「東京音頭」は最初から最後まで短調だが、あんな脳天気な歌も他にないだろう。一方で、"Yesterday" だとか「海ゆかば」は長調だが、これを明るい曲だという奴はどこにもいないだろう。
そもそも、長調が明るくて短調が暗いなんて、そんな紋切り型が通用するほど音楽が単純なものなわけないじゃないですか。モーツァルトの曲なんて長調が圧倒的に多いですが、モーツァルトは脳天気な作曲家ですか?猫猫先生。
ついでにもう一つ。俺は絶対音感を持っている。全盛期には基準音(チューニングの時に合わせる音)の違いが 1Hz 単位でわかったこともある。で、それをいうとやたらとうらやましがられる。特殊な才能の持ち主だと思われてるみたい。
実際は全然違うんだよなあ。俺は確かに子供の頃からピアノを習っていたが、正直なところ腕前はDQN音大生に毛の生えた程度(本職は音楽関係ではない)で、進んで人様にお聴かせできるレベルではない。だのに、そのことを説明しても「ご謙遜を」としか言ってもらえない。
違うんだっての。絶対音感なんてのは単に「音の高さを覚えている」というだけのことで、普段から楽器に触ってればたいていは嫌でも身に付くんだって。確かに、大音楽家でも絶対音感のない人もいるんだけど、逆に言えば、これは音楽性と絶対音感が関係がないことの証拠でもある。
それなのに、変な親たちは「情操教育」として「絶対音感」を身につけさせようとしてる。ほんとに意味がわからん。音当てクイズなんかに熟達したって、音楽に熟達できるわけじゃないのに。